アルカイックスマイル

アルカイックスマイル

「はやた、とめろ!」
 ゴールキーパーから、怒号が飛ぶ。
 からだが、言うことを聞かない。まるでトラックのタイヤを、腰にひもで括り付けられたかのよう。ぼくの前をいく、短い髪の男が、ちらとゴールを見すえた。
 まずい――。
 最後のちからを振り絞って、左脚を投げ出す。男は、足の裏でボールを触って、ぼくをあざ笑うように、切り返した。
 フェイント、かよ。
 頭の思考と、からだの動きは、初めて操作したラジコンみたいに、全くかみ合わない。
 ようやくからだを反転させたときには、男はすでにゴールの左隅にシュートを流し込んでいた。
 相手チームのベンチから、わっと、歓声が上がる。ぼくのチーム? べつに見なくたって分かる。十分足らずのうちに、立て続けに二点を決められ、逆転されたのだ。
おい、キーパー、と、ぼくのチームのフォワードは、さっそく犯人捜しを始める。
あぁ? おれかよ。ディフェンスのせいじゃないのかよ。
はやた、どうよ? おまえ、振り切られたよなぁ。
口のなかに砂が入っていた。ぺっ、とそれを地面に吐き出す。なんだか途端に悪い気がしてきて、すぐに足の裏でもみ消した。
「わりぃ。でもまだ時間、あるだろう」
 フォワードは、あからさまに顔をしかめてぼくを一瞥すると、しぶしぶ前のポジションに戻っていった。
 試合が再開すると、そのまま悪い流れを引きずって、シュートを三本も打たれたが、かろうじて失点はまぬがれ、終了のホイッスルが鳴り響いた。
膝に両手をのせ、その場に倒れ込みそうになるからだを、支える。ひたいから汗がしたたり、土のグラウンドの上に黒い点をつくる。ジリジリと照り付ける太陽が、後ろの首すじを容赦なく焼いた。


 練習試合が終わり、グラウンドにとんぼをかける。スパイクでできた穴が、しわがアイロンで引き伸ばされるように、跡形もなく消えていく。なぜかむかしから、この作業が好きだった。
 会場設営から撤収までが、部員の役目だ。グラウンドを均せば、あとはゴールをもとあった位置まで運ばなければならない。
「はやた、おつ」
 コバヤシが、とんぼを引きながら、ぼくの隣までやってくる。
「よぉ」
「こうすけ、試合後もカンカンだったな」
 嬉しそうにコバヤシは言う。
「あぁ」
 こうすけは、うちのチームのフォワードだ。部員のなかでずば抜けて上手く、キャプテンも務めている。試合では毎回のように点を取るし、彼なしでは正直やっていけない。でも――。
「こうすけからサッカー奪ったら、なんも残らないだろうなぁ。あいつ、優しくねぇから」
 コバヤシは上を見上げて嘆息する。
 ぼくは神妙に頷いて、同意した。
 夕陽がグラウンドに降り注いでいる。ぜんたいが野球のマウンドのように色濃く見える。ホームベースの後ろに伸びた緑のフェンスの上に、カラスがとまっていた。逆光でシルエットしか見えず、こちらを見下ろしているような気もする。
新入部員が、水場で給水機やボトルを洗っていた。蛇口を指で押さえ、水の飛び出す方向を変えて遊んでいる。監督に見とがめられても知らねぇぞ、とひとりごちる。
ちょうど一年前、ぼくもあんなことをしていた。あの頃は、将来のことなんてなにも考えていなかった。まぁ、いまだってまともに考えられていないのだけど。
「コバ、進路希望調査票、なんて書いた?」
 ぼくはコバヤシに目を合わせないで訊いた。
「あぁ、名大と南大って書いといた」
「それ、本気?」
 どちらも僕の成績ではとても行けそうにない大学だ。
 コバヤシはつまらなさそうな顔でとんぼの先を見下ろす。
「この辺りで上目指すなら、そこらへんが妥当かなって。上京するやつより、平凡じゃない?」
「まぁ、な」
「で、はやたは?」
 咄嗟に言葉が浮かんでこない。
「ん? まぁ、南大は行きたいかもなぁ……」
 ぐっ、と、とんぼを引く手に力を込める。意識をグラウンドに傾けていると、なにも考えないでいられた。
 
 
 家に帰るとすぐさまシャワーを浴びて、逃げるようにして二階の部屋にこもる。
「はやた、ご飯できてるけど」
 下から、母の呼ぶ声がした。
「いま食欲ないから、あとで食べるわ」
「この前もそういって食べなかったじゃない」
 とがめるような声色が、ちょっと癪にさわった。
「とにかくあとでいくから」
 説明にならない説明だとは、自分でもよく分かる。
 最近、いらいらすることが、増えた。
 なにがどうというわけではなく、毎日が、息苦しいのだ。学校にいても、家にいても、部活をしていても、友達と遊んでも、ずっと喉の奥になにかが引っかかっているかのように。
 ベッドの上に寝転がる。枕の横にあったリモコンでクーラーの電源を付ける。
 天井の穴の数を、かぞえてみる。さすがに世界一意味のない行為だとは分かるものの、なんでもいいからなにかしないと、叫び出しそうになった。
 中学生のときに思い描いていた高校生活は、もっと違った。
 納得のいく進路が決まるだろうと思っていたし、部活動だってもっと活躍しているはずだった。
 でも、現実はどうだろう? 将来のことを考えるだけで、気分が悪くなる。サッカー部では、望んだポジションから外されてしまった。もはや、代わりにあてがわれたディフェンスの役目すら、まともにこなせていない。
 天井に、こうすけの顔が浮かんでくる。
「おまえ、もっと上手いと思ってた」
 右サイドハーフから外れろと、試合前に監督から告げられたあとで、こうすけはぼくにこう言った。
 励ましてくれるようなタイプではないと、分かっていた。でも、わざわざどうして、突き放す態度を取るのだろう。
「おめーが点とればいいんだよ。おれは守るから」
「まぁな」
 こうすけは、もう別ごとを考えているような顔つきで、ぼくから離れる。
 どうせプロになるわけでもないのだから、と、ぼくは目をつむる。まぶたの薄い皮を突き抜けて、照明の光が瞳まで差し込んでくる。冷房の風が、短パンから伸びるすねに触れて、うっとうしい。あぁ、もう。行き場のない憤りとは、こういうことか、と思う。
 てきとうに、文系を選んだ。数学や理科よりも、国語が多少できた。理由は、それだけ。そんなぼくが、さぁ大学を選べと言われても、地図も持たずに知らない町に放り出されたようなもので、どうしたらいいのか、まったく分からなかった。
 携帯を手にとる。そこに答えのようなものが表示されていることを少しだけ期待して。
〈日曜日、カラオケいかね?〉
 コバヤシからメールが届いていた。
 ぼくは寝転がりながらすぐさま返信して、彼の誘いに乗っかった。
 からだを横にして、窓のほうを向く。カーテンの隙間から、夜の暗闇がのぞく。街灯の明かりが、うっすらと白い線を通わせている。そのなかで小さな羽虫が数羽、飛んでいた。
 コバヤシから、うさぎが三日月のように目を細めて笑うスタンプが送られてくる。コバにそっくりじゃないか、と思う。
 反対に寝返りをうって、机の上の置き時計をみる。時刻は二十時十五分を指している。秒針が時をきざむ音に、耳を澄ませる。世界はかくじつに、前に進んでいた。ぼくは、どうだろう?
 たちまち携帯を放りなげたい衝動に、かられる。代わりに枕をひっつかんで、ベッドの上に叩きつけた。バィン、とにぶい音がして、枕が宙にうかぶ。なかに詰まった羽が、すみからはみ出して、ひらひらと舞う。ぼくはその光景を、どこかで見たことのある気がした。
 羽は、ぼくの頭になんら像を運ばないで、そのまま床におちた。クーラーの風をうけて、けいれんを起こす人のように、ひくひくしている。
「はやた、ご飯はー?」
 下から、呆れたような母の声が、する。
 いきおいをつけて、ベッドから起き上がる。いまいくから、と、ドアに向かって叫ぶ。
 机の上にはすうじつ開きっぱなしの参考書があった。マーカーで線が引かれているが、そこになにが書かれていたのか、もうよくおぼえていない。
なんだか過去の自分から、非難されているような気になってくる。
 めいわくな虫をあしらうように、指先でそれを閉じた。これでいいのか、という、自分の声がする。
 ああ、いらいらする。
 ぼくは高校二年生で、夏休みを目前にひかえていた。


 ぼくとコバヤシは駅前のタリーズにいた。
 たいしておいしいとも思わないアイスコーヒーを飲んで、二人で好きな女優やよく聴く音楽について話した。
 なんの足しにもならない話を気軽にできる相手が、コバヤシだった。
 サッカー部について話を振ろうとすると、
「お、あゆみじゃーん」
 コバヤシはとつぜん窓の外に向かって大きく手をふりはじめた。
 あゆみ、と呼ばれた女の子は、驚いたように目を見ひらき、花が咲くみたいに笑った。
「え、だれ?」
 言ってから、ぶしつけだな、と思い直す。
「あぁ、おなじ塾に通ってる子」
 あゆみは窓のそばまで近づくと、コバヤシに手をふって、それからぼくに会釈をした。おずおずと、ぼくも会釈をかえす。
 となりでコバヤシは、手招きしている。
 え、いいの、とあゆみは口の動きで応じる。
「いいよ、いいよ」
 コバヤシはにこやかに笑った。
 あゆみはぼくに目礼を寄こして、ぼくも軽く頷いておく。
 コバヤシには、こういうところがある。たぶん、人に対するこだわりのようなものが、ないのだ。それをうらやましく思うことも、あった。
 コバヤシはとなりの席に断ってから椅子をひとつ借りてきた。丸いテーブルを囲むように、三つの椅子がならぶ。あゆみはアイスカフェラテを手に空いた椅子に座った。
「え、アイスコーヒー飲めるの、すごい」
 ぼくに向けられた神原あゆみの第一声が、それだった。
「あぁ……。背伸びってやつだよ」
 どうしてだろう、ぼくは正直に答えていた。他のクラスメイトの前だったら、見栄を張っていた気がする。
「そう」
 あゆみは、ぼくの目の奥をじっと見すえて、頷いた。
 くうきが、色をまといはじめる。周辺視野から中心に向かって光のすじがあつまるように、うすむらさきが走っていく。それはあゆみに向かっているようで、彼女に近づくにつれ、色の濃さを増していった。
 なんだろう、この子は。
「どこの高校?」
「東高校だよ」
 あゆみは簡潔に答える。
 鈴が鳴るような、声だ。言葉に意味以上のなにかをからませて、なめらかにぼくの耳まで入り込んでくる。
 コバヤシがぼくとあゆみの二人を見比べている。口を、お、の形にすぼめて、なにか言いたげだ。
「なに」
 ぼくがしびれを切らして訊くと、コバヤシは言いにくそうにこう切り出した。
「や、あゆみ呼んどいてあれだけど、このあと用事あること思い出して……」
「はぁ?」
 いつもはそんな口の利きかたをしない。でも、あゆみに本当に悪い気がした。
「ふぅん」
 当のあゆみはなぜかどこか他人事だった。
「わり! 今度カラオケ代おごるから、さ」
 コバヤシはぼくに答える隙を与えないまま、逃げるようにして席を立った。
「まじでいくのかよ」
 コバヤシは顔の前で両手を合わせて、どことなく楽しげに店を出ていく。彼らしいといえば彼らしかったが、こればかりは困り果ててしまう。接点のない初対面の女の子と、なにをどう話せばいいのだろう。
「きっとすぐに戻ってくるよ」
 とりあえず思ってもいないことを口走ってみる。
「そうかな?」
 あゆみはグラスから飛び出したストローの先を見下ろしている。
 しゅんかん、間があく。でもそれは、まどろみのようで、しばらく身を委ねてもいいかもしれない、と思う。
 あゆみは視線を落としつつも、口元で微笑していた。いつもそうしていることがひと目で分かるほど、それは自然だった。血色のいいくちびるが、少しだけ水分をはじいて、つやつやしている。
「えっと、なまえは?」
 あゆみはにっこりして訊く。
「はやた。さいとう、はやた。君は、あゆみ、ちゃん?」
「うん。神原あゆみ。あゆみって呼んで?」
「あぁ、あゆみ。おれも、はやた、でいいよ」
「はやた。たしかに、はやたっぽいね」
 おかしそうにあゆみは笑う。
「よく言われるよ」
ぼくもつられて笑った。
「あ、なつやすみ、なにするの?」
「なつやすみ」
 あゆみはまるで初めて聞く英単語をなぞるように、となえる。ぼくはなんだか間違ったことを訊いた気になってくる。
「うみ、行きたいなぁ」
 あゆみはあさっての方向に視線を投げる。
 海、か。
 高校に入学して以来、海にはいちども訪れていなかった。サッカー部の練習が忙しかったこともあったし、海辺の騒々しさが、なぜかとたんにおっくうに感じるようになった。中学のころまでは、そんなこといっさい感じなかったのに。
「うみ、いきたい」
 あゆみはもういちど、繰り返す。
「あぁ、うみ、ね」
 返事をすべきだったかと、急いで付け足した。
「はやたは、いかないの、うみ?」
 どうだろう。別にいく相手もいないし、そもそも夏休みの予定をなにも考えていない。
 ぼくはあいまいに微笑んで、首を横にふった。
 あゆみは頬杖をついて、ぼくを下から覗き込むような目をする。なんだかとがめられているような気になって、そわそわした。
「ねぇ、一緒に、いかない?」
「え」
 ぼくが戸惑っていると、あゆみは、そうだ、と表情を輝かせてこう続けた。
「八月の上旬にね、友達と二人でうみにいこうかって話してて……。で、せっかくならコバヤシくんとはやたも入れた四人で一緒にいくなんて、よさそうじゃない?」
「お、いいね」
 正直なところ、あまり海に行きたくなかった。海、という言葉から連想される、匂いや景色が、けばけばしく感じられた。どちらかというと、ひとりで近くの川にでも行ったほうが、気分転換にはなりそうだ。
 自動ドアが開いて、二十半ばと思われる男女の二人連れが入ってくる。装いは開放的で、すぐにでも海か山に行けそうだ。もわりと、生ぬるい外気を室内まではこぶ。
「はやた?」
 あゆみは不思議そうな顔でぼくを見ていた。
「あ、ごめん。なつやすみの課題について考えてた」
「そう」
 あゆみはあご先を机の上にひじをついて立てた手の甲にのせる。その目は意外にもするどい。
「うたがってる?」
「はやたって、分かりやすい」
 数秒の間をおいて、ぼくらは同時に笑った。
 あぁ、おかしい、と、あゆみは目じりをぬぐう。まさか泣くわけはないだろうから、彼女なりの気遣いかもしれない。けらけらと笑う表情は、中学生のようにあどけなく見えた。
 ぼくは異性と関わるのが、あまり得意じゃない。一緒にはしゃぐことはできるけど、まじめな話となるとなんだか小恥ずかしい。そういう話は、ぼくじゃなくてもいいだろう、と思ってしまう。だからたぶん、これまでまともにガールズフレンドができなかった。
 でも、あゆみの前では、胸のつっかえがとれたように、気楽に話すことができた。
「キラキラしたものが、なんか苦手っつーか。ひかげに生えるこけ? みたいな感じなのかなぁ、おれは」
 うんうんと、あゆみは頷く。
どこまで共感しているのか、ちょっと疑問だったけれど、寄り添ってくれていることは、よく伝わる。ふつう人が落として気づかないものを、ていねいにすくい取ろうとする、そんな耳の傾けかたをした。
ぼくは初対面の相手を、これまでの記憶をとおして、ほかの誰かと結びつけようとするところがあった。なんというか、無意識で。けれども、あゆみはそのどれにも当てはまらなかった。ちょっと、混乱した。少しでも手がかりを引き出したくて、質問をかさねたけれど、いつまでたっても彼女のりんかくはつるつるしたままで、いっそう分からなくなった。
 起き上がりこぼしみたい。
 押しても、しばらくすれば、もとにもどる。それに影響をうけるということが、いっさいなさそう。でも、どんな言葉であっても、両手をひろげて、迎え入れようとしている。
 だからしぜんと、ぼくのほうが口かずが多くなった。女の子のまえでそんなにものを話したのは、これがはじめてだった。
 
 
 夏休みに入って最初の練習試合で、ぼくはスタメンを外された。
 自分の名前が監督の口から呼ばれない、という体験は、想像していたよりも、ぼくの胸をズタズタに切り刻んだ。ききまちがいだろう、本気でそう思った。
 代わりに名前を呼ばれた一年生は、うれしさと驚きの、両方を顔に浮かべていた。
 となりでコバヤシがぼくの顔を盗み見ている。ぼくはそれを見て気づかぬふりをする。誰からも、どんな言葉だって、かけられたくなかった。
握り締めていたこぶしをほどくと、爪の後がくっきりとうつっていた。
 こうすけがいつの間にかぼくの前にやってきていた。パンツのすそに印字された10の数字ですぐに分かる。どうしてよりによってこいつなのだ、と内心で毒づく。
 こうすけはぼくの肩をごついた。しぶしぶ、顔を持ち上げる。逃亡先で捉えられた泥棒のような気分だ。逆光で、こうすけの顔がうまく見えない。
「おまえ、はやく戻ってこいよ」
 意味がよく分からなかった。新手のいやみかと、思う。
 うまく答えられないでいるうちに、こうすけはその場を離れて、ゴールキーパーの背中をバシバシと叩きはじめる。ってーな! と彼はなかば真剣に声をあらげた。一方のこうすけは涼しい顔だ。
 ぼくはトイレに立つふりをしてそこを離れる。とにかく誰とも口を利きたくなかった。
 後ろから、ぶわりと、風が吹き付ける。ユニフォームのうでから伸びるほつれた糸が、力なく揺れる。遠くで誰か野焼きでもしているのだろうか、ほんの少し、焦げた匂いがした。
 グラウンドから、円陣のかけ声が聞こえる。背中で聞くとこうも悲しい、とはじめて気づく。スパイクの先で、地面を蹴った。土がちいさく舞って、そこから飛び出した小石が、花壇のほうまで転がっていく。
 呼吸が、くるしかった。走ってもいないのに、肩で息をしていた。
 あぁ、ぼくは傷ついているのか。
 そういった感情は、しばらくずぅっと、見て見ぬふりをしてきた。だって、かっこわるいから。
 目のはしに、つ、と込み上げてくるものが、あった。それだけはいけないと、ぼくは自分に言い聞かせる。耐えろ、たえろ――。
 トイレの横に水場がある。下級生がいつもここでスポーツドリンクを作っていた。ぼくはそこの蛇口をひねり、水を出しっぱなしにする。合わせた手のひらに水をあつめて、顔に浴びせた。頬に伝おうとしていたものは、それでも、なかなか消えてくれない。
 花壇と朝礼台をへだてた向こうで、試合が始まっていた。ベンチの部員も、テニスコートの前でウォーミングアップをする対戦校の選手も、みなぼくに背を見せている。
早くここを離れなければ、監督から注意をうけそうだ。レギュラーから外されて練習試合を放棄するようなら、それこそ火に油をそそぎかねない。でも、まるで地に根を張ったかのように、足が思うようにうごいでくれなかった。
 こうすけがシュートを放って、ゴール裏のフェンスに直撃する。監督はくやしそうに身をのけ反らした。ナイッシュー、とコバヤシがそれを拍手でたたえている。距離をおいて眺めるグラウンドの世界は、あたりまえだけれど、ぼくがいなくとも平然と回っている。
 流しっぱなしの蛇口の水を、見つめる。下のタイルまで落ちて、排水口に吸い込まれていく。それはどこへいくのだろう? 下の溝をとおって、地下のどこか一箇所に蓄えられるのか。マンホールの下には迷路のようにパイプ道が伸びていると、聞いたことがある。
 そんな想像をめぐらせているとしゅんかん、サッカーのことが頭から遠のいた。
 ぼくはふたたび合わせた手のひらに水をあつめて、顔にそれを浴びせる。あご先からしたたる水滴が、日の光をうけて、キラリとまたたく。きゅっ、と蛇口をしめると、ちょうどそのタイミングで、グラウンドから歓声が聞こえた。
 そろそろいこう、と自分に語りかける。目を背けたままではいけない、と。
 背中から、演劇部の発声練習のこえが、飛んでくる。
 あ、え、い、う、え、お、あ、お。
 後ろを振り返ると、芝生広場のつちが盛り上がったあたりに、五人くらいが立って、みないちように斜め上を見上げている。そのうちの一人は、同じクラスメイトで、前髪がながくてもそもそと話す女の子だった。見違えたように、晴れやかな表情をしている。
 こんな場所で練習していたのか――。
 あ、え、い、う、え、お、あ、お。
 女の子の、首元にまいたタオルの先が、風にゆれて、胸元をついたり離れたりしている。指先をももの付け根あたりで伸ばして、足は肩はばくらいにひらかれている。まるで視線の先に観客でも見えるかのように、目には力がみなぎっていた。
 グラウンドから、歓声が鳴る。こうすけが、点を決めたようだ。
 踵を返してベンチまで駆けもどる。コンクリートを踏み締めるたびに、ひざに、心地よい負荷をおぼえる。やっぱり、グラウンドを走りたい。ボールの感触を、足で感じたい。
ぼくになにが足りなかったのか、試合をよく観察して、見つけ出そう、と思う。
 後ろからはあいかわらず発声練習のこえが聞こえてくる。なんだろう、そんなわけないのだけれど、ぼくを応援しているような気がする。いさましくも、いきいきとした、あの子の表情を思い出す。こんど、話しかけてみようか。どう、演劇って、楽しい?
 グラウンドには、土ぼこりのカーテンがかかっている。選手がスパイクで踏み込むたびに、水面に小石をなげて生じるしぶきのように、土ぼこりが舞いあがる。夏のグラウンド特有の、こもった香りが立ち込めていた。
 試合再開のふえが鳴りひびく。ぼくは頭上を見上げて、きょうの雲の高さをはじめて知る。まだまだ暑くなりそうな空が広がっていた。


 部活帰りに書店で雑誌を立ち読みしていると、声をかけられた。あゆみだった。
「よ」
 軽快な口ぶりとはうらはらに、声の調子は落ち着いている。
「よ、よぉ」
 ぼくは少したじろいで、彼女を見下ろす。
 あゆみは濃紺の制服の上にリュックを背負い、コンバースのスニーカーを履いている。スカートの後ろに両手をまわして、黒く澄んだ瞳でぼくを見上げる。以前会ったときよりも、二歳くらい幼く見えた。
「部活がえり?」
 あゆみはゆっくりと頭をふる。
「部活は入ってないよ。教室で自習して、その帰り」
「そっか」
「なに読んでるの?」
 まぁそうだよな、と思う。ぼくは雑誌を閉じて表紙を彼女に見せた。適当にはぐらかせたい気持ちと、どうにでもなれという思いを、行ったり来たりしながら。
「中部地方大学ランキング」
 あゆみは出来のいい生徒のようにそれを読み上げた。
「へぇ、進路の悩みだ」
 なぜか嬉しそうに、ぼくを見上げる。
「うん……。あゆみはもう決まってるの?」
「だいたい」
 その声色はのびやかで、ぼくはちょっと滅入る。
「あ」
 なにかをとつぜん思い出したように、あゆみは声をもらす。
「ねぇ、このあと、時間ある?」
「ん? まぁ」
 陽はまだ高く、天窓から射し込む光は、平積みの本を明るく照らしている。前日に試合があったため、きょうはいつもより練習時間が短かった。夕食は、まぁ、母にメールしておけば、いくらだって遅らせることはできそうだった。
 あゆみはにっこりと笑う。
「じゃあ、とっておきの場所があるから、一緒にいかない?」
「とっておきの」
 誰かの口からそういう言葉を聞くのは、ひどく久しぶりな気がした。
「将来に悩むはやたにぴったり、な」
 あゆみはぼくの返事も聞かず、後ろを振り向くとつかつかとフロアを歩いていく。
「え、待ってよ」
 意外と強引なことに、びっくりする。雑誌をおいて急いで駆け寄ると、ごうかく、とでも言うように、目だけでこちらを振り返ってみせた。リュックのジッパーに括りつけられた、小指ほどのこぐまのキーホルダーが、跳ねるように左右に揺れていた。
 
 
 ぼくらは駅から歩いて数分の場所にある市営劇場の前に立っていた。どうやらここがあゆみが言うところのとっておきの場所らしい。数年前に駐車場の跡地にできたことは、知っている。だけど、演劇、とか、演奏会、だのは、ぼくの日常から遠い世界の出来事で、とうぜんここには訪れたことはなかった。
 自動ドアを抜けてなかに入ると、目の前には天井まで吹き抜けた喫茶スペースが広がっていて、その左側に階段が続いていた。入口はいってすぐのところに警備員が立っていて、ぼくはなんとなく会釈をする。制服姿の学生が入るような場所だろうか。
「上まで、いくよ」
 と、あゆみは階段に足をかけた。
脚を組みながら椅子に腰かける、メガネをかけた中年男性が、ちらりとぼくらを見る。手元にはバインダーで留められた書類が広げられ、赤ペンでところどころに線が引かれてある。首もとから下げられたストラップから判断してたぶんここの職員だろう。
「なぁ、ここ大丈夫かよ」
「いーの、いーの。よく、来るから」
 ぼくは彼女の背中をおう。後ろすがたは華奢なのに、背筋が伸びていて、ちょっとした威厳すら感じる。ひょっとしたら、育ちがいいのかもしれない。なんだか彼女の邸宅に招かれたような気分になる。
 階段を上りきると、左手に劇場の入場口が、右手にゆるやかなスロープ状の通路がのびている。通路の手すりの反対側に、ちょうど壁をくり抜いたような形で、木の板で座面だけが設けられ、人が休めるようになっていた。
 あゆみはなにも言わないでそこに腰を下ろすと、ぼくを手まねく。その手つきが、ちょっと手慣れているようにも見えた。
 ぼくが隣に座ると、あゆみはひざの上あたりを支えに頬杖をついて、階下を見下ろす。その表情は刹那、とても悲しそうだった。それでも口元は、綺麗な微笑をたたえていた。ぼくはこういう表情をどこかの美術雑誌でかじったことのある気がした。なんだっけ。
あ、そうだ、アイコニックスマイル。
 そこからは横目に通った喫茶スペースを上から見下ろすことができた。ぼくらをちらと見つめたメガネの職員は、上から見ると少し頭が禿げかかっている。それ以外、誰もそこには座っていない。
「で、ここでなにしてるの?」
 ぼくの問いかけに、あゆみは肩をすくめる。
「これからのお楽しみ」
 まるでそれが合図だったかのように、ぼくらの通ってきた自動ドアからつぎつぎと、制服に身を包んだ高校生たちがやってきた。彼らはテーブルにリュックをおいて、そこからノートや教科書を取り出し、少しうんざりした様子で椅子にすわる。ねぇあの課題、どう思う? なんて声が、かすかに聞こえる。テーブルは四つが高校生の集まりで埋まり、メガネの職員はなんだか肩身がせまそう。
「え、なにこれ」
 ぼくはあゆみに確認する。
「みんな、高校生」
「いや、それは分かる」
 からかっているのだろうか。
 あゆみはなおも見下ろしながら続ける。
「ここで自習する学生、けっこう多いみたい。塾の前にここで過ごすのかな? わたしもよく分からないけれど、ここでみんなを見ているとね、なんかおちつくっていうか」
「逆じゃない、ふつう」
 あゆみは目を見ひらいてぼくをまじまじと見る。
「どうして?」
 ぼくはなんだか変なことを言った気になってくる。
「え、だって、みんな受験のために勉強してるんだよね? それにくらべて自分は遅れてるって、思ったりしないの」
「へぇ。やっぱりはやたは、まじめだねぇ」
 あゆみは感心したように、うんうんと二度うなづく。
 階下の高校生たちは、ときおり会話を挟みながらも、ノートにペンを走らせたり、じっと教科書を読み込んだりしている。ズボンやスカートの色合いからいって、たぶん近くの私立高校の生徒たちのようだ。白のあい服がこうも並んでいると、学校の敷地内のように思えてくる。
「上からみんなを見下ろしながらね、この人は将来どういうふうになるんだろうって、妄想するの」
「もうそう」
 うん、とあゆみは明るい調子だ。
「きっとここにいる人たちって、それぞれ思わぬ散らばりかたをすると思うのね」
「思わぬ散らばりかた」
 妙な言葉をつかう、と思う。
「そう。たとえば、進学した大学で、バンド活動にのめり込んで、そのままバンドマン目指すとか。あと、留学をきっかけに、海外で働ける仕事をさがすとか。いまみんなが思い描いているのはちょっと違う将来が、この先に広がっているのかなって」
「ふぅん」
 大学のその先を、あゆみはすでに、妄想、しているらしい。
「そういう君は、大学にすすんだら、どうなるのかな?」
 あゆみはあいまいに笑う。
「自分自身のことになると、なんかうまく想像できなくて……」
意外だった。てっきり自信たっぷりに、なにかを語るのだと思った。
「そう」
 ぼくらはそのまましばらく黙り込んだ。隣であゆみはなにかをしきりに考えているようだった。ぼくはそれを待ってみることにする。下にはもうひと組、高校生の集まりがやってきていた。あれは、東高の制服だろうか。あゆみと同じ高校の。前髪の長い長身の男子生徒が、エナメルバッグを背負っている。前の見すえるその目は、なんだか力ない。
「でも、そうやって周りに対して妄想してみてね、自分の世界を広げようとしているの。なんだろう、考えることは、やめちゃいけないなって」
 分かるような、分からないような。
 ぼくはあゆみの横顔を見つめる。ああ、と思う。この子は、綺麗な子なんだ。
 なぜだか、それに対して意識をはらうことが、ほとんどなかった。
「もうそう、ねぇ」
 どうやらぼくはその言葉をちょっと気に入ったみたいだ。
「なぁに、へん?」
 あゆみは口をとがらせる。
「いいや」
 彼女から、視線をそらす。少しだけ、ドキドキする。
 ふふ、とあゆみは微笑む。その声は耳にするすると入り込んできて、奥で甘くとける。
 もうそうかぁ、と、ぼくは心の中でもう一度となえる。
 白いあい服が、しゅんかんまっさらなキャンバスのように見えた。ぼくはキャンバスに絵なんか描いたことがない。どうせ絵ごころはないし、芸術とかよく分からなかったし。
 でもいまのぼくの脳裏には、筆を手に焦点を合わせる自分のすがたが、浮かんでいる。それなりに、ふんいきも出ていた。描けるかどうかは、イメージのなかであっても、よく分からない。だってまともに絵に向き合ったためしすらないのだから。
 帰りに、スケッチブックを買おうか。
 なにが描けるのか分からないけれど、描きたいという気持ちがあるのだから、それでいいじゃないか。
 そういえば、絵を描くだなんて、小学生以来やってなかったっけ。
 自動ドアから、また新しい高校生が入ってくる。ぶわりとそよ風をまとって、あい服がふくらんでいる。彼女は、将来になにになるのだろう。手がかりを探しだすように、ぼくはじっとその子を見つめている。

アルカイックスマイル

アルカイックスマイル

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-08-22

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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