きみの皮
沼のあたりに棲むひとびとの、頸、うなじのあたりには、刻まれたナンバーと、そこだけ皮膚を切り取ったような、四角い跡がある。赤髪で、おとこと、おんながなくて、雌雄同体なのではなくて、そもそも、おとこでも、おんなでもないので、どちらの生殖器官も、もちあわせていない。ひとりのひとが、うまれてからきっかり二十五年後に、あたらしいひとをうんで、あたらしいひとも二十五年後に、あたらしいひとをうんで、をくりかえして、殖えているのだという。だから、恋を、したことがないのだとか。
わたしは、もう、いまはあんまり流行ってないというけれど、いまだに好きな、タピオカミルクティーのタピオカを、ストローでちゅるちゅる吸いこみながら、沼のあたりに棲むひとびとのひとりである、きみの、フィクションかと思うほどに整った横顔をみていた。芸能人とか、スーパーモデルとか、そういう比じゃない、うつくしさのきみは、おそらく、わたしが知るなかでは世界でいちばんうつくしい生きものである。(きみをうんだひとも、きっと、ものすごくきれいなひとなのだろうね。きれい、という言葉が、ひどくチャチで、薄っぺらいお世辞に思えるくらい)わたしは想像しながら、しかし、うむ、と表現される、かれらのその一連の行い(そもそも、うむために、なにか行われているのか?たとえば、儀式めいたものとか)のことを果たして、どこまでたずねていいのか、わからないまま、窓の外の道路を一定の間隔で、規則正しく滑ってゆく車の群れを飽きもせず眺めている、きみの横顔を、好きなのだけれど、すでに舌、味蕾になじんでしまって、もはや無感動の、タピオカミルクティーを飲みながら、みている。
去る、七月。
きみの皮