新人一号二号
「いいんす、いいんす」
半年前、新しくぼくについた担当編集者の糸次さんの口ぐせが、それである。
「ということは、これを書きあげればつぎこそ本誌に載せてもらえるんですね?」
おそるおそる尋ねると、彼はふたたび「いいんす」と口にする。なんとやらのひとつ覚え、というやつである。ぼくは胸のうちでひっそりとため息を吐きだし、不安をかかえて出版社の入り口を出た。そのまま地下鉄に乗って帰宅する。
糸次さんにネームを見せた日の夜は、なんだか鬱蒼とした気分になる――。
ぼくは上京して三年になる、いわゆる新人漫画家だ。高校三年のときに優秀賞をもらって本誌に掲載されたものの、二作めがなかなか子雑誌にさえ載せてもらえない。
以前の担当さんは、ぼくに目をつけてくれていた。優秀賞に推してくれたのもそのひとだった。だが、そのひとは急に体調を崩し、会社を辞めてしまった。そして代わりにぼくの担当になってくれたのが糸次さんだったのだが、彼は定年前の、しかも盆栽専門雑誌が廃刊になったので漫画の方にまわされた、つまり漫画のことなど露ほども知らない、窓際族的なひとだった。彼の発言には牽引力がなく、ほぼナアナアで終わらせてしまうため、ぼくはいつまでたっても編集長に目をつけられないままだった。今回もぼくの原稿は日の目を見ないのであろうか。
二ヶ月後、ぼくは書き上げた原稿をたずさえて糸次さんのデスクへ行った。
糸次さんは暇そうにグラビアのページをめくっていた。ぼくの気配に気づくと、
「書きあげたのですか? それはそれは」
と、こともなげに水着姿の女の子をわきのほうへ追いやった。
そして二十ページ前後の原稿をめくり終わると、やはり「いいんす」が出た。
「じゃあ、今度こそ雑誌に載せてもらえますよね」
「うーん……それは編集長に見せてみないと」
ぼくは驚いて身を乗りだした。
「え? まだなんですか? ぼくはてっきり、話がうまく行ってると思って書いたんですよ」
「いいんす、いいんす」
「なにがいいんですか! いますぐ直談判してきてくださいよっ!」
「とりあえず、わたしに任せておいてください」
糸次さんは自分の胸を軽くたたいた。
しかし、数日後に出なおしてみると、
「編集長がいうには、もうすこし変わったものを描いてくれ、スタンダードすぎる、ということのようです。このままでは通用しない……なんてねえ、編集長もちょっと言いすぎかなって、わたしも思っちゃったけどねえ、彼の言うことはどうにもならないからねえ、うん。でも、いいんすよ。あなたはいままでのとおりで、いいんすよ」
糸次さんはニコニコ顔のまま言った。たぶん、このひとに悪気はないのだろう。でも、その潔いほどの悪気のなさが、逆にとてもひとを追いつめているってことを、どうしてわからないのだろうか。
「ああ、もうこんな時間」
と糸次さんは腕時計を見て言い、早々に帰る支度した。スーツをはおるなりぼくを差し置いて、エレベーターに乗りこんで帰っていってしまった。窓際族には残業というものがないのだろうか。ぼくはぼんやりと思い、のろのろと出版社をあとにした。
きょうは電車ではなく歩いて帰ろうと、帰りしな、やけっぱち気味に思いたち、コンビニに寄って缶ビールを買いこむと、それをごくごく飲みながら沿線の道を歩いた。等間隔に並んだ電柱のあかりはほの明るく、間断なく行きかう電車の轟音が気をまぎらしてくれる。いいんすよいいんすよ、と、いつのまにか自然に口ずさんでいた。だいぶ酔いがまわってきて、足もとはよろよろと千鳥足。
すると電車音の隙間に、
「カッ、カカラン」
とか、
「カッ、カッ、カッカラン」
という空き缶の転がる音が混じってきた。
ふと前方に目を凝らすと、夜道の向こうに見覚えのある人影が見えた。あわてて走っていくと、そのひとは糸次さんだった。彼は、なにかに取りつかれたように躍起になって、空き缶を蹴りあげていた。
ぼくはどきっとした。こんな鬼気迫る感じの糸次さんを見たことは、これまで一度もなかった。
糸次さんはふうふうと肩で息をしながら、でこぼこの缶をこれでもかといわんばかりに蹴っている。そして、その缶はころころと転がって溝のなかに入ってしまった。ぼくはすぐさま一気にビールを飲み干すと、彼の足もとに空の缶を放り投げた。
糸次さんと目が合う。ぼくもじっと見つめかえす。しばらくして、お互いになにかが組み合わさった、という感じでうなずきあう。同時に微笑みを交わす。新人漫画家と新人編集者。組み合わさるにはこれ以上ないといっていいほど、強烈なタッグだ。
カラン、と空き缶が心地よく転がりはじめる。
糸次さんが蹴り、ぼくも蹴る。蹴ってはまた蹴る。まるでリレーのようだ。
夜のしんとした、清潔な空気に乾いた音が響く。
蹴っては響き、蹴っては響き――。
ぼくたちは空き缶を追いながら家路についた。
新人一号二号