空と海と南の島

<忠邦>あの島に行きたい

「あのね、海の向こうにはね、島があるの」
 黒髪の少女は、腕を目いっぱい伸ばして、海の広さを表している。
「それぐらい知ってるよ。大陸のことでしょ」
隣にいる癖毛の少年がつまらなさそうに言う。
「そうじゃないの!」
少女は風船のように頬を膨らませた。そして、ポケットから折りたたまれた紙を取り出した。それをアスファルトに広げた。それはこの国と周辺海域が描かれた地図のようだ。
「ここ」
少女が地図の1点を指で指し示した。そこは不自然に何もない海域。島々が避けているようなそこは、水を表す青色で塗りつぶされている。
「ここにはね、だれも知らない島があるの。わたしね、いつかここに行ってみたいんだ」
熱っぽく語る少女を冷ますかのように、空から冷たい雪が降ってきた。遠い海で戦いが始まったこの日、僕たちの住む沿岸の町では初雪が降った。

      *

 草花が芽吹く季節の終焉が近づく田舎町を、各駅停車の電車が急ぐことなく自分のペースで走っている。電車は緩やかに減速し、駅がすぐそこにあることを告げる。下車する駅が近づいているので、読んでいる本にラベンダーの押し花の栞を挟んで名残惜しそうに本を閉じ、鞄に入れて席を立った。やがて電車は止まり、扉が開いた。
 電車から降りて、息を大きく吸い込んだ。いつもと変わらない、沿岸にある田舎の磯の香りが混じった自然豊かな匂いだ。
階段を上がったり下りたりすることなく、プラットホームに直結している改札を抜ければ、駅前ということもあり、申し訳程度に商店が並んでいる。町には観光地と呼べるものがないので、外来の人はこの地ではめったにお目にかかれない。そういうわけで、商店を訪れる客はここに住んでいる人ばかりだ。
 戸沢忠邦もそのうちの1人だ。並んでいる商店のひとつであるパン屋に入店した。焼き立ての食パンの香りが忠邦の嗅覚をくすぐる。商品棚の隅っこに陳列されている、パン耳が入れられた袋を持って、それをレジに小銭と一緒に置いた。店員から小銭を受け取ると袋を持って店を出た。袋を開けて、買ったばかりのパン耳をかじりながら目的地へ歩き出した。4本食べ終えた頃にそこに着いた。
  大崎製作所。
航空機の部品を製造していた子会社で、戦争が始まってからは、軍需企業の下請けとして航空機関連の部品を作っている。
「所長、こんにちは」
「忠邦か、今日は早いな」
製作所の外で、町を海に押し出すようにそびえる山をバックに、タバコをふかしている所長の大崎徹造が、不思議なものを見るような目つきで忠邦を見た。
「今日は大学の講義が午前中までだったので」
そう言ってパン耳を差し出した。
「これでよく空腹を満たせられるなあ。もっとがっつりしたものは食わないのか?」
短くなったタバコを捨て、足で踏みしめながらパン耳を咀嚼する大崎が尋ねた。
「小食なので」
「仕事中に倒れるなよ」
と言って、忠邦の肩を軽く叩いて製作所に戻って行った。忠邦も後に続いた。
 中はむせ返るような暑さだ。湿気で重くなった熱気が入る者に襲いかかる。ここだけ季節が先行しているように思えた。この製作所では、主に計器類や翼を作っている。忠邦はある理由で、バイトとしてここで働かせてもらっている。
 忠邦の担当は、旋回で重要な役割を果たすパーツのひとつである、補助翼の組み立てだ。当然忠邦1人ではない。熟練工の方々と一緒に作業をしている。このような場所で汗を流すようになったのは、あの夢が原因だ。

      *

「あの島にいつか連れてって」
 幼馴染の少女、藤堂依織の発言で、僕が最後に聞いた言葉だ。依織はこの言葉を言った翌日、冷たい雪が深々と降る寒い日に、どこかへ行ってしまった。彼女がどこへ行ったかは、いまだにわからない。
 僕たちの前から姿を消してから、8年の歳月が流れた頃に同じ夢を何度も見た。澄んだ青空のもと、依織が石を積み上げて作られた壁に座って、柔らかなロングストレートの茶髪を潮風になびかせながら海を見ている。容姿はあの日、9歳の頃とはまったく違っていた。成長しているのだ。いくら容姿が変わっても、顔立ちにあの頃の名残があり、雰囲気も変わっていない。そして、夢の終わりに決まってこの言葉を言う。
「あの島に行きたい」
ここで夢は終了だ。
 夢のことを依織と俺とよく一緒に遊んでいた高坂蓮に話した。すると、意外な言葉が返ってきた。
「奇遇だな。俺も見たよ」
こうなってしまえば、あれは夢の中の話として片づけられない。
「あれって何か意味があるのかな?」
「あるよ。絶対にある。だから依織を乗せる飛行機を作ろう」
蓮は唐突な発言内容に驚いている。
「何をわけのわからないことを。問題だらけじゃないか。まず依織はどこにいる。飛行機はどうやって作る。その資金はどこから調達する?」
「依織の居場所ならある程度まで絞れる。たぶん国家機関がらみの施設にいる」
忠邦は自信を持って言った。
「戒厳令が敷かれて警官や秘密警察、憲兵がうろうろしているこの状況下で、事件を起こせばすぐに逮捕されるだろう。なにせこんな田舎町でも、警官を見ない日はないぐらいだ。都会なら視界に入らないことはないだろう。それに依織のいた孤児院は国営だ。簡単に研究所の類に移送できるだろうよ」
蓮が少し鼻白んだように見えた。これほどまでに的確に、明確な根拠を持った説を述べたことが、それほどまでに衝撃的なことだったのだろうか。
「なるほど。で、飛行機は?」
「父さんの友人に、払い下げられた偵察機を持ってる人がいるから、その人に貸してくれるよう頼み込んでみる」
まかせろと言わんばかりに胸を叩いてみせる。
「今度の日曜に一緒に行こう」
わかったという承知の言葉を聞き、日曜日に蓮と一緒に友人がいる場所へ向かった。

      *


 待ち合わせ場所の忠邦の家から歩くこと約10分、忠邦の父の友人がいるという工場に着いた。
「よお、忠邦。何か用か?」
首にかけたタオルで汗を拭きながら、忠邦の父の友人と思しき人物が工場のような場所から現れた。
「そっちの子は友達かい?」
「高坂蓮です」
と、自分の名を言った。
「よろしくな。俺はここの所長の大崎だ。で、要件は?」
「軍から買い取った偵察機を持ってますよね?」
大崎は「ああ」と答えた。
「それって操縦簡単ですか?」
「お前、彩雲に乗る気か? それなら無理だぞ。色んな箇所が壊れているから」
「修理できないのですか?」
大崎は少し考えるとこう言った。
「直すことはできる。ただ忙しくて修理する時間がない」
「でも」と付け加えて話を続けた。
「お前らが修理するなら話は別だがな」
「修理の前に機械工学を学んできます」
 2人は大学で機械工学を学ぶことを決めた。

<蓮>ヴァニタスに支配されている

 教授が飛行機のエンジンについて説明している。しかし、今の蓮にはあまり頭に入らない。蓮は窓の外を見ている。誘惑するように揺れるカーテンの向こう側に広がるのは、青い空を風に流されて、遠いどこかに行く真っ白な雲だ。そんな青と白のキャンパスに、雲以外の白が飛び込んだ。遠く、ただ遠くを目指す紙飛行機だ。紙飛行機はキャンパスにその姿を馴染ませている。
そこにあることが当然のように。
 しかし蓮は何かに馴染んでいるだろうか。表層上の友人関係。決定に自分の意志が存在しない現実。
 それでも飛行機作りのことに関しては、自分から作りたいと思って賛同した。
本当は飛行機なんて作りたくない。そう思っている。作ることは依織に近づくことにつながる。今の蓮にとって最も近づきたくない、会いたくない人物だ。

 忠邦には言っていないが、依織がどこかへ連れさられていくところを見ていた。雪深い日の逢魔が時、軍用車に乗せられているところを孤児院の前で見た。助けようと思ったが、足がすくんでしまって動けなかった。依織を車に乗せている人は、体つきのいい軍人だ。
そのような人物が、一部始終を影から見ていた蓮を睨んだ。その視線は、蓮から一瞬にして抵抗力を奪い去った。そして蓮は見ているだけに終わった。
 依織を見殺しにしてしまった。蓮たちに出会うまで、施設にいて、内向的で友達がおらず、寂しい思いをしていた依織に、何一つできなかった。幼かったからは理由にならない。行動を起こさなかったことが問題だ。だから贖罪の意味で、飛行機修復に参加している。講義が終われば工場に行かないと。青と白の空を見ながら思った。

*

 講義が終わり、最寄の駅から電車に乗った。春の陽気が蓮を眠りの神(ヒュノプス)の世界へ誘った。そして夢を見た。また依織の夢だ。彼女を見ると、からっぽになった、自分の心のことを思わずにはいられない。蓮の心は空虚(ヴァニタス)に支配されている。それは依織がいなくなってから数か月後に気づいた。気づかなければこうにはならなかった。しかし気づいてしまった。自分が依織のことが好きであることを。いなくならなければ、決して気づくことのなかったであろう感情。それに気づくことができてよかったのかどうかは、今の蓮にはわからない。空虚な心では理解することができない。空っぽの心にそれを詰め込んでも、何の変哲もない感情にすり替わってしまう気がする。黄金が価値のない砂粒に変わるように。
 思索の海に沈んでいる蓮は、電車が駅に停まることで引きずり上げられた。上げられた場所は、蓮がいつも乗り降りする駅。それに気づいた蓮は電車から降りた。

<依織>押さえつけられたバネは反発する

 飛行場に依織が舞い降りた。しかし、彼女は飛行機に乗っているわけではない。彼女の翼には金色の翼が生えており、それで飛翔し、そして舞い降りた。翼の生えた彼女の容姿は美しいが、世界の終末に、天より遣わされた天使のような恐ろしさが内包されている。それを、彼女の両手に握られている漆黒の機関銃が引き立てている。(機関銃を片手、しかも2丁持っている時点で恐ろしいが)
「航空機を3機撃墜、巡洋艦2隻を大破させました」
 依織が上官に戦果を報告した。
「よくやった。ではいつもの部屋で休むといい」
 依織はそれ自体が発光体となっている光の翼を消した。刹那、黄金の光の残滓が舞った。残滓は夕陽に照らされて輝いた。それは終末を予感させる不吉さを孕んでいた。

*

 依織はプールに、限りなく弛緩した状態で浮かんでいる。四肢と長い髪はそれぞれが別々の方角へ伸びている。分裂するのではないかと思ってしまうくらいに。
 ここは依織が普段いる部屋。プールは浴槽であり、ベッドでもある。そこに横たわる依織は思うことがある。
 この翼であの島に行けないだろうか。ここに嫌々来て、そして体の中身を機械にして、厳しい訓練の果てに手に入れた黄金の翼。しかしそれをもってしても、たどり着くことはできない。翼の稼働時間が足りないのだ。いったいなぜこの力を得たのか。重力の鎖を断ち切り、自由で美しい空を舞い、名も知れぬ島に行くためではなかったのか。翼を得ることができるからと聞いたから、ここまで耐えることができた。でもいつまでも耐えられるわけではない。押さえつけられたバネは反発する。もう限界が近い。
忠邦、蓮、私を鳥かごから連れ出して。
薄暗い部屋で叶わぬ願いを想った。

*
 忠邦と蓮とは出会うべくして出会った。そう思っている。よく晴れた夏の日の浜辺に、導かれるように行き、そして出会った。なぜ行ったか、そこで何をしたかったのかわからない。言うなれば、神の啓示に従ったとでもいうべきか。理由など意味はない。2人に会ったかどうかが問題だ。
 忠邦は初対面にも関わらず依織に積極的に話しかけた。
蓮は人見知りのようで、視線を合わすことなく遠い水平線を見ていた。夜間に甲板で見張りをするように。
「僕は戸沢忠邦」
「……高坂蓮」
明るい忠邦と対照的に、蓮は名乗った。
「君の名前は?」
「藤堂依織」
「いおりちゃんっていうのか」
いったん間を置いた。
「一緒に遊ぼうよ」
蓮は右手を差出し、優しく強い眼差しで依織を見つめた。それは急かすことなく、何時間、何日、何週間でも答えを待つかのような目をしている。しかし依織は待たせなかった。
「うん、一緒にあそぼ!」
依織は蓮の手を取って、共に駈け出した。

<忠邦>深い青と本物の白

「これで今日の作業工程は終了だな」
 忠邦と、工場に後れて来た蓮は、彩雲と工具が散らかる工場の片隅で息をついて座り込んだ。外を見るとすでに真っ暗だ。彩雲の修復作業が終わるときは、たいてい外が暗い。工場でのバイトが終わってから、作業を始めているからだ。
「これで車輪を引き込めるようになったか」
「手順を間違えていなければな」
忠邦が運を天に任せるかのように言った。
「そろそろ帰ろう。明日も忙しいからな」
蓮が立ち上がって言った。忠邦は、蓮の発言に頷いて立ち上がった。
 2人は大崎や熟練工の方々に挨拶してから外に出た。空を見上げると、星々が燦然と輝き、夜空を美しく飾っている。星空を見る2人を夜風が撫でる。夏が近いとはいえ、海から吹く風は冷たい。
「あの星々に少しでも近づけるかな?」
忠邦が言った。
「近づけるに決まってる。飛行機を修復しようって言い出したのはお前だろ。だから弱音なんて吐くんじゃない。
 沈黙。
それは決して重苦しいものではない。
「どうした? 何か言ってみろよ」
「いや、蓮からそう言われてちょっと驚いてしまった」
「まったく心外だな。俺だって言うときは言わせてもらうぞ」
「ふん」と鼻を鳴らして海を見た。
暗くてよく見えないが、何の変哲もない普通の海だ。ただ月の引力に従って潮が引き、そして押し寄せる。星の運行も変わらない。一定のリズムを刻んで、決められた動きを繰り返す。これは戦争が始まっても変わらないもの。
 「ありがとな」
「えっ」
唐突にお礼を言われて、蓮は驚いた。
「突然どうした?」
「励ましてくれたお礼だよ。もう弱音なんて吐かない」
忠邦の目は力強く輝いている。
「そうか」
蓮はそれだけ言った。

      *

 忠邦は鴉の鳴き声で目を覚ました。
今日は大学に行かなくていい。
それなら工場に行って、彩雲の修復に取り掛かるのだが、今日は違う。
それは昨日のことだ。
 機械工学の講義が終わり、僕は鞄にノートとペンケースを入れて、製作所に行こうとした。
「ねえ忠邦、この後空いてる?」
突然隣の席の女の子に話しかけられた。
 少女の名は葛西鈴音、僕の数少ない女友達だ。
黒髪のサイドポニーテールで、髪質の良さそうなサラサラの髪。
二重まぶたで、瞳は新緑のような活力に満ちていて、目尻が少し垂れていて愛らしい。
「うちに来ない?」
 鈴音がこちらの目を覗き込むように見つめている。
内面を見透かしているような目をしていて、口角は上向きで微笑を浮かべている。
鈴音の家は僕と同じ町にあり、喫茶店を営んでいる。
彼女は喫茶店に来ないかと暗に言っているのだ。
誘いを断ろうかと思ったが、彩雲の修復作業を始めてから付き合いが悪くなった気がするので、翌日なら行けると言った。

      +

 カランカランとドアを開けたときに鳴る、軽快な鐘の音を立てて喫茶店に入ると、通りに面した窓際の席に座った。通りの両サイドに植えられた街路樹の桜並木の薄いピンクが、活力に溢れた新緑に押されている。季節は着実に夏へと向かっている。
「何にする?」
 声のする方を見ると、そこにはウェイトレス姿の鈴音がいる。澄み渡る青空のような笑顔で、忠邦を見ている。
「そうだな、じゃあカプチーノで」
「かしこまりました」
と言って店の奥へ戻った。
 忠邦は店内を見渡した。客は他にいない。壁には空の写真が飾られている。鈴音は空が好きで、時折写真を撮っている。薄明の空、月虹、ブルーモーメント。フィルムに切り取られた空はどれも美しい。そしてどれも個性がある。同種の美しさを持つ写真はない。
 僕が窓際の席を選んだ理由は、彼女が一番気に入っている写真が見えやすいからだ。僕自身も気に入っている。深い青と本物の白。それは、成層圏と眼下を雲海のように流れる雲の写真だ。飾られている写真のうち、これだけが唯一雲を上から撮ったものだ。
「忠邦もその写真好きなんだね」
 鈴音がカプチーノを僕の前に置いて、向かい側に座った。
「うん。白い雲と濃紺の宇宙とのコントラストが綺麗だからね」
高度11000メートルで、知り合いの飛行機に乗せてもらって撮影したらしい。
「本当はもっと高いところから撮りたかったけど、息苦しくなったからこれが限界だったの」
 成層圏か。
依織にも見せてあげたいな。
 僕は窓越しに空を見上げた。
青色が追いやられ、灰色が空の大半を占めている。
梅雨の到来はすぐそこまで迫っている。

<蓮>これだけしか機能がない機械

 雨粒が雨樋を伝い、屋根を叩くことが日常になる時期、蓮はひたすら飛行機に接していた。まるで同じことを繰り返す、壊れた機械かのように。工場内を覆う湿気が不快指数を高めて作業の妨害を試みている。しかし、そのようなものに慣れている者にとって、大した敵ではない。黙って作業をして、戦局の泥沼化によって高まる需要に応えている。
「休憩の時間だ。手を休めて昼飯を食うぞ」
 それを聞いた熟練工たちは、待ってましたと言わんばかりに、自宅から持って来た弁当に飛びついた。蓮も自分で作った弁当を、外の風景を見ながら食べた。
 外は相変わらず雨が降り続いている。雨音のおかげで、すぐ近くにある海からやってくる潮騒が聞こえない。アスファルトのくぼんだところに水たまりができている。
 蓮の脳裏に、傘を持って水たまりを飛び越える依織の姿がよぎる。飛び越えた依織は、後ろを振り向いてにっこりと微笑むその姿は、他のなによりも可愛らしい。
 いつまでもこのようなことを考えていることに、蓮自身が驚いた。これほどまでに、依織に対する執着心が強いとは、思いもよらなかった。どうやら心の中身は、あの頃に置いてきてしまったようだ。依織には今すぐにでも帰ってきてほしい。でないと、ヴァニタスはいつまでも存在し続けてしまう。早くこの空白を埋めてしまいたい。

<依織>悲しみはいつも遅れてやってくる

 乾いた銃声が響き渡る。引き金を引くと、禍々しく金に輝く銃弾は的を貫く。排出された空薬莢は、むなしく転がっている。
 ここは射撃訓練所。標的をひたすら撃つ。それだけだ。それが戦闘のために存在する機械人形の宿命だ。
 それは今でこそつらいものだが、かつてはそうでもなかった。悲しみはいつも遅れてやってくる。
 両親が死んだときもそうだ。両親が飛行船の事故で亡くなった後、依織は国営の孤児院に保護された。そこで初めて孤独というものを知った。孤独は絶望を用いて、幼い心を侵食した。絶望は燎原の火のように広がり、心の中にしまっていた大切なものを、無慈悲に焼き払っていく。後に残されるのは無価値な灰。
織はそれに耐えられなかった。それから逃げるように外に出た。そして海岸で2人と出会い、心は再び温かいもので満たされた。

<忠邦>夏は虚構を見せるらしい

 梅雨が明けて酷暑の夏がきた。僕たちの住んでいるこの町は、山に三方を囲まれていて雲が滞留しやすく曇った日が多い。雨が降れば長い間そのままだ。
 しかし夏は別問題だ。雲ひとつない青空がどこまでも広がっている。こんなときこそ曇っていてほしい。
 駅から大崎製作所まで、さほど離れていない。しかし、数分歩いただけで、汗は放水するダムのように流れ続ける。
 遠くの海を見れば、陽炎で揺らぐ視界に、存在しない島が浮かび上がっている。道路を見れば、決して近づくことのできない逃げ水が、虚構の存在を示している。
 まるで依織のようだ。どこにいるのか、本当にいるのかもわからない人のために、飛行機を修復している。それが依織に近づいているつもりで、実は遠ざかっているのかもしてない。
 だが、虚構を見ていると、こうも思えてくる。夏の虚構に混じって、依織が現れそうな気がする。揺らぐ陽炎からそっと姿を現す、そんな情景が忠邦の視界に映った。夏は虚構を見せるらしい。だめだ、そんな幻覚に惑わされてはいけない。そう思い、視界から幻覚を追い払った。
そして工場に歩を進めた。

      *

 天気が良すぎて、工場内は相当暑い。
「燃料タンクの取り付けってこれでいい?」
汗で額を濡らした僕は、エンジンをいじっている蓮に尋ねた。
「ああ、問題なしだな」
 大学に入って2年目の今年の春から修理を始めたが、順調に作業が進んでいる。修理前と比べて、作業の進捗具合が目に見えてわかる。
「このぶんだと、完成は今年の晩秋だな」
忠邦は満足げな表情を浮かべて言った。
「そうだな」
 そう言って蓮は感慨深そうに外を見た。忠邦に振り切られた陽炎が、恨めしそうに揺らいでいた。

<蓮>まだ何も知らない無垢で深い瞳

 カランカランと、来店を告げる小さな鐘が鳴った。駅前にある小さな喫茶店に蓮は訪れた。
「あら蓮くん、いらっしゃい」
テーブルを拭いていた鈴音が、蓮の存在に気づいた。
「お好きなところにどうぞ」
と鈴音が言ったので、成層圏を撮影した写真の近くに腰かけた。そして、エスプレッソとトマトレタスサンドを注文した。
 ここへは、鈴音に顔と名前を覚えられるほどよく来る。店の雰囲気が落ち着いていて好きだからだ。これからいつものように工場へ行くのだが、少々時間があるので、避暑と3時のおやつのために来店した。
 蓮は窓越しに外を見た。遠くに小さな浜辺ときれいな汐。
 海を見ていると、否応なく依織のことを思い出してしまう。それは一種の呪いのように。いつまでも蓮を追いかけてくる。あの日の報復のために。
 依織とはあのような別れ方をしたが、出会いはよかったのかもしれない。

      *

 とある暑い夏の日のこと、蓮と忠邦は小さな浜辺で遊んでいた。蓮の方が1歳上で、家が向かい側にあり、忠邦とは小さいときから遊んでいた。この日も浜辺に遊びに行くと、見慣れた情景に変化があった。
 渚に1人の少女が立っている。白いワンピースを着て、青いリボンがついた麦藁帽をかぶった黒髪の少女。どことなく清楚な印象を与える。少女の足を海水が撫でる。
見かけない子。
そう蓮は思った。
 ここは小さな田舎町で、顔見知りが多い。子どもなら尚更だ。田舎なので、遊ぶ場所が少なく限られている。しかし少女は、海でも山でも空地でもみたことがない。
 そんな少女に忠邦が話しかけた。
「ねえ、君はどこに住んでいるの?」
いきなりそのような質問をぶつけた。少女は戸惑っている。焦点は海を漂う漂流物のように、瞳の中を彷徨っている。急に知らない人に話かけられたのだから仕方がない。
「あ、えっと、孤児院に……」
「あ、あそこの孤児院か」
忠邦は山の方を指差した。山の麓には国営の孤児院がある。
「うん」
少女は控えめに言った。
「まだ名前言ってなかったね。僕は戸沢忠邦」
忠邦が蓮に自己紹介するよう、目で促した。
 人見知りの蓮は、躊躇いがちに名乗ろうとした。そのとき少女と目が合ってしまった。まだ何も知らない無垢で深い瞳。思わず目を逸らして、海の方を見てしまった。なんとか勇気を振り絞り、顔をこわばらせながらも少女を見た。
「……高坂蓮」
と名乗った。
「藤堂依織」
少女も名乗った。
「いおりちゃんっていうのか」
 そして忠邦は一緒に遊ぼうと誘った。力強い瞳で見つめ、優しく手を差し伸べた。蓮は忠邦がそのような、強い瞳を持っていることを初めて知った。そんな瞳を見た依織が、差し伸べられた手を取った。そのときの依織の瞳は、キラキラ輝いているように見えた。
 このときから3人の日々が始まった。まだ見たことのない知らない毎日が。

      *

「注文は以上でよろしいですか?」
 いつの間にか蓮の前に、コーヒーカップに淹れられたエスプレッソと、白い皿に載っているトマトレタスサンドが置いてあった。
「あ、ああ」
鈴音はどこかへ行った。
 蓮は腕時計を見た。まだ時間に余裕がある。これからスパナを握る右手でサンドイッチを手に取った。

<依織>今から会いに行くよ

 紅く色づいた葉が、木を離れ、地面に紅蓮の絨毯が敷かれた頃、遂に修理作業の全工程を終えた。忠邦はそのことを大崎に伝えた。大崎は顔をほころばせ、手を叩いて喜んだ。
「じゃあエンジンの稼働テストをやろうか」
「はい」
2人そろって返事をした。
 「ところでどっちがパイロットなんだ?」
彩雲は2人乗りだ。もしパイロットにならなかったら、依織とあの島に行くことができなくなる。
「忠邦、お前が乗れ。ブランクが短いからな」
大崎が忠邦を指名した。
 全ての中高生は、いつでも徴兵されて戦場に行けるように、実銃を用いた射撃訓練か、実際に陸海空軍で使用される練習機で、飛行訓練を受けることのどちらかを義務付けられている。2人とも飛行訓練を受ける方を選択していたが、1歳年上の蓮より忠邦の方が飛行機の操縦から離れていた期間が短い。
「そう言われれば断れないな。わかった、僕がパイロットをするよ」
 蓮は複雑な表情で忠邦を見た。悲しみ、怒り、喜び。どれを表す表情か、読み取ることができない。
 エンジンを暖める暖機運転の後、プロペラが回りだした。
「補助翼、方向舵、昇降舵、どれも問題ありません」
「よくやったじゃないか。じゃあ彩雲はお前らにやるよ」
返事も聞かず大崎は休憩室へ行った。

      *

 11月のある日、私は敵機襲来の報告を受けて出撃した。敵機を発見した空域で見たのは10機の戦闘機の編隊の姿。
 私はそれを見ても退かなかった。2丁の機関銃は戦闘機の機銃の口径より大きい。これなら勝てると思って戦った。
 しかし連戦で疲れていたのだろう。まともにメンテナンスもせずに、戦いつづける日々を送っていた。
 それは急に訪れた。目の前の景色が形を失い、原初の混沌へと戻っていく。戦闘中に意識が、暗闇に潜んでいた深淵の大きな口に飲み込まれてしまった

      *

「彩雲はいつでも動かせるようになったけど肝心の依織がいないな」
「いったいどこにいるんだろうな」

ここにいるよ。

「まあどうにかなるって」
「相変わらず楽観的だな。でもどうにかなると信じておこう」

大丈夫、どうにかなるよ。

「それにしてもいったいどんな島なのかな? 綺麗な島かな?」
うん、とても綺麗だよ。

待ってて、今から会いに行くよ。

      *

 私は深い眠りから目を覚ました。体の負担が大きすぎて、今日まで昏睡状態に陥っていたようだ。毎日丁寧にメンテしなければならず、それを怠ったから、長期間昏睡状態が続いたのだろう。私はプールから体を起こした。
「忠邦、蓮、待っててね」
ハンガーにかけられている軍服を着て、2丁の機関銃を持ち、窓を開けて4階の窓から、黄金の翼を広げて12月の夕焼け空を飛翔した。2人のいる場所が不思議とわかる。ボロボロのこの体で、よく知る海辺の町に帰ることができるかわからない。それでもそこに可能性があるのなら、どこまでも飛んでみせる。

<忠邦>美しい世界は言葉で飾るものではない

「へえー、すごいな。人型生体兵器が戦果を上げたんだってよ」
 忠邦と蓮が彩雲の整備をしている後ろで大崎が新聞を読んでいる。
「そろそろあの子の様子を見に行くか」
「あの子?」
「昨日工場の近くで倒れていた少女なんだが、機関銃を2丁も持って空軍の軍服を着ていたからたぶん軍人なんだと思う。で、今は休憩室のソファーに寝かせているんだ。病院に連れて行こうと思ったが、日付が変わりそうな時間だったから開いてなかったんだよ」
 そう言って所長は休憩室に入った。数分後、忠邦と蓮は所長に休憩室に呼ばれた。2人は手に持っていたスパナを置いて休憩室に入った。部屋で見たものは2人を驚かすには十分だ。
 ソファーに座っているのは軍服に身を包んだ黒髪の少女。忠邦は知っている。蓮も知っている。夢で見ている。間違いなく藤堂依織だ。
「久しぶり。別に病気とか怪我で倒れたわけじゃないよ。ちょっとおなかが空いただけ。生体兵器の体は病気になるほどやわじゃないよ」
 サンドイッチを片手に依織が言った。
「せ、生体兵器!」
3人は仰天した。そのような状況で素早く行動を起こしたのは忠邦だ。
「所長、今すぐフライト許可は下りますか?」
「わからんが軍と掛け合ってみる」
 と言って部屋の片隅に置いてある電話の受話器を取って番号を押した。
 やり取りは1分ほどで終わった。
「今すぐにでも飛ばしていいとのことだ」
 大崎は昔の縁で軍との関係が深いらしく、このように短いやり取りでこちらの要求がすうなりと通ってしまう。それがどのような縁なのかはわからない。
「よし、すぐに準備だ。飛行服に着替えろ」
大崎は飛行服を忠邦と依織に手渡した。
 忠邦と依織は飛行服に着替え、エンジンを暖めてから飛行機を滑走路に移動させた。工場の敷地内に大崎の趣味で作ったという滑走路がある。大した長さではないが、彩雲は短い空母の滑走路で運用される艦載機として生産されたものなので問題ない。
 依織が後部座席に座り、忠邦はコクピットに座った。シートが軋み、もっと丁寧に扱うよう抗議した。忠邦は意に介さず、各部位が正しく動くか確認した。
「補助翼よし、方向舵よし、昇降舵よし、エンジンも問題ありません」
 2人は飛行帽をかぶり、ゴーグルをかけた。エンジンがうなり、高速でプロペラを回している彩雲を前進させた。
速度がどんどん上がっていく。滑走路の端で蓮と大崎がハンカチを振っている。離陸可能速度に達したので、操縦桿を引いた。粉雪が降る田舎町に深緑の機体が舞い上がった。優れた上昇性能を持つこの機体はあっという間に2人を大空に誘導してくれた。
「速度計、高度計、ともに異常なし」
 忠邦は計器類を確認してさらに高度を上げた。海上に出れば敵機と遭遇する可能性が高いので、少しでもリスクを低減させるために高高度を飛行する必要があるからだ。
「依織、酸素マスクをつけて」
先にマスクをつけた忠邦が言った。依織は無言でうなずいてマスクをつけた。
 高い数値を目指して回り続ける高度計の針を見て忠邦は心臓の高まりを禁じ得ないでいた。厚い雲を抜ければ写真で見たあの美しい世界が待っている。早く雲を抜けたくて速度を上げようとしたが、すでに最高速度に達していた。
 成層圏までもうすぐだ。あと少し。あと少し。
 僅かに明るい光が見えてきた。そして遂に雲を抜けた。そこには天にあるはずの雲が地面になり、写真でみた濃紺の宇宙が空になっている。
 忠邦は操縦桿を元の位置に戻して機体を水平にした。針路上にあるのは美しい青の世界。
「依織、綺麗な場所だね」
「うん」
 それから互いに何も語らなかった。美しい世界は言葉で飾るものではない。そのことをわかっているからだ。静かに地図で見たあの海域を目指して飛び続ける。
 成層圏に突入してから1時間が経過した頃、依織が言った。
「後ろに敵がいる!」
忠邦は驚いて背後を振り返った。そこには2機の敵国の戦闘機。非武装の偵察機である彩雲に戦闘能力はなく、ひたすら逃げるしかない。彩雲には逃げ切るだけの性能がある。
高空でも性能が落ちないように過給機を搭載している。
 しかし相手はプロのパイロットだ。未熟な忠邦とは違う。
「くそっ!」
このままではまずい。落される。
 そう思ったとき、風防が開いた。ゴーグルをかけていなければ目をあけていられないほどの風が、コクピット内に吹き込んだ。
「ちょっと行ってくる」
「待って!」
忠邦の制止の言葉を聞かず、大空へ美しさと神々しさを兼ね備えた黄金の翼をはためかせて敵に向かっていった。

<蓮>ヴァニタスは温かい何かで満たされた

 蓮と大崎は滑走路でハンカチを振って2人を見送った。彩雲が灰色の空に吸い込まれたのを確認すると、海に走り出した。大崎は突然の出来事にびっくりして何もできなかった。蓮はとにかく走った。全速力で走った。目的地は始まりの小さな浜辺。3分ほどでそこに着いた。
 浜辺を見渡すと白いワンピースを着た依織が渚で佇んでいる光景を思い浮かべてしまう。今の蓮にはそれが苦痛でしかない。それは当然のことだろうと蓮は思う。贖罪ができなかったのだから。蓮にとっての贖罪とは飛行機を修復して、その飛行機で依織をあの島に連れて行くことだ。しかしそれがもうできない。贖うことも裁かれることも。
「蓮が何をしたというの? あなたは何も悪くないよ」
 依織の声が聞こえて思わず辺りを見た。
「ここにいるよ」
依織は正面にいる。先ほどまで何もなかった空間にいつの間にか現れた。白いワンピースを着て黄金色の翼を広げている。彼女はまるで天使と形容しても不自然でないほどの美しさと神々しさを備えている。しかし彼女の輪郭はぼんやりとしていて、この世のものでないような印象を与える。
「蓮、あのことはあなたに責任はない。誰にもないの」
 依織の言葉は温かく、空っぽの心に浸透していく。しかし冷たいヴァニタスはそれを拒む。
「いや、何もしなかったこと自体がすでに罪なんだ。だから……」
すべてがどうでもよくなった。すべてがくだらないものに思えた。すべてがモノトーンに感じられた。だから……
 そのとき、乾いた音が頬にはじけた。
「バカ、いま死ぬことを考えたでしょ! それが謝罪? 贖い? そんなことで解決するはずないじゃない。なに勝手に自分の中で始めて自分の中で終わらせているの! いい加減つまらない罪悪感から離れなさいよ!」
 罪悪感。
それに逃げ込むことで依織を助けられなかった無力感から身を守った。しかし罪悪感が防壁として働くには心の中身がエネルギーとして必要だった。そして心はヴァニタスに支配されるようになった。
 だがそれもそろそろ終わりにするときが来たのかもしれない。
「だから、もう自分を肯定してもいいんだよ」
「そうだね、依織。もう否定しなくてもいいんだね」
ヴァニタスは温かい何かで満たされた。

<依織>それは覆しようのない事実

 彩雲が地を離れた。見送る2人。操縦桿を力強く握る忠邦。彩雲は急角度で上昇を始めた。いつもの依織なら何ともないが、今では苦しく感じられる。上昇する機体は2人をがたがたと揺らす。
「依織、酸素マスクをつけて」
 先にマスクをつけた忠邦が言った。そのようなものが不要な体だが、それを装着した。濃密な酸素が肺へ送られる。
 揺れる彩雲は厚い雲に飛び込んだ。そこは白の世界。白以外の色が存在しない排他的な世界。異分子である深緑が飛び込んだ瞬間、強い振動が襲いかかった。それは異端を弾圧する頑迷な信者のように、彩雲を追い出そうとする。それに屈することなくさらに上へ、雲の先を目指す。
 離陸してから30分以上かかって遂に厚い雲を突き抜けた。そこは蒼の世界が広がっている。さすがに空で戦っている依織とはいえ成層圏まで高く飛翔していない。成層圏は初めて足を踏み入れる世界だ。蒼がどこまでも広がっている。果てしなく広がっている。
 ここに身を置いていると、自分がちっぽけで無力な存在であることを突きつけられている感じがする。それは覆しようのない事実。冷厳な現実について思っていると、依織の頭の中に警報が鳴り響いた。
長い間戦場に身を置いていると備わる危険察知能力。それが敵の襲来を告げた。依織は後ろを見た。そこには2機の敵機がいた。
「後ろに敵がいる!」
 忠邦は驚いて後ろを振り返った。敵の存在を認識すると、フルスロットルで逃走を図った。彩雲は600キロ以上出せる高速偵察機だが、敵機は追いすがり距離を詰めてくる。敵は高速の敵に追いつく方法を知っているようだ。このままでは間違いなく落とされてしまう。
 依織は意を決した。いきなり風防を開けて言った。
「ちょっと行ってくる」
まるで近所のお店に買い物に行くことを伝えるように言って、体の脇に置いていた2丁の機関銃を手に取って酸素マスクを外して大空に躍り出た。
 依織の武器は大口径の機関銃だけではない。機動力だ。航空機にはまねできない動きで何度も敵を葬ってきた。
 今回もそうだ。
正面から迫る敵機を横に受け流して側面に回り込んだ。
そして弱点のひとつであるコクピットを撃った。
赤くなったコクピットの敵機は海に落ちていった。
もう1機も同じように仕留めた。
「敵がたったの2機でよかった」
 依織は安堵した。
これ以上は戦えない。
体が限界だと痛みをもって告げている。
お前はもう生きられない。これは覆しようのない事実だ。
と言う。
 右腕に激痛が電流のように駆け抜ける。内部から破壊されていくような錯覚を覚える。あまりの痛みに右手で持っていた機関銃を落としてしまった。そんなことは気にせずに彩雲に戻って行った。

<忠邦><依織>井戸に落ちて異土に至るように

「高度を下げて」
 戦闘から帰還したばかりの依織が言った。
「わかった」
再び厚い雲に身を潜らせた。乱気流が彩雲を揺さぶる。振動が弱っている依織を脅かす。
 依織は覚悟した。
「依織、顔色悪そうだけど大丈夫?」
依織は頷いた。
「青ざめた顔してよく言うよ」
そこまで顔に出ていることに自身が驚いた。隠すことが叶わないのならここで言ってしまおう。
「ねえ、もう私ダメみたい」
諦観の念を吐き出した。
「右半身の間隔がもうないの。今も左側に無感覚が侵食している」
「なんとかできないの?」
蓮が言った。
 冷静さを取り繕っているが、内心の動揺を隠しきれていない。
「もう無理だよ。後は死があるだけ」
 抗う必要はない。ただ受け入れるだけ。あの島を見ることができるのなら未練はない。
「それは自然なこと。井戸に落ちて異土に至るように。悲しむことなんてないよ」
「悲しいよ。せっかく再会できたのにのにこんな形で依織を失うなんて」
「これは喪失じゃない。ただ別の世界に行くだけだよ。いずれみんないくところにね」
 忠邦は「それは詭弁だ」と言いたいところだが、それを抑えた。
これ以上何かを言って依織の穏やかな終焉の邪魔をしたくないからだ。
 彼女は死を是として受け入れている。それは当然のことのように。季節が移り替わるように。
 雲を抜けた後、2人の前に現れたのは青い海だ。成層圏の蒼色とは違う性質の青。
海の青は空の群青(ラピスラズリ)と同様に延々と広がっているように見えた。
 空の蒼と海の青。
水平線で区切られた両者は互いの美しさに嫉妬せず、それぞれの領分で争うことなく美を誇示している。
 視界の先に白っぽい島が浮かんでいる。
「あれが私の見たかった島」
「よし、もうちょっと近づいてみるか」
距離が縮まるにつれて島の全容がわかってきた。島の大きさは小さく、鳥が翼を広げたかのような形をしている。砂ばかりで草木は見当たらない。
「あれはね、隆起した珊瑚でできているの」
高度と速度を下げて島をよく見た。確かに普通の砂ではない。粒の大きさが砂よりも大きく白い。そして普通の砂浜よりかなり綺麗だ。白い砂が南国の眩しい陽射を反射してさらに白く見える。
「依織、こんなにきれいな場所を教えてくれてありがとう」
 返事はなかった。僕は後ろに座っている依織を見た。依織の目は眠っているかのように閉じられている。寝息はない。島に辿り着いたときに、死ぬことをプログラムされているかのようだ。それぐらい彼女の顔は安らかだ。
「おやすみ、依織」


―fin―

空と海と南の島

空と海と南の島

名も知れぬ島に行きたいという少女と、2人の少年と、民間に払い下げられた偵察機を巡る話。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-12-04

Copyrighted
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  1. <忠邦>あの島に行きたい
  2. <蓮>ヴァニタスに支配されている
  3. <依織>押さえつけられたバネは反発する
  4. <忠邦>深い青と本物の白
  5. <蓮>これだけしか機能がない機械
  6. <依織>悲しみはいつも遅れてやってくる
  7. <忠邦>夏は虚構を見せるらしい
  8. <蓮>まだ何も知らない無垢で深い瞳
  9. <依織>今から会いに行くよ
  10. <忠邦>美しい世界は言葉で飾るものではない
  11. <蓮>ヴァニタスは温かい何かで満たされた
  12. <依織>それは覆しようのない事実
  13. <忠邦><依織>井戸に落ちて異土に至るように