リキッドルーム
ウォーターメロン
今年の夏に入ってすぐの頃、確かあれは、家と家の間の、微妙な隙間だったと思うのだけれど、脱ぎ捨てられた潜水服(宇宙服?)を見たんだ。
初め僕はそれを、何か生物の死体とか、投げ捨てられたマネキンか何かだと思ったけれど、近くで見ると、やっぱりそれは、得体の知れない、真っ白の土偶みたいな服だったんだ。
大事げに重そうなリュックみたいなものがついていて、ちょうどヘルメットのところのガラスの部分を見てみたんだけど、罅が入っていて、中は空洞だった。
今まで見たことのないような、多分、直射日光を遮るための処置なんだろうけど、オレンジ色にガラスは塗られていて、反射した空も、夕暮れみたいに赤みがかった色になっていた。
こいつを着ていたやつを、ちょっと想像してみようと思ったんだけど、やっぱり、この世の、少なくとも地球上の生き物とは、とても思えない。
宇宙人とか、多次元人とか、そういう感じの生き物が、たまたまここに迷い込んでしまって、自分が生きていく酸素と水があるのがわかったから、脱ぎ捨ててどこかに消えてしまったんだろうと思ったんだ。
そいつが今どこで何をしているのか、よくわからないけれど、多分、普通の人間に紛れ込んで生活してるんじゃないかな。
おじさんに怖い話をしてくれと頼むとそんな話をしてくれた。
今年の夏ってなると、結構最近のことではないのかと、僕は思った。風鈴がチリチリとなって、蚊取り線香の煙がニョロニョロと、蛇使いの壺から顔を出す蛇みたいに伸びていた。
僕はその潜水服が脱ぎ捨ててあった路地の場所を教えてもらって、その話を聞いた後すぐ、現場に行ってみたけれど、そこには初めから何も無かったように、狭い路地が細長く続いているだけだった。
僕は、近くのスーパーで買った大玉スイカを手からぶら下げて帰っている途中で、そんな話を思い出していた。
ちょうど目の前のゴミ捨て場に、潜水服のような、宇宙服のような服が、捨ててあったからだった。ご丁寧に、不燃ゴミの日の前日に、堂々と捨てられていた。
当日の朝に出すのが普通のはずなのに、前日に出すのもどうかと思うが、潜水服が果たして燃えないゴミに該当するのかどうか、僕は思わずそのゴミの前で立ち止まってしまった。
潜水服は、打ち捨てられたマネキンみたいに、両手両足を、卍みたいな形にして捨てられていた。ヘルメットは外れかかっていて、中からよくわからない茶色い液体が滲み出ていた。
その右腕の付け根あたりに、大化の改新と書かれている。大化の改新って、あの、中大兄皇子とか、藤原鎌足がやった、あれなのか、僕にはよくわからなかったけれど、捨てられているのもに書かれているのだから、特に大した意味もないのだと思う。
じわじわと、汗が滲み出てくる。
僕は歩みを再開した。こんなものがどうなろうが知ったことでもないけれど、何事もなくこのゴミステーションから明日消えていたら、僕はその場でまた足を止めて一瞬考えるかもしれない。あ、いいんだと。
僕の中で、明日会社に行く時の楽しみが、一つ増えた。
おじいさんはもう、最近ではずっと寝たきりだ。目を開けているのか閉じているのかもわからない。相変わらず蚊取り線香がついていて、おじいさんが寝ている布団のすぐそばで、細い煙が立ち昇っている。
「爺さん、スイカ買ってきたよ」
オメェにスイカを買ってもらうほど、俺は落ちぶれてねぇ。
「まぁまぁ」
爺さんはもう何も言わないけれど、多分そんなことを言っている。気がする。
ナスときゅうりの馬の奥で、ばあさんが笑ってる。
「さっき潜水服が捨ててあったよ」
お前もみたのか。
「それみてて、ふと思ったんだけどさ」
自分の顔も姿も形も、全部隠して生きられたら、どんだけ楽なんだろうって、軽く5分ぐらい、考えちゃったよ。
スイカを包丁で真っ二つにすると、中から真っ黄色の断面がまな板いっぱいに広がる。
赤いスイカだと思ったけれど、黄色いスイカだった。ぱっと見じゃ、全然分からない。
ふと、台所の奥にある、中位の窓に目をやる。窓の外には結構大きな松が立っていて、その奥に少し尖った崖がある。崖といっても小さなもので、大人一人分ぐらいの高さしかない。その下は深い海で、カモメが暇そうに松の下で休んでいる。
じいさんはスイカを食べない。分かりきっている。絶対に食べないし、動きもしない。僕は潜水服に少しの憧れを持ちながら、ため息を少し吐き出してスイカに塩をかける。
蚊取り線香の煙が細く天井まで伸びている。外からは崖から海に飛び込む男たちの笑い声が絶え間なく聞こえる。
僕は苦々しく種を吐き出し、また一口スイカを食べ、種を吐き出す。
こんな事を繰り返しているうちに、自分の分を食べ終わってしまった。わざとらしく、じいさんの皿を見て、一瞬考えた後、
「じいさんいらないの」
と爺さんの分に手を伸ばす。高かったんだからさ、と呟いて、一口、また一口、食べているうちに、ばあさんの写真立てが、パタンと倒れた。
翌日、僕は潜水服の捨ててあったステーションの前でまた歩みを止めてしまった。
潜水服は、律儀に体育座りしながら、がっくりと項垂れていた。おでこに、
直接搬入してください
とステッカーを貼られて、居心地悪げに、シュンとしている。
リキッドルーム
酸素の量が少ないと警告音が鳴っていた。
昨日何度も新しく買った酸素ボンベと背中に背負うタンクが接続されているか確認したのに。
警告音が鳴るということは、多分うまくチューブが接続されていなかったか、そもそも酸素ボンベが不良品だったか、そのどちらかだった。
特に穴が空いていると言った感じもしなかったから、多分、最初から酸素がなかったのかもしれない。
自分の過失であるという可能性も捨てきれないから、もやもやした気持ちのままドアの開いた電車に乗り込む。
ダボダボの潜水服はすでにどこもかしこも穴だらけだった。破れては縫い、破れては縫うを繰り返しているおかげで、そこかしこ色が違う。ドラえもんのワッペンがついていたり水玉模様の布が歪に張り付いていたりする。
困ったと頭を掻く。頭を掻くと言っても金魚鉢みたいなヘルメットを被っているから、掻くというよりも指で撫でていると言った方がいいのかもしれないけれど、そんなことはどうでもいい。
そのツギハギの間から微妙に空気が漏れているのかもしれない。仮に漏れていたとしても、どこからなのかわからない。
とにかく、会社に電話する。仕事どころではない。命に関わる一大事なのです、とスマホを耳の穴に当てて喋ったけれど、聞こえていそうもない。大体、向こうの声も全く聞こえないのだ。
仕方なく僕はスマホを放り投げ、肩の力を抜く。スマホはゆっくりと放物線を描いて反対側の電車の窓にぶつかり、星みたいに砕け散って電車の中に散らばった。
他の乗客は、見えないふりをしているのか、それとも全く見えていないのか、まるで彫刻家の部屋の中にある試作品の石像みたいに、シーンと静まりながら、各々自分の世界に沈んでいた。
スマホをいじる人、窓の外を眺める人、新聞を読む人。
少し体が動く度に、透明な泡が、浮かび上がって消えていく。
ここから家に戻るにしても、酸素は足りず、仕事場に行くにも酸素は足りない。
つまり僕は、どのみちどこかで窒息死する運命にある。
珍しいことでもない。行き倒れになっている人は何人も見たことあるし、誰も気にも留めない。
その誰かの亡骸の上を平気で踏みつけ歩いていく人もいる。
誰かに訴えたところで、そいつの管理が不十分だったのだと言われるのが目に見えているから、もう誰も何も言わない。
そんな土左衛門に、僕がなってしまうなんて、思いもしなかった。
諦めがついたのは見知らぬ駅で降りて、そのすぐのところにある高架下のところに描かれた富士山を見た時だった。
富士山はまるで、葛飾北斎が描いた風景画のように、鋭く尖っていた。そうして、その一瞬で時間が止まったような、荒々しい波飛沫が、足元でうねっている。
天井近くには、ぶら下がるように、アーチ状に、大化の改新と書かれていた。
大化の改新、と僕はぼそっと呟き、その絵を背に力なく地面に腰を落とした。
大化の改新って、中大兄皇子とか、藤原鎌足がやった、あれなのか、それとも、何かを抽象的に大化の改新と言っているのか、僕にはよくわからなかった。
この絵が落書きなのか、何か町おこしで描かれたものなのかも、はっきりしない。
とにかく、この富士山の雪が積もった白い部分には、誰かの落書きやサンスクリット文字みたいなものが書かれているのは見える。
絵とは言っても、富士山の麓で死ねるのはありがたいが、死んだら誰が僕を片付けるのだろうと不安になった。
噂だと、パッカー車の荷台に詰め込まれ、処理場に運ばれて、他の可燃ゴミと同じように処分されると聞いたことがある。
まぁいいか、その頃には意識もないだろうし、簡単に言えば、僕が死んで困る人も一人もいない。代わりなんていくらでもいるのだ。中身が少し違うだけで、みんな同じ国から支給された潜水服を着ているのだから。ぱっと見じゃあ誰が僕で、性別さえもはっきりしない。
どれくらいの時間がたったか、ふと隣に、おんなじような潜水服が、ごさっと座り込んできた。
周りの土埃が、ブワッと舞い上がり、数秒かけてゆっくりとまた地面に戻っていく。
僕の酸素残量を知らせる警告音の感覚が、徐々に狭まり、忙しそうにしている。少し呼吸も苦しくなってきたが、会話ができないほどでもなかった。
僕は彼か彼女かわからないが、取り敢えず同じ運命を辿りそうなそいつに、話しかけてみることに決めた。
肩に触れると、通信回線が接続されて、視界の右端に、スピーカーのマークが出てくる。
「あなたもここで終わりにしようと決めたんですか」
終わり、と年配の男の声がした。
「私はここで少し休んでいるだけですよ」
僕は今これこれこういう状況で、と説明した。
「それは、大変でしたねぇ」
男は何だか、まるで喜劇映画の主人公を見るように、僕をヘルメット越しに見つめていた。
「そのヘルメット、取ってみたらどうですか?」
路線バスが横切り、道端の珊瑚礁にカクレクマノミがさっと頭を隠す。
「どうせ死ぬんだし」
「取ったらどうなると思います?」
言いにくそうに男は一瞬考えていた。
「教科書通りなら、取った瞬間水圧で頭が弾き飛ぶと思います」
低く笑いながら、男はいった。
そもそもここで、ヘルメットを取ることができるのか、水圧でびくともしないんじゃないかと色々考えているうちにも、カクレクマノミは珊瑚礁の隙間から出てきたウツボに丸呑みにされた。
警告音はだんだん大きくなり、遠くの方では、どこから落ちたのか、水着姿の男がぶくぶくと沈んでいく。
はるか上には水面がある。歪む水面の向こうには次々に飛び込んでくる水着姿の男たちが見える。
まるで餌をとるカツオドリみたいに。
僕は恐る恐る、ヘルメットのロックを外した。
水面に顔を出すみたいに、思い切り上を向く。突き刺すような太陽の日差しが、顔に当たるような感触がした。
リキッドルーム