駅前心霊スポット

 山田静枝は自動販売機である。
 首都圏とは名ばかりの、西に奥多摩山塊を望む終着駅のロータリー前で、昼夜、缶飲料を販売している。
「いやいや、確かに店の看板は『山田洋品店』だし、勝手口の表札には『山田孝吉・静枝』とあるが、店先の自動販売機は山田さんでも静枝さんでもない」と反論するむきもあろう。しかし確かにここ数日、その自動販売機自体が静枝自身なのだからしかたがない。その証拠に、通りすがりの誰かが自販機に向かって「あなたは山田静枝さんですか」と訊ねたら、「はい、私が山田静枝です」と、しわがれた老婆の声が返ってくるだろう。
 ただし、今の静枝の地声を聞くには、ある種の精神的な資質、たとえば稲川淳二翁に類する才能が不可欠である。生得的にその資質がない方は、聞くまでに長い修行を要する。いずれにせよ、今のところ誰ひとり名を訊ねた者がいないので、あえて静枝から名乗ったこともない。
 静枝は幼い頃から口数の少ない女であった。
 だから現在も、日々の購入客に対して「ありがとうございました」とただ一言、若い女性の音声データを再生するばかりである。
 無論、生まれたときから金属製で角張った人間はいない。
 連日の猛烈な残暑に耐えかね、夫婦で山奥の湯治場に向かう途中、夫の孝吉がアクセルとブレーキを踏み違えるまでは、静枝もただの無口な老婆であった。崖上の細道から宙に舞ったとき、夫といっしょに発した絶叫が、生涯で唯一の金切り声だったかもしれない。
 ちなみに現在、隣に並んでいる煙草の自動販売機は、残念ながら孝吉になっていないようだ。昔から何事も鷹揚に受け入れるたちの夫だったから、たぶんすなおにあの世とやらへ直行したのだろう。今、静枝がひとりぼっちで缶飲料を商い続けているのも、孝吉が薄情だったわけではなく、おそらくは静枝自身の粗忽なのである。車ごと空中遊泳した末に、崖下の杉林が眼前に迫ったとき、静枝はなぜか隣の夫でも人生の走馬灯でもなく、店先の缶飲料自販機を思い浮かべてしまった。
 開店以来、店先には二種類の販売機が並んでいた。煙草の商品補充は夫の担当、飲料が静枝の担当だった。もっとも、煙草と違って重量のある缶飲料を、静枝本人が補充するわけではない。飲料会社の若い衆が、定期的に小型トラックで回ってくる。静枝は納品明細書に認印を押すだけなのだが、このまま谷底でぺしゃんこになったら次のハンコは押せそうにないなあ、などと、意識を失う寸前、つい考えてしまった。
 生を終えるとき執着していた物に、死人の気が残る――。
 そんな怪談話を聞いた記憶が、静枝には何度かあった。あのとき極楽の(はす)(うてな)でも思い浮かべていたら、今頃は夫婦揃って、そこで涼んでいられたのかもしれない。
 ともあれ機械の体だと、連日のうだるような暑気を感じないのはありがたい。
 商う飲料も、ちゃんと冷やしてある。
 真夏の自動販売機として、まっとうな商売はできているはずだった。

          ◎

 さて、そんな晩夏とは名ばかりの熱帯夜が明けて――。
 早朝、地味な風体の男子大学生が三人ばかり、缶コーヒーやエナジードリンクを買って行った。
 昨日で夏休みが終わり、駅前ロータリーのバス停留所には久々の行列ができている。
 ここ二三日、ほとんど客の相手をしていなかった静枝は、思わず地声で礼を言いそうになったが、かろうじて思いとどまった。初日の深夜、暴走族の若者が顔面蒼白になって急発進し、停留所の案内板にバイクごと激突する姿を思いだしたからである。あの手の不良ならともかく、真面目そうな学生さんを朝っぱらから脅かしてはいけない。
 静枝は機械的に音声データを再生した。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
 二人連れの女子大生も、アイスココアとメロンソーダを買ってくれた。
 こちらの娘たちは頭から指の先まで色とりどりで、むしろ不良青年の横に置きたい風体だが、ちゃんと早起きして一限に出席する学生なら、まあ脅かしてやるほどではない。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
 順調に売り上げを増やしながら、静枝はしみじみ思った。
 ここに店を出したのは、大正解だったなあ――。
 十数年前、営林署を定年退職した孝吉が駅前に洋品店を開こうと言いだしたとき、静枝は内心、退職金を減らすだけなのではないかと訝った。本業が山仕事のわりには、休日になると小洒落た洋服を着こみ、静枝にもしっかり装わせて都会に連れ出すのが好きだった旦那ではあるが、当時のこの駅は、朝晩に僅かな林業関係者が乗降するだけの、ちっぽけな無人駅にすぎなかったのである。あとは紅葉シーズンにオマケ程度の行楽客を見るくらいか。土産屋や食堂ならまだしも、洋品店は無謀である。
 それでもお互い、成人前の怪我や病気で子供が作れない二人ぼっち、遺産を残したい親族もいない。じきに年金だって出るし、ただ遊んで暮らすよりは店番でもやっているほうが二人とも呆けにくいだろう、そう思っておとなしく従った。
 ところが数年後、さほど遠からぬ山裾に、都心の私立大学がまるまる引っ越してきた。いわゆるBランクながら伝統的に就職率が高く、少子化が騒がれる昨今も生徒が増え続け、都心の狭い敷地では収まりきれなくなったらしい。
 当然、駅周辺に賃貸物件や店舗が増える。遊び好きの学生は数駅離れた繁華なターミナル駅周辺に居を構えたが、毎日そこから通ってくるので、いきおい電車が増えるし到着駅も整備される。結果、赤字続きだったちっぽけな洋品店は、あっという間にコンビニや外食チェーンの支店に挟まれ、窮屈ながらも、手堅い黒字経営が続くようになっていた。
 思えば孝吉さんは、昔から上々の旦那様だったなあ――。
 停留所の若者たちを眺めながら、静枝はしみじみと懐かしんだ。
 若い時分の孝吉は加山雄三に似ていた。まあ田舎の男衆の中では若大将寄りに見えただけかもしれないが、他の男衆はたいがい青大将寄りだったから、孝吉に憧れる娘は多かった。仕事も手堅いし、もし普通に子種があったら、いくらでも良縁に恵まれただろう。いっぽう静枝は当時から、若大将の祖母を演じる飯田蝶子のような顔をしていた。今と違って産めよ増やせよの時代、子を望めない娘が近隣に静枝しかいなかったからこそ、仲人(なこうど)主導の見合い結婚が成立したのである。
 その若大将も近頃はすっかり老いぼれて、認知症の気配すら漂うようになり、静枝もついつい粗末にあしらいがちだったが、こんな形で離ればなれになるなら、もっと優しく世話してやればよかった。アクセルとブレーキを間違えたのだって、当人と妻にしか迷惑をかけなかったのだから、見ず知らずの母子を轢き殺しておいて堂々と居直っているどこぞの上級国民に比べたら、遙かに上出来ではないか。
 しかし、めったに人通りのない山道から底深い林に落ちてしまった以上、二人の失踪は、とうぶん誰にも気づかれないだろう。葬式さえ出してもらえば、自分も成仏できそうな気がするのだが――。
 元若大将に再会できるのは、夏の終わりかそれとも秋か、まさか来年の雪融け待ちか。

          ◎

 第一便のバスが出ると、次の電車が着くまでしばらく暇になる。
 まだ朝といっていい時刻なのに、無節操な陽光は、すでに全開だ。
 静枝自身は暑さを感じないにしろ、常に体内で商品を冷やし続ける冷却器の響きを感じていると、なにかしら気怠(けだる)い。
 静枝は物憂げに、後ろで閉ざされたままの店のシャッターに目をやった。いや、今は顔も目もないので、気持ちだけ物憂げな視線を向けた。
 シャッターの真ん中に、孝吉が手書きした藁半紙が、静枝らしく几帳面に貼りつけてある。
[しばらく臨時休業します]
 近頃のガムテープは、しっかり着きすぎる。いつまでたっても片隅さえ剥がれない。
 こんなものを貼らなかったら、ちょっとは早く探してもらえるだろうに――。
 静枝は情けなさに溜息をついた。
 それもまた、気持ちだけの吐息のはずなのに、
「あれ?」
 いつのまにか正面に立っていた一人の男子学生が、百円玉をつまんだ手を止めて首を傾げた。
 その後ろから女子学生も顔を出し、
「どうしたの?」
「いや……なんか今、ここのおばちゃんの声が……」
 男子学生は怪訝な顔をガラスに寄せ、
「こん中から聞こえた……みたいな」
 静枝は、ほう、と目を見張った。
 夏休み前とは見違えるように日焼けしているが、どうやら店の常連のひとり、教育学部の田沼雄一君に違いない。東宝映画の若大将と同姓同名だから、静枝も秘かにひいきにしていたのである。ただし以前の彼は細っこくて生っ白く、加山雄三はもとより、昔の旦那にもかなわなかった。しかし久々に見る田沼君は、夏休みの間に鍛えたのか、まずまず海の若大将っぽく仕上がっている。
 男子三日会わざれば刮目して見よ――。
 静枝は孫煩悩な飯田蝶子のように目を細めた。
 この田沼君は、ファッションセンスも好ましいのである。今どきのフヤけた若者には珍しく、デザインよりも生地や縫製で選ぶ。いきおい地味で古臭いファッションになるが、着心地や()ちは、ずっといいはずだ。初めて来店したときなど、開店以来ずっと棚ざらしになっていたニットのパジャマを掘り出して「うわ、なんでここに寒河江(さがえ)メリヤスが?」と瞳を輝かせた。聞けば東北の田舎育ち、実直な地場物の良さが解る男なのである。
 でも女を見る目はまだまだだなあ――。
 田沼君の連れらしい女子学生をしげしげとながめ、静枝は眉をひそめた。
 夏休み前は、あまりの女っけのなさに静枝も心配していたくらいだが、いきなりこれでは先が思いやられる。同じ教育学部の生徒ではあるまい。教壇より場末のキャバクラが似合いそうな娘だ。見栄えはいいのだが、いかにも品がない。
「朝っぱらから気持ち悪いこと言わないでよ」
 女子学生の険のある声も、静枝の気に障った。
 今の自分が、朝の駅前よりも真夜中の峠道あたりに向いていることは重々自覚している。それでも、朝っぱらからキャバ嬢に指摘されると無性に腹が立つ。
 田沼君は、まだ腑に落ちないらしく静枝の背中を――もとい自販機の裏を覗きこんだりしている。
「……いないよなあ」
 気を取りなおした田沼君は、正面に戻って品定めに入り、
「お、新しいのが出てる」
 夏休み前には並んでいなかった缶飲料を目敏く見つけ、ふたつ購った。
 片方を女子学生にさしだし、
「はい」
 女子学生は軽くうなずいただけで礼も言わず、先にプルタブを引いて中身をひと口、
「なにこれウケる。ほんのちょっとカフェオレっぽい味がするかも? みたいな」
 その娘が褒めているのか(けな)しているのか、語彙が古い静枝には理解できなかった。表情を見るかぎり、どうやら皮肉のようだ。
「……ま、冷たくておいしいけど」
 だからそっちを先に言っとけよ――。
 静枝は、いよいよ顔をしかめた。
 もっとも、その女子学生の味覚そのものに関しては、まったく異論がないのである。
 半月ほど前、飲料会社の若い衆が「新製品、入れときますね。都心でテスト販売したら大好評なんですよ」と自慢し、静枝にも試飲させた『後味スッキリ 深煎りカフェオレ』――缶のデザインは、パリの街角を水彩画風にあしらっていかにも本場物っぽいのだが、肝腎の中身は、確かにそこはかとなくコーヒーとミルクの味がしないこともない程度の代物であった。近頃の都会では、水っぽい薄味が流行(はや)りなのだろうか。去年発売された『昭和レトロなコーヒーミルク』だって、昭和のコーヒー牛乳を半分に薄めたような味なのに、平成生まれの学生たちは「うん、懐かしい懐かしい」と喜んで買ってゆく。
 田沼君も舌のセンスは平成仕様らしく、昭和なら苦情が殺到したであろうカフェオレっぽい水を、旨そうに一気飲みしている。
 静枝は、よしよしと目を細めた。
 うんうん、若大将はナウくてナンボだからね――。
 我ながら無節操だと思うが、実のところ、あえて田沼君がその娘に調子を合わせるそぶりを見せない、つまり単に親切心から飲み物をおごっただけで特に好かれようとしているわけではない、そんな気配が嬉しかったのである。
 うんうん、焦るんじゃないよ田沼君。あんたはまだこれからなんだから、星由里子さんや酒井和歌子さんみたいな、気立てのいいお嬢さんを探しなさい――。

          ◎

 同じ日の昼下がり、見覚えのある小型トラックが店の前に停まった。
 いつもの若い衆が降りてきて、閉ざされたままのシャッターと貼り紙に、首を傾げる。
「……あれ?」
 静枝は思わず地声で話しかけた。
「暑いのにご苦労さん、石山君」
 しかし、なんの反応もない。田沼君と違って、そっち方向の感受性に乏しいのだろう。思えば名前そのものが、若大将対青大将である。よく見れば顔も、どことなく青年時代の田中邦衛に似ている。役者さん本人はいざ知らず、映画の青大将はニブチンなのである。
 静枝は、つい、内蔵の音声データを再生した。
「ありがとうございました」
「わ」
 何も買っていないのに礼を言われ、石山君は首を竦めたが、まさか横の自動販売機が店のおばちゃん自身であるとは思いもしない。静枝だって、そこまでは期待していない。
 石山君は、スマホでどこかに連絡し始めた。
「もしもし――あ、どうも。俺です。はいはい、西エリア担当の石山です。えーと、駅前の山田洋品店さん、もう開いてるはずですよね。――はいはい――ええ、俺も二三日休むってのは聞いてたんですけど、あの電話、もう一週間も前の話ですよね――はい――はい――了解です。いちおう確認してみます」
 石山君は、店の横手の勝手口に回り、静枝からは見えなくなった。
 呼び鈴を鳴らす音、ドアをノックする音。それからしばしの沈黙を経て、店の奥から微かに固定電話の音が響いてくる。主人夫婦の在不在をスマホで確認しているのだろう。
 やがて戻ってきた石山君は、シャッターの貼り紙をもう一度ながめ、その下にあるポスト口を押し開けて、中を覗きこんだ。
 新聞や郵便物はそのまま奥の床に落ちてしまうから、少々不在が長引いたくらいでは、溜まっていても外から見えない。
 石山君は、悩ましげに考えこんだ後、思いきって蓋の隙間に鼻を寄せた。
 近頃は、こんな田舎でも孤独死が珍しくない。高齢者夫婦が二人揃って倒れてしまうこともある。冬場だと何ヶ月も放置されがちだが、生物(なまもの)が傷みやすい夏場なら、たいがい二三日で近所の住民が気づく。
 静枝は思わず舌打ちした。
 ああ、テーブルの上に、食べ残しのサバでも置いとけばよかった――。
 しかし残念ながら静枝の性格上、家の中は常に清潔そのものである。アクセルとブレーキを間違える孝吉だって、外出前のあれこれは二度三度、いや四度も確認していた。
「……ま、いいか」
 石山君は、第一発見者となる最悪の事態は免れたと安堵し、いつもどおりの仕事に移った。
 これから体の前面をばっくり開かれると悟り、静枝は一瞬パニックに陥りかけたが、
「どっこいしょ」
 いざ開かれてみれば、自動販売機としては恥ずべき状態でもなんでもなく、医者に健康診断してもらうのと同じ感覚だった。おまけに体の中身は健康そのものなのである。品切れによる売り逃しもない。
 石山君は缶の数をチェックし、手持ちのバーコードリーダー兼ハンディターミナルを使って、ちまちまと数を入力している。
 ほうほう、と静枝は感心して見守った。昔の若い衆は、手持ちのバインダーに紐で繋がった鉛筆を使い、いちいち納品書に手書きしていたものである。
 それから石山君はトラックの荷台を開け、補充分の商品を台車に乗せて運び、静枝の中にセットしながら、またバーコードを読んだり、ちまちまと確認入力したり、青大将らしからぬ勤労に励んだ。
 そうして、すっかり汗まみれになった石山君が、台車の上の小型プリンターにデータを送ると、何やら印刷されて、にょろにょろにょろ――。
 ほうほう、と静枝はさらに感心した。
 近頃の納品書は、昔よりも妙に紙が薄くて細長いと思っていたら、その機械からレシートのように印刷されて出てくるのである。
 あれに印鑑を押したい、と静枝は思った。
 当の石山君さえ省略するつもりらしい、そんな些細な事柄にうっかりこだわってしまったからこそ、今の自分はここでこうしているのだ。
 しかし石山君は、二枚綴りの納品書を、ぴっ、と切り分け、いつもなら印鑑をもらう一枚を、そのまま台車のビニールケースに収めた。
 そして店の控えになる一枚は、シャッターのポスト口に差し入れ、
「ありゃーとざいましたー。また来週うかがいまーす」
 律儀にぺこりとお辞儀して、北の国の五郎さんのように、汗をふきふき去ってゆく。
 静枝としては、いつもなら西瓜か麦茶くらいはふるまうところだが、今は黙って見送るしかない。
 それでも一応、気持ちだけ律儀に頭を下げる。
「……はい、ご苦労さん」
 声が届かないのも、印鑑を押せないのも、青大将が悪いわけではない。

          ◎

「ありがとうございました」
 乗降客のほとんどが大学生だから、駅に戻る時刻はまちまちである。
「ありがとうございました」
 部活やサークルに属していても、中高生のような時間的集中は少ない。
「ありがとうございました」
 そうしたぱらぱらの学生たちを相手に、長い午後をすごした後、
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
 仕事帰りの勤め人たちを相手に、ややまとまった商売を終える。
 静枝は、ふう、と吐息し、ロータリーの彼方で暮れなずむ山並みを見晴るかした。
「……ありがたくないねえ」
 みごとな茜色の残照をながめながら、静枝は地声でぼやいた。
 美しい、とは思うのである。
 このあたりが村から町になり、やがて市の一部になるまで、ずっとここで育ち、生き、老いてきた土地である。今はありふれた郊外の駅前になってしまっていても、変わらない山々と共に静枝の郷愁はある。
 けれど、もういい。これ以上の思い出は、いらない。
 子や孫があれば話は違うのだろうが、今の静枝に、思い残すものは何もない。むしろ、先にどこかへ旅立ってしまった孝吉に、ちゃんと思い残されているかどうかが気にかかる。それでも山際の茜雲を見るかぎり、明日もまた炎天の下で、自分ひとり飲み物を売り続けるのだろう。
 この体の電源は、どうやって落とすのか――。
 なんとか元のソケットを抜く手だてはないか――。
 田沼君が帰りに通りかかったら、思いきって地声で頼んでみようか――。
 静枝がそんなことを考えていると、停留所にバスが着き、当の田沼君が降りてきた。
 まっすぐ駅には向かわず、朝と同じように静枝の前に立つ。
 つい声をかけようとして、静枝は思いとどまった。田沼君の後ろに、やはり連れらしい女子大生の影が見えたからである。
「うまい新製品が入ったんだ」
 わざわざ教えているからには、朝とは別口の娘だろう。
 モテモテだねえ田沼君、と静枝は目を細めた。
 やはり若大将は鍛えてナンボなのである。それに今度の娘さんは朝のアレと違って、なかなか好ましい。星由里子嬢や酒井和歌子嬢には及ぶべくもない庶民顔だが、その笑顔に確かな品がある。同じ教育学部の同級生だろうか。
 でも田沼君、女の子には、もうちょっと甘いものがいいんじゃないの? アイスココアとかメロンソーダあたりが売れてるよ――。
 静枝のお勧めとは別状、田沼君はまた例の超薄味物件を二つ購い、片方を娘さんに差しだした。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
 やや他人行儀なお礼の言葉に、ちゃんと親愛と真心がこめられているところも、静枝の眼鏡にかなった。当然、彼氏より先に飲み始めたりはしないはずである。
 案の定、田沼君が一気飲みにかかるのを見届けてから、
「いただきます」
 プルタブを引いて中身を口にした瞬間、期待が外れて娘さんの表情が曇るのを、静枝は見逃さなかった。
 そりゃそうだ。やっぱりその新製品は、婆さんが飲んでもスベタが飲んでもお嬢さんが飲んでも、そこはかとなくコーヒーとミルクの味がしないこともない程度の水なんだから――。
 それでも娘さんは、田沼君の満足げな笑顔に、健気な笑顔を返した。
「とってもおいしいです」
 その笑顔は事なかれ主義による世辞か、それとも自己犠牲をいとわぬ慈愛の発露か。
 ここで見誤ってはいけない。あえて小姑鬼千匹と化さねば――。
 静枝は根性を入れて娘さんを凝視した。
 後期高齢者の誇りにかけて、ここまでの娘さんの行動や表情から、人品骨柄を深層分析すること、しばし――。
 分析評価、終了。
 お追従(ついしょう)ではない、情のこもった笑顔である。
「その子がいいよ、田沼君」
 静枝は厳かに断言した。
「は?」
「は?」
 田沼君と娘さんの両目が、同時に点になった。
 それはそうである。二人きりだった薄暮の駅前で、いきなり店のおばちゃんの声が自販機の中から聞こえたら、誰でも仰天する。
 さらにそのおばちゃんが、自販機のガラスをすり抜けて、一歩、外に踏み出してくる。
「悪いこた言わない。つきあうんなら、その子にしな」
 あまつさえおばちゃんは、なにやらクラゲのように透き通って見えたりもする。
 娘さんは野犬に襲われる丹頂鶴のような悲鳴を上げ、田沼君にしがみついて、その胸に顔を埋めた。
 静枝は、いつのまにか自販機ではなくなっている自分に気づき、ただ、とまどっていた。
 なんで今、急に――。
 あらためて二人に目をやれば、田沼君は丹頂鶴に襲われたカカシのように、しゃっちょこばって彼女を抱きしめている。超自然現象による衝撃と、生まれて初めて密着する汗ばんだ女体の衝撃が拮抗し、思考が飛んでしまったらしい。
 そんな二人をながめながら、静枝は、おのずと悟った。
 さしずめ今の自分は、遊園地のお化け屋敷のお化け、そんなところか。
 作り物やバイト君の扮装ではない正真正銘の幽霊だから、ウブなアベックをくっつけるには格好の役回りである。これすなわち二重橋効果。いや違う。えーと、そうそう、吊り橋効果。
 思えば静枝は、自動販売機や納品書の印鑑よりも、田沼君のボッチ問題のほうが、ずっと気にかかっていたのである。そして今、田沼君はお似合いの娘さんと、これ以上くっつきようがないくらいしっかりくっついている。
 これで、この世に思い残すことはもう何も――いや、世間様の後始末を思えば、もうひとつだけ。
「それとね、田沼君」
 これ以上怖がらせたくないので、静枝はなるべく声を和らげた。
「は、はい……」
 田沼君はぶるぶる震えながらも、なんとか静枝に顔を向けてくれた。旧知のよしみ以上に、抱いている娘さんに格好をつけたいという意地が窺える。
 静枝は、微笑ましさに目を細め、
「あとでいいから、角の交番のお巡りさんに、ちょっと伝えといてもらえるかい? 『西の峠道のてっぺんあたりで、カローラが一台、崖の下に落っこちてますよ』――そんだけでいいから」
「……はい」
 田沼君は、おずおずとうなずいてから、その車種が山田洋品店の車と同じであることを察したらしく、
「あの……これって、もしかして……いわゆる『虫の知らせ』的な?」
 娘さんのほうも好奇心が恐怖をしのいだのか、田沼君の胸に頬を寄せたまんま、ちらちらと静枝の様子をうかがっている。
 静枝は、ふと悪戯心を起こし、
「――でも、絶対に自分で見に行ったりしちゃいけないよ。旦那もあたしも、エラいことになってると思うから。こう暑いと、生物(なまもの)はすぐ傷んじゃうし、蝿もわんわんたかるしねえ」
 吊り橋効果の駄目押しである。
 娘さんは、ひ、と息を呑んで、田沼君の胸に、ますますきつく顔を埋めた。
 田沼君は、かんべんしてくださいよ、そんな情けない顔で静枝を見ている。
 静枝は満面の笑みを浮かべ、軽くひらひらと手を振った。
「じゃあ交番の件、よろしくね。さよなら」
 そのまま薄れて消えてゆく静枝の姿を、田沼君は、ただ呆然と見送っていた。

          ◎

 その後、山田さん夫婦が再会をとげるまでの経緯は、残念ながら詳述できない。こちらの駅前とはまったく次元を異にする彼岸での出来事を、此岸の日本語で描写するのは不可能だからである。ともあれ先に着いた孝吉は、ちゃんと静枝を待ちわびていた。ただし自分がアクセルとブレーキを踏み違えたことは、きれいさっぱり忘れていた。
 ちなみに空き家となった山田洋品店は、ある走り屋が「俺はここで真夜中に婆さんの幽霊と勝負した」とツイートしたのをきっかけに、電車一本で涼みに行ける貴重な駅前心霊スポットとして大いに人気を博した。令和のなかば、その廃屋が駅前再開発で撤去されるまで、客足がとだえなかったほどである。
 田沼君とその妻も、平成レトロな夏の夜話として、孫子の代まで語り継ぐつもりらしい。



              【終】

駅前心霊スポット

駅前心霊スポット

  • 小説
  • 短編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-08-10

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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