見本
一部大幅に修正しました。
「行為に対する責任は問えるだろう。一般的に、彼らが自身の行動に対する判断を行える程に成長しているといえる年齢の範囲に収まるのなら。しかしそれでも、行為後に彼らが自らの行為を省みるチャンスを奪ったのは彼らを育てる立場にあった者たちだ。それにより、彼らが選べる世界を決定的に狭めた。それだけじゃない。彼らが選ぶ選択肢の中に『殺人』という凶悪な質を有するものを加えたのだ。条件付きではあれ、公的に許されたものとして。この条件だっていくらでもでっち上げられるのだよ。したがって、条件は人為的に作出可能だ。なら、この条件は意味をなさないだろう。条件を整えることから『殺人』を行えばいい。条件の内容は、殺人に向けた準備行為の程度問題にしかならない。
彼らはもう人を『殺せる』。それにより、責任を負うべき育てる側がこれから選べる道も決まったのさ。互いの選択がそれぞれの道幅を限定した。育てる側も育てられる側も間違いなく共犯関係だ。一蓮托生、自業自得。それがアチラの未来だよ。」
その人は絵画の一枚、一枚を見ながらそう言った。館内にいる人間は聞き手役のワタクシを含めて数人しかいない上、高い天井で確保された空間は広く、だからその内容は空間内によく響いた。その残響を追うように天井を見上げた時に目に入る照明は内側に埋め込まれたタイプで、シャンデリアのようにその意匠をもって展示空間を構成するものには当然なっていない。展示作品を照らすものを除いて、明るさも程よいものだ。それでも、見つめ続けた結果として視界に残る光の残像はある。その痕跡を引き連れて視線を戻す展示室の壁とともに会場内は白で統一されている。天井と正対して館内の空間を生む床は木目調、ワタクシが履いているバスケットシューズが立ち止まる度にキュッと鳴る。この音もまたよく響く。あそこの紳士が鳴らす革靴の底が床を叩く音も同様だ。
飾られている絵は全てミヒャエル・ボレマンス氏の作品である。氏の描く絵は人が意識せずに抱くリアルな感覚の一部を崩れ落とす。どういう風に?という質問に対しては、スケルトンのお面を被り、地肌は見えるがその素顔は見えない人物や腕を通した袖口が無くなり、両腕を体の前で拘束された格好の人物を紹介するのがいい。それぞれの画面に描かれる拒否の意思や奪われた格好の自由が「不審」の言葉を呼び、その消極的な意味をもってこちらの現実を一段下げてくる。古来、冥界や黄泉の国が存在するといわれた地下を抱え込む地上へと近付いてしまう鑑賞者の視界。ひっくり返りそうな不安定さ。視界の下がり方により齎される氏の描く世界の味わいだ。
ただ、ワタクシが紳士に向かって言っていたように、氏が感じさせる「不穏」には恐怖を感じない。寧ろ、じっくり見れば見るほどに滑らかで綺麗な器を思わせる。同じ不穏さでもピーター・ドイグ氏が描くものの方が生温かくて、ときに粘っこく気持ち悪い。ミヒャエル・ボレマンス氏の立ち位置がより客観的で、対象との距離の取り方ないし測り方が冷静なのだろうと思う。だから、ミヒャエル・ボレマンス氏の「不穏」さに対してはこちらからの態度決定を求められることがない(ピーター・ドイグ氏の場合、描かれたイメージを「どうするのか」を私が判断しなければならない。その思いに駆られてしまう意思疎通が可能な体温が、氏の作品には保たれている)。
ミヒャエル・ボレマンス氏の作品に対して、ワタクシと同じく鑑賞を楽しんでいる紳士なその人はどんな感想を抱いているのか。推認可能な情報は少ない。聞き手役を全うするワタクシが目を向けるその人は大体二十秒前後のペースを守り、氏の作品の一つ、一つを集中して観ている。その様子を見る限り、興味を持てないなどといった否定的な感想は抱いていないようだ。
ワタクシはそんな紳士と並んで氏の絵画を鑑賞していない。というか正確にはできないのだろう。恐らく、ワタクシの思考には以下の特徴があるからだ。すなわち氏の絵画を鑑賞するワタクシは対象となるものを具に眺め、服を着るようにその身を通す。その時に窮屈さを感じたのならそのエッセンスを味わえるように自身を削ってひと回り細くなり、反対にぶかぶかだと思ったのなら余計な知識や想像を纏ってひと回り大きくなる。そうしないと見ているものを自分のものにできない。サイズの合う服、着心地の良い服を選ぶようときと同じ、だから鑑賞するのに時間がかかる。
紳士なその人の鑑賞はペースを保って行われていき、ワタクシは時間がかかる。だから一枚、もう一枚と鑑賞を続ける度にその間の距離はどんどんと開いていく。
しかしその人の話し声は館内によく響くのだった。そして、ワタクシではない私はその人の話すことに興味がある(目で見ながら耳を動かす、私の得意なことだ)。なので氏の口から語られるイメージを追うのに支障はない。二人の間の距離を縮めるために、私の鑑賞のペースを早めたり又は遅らせたりする必要は全くない。
「現実に存在するのに存在しない、という意識は現実をどう変えるか。
見上げる程の大きさと重さのある石が道の真ん中に置かれて、その先を塞いでいると仮定しよう。向こうの街に行くにはこの道を通るほかないから、向こうの街に行きたい人は目の前に聳え立つその石をどうにかしなければならない。しかしながら、どうもこの石の全体的なバランスを検分する限り梃子の原理を利用して、どうにか道の片側に動かすことができそうだ。であれば、それを動かしてひと一人分、道の左右いずれかに生まれる空間を確実に進もうとするのがまあ通常の合理的判断だろう。
しかし、どういうことかこの大きな石を道の真ん中から左右のいずれかに動かすことに対して疾しさを強く感じる者がいる。その理由は一切不明だが、どうやらそれ故に、その者は「大きな石はそこにない」という判断を常に自身に強いているようだった。向こうの街を訪問しなければならない事情はさっきの合理的な判断行動ができる者と同じであるにも関わらず、自身の認識に制限を課している。この者はどういう行動を取るだろうか。
いや、話はそんなに複雑じゃない。というか簡単な話なんだよ。そこにない以上、そこにないものとして取り得る行動をその者は選ぶんだ。見上げてしまう程に大きな石に向かって真っ直ぐ突き進み、よじ登り、向こう側に転がり落ちて、あちこちに酷い怪我をしても「怪我をしていないもの」として道を進もうとする。その者にとってないはずの石に関する全ての事実が現実に存在しない。結果、大きな石を中心にしてその者の現実が歪に捻じ曲げられる。
この大きな石についていま述べたことをアチラ側が行なっている事柄の全てに置き替えればいい。それでアチラの行動に一応の説明は付けられるだろう。アチラの頭の中には、例えば『殺人』が常に愉快に存在している。けれど、アチラの者たちは全員が全員、自分たちは「殺人者ではない」と自己評価している。その理由もまた一切不明だが、まあ認識できる全てのことが「存在している癖に存在していない」ものとして扱われるのに変わりはない。結果、街一帯の現実が捻じ曲げられる。故に、こちらから見てアチラの何もかもが奇妙で愚かな振る舞いとしか見れなくなる。
ニンゲンが抱ける現実はそんなもの、ということだ。」
そう言言い終わってから、その人は軽く咳払いをする。長台詞を喋った後の調整だろう。多分、その人は一冊の本を「ながら」でも読み込めるタイプだ。今だと、聞き手役のワタクシに向けたお喋りが絵画鑑賞に向けた集中力を維持するための手段となっている。話しながら見る。きっと、その人が得意とすることだ。
ワタクシとその人とはこれまでに何度も同じ日に、同じ展示を鑑賞したことがあるらしく、そのおかげでワタクシはその人と顔馴染みになった。その縁で、今回もその人がお喋りをするときに「展示会の会場できちんと話を聴く人物」という役割を引き受け、その人が話し終えるまで共に時間を過ごす約束を果たしている。会話自体がメインではない。そういう意味はこの二人のやり取りは演劇でいう所のエチュードに喩えられるだろう。ミヒャエル・ボレマンス氏の描く人物を見て、紳士なその人が即興的に話す内容を聞き手役のワタクシが黙って聴く。紳士なその人に遅れて、ミヒャエル・ボレマンス氏の描く人物をワタクシが時間をかけて鑑賞する。聞き役に徹するワタクシが何を思って、何を考えているのかについて私に窺い知れることは一つもないが自らが引き受けた役を貫き通すその姿に信じられるものがある。それはきっと私以外の第三者の心を掴むだろう。
それはまさに「偉大な力」、それが働く舞台に間違いはない。「ワタクシ」は勿論、「私」だって現実と想像の間のある遥かな距離をそうして架橋してきたのだ。
「何の目的もなくミキサーを動かして放り込んだ食材を細かく切り刻み、ペースト状にしてはいけないんだよ。食材を無駄にしてはならないという経済的理由もそうだが、何より切り刻まれた食材が元々有していた要素の全てが私たちの中で復元できなくなることが大問題なのだ。
われわれは目的をもってミキサーの本体に必要な食材を入れ、スイッチを押し、内蔵されている刃を回して細かく切り刻み、食材をペースト状にしてその味や栄養を有効に活用すべきだ。ペースト状にした食材を頭の中で復元するのにも、食材に働きかけた行為の意味のにも目的は役に立つ。対象が生まれ持ったものを忘れない「われわれ」をわれわれが見つめているという事実がそこに生まれる。かかる事実がもたらす安堵と責任の礎。これを蹴散らす悲しさを何故、己に齎さねばならないのだ?「ミキサーで食材をペースト状にする」という手段の目的化を避けるべき理由としてはこれで十分だろう。
美味しく仕上がった料理を口にしながらわれわれは実感する。情報としての『われわれ』と実体としての『われわれ』の間に橋をかける際の大切な注意事項を。
以上がかの公益的な分野を専門にした哲学者が贔屓にしたと噂される高名なシェフが残した伝聞だよ。それを又聞きした私の伝聞の信用性を確認する作業は、これからじっくりと行う必要があるな。」
これには珍しくワタクシが頷いていた。その瞬間を見逃さなかった私は、しかし一方でミヒャエル・ボレマンス氏の作品について囚われた思いを我慢し切れなくなっていた。そう、氏の絵画作品はこじんまりとし過ぎている。そのサイズは広い展示会場に負ける予感がある、と。
以前、氏の作品を原美術館で鑑賞したときは元私邸の作りをそのままに活かした展示空間とその作品のサイズはマッチしていた。展示される各作品の間を移動する距離も絶妙で、現実を下方にズレされつつも各作品に描かれた人物とともに親密な時間を過ごせた。一枚、一枚を目にする度に重なっていく氏の作品への興味がかえって厚くなる。纏められた頁が一冊の本になるのと同じ、と喩えるべきかもしれないが『ミヒャエル・ボレマンス』というタイトルに収められる世界は地の文に至るまでサイレントだ。そのため、物語を進める語り手がそこには現れない。描かれた絵からは決して伸びない手足と、誰の目にもなってくれない不在の視点を埋めるのは困難だ。圧倒されるサイズの肖像画と画力で観る側を積極的に呼び込むテオドール・シャセリオー氏の肖像画とはまるで違う。だから私ははこの広い展示会場に入るのが一番不安だったのだ。しかも今日は長期連休の初日、今は午前十時台の早い時間だ。来場する鑑賞者の数が目立たない。広い展示空間と、各作品の間で生まれる実際の色は文字通りの空白でしかない。
けれどこの空白にこそ、紳士なあの人の声が響く。
「彼が絵を描くときには必ず背広のジャケットを着るということを知っているかな?確かある雑誌の記事に載っていたと記憶しているが、少し疑問はあってね。ジャケットを着ているという情報を記そうとした編集者の意図はどこにあったんだろう、と今もずっと気になっているんだ。彼にジャケットが似合っているのは間違いないし、変わったスタイルだとは思うが、要は汚れても構わない衣服であればどんなものでも着て絵を描けばいいし、本人が気にならないのなら全裸でも構わないだろう。重要なのはスタイルではない。画家が選んだスタイルで描かれた作品は結局どうなんだ、という点が大事なんだ。」
思わず私は振り返る。聞き役に徹していたワタクシも、その見えない顔を紳士なその人に向けていた。今、目の前にある一枚を真剣に見つめているから、こちらを少しも見ないその立ち姿を視界に収めて「私」と「ワタクシ」は同じになる。
「大失敗に終わった悪い遊びを、未だ大失敗にはなっていないと否定するために、大失敗に終わるべき悪い遊びを何度も繰り返すアチラの方々を見ているとね、心から思ってしまうんだよ。何を大切に守り又は何を大切に思って捨てるべきなのか、この一点が文字通りに人の世界を劇的に変えてしまうんだな、と。
これは個人的な想像に過ぎないがね、ミヒャエル・ボレマンス氏にとっては多分、画家という典型を自身に課してしまう要素を記号的な意味合いで排除しつつ、かかる記号的意味合いにどっぷりと身を浸すことを望んでいると思うんだ。社会生活を送る誰しもがあるとは思わない物事の間隙を筆で表し、イメージとして形作ってはその内部に溜まっているものを導き出そうと試みるには浮世離れも程々にしなければいけない。外科医の様な常識と非常識をもって対象を切り裂かなければならないのだよ。画家が非常識だとは思わないが、けれど常識的にはやっていけないのだとすれば彼にとって必要なスタイルはあった。彼が身に付ける背広に、私だって袖を通しているのだよ。この重なりを無視できるほど私は大人ではないし、なりたいとも思わないのさ。」
そう言って聴こえなくなる彼の言葉を追って「私」と「ワタクシ」、そのどちらにもあった目が視線を交わして離れなくなった。「ワタクシ」が務めていた役割を「私」が引き受けて、自由気ままに氏の作品を鑑賞していた「私」が避けていた運命的な役割をきちんと見つけた「ワタクシ」がこちらに向かって歩き出し、紳士なあの人からどんどんと遠ざかっていくのを私がずっと眺めていた。まるで心を奪われた一枚と出会したみたいに。だから、少しも動けなくなった私は可能な限り「ワタクシ」を視界に収めようと努力した。そして遂に「ワタクシ」は会場内から出て行って、二度と戻って来なかった。
紳士なあの人は言った。
「それを幸せというのだよ。少なくとも私はそう思う。これもまたいい絵だね。こういう時間は永遠に終わらない。」
その響きが最後になって、紳士なその人も話さなくなった。だから私は独りごちた。
「ああならなくて良かったと思う。」
その響きが天井に届いて帰って来ない。「これ」が私の「それ」なのだと思い知った。
その時に満たされた気持ちを多分、私は一生忘れないだろう。
見本