窓 2.たくさんのおにぎりを握った夜
ただ一日中、窓の外の空を眺めている。空が明るくなって暗くなるのを眺めるだけ。
身近な人の死を見た日から、そうしている事が多くなった。浮かんでくる景色が思い出なのか、ただの夢なのか。
窓を眺めながら浮かぶ景色を、言葉を、書いた日記みたいな物語。第2話。
2.たくさんのおにぎりを握った夜
「窓あげたからさ、おにぎりくれん?」
これも彼の意味の分からない言葉である。
彼の部屋の窓を手に入れたらしい私は、とりあえず窓辺に座って空を見ていた。
朝でも昼でも夜でもない16時半の空は、その時の私の心情と妙にマッチしていたことを覚えている。
「窓から見る空ってさ、無料の映画見てるみたいじゃない?」
ただ、貧乏なだけなのだろうかと思った。
でも彼の楽しそうな横顔を見て、何とか理解しようと展開の無さすぎるその映画をしばらく見つめていた。
あ、鳥。と私が思ったと同時に彼が声に出していた。
本当の映画を見るよりも良いかもしれないと思った事を彼には一生言ってあげないでおこうと誓った。
「星くん元気?」沈黙を破るように私は聞いた。
「うん。おにぎり食べ過ぎて体調崩してたけど、最近は元気。ドッグフード無理やり食わしてるから」
「え?犬っておにぎり食べるんや」
星くんのおにぎりを食べる姿がどうしても思い浮かばなかった。
「ばあちゃんが何を思ったかある日星くんにあげたらしい。そしたら星くん、おにぎりの魅力に憑りつかれてしまって。暫くおにぎり中毒。」
「おにぎり中毒」
何となく私は声に出してみる。
「そしたら下痢とか嘔吐とかし出して、病院連れてったら怒られた。もうドッグフードしか食べさせるなって。最初はドッグフード見てこんなもん食えるかって顔してたけど、さすがに空腹に耐えれんくなって食ってたわ。もう忘れてるはずや、おにぎりの事」
星くんのおにぎりを食べる姿はやっぱり想像できなかったけど、あの首に付けた星のバンダナにご飯粒を付けている星くんを彼の声を聞きながら愛しく思った。
「元気なら良かった。」
「元気やで」
少し間ができて、あの日の事を聞いてみたくなった。
「あの日さ、星くん何で私のスカート引っ張りに来たん?」
彼は空を見ながら笑いながら答えた。
「さあ。おにぎりの海苔に見えたんちゃう?あ、あのさ、窓あげたからさ、おにぎりくれん?おにぎりの話してたら食べたくなった」
窓のお返しにおにぎりをあげるという謎のギブアンドテイクに私は暫く固まった。
彼の想像しているおにぎりはきっと手で握ったおにぎりだろうと予想した。炊き立てのご飯をボールに入れて冷まして、ふりかけをかけたり、海苔を巻いたりする、あの三角形のおにぎりだろうと。
そこまで想像すると、窓のお返しのおにぎりは、そんなに変なギブアンドテイクじゃなく思えてきた。
「じゃあ、台所借ります」
恐る恐るそう言ってみた。
「うん。ありがと」
笑顔を向ける彼を見て、予想が当たったんだとほっとした。
台所に立ってみて知らない人の家だったんだと気づいた。料理をしている感じのない台所。炊飯器とレンジがぽつんとあった。
「あ!ご飯だけは炊いてるから、安心して」
思い出したように彼が窓から振り返って言った。
「ご飯だけって何」
私が言うと、彼はにやけた顔をして、また窓の方に体を向けた。
3合炊きの炊飯器に半分程残っていたご飯で私はおにぎりを握り始めた。
あの日の夜の事を思った。
葬儀を終えた夜、父と母と私と弟はくたくたになって家に帰った。
線香の匂いに包まれた場所から帰った家は泣きたくなるほどほっとした場所だった。ずっとここに帰りたかったんだと思い知った。ここへ帰してはくれなかった兄を襲ったすべての出来事を無くしてしまいたいと思った。
父はぐったりとソファに座り、テレビを付けた。弟もテレビの前に力なく座り、二人はぼんやりとテレビを見始めた。
母は台所に立ち、おにぎりでも握ろうかと力なく言った。その時私がどうしていたかは、どうしても思い出せない。母はお米を洗って炊飯器にセットすると、炊けるまで待とうと言ってリビングに行った。
父と弟はいつの間にか眠っていて、母は二人に毛布を掛け、自分も横になった。
ご飯が炊ける音がした。
リビングには父と母と弟が死んだように眠っていた。死んだのかもしれないと思った。
人の命が目の前で終わるのを見て、目に映る命すべてがふんわりしていた。軽かった。
私はその夜、皆が死んだ世界の真ん中で、一人たくさんのおにぎりを握った。
「俺さ、弁当に入ってるふやけた海苔のおにぎり好きやった」
私の握った俵型のおにぎりを頬張りながら彼が言った。
私は三角形のおにぎりではなく、俵型のおにぎりを握った。母のおにぎりはいつも俵型だった。でもあの夜、私は三角形のおにぎりを握った。その日を忘れないようにか、ただいつか見たドラマの映像を再現したかっただけなのか、分からないけど。
「それって三角形?」私は彼に聞いた。
「うん。でもこの形もええな。江戸時代みたい」
「何それ」
「ふはは」
窓 2.たくさんのおにぎりを握った夜