埋もれる酸味

序盤をほんわかとした流れにし、後半は少し涙ぐめるような最初から最後まで違った楽しみ方のできる作品にしました。愛する人がいる幸せや、当たり前の日常へのありがたみを読者の方々、そして私自身も改めて実感するために書き綴りました。長編かつ、まだまだ未熟な作品ですがどうぞよろしくお願いします。

一話 唾液腺が恋を

 「こんばんは、結衣」
 店の奥でラベンダーに水やりをしていた、花屋の結衣はその声に気が付き、駆け足で店の外へ向かう。
 「理恵子ちゃん! こんばんは」
 店にやって来たのは山本理恵子だった。彼女は結衣の近所に住む、結衣の良き友であり恩人だ。
 「それにしても随分と華やかなお店になったね。流石は結衣だ」
 「ありがとう。でもすべては理恵子ちゃんのおかげだよ。理恵子ちゃんが助けてくれたから」
 結衣はそう謙虚に言いつつも顔を赤らめていた。
 そもそも結衣が理恵子を恩人と慕う理由は、この店が関係している。
高校を卒業したと同時に上京してきた結衣はこの街で花屋を開いた。しかし何も知らない結衣は苦戦してばかりいた。そこにやって来たのが理恵子。理恵子は当時の結衣にこの街を案内し、様々なことを教えた。さらにはお金がなかった結衣に理恵子は食事をおごったりと、結衣の生活までも支えた。
 そんな理恵子に支えられた結衣は今年で二十歳になる。話題は恋愛に移る。
 「私、そろそろ結婚を考えているんだ」
 唐突な理恵子の発言に結衣は手に持っていた花瓶を落としそうになった。焦る結衣に理恵子は更に話を進める。
 「この前合コンで知り合った男性で、頭も良くてかっこよくて、何よりとても優しいの。今度初デートの予定」
 合コン、初デート……。結衣には大人の世界だった。とは言っても、理恵子は結衣と同い年。理恵子が大人なわけではなくて結衣が恋愛に疎いだけなのだ。困惑気味な表情を作る結衣に理恵子は付け加えるように言う。
 「結衣もそろそろ結婚のこととか考えないとだよ。結衣可愛いんだからその気になれば絶対良い人見つけられるよ」
 理恵子の言葉に結衣の顔はさらに歪む。
 「わ、私にはまだ早いよ……。それよりお花の方が大切」
 結衣は話題を花へと移す。理恵子はつまらなさそうにため息をついた。
 結衣には花が一番の宝物
 この時は、理恵子も結衣自身もそう思っていた——。
 ***
 結衣は今や専門家と呼べるほどの花の知識がある。しかし研究熱心な結衣はこの日も図書館へ行って、花図鑑を何冊も読み漁った。読み漁ってはノートに書きだし、結衣の脳内にまた新たな花の知識がインプットされていく。ある意味結衣は「脳内お花畑」だ。
 図書館で学び充実感に満たされた結衣は、いつもとは違う道を通って家に帰った。その時、ある蕎麦屋を見つけた。古風な店構えをした店だ。普段蕎麦をあまり食べない結衣だが「神田庵」というどこかご縁のありそうな名前に惹かれ、そこでお昼を済ませることにした。
 初めて来たお店に緊張しつつも木扉を開けた結衣。まず驚いたのが店内に充満するその匂いだった。鼻から入ってお腹に染み渡るあたたかい香りが、結衣の唾液腺を刺激する。
 「どうかしましたか?」
 あまりの美味しそうな香りに茫然としていた結衣に声を掛けたのは一人の男だった。結衣はその男の背の高さにも驚いた。背の低い結衣にはぬっと立っている相手が、まるで魔のように見えた。 
 「す、すみません。あまりにも美味しそうな匂いがしたもので……」
 結衣は男と目を合わせることなく言った。すると男は笑った。その笑顔があまりにも爽やかで結衣の魔というイメージは崩れつつある。
 「うちの店はにしん蕎麦が人気ですよ」
 男の言葉に結衣は彼がこの店の店員であることを悟った。
 「にしん蕎麦……ですか? 何だか名前からして美味しそうですね」
 結衣は男の顔を見上げ柔らかく笑った。男もまた笑う。
 そこで結衣の腹が鳴った。その腹の音が二人の会話に終止符を打つと、結衣は顔を赤らめながら小さく頭を下げ席に着いた。
 さっそく結衣が注文したのはもちろんにしん蕎麦。うきうきした気持ちで待つ結衣はふとしたことに気が付いた。
 「……あっ!」
 タグが付いていたのだ。昨日買った服のタグを切り忘れていた。それもタグに書かれていたのは60パーセントオフの文字。結衣は途端に頭を抱える。さっきの男の人に気づかれていただろうか……結衣は近くにある醤油の入った壺に叫びたくなるほどの恥ずかしさを感じた。
 そこへ来たのがにしん蕎麦。結衣の赤面を見てにしん蕎麦を運んだ店員は些か慌てた。
 「は、はさみってありますか?」
 「あ、は、はい」
 店員は結衣の注文に驚きつつも急いで持って来た。
 「ありがとうございます」
 そう言った結衣の顔は今にも湯気が吹き出しそうなほど赤くなっていた。
 無事、タグを切り取った結衣はめまいがするほどの空腹を感じていた。一先ず冷えた水を飲み落ち着くと、結衣はさっそく箸を手にする。
 「いただきます」
 口を吸盤のように尖らせ、ずるずると蕎麦をすする。口の中でゆっくりと噛み、細かくなった蕎麦が喉を通る。
 「たんげめぇ!」
 それが結衣の第一声だった。結衣は青森産まれ青森育ち。時々津軽弁が出る。たんげめぇは共通語で美味しいという意味だ。
 その蕎麦は太めでコシが強く、食べ応えがあった。さらにツユは鰹節のほんのりとした香りがあって、蕎麦の美味しさを更に引き立てていた。
 そして二口目は蕎麦とツユと共ににしんも口に運んだ。
 「あ、合う……!」
 結衣はそのにしんと蕎麦の調和に驚いた。にしんのくどい味が蕎麦と鰹節の甘味で中和され、見事豊かな味となっている。最初はにしんと蕎麦の組み合わせを不安がっていた結衣だったが、あまりの美味しさに目を丸くした。にしんの新鮮さはもちろん、結衣はそれ以上にこのお店の蕎麦に感動した。蕎麦自体があまり好きではない結衣を唸らせるほどの蕎麦を作り上げたのだ。結衣はこの店に強く興味を持った。
 あっという間に蕎麦を食べ終え、席を立った結衣。帰り際、さっきの男に声を掛けられた。
 「にしん蕎麦、どうでした?」
 「物凄く美味しかったです! こんなにも美味しい蕎麦初めて食べました!」
 結衣は勢いよく男にそう言った。にしん蕎麦で満たされた結衣の瞳は光り輝いていた。
 「そうでしたか。満足してくださり嬉しいです。良かったらまた食べに来てください」
 男は平然とそう言った。だが彼の耳が赤く染まっていたことを結衣は知らない。
 「もちろん、何度でも足を運びます! 常連客にもなる予定です!」 
 結衣のはつらつとした声に男の口元がほころぶ。
 「徹。こっち頼む」
 「あ、はい!」
 男は呼ばれると結衣にあでやかに微笑み小さく頭を下げた。結衣もゆったりと笑い、頭を下げる。
 仕事へ戻った——徹という名の男は結衣が使用したテーブルを拭いた。そこで机上にあった値札の裏に「美味しかったです」と書かれていることに気が付いた。その文字がまた彼の元気の源になったのだった。
 一方で帰宅途中の結衣は余韻に浸っていた。あのにしん蕎麦のあまりの美味しさに感動し、自分も蕎麦屋を開こうかと考えたほどだった。だが結衣には花がいる。今日は休業日だが、速足で帰宅しさっそく水やり作業をした。その間も考えることはあの蕎麦のことばかり。それと——
 「あの男の人、綺麗な顔立ちをしていたなぁ」
 結衣は頬杖をついて一人そう思うのだった。

埋もれる酸味

埋もれる酸味

青森から上京してきたどこか抜けていて恋愛に鈍感な、花屋の泉結衣。ただひたむきに仕事に励み真面目で恥ずかしがり屋な、蕎麦屋の神田徹。そんな二人は出会い、次第に恋愛へと発展していく。何もかも上手く行く幸せな毎日。そこに大きな落とし穴があることを二人はまだ知らなかった―― 男女二人の心情・動作を第三者目線で細かく描いた、中学生による恋愛ドラマ。ラストに必見です。

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2021-08-14

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