風に乗せて

ゼミの教授から頼まれて訪れたその研究者の家は、一言で言って乱雑だった。積み重なった本に資料、脱ぎ捨てられたのか、あるいは洗濯し終わったままなのかよくわからない衣類。食べ終わった後に詰められた空の容器。ほこりっぽいだけで、虫や匂いなどの被害が起こっていないのが不思議なくらいだった。
行き詰まった研究からの気分転換……という名の体の良い雑用だ。手伝うくらいは構わないと思っていたが、想像以上の惨状にうんざりした感情が顔に出ていたのだろう。彼は「本当にごめんね、ほどほどで……ほどほどで構わないから」としきりに恐縮していた。見た目はぼさぼさのてろてろで、家の掃除はまったく出来ていないが、悪い人物ではないらしい。
とりあえず物を寄せ、ゴミをまとめ、まともに歩ける空間を作る。二人での作業は静かなものだった。本や資料をかたづけるのも、重労働ではあるが元々近い分野だということもあってそれなりに楽しめる。いくつかのタイトルを後で調べようと心の内でメモをしていると、本と本の隙間から掌サイズの箱が転がり落ちた。拾い上げると、何も入っていなのかと思うくらい軽い。
「あの」
捨てても良いか、と続ける前に、彼はその箱を見て意外そうに言った。
「ああ、それ……そこにあったんだねぇ。忘れてたよ」
「空ですか?」
「いや、中身が入ってるはずだ……開けて良いよ」
むしろ開けてごらんとでも言いたげな表情に、箱のふたを取ってみると、中には一対の翼が入っていた。まるで天使の背中からそのまま持ってきたかのように、綺麗な色と形で真綿の上に収まっている。そっと表面を撫でると、つやつやとした本物の羽の質感が指先をくすぐった。
「これはね、とある人からもらったんだ。元々、その人が使っていた物らしいんだけど、もういらないからって」
「使うって、何にですか?」
「そりゃあもちろん、飛ぶためだろう」
じっと見つめる僕に、笑みが返る。からかわれたのだろうが、嫌な笑みではない。
「まあ僕の場合は、例え使えたとしても風に乗るのが精々だろうねぇ……」
筋肉が足りないからなぁと彼は言って、音のする窓の外を見やった。日に日に暖かく、過ごしやすくなるのと引き換えに、春は強い風がよく吹く季節だ。この風に乗るのは大変だろうなとぼんやり思った。結局、それ以上の話を彼から聞くことはなく、僕は「ほどほど」の掃除を終えて家に帰った。見送ってくれた彼を少し離れた位置で振り返ると、早く雲の流れていく空を見上げている横顔がぼんやりと見えた。
彼が行方不明になったのは、それから数日後のことだ。教えてくれたのは教授で、なんでも家財も何もかもをそのままにして忽然と姿を消したらしい。財布や通帳すら手つかずで、どこでどうしているのか、まだこの世にいるかさえ誰にもわからない。研究に行き詰まっていたからだろうかと、教授や先輩は話し合っていた。
僕は、あの箱に入った翼のことを思い出していた。そして、空を見上げていた横顔も。彼の背に、あの翼は小さすぎる。掌サイズの箱に入ってしまえる小さな翼だ。風に乗るのでさえ不可能だろう。頭ではわかっているのだけれど、僕の脳内で、彼はあの翼を使って飛び立っていった。
春の風に乗って、どこか遠くへ。
それは、少しだけ羨ましい光景だった。

風に乗せて

風に乗せて

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-08-28

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