切り抜き


 その日は人と待ち合わせていた。
 身体はどう。一言目。大丈夫だよ、生理で少し眠いだけ。そっか、無理しないでね。車を走らせる。
 相変わらず端正な顔立ち。窓全開で強すぎる風が入る。直前まで煙草を吸っていたに違いない。禁煙は嘘だった。風の音でろくに会話もできないので、黙って外を見ていた。鼻歌を歌ってたけど、なんの歌か聞かなかった。
 工業地帯を抜けて海が見えてきた。目的地はこの先にある展望台。目の前のセブンでブリトーを買った。彼はコーヒーとマフィン2つ。イギリス貴族なの?って聞いたら、そしたら紅茶じゃない、って返ってきた。それっきりその話題はおわりになった。ふたりともにこれ以上のイギリスの知識がなかった。
 高い所から街並みを見ていると神様になった気分になる。社会と切り離されるというのは心地がいい。テーマパークもクラブハウスも、そういった理由で重宝されている。
 近い未来、空に近い空間を利用した逃避行施設が流行るのではないかと勘繰っている。宇宙に夢を見る人は多いのに、この莫大に広がった宇宙までの空間に目を向ける人が出てこないのはなぜなんだろう。もちろん、隠れて存在しているんだろうけど。
 もっと胸を張っていていい気がする。
 ベンチに座ってご飯を食べる。彼は食べ終わるのが遅い。合わせてもにゅもにゅと食べる。ほんとは3口で終わるのに。
 この1年はどうだった、と聞かれ、どうだったろう、と考え込む。涙の使用量が基本料金では収まらなかった。5キロ痩せて2キロ太った。
 なにが一番つらい?眠れない夜。そうじゃなくて。なにが。彼のことはまだ思い出すの。思い出せないことも増えてきた。そっか。そうだよ。うん。前に進んでいるんだね。前なのかはわからないけど。
 肩を並べて、雲が行く方を見ている。
 別れた後1回会いに来てさ。うん。荷物置きにきたんだよ、それまで頑なにこなかったくせに早く忘れたいみたいにやってきて、その時に言われたの、いつかまた帰ってくるって。うん。俺からは離れないって言ってて逃げ出しておいて、そんな言葉、信じられるわけないよ、一貫性がなさすぎる。
 今月は基本料金を、どれくらい超えただろうか。
 わたし、帰ってきた時はおいしいご飯作ってあげたくて。うん。なんにも作ってあげられなかったから、だから料理教室に通って。うん。彼の言葉、もう一度信じてあげたいの。うん。おかしいって思う。うん。その、うん、以外になにか言えないの。うーん。バカにしてるの。うん。おい。
 小突くふり。小突かれるふり。この男のいい加減さにはもううんざりしている。
 服でも買いに行ってるのかもね。え?だから彼、いい服がまだ見つからないのかも。そうかな。そうだよ、いい服が見つかったら、きっと見せに帰ってきてくれるよ。そうかも。そうでしょ、そう思うと楽でしょ。
 どうして気持ちがわかるの。そういう歌があるんだよ。どんな歌。陽気な歌さ、聞くと心が豊かになる。
 そう言って流してくれた。心は豊かになったけど、それが歌のおかげかはわからない。彼がわたしが聞こえやすいように肘を曲げて持っていてくれる、その腕が少し震えていたからかもしれない。
 現実に戻って、もう一度車を走らせる。
 新しい映像を撮ろうと思ってると彼は話した。そういえば大学生時代もショートフィルムを作ってコンペに応募してた気がする。今度のは皿を割っている映像をまとめたものになるらしい。どういうコンセプトか尋ねると、破壊を嫌いな人なんているの、と彼。彼はこの1年をどう過ごしてきたのだろう。気になったけど質問しないでおく。
 前から日の光が差し込み、残像として視界に残った。飛蚊症で慣れてはいる。いつだって2.3匹は飛んでいる。
 ものを壊す、か、わたしはなにを壊したいんだろう。どうせなら派手なものにしたい。ずっと大事にしてきたもの。壊した方がいいとわかりながら、大切にしてきたもの。
 駅の近くに車を止め、歩いていける距離の公園で、持ってきていたシャボン玉を吹いた。なんで持っているかは聞かないでくれた。
 ゆっくり長く息を吹き込む。慎重に、慎重に。彼はフリスビーを投げては取りに行ってをひとり繰り返している。手のひらくらい伸びたシャボン玉が、風に乗って飛んでいく。展望台の高さまでは上っていくのだろうか。
 飽きた彼にシャボン玉を貸してあげると、大きさよりも量で勝負してきた。吹く時目が三角になるのを指摘して笑った。
 隣で生まれる小さなシャボン玉たち。照らされ煌めく、期待された未来。どうか壊れないでいい景色を見れますように。神様に会えますように。
 視界がボケる。
 破壊が嫌いな人もいるよ。わたしの言葉に、吹く口が止まる。かおりはそうかもね。なにを知ってるわけ。全部。そうして目が合った。
 なんにも笑っていなかった。わたしも笑わなかった。髪が風になびいていた。ブリーチから最も縁遠い色。
 タンポポの綿毛が咲いていた。もうそんな季節らしい。働いて帰って寝ての生活では、気づけなかった二ホン。吹いてみて、と渡される。やわらかい破壊。そうしてはなればなれになった綿毛たちは、それぞれ家庭を持って、子孫を繋げていく。
 シャボン玉と綿毛のアンサンブルを、目に焼き付けるように見た。日が落ちるまでのタイムリミットが、景色を美化を加速する。
 わたしの手、持って帰ってくれない。頼むと、いいよ、と彼。左手だよ。うん、いいよ。違う人の名前入ってるけど。いいよ。なにも聞かずに、いいよを繰り返す彼。今ならわたしのために死んでくれるかも。
 譲り先が見つかった左手を、まじまじと見つめた。思っているよりしわしわだった。水分が足りないと思って、持ってきた麦茶を飲んだ。適当なことばっかり。そんなことは言わない。ありがとう、そうしてよ。そこにおもしろはいらない。
 帰ったら、コロッケを食べる。今日のホワイトボードには、「輪廻」と書く。料理教室は続ける。手形を取って家に飾る。
 とりわけ丁寧に愛し、将来を想像した、左手。

切り抜き

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-07-30

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