藤の樹 幻想譚

はらひろ

ご訪問ありがとうございます。藤の豪奢な華と香り、また煌びやかな文言を用いて、独特の世界感が出ていたら嬉しいです。

ぽん‥‥ぽん‥ぽん、ぽんぽんぽん‥極限まで潜められたハァプの音色が、テンポと伴に徐々に力を帯びながら膨らみ、其れを受けて憂いを滲ませたビオロンの調べが、ゆゑづくように溜息を吐いた。
 マーラーだよ。
幼馴染の尾美治弥に教えられたとき、是ほど美しい音楽があるのだろうかと、桐原芳は陶然として聴き入った。
 抑えようとしても堪えきれない弦の激情は、堰き止めようにもなす術をもたない。其れはつかの間、ほんの僅かばかりのあいだは沈められるのだけれど、すぐさま後から打ち寄せる波にさらわれてしまう。こらえても堪えても抗いようのない渦にのまれ、ほとばしる音は懊悩するかのように震えていた。
 其の、焦がれるような、逆巻く嵐にも似た旋律が止むと、今度は静寂があたりを包みこむのだった。乳白色の霧がたちこめては消えゆき、いつしか芳はどこか静謐なところへといざなわれていた。
 そして今ふたたび、高らかに弦楽が鳴り響いていた。神々しく誇らしげに。重厚な音の束はあたかも光の束となって燦然と輝き、たぎる熱情は芳を蠱惑してやまなかった。
 力強く、それでいて繊細な弦の調べ。やがて、それらは互いに依りあいながら一本の糸を紡ぎだし、微かに震える一筋の光となって薄くたなびいていくのだった。
 ‥夜明けの、海のイメェジだ。
芳は酩酊し、言葉にならない呻きが咽喉の奥からあがった。
気にいった?
穏やかで低い声が、ゆっくりと芳を現実の世界へとひきもどした。
 バイエルン・フィル、マリス・ヤンソンスの指揮だよ。一番好きな演奏なんだ。
治弥は棚からディスクを一枚とりだすと、此処に入っているから好きに聴くといいと微笑んだ。芳は差し出されたディスクを受け取りながら、ビロゥドみたいな声だなと、そんなことを思った。今しがたの弦楽のごとき、なめらかで艶やかな声なのだと、痺れた脳髄の奥でぼんやりと得心した。
ああ、もう時間だ。時計を見て治弥が残念そうに立ち上がった。
是からバスケの練習があるんだ。そう言って運動着に着替え始めた治弥を前に、ようやく芳は夢から立ちかえると、目をしばたたかせた。
だったら俺も一緒に出るよ。
こんな豪華な屋敷に独り取り残されたのでは堪ったものではないと、芳は慌ててソファから身を起こした。
午後の眩い日差しが、透かし模様の洒落たレェスカァテン越しに、不規則な影を創りだしていた。其れはさながら尾鰭の長い魚のようで、優美に部屋を浮遊していた。深い海に棲む魚にも似た影は、蝦茶色で統一された品の良い調度品の上をすべりゆき、ついては引き締まった治弥の上半身にも、さざ波のような文様を揺らめかせていた。
芳は一瞬、見惚れてからそっと目を逸らした。
 帰るの?聴きながら待っていればいいのに。
治弥の言葉に、此処に独りで?間抜けじゃないか。と芳がぶっきらぼうに応えた。
せっかくだから、夕飯食べていけばいいのに。屈託なく治弥に言われ、芳は少し苛立ったように、そうそう甘えてもいられないさ。と肩を竦めた。
遠慮するなよ。一人二人増えたところで、この家じゃあ差し障りなんてないんだから。治弥が朗らかに笑った。笑うと大人びた容貌が、ほんの少しだが歳相応なものに変わる。
 一体にして治弥は至極大人びていた。旧家で複雑な家の事情を抱える子供は、さっさと大人になってしまうものだが、彼もまた、ご多分に漏れずその例だった。私服であればとても高校一年とは思われないだろう。そんな落ち着きを備えた少年だった。同年代の者より頭ひとつ分ほど上背があり、均整のとれた肢体はのびやかで瑞々しく、無駄な肉の一片もなかった。
 対して芳の体驅はごく平均的で、寧ろ華奢な部類に属するかもしれなかった。二人とも容姿の整った少年で、特に芳の幾分釣りあがった黒眼がちの瞳は印象的だった。色素のうすい肌は皮肉めいた瞳を濡れ濡れと際立たせ、対してその瞳の強さが陶磁器めいた肌を引きたてるとした按配で、何処か投げやりな振る舞いは、気儘な猫科の動物を彷彿とさせた。
 二人は勝手口から表に出ると銘々にわかれた。自転車にまたがった治弥は学校へとペダルを漕ぎ、芳は先ほどのビオロンの余韻に浸りながら、遠のく後ろすがたを見送っていた。ふと、挨拶もせずに辞してきたことに気付いたが、わざわざ戻るのも間の抜けた話だし、何より尾美家の人と顔を合わせるのは煩わしく億劫だった。其処には多分に自分が厄介者であるという立場が、そうさせて終うのだろう。
芳は頭をひとつ振ると、手渡された抗いがたい音色に耽るべく家路を急いだ。

 尾美邸から徒歩でニ十分ほどの処に芳の家はある。
 道すがら誰かの視線をかんじて、芳はおもむろに振りかえった。だが其処には誰もおらず、気の所為かとまた歩きだすのだが、粘り気を帯びた瞳が再び芳を捉えてくる。幾度となく振りかえって見るのだけれど、人はおろか鳥すらも飛んではいなかった。肩口から胸にかけて、ちりちりと鈍い痛みが走った。
まただ。右手で左肩をさすりながら芳は訝しんだ。冬が過ぎ、春を迎えてからこのような事がしばしばあった。痛みといっても針先でちくちく突かれる程度のもので、すぐに治まってしまう。医者に診て貰うほどでもなかった。
一周忌をおえ、独りきりになってしまった実感が、不安となって現れているのかもしれないと芳は沈毅に考え込んだ。是からさきの事について、考えねばならないことは山ほどにあった。
 大橋を渡りきると茫漠とした空き地が開ける。途端に人家はなくなり、代わりに林とも藪ともつかぬ雑木林が空き地の終わりから始まりだし、濃い緑はそのまま山の裾野へと続いていく。
 其の茂みのなかに芳の家はひっそりと在った。昔の家屋らしく土間だけは広く、後は台所と手洗いに浴室、八畳の和室と三畳の板間があるきりの簡素な平屋だが、独りきりとなった彼には充分すぎる空間だった。一年前の調度今の時分に、芳は母を失った。納屋を兼ねた土間の片隅で、立て掛けてあった鍬やスコップの隙間に隠れるように母は崩れ落ちていた。明かり取りの子窓からさしこまれた八つ手の緑葉が、蠟のように青ざめた母とは対照的に鮮やかな緑を成していた。
身よりのない芳は当然の如く高校進学を諦めたのだが、治弥の父が強く進学を勧めた。費用なら母から纏まった金を預かっているから心配はいらないと、何より母が進学を望んでいたとして半ば強引に押し切られた。芳の母は尾美氏の経営する造園会社に勤めていた。尤もこの地域で尾美グルゥプと関係のない会社は珍しく、飲食店やホテル、不動産と多岐に渡り尾美一族は地域一帯を網羅していた。
母子家庭で質素な暮らしをしていた生活に、貯蓄の余裕があるとは考えにくかったが、毎月の給料から積立金をしていたのだと説得されれば頷くより他なかった。幾ばくかの保険金もおり、辛うじて暮らしていくことは可能だと試算までして呉れた。
そして尾美氏は芳の身元引受人となり、生活全般を支えてくれている。其処には名士であるとした自負と、息子の友人への配慮が感じられ(若しかしたら治弥が頼み込んだのかもしれない)、有り難いと感謝する一方で、正直なところ疎ましくもあった。そうした芳の胸中を慮ってか、治弥は尾美の家こそ桐原家には世話になってきたのだからと生真面目に言うのだが、其れこそ誤りであった。母は勿論のこと祖父はおろか始祖の代から、芳の家は尾美家の庭師として生活の糧を得ていたのだった。
 祖父や母がそれぞれ造園業に従事しておりながら、彼らは自分達の庭については一向に頓着しなかった。こじんまりとした家に反して広すぎる庭は野趣に富み、木々は勿論、草花の一本すらも勝手気儘に生い茂っていた。庭は森と呼称したほうが適切なほど人の手が入っておらず、其処には四季折々の樹々が脈絡もなく乱立していた。
 万作やサンシュユの木々が山吹色の花を綻ばせ、あちこちで春の訪れを告げると、それを皮切りにたちまち庭は華やぎはじめるのだった。
 まだ柔らかい黄緑の幼葉が次々とこぞって顔をのぞきだし、梅や桜が白に薄桃色にと其の身を装った。牡丹が惜しむことなく艶やかに華を開いて見せれば、沈丁花が清々しい芳香をあまねく放った。
其の欝蒼と枝葉がおい重なる中に、ひと際、眼を惹く大木があった。樹齢が見当もつかない程の藤の巨木で、圧倒的な存在感をもって周囲を威圧していた。四方八方、自由に蔓は遊び廻り、奔放に伸びきった枝を支えているのは小さな離れ屋なのだが、ちょっと見には分かりづらい。縦横無人に覆い尽くす太い蔓枝や葉、其処から枝垂れ落ちる藤華の濃密さに離れ屋はすっぽりと隠れてしまうからだ。其の存在を知る者は、若しかしたら殆どいないのかもしれない。
 今、此の時が盛りとばかりに、藤の華は豪洒に鬩ぎ合い、甘く濃厚な匂いが噎せかえる程に溢れていた。
 芳は母屋の玄関の鍵をあけてなかにはいると、すぐにプレイヤーを持ってでた。それから藤の枝垂れを掻きわけ、離れ屋の中へと足を進めた。
 其処は風呂場だった。木をくべて使う薪風呂なのだが、芳は未だ嘗て、此の風呂が使われる処を見たことがなかった。母はおろか祖父母も終ぞ使うことはなかったという。いつの頃に建てられたものなのか、母屋とは不釣り合いなほど贅沢な創りで、人が横たわってもまだ余裕のある浴槽は勿論、洗い場や壁、天井まで全てが上等な檜で出来ていた。長い歳月を経ても檜の芳醇な香りは褪せることなく、その馥郁とした心地良い香りは、いつも芳を優しく迎え入れて呉れる。
芳はほうっと安堵の息をつくと借りたディスクを再生し、渇いた浴槽に身を滑らせた。
 マーラーだよ。今しがたの治弥の声が甘く蘇る。朽ちた屋根を覆う藤枝から、幾筋かの分枝が垂れさがり、ふうわりと華房が揺れている。風があるのだろうか、ゆらりと揺れた華房からは、はらはらと藤色の華弁がたゆたっていた。ひらりひらりと翻りながら、花びらが芳の頬を撫でていく。
淡い藤の花びら。濃い紫の花びら。竜胆の色の、藤紫の‥。視界の奥が藤色に染まった。芳はゆっくりと目を瞑った。後から後から藤の花が降り注いでいた。
其れは芳の閉じた瞼の上に頬に、ほんの少し開いた唇にへと忍び込んでくる。ほろほろと舞う花びら。可憐な花のひとひら。
其れは華の屍だ。たった今、命を離れた花の残骸だった。艶やかな骸に埋もれてしまう錯覚に、芳は歪んだ喜悦と奇妙な安寧を覚えていた。
朽ちてく。この一時を芳は至極好んだ。此のまま藤の骸と同化してゆくような、彼岸に分け踏み入ってしまいそうな。そんな危うさを。
若しかしたら狂い始めているのかもしれない。彼らのように。
芳は花びらの死に床に沈みゆく夢想に耽りながら、抑制された弦楽の調べに身を委ねていた。降りしきる淡い紫の寝床に、マーラーはとても似合っているような気がした。



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 四時間目の授業を終了するチャイムが鳴り響いていた。生徒達は一斉にざわめき出し、バスケ部の仲間や級友達が忽ち治弥を取り囲んだ。其の輪に混ざろうと女生徒達の甲高く媚びるような声が、芳の耳に障った。治弥はいつも場の中心に居た。楽しそうに弾む会話。おどけた仕草の級友。誰かのからかいを受けた女生徒が、甘えるような声をあげて治弥に助けを求めていた。いつもの見慣れた光景なのだが、最近、芳は其れが苦痛になっていた。とりとめのないやり取り。賑やかでたあいもない会話。たしなめるような治弥の声、抑制された低い笑い。努めて見ないように背を向けているが、気遣う様な治弥の気配が察せられ、芳はささくれるような苛立ちを覚えてしまうのだった。
芳はそそくさとパンを喉に押しこめると、足早に教室を抜け図書室へ向かった。
 地方の高校であったが学校図書に関しては珍しく充実しており、二つの図書室があった。一つは旧館と呼ばれ、校舎から幾分離れた処に在った。この旧館の老朽化と利便の悪さ故に、新しく校舎続きの図書室が設けられたのだが、旧館を取り壊す段になって建物が県の文化財に指定された。ために其のままの形で維持管理することとなったのである。生徒達は使い勝手がよく蔵書も多い新館を好んで利用し、短い休み時間にわざわざ離れにまで足を運ぶ者は少なかった。
 芳は誰も居ない旧館で過ごすことを好んだ。埃や黴臭さは身に親しんだものだった。耳の奥で弦楽器の美しい旋律が鳴っていた。芳は窓脇に凭れながら、頭の中で奏でられる流麗な絃の響きに合わせて口ずさんでいた。
 「マーラーだね」穏やかな声が新鮮な空気とともに飛び込んできた。驚いて振りかえった芳は、治弥の柔和な笑顔をまえにたじろいだ。
 「尾美‥」何のよう?聴かれて終った気恥ずかしさと、後を追ってくれた嬉しさが綯い交ぜとなっていたが、口からでた言葉は随分とつっけんどんなものだった。
 「気に入ってくれたんだ」
 「借りっぱなしで悪い。明日かえす」謝りながら治弥の背後をちらと伺う。治弥は敏感に察知し「先生に呼ばれているって抜けてきたから」一人だよと言い、芳は我知らずほっと緊張を解いた。
 「‥友達、放っていいの?」
 「芳だって友達だろうに。CDはいいよ。もとからあげる積りだったから。其れより来月の湖畔一泊はどうする?」
 研修と称してあるものの、新入生の親睦を深めるための遊戯めいた学校行事だった。
 「出る訳ないだろ」そんなもんと、ぞんざいな芳の即答に、治弥は小さく肩を落とした。「費用なら心配要らないんだ」
 「そうじゃない。そんなんじゃないんだ。気持は有難いけど。それに‥親睦もなにも、今更‥だろう?」
 「まあ、そうだけど」
 戦災にも遭わず、人の出入りの極端に少ない街であるから、高校に上がっても顔ぶれはそう変わる筈もない。級の全ては見知ったものばかりだった。
そしてそうした古くからの歴史があり、極端に閉鎖的な街は、いにしえからの習わしやしきたりが根強い。加えて此の地は、伝奇や怪奇の類が多く、また人々は迷信深かった。
 芳の家は曰くつきの家系だった。経緯は詳らかではないが、いわゆる憑きものの類に属するもので、とかく人々から揶揄され忌避されてきた。母は最小限の仕事の他は外出をせず、息子の他人との接触を殊のほか嫌った。唯一の例外は尾美家の坊ちゃん、治弥だけだった。憑きものの真偽は別にしても、桐原の血筋には奇妙な横死や、怪異な人の産まれが垣間見え、迷信と簡単には済まされない闇が見え隠れしていた。更には父親の知れない子である芳は、幼い頃から好奇の眼に晒され、人々との隔意は埋まるどころか歳を経るにつけ、深まってさえいた。
祟りを恐れ、虐められることがないのが唯一の救いかもしれなかった。
 「芳が参加しないなら、俺もパスしようかなあ」治弥がつまらなそうにぼやいた。
 「尾美は委員長だろう」
 「嫌な指摘はするなよ。‥‥一泊だけなら‥入浴を避ければ‥それでも無理?」
 まあねと芳は唇を噛んだ。治弥が労わるように芳の頭に手のひらをぽんと載せた。
「止せよ」芳が腕を振り払った。
「なにイラついてるんだ?」
「何でもないったら」尚も追いかけてくる治弥の手を邪けんに退けるが、治弥の方は一向に気にする風でもなく「埃がすごいな。ここは古いから」と、ぱたぱたと芳の肩を叩き埃を払う真似をしてくれる。埃などなく口実であることは分り切っているが、芳はそうした言い訳を造ってくれる治弥に感謝していた。でなければ素直に彼の温かい手を受け取ることは難しかった。
 「まだ駄目か」治弥は呟きながら、俯く芳の髪を長い指でつまんだ。
 芳の身体には産まれつき奇妙な痣があった。奇妙というより奇麗なと称した方が相応しい不思議なもので、左肩から右の腰へと、袈裟掛けに痣が連なっていた。まるで着物を半身纏っているかのように、芳の前身には大小様々な痣が散りばめられていた。小川のせせらぎに藤の華が放たれたような。水面で戯れる花弁を描いたような美しい痣だった。精緻に色彩を織り込んだ上等の薄絹のようでもあり、丹念に図案を練り、巧みな技法で施された入墨のようでもあった。
 この痣の存在を知る者は極少数の人間だけだった。只でさえ曰くつきの系譜である。見咎められたら、其れこそ堪ったものではないと、およそ体育は見学で修学旅行等の行事も悉く控えていた。
 ただの痣の筈なのだが鈍痛や疼くようなことが度重なり、芳もさすがに何かしらの疑念を抱かずにはいられなくなっていた。
 「今日、寄ってもいい?」昼休み終了を告げるチャイムが鳴っていた。治弥は惜しむように芳の髪を指で梳くと、踏ん切りをつけるように大きく伸びをした。
 「委員会もあるから、少し遅くなりそうだけど」
 「大変だな。尾美なら何時でも大歓迎だよ」
 「‥学校では《尾美》なんだな。いつも通りに呼べばいいのに」
 それも無理。と芳は心の中で応えた。治弥を取り囲んで談笑している級のもの達に、どうしても気後れがしてしまうのだった。



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 帰宅の途中、芳の歩幅に合わせて並走する車が、軽くクラクションを二度鳴らし、ゆくてを塞ぐように止まった。不審に思いなかを覗きこむと、はたして黒光りする高級車の運転席で、尾美慶介がひらひらと片手を振って寄こした。
 「頼みたいことがあってね。ちょっといいかな?」芳の強張った会釈を鷹揚に受けながすと、慶介は助手席のドアを開けて同乗を促した。有無を言わさぬ眼力に気押されて車に乗り込むと、芳は身を固くした。慶介は治弥の七つ歳上の異母兄で、この春、都会の大学を卒業し地元に戻ったばかりだった。グルゥプ会社に勤めているということだったが、今日は休みであるのだろう。鮮やかな緋色のタンクトップにキリキリに細いジィパンという出で立ちである。芳は素直に感嘆した。只の普段着でも喩えどんな悪趣味な服でも、慶介が纏うと、まるで彼の為に設えたような特別なものへと変貌する。尾美家の人らしく姿がよく、どことなく崩れた感じが得もいえぬ色香を醸し出しているような、そんな雰囲気の若者だった。其の飄飄とした佇まいに騙されがちだが、その内側には常に鋭い爪が隠れていることを芳は敏感に察知していた。猛禽を思わせる迫力に、芳は無意識に警戒する姿勢になった。
 慶介はブンっと荒々しくハンドルを切ると、勢いよくアクセルを踏みこんだ。思わず芳の身体が前のめりにがくんと揺れた。「悪い悪い」と詫びながらも、慶介はちっとも悪びれない様子で可笑しそうに笑った。
 「学校はどう?」「‥変わりないです」「なんだ。相変わらず素っけないね」
 いつも慎重に身がまえている芳は、なかなか懐かない猫のようで、慶介はちょっかいを出さずにはいられなかった。弟にこんな初々しい反応は望めないとして。
 「折角だから食事でもどう?」
 「‥辞退します。治弥が来る予定ですから」
慇懃に頭を下げる芳を慶介は面白そうに眺めると「なんだ。残念だな」と、さして惜しくもなさそうに答え、ハザァドランプを点滅させると路肩に車を寄せた。
「じゃあ手っとり早く用件を済ませちまおう。急で申し訳ないけど、明後日土曜の夕方に、届けて欲しいものがある」
 そう言うなり、慶介は後部座席に手をのばして臙脂色の風呂敷包みを掴んだ。其れを芳の膝に無造作におくとダッシュボォドから封筒を取り出し、「場所は此処に書いてある」と風呂敷の結び目に差し込んだ。包まれているのは二十センチ四方の箱らしく、持ちあげるとカタカタと音が鳴った。
 「茶器だ」
 尾美家が扱うものなら高級品に違いないと、芳に軽い怯えが走る。その狼狽を悟ったかのように「値の張るものじゃぁない」割れたら割れたで構わないと、慶介が事もなげに言った。突然、ちりちりと芳の肩先から胸がうずきだした。皮膚をつねられるような痛みで、右手でさすりながら遣り過ごしていると、慶介がその手を強く握りこんできた。ぎょっとして芳が身をすくめると、その反応を楽しむかのように、慶介は一本また一本と五本の指をゆっくりと絡ませだした。突きとばそうにも膝に載せられた風呂敷包みと、シートベルトで身体の自由が阻まれていた。慶介は圧し掛かるように芳の動きを封じると、空いているもう片方の手で芳の顎を捉え、其の淡麗な顔をよせてくる。ちくちくと突き刺さるような鋭利な痛みが、次々に芳を襲っては消えていった。
 「‥ふうん?」なるほどね。慶介の微かな呟きが芳の肌をなぶり、形のよい唇が嗜虐的に歪められた。
 ――捉えられる。芳は唇を引き結び、かたく瞼を瞑った。
次の瞬間、慶介が弾けるように笑いだした。
「ごめんごめん。君があんまり素直なもんだから、つい」面白くってさあ、と慶介は楽しそうに笑った。憮然として睨みつける芳を、「弟じゃ遊べないだろう?」などと言いつつ、尚も可笑しそうに笑い続けている。
 「‥からかうために俺を乗せたんですか?」ふるふると怒りに上気させた芳をさも愉快そうに眺めてから「違うよ。頼みごとがあったからさ。ついでに楽しませてもらったけど」と慶介はうそぶき、其れから、ついと笑顔をひっこめた。
 「さっきも言ったけど是を届けてほしい。日にちと時間は厳守でたのむな。手筈はオレが怠りなく整えておくから。初回だから特典つきのサァビスだ」
いつもの強引さでいっきに話を纏めると、慶介は終わったとばかりにウィンカァを挙げて車を発進させた。
 「‥どうして俺が‥」芳は訝しみながら、手元の風呂敷包みを眺めやった。
 「桐原の家業を始める年齢に達したからさ。花守の」当然だろうと言わんばかりの口調に、芳はとまどいを隠せなかった。
「家業って?‥」
「おいおい、お袋さんから何も聞かされてないのか?」慶介が呆れたような声をあげた。それから「ま、この前は何代も前というから無理もないのかなぁ」と独りで納得していた。
 「とにかく其れを指定された場所と日時に届けて呉れればいい。礼金は口座に振り込んでおくから」
「‥礼金?」芳は風呂敷包みの中をいよいよ危ぶんだ。単なる茶器であれば誰が届けてもいいはずで、わざわざ芳を指定し代金まで支払われるとなれば、モノは其れなりに危険なものに違いない。慶介は芳の懸念を見透かしたように、「大丈夫、法的にヤバイものじゃない」と軽く笑った。
 「ただ是は花守の仕事でね。つまり君が届けるべきものだ」
 芳は訳がわからなかった。
「だから当然代価は払われる。君、バイト探してただろ?調度いいじゃぁないか」
 芳の頬がさっと赤らんだ。せめて生活費を稼ごうとバイトを試みても「尾美さんに言い渡されているから」と面接先で悉く断られる始末だったのだ。
 「‥花守ってなんですか?」
 「説明が難しい、まあ、行けば分かるよ。気になるなら治弥に聞けば?」
 「治弥に?」
ここで如何して治弥の名前がでるのだろうと芳が推し測っていると、「気に喰わないが」と慶介が前置きをしてから続けた。「気に喰わないが、君のためにあれこれと調べているよ」その言葉に芳の胸が甘酸っぱくざわめいた。其れから、気に喰わないとはどちらに向けられたものなのだろうと慎重に黙りこんだ。
 「こっそり探ってるみたいだけど、バレバレでね。可愛いったらない。全くもって気に入らんけど。ま、アレの考えもあるだろうし、オレよか遙かに器の大きい奴だからね」
本家に移されたときも歓待してくれたのは治弥だけだったと。アイツが居なけりゃ、とっくに飛び出していたさと、弟を語る時だけ皮肉な色が和らいだ。
まあとにかく土曜日は宜しく頼むと、芳を家まで送り届けると、慶介は再度念を押して去っていった。



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ここはほっとするなあ。
つくづく感嘆して治弥が目を閉じた。
変わってるな治弥は。
芳は傍らをちらりと横目で見やると、手元に意識を集中させた。
勝手気儘に生い茂る樹木は、子供達からはお化けの森と敬遠されている。殊に陽が落ちると鬱蒼とした木々は夜の闇と溶けあい、その陰影は更に濃く深くなる。街灯の明かりなどない暗闇のなかで、それらの影はひと塊りとなってうごめき、暗黒の怪物めいて子供達を怯えさせるのだった。大人でも不気味に思う者は少なくないだろう。そう芳は踏んでいた。
二人は藤の樹のたもとに腰を掛けていた。月灯りをうけて藤の華がおぼろに白く霞んでいた。空間を奏でてゆく弦楽器の調べが、藤の房と二人の耳朶を優しくくすぐった。
いいな、すごくいい‥。此処の良さが分かる人なんて‥いないよ。誰も‥。
自分以外はと、治弥は存外に優越感を匂わせながら、それよりさっきから何してるの?と芳の手元を覗きこんだ。
 板間が少し痛んでただろ、其れの修理だよ。半分に割った竹を小刀で削りながら芳が応えた。三畳ほどの板の間は割竹を寄せて創ってあり、修理には手間がかかった。大きさや太さが一本一本異なる上に、優美に湾曲した竹には硬い節があるので、其れを繋ぎ併せていくには、一つ一つ手作業で削るより他ないのだ。
此の家って随分と風流だよね。どれ一つを取っても。頻りに感心する治弥に芳が呆れた声をだした。この荒れ放題の庭に、今にも壊れそうなあばら屋が?
 芳は本質が見えてないんだ。此処は本当に伸び伸びとしてくつろげる。憩いの場だよ。
そう言いながら治弥は甘く噎せかえる藤の香りを胸いっぱいに吸いこんだ。
あの屋敷の子供でいることは、かなりキツイんだ。だから此処にくるとほっとする。そうは見えないかも知れないけど。ほんとうなんだ。治弥が自嘲気味に低く嗤った。
慶介さんも似たような事を言っていた。
兄さんが?なに?
 問われて芳が先程のあらましを話すと、見る見る治弥の眉が顰められた。其れから、兄さん単独の依頼とは考えにくい。大方、父さんが背後にいるんだろうと難しい声をだした。
花守って何?俺の家業だって。
‥うん。まだ不明な事ばかりなんだけど‥。躊躇いながら治弥は言葉を探すように続けた。山火事を防ぐために此の地では地鎮祭が頻繁に行わるだろう?其れに付随するものらしいんだ。地鎮祭の由来の‥逸話に関係するのだけど‥。声が気遣うような音を帯び、芳は黙然と頷いた。街の人々に疎まれる所以ともなる話。
チェロの慈愛を含んだ低音が、慰撫するように肌を撫でていった。
 其の昔、此の地に腕のいい庭番がおり、領主の覚えも目出度かったという。しかし或る時、山火事の咎を受け、身に覚えのない罪で投獄されてしまう。領主が庇えば庇うほど庭番への拷問は苛烈を極め、遂には非業の死を遂げてしまう。其の庭番の無念や呪詛が残された妻の腹に宿り、妻は鬼の子を産み落としてしまうのだ。恐れ慄き、悲嘆に呉れた妻は赤子を藤の根元に埋めると、自らも自害するという憐れな話で、不憫におもった藤の樹が(嘗て庭番に大層慈しまれた樹だという)、呪いの念を封じて鬼の子を人型に戻したとされる昔語りだった。大昔の伝承の逸話。
 その話には続きがあってね、人型に戻った子は、鎮魂のために花守になったとされるんだ。ただ花守の仕事がわからなくって。‥届けものっていうのは意外だな。
 はっ。嘘くさい。芳は鼻でせせら笑い、其れから黙りこんだ。
其の子が如何した訳か、芳の祖先とされていた。文献や傍証の一切も何もないのだが、何時の頃からか桐原の縁とされるようになっていた。不気味な桐原の血筋が、其のような憶測を招いたのかもしれない。加えて尾美家の庭師など、凡そ庭番を連想させる業種に従事してきたことも、噂に拍車をかけたのかもしれなかった。
だが、単なる昔語りのはずの逸話が、花守の役目として芳を追いかけてきていた。まことしやかに。しらず芳の唇から陰鬱な吐息が漏れでた。
 ただの迷信さ。因習に囚われすぎているんだ此の街は。治弥は立ち上がると頬に絡みつく藤の房に顔をうずめ、物憂げに眼を閉じた。
ひんやりして気持ちがいい。絹みたいだ。猫の毛触りにも似ているかな。
月の青白い光を受けて、華がけぶるように発光していた。
猫の毛は筍だろ?其れは耳だよ猫の耳。そういう小説があったね。でも猫というなら芳じゃないか?そう言うと治弥は人差し指で芳の輪郭をなぞった。よせよ。芳が顔をそむける。ほら、そういうとこ。猫そっくりだよ。どういうとこだよ。だからひねくれ加減とかさ。治弥がうっそりと笑った。
土曜日は気をつけろよ。何せあの兄さんの依頼だから。
顰め面をしながら、尚も治弥が警告めいた言葉を口にする。芳の内に、捲きつかれた指の感触が忌々しくも生々しく蘇った。忠告を受けるまでもなく、慶介という人物は油断のならない得体のしれなさがあり、係わりを避けるべき類であるのは必至であるようだが、其のことを口にするほど愚かでもなかった。
大袈裟じゃないの?風呂敷包みを持ってくだけだろ?花守って奴が届けるだけの。
其れでも、だよ。例え形式的なことだとしても警戒するにこしたことはない。兄さんはいい人だけど、ああ見えて結構な策士なんだ。しかも手練だ。気がついたら術中に嵌ってるってことが、儘ある。そう不平を洩らしながら治弥は、纏わりつく藤の房に背をもたせると其のまま芳醇な藤の華にうもれていった。噎せかえるような香と哀切を帯びた音に包まれ、治弥の瞼がうっとりと細められていく。其の藤の精とも見紛うような佇まいに芳は恍惚と魅入った。息が詰まりそうだった。慌てて目を逸らし、気づかれないよう息を吐くと、兄君が言うには弟君の方が人物だってさ。と軽口を叩いた。
鵜呑みにするなよ。華にうずもれた治弥がくぐもった声をだした。
 そうやって俺が逃げ出せないよう楔を打ってくるんだ。なにせあの父さんの子だからね。そう言って治弥は渋面をつくった。
自分の親なのに随分な言いようだな。呆れて見せながらも芳は内心、治弥の言い分は正しいのだろうと感じてもいた。
そういや慶介さんは治弥がいるから残ってるとも言ったな。お前だけが喜んで迎えてくれたって嬉しそうだった。
兄さんが俺の立場でも諸手を挙げて歓迎した筈だよ。重い荷を分担してくれる者が現れたんだから、それも兄として。全部持って呉れるなら俺は迷わず脱出するよ。
そんなこと考えてるのか?初めて吐露した治弥の心情に、芳は少なからず驚いた。
芳だってそうだろう?と促され、まあ、と曖昧に頷く。
とにかく兄さんには注意しろよ。あの父さんの子だからね。
治弥だって同じ父親の子じゃあないか。芳がそう指摘すると、またもや端正な顔が顰められた。



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 訪問の約束時間には、たっぷりと余裕があったが、迷うことを想定して芳は早めに家をでた。慶介の(治弥によれば恐らくは彼らの父親の)遣いとして、遅刻する等の愚挙は避けたく、出来るなら場所の確認をしておきたいという思いがあった。届け先はバスで小一時間ほどの街外れだった。いつもなら其のくらいの距離は自転車を乗っていくところだが、風呂敷包みの中身が茶器とあれば、割れてしまう危険は犯せなかった。
 バスの車窓からは黄色の花が延々と望め、さながら密に織り込んだ絨毯のようだった。所々で揺れる若草色の小さな茂みが、模様のようなアクセントを醸し出していた。
 いつの間にかうとうととまどろんで終ったものらしい。降りる停留所の名前が聞こえ、反射的に降車のブザァを押した。余るほど時間の余裕があった筈なのに、バスを降りると辺りは薄墨を刷いたように夕闇が迫りこんでいて、芳を慌てさせた。
 手書きの地図を頼りに入り組んだ路地を右に左にと折れる。定刻に遅れそうな焦りから芳は小走りになり、箱の中味がちゃきちゃきと抗議するように鳴った。
 「おやまあ、そんなに息せき切って」と艶やかな和装の女が行灯の電気を点けながら、のんびりと声をかけてきた。「少しお休みなさったら?」いえ、訪ねる処があるのでと断ると「其れなら此処でございますよ」と可笑しそうに笑った。
 足元を照らす行灯の列が、ほのかに鈍い光を湛えて揺れていた。其れは絶妙に配置された飛び石を跨ぐ度に、ゆらゆらと生き物のように影絵を蠢かせていた。微かに震える灯りと陰影が、芳のなかのビオロンの揺らぎと同調していた。
 「不思議な曲ですのね」女の指摘に、芳は無意識に口ずさんでいたと知り、耳を赤く染めながら非礼を詫びた。「いいんですのよ。此の頃は訪れる人も途絶えてしまって、寧ろ楽しゅうござますわ。其れよりお召し物がすっかり濡れておしまいで」と気遣わしげな声を受け、芳は怪訝な面持ちになった。見ると成程、全身ぐっしょりと濡れそぼっている。
 「お届けものを、言づかってきただけですから」お構いなくと、風呂敷包みを手渡し帰ろうとするが、女は半ば強引に行く手を塞ぎ、「濡れたお召し物はすぐに乾きますから。ほうら、こんなに震えてるじゃあないですか」と嫣然と微笑んだ。
 いつの間にか芳は座敷のなかで、ガウンに身を包みかたかたと震えていた。其処は九畳敷の間であるが、芳が座しているのは三畳ほどの上段だった。黒漆の栃の框を入れて一段高くしたもので、紅花欄を用いた装飾的な違い棚が設えられている。随所に楓の花を象った釘隠しが施され、贅をこらした趣味人の室であることが伺えた。
 「今、温かいお飲み物を入れますから」女の着物もまた、流水に楓の花筏文様を描いたものだった。時節にはそぐわない柄であったが余程に楓が好みなのだろうと、芳は震えながら、ぼんやりとそんなことを思った。
女の傍らには、ぼこぼこと湯玉の沸いた鉄瓶が置かれていた。急須に茶葉を入れお湯を注ぎながら「折角だから御持ち下さった器で頂きましょう」と早速に風呂敷をほどき、桐の箱から二対の湯呑み茶碗を取り出した。唐紅の釉薬が掛けられた品で、素人目にも高価なものだとしれる。「また是で飲めるなんて‥」女は灌漑深げに矯めつ眇めつ、ひとしきり湯呑み茶碗を愛でてから、おもむろに布巾を取り出すと丁寧に拭いた。其れからたっぷりと時間をかけて広がせた茶葉の湯を、ゆっくりと茶椀に注いでいった。
 「さあ、どうぞ」促されるまま口に含んだが、あっと気付いた時は既に遅く、アルコォル度の強い液体は、芳の咽喉の奥へと流れおちた後だった。ふと手元を見やると湯のみ茶碗が盃に変わっていた。
 ‥いったい‥思う間もなく身体が痺れて薄墨色の靄が視界を覆いつくした。
女の手がのびてきて、芳のガウンを寛げる。
 「本当に奇麗なお子だこと」女は芳の身体に散りばめられた痣を指でなぞると、次いで唇を押しつけてきた。肩から胸へと這うように唇で痣に触れながら、ほれぼれとして瞼を伏せた。長い睫毛が刷毛のように肌をくすぐる。押し退けようと試みるのだが、芳の身体は麻痺したように、ぴくりとも動かなかった。
「待った甲斐が、あったというもの」女は両手で芳の頬を挟むと唇を重ねてきた。その余りの冷たさに芳の背筋が凍りついた。
 「‥俺に‥さ‥わる‥な‥」縺れる舌できれぎれに反駁すると、途端に女の瞳が怒気を帯びた。
 「なんと情のこわい。藤の君に愛でられているからと、いい気になりおって」
如何して呉れようと、戒めるように女の口づけが深くなり、きつく舌を吸われる。
 ――治弥。‥‥。
 遠のく意識のなかで、芳は彼の名を呼んだ。
 突然。空気が細かく震えだした。ビオロンの調べだった。其の煌びやかな音色とともに、慣れ親しんだ甘い香りがたちこめていた。藤の花びらが後から後から湧きおこり、辺りは藤の華で溢れかえっていた。菫色や鳩羽鼠、桔梗の色、そして藤の色の花の片たち。豊かな紫の色がなだれ込み舞い上がっていた。其のまばゆく鮮やかな色彩は瞼を開けていられない程で、濃密な香には窒息さえしてしまいそうだった。
「藤の君」女の感極まった声がしていた。彼女の声もまた華麗な弦楽の弦のように震えていた。淡い紫色が視界を塞ぎ、藤の華で覆い尽くされていた。いつしか女は治弥と入れ替わり、芳は治弥と唇を合わせていた。薄く開いた唇を割って、芳の口に甘く柔らかな舌が忍び込んでくる。その華蜜を豊潤に滴らせた肉片は、芳の其れと絡まり、あえかな声が咽喉の奥から漏れでてくる。「やっと、掴まえた」掠れた声で囁やかれ、口づけはさらに深いものへと移ろっていく。芳は羞恥に耐えながら媚惑的な唇に陶酔し、甘美な渦へと呑みこまれていった。
 藤の華が舞っていた。藤は惜しげもなく絢欄に花びらを降り撒いていた。



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 温かい人肌のぬくもりの中で芳はうっとりと目が覚めた。抱え込まれるように顔を埋めているのは、治弥のなめらかな裸の胸で、背中に廻された優しい重みは、彼のしなやかな腕だった。芳は其の温かい肌に凭れながら、彼の素肌にそっと手を這わせてみた。すべらかで弾力のある肌が、吸いつくように芳を捉えて離さなかった。
 ほうっと嘆息すると芳は身を起こし、傍らで眠る治弥の姿を眺めた。窓があるのだろうか、さしこむ月の光が彼の微かなうぶ毛を照らし、彫刻めいた肢体は月の恵みをうけて金色に輝いていた。其の肌に花びらが一つ、また一つと舞っていた。
 訝しんで辺りを見廻すと、其処は芳の家の離れ屋だった。藤の華で覆われた離れの浴槽で、二人は溢れるばかりの藤の華に身を置いているのだった。
文字通り浴槽は藤の華で埋め尽くされて、渇いた檜の浴槽は豪奢な藤華の寝台へと姿を変えていた。無数の華のひらで設えられた寝床は、羽毛のような柔らかさと薄絹のような艶やかな感触で、剥き出しの肌に心地良かった。
 何処からかビオロンの音が幽かに流れていた。
 藤の華が舞っていた。音楽にあわせて、後から後から華麗に其の身を躍らせていた。
 ‥豪華だな。
目を覚ました治弥が、藤の天蓋から垂れこめる華房に手を伸ばした。湯殿に入りきれない花びらが零れおち、あたりは濃淡のうつくしい紫の綸子に覆われた。其れでもひっきりなしに爛熟した藤の華が、ひらひらと舞い落ちてくる。溢れる色の乱舞だった。薄色や若紫、桔梗の色が犇めき合い、菫や楝、菖蒲の色が彩りを添えた。其処を紫苑の紫が競うように踊っては、其の名を誇るが如く、藤の色が艶やかに眼を奪った。凡そ言葉をつくせないほどの紫の片が、爛漫に咲き乱れていた。いっぱいに華房を付けた藤の枝は幾重にも幾重にも枝垂れ落ち、まるで錦絵に紛れ込んだかのようだった。
 そして、はらはらと降る藤の花冠は蝶となり、ビオロンの切ないうねりに寄り添いながら、ちらりちらりと飛んでいた。四本の弦から織りなされる音は、蝶の零す鱗粉をまとって、おぼろに琉璃色の輪郭を成していた。皓皓とした月灯りのなか、奏でられる音は無数の粒となり、花びらと楽しそうに戯れている。其れはさながら調べと色彩の輪舞だった。
 ‥すごいな。
 魅入られたように息を呑む治弥の傍らで、芳は小さく慄きながら思わず治弥の肌に爪を立てていた。すると芳の怯えを察したかのように、背中に廻された腕に力が込められた。抱きすくめられながら、芳は治弥という生身の実体を感じとり、彼に繋ぎとめられている実感に、ようやく安堵の息をついた。
 ‥豪華だな。‥おれ‥酔っているのかな‥。
 其れから思い出したように、そうか、兄さんか‥。と呟くと、前髪を後ろに掻き上げながら、やられた、と可笑しそうに笑った。
飲み物に盛られたんだ。芳の家まで載せてもらう途中で。全く兄さんときたら。怒ろうとしても怒りきれずに、治弥はただただ呆れて小さく笑い続けている。
藤の花が降っていた。ほろりほろりと花びらはたゆたい、瑠璃色にけぶる音のつぶが語らうように謳っていた。花の蝶が、音の珠が紫色の鱗粉をくゆらせていた。
‥俺も‥俺も酔ってるみたいだ‥。
目眩がしていた。あれは夢だったのだろうかと、芳は痺れた頭でなんとか考えようと試みるのだが、どうにも纏まらなかった。解っているのは、自分を酔わせているのは酒でも花の香でもなく、またビオロンの調べでもないということだけだった。
酔わせているのは‥‥。酔っているのは‥。
芳は思惟をとめた。
‥ほんとうだ。芳も酒臭いな。二人して酔って、それで裸なのかな‥。
不思議そうに首を傾げながら治弥は芳を抱きこんだ。芳に説明がつく訳もなく、曖昧に言葉を濁すと治弥の胸に顔をうずめ、規則正しい彼の心音を全身で感じた。
 寒くない?治弥の気遣いに、いや、と芳は首を振ると、温かいくらいだとぶっきらぼうに応えた。そして彼の肌の温もりを惜しみつつも身体を離した。
 そうだね。華がこんなに温かいなんて知らなかった。あれ?芳?肩どうしたんだ?
訝しげに治弥が覗きこんでいた。見ると肩にあった大きな朱色の痣が、さっぱりと消えていた。先ほどの夢幻のような遣り取りが想いおこされ、芳の白い肌が桃色に染まった。治弥を盗み見ると、彼もまた頬をほんのりと上気させている。
 ‥じゃあ、あれは。夢じゃ‥。面映ゆそうに治弥が目を逸らし、藤の天蓋を見つめた。芳は如何こたえてよいか分らず、聞こえないふりをした。
 隙間から風がさわさわと吹きこんで、火照った身体を優しく慰めてくれた。


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 後日、慶介から「お礼がしたいから食事でもどう」と待ち伏せされ、突っぱねるつもりが、湧き起る疑問の強さに負けて芳は車に乗り込んだ。
 「なんでも御馳走するよ。何処がいい?」
 サァモンピンクの開襟のシャツに膝の抜けたジィパンという、相変わらずラフな格好だったが、不思議なことに慶介が身に纏うと、黒塗りの高級外車にも、ごく自然に馴染んで見えた。あたかも、わざわざ誂えたように。相変わらず、慶介はそんな雰囲気を持った男だった。どのような場面でも、彼は臆することなく自分を演出することが可能だった。年長者が実績とそれなりの年月を経て身につけてゆくものを、彼は易々と自分のものとしていた。其れは容姿から何まで己の秀でた能力を熟知したものだけが可能なことで、慶介は
幼いころからそうした狡猾さを備えていた。芳はそんな自分とはまったく異質の存在である慶介に怯んでしまうのだった。
 「中華にイタメシにフレンチ、リクエストになんでもお答えするよ」
 「折角ですが、腹はすいていないので」
 全く君は連れないねぇと口の端を挙げ、肩頬だけで笑うと、「それじゃ珈琲でも」と車のアクセルを踏み込んだ。ほどなくして雑居ビルの駐車スペェスに車を止めると、慶介は地下の階段を降りゆき、クロゥズの札が下がっている扉の前で足をとめた。そして尻ポケットから鍵ケェスを取り出すと、おもむろに重厚なドアの鍵をあけた。
 其処はカウンタァが一つあるだけの簡素な店だった。四人も座れば忽ち窮屈になってしまうだろう。装飾的なものは一切なく、利益を求める店でないことは容易に察せられた。照明は極端に落としてあり、カウンタァの隅で琥珀色のシェードだけが、ぼんやりと浮かび上がっていた。殺風景で何も無いのだけど、其処には上質な落ち着きがあった。
 「珈琲でいい?」芳が黙って頷くと、慶介は仕切り台を潜ってカウンタァ内に入った。薄暗がりのなかお湯を沸かし、ドリッパァーやサァバァなど必要な道具を手際よく並べると慶介は豆を挽いた。
 「ここはオレの趣味の店でね。気が向いた時にだけ開ける。主に夜だけど」
 とんだ道楽息子だ、と目を尖らせる芳に、「ささやかな息抜きと言ってほしいね」と慶介は片眉だけを器用に吊り上げてみせた。
 挽きたての珈琲豆の香りが鼻腔をくすぐった。慶介は長い指でぺェバァの側面と底面を折り込むと、ドリッパァーにセットした。次いで挽いた粉を入れて表面を平らにならすと、粉全体にお湯がいきわたるようにお湯を注いだ。
 「この前は有難う。お陰で首尾よく収まったよ」礼金は払ってあっただろう?と無造作に言われ、芳の瞳がいっそう険しくなった。
 「あの額はなんですか?」
 通帳を記帳した芳は、其処に振り込まれている金額に驚いた。どう考えてみても一桁間違っているとしか思えず、慌てて振込先に問い合わせたのだが、電話にでた相手は指示された金額に相違ないと述べ、“ご不明な点は尾美慶介さまに”との返答だったのだ。
 「仕事に対する代価だよ。当たり前だろう?」
 「‥俺は、何もしてません」
 「へえ?そう?でも君はして呉れたよ。充分な成果があった。だから支払った」
 芳が沈黙していると「見事な花守の仕事だったよ。褒めてるんだけどなぁ」と粉を蒸らしながら、慶介が不満気に眉をしかめた。
 「‥意味がわかりません」
 「初めてにしちゃ、上出来だってことさ。ホント」
 「‥訳がわかりません」あの夜のことは幾度となく反芻するのだが、からくりが皆目見当もつかず、芳はつい詰問めいた口調になる。
 「仕事をした覚えもないのに、困るだけです」
 「おいおい剣呑だなあ。君に分らないなら、オレに分かり様がないじゃないか。ま、手筈は整えておくと言ったろ?」
 芳が胡乱な目つきで慶介を一瞥した。琥珀色の鈍い光が彼の貌に陰影をおとし、其の秀麗な彫りの深さを際立たせていた。「援軍は間に合ったんだろう?」慶介は含み笑いを浮かべ、それから思わせぶりな間をたっぷりとってから「それも君の望むかたちでさ」と揶揄するように声を潜めた。
思わず芳の頬に血がのぼり、身体が固まった。
 「ま、援軍なしで流れにまかせても、死にゃしないが」
 「知ってるみたいなこと、言うんですね」むっとしつつ、何処まで知っているのだろうと芳は身の置き所のない羞恥に駆られながら、額に汗を滲ませた。
 「オレにも一枚あるからな。変な形のヤツが。ま、庶子のうちオレだけが本家に引き取られたのも、その所為と踏んでるんだが」そう言うと珈琲カップを芳の前に置き、慶介自身も柱に凭れてひと口啜った。
「うん、いい出来だ」
芳は茫然として、満足そうに悦に入っている目の前の男を眺めやりながら、一枚あるとは痣のことだろうかと、尋ねようと口を開いては‥‥噤んだ。
 「冷めるぜ。飲めよ」芳が尚も口を閉ざしていると、「要らないことまで喋っちまったが、キミ、聞かないんだな」案外、悧巧だなと、慶介が横柄に腕をくんだ。
 「‥花守って何ですか?」
 「謎が多い。そもそも伝聞でしかないからね。ただ、それぞれの代によって役割や遣り方が違うものらしい」
 「巻き込んでおいて、無責任じゃないですか」気色ばむ芳を面白そうに眺めてから「巻き込んだんじゃない、昔からの決まり事だ。それより、そんな眼をするもんじゃないぜ」と慶介が軽くいなした。
 「目?どういうことですか」
 「そそる。ってことさ」
 話にならないと芳は席を立った。慶介は強いて止めようとはせず「花守の出現は久方ぶりだからね。誰もが戸惑ってるのさ」と肩をすくめた。
 「‥どうして消えたんですか?」
 「消えた?ふうん、そうか消えたのか」慶介は考え込み、「さあな、浄化‥かもな。何にせよ、結構なことじゃないか」と無責任な軽口をたたいた。
 芳は無言で軽く頭を下げると、扉を押して外にでた。



          :::::::::::


庭の樹々がさわさわと色めき、治弥の訪ずれを告げていた。黄昏のなか、上背のあるすらりとした影が、密生する藪を悠々と歩いていた。枝葉がこぞって道を譲っているかのように、彼の歩みは澱みなく滑らかだった。
 其の優雅な動作に、芳はしばし見惚れてから、また作業に取り掛かった。
 程なくして、まだ完成しないの?と芳の頭上からのんびりとした優しい声が降ってきた。治弥が屈みこんで芳の手元を覗きこんでいる。
手間が掛かるっていっただろう。くそ削りすぎた。ちっと舌打ちしながら、芳はうんざりした声をあげ、割竹と小刀を放り出した。板間の修理は遅々として進まなかった。
 面倒でもちゃんと竹でなおす処が芳らしい。と藤の房に手を伸ばしながら治弥が微笑んだ。たわわな華の房が揺れて、豊な香りとともに、紫の片がふうわりと舞った。
 そろそろ藤も見納めか。
惜しむような声音に、芳の心がざわついた。
 変わりゆく季節をうけて、藤の華があらん限りの力を奮って咲いていた。そよめく風に揺れながら、名残りの華がはらはらと散っていた。
あの幻のような出来事について、二人は互いに触れられずにいた。夢なのかうつつであったのか。知りたいと願いつつも敢えて語り合うことはせずに、其々の胸のうちに、そうっとしまい込んでいた。確かめてしまったら、そのさき如何なってしまうのだろうと、後戻りができなくなりそうな甘美な予感に、二人はとまどい躊躇ってしまうのだった。
そうだね、藤の季節はもう終いだ。
振りきるように芳が言い放った。それから、藤って何だか治弥っぽい。と目を細めた。そうかな?芳の方が似ていると思うけど。治弥が眩しそうに芳を見つめていた。その眼差しの強さに、思わず芳は目を伏せた。
 この樹って、いや、何でもない。言いさして治弥は口を噤んだ。
 芳は如何してだか、治弥の言わんとすることが分かるような気がした。
 喩え、冬枯れの頃であろうとも、望めばビオロンの調べとともに、藤の樹は華を咲かせて呉れるのだろうか。震える絃の吐息とともに、零れるばかりに華は開くのであろうかと。其れは確信に近い想いだった。

藤の樹 幻想譚

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藤の樹 幻想譚

生まれつき不思議な痣のある主人公。彼の生い立ち、その系図は不可解なものだった。その不可思議な痣が主人公を奇妙な世界へと誘うのだった。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-08-25

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