オープン・テラス
空振りの休日。目についたカフェに入った時、時刻はもう三時過ぎだった。
正午過ぎに中目黒を出て、代官山までゆっくりと歩いた。
六月の散歩は良い、と僕は思う。夏の香がすぐ傍まで来ている期待感と、梅雨時の静けさが融合しどことなく僕を慰めてくれる。
――慰められるだって? 僕は自分の考えに自問する。
一体何に労わってもらう必要があるのだろう。そこまで考え、煙草の煙で思考を閉じた。
そのカフェは中々洒落た空間で十八世紀頃のイタリアを思い起こさせた。ルネッサンスに吸収された、残り香のような場所。
テラコッタの床にアンティークの家具。そしてケヤキからの木漏れ日。その空間はまるでパティオのようだ、と僕は思った。
遠い向こうの田舎町。僕は店内へ足を踏み入れた。
「おひとりですか?」
僕に気がついた店員が声をかけた。彼は皺ひとつないカッター・シャツをきれいに腕元で捲り、穏やかな声色で言った。
とても感じが良かった。
僕は肯き、「ひとり。あと、煙草を吸いたいのだけれど」と言った。
「生憎と店内は全て禁煙とさせて頂いております。申し訳ございません。テラス席なら一席だけ御座いますが……」
「テラスで良いさ。ありがとう」
「では、ご案内させて頂きます」彼は静かに言った。
テラス席は店の裏側にあった。六テーブルある内、既に五つが埋まっており、随分と評判の店らしかった。
客の多くはグルメ雑誌を眺めたり、出された料理をカメラで撮影したりしていた。僕はいささかうんざりした気持ちで煙草を咥え、
名前の難しい何とかラテを注文してから火を点けた。
周りからの浮ついた声が耳に届く。インターネットや雑誌で評判のケーキだとか……。
――チキショウメ。これだからカフェは嫌いだ。
だいたいにおいて、僕はカフェを好まない。純喫茶やそれに通じる喫茶店が僕の趣味なのだ。
クリーム・ブリュレだとか、カップ・チーノだとか、そういう横文字は何故か気取って見えるのだ。
そして――、まぁこれが本質だと思うけれど、こう周りで楽しげに話されたら、ひとりきりの僕が何とも惨めに思えて来るのだ。
特に代官山なんて街だとさ。だから僕は何とかラテを飲みながら、濃いグリーンのレイ・バンを掛け、木漏れ日を眺めていた。
ふと、笑い声が聞こえ、僕は声の方へ振り向く。
そこには最近付き合い出したと見える、大学生のカップルが居た。彼らはしきりに笑い合い、交換ノートや写真やらを眺めていた。
その姿はとても微笑ましいと同時に、僕の心を燻る何かがあった。胸を締め付け、僕を惑わす何かが。
だから僕は彼らの声に耳を澄まし、静かに目を閉じた。
――そうだ。あれは僕らの過去だ、と僕は思った。
まだ、付き合い出した頃の僕らの姿がそこにはあった。
僕には二つ年上の彼女が居る。彼女と出会ったのも、ちょうどこんな昼下がりだった。
当時、SF小説に夢中だった僕は、毎日のように大学の図書館に足を運んでいた。その図書館は決して広くはなかったけれど、
地下に倉庫のような書庫があって、備え付けのPCで検索すれば、それを頼りに司書が持って来てくれる仕組みになっていた。
その書架には星新一や小松左京、それにジェイムズ・P・ホーガンも揃っていた。僕は来る日も来る日も、多くの時間をその場所で過ごした。
彼女の方は当時、大学院で古典を勉強していて、講義のない日は図書館で働いていた。
作家を目指す彼女と読書家の僕。僕らが顔見知りになるのに、それほど多くの時間は必要じゃなかった。
だって僕らは、ほとんどの時間を図書館で過ごしていたのだから。
付き合ってからの僕らは、とても仲の良いお似合いのふたりだった。
僕が口を開き、彼女が微笑む。そんな穏やかな日常。僕より随分としっかりした彼女は、僕の抱える些細な悩みに真剣に耳を傾け、
時に慰め、時に説教してくれた。僕はそんな彼女に母親以上の存在を感じていた。
けれど、あれから五年の歳月が流れ、僕もいつしかしっかりした大人になった。年上の彼女に悩みを打ち明けずとも、
処理出来てしまうほどの大人に。
社会の外側に足を踏み入れ、僕は多くの経験をしたのだ。それこそ、彼女から得られるもの以上のことを、既に僕は吸収してしまった。
そして、成長した僕と彼女の間には、得られるものがないばかりか、些細な会話もなくなってしまっていた。
「失礼ですが、お客様。相席して頂いても宜しいでしょうか?」
しばらくして、先ほどの彼が僕に声をかけた。僕の方は既に飲み終えており、
あと一本煙草を吸えば出て行こうと思っていたから、笑顔で了承した。
僕の隣に腰掛けて来たのは制服姿の少女だった。彼女は淡い栗色の髪を毛先でウェーブさせた上品な子だった。
「クレーム・ブリュレ二人分と珈琲も二人分ね」
二人分? 僕はその言葉に耳を疑い、彼女を横目で見つめた。けれど彼女は、何ということもなく
「カップは勿論二つでお願いね」と優しくウエイターに微笑んだ。
「どうしてもこの店のブリュレを食べたかったのね。だから、満席だと聞いてとてもショックだったけど、相席してくれて助かったわ。
あなたは食べたことあるかしら?」
ウエイターが去った後、彼女はとても自然に僕に話しかけた。僕はサングラスを外し、残り少ない水を飲みほしてから言った。
「食べたことないけど……」
「良かった。二人分頼んで正解だったね。おいしくて評判だから、二人ならあっと言う間だもの」
「二人?」
「そうよ。あぁ、二人って言うのはあなたと私ね」
彼女に真顔で見つめられ、僕は曖昧に肯いた。
「相席のお礼よ。遠慮はいらないわ。お金なら、多分あなたより持っているから」
そう言って真新しく高級な財布を僕の前でヒラヒラとさせた。僕は煙草に火を点け、大袈裟に肩をすくめてみせた。
彼女は山の手にある、とある私立高校の学生で、おまけに相当な資産家の娘だった。エルメスの財布の中には、
およそ高校生が所持出来ない枚数の札束の他、父親名義のブラック・カードが入っており、
おまけに彼女は孫の代まで遊んで暮らすことが出来る、と初対面の僕に向かって告げた。
そして多くの金持ち連中と同じように聞きもしないのに自分の家族構成から父親の仕事、そしてこれまでの自分の経歴を順々に話して言った。
僕にとって有益だと思えない話が終わった後、彼女は真っすぐに僕を見つめ、「どうかな?」と言った。
「どうかなって、何が?」僕が聞き返すと、彼女は少し赤くなった。
「感想……、なんだけど」
「感想?」
「そう、感想。素直にどう思ったかしら?」
僕は少し考えてから、「正直言うと、何とも思わないかな」と言った。
「何とも?」
「そう。何ともだ」
僕にとってそれは事実だった。今の僕には目の前に座る、金持ちで可憐な少女より、僕と年上の彼女のことで頭が一杯だったのだから。
しばらくして僕らは、どうしてかひとつの皿に納まったクレーム・ブリュレを互い違いに突いていた。
「カフェってさ、何と言うか開放的な気持ちにならない?」唐突、彼女はそう言った。
「開放的?」
「そうよ。特にこんな雰囲気の良いテラス席だとさ」
「そうかもしれない。僕らの周りの人たちも何だかとてもリラックスして見える」
「でしょう。だから好きなのね、私。カフェってさ、色々なことがクリアになる気がするの」
「例えば?」と僕は言った。
「うーん。そうね、例えば私とあなたの関係とかね。私たちはさっきまで全くの他人だったけど、今はこうしてブリュレを突いている」
「まぁ、確かに突いてるけどさ」
「それに、未成年の私に対して、誰も煙草を注意しない」
「少なくとも、今はね」
彼女は小さく笑った。
「ねぇ、この店はよく来るの?」
「いや、始めてさ。たまたま通りがかったんだ。君は?」
「初めてよ。だいたい私は一度しか同じ店には行かないようにしているの」
そう言って彼女は、まるで辞書みたいに使い古した一冊のノート・ブックを鞄から取り出した。
「何さ」
「見て分からない? ノート・ブックよ。それも、ヘミングウェイが愛したって言うノート・ブックね」
彼女は自慢げに笑い、そのノート・ブックの関することを話してくれた。
それはひとつの精密なカフェ・リストだった。彼女自らの足で調べたそのリストは驚くほど完成度の高い代物だった。
リストには雑誌やマスコミで評判のものだけでなく、彼女の直観やコンセプトが導き出したものだった。
中には僕が好んで行く店もあったし、まったく分からないものまであった。だって中には、富良野の喫茶店まであったのだから。
彼女は言う。いつか、彼が出来た時に一緒に行くのと。
「彼が出来た時?」僕がそう言うと、彼女は曖昧に笑った。
「だって恋人同士にはそれこそたくさんの素晴らしいことや、困難が待ち受けているでしょう?
だからこれは未然策なの。カフェや喫茶店には、二人の溝を埋める力があるって信じてるのね」
彼女はそう言って、小さな口に珈琲を運んだ。
「あなた、彼女は?」
彼女は突然そんなことを言った。僕はかぶりを振った。
「ねぇ、分かってるのよ。あなた、彼女が居るでしょう?」
僕は肯き、あまりうまくいっていない彼女のことを話した。
「ねぇ、どんな風にうまくいっていないの?」
僕は少し悩み、正直に告げた。物事がクリアになると言った、彼女の言葉にアテられたように。
「例えば……、例えばね、こんな風に居心地の良いカフェを見つけたとする。昼間は、彼女も仕事をしてるだろ?
だから僕らは夜にしか話さないんだ。本当は小さな、この些細な発見を話したいんだけどさ、夜になって眠る頃には、
それはどうでもいいことのように思えてくるのさ。見つけた時はこんなに伝えいと思ってるのにさ、夜になると、
それはどうしても伝えなきゃいけないタイプの話じゃない気がしてね、結局は『おやすみ』の一言だけになっちまう」
僕はそう言うと、少し恥ずかしくなって煙草に火を点けた。
勿論僕にも分かってる。熱が冷めていくのは仕方ないことだって。
「ねぇ、そんなものに意味はあるのかしら?」
「そんなもの?」
「おやすみの一言よ。それだけだったら、しないほうが良いわ。きっと……」
「意味なんてものはないさ。ただの定時連絡さ」と僕は言った。
あるいはそれは定時連絡ではなく、浮気をしていない言い訳かもしれなかった。
「言い換え得ればそれは、今から寝るから連絡はよこさないでって風にも聞こえるわ」
「そうかもしれない」
ただ、本当のことは分らなかった。それは習慣のようなもので、今まで考えて来なかったから。
恋に恋する少女は言う。「そんな状態で、どうやってふたりは愛を深めてるの?」
「深めたりしないさ。今まで積み重ねたものを維持してるだけだよ」
彼女は目を細め、それは悲しい恋愛だね、と言った。本当に悲しい、何も生み出すことの出来ない恋だと。
それは恋とは呼べない。一定温度で留まり続ける酒燗器のようなものかもしれない、と僕は思った。
「なんとかしたいんだ」気づけば僕はそんな言葉を漏らしていた。正直、参っていたのかもしれない。
恋を知らない少女は大きく息を吐き出し、肩肘をついて僕を見た。
「彼女とここに来るべきよ。このオープン・テラスへさ」
彼女は言う、恋人たちのカフェはとても素敵な空間だと。
「温かい飲み物に美味しいスイーツ。そして開放的な雰囲気。ここには何だってあるの。ねぇ、周りを見てみて。
みんなとてもリラックスしている」
「みんなとてもリラックスしている」僕はオウム返しで彼女に答えた。
「茶化さないでよく見てみて。ここでは色々な話が出来るの。うまくいかない恋の話から、ほうれん草の値上がりの話だってね」
「ほうれん草の値上がり?」と僕は言った。
「ただの例えよ、流していいの。熱はどんどん冷めていくよ」彼女は冷たくなった珈琲を含んで言った。
「だから維持するだけじゃ駄目なの。自分に素直になって、彼女を誘ってあげるのよ。このオープン・テラスへね。
きっと色々なことがうまくいくはずだから。そういう風に出来てるのね、この場所は」
彼女はそう言って席を立った。考えてみて、と。
彼女が去った後、僕はまた木漏れ日の風景を眺めてみた。きっと、彼女も同じ不安を共有してる気がした。
僕らはずっと遠回りして、同じところをグルグル回り続けているのだ。
それはきっとまだ、僕らの間にお互いを想う気持ちが残っているからだと思った。
――このままで良いわけなんてない。
始めからやり直すんだ。二人の些細な日常や、気持ちについて話すべきなんだ。
だってこのテラスから見える景色は、これほどまでに輝いているのだから。僕は静かにそう感じていた。
オープン・テラス