A Thousand Miles

秒針の無機質な進行音。配達カブの走行音。嘲笑的な鴉の鳴き声。そのうち雉鳩も鳴き出すだろう。目を開ける。天井の木目がわかる。もうじき朝だとわかる。おもむろに立ち上がる。眩暈がする。箪笥に手をついて平衡感覚を取り戻す。時計を見遣る。三時二十七分。目を瞑っているだけで一睡も出来なかった。いや、目を瞑っているだけではなく、考え事もしていたのだけど。洗面所で顔を洗い、口を漱ぐ。目の前の鏡を凝視する。相変わらず酷い顔をしている。小銭と携帯電話だけポケットに入れて、外に出る。

風が温い。頭が痛い。『A Thousand Miles』を口ずさみながら歩き始める。息絶えた蝉や、乾涸びた蚯蚓がアスファルトに横たわっている。紋白蝶が視界を横切る。不意にニュージーランドにいた頃の記憶を思い出す。ニュージーランドにいたことがあるという事実を思い出す、といった方が適切かもしれない。私にとって全ての記憶は、淡い幻になってしまった。戻らない過去になってしまった。私はぼんやりと思う。気付けば、様々な障害に慣れている自分がいた。慣れというのは諦めの一種だと自嘲する。求めることを、信じることを金輪際しないこと。それはね、もう死んでいるようなものだよ。​──そうか。でも、もういいじゃないか。いまから死ぬんだから。

私はかつての恩師に電話をかける。七コール目で相手は出てくれた。私は口を開く。

「先生に出会えたことが、私の人生において、唯一の宝物です。先生に救われ、先生に生かされました。本当に、ありがとうございました」涙は、一滴も流れなかった。

相手の返答を待たず、私は通話ボタンを切った。携帯を握りながら、私は飛び降りた。

A Thousand Miles

A Thousand Miles

  • 自由詩
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-08-25

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