ステレオキング
伝染性のある精神の分裂病だという。
気分がハイになったり、かと思うと、急に塞ぎ込んだり、飯田さんは面白い人だった。
面白い人だとは思ったけれど、長いこと一緒にいると疲れそうな人だなと思った。
彼と会うときは必ず防護マスクと専用の防護服を着てからでないと、まず許可が降りない。
伝染性がある、なんていうものだから、みんな直に彼と話したがらないし、彼がいる保護室にも、誰も入ろうとしない。
なんで僕がわざわざそんなリスクまで負って彼と話さなければならないのかと言えば、僕が彼の監視係で世話役だったからだ。
彼は自分の事をキングと呼ぶ。キングとは文字通り王様という意味らしい。なんとも不遜蕪村な一人称。ここから僕も彼のことを飯田ではなくて、キングと呼ぶ。
キングには翼が生えている。立派な真っ白い大きな翼が二枚、肩甲骨のあたりから生えている。
頭の上には金の輪っかが浮かんでいる。ふわふわと滞空して、彼が一時、ハイな日が続いていた頃などは、そこらじゅうに金の輪っかをぶつけて、そのうち壊すんじゃないかとハラハラした。
今日はかなり落ち着いているというから、多分ローな日だ。最低な日。大体、どんより曇った日とか、雨の日とか、暗い日に陥りやすいらしい。ハイすぎるのもローすぎるのもめんどくさいけれど、ローの時はまだ人の話は聞いてくれるからいい。そもそも、自分のことをキングだなんて言っちゃう奴だ。まともになったって、多分かなり面倒くさい。
「飲んだ缶はちゃんと捨てた方がいいよ、施設の人、困ってたから」
キングは足に動けないように枷をつけられていた。ここにきた時は背中の羽も真っ白だったけれど、日に日に黄ばんで、今はマーガリンみたいな色になっている。彼の目は黄色く、中性的だった。
「おお、いっちゃん、来てたん?」
え、いっちゃんって誰、と僕は聞こうと思ったけれど、その前に笑いが込み上げてきて、口元を腕で隠すので誠意一杯だった。
「ああ、いいんだよそんなの、俺がいなきゃ研究成り立たないから、好き放題やって」
彼と話していて返す返す思うのだけれど、背中の翼と、野太い声さえなんとかなれば、結構イケイケだったんじゃないかと思う。
中学生くらいの時、酒とタバコと、それから、あの、あまり大きい声では言えない不思議な葉っぱの煙を吸いすぎて、喉がやられてしまったそうだ。
なかなかヘビーな過去だけど、彼は楽しそうに話す。
楽しそうに話すといえば、彼は三国志が結構好きなのだ。黄巾の乱から蜀の関中取り、呉との仲違いから魏への遠征、劉備の死から諸葛孔明と司馬懿仲達の知恵合戦、話し出したら三時間ぐらいは止まらない。
そうなってくれれば楽なのだけれど、今日は無理だと思う。青白い顔と目の下の隈でなんとなく分かる。今日はローの日だ。そういえば、季節外れの大雨だ。一週間ぐらい、ずっと続いてる。
「今日も雨だな」
保護室の小さな窓の外からは暗い雲と白い雨の粒がぼんやりと見えた。雨垂れの音は聞こえないけれど、暗い部屋の天井では豆電球がオレンジ色に光っている。
「だね」
前々から思っていたことの二つ目。
空は飛べないのかという疑問。
思えば聞いたことがない。何か触れてはいけないことなのかと勘繰ってしまって何も話せない。
彼は人間にものすごく近いかもしれないが完全に人間という訳でもない。完全に人間でないくせに、その見た目から、天使なんじゃないかと思ってしまうけれど、そもそも天使が保護室に入れられるはずも無い。
人間にもなりきれなければ天使にもなりきれない。ああ恐ろしい。
「ああまずい、支えていないと壁が」
彼はそうやって、両手で壁に手を付き、足を踏ん張って壁を支えようとする。人間に、こうまでされて、それでも壁を支えようとする。意地っ張りなのか、これが無償の愛なのか、何れにしても、僕は言った。
「大丈夫だよ、絶対壊れないから」
「なんで君にそれが分かる?絶対的にそう言い切れる?」
「人間はそんなに浅はかじゃないよ、諸葛亮も司馬懿もそうだったでしょ」
いやいやいやいや。
「心配だ、心配、心配なんだよ」
ハイになりかけているのか、そんなことが今まであったか、不思議な事が起こるもんだと思っていると、ブザーが鳴った。
僕は座っていた折り畳み椅子を畳んで壁にかけると、カードキーを使って外に出る。
キングは不安げに僕の方を見ていた。口を四角にして、額からダラダラ汗を垂らしながら。
「大丈夫だよ、すぐ戻ってくるから」
アウグスティヌスは神に罪はないと言った。この世への悪の侵入は人間の自由意志の乱用が原因だという。
人間が最初に禁断の実を食べてしまってから、人間の中に悪が芽生えて、次第にそれはぶくぶくと膨れ上がって現在に至る、というもの。
僕にも訳がわからないけれど、中学生の時から酒とタバコを堂々と吸い、感染性とは言っても精神分裂症にかかった彼はやっぱり天使とか神の使いとか、そういう厨二チックな何かではなく、ただ単に人間の突然変異種みたいなものだったんだろうと思う。
足が三本あるとか、足が蛙みたいになっていて、とか。
「新興宗教団体からかなりのオファーが来てるよ、彼」
室長は浮かない顔だった。
「ですよね、逸材ですよ彼は」
ひとしきり笑った後で僕は答えた。
「これは笑える話じゃない」
あたふたとしている室長も込みで、僕は面白かった。
「彼は幸せになれるんだろうか」
「幸せになる必要ってあります?」
観葉植物の葉っぱが、エアコンの冷気を受けて少し揺れる。黙ったまま少し時間が経ったけれど、室長が強く瞼を閉じ、そのまま喋り出した。
「大体君には他人の将来を憂える気持ちなんてものがあるのか」
「幸せだと思える環境にいることが果たして幸せなのかっていう」
もういい、と室長が遮った。
「これからのことは上と相談する、持ち場に戻れ」
はい、と僕はすっくと立ち上がる。
天使みたいな翼が生えていて、頭の上に輪っかがあって、何だかよくわからないけれどいきなり分裂症になって、何だかなりふり流されていたらこの施設に入れられて、そんな男のこれからのいく末など俺の知ったことではない。
とりあえず仕事をして、給料稼いでいい車を買う、それが今の所の僕の目標なわけで、小さい頃から好き放題やってきたキングのことなど正直、どうでもいい。
けれど、キングと話をしている時、例えば、このお話を書いている時、僕は不意に、自分の背中のチャックをズーっと降ろして、僕だけの僕になれて、不安とか嫌なことから、一切合切、切り離されて、宙に浮かんで、空を飛んで、つまり、その、無我夢中になれるというか、天国に連れてってもらえるのだ。片足だけ。
それは、残酷なことでもなければ、幸福なことでもない。ちょっと息を吐き出せるくらいの、小さな天国が次第に片足のスペースだけ迫ってくる感じ。
自分で言ってて訳がわからないけれど、自分が自分でいられるたった一つの場所なのだ。それ以外は、僕は僕ではない。と思う。
「なんか知らんけどお前、売られるらしいよ」
よく晴れた日。キングと僕は中庭の長いベンチに座っていた。
キングは背中の羽がぶつかるからか、物凄い猫背になる。両の翼を思い切り上に伸ばして、邪魔にならないようにピッタリと二枚を重ね合わせている。筋肉が硬直しているのか、羽がプルプルと震えている。孔雀が羽を広げた時みたいに、幾千の笹の葉が風で揺れているような音がした。
「え、マジで?」
と言いつつ、彼は憂鬱そうな顔をしていた。
面倒くせぇ、と呟いたのがはっきり聞こえた。
急にばっと立ち上がって、目の前の小高い丘を駆け上っていく。入道雲がもくもくと登っていて、そっちの方に気を取られていたら、短い悲鳴。キングが躓いて転んだ。
僕は、吹き出しそうになった。
「いってぇ」
入院着みたいな白いパジャマはそれで真っ黒くなってしまった。昨日までの大雨で地面がドロドロだったのだ。
「そのまま飛んじゃえ」
冗談混じりで僕がいうと、口に入った泥をぷっと吐き出してキングは僕の方を見た。
「できる訳ねぇだろ」
「できるって」
絶対。
少し首を捻って、キングは両の羽を上下し出した。次第にあたりの枯葉やゴミがハラハラと動き出し、羽が上下するたびに空気がちぎれる音がする。
僕は目を見張った。彼のつま先が後少しで、地面から離れる寸前だった。
けれども彼は、短い悲鳴をあげて僕の方を見る。
「無理だよ無理無理」
「できるって」
ふざけやがって。俺がお前になりたいよ。
ああ、と苛立ったように彼は唸って、もう一度、羽を上下させ始めた。
僕はただ黙って、少し小馬鹿にしたように笑いながら、ほっそいその背中を見る。
あいつの黄ばんだ翼が、また空気を切り裂き始める音が聞こえた。
ステレオキング