リキッドルーム

ワカメ

 酸素の量が少ないと警告音が鳴っていた。
 昨日何度も新しく買った酸素ボンベと背中に背負うタンクが接続されているか確認したのに。
 警告音が鳴るということは、多分うまくチューブが接続されていなかったか、そもそも酸素ボンベが不良品だったか、そのどちらかだった。
 特に穴が空いていると言った感じもしなかったから、多分、最初から酸素がなかったのかもしれない。
 自分の過失であるという可能性も捨てきれないから、もやもやした気持ちのままドアの開いた電車に乗り込む。
 ダボダボの潜水服はすでにどこもかしこも穴だらけだった。破れては縫い、破れては縫うを繰り返しているおかげで、そこかしこ色が違う。ドラえもんのワッペンがついていたり水玉模様の布が歪に張り付いていたりする。

 困ったと頭を掻く。頭を掻くと言っても金魚鉢みたいなヘルメットを被っているから、掻くというよりも指で撫でていると言った方がいいのかもしれないけれど、そんなことはどうでもいい。
 そのツギハギの間から微妙に空気が漏れているのかもしれない。仮に漏れていたとしても、どこからなのかわからない。

 とにかく、会社に電話する。仕事どころではない。命に関わる一大事なのです、とスマホを耳の穴に当てて喋ったけれど、聞こえていそうもない。大体、向こうの声も全く聞こえないのだ。

 仕方なく僕はスマホを放り投げ、肩の力を抜く。スマホはゆっくりと放物線を描いて反対側の電車の窓にぶつかり、星みたいに砕け散って電車の中に散らばった。
 他の乗客は、見えないふりをしているのか、それとも全く見えていないのか、まるで彫刻家の部屋の中にある試作品の石像みたいに、シーンと静まりながら、各々自分の世界に沈んでいた。

 スマホをいじる人、窓の外を眺める人、新聞を読む人。

 少し体が動く度に、透明な泡が、浮かび上がって消えていく。

 ここから家に戻るにしても、酸素は足りず、仕事場に行くにも酸素は足りない。
 つまり僕は、どのみちどこかで窒息死する運命にある。
 珍しいことでもない。行き倒れになっている人は何人も見たことあるし、誰も気にも留めない。
 その誰かの亡骸の上を平気で踏みつけ歩いていく人もいる。
 誰かに訴えたところで、そいつの管理が不十分だったのだと言われるのが目に見えているから、もう誰も何も言わない。
 そんな土左衛門に、僕がなってしまうなんて、思いもしなかった。

 諦めがついたのは見知らぬ駅で降りて、そのすぐのところにある高架下のところに描かれた富士山を見た時だった。
 富士山はまるで、葛飾北斎が描いた風景画のように、鋭く尖っていた。そうして、その一瞬で時間が止まったような、荒々しい波飛沫が、足元でうねっている。

 天井近くには、ぶら下がるように、アーチ状に、大化の改新と書かれていた。
 大化の改新、と僕はぼそっと呟き、その絵を背に力なく地面に腰を落とした。
 大化の改新って、中大兄皇子とか、藤原鎌足がやった、あれなのか、それとも、何かを抽象的に大化の改新と言っているのか、僕にはよくわからなかった。

 この絵が落書きなのか、何か町おこしで描かれたものなのかも、はっきりしない。
 とにかく、この富士山の雪が積もった白い部分には、誰かの落書きやサンスクリット文字みたいなものが書かれているのは見える。

 絵とは言っても、富士山の麓で死ねるのはありがたいが、死んだら誰が僕を片付けるのだろうと不安になった。


 噂だと、パッカー車の荷台に詰め込まれ、処理場に運ばれて、他の可燃ゴミと同じように処分されると聞いたことがある。
 まぁいいか、その頃には意識もないだろうし、簡単に言えば、僕が死んで困る人も一人もいない。代わりなんていくらでもいるのだ。中身が少し違うだけで、みんな同じ国から支給された潜水服を着ているのだから。ぱっと見じゃあ誰が僕で、性別さえもはっきりしない。

 
 どれくらいの時間がたったか、ふと隣に、おんなじような潜水服が、ごさっと座り込んできた。
 周りの土埃が、ブワッと舞い上がり、数秒かけてゆっくりとまた地面に戻っていく。
 僕の酸素残量を知らせる警告音の感覚が、徐々に狭まり、忙しそうにしている。少し呼吸も苦しくなってきたが、会話ができないほどでもなかった。
 僕は彼か彼女かわからないが、取り敢えず同じ運命を辿りそうなそいつに、話しかけてみることに決めた。
 肩に触れると、通信回線が接続されて、視界の右端に、スピーカーのマークが出てくる。

 
 「あなたもここで終わりにしようと決めたんですか」
 終わり、と年配の男の声がした。
 「私はここで少し休んでいるだけですよ」
 僕は今これこれこういう状況で、と説明した。
 「それは、大変でしたねぇ」
 男は何だか、まるで喜劇映画の主人公を見るように、僕をヘルメット越しに見つめていた。
 「そのヘルメット、取ってみたらどうですか?」
 路線バスが横切り、道端の珊瑚礁にカクレクマノミがさっと頭を隠す。
 「どうせ死ぬんだし」
 「取ったらどうなると思います?」
 言いにくそうに男は一瞬考えていた。
 「教科書通りなら、取った瞬間水圧で頭が弾き飛ぶと思います」
 低く笑いながら、男はいった。
 そもそもここで、ヘルメットを取ることができるのか、水圧でびくともしないんじゃないかと色々考えているうちにも、カクレクマノミは珊瑚礁の隙間から出てきたウツボに丸呑みにされた。
 警告音はだんだん大きくなり、遠くの方では、どこから落ちたのか、水着姿の男がぶくぶくと沈んでいく。
 はるか上には水面がある。歪む水面の向こうには次々に飛び込んでくる水着姿の男たちが見える。
 まるで餌をとるカツオドリみたいに。

 僕は恐る恐る、ヘルメットのロックを外した。
 
 水面に顔を出すみたいに、思い切り上を向く。突き刺すような太陽の日差しが、顔に当たるような感触がした。

リキッドルーム

リキッドルーム

  • 小説
  • 掌編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-08-01

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