酒とホッチキス ~禁欲の箱庭から中継がつながりました。

 ウパニは当惑していた。なぜ、自分がこんなところにいるのか、さっぱり見当がつかない。ウパニはバンコクの修行僧である。修行を終え、房への帰途、何者かに昏倒させられ、気がつくと、こんなところにいた。いったい、どうしてこんなことになったのか、いくら考えても彼にはさっぱり分からなかった。幸い、殴られる前までの記憶はちゃんとしているが、そのどこを探っても誰に、どんな理由があってこんな仕打ちを受けなければならないか、全く身に覚えがなかった。確かに、若い頃は無茶もしたかも知れない。憶えはないと言えば嘘になる。しかし、恨みを持っているやつなら、ウパニに危害を加え、殺すだろう。彼はもう長い間そこにいるが、なんの音沙汰もなかった。打ちっぱなしのコンクリートの部屋の中を、彼は訝しげに眺め回した。
 それは恐らく小さな事務所程度、貸しビルで言えば家賃も手頃な六メートル四方くらいの窓のない部屋である。人が中に入って生活することを用途としなければ、箱、と言い換えても、差し支えはない。それ以外に特徴はあげにくい。なにしろ、そこにはウパニ以外の内容物は、一切存在しないのだから。昼夜の区別もつかないその代わり、蛍光灯だけが無駄な明るさを終始放っていて、まだ茫然とした思考の冷めやらないウパニを、申し訳程度に慰めていた。
 こんな部屋に閉じ込められて、どれくらいの時間が経っただろうか。夜に乳粥を食べたきりなので、ひどく腹が減っている。トイレには行けそうもない。背面のドアは鉄製で、頑丈に鍵が掛けられていた。もし用を足すときになったらどうすればいいのだろう。ここにはバケツひとつすら置いてはいなかった。まずい。しかも薬を打たれたのか、なんだか思考がまとまらない。さっきから浅い覚醒と昏睡を繰り返している。ウパニは今も失われていく意識と、必死に格闘中だった。もう、ふらふらだ。もし脱出のチャンスがあったとしても、こんな状態なら外に這い出していくのすら、覚束ないに違いない。よほど強い薬を投与されたのか。このまま死ぬんじゃないか。そう思うと、そら恐ろしくなってくる。
 一体自分はどうなってしまうのだ。危害を加えるにしても、そろそろ誰か出てきて、事情を説明してほしい。長い昏睡と夢想を繰り返し、ウパニの精神的な疲労はピークに達していた。考えているうち、視界が乳白色の靄で覆われ、ウパニは再び意識を失ってしまった。
 起きたのは、それからしばらくしてのことだっただろう。たぶん二時間程寝た。不思議なことに、喉は渇いていたが、日常的な感覚と思考は戻りつつあった。まるで自分が自分でないような感覚から解放され、当惑していたウパニはまずそれを喜んだ。ついで冷静になると、とにかく大きな声で訴えてみようと言う気力が湧いた。誰でもいい。話せば分かる。とにかく出てきてくれ。彼は基本的には、善良を友として人生を歩んできた。仏門に帰依する以前も、誰とでも話をすればわかってもらえると、常に考えていたし、ウパニ自身弁が立つ男ではなかったが、自分の隠れなき誠意に確固とした自信を持ってはいた。だがここでは誰もその誠意に応える人間はいなかった。
 やがて小一時間ほど訴え続けて、彼はついに根を上げた。声は嗄れていたし、音を立てて気付かせるために壁に叩きつけた四肢は、ばらばらになりそうに痛んだ。虚しい失望がウパニを包んだ。
 鉛のように重たくなった身体を持ち上げて起き上がろうとしたとき、彼は奇妙なものに気がついた。なんだ? なんだか目の前に不思議なものが置かれている。いや、置かれているもの自体は不思議でもなんでもない。ただ、そのシチュエーションと言うか、とりあわせが奇妙だったのだ。まず第一にそれは、水差しに入った琥珀色の液体である。
 丸々太ったコウテイペンギンのように堂々と胸を張った、ガラス製の寸胴のボディになみなみと注がれた芳醇な色の液体。ウパニは漂ってくる芳香で、その液体がブランデーであることに気づいた。コニャックだ。ウパニにはそれがこの国では外国人の出入りするような高級クラブで出されるもので、しかもそれもその中でも、最高級品に位置するもの注がれていることが分かった。
 その隣に置かれているのはまた、場違いすぎる一品だった。ホッチキスだ。あの、文房具の、ホッチキスである。見たところ日本製だ。
 実のところウパニは大学を出てからしばらくは、国の会計局で事務員をしていた。最高級品のブランデーも、日本製のホッチキスも、その頃に見慣れた品である。あの頃は、様々なタイプの日本人たちと仕事をしていた。
それにしても、だ。ブランデーは夜の供、ホッチキスはまごうことなき事務用品だ。これで一体、どうしろと言うのだろう。そもそも誰が? 疑問はさらに深まるばかりだった。
 さらにウパニは、一枚の羊皮紙に何かが書かれているのを見つけた。そこにはしっかりと威厳がある文字で大きくこう、書かれていた。
 「汝、男をみせよ」
 ワケが分からなかった。男をみせろだって? ウパニはその言葉から、自分の記憶に合いそうな経験を探り出してみた。この言葉を言われるのは、一体どんなときだろう。ウパニは思い出した。大学を卒業したての頃、日本人と飲みに行った接待の呑み席で上司に煽られた言葉だ。日本人に乗せられて一気飲みを強要する上司が確かそんなことを言っていた。または、リノエラと言うガールフレンドを親友と取り合ったときのことだ。親友を蹴落としてまで、恋を勝ち取った初夜、彼女はウパニの腰布に手をかけて言った。素敵よ、ウパニ。あなたの男をみせて!
 妄想に浸っている場合ではない。どう考えても、この二つのシチュエーションから現在の問題状況を解決できる思考パターンは生まれてこないのだ。落ちつけウパニ。考える時間はたっぷりあるのだ。しばし黙考したのち、ウパニはとりあえず、思いついた二つの考えすべてを試してみることにした。まず頭に思い浮かんだのは、むかつく上司よりも、もちろんかわいかったリノエラの方だった。
よし。人知れずつぶやくと、彼は全裸になって文字通り「男」を見せることにした。あの日、リノエラにせがまれてそうしたように。そしてもちろん、なんにも起こらなかった。なぜなら、ここには誰もいない。どうして? 誰に? なんのために全裸になる必要がある? 噴出する疑問とともに、失敗は明らかだった。
 ウパニは自分の姿を再認識すると、なぜか胸と股間を隠しながら、誰にともなくつぶやいた。
 「やっぱり違うか」
 全裸のまま、ウパニは深いため息をついた。そして別に、この空間では隠す必要もないことに気づいたとき、一糸まとわぬ姿でたたずむウパニの尻から天井にかけて、冷たい静寂が通り過ぎた。
 「そうか」
 だしぬけに、彼は言った。
 「駄目じゃないか。両方使わなくちゃ」
 そうだ酒だ。ウパニは水差しを手にした。やっぱりそうだ。ひとり気まずい沈黙のあと、ウパニは誰にともなくつぶやいて、手に取ったホッチキスと水差しを交互に眺めた。二つとも、冷笑めいた無機質な輝きを放っている。
 ウパニは水差しに口をつけ、ホッチキスにも同じことをやろうとして、やっぱりやめた。それから思わずウパニは水差しをとり、中のブランデーをもう一度口にしかけた。やめた。喉が渇いていたのだ。でも、だめだ。確かに、喉は渇いている。そろそろお腹が減ってきたし、意識だってまた朦朧としてきた。しかし。酒は。酒だけは、駄目だ。ウパニは堕落しそうになった自分を愧じた。
 自分に負けそうになったときは思い出せ。そうだウパニ。自分がどうしてこんなところにいるのか。もう一度考えるんだ。ウパニは非の打ちどころのない、善良な公務員だった。官吏としての能力はずば抜けていると言うわけではなかったが、小さな不正にすら手を染めたことはなかったし、見逃すこともなかった。
 しかし彼には、天が与えたただ一つの瑕疵(かし)があった。それは酒乱だ。上司に無理やり飲まされたあの晩も、やはりそうだった。酒を飲むと、記憶がぶっ飛び、周囲に暴力をふるい、ところかまわず荒れ狂った。どうしようもなかった。
それでもリノエラは、毎晩ウパニに説き続けた。あなたは優しい。あなたは優しい人だからきっと立ち直れる、と。しかし彼女だって人間だった。やっぱりいつか、限界のときがくる。
 美しかったリノエラはやがて、浮気をした。彼が出張中、二人の男と関係を結んだのだ。ひとりは郵便配達夫、もう一人は日本車のセールスマンだった。彼女は二人の「男」を見極めたあと、より、甲斐性のありそうな方と逃げた。ウパニの心は空洞になった。今ならその空洞に浴びるほどに大量の滝のような酒の雨を注いでも、許される気がした。
でも、それは間違いだった。酒をしこたま飲んだウパニは、思い直して戻ってきたリノエラとセールスマンをスパナで殴りつけ、重傷を負わせてしまった。美しかったリノエラは、顔面の半分がマヒするほど傷を負い危うく失明しかけ、急所を叩きつぶされたセールスマンは男性としては一生、不能として過ごすことになった。
 ウパニは刑に服した。情状酌量が認められ、刑期は二年で済んだ。しかし出所してきたとき、彼に残されたのは多額の慰謝料の請求と、空になってしまった住宅のローンだけだった。美しいリノエラはいなく、彼は接近禁止命令を受けた。
ただ幸い、親の遺産が転がり込んできたので、残った貯金を処分すればこれからの補償には十分な額には達しそうだった。家を売り払うと、出所したウパニは仏門に入ることにした。浮世の生活の様々が、ウパニには向いてない気がした。最初はもう死んでしまいたい気分であったし、自殺をとめられたカウンセラーから出家を勧められたときにも、素直に踏み切れなかった。しかし、考えてみると道はこれ以外に残されてはいなかった。
 半ば自暴自棄で帰依したウパニに、修業は厳しかった。何度人生を投げて泣き崩れてしまったことか。そうして長い間、修業を重ねるうち、ウパニはようやく冷静になって自分の来し方、行く方を考えることが出来るようになった。
俺は今まで、みんなに借りてきたのだ。ウパニは悟った。みんながみんな、俺から何かを奪っていく。この考え方こそが人生を貧困にした原因だったのだ。諸欲を捨て、何もかもに執着を捨ててみる。そして何かがやってくる。断食荒行を終え、塔頭に上る朝日に晴れやかに臨んだときのあの感動を、彼は忘れてはいない。風景がまるで蘇ったかのよう色鮮やかに、五感がそれを生々しく受け入れる喜びをかみしめている。ついに俺は成し遂げたのだ。ウパニはそのとき、すべてを悟った気がした。これこそ、これこそが、俺が人生で失いかけていたものなのだ。
 今、それを打ち壊してしまうような間違いを、お前はしてしまうのか。おっと危ない。ウパニは危ういところでそれを回避した。危ない危ない。たとえどうなろうと、酒だけは、飲んではいけないのだ。俺はそう誓ったではないか。ウパニは一瞬でも揺らいでしまった己に嫌悪感を覚えた。
 「そうだ」
 そのときだった。ウパニの頭に、あの日の曙光が射しこんできたのだ。どうもおかしいと思った。分かった、そう、これは試練なのだ。神が俺に与えた試練なのだ。そうに違いない。どうなっても酒を飲まぬ、と、心に誓った俺を、神がお試しになろうとしているのだ。ウパニはその瞬間、すべてが理解できた気がした。男をみせろ。そうだ。これは神の言葉なのだ。全裸のまま、ウパニは悦びに身を震わせた。そう。男だ。ここで、男をみせずにどうする。
 「みててくれ、リノエラ!」
 ウパニは叫ぶと、水差しの酒を投げ捨てた。ガラスの水差しは大きな音を立てて砕け散った。辺りに甘い酒の匂いが飛散する。悪魔の水 め。ウパニは心の中で叫んだ。再び俺の前に立ちふさがるのか。
 「おれはっ、おれはっ、負けんっ!」
 男をみせろっ!
 まるで経文のようにその言葉を唱えながら、ウパニはホッチキスを手にとった。そしてなにをするのかと思ったら、唇を思い切り引っ張り、薄く引き延ばした部分に向かってホッチキスを差し込み、唇を綴じ込もうとしたのだ。しかしもちろん、肉が厚くて簡単には針を刺せたりはしない。
「ふぉここ・・・・・・・ふぉここふぉふぃへろ・・・・」
 うめきながらウパニは、床にちらばった酒を足でさらに散らした。ホッチキスを手にもった全裸の男が異様なテンションで床にこぼれた酒で遊ぶ姿は奇妙だった。もちろん、彼は真剣である。
 そうこうするうち、ブランデーはやがてネズミ色の床で乾いてしまった。酒欲との勝負は、ウパニが勝利を収めたのだ。ついに勝った。彼は勝利の雄叫びをあげた。俺は克服した。俺は、勝ったんだ。しかし、彼はそこで重大なことに気づいた。
 ホッチキスだ。
 ホッチキスをまだ、使っていない。さっきの、唇封鎖作戦は失敗に終わった。男をみせろ。そうだ。俺はまだこいつを使って男をみせてやしないじゃないか。やれ。再び恐ろしいテンションが彼を支配した。儀式のときのシャーマンのように、彼はたたらを踏んだ。頭の隅々にわだかまる諸欲を探り当て、ウパニはやがて克服していない煩悩の正体に気づいた。そうだ、そうだ。こいつに勝たなくちゃいけない。
 ウパニは仁王立ちになると、腰を突き出した。男をみせろ。男をみせろ。この魔法の言葉を唱えると、無機質な冷たいホッチキスでさえ、まるで神の啓示を含んでいるようにすら思えた。よし。決心すると、ウパニは自分の大事な部分に手を伸ばし、それを覆っている肉の皮を限界まで伸ばすと、断頭台に迎え入れるようにホッチキスをセットした。彼の顔を一瞬、恐怖の色がきざした。OK、OK、最初は誰だって怖いんだ。がんばれウパニ。あと、ひといきだ。ウパニは自分を鼓舞し、奮い立たせた。そうだ。俺はこれで運命に勝てる。俺は男になったんだ。俺だけが神と話せる。俺が、すべてなのだ。
「・・・・・おとっ、男を、みせろぉーっ!!!」
 そこに両手を添えて、ウパニは渾身の力を込めた。

 二日間失踪していた修行僧ウパニ・ラボットが全裸でショック死しているところを発見されたのは、それから間もなくのことだった。股間の一物の皮に喰い込んだホッチキスの謎に、事件性を主張する捜査員もいなくはなかったが、そんな馬鹿馬鹿しい謎の真相をわざわざ推理したがるものもいるとは思えなかった。
 やがてこの事件は一ヶ月すると誰も話題にするものはいなくなり、二ヶ月すると、その謎の死は永久に謎のまま、忘れ去られた。

酒とホッチキス ~禁欲の箱庭から中継がつながりました。

タイトルから連想を広げたお筆先の話、口から出まかせ、アドリブで最後まで押し切ってみました。うーん、くだらない。みたところ個人的には、敬愛する故・中島らもさん(例えば、『ココナツクラッシュ』)の影響を感じさせる出来になった気が。もちろん、同じアジアネタにしてもらもさんの洒脱、自由闊達な雰囲気には及びませんが。出来たら3作目はもっと甘酸っぱくしたいです。(また今度は暗かったりして・・・・)拙作、ここまでお読み頂きありがとうございます。

酒とホッチキス ~禁欲の箱庭から中継がつながりました。

掌編第2弾です。ある方から、しょうもないテーマを頂いたので、しょうもない小説を書きました。与えられたキーワードは「お酒」と「ホッチキス」。どんなお話かは、読んでのお楽しみ、と言うことで。とにかく幅広く書いていっちゃいます。

  • 小説
  • 短編
  • 冒険
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-12-04

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