大磯ロングビーチ物語

浅野浩二

「人生の悲劇の第一幕は親子となったことに始まっている」
(芥川龍之介)

それは夏のある日だった。
純は、総合病院に勤める内科医である。医学部を卒業して医師となり、今年で10年になる。前回、床屋に行ってから二ヶ月経ち、髪がだんだん伸びきて、わずらわしくなったので今日は床屋に行くことにした。だが、純は床屋が嫌いだった。それは純は髪が短くなると格好悪くなる顔型だったからである。自分で床屋に行った後で鏡を見てもそう思ったし、学校の時も友達に、髪を切った後は、「あーあ。格好悪くなっちゃったな」とからかわれた。だからこれは主観的な思い込みではない。純は以前は、散髪は中目黒にある、女だけの理容店にわざわざ、電車で一時間半かけて行っていた。どうせ髪を切るなら女に切って貰いたかったからである。しかし、歳とともに、だんだん面倒くさくなってきて、最近では、ほとんど家の近くの床屋で切ってもらっていた。
一年前から、最寄の駅の地下モールに料金一律1000円の床屋が出来た。純はそこに行くようになった。顔剃りもシャンプーもない。経費を最大限切り詰めた理容店である。カットも時間が短く、10分以内でテキパキと済ましてしまう。
純が行くと、二人の客が調髪椅子に乗って、男の理容師と女の理容師の整髪をうけていた。そこの床屋の調髪椅子は二台だけだった。客は、首から下をシーツで巻かれ、まるで、てるてる坊主のようである。客は二人とも老人の男である。純は自動販売機で1000円の領収書を買って座って待っていた。純はドキンとした。純は密かに思った。
「あの女の人に切ってもらえたらなあ」
それは純にとって熱烈な思いだった。二人の客の内、早く終わった方の理容師に切ってもらうことになる。二人の客の内、どっちが先に来たのだろう、と純は様子をうかがった。だが、よくわからない。
「女の理容師の方の客、早くおわれ」
と、純は祈るように願った。しかし、女の理容師の方の客は早く終わりそうな感じだった。
「あーあ。男の理容師になっちゃうのか」
と純はガッカリした。
「さあ。出来ました」
と男の理容師が客に声を掛けて背後で合わせ鏡を開いて頭の後ろの刈り具合を確認させた。男の客はちょっと、神経質そうに後ろ髪を見ていたが、
「もうちょっと、切ってくれないかね」
と男の理容師に言った。
「どこら辺を、ですか?」
「横をもうちょっと切ってくれ。私は横の髪が伸びるのが速いんだ」
「わかりました」
そう言って、男の理容師は、側頭部の髪を切り出した。純の心に、もしかすると女の理容師に切ってもらえるのではないかという一抹の希望が起こってきた。女の理容師が客の髪を切り終わって、
「さあ。出来ました。どうですか?」
と客に声を掛けた。そして背後で鏡を開いて後ろの刈り具合を確認させた。男は、
「ああ。いいよ。ありがとう」
と答えた。彼女は、吸引器を男の頭に当て、ズーと頭全体を吸引した。それがシャンプーのかわりだった。男は立ち上がって去って行った。純はドキンとした。
「さあ。次の方どうぞ」
彼女はそっけない口調で言った。
『やった』
純は思わず狂喜した。純は椅子に座った。これでもう、誰はばかることなく女の理容師に切ってもらえるのだ。わずか10分程度の時間ではあるが、純は女の優しさに餓えているのである。
「どのくらいにしますか?」
女の理容師が聞いた。
「全体的に2センチほど切って下さい」
「耳は出しますか?」
「耳は出さないで少しかかる程度にして下さい。それと揉み上げは切っちゃって下さい」
「後ろは刈り上げますか?」
「いえ。刈り上げないで下さい」
「はい。わかりました」
そう言って女の理容師は純の髪を切り出した。純は、女の理容師に髪を切ってもらう時は、女の顔は見ない方針だった。見ると、失望してしまう可能性があるからだ。純が求めているのは、女のやさしさという精神的なものだった。顔を見なければ、聞こえてくる声から、いくらで女の容姿を美しく想像することが出来た。だが純は勇気を出してチラッと前の鏡で彼女を見た。物凄い美人だった。純は以前、一度、彼女を見たことがあり、いつか彼女に髪を切ってもらいたいと、切実に思っていたのである。純は飛び上がらんほどに嬉しくなった。
その時、隣の男の客が終わった。吸引器でズーと頭を吸引した。
「使った櫛いりますか?」
男の理容師が聞いた。
「いや。いらん」
客は無愛想に答えた。そして立ち上がって去って行った。
男の理容師は床に散らばった髪を掃除機でズーと吸いとった。
「じゃあ、オレは、帰るから。30分くらいしたらD君が来るから」
「わかったわ」
そう言って男の理容師は店を出て行った。交代制でやっているようである。
店には女の理容師と純だけになった。
女の理容師はチョキ、チョキと手際よく髪を切っていった。
「あ、あの・・・」
純は勇気を出して声をかけた。
「はい。なんでしょうか?」
彼女は、カットする手を止めずに聞き返した。
「理容師と美容師の違いって何なんですか?」
「そうですね。いくつかありますが、一番大きな違いは、理容師は顔剃りの時、剃刀を使えますが、美容師は剃刀は使えないことの違いでしょうね」
「なるほど」
純はもっともらしく言ったが、その事は知っていた。
「あの。理容師の給料ってどのくらいなんですか?」
これはちょっと、ぶっきらぼうな質問だった。こんな質問は普通しないものである。
「時給、1000円で、月17万円くらいです」
「それではちょっと生活が苦しくないですか?」
「それは苦しいですわ。欲しい服も買えませんし、食費も、いつも出来るだけ節約するよう、スーパーが閉まる間際に行って、見切り品を買っています」
彼女は早口で言って、はー、と溜め息をついた。純がぶっきらぼうな質問をしたのには計算があった。1000円カットの給料が低いことは、ネットで調べて知っていた。だからきっと彼女は、生活が苦しいことを吐き出したいと思っていると、確信していたのである。
「車は持っているのですか?」
「持っていませんわ。とても車なんて買うお金ありませんもの」
「免許は持っているのですか?」
「ええ。18歳になった時、とりました。いつかは車に乗りたいと思っていましたので。どうせ、いつか取るんだから、早い内に免許とった方がいいと思って。それで表示価格10万円の車を買ったんです」
「その車はどうしたんですか?」
「友人に売りました。表示価格10万円と書いてありますけど、諸経費に10万円くらいかかりますし、それに激安の車は、色々な部分が古くなっていて、修理しなければならなくて、修理代も高いですし、ガソリン代や駐車代や自動車保険、自動車税なども合わせると、私の少ない給料では、とても維持できないとわかりました」
彼女は寂しそうに言った。
「そうですか」
「お客さんは車は持っていますか?」
今度は彼女が切り返して聞いてきた。話しているうちに彼女も気持ちが打ち解けてきたのだろう。
「ええ」
「車種は何ですか?」
「BMWです」
「うわー。すごいですね。じゃあ、お客さんは、すごい高収入なんですね」
「いえ。そんなことないです」
「あ、あの。お客さんのお仕事は何ですか?」
彼女はおずおずと聞いた。
「医者です」
「うわー。すごいですね」
「いえ。そんなことないです」
「そうですか。お医者様なんてすごいじゃないですか」
「そうでしょうか。世間では医者というと、すごいと言われますが、僕にはどうしても医者がすごい仕事という実感が沸かないんです。毎日、同じ事の繰り返しですし」
「お医者様って、みんな、そう思ってるんですか」
「他の人はどうか分りません。僕は小説家とか作曲家とか漫画家とか、そういう芸術家をすごいと思っています。佐々木さんは、どう思いますか」
純は彼女を、佐々木さん、と呼んだ。胸のプレートに、佐々木と書いてあるからである。
「私もそういう人達はすごいと思いますわ」
「医者と比べると、どっちの方が凄いと思いますか?」
純はちょっと意地悪な質問をした。
「・・・そ、それは・・・」
彼女は言い躊躇った。
「はは。やっぱり芸術家の方が凄いですよね。だって、医者なんて、いくらでもいますが、芸術家には並大抵のことではなれませんからね」
純は笑って言った。
「・・・・」
彼女は答えず、少し恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「でも、僕も少し小説を書いています」
「ええー。すごいですね」
彼女は、目をパチクリさせて言った。
「いや。たいした物じゃないですよ。プロでもありませんし」
「でも、すごいです。やりたい事を実行しようとする意志が。どんなジャンルの物を書いているんですか?」
「そうですね。ラブ・コメディー的なものですね」
「へー。凄いですね」
彼女は、一々、凄い、凄いと言う。
「じゃあ、よかったらホームページ見て下さい。岡田純、で検索すればすぐ出てきます」
「じゃあ、今日、家に帰ったら、さっそく読ませて頂きます」
彼女は活き活きと答えた。純は少し恥ずかしかった。純の書く小説はSM的なエロチックなものが多いからである。純の、ラブ・コメディーは、ラブ・エロティックと言った方がふさわしいようなものである。
「僕は推理作家の方が凄いと思っています。よく、あんな奇抜なストーリーやトリックを思いつけるなー、と感心しています。僕にはとても推理小説は書けません」
「でも、恋愛小説も難しいと思いますわ。男女の心の微妙な琴線を感じやすい人でなければ恋愛小説は書けないと思います」
彼女は、一々、もちあげる。
「では、今日のことも小説にしてもいいでしょうか?あなたをモデルにして」
「そ、それは構いませんわ。でも私なんかで小説のモデルになるのでしょうか?」
彼女は赤面して言った。
「おおいになりますとも」
「・・・・」
彼女は恥ずかしそうに顔を火照らした。彼女は鋏を持つ手もうわの空のようだった。ただジーとバリカンで後ろ髪の襟足を切るため、機械のように手を動かしていた。
「ああっ」
彼女は、突然、驚きの声を上げた。
「どうしたんですか?」
純が聞いた。
「ご、ごめんなさい。うわの空で、切っていたので、バリカンで頭の後ろをほとんど全部、切ってしまいました」
彼女は、急いで、開き鏡を持ってきて、純の頭の後ろで開いて、前の鏡に映させた。純もそれを見て驚いた。頭の後ろの部分がほとんど、芝生のように刈り上げられている。そういう変則的な髪型を好んでする若者もいるが、純には、それは全然、不似合いだった。極めて格好悪い。純もこれには焦った。
「ご、ごめんなさい。刈り上げないで下さい、と言われたのに、こんな事をしてしまって。一体、どうたらいいか。お詫びのしようがありません」
彼女はペコペコ頭を下げて謝った。彼女は、しばし思案気に顔をしかめていたが、
「ちょっと待っていて下さい」
と言って店を出た。彼女は、三分で戻ってきた。
「あ、あの。これで許していただけないでしょうか?これしか私には方法が思いつかないんです」
そう言って、彼女は五万円、差し出した。駅ビルの地下のカットハウスのすぐ近くには、コンビニがあり、そこのATMでおろしてきたのだろう。
「い、いえ。いいです。過ちは誰にでもありますから」
純は手を振った。月給17万円の彼女にとっては、五万は相当きついだろう、と純は思ったからである。
「で、でも。その髪型では・・・」
彼女はうろたえていた。彼女は責任をとろうと、どうしても譲らない。
「では、一つお願いしても、いいでしょうか?」
「はい。何でも」
「今度、あなたが都合のいい日に、一日、一緒に大磯ロングビーチに行ってもらえないでしょうか」
これは唐突な要求だった。だが彼女は、
「はい。わかりました」
と、純の突飛な要求を気軽に受けた。
「佐々木さん。いつが都合がいいですか?」
純が聞いた。
「明日、休みなので、それでいかがでしょうか?」
翌日は日曜である。
「ええ。明日でいいです」
「ありがとうございます。でも私なんかでいいんでしょうか?」
彼女は申し訳なさそうに言った。
「もちろんですとも。やったー。夢、実現!!」
純は叫んだ。
「実を言うと僕は、以前、あなたを一度見てから、あなたに憧れていたんです。一度でいいから僕はあなたと大磯ロングビーチに行きたいと思っていたんです」
「・・・・」
彼女は赤面した。
「あの。この髪型では、ちょっと都合が悪いので、いっそのこと、五分刈りの丸坊主にしてもらえないでしょうか?」
「よろしいんでしょうか?そんなことして」
「ええ。かまいません。髪なんて、また伸びてきます。別に死ぬわけじゃなし。丸坊主にすれば、稲のように全体がバランスよく、伸びてきますから」
この場合、それしか他に方法がない。そのことは、彼女もわかっているはずである。
彼女は、納得したように、純の髪をバリカンで刈りだした。
すぐに純は坊主刈りになった。
「いやー。さっぱりしたな。夏ですからね。坊主刈りはサッパリします。僕は中学、高校と坊主刈りが校則の学校で過ごしましたから、なんだか昔にもどったような気分です」
純は鏡を見ながらそんなことを言った。だが彼女は、申し訳なさそうな表情である。額が広い人は、坊主刈りでも結構、さまになるのだが、彼は額が狭く、坊主刈りでは、明らかに見栄えが悪くなった。それを察するように彼女は、
「すみませんでした」
と小さな声で謝った。
彼女は純の頭を吸引器で、ズズズーと吸った。そして、シーツカバーをとった。これで散髪が終わった。純は立ち上がった。
「あ、あの。携帯、持ってますか?」
「ええ」
彼女は答えて、ポケットから携帯電話を取り出した。
「あの。僕の携帯番号とメールアドレス、入力させてもらってもいいでしょうか?」
「ええ」
彼女は小声で答えて、純に携帯電話を渡した。
純は携帯電話を受けとると、ピピピッと操作した。
「はい。僕の携帯番号とメールアドレスを登録させてもらいました」
そう言って純は携帯を彼女に返した。
「あの。純さんの携帯にも私の携帯番号を登録させて貰えないでしょうか?」
「ええ」
純はポケットから携帯電話を取り出した。
彼女は携帯電話を受けとると、ピピピッと操作して純に渡した。
これでお互いに連絡がとれるようになった。
「では明日の朝、迎えにうかがいます」
純はニッコリ笑って言った。その時、一人の男が慌てて入ってきた。
「やあ。佐々木さん。遅れてしまってすみません」
男はハアハアと息を切らしながら言った。
男は丸坊主の純をチラリと一瞬、見た。純は、この男に以前、二回髪を切ってもらったことがあった。
純は、何もなかったように装うように、そそくさとカットハウスを出た。
純は、店を出た後、しゃがみ込んで靴の紐を結ぶ仕草をしているように見せかけて、聞き耳を立てた。耳に神経を集中した。
「今の人、今日は坊主刈りって言ったの?俺、あの人、二回カットしたことがあるけど、二回とも、全体的に2cm切って下さい、って言ったよ」
「な、夏は暑いから、坊主刈りにして下さいって言ったの」
「ふーん。そう。でもあの人、額が狭いから坊主刈りは全然、似合わないね」
そんな会話が聞こえてきた。
純はすぐに立ち上がって、早足に地下を出た。
自転車に乗って、アパートに帰ると、純はすぐに、携帯を開けてみた。さっそく彼女からのメールが来ていた。名前は佐々木京子と書かれてあった。携帯番号とメールアドレスの他に、住所も書かれてあった。藤沢市××町××荘と書かれてある。純は、嬉しくなって、すぐ地図を開いて、彼女の家を調べた。純は、すぐに返事のメールを書いた。
「佐々木京子さん。今日はどうも有難うございました。明日は、車で迎えにうかがいます。何時がいいでしょうか。岡田純」
そう書いて純はメールを送った。
すぐに彼女からメールが返ってきた。それには、こうかかれてあった。
「何時でもいいです。今日はすみませんでした。明日は楽しみにしています。佐々木京子」
純は小躍りして喜んだ。結構、彼女も純に好意をもってくれているように思われたからである。
純は用心深いので、急いで車に乗って、カーナビに京子の住所を入力し、京子のアパートに向かった。20分で京子のアパートに着いた。あまりきれいとはいえない。築年数がかなり経っているだろう。裏は雑木林で寂しい所である。表札には、「佐々木」とだけ書かれてあった。
純は、踵をかえして帰ろうとした。その時。一台の車がやって来て、一人の女性が、降りた。彼女は、京子の部屋をドンドンドンとノックした。
「佐々木さーん」
彼女は、大声で呼んだ。だが返事がない。
「居留守じゃないみたいね。仕方ないわね」
そう言って、何か紙をポストの中に入れた。
「あ、あの。その部屋の人に何か用ですか?」
純が聞いた。
「あなたは誰ですか?」
彼女は訝しそうに純を見た。
「ここの人とちょっと、縁のある者です」
「どんな関係ですか。兄弟とか親戚ですか?」
「ま、まあ。そんな所です」
「じゃあ、言ってもいいでしょう。私はこのアパートの不動産屋の者です。彼女は、家賃をもう10ヶ月も支払っていないので、その催促に来たのです。今回も払えなかったら、もう出て行ってもらおうと思っているんです」
「滞納分は、いくらですか?」
「家賃は月、三万円ですから、合計30万円ですわ」
「では僕が払います。手持ちには無いので、近くのコンビニまで行きましょう」
「わかりました」
彼女は車に乗った。純も自分の車に乗った。
彼女はエンジンをかけて車を出した。純はその後を追った。
少しして、コンビニが見えてきた。彼女は車を左折してコンビニの駐車場に入った。純も左折してコンビニの駐車場に入った。純はコンビニに入ってATMの前でピピピッと操作して金をおろした。
「はい。60万円です。今までの滞納分と、これから10ヶ月分の家賃です」
そう言って、純は女の人に60万円、渡した。女性は銀行員のように札束をパラパラとめくり、それを三度繰り返して確かめた。
「確かに60万円受け取りました」
「領収書を下さい」
「はい」
彼女は、領収書に、「佐々木京子様。×月~×月までの家賃30万円と、これから先の10ヶ月分の家賃30万円、受け取りました。××不動産」と書いて、印鑑を押して、純に渡した。純はそれを受け取ると、
「それでは、さようなら」
と言って、車に戻り、駐車場を出た。

帰りの道で、純はバッティングセンターに寄った。
「やあ。いらっしゃい。めずらしいですね。坊主刈りにしたんですね」
バッティングセンターの親爺がニコニコしながら言った。
「ええ。暑いものですから」
そう言って純は、バッティングを始めた。
純は子供の頃から野球が好きだった。中学では野球部に入った。子供の頃から野球をやっていたので、技術が高く、ピッチャーで四番だった。中学の時、ストレートは、すでに100km/hを越していた。だが人をまとめることが苦手で、一人で黙々と努力するタイプだったので、三年になってもキャプテンにはならなかった。県大会でも優勝した。これも、ひとえに純の剛速球と四割を超えるバッティングのおかげである。中学三年の夏が終わると、純は、将来はプロ野球選手になろうかと、本気で考え出すようになった。そのためには、甲子園に出場回数の多い野球の強豪校に進むのが、当然、有利だった。しかし純は、学科の成績もよかった。何事に対しても熱心なのである。迷いに迷ったあげく、純は、家から通える近くの高校に進学した。ここは、進学校だったが、野球部も、レベルが高く、過去、数回、甲子園にも出場していた。純は野球部に入った。中学時代同様、一年で、エースとなった。二年の時は、地区予選で、決勝まで勝ち進んだが、惜しくも敗れ、甲子園出場の夢は叶わなかった。この学校では甲子園出場は無理だと思った。この頃から、将来は、プロ野球選手ではなく。国立の医学部に入ろうと志が変わっていった。それで一心に受験勉強に打ち込むようになった。そのため野球部の練習量は減っていった。三年の夏も、準決勝で落ちた。これでもう、プロ野球選手の夢はあきらめた。しかし、地区予選を見ていた地元のプロ野球の球団のスカウトマンの目にとまっていたのである。純はドラフトで三位で、指名された。これには、驚き、また、喩えようもなく嬉しかった。しかし、模擬試験では、国立の医学部に入れるほどの成績にもなっていた。迷った挙句、純は、医学部に落ちたら、六大学野球の大学に進もうと思った。しかし、幸運にも医学部に合格できたのである。純は合格した医学部に入学した。プロ野球選手になっても、一軍の一流選手でいられるという保障はない。さらに、プロ野球選手は、運よく長く活躍できても20歳から40歳までの20年間である。賭けである。それに比べれば、医者は70歳を超えても、一生できる。もちろん、医学部に入学した純はもちろん野球部に入った。だが、二年の時、腓骨を骨折して、しばらく部活が出来なくなってしまった。そんな時、文芸部の友人に、文集をつくるから、何か書いてくれないか、と頼まれた。純は、高校の時の思い出を書いた。何事にも熱心なので、丁寧に書いた。文芸部の友達は、面白い、君には文才がある、と誉めてくれた。純は嬉しかった。文芸部の友達は小説を書いた。純も小説を書いてみたくなって、短い小説を書いた。純は何事にもハマッてしまう性格なのである。いくつか、小説を書いているうちに、だんだん、小説を書くことにハマッてしまった。野球より小説を書く方がはるかに面白くなった。野球部は、退部はしないが、所属しているだけにして、試合の時だけ出て、他の時間は小説を書くようになった。将来は小説家になろうとまで決意するようになった。そして医学部を卒業して、医者になり、休日は、一日中、小説を書くような生活になった。幸い、バッティングセンターが近くにあったので、息抜きに一日一回は、行って、ボールを打った。
「こんにちは。おにいさん」
声をかけられて純は後ろを振り返った。
「やあ」
健太だった。このバッティングセンターの裏には小学校があって、健太は、野球部だった。健太もバッティングセンターに、しょっちゅう来ていたので、純と顔見知りになっていた。健太は子供の頃から野球が好きで、将来はプロ野球選手になりたいと本気で思っていた。純は健太に正しいバッティングフォームを教えてやった。だんだん親しくなっていった。純は、近くの公園で、健太とキャッチボールをして、正しいストレートの投げ方や、スライダー、カーブなどの変化球の投げ方も教えてやった。
「この前の対抗試合、五割打って、勝ちました」
健太が言った。
「ははは。それは凄いな」
「おにいさんが教えてくれたおかげです」
そう言って健太はペコリと頭を下げた。
「いや。君が努力して練習したからさ」
健太はニコッと笑って、バッターボックスに入った。健太は、90km/hのボールを、ほとんど全部、芯でとらえて、きれいに打った。赤ランプが消えて、ピッチングマシンが止まった。
「もうちょっと、脇をしめた方がいいな」
純がアドバイスした。
「はい」
健太は、ペコリと頭を下げた。
健太は、200円、入れた。赤ランプがついて、マシンが動き出した。
「じゃあ、僕は今日は、もう帰るから」
そう言って純は立ち上がった。
「また、時間のある時、変化球の投げ方、教えて下さい」
「ああ。いいよ」
そう言うと、純は踵を返し、バッティングセンターを出て、家に向かって車を出した。


帰りにコンビニに寄って、弁当を買った。純の買う弁当はいつも同じである。398円の幕の内弁当で、ハンバーグ、鮭、コロッケ、エビフライ、卵焼き、ソーセージ、ひじき、が少ない量であり、あとはご飯である。純は家にもレンジがあったが、いつも温めてもらっていた。740kCalと書かれている。純は、大学を卒業しても体力を衰えさせないためテニススクールに入っていた。野球は土日しか出来ない。という制限がある。しかし休みの日はどうしても一日中、小説を書きたい。近くにあるインドアのテニスクラブなら、雨の日でも、夜遅くでも、好きな時に自分の都合のいい時間に出来る。さらに、もはや出来るようになっている野球より、まだ出来ない未知の運動を身につけたいという進取の精神も純にはあった。純は熱心にテニスを練習し、どんどん上手くなっていった。しかしテニスをしているんだから、運動しているんだから、と思って食生活は、いい加減になっていた。甘い物や果物や焼き肉など好きな物を腹一杯食べていた。しかし、そんなことでは、駄目で、体調が悪くなり、恐る恐る体重計に乗ってみたら、標準体重より3kgも増えていた。これではまずいと純は、少しウェートを落とそうとダイエットすることにしたのである。昼に、この幕の内弁当一食と、晩はカロリーメイト一箱と、0kCalの寒天ゼリーが純の食生活の習慣になっていた。純は万年床に寝転がって、幕の内弁当をゆっくり味わいながら食べた。その時、携帯の着信音が鳴った。京子だった。
「じゅ、純さん。今日はどうもありがとうございました。少し前に仕事が終わって、家に着きました。家賃滞納の催促状がポストの中にあったので、不動産にお詫びの電話をしたんです。そしたら、見知らぬ男の人が滞納分30万円と、さらにこれから先の、10ヶ月分の家賃を払ってくれた、と言いました。私がどんな人ですか、と聞いたら、五部刈りの人だと言ったので、純さんに間違いないと思いました。本当にどうもありがとうございました」
「いえ。いいです。気にしないで下さい」
「いえ。払います、払います、と言い続けて、もう今回滞納したら、出て行くことまで約束していたんです。本当に困っていたんです。五部刈りにしてしまった上、家賃まで払っていただいて、本当にありがとうございました」
「はは。気にしないで下さい。明日は楽しみましょう」
いささか金持ちが貧乏人を憐れんで優越感に浸っているような気がして純は自己嫌悪した。

自分は医師である。医者の給料は、いい。医師になるには、青春を犠牲にして、勉強、勉強の毎日で、医学部に入り、医学部の勉強量も並大抵ではない。それをしてきて医者になったのだから、誰にも何も言われる筋合いはない。とは純は思っていなかった。
純は絶えず何か目標に向かって、一心に努力していないと罪悪感さえ起こる性格だった。楽しみのためテレビを見ていてさえ罪悪感が起こった。純が医学部に入ったのは金のためではない。病人を救おうという崇高な目的でもない。どうせ大学に行くなら、一番難易度が高い国公立の医学部にしようと思った。のが動機である。純は理系人間で、英語、数学、理科が得意だった。医学部に行くということは医者になることを意味していたが、純にはあまりその自覚はなかった。しかし大学二年の時、文芸部の友人と親しくなって、小説を書き出してから、小説を書くことにハマッてしまい、それ以来、純は今日にいたるまで小説を書き続けてきたのである。それは何も無理して根性で続けているわけではない。純は、内向的な性格で人付き合いが苦手。現実より自分の夢想の世界を楽しむのが好き。デリケートで表現するのが好き。他人と一緒に何かをするより、一人でコツコツと何かをする方が好き。とくれば、小説家に向いた性格そのものである。創作したいというのは純の潜在意識の中に、それ以前からあったのだ。それをもっと早く自覚して決断していれば、よかったと純はつくづく後悔した。出来たら小学生の頃から。そうすれば純の人生は変わっていたかもしれない。


純は運動用ズボンとシャツを着て、車で市民体育館のトレーニングジムに行った。ここは300円で、朝9時から夜の9時まで、トレーニングが出来る。
『今日は三時間やろう』
そう思って純はトレーニングを始めた。トレーニングを始めた頃は、単調で面白くなかったが、二時間なり、三時間なり、時間を決めてやれば、結構つづけられるようになった。少し前に、座って、体を左右に捻るマシンが入り、それは、腹筋をあまり疲れずに鍛えられるので、やりがいがあった。純はそれをメインにしてやり、他に背筋や上腕筋、大体筋、などを鍛えた。そして、ランニングマシンで4km走った。走った、というより、時速6.5km/hなので、速めのウォーキングである。その後マットでストレッチをした。純は筋力も持久力もあまりなかったが、体は柔らかかった。マシントレーニング、ランニング、ストレッチを繰り返しているうちに、三時間はすぐに経った。純は市民体育館を出て、家にもどった。途中でコンビニでカロリーメイト一箱とカロリーゼロの寒天ゼリーと野菜ジュースを買った。それが純の今夜の夕食だった。カロリーメイトは400kCalで、400kCalならもっと何か、牛肉豆腐とか、蕎麦とかでも同じカロリー数で、食べられるが、何となくカロリーメイトの方が、消化がいいように感じられたのである。

純は寝転がってカロリーメイトを食べながら、村上春樹の小説を読み出した。純は以前、村上春樹の本を読んだことがあるが、あまり面白いとは感じられなく、それ以後、読まなかった。しかし、図書館でリサイクル図書として、「神の子はみな踊る」という阪神淡路大震災から、震災をヒントにした小説集をたまたま読んで、その文体を気に入ってしまったのである。これは、自分の小説創作の勉強になると思い、村上春樹の小説を読み出したのである。純は長編ではなく短編を読んだ。短編の方が、長編より小説創作の勉強になるからである。村上春樹は、長編にせよ、短編にせよ、シュールである。ノーベル文学賞候補にも上がった、とか、外国の大学で文学部の教授をしたとか、世界各国で翻訳されているなどと、その文学の評価は高い。日本でも、人気があり、ベストセラーになったものもある。しかし、村上春樹は、賛否が分かれている作家でもある。好きな人もいれば、嫌う人もいる。純は村上春樹を基本的には好きになった。文体がしっかりしているからである。文体がしっかりしている作家というのは、作品を手抜きしないで書いているという点で、誠実だと思っているからである。小説を読んで、それなりに読み応えという腹もふくれる。しかし、起承転結のうち、「結」が無い。読んでいる内に、どういう結末になるのか、期待する気持ちが起こってくるが、「結末」が無い。どの小説でもそうである。阿部公房もシュールな作家であるが、阿部公房に批判者はいない。それは聞いたことがない。それは阿部公房が小説を書くことに於いて、手抜きしないで、思考の限界で書いていて、それが伝わってくるからである。阿部公房の小説は、「意味に至る前のある実体」であり、「無限の情報を持った一つの世界」であり、「大意を述べることが出来ない」小説である。しかし、村上春樹の小説は、大意を述べることの出来る小説も多い。たとえは、「眠り」という、眠れなくなった歯科医の妻が、眠れないので夜中にトルストイの本を読む、という短編があるが、あの小説では、「大意」や「意味」が簡単に言える。つまり、それは、「結婚生活が長く続くことによる現実のマンネリ化に嫌気がさして、若かった頃のように、小説を一心に読むことで充実して生きていた昔の自分にもどりたくなった女の話」と、簡単に「大意」を述べられる。他の小説でも、もどかしげでも、読んでいるうちに、「大意」、つまり、「何を言いたいか」が分るものが多い。文章を書くことについては誠実だが、内容は、軽い気持ち、や、思いつきで書いているように感じられ、はたして文学的価値がノーベル賞に値するほどのものか、と純は疑問に思っている。村上春樹は、日本文学は読まず、カフカのように、ノーベル賞候補になったようなシュールな外国文学ばかり読んでいて、それに影響され、文体を持っていたから、読者の腹を満足させることが出来て、日本という国籍に関係なく普遍的、抽象的だから外国人にも人気がある小説が書けただけに過ぎないのでは、とも純は思っていた。そして、読者は、シュールな小説を読むことに自分の読書能力の高さに満足感を得るものである。ただ村上春樹に、狡猾さはなく、自分の書きたい感覚的なものが、うまい具合に読者の要求に合った、と純は思っていた。純は村上春樹の文学を、そのように解釈していた。だが、長編では、村上春樹が、表現しようと思っている感覚的なものには、何か文学的価値があるのかもしれない、とも思っていた。どうして表現したいと強く思うものが無くて長編小説が書けよう。純は自分に解らないものは、すぐに否定しない誠実さは持っていた。

純は村上春樹の小説を30ページほど読むと、附箋を読んだところに貼った。時計を見るともう、11時だった。純は歯を磨き、パジャマに着替え床に就いた。目覚まし時計は7時30分にセットした。すぐに睡魔が襲ってきて純は眠りについた。

   ☆   ☆   ☆

翌日。
アラームのけたたましい音によって純は目を覚めさせられた。7時30分だった。純は、スポーツバッグに、水泳用トランクスと水泳帽とゴーグルと、タオルとコパトーンを入れた。そして京子に電話した。
「もしもし。京子さん」
「はい」
「おはようございます。今からうかがいます。よろしいでしょうか?」
「はい」
純はジーパンに半袖シャツで、スポーツバッグを持って車に乗った。空は雲一つない晴天である。吸い込まれそうな無限の青空の中で、早朝の太陽が今日も人間をいじめつけるように、激しく照りつけていた。昨日の天気予報では、今日の降水確率10%の晴れ、であった。

純はエンジンをかけて車を出し、京子の家に向かった。暑いためクーラーを全開にした。京子のアパートが見えてきた。薄いブラウスにフレアースカートでサンダル履きの京子が、バッグを持って純を待っていた。純を見つけると京子は笑顔で手を振った。純も笑顔で手を振った。純は京子の横に車をとめてドアを開いた。
「おはようございます。純さん」
「おはよう。京子さん」
「うわー。BMWですね。凄いですねー」
純は、ははは、と笑って、ドアを開いて京子を助手席に乗せた。
「純さん。昨日は、滞納している家賃を払って下さって本当に有難うございました」
京子は丁寧に言って頭をペコリと下げた。
「いえ。いいんです。お礼は一回言えば十分です。もう忘れて下さい」
純はエンジンをかけた。
「それじゃあ、行きましょう」
そう言って純はアクセルを踏んで車を出した。
「暑いですね」
純は運転しながら言った。
「ええ。そうですね」
京子が相槌をうった。
少し行くとコンビニが見えてきた。
「何か冷たい飲み物を買ってきます」
そう言って純は、コンビニの駐車場に車をとめて、コンビニに入って、オレンジジュースを二缶買って、車に戻ってきた。そして一つを京子に渡した。
「あ、ありがとうございます」
京子はペコリと頭を下げた。
純は、缶を開けて、ゴクゴクとオレンジジュースを飲んだ。京子も、純と同じように缶を開けて、ジュースを飲んだ。
「いい車ですね」
京子が、柔らかいシートに深くもたれかかりながら言った。
「いやあ。そんなことないですよ。もう6万キロも走っている中古車ですから」
純は、京子が車の免許は持っているが、車は持っていないことに気がついた。
「京子さん。よかったら、運転してみませんか?」
「えっ」
京子は一瞬、たじろいだ。
「京子さん。運転したいでしょう。免許を持っていても車を持ってない人は運転したがっているはずです。そうでしょう」
「え、ええ」
京子は小声で少し頬を紅潮させて遠慮がちに答えた。
「じゃあ、席を交代しましょう」
そう言って、純は車から降り、助手席のドアを開けて、京子を降ろし、京子を運転席に移して、ドアを閉め、自分は助手席に乗ってドアを閉めた。そして、カーナビを操作して、目的地を大磯ロングビーチに設定した。
「では出発して下さい」
「大丈夫かしら。もし万一事故を起こしてしまったら大変です」
「はは。大丈夫ですよ。僕が、人間カーナビになりますから」
純はゆとりの口調で言った。
「で、では。運転します」
そう言って彼女は、そっとエンジンキーを回した。エンジンがブルブルと力強く振動しだした。彼女は緊張した面持ちでハンドルをギュッと握りしめた。
「で、では、発車します」
そう言って彼女は、サイドブレーキを降ろし、ハンドルをきってアクセルペダルをゆっくり踏んだ。
車が動き出した。知った場所で、以前に運転していたこともあるので、彼女の運転は何の問題もなかった。
国道一号線に出て、少し走った後、西湘バイパスに入った。
「あとは、大磯西出口まで一直線です」
車は、ポツン、ポツンと少なく、二車線の高速道路は、気持ちよく空いている。
「運転するの、久しぶりだわ。しかもBMWなんて。ああ。最高に気持ちいいわ」
そう言って彼女はアクセルペダルをグンと踏んだ。車がググーと加速した。
相模川を渡った。相模川を渡ると神奈川県の西である。もうあと10分程度である。左には相模湾の海が広がっている。
大磯西出口の標識が見えてきた。彼女はスピードを落として、右折して高速道路を出た。
もう目の前は、大磯ロングビーチである。9時開館で、今は8時50分で、まだあと10分時間があるが、駐車場には、もう何台もの車が並び、入場客がチケット売り場の前に並んでいる。京子は、スタッフの誘導に従い、車を止めた。そしてエンジンをきって、サイドブレーキを引いた。
「どうもありがとうございました。久しぶりに運転できて気持ちよかったです」
そう言って、京子はエンジンキーを抜いて、純に渡した。
純は微笑んでキーを受けとった。
二人は、それぞれバッグを持って、入場客の列の後ろに並んだ。
「あっ。京子さん。水着はもってきましたか?」
純は思い出したように聞いた。
「ええ」
「ビキニですか?」
「い、いえ」
「では、どんなのですか?」
純は、興味津々の目つきで、京子のバックを覗き込もうとした。
「普通の競泳用の水着です」
「では、ワンピースですね」
「ええ」
純は顔をしかめた。
「それはよくありません。ここでは女の人はみんな、ビキニですよ。売店でビキニを売っていますから、ビキニを買いましょう」
「ええっ。ビキニですか?」
京子は困惑した口調で言った。
「どうしたんですか?」
「は、恥ずかしいです」
彼女は顔を赤らめて言った。
「それは逆ですよ。女の人は、みんなビキニですから、一人だけワンピースだとかえって、目立っちゃいますよ」
「そうですか?」
彼女は半信半疑の様子だった。
彼女は、夏の大磯ロングビーチに来たことがないのだろう。
その時、正面の時計が9時をさした。切符売り場の窓が開いて、客達は切符を買って、ビーチの建物に入り出した。純と京子も、それぞれ3500円の大人一日券の切符を買って、ビーチの建物に入った。
建物の中には、南国風の売店があり、色とりどりの水着がたくさん並んでいる。純が言った通り、全部セクシーなビキニばかりである。
「さあ。京子さん。どれがいいですか?」
純に聞かれ、京子は顔を赤らめた。京子は、しばらく恥ずかしそうに水着を選んでいたが、なかなか決められない。
「もう。京子さん。それじゃあ、僕が選びます」
純は、じれったそうに言って、ピンク色の揃いのビキニをとって、レジに持っていって買った。
「はい。京子さん」
そう言って純は京子に、買ったビキニを渡した。
「あ、ありがとうございます」
京子は恥ずかしそうに礼を言った。

純は京子と手をつないで、芝生をわたって、更衣室のある本館に入った。本館の建物の前には、注意事項が書かれた看板が立っていた。それには、こう書かれてあった。

「飲酒されている方。暴力団関係の方。刺青をされた方、の入場を禁止します。
(注)なお入場客の女性達をジーと見る男一人の方の入場は控えてください。女性達が怖がりますので」

以前は、飲酒と、暴力団と、刺青の客の禁止だけだった。だが、純が前回、行った時から、四つ目の注意事項がつけ加えられるようになったのである。これは、明らかに純に対するあてつけだった。純は、大磯ロングビーチが開く七月から、客がたくさん来る土日は、毎回、行っていた。客は多いが、男一人は純だけだった。純が大磯ロングビーチに行くのは、泳ぎに行くためでもあったが、ビキニの女性を見るためでもあった。純はビーチのビキニの女は全員、見て回った。そして、気に入った女性が見つかると、そのセクシーな姿を頭に焼きつけるようにジーと眺めていたのである。できるだけ相手に気づかれないように、しかし、できるだけ近くで。前々回、行った時、純が、一人の綺麗なビキニ姿の女性の胸や尻を、食い入るように見つめていると、パッと女性と目が合ってしまったのである。純は急いで目をそらした。しかし、女性は急いでプール監視員のところに走っていった。そして、純を指差してボソボソと監視員に何かを告げた。監視員は純をジロリと厳しい目で見ると、おもむろに純の所にやって来た。純は逃げようかと思ったが、蛇ににらまれた蛙のように竦んでしまった。
「お客さん。あんまりジロジロとビキニの女性を見るのは控えていただけないでしょうか。気味が悪いという女性がいますので」
それは小麦色に焼けた体格の逞しい監視員だった。
「は、はい」
純は、おどおどした口調で答えた。だが、それは脳天を刺し抜かれるようなショックだった。すぐに立ち去りたかったが、それはかえってばつが悪いし、目立ってしまう。純は、きれいなクロールで長時間、泳げたので、シンクロプールに行って、一時間ほど泳いでから帰った。しかしこれはショックだった。これからは大磯ロングビーチに行きにくくなる。純にとって、夏の大磯ロングビーチは、小説創作の次に、大事なほどの、生きがいであった。純は目の前が真っ暗になった。ほとんど、うつ病に近くなった。翌週の土日は、大磯ロングビーチには行けず布団の中で寝たきりで落ち込んで過ごした。その次の週の土曜日、純は勇気を出してロングビーチに行ってみた。純は泳げるので、泳ぐために自分は行っているのだと思わせるためだった。女性はもう、あんまりジロジロ見ないことにした。だが、注意事項に、
「(注)なお入場客の女性達をジーと見る男一人の方の入場は控えてください。女性達が怖がりますので」
という一行がつけ加えられていた。それを見た時、純は、脳天を突き刺されるようなショックを受けた。シンクロプールへ行く時、前回、注意した監視員が純を見て、ニヤッと笑った。純はひたすら泳いだ。もう今年の夏は、大磯ロングビーチには、行くのはやめようと思った。
だが、今回、純は得意だった。京子という絶世の美女と一緒なのである。前回のリベンジが出来る。

純と京子は更衣室とロッカーのある本館に入った。客はまだあまりいない。
「それじゃあ、着替えましょう」
男性更衣室と女性更衣室の前で、二人は別れた。純は、慣れているので、すぐにトランクス一枚になって、バッグに洋服を詰め、更衣室を出てきた。京子はまだいなかった。純は胸をワクワクさせながら京子が出てくるのを待った。五分くらいして、京子が女子更衣室から出てきた。
「は、恥ずかしいです」
京子は横紐のピッチリのビキニである。京子は人目を気にしてソワソワしているような様子だった。
「似合ってますよ。京子さん」
純は笑いながら言った。
「は、恥ずかしいです。何だか裸になったみたいな感じです」
確かに、ビキニは女の体を僅かに覆うだけの物であり、女の体の隆起をあられもなくクッキリと浮き出してしまう。
「京子さん。ビキニ着るの、初めてでしょう」
「え、ええ」
京子は顔を赤らめて言った。
初めてビキニを着た女が恥ずかしがるのは当然のことである。ブラジャーとパンティーで、町の中を歩くようなものであるのだから。
「でも、そのうち、慣れてきますよ」
純と京子は本館を出た。雲一つない夏の青空を純は思わず見上げた。客はまだ、パラパラとまばらである。二人は並んでビーチサイドを歩いた。
その時、向こうから、以前、純を注意した監視員がやって来た。監視員は純を見つけるとニヤリと笑った。純はジロリと監視員をにらみつけた。監視員は、すぐに純の横を歩いているセクシーなビキニ姿の京子に目を移した。その抜群のプロポーションとセクシーなビキニ姿に、監視員は、あっけにとられたように、立ち止まって見入った。
京子は、裸同然の姿をジロジロ見られて、怖くなったのだろう。
「こ、こわい」
と言って、すぐに純の背中に回って、純の手をギュッと握った。
「おい。あんた。監視員が客の女をジロジロ見るのはいいのかよ」
純は叱りつけるように叱りつけた。
「す、すみません」
監視員は、真っ赤になって、(といっても日焼けしているので茶色なので)、真っ赤茶になって、小走りに去って行った。
純は大得意だった。純は心の中で、勝ち誇った。
『ざまあみろ。てめえらなんぞ、時給1000円の、アッパラパーの頭カラッポどもじゃねえか。小麦色に日焼けしていているのもバカの象徴だぜ。泳力だってオレの方が遥かに上だぜ』
と純は、心の中でカラカラと高笑いした。

純は大得意だった。純は大磯ロングビーチの監視員が嫌いだった。偉そうな態度で、プールの休憩時間にちょっとでも、プールの縁でふざけたり、足を入れただけでも厳しく叱りつける。事故が起こらないようにとの細心の思いからだろうが、いつの間にか厳しく叱っている内に自分が権力欲を満喫するようになってしまっているのである。もし純が監視員だったら、少年達が休憩時間にふざけていたら、「ボクたちー。ふざけちゃダメだよー」と笑顔で優しく注意しただろう。彼らはまさに権力を傘にきた警察官そのものだった。休憩時間には、誰もいないプールに監視員の特権を見せつけるようにザブンと入って悠々と泳ぐのも癇に障った。しかし、今回、監視員を叱りつけてやり、京子という絶世の美女を連れてきたことで、これからは何の躊躇もなく堂々と大磯ロングビーチに来ることが出来るようになった。そう思うと純は、大声で笑い出したいほどの爽快な気分になった。

純は、シンクロプールの隣の芝生にビニールを敷いて座った。京子も純の隣にチョコンと座った。
「わあ。嬉しいな。僕、ビキニの女性と、大磯ロングビーチに来るのが夢だったんです。しかも、京子さんのような綺麗な人と」
純は喜びをことさら声に出して言った。京子は、子供のような態度の純を見て、クスッと笑った。
「純さんは、付き合っていた彼女と、何かの理由で別れて、今、一人なんでしょう?」
京子が聞いた。
「いやあ。違いますよ」
純は即座に否定した。
「じゃあ、何かの理由で、彼女とケンカでもしているんですか?」
「いえ。僕には、彼女はいません」
「いつからですか?」
「生まれた時から今までです」
純は笑いながら答えた。
「ええー。本当ですか?」
京子は目を皿のようにして純を見た。
「ええ。本当ですよ」
純はあっさり答えた。
「本当に一度も女の人と付き合ったことがないんですか?」
信じられないという顔つきで京子は、純をじっと見つめた。
「ええ」
「不思議ですわ。純さんは、お医者様ですし、容姿もいいですし、それに優しいし・・・」
「性格が暗いからですよ。話題もないし、女の人といても、女の人を退屈させてしまいますし・・・。それに男の友達もいないですし。男の友達がいたら、合コンのように、女性をナンパするこもと出来るでしょうけれど、一人では恥ずかしくって、とても出来ませんからね」
「純さんは、真面目すぎて、遊ぶのが下手なんじゃないでしょうか」
「ええ。それは僕も自覚していることです」

「純さん。家賃、払って下さって本当に有難うございます」
京子はまた、あらたまって礼を言った。
「もう、そのことは言わないで下さい。僕は京子さんのような綺麗な女性と、大磯ロングビーチに来るのが夢だったんです。その夢がかなって、最高に幸せなんです」
純はニコッと笑った。
「私も幸せです」
京子もニコッと笑った。
「今日は大いに楽しみましょう」
「ええ」
だんだん入場客が増えてきた。本館の建物から出てくる女はみんな、ビキニ姿である。
「ほら。京子さん。女性はみんなビキニでしょう」
純は、そう言ってビキニ姿の女性達を指差した。
「ほんとだわ」
京子は純の指差した方を見て納得したように言った。
「京子さん。プールに入りませんか」
「ええ」
純は立ち上がって、京子とシンクロプールの縁に座った。二人はプールの縁に座ったまま、足をプールの中に入れ、ユラユラと足を動かして水を揺らした。
「京子さんは泳げますか?」
純が聞いた。
「え、ええ。一応。でも平泳ぎしか出来ませんし、速くは泳げません。純さんは?」
純は嬉しくなった。普通の人は、大抵その程度である。
「僕は、クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライなんででも泳げます」
「へー。凄いですね」
「それは、泳ぐのが好きですから」
「純さんの泳ぎ、見せて貰えないでしょうか」
「ええ」
純は大得意で、プールに入った。京子に、自分の得意な泳ぎを見せられるのだ。これ以上、爽快なことはない。
純はクロールで泳ぎ出した。いつもは、ゆっくり泳いでいるのだが、京子に見せるため、いつもより、速く泳いだ。一往復すると、今度は、背泳ぎ、次はバタフライ、最後に平泳ぎ、と個人メドレーのように泳いだ。そして、プールから上がって、元のように京子の隣に座った。
「凄いですね。まるで水泳の選手みたいです。高校か、大学では水泳部だったんですか?」
「いえー。一人で練習したんです」
「凄いですね。純さんの泳ぎって、すごく綺麗ですね。まるで芸術のようです」
純は、照れくさそうに笑った。それは純も意識していることだった。運動は、技術も大切だが、美しくなくてはならない、という強いこだわりが、純にはあった。一度、見せたので、もう見せるのは十分である。

「京子さん。一緒に泳ぎませんか」
純が誘った。
「ええ」
京子はニコッと笑った。京子も、泳げることを自慢したかったのだろう。そっとプールに入ると平泳ぎで、泳ぎ出した。純は、ゴーグルをして、平泳ぎで、京子の真後ろを泳いだ。水中から、ビキニに覆われた京子の尻や太腿が、もろに見える。尻や太腿は水の力によって、揺らいだ。平泳ぎで、足で蹴る時、両足が大きく開いて、ビキニに覆われた女の股間が丸見えになった。それはとても悩ましく、純は激しく興奮した。純の股間の一物は、すぐさま勃起した。京子の泳ぎは、極めてゆっくりだった。プールの壁につくと、ターンして、泳ぎつづけた。自分の泳力を見せるためだろう。純もターンして、京子の後を泳いだ。一往復して、元の場所に着くと、京子はプールから上がった。純もプールから出た。そして、二人はさっきと同じように、プールの縁に並んで座った。
「ああ。疲れた。泳ぐの久しぶりだわ。中学校の体育の授業の時、以来だわ」
京子が言った。
「でも、ちゃんと泳げるじゃないですか」
純は、チラッと京子の体を見た。ビキニが水に濡れて収縮し、股間と胸にピッタリと貼りついて悩ましい。体から滴り落ちる水滴も。それは、ただの水滴ではなく、京子の体についていた水なのである。
太陽は、かなり高く昇っていた。客もそうとう多くなっていた。流れるプールには、多くの男女や子供が、歓声を上げながら、水に流されながら泳いだり、ゴムボートに乗って、楽しんでいた。

「京子さん。今度は、流れるプールに入りませんか」
「ええ」
京子は、ニコッと笑って、答えた。
純と京子は、手をつないで、流れるプールに向かった。もう、京子にビキニを恥ずかしがる様子はなかった。入場客の女は、みんなビキニだからである。京子は、子供のようにウキウキしていた。流れるプールは、けっこう、速度がある。流れるプールでは、流れの方向に従って、泳がなくてはならない。純は、以前、そのことを知らないで、流れと逆方向に泳いだら面白いと思い、泳いでいたら、すぐに監視員がやってきて、「お客さん。規則を守っていただけないのでしたら退場していただきます」と、厳しく叱りつけらたのである。
流れるプールは陸上競技のトラックのような楕円形のプールである。
純は京子と一緒に流れるプールに入った。
流れるプールは、自力で泳がなくても、水に体をまかせていれば、水の流れによって、流されるので、泳いでいるような感覚になる。泳げば、流れる速度に泳ぐ速度が加わって、速く泳げているような感覚になる。そんなところが、流れるプールの面白さである。
純は、京子と手をつないで、しばらく流れにまかせて、歩いた。
「気持ちいいですね」
京子が、ニコッと微笑んで言った。
「ええ」
純は微笑んで答えた。
しばし水に押されながら歩いた後、京子が立ち止まった。
「純さん。ちょっと、ここで止まってて」
「え?」
純には、その意味がわからなかった。京子は、つないでいた手を放し、水を掻き分けながら歩き出した。水の速度と、水を掻き分けながら歩く速度で、京子は、どんどん進んでいき、二人の距離は、どんどん離れていった。純は、意味も分からず、京子に言われたように、立ち止まっていた。かなりの距離、離れてから、京子は、後ろを振り返って、純に手を振った。
「純さーん。私を捕まえてごらんなさい」
そう言うと、京子はまた、水を掻き分けながら、歩き出した。純は、京子の意図がわかって、ははは、と笑った。水中での鬼ごっこ、である。純は、ゴーグルをつけて、京子に向かって、泳ぎ出した。だが、人が多いため、ぶつかってしまい、泳げない。仕方なく、純も、京子と同じように、水を掻き分けながら歩き出した。条件は同じである。地上と違い、水の抵抗があるため、なかなか、速く進めない。これでは、男と女の違いはあっても、あまりそれが有利に働かない。京子も必死である。距離がなかなか縮まらない。しかし、そこはやはり、男の力の方が強い。だんだん距離が縮まっていった。京子は、捕まえられないよう、キャッ、キャッと、叫びながら、逃げた。幸い、近くに人があまりいなかったので、純は、クロールで全力で泳ぎ出した。どんどん京子との距離が縮まっていった。もう三メートル位になった。水の中から、必死で、逃げる、ビキニ姿の京子の体が、はっきりと見える。純は、可笑しくなって、ふふふ、と笑った。
「京子さん。つーかまえた」
そう言って、純は、タックルするように、京子の体を、ギュッと抱きしめた。京子の体に触れるのは、これが初めてである。それは、あまりにも柔らかい甘美な感触だった。捕まえられて、京子は、
「あーあ。つかまっちゃった」
と、口惜しそうに言った。
二人は顔を見合わせて、ははは、と笑った。
「じゃあ、今度は、京子さんが、捕まえる番です。僕をつかまえてごらんなさい」
純が言った。
「わかったわ」
京子は立ち止まった。純は、水を掻き分けて進み、京子から少し離れた。
「さあ。京子さん。もういいですよ」
京子は、ニコッと笑って、水を掻き分けて、純を追いかけ始めた。純もつかまらないよう、水を掻き分けて逃げた。だが、そこは、やはり男と女。本気で純が逃げると、京子との距離は、全く縮まらない。それどころか、どんどん離れていってしまう。これでは、京子は、いつまで経っても純をつかまえられない。なので、純は、手加減して、京子が何とか、つかまられる程度の速度で逃げた。二人の距離はだんだん縮まっていった。京子は嬉しそうである。ついに、京子は純をつかまえた。
「純さん。つーかまえた」
そう言って、京子は、後ろから純の体にヒシッと抱きついた。京子の柔らかい胸のふくらみの感触が、純の背中にピッタリとくっついた。それは、最高に気持ちのいい感触だった。
「京子さん。ちょっと、疲れましたね。少し、休みませんか」
「ええ」
二人は流れるプールから出た。
二人は、ビーチパラソルの下のリクライニングチェアに座った。京子の体からは、水が滴り落ちている。それはとても美しい姿だった。純には、京子が、陸に上がった人魚のように見えた。
「純さん。お腹空いてませんか?」
京子が聞いた。
「ええ」
「じゃあ、何か食べましょう。純さんは、何を食べたいですか?」
「僕は、何でもいいです。京子さんと同じ物を食べたいです」
「わかりました」
そう言うと彼女は、パタパタと小走りに食べ物売り場に走って行った。小走りに走る京子の後ろ姿は悩ましかった。
ビキニで覆われているセクシーな尻が揺れて、彼は頭がボーとしてきた。
京子はすぐに、焼き蕎麦を二包み、とオレンジジュースを二つ、買ってもどってきた。
そして、それをテーブルの上に置いた。
「焼き蕎麦とオレンジジュースにしちゃったけど、よかったかしら」
「は、はい。あ、ありがとうごさいます」
二人は、焼き蕎麦を食べ始めた。咽喉が渇いていたため、オレンジジュースが最高に美味しかった。
「京子さん。今日は僕にとって最高の日です」
食べ終わった後、純が言った。
「私にとってもそうですわ」
京子もニコッと笑って言った。純は、京子の横顔を、しばし真顔でじっと見つめた。
「あ、あの。京子さん。つかぬことをお伺いしてもよろしいでしょうか」
急に純の顔が真剣になった。
「はい。何でしょうか」
京子はキョトンとして聞き返した。
「あ、あの。京子さんは、結婚してるんですか?」
「・・・そ、それは・・・」
京子は言いためらった。京子の顔も真剣になった。
「もし、結婚しているんでしたら、京子さんと会うのは今日限りにします。だって、これは不倫ですから。ご主人に悪いです」
言いためらっている京子に純はきっぱりと言った。だが京子は黙っている。純はつづけて言った。
「僕は京子さんが好きです。京子さんは僕のことをどう思っているのでしょうか?」
「私も純さんが好きですわ」
京子は、強い語調で、ためらうことなく即座に答えた。この発言は純を喜ばせ、安心させた。
「もし、京子さんが結婚していたり、好きな人がいるのなら、僕は、いさぎよくあきらめます。でも、もし、そうでないのなら僕と、結婚を前提として、友達になっていただけないでしょうか」
いきなりの無粋で唐突なプロポーズだった。純は強い語調で京子にせまった。だが、京子は黙っている。京子の明るかった表情が、純の真剣な質問によって、困惑した表情に変わってしまった。しばし時間がたっても、京子は返事をしようとしなかった。純は、京子には何か複雑な事情がある、のだと思った。
「すみません。京子さん。無理に問い詰めてしまって。何か、言いにくい事情があるみたいですね。もう、そのことは聞きません」
「あ、ありがとうございます」
京子は、肩の荷がおりて、ほっとしたようのだろう。ペコペコと頭を下げた。
京子には、何か言いたくない事情があるのだ。と純は確信した。しかし、それを問い詰めても詮無いことである。純は無粋な質問をしてしまったことを後悔した。純は、頭を切り替えて、ニコッと微笑みかけた。
「ごめんなさい。京子さん。昨日、会って、いきなり翌日、結婚を申し込むなんて、おかしいですよね。今の質問はなかったことにして下さい」
「あ、ありがとうございます」
京子はほっとしたように答えた。純も嬉しくなった。
「ともかく、今の質問はなかったことにして、今日はうんと楽しみましょう」
純が笑顔でそう言うと、京子も満面の笑顔になって、
「ええ。ありがとうございます。ぜひ、そうしましょう」
と、嬉しそうに言った。京子の顔に再び笑顔がもどった。
ちょうど、その時、ダイビングプールの前で、賑やかなアトラクションが始まるところだった。コミニュケーション・パフォーマンスである。純は、これが好きだった。
「あっ。京子さん。面白いアトラクションが始まりますよ。行ってみませんか?」
「ええ」
京子は即座に答えて立ち上がった。

二人は手をつないで、ダイビングプール前の広場に行った。多くの入場客が、すでに集まっていた。純と京子は、人垣の後ろに手をつないで並んだ。元気な音楽と共に、チアガールのようなミニスカートを履いた五人の若い女性達が元気に出てきた。彼女達は少し音楽に合わせて踊った。一番元気なのがリーダーである。彼女がアトラクションの司会をした。彼女は五人の名前を紹介した。そして、水の一杯入った、水位が透けて見える五つのバケツを、少しずつ間隔を空けて、横一列に並べた。
「みんな、元気かなー。コミニュケーション・パフォーマンスの時間ですよー」
とリーダーが元気に言った。
「小学生以下の子供、五人出てくれないかなー。水掻き競争をするよー。ルールは簡単。用意スタートで、バケツの水を掻き出し、三分で終わり。バケツの水を一番多く、掻き出した子が勝ちだよー」
子供達が、五人出てきた。自分の意志で、というより、親に勧められたり、司会の女性に、
「君、やらないかなー」
と勧められたりしてである。小学生以下の子供では、まだ、おどおどしてて、自分から出てくる勇気はない。だが、ともかく、五人の幼児が出てきた。
「君。名前は?」
と聞かれて、子供達は、たどたどしく、自分の名前を言った。五人は、それぞれ、バケツの前に立たされた。グループの五人の女が、それぞれの子供の応援者のように、子供の後ろに立った。
「それじゃあ、始めるよー。用意―」
と言うと、子供達は、腰を屈め、手を出して構えた。
「スタート」
合図と共に、子供達は、せっせとバケツの水を掻き出し始めた。みんな一生懸命である。バケツの水がどんどん掻き出されていった。
「ストップ」
の合図と共に、子供達は、水を掻き出すのを止めた。バケツが隣り合うように集められた。水位の一番、下がっているバケツが勝者である。バケツの中の水が透けて見えるので水位の下がりの程度は、近くで並べれば、一目瞭然だった。
勝った子供は、名前を聞かれ、子供は、たどたどしく答えた。五人には参加賞として、風船が渡された。他にも、同様の簡単なゲームが行われた。

純は、これが好きだった。子供というよりも、コミニュケーション・パフォーマンスの司会の女の人が、綺麗で、子供っぽく振舞う仕草が面白くて好きだったのである。それは演じられた仕草ではあったが、ともかく明るく、楽しい。根にそういう性格がなければ、子供のように演じることは出来ないだろう。純は彼女に話しかけたかったが、出来なかった。彼女が、明るく振舞えるのは、ゲームの中だけであり、大人が、個人的に話しかけたら、彼女は、途端に良識ある大人にもどってしまうだろう。
そして、アトラクションでは女性達のビキニの後ろ姿を間近でじっくり見れるのが、よかった。女性達は、アトラクションを見ているため、前を向いて立ったまま動かない。純は、女性達に気づかれることなく、彼女達の、ビキニの後ろ姿を見ることが出来た。そして手をつないで見ているカップルを純は羨望の眼差しで見た。自分にも、手をつないで横にいてくれる女性がいたらどんなに幸せなことか。だが、女性のいない純は、さびしくハアと溜め息をつくだけだった。
だが、今日は違う。京子という綺麗な女性が、間違いなく純と手をつないで横にいるのである。まさに夢、かなったりである。純は最高に幸せだった。京子は横で、微笑みながら楽しそうに、アトラクションを見ていた。純は、そっと京子の背中に手を回して、京子とピタリとくっついた。柔らかい女性の体の感触はたとえようもなく心地よかった。

アトラクションが終わった。
「楽しいアトラクションですね」
京子は、そう言って笑顔を純に向けた。
「そうですね」
純も笑顔で答えた。京子の笑顔には、さっきの暗い陰など、全く無くなっていた。純は、京子と手をないで歩いた。
「今度は波のプールに行きませんか?」
「ええ」
そうして踵を返した時、目の前で、若いカップルが、ピースサインをしてニッコリ笑っていた。その二人を、SHOUNANと書かれた青いTシャツを着た男が、デジカメを向けている。「大磯でカシャ」である。土曜と日曜は、大磯ロングビーチは入場客がたくさん来て混む。よく言えば賑やか、である。それで、土曜日と日曜日に、入場客の写真を撮って、大磯ロングビーチのホームページに、その日のうちにアップしていた。これは、土曜日と日曜日だけ行われていた。平日はない。写真を撮って欲しければ、「撮って下さい」と一言いうだけで、撮ってもらえるのである。
「京子さん。一緒に、写真、撮ってもらいましょうか」
「ええ」
京子は嬉しそうに返事した。
「でも、ネットにアップされますよ。大丈夫ですか?」
「ええ。大丈夫です」
京子は笑顔で、あっさり言った。これは記念のためでもあるが、探りのためでもあった。もし、京子が結婚していたり、本命の彼氏がいたりしたら、二人一緒に楽しそうにしている写真を撮られるのは、夫や彼氏に見つかるリスクを恐れて出来ないはずである。だか、それは京子は大丈夫らしい。なら、京子は、結婚しておらず、本命の彼氏もいない可能性の方が強くなる。仮に本人に見つからなくても、友達や知人に見つかれば、本人に報告されて知られてしまう危険がある。ならば、さっき京子に唐突にプロポーズして、京子が困ったのは何故なのか。やはり、自分に好意を持ってくれてはいるが、結婚までは、決めかねている、ということなのではないか、と純は思った。
「すみません。写真、撮って下さい」
純は、カメラを持っている、青いTシャツの男に言った。
「はい。わかりました」
と言って、男は、カメラを覗きながら、少し後ずさりした。純は京子とピッタリとくっついて、右手を京子の腰に回した。京子は、左手を純の腰に回した。そして、お互い、反対の手で、ピースサインをした。
「では、撮りますよー」
男が言った。京子は笑顔をつくった。純も笑顔をカメラに向けた。
カシャ。
写真が撮られた。
男は、近づいてきて、撮った写真を二人に見せた。ピッタリくっついたアツアツの写真が撮れていた。
「お二人の関係は?」
男が聞いた。純は京子の顔を見た。
「恋人です」
京子が嬉しそうに答えた。純は驚いた。
「京子さん。アップされる写真には、間柄と来た場所が写真の下に載りますよ。恋人で本当に、いいんですか?」
「ええ。いいです」
京子は躊躇いなく言った。
「お住まいはどちらですか?」
男が聞いた。
「藤沢市です」
京子が答えた。堂々と住んでいる所まで答える京子に純はまた驚いた。
「では、今日中にアップします。どうもありがとうございました」
そう言って男は去っていった。

「京子さん。じゃあ、波のプールに行きましょう」
「ええ」
純が誘うと京子は嬉しそうに返事した。
「京子さん。間柄は恋人で、藤沢市在住なんて言って本当にいいんですか?写真の下に書かれますよ」
純は眉間を寄せて京子に聞いた。
「ええ。大丈夫ですよ」
京子はあっけらかんと答えた。純は京子が何を思っているのか、さっぱり分らなかった。京子に夫や彼氏がいるのなら、写真は公開されない方がいいに決まっている。仮に公開されても、似ている他人と思われて気づかれない可能性もある。しかし、住んでいる所が分ってしまえば、確実に不利になる。夫や彼氏がいて、知られたくないなら、住んでいる所は、埼玉県とか、ウソを言っておいた方がいいはずである。そんなことは京子も分っているはずである。純は何が何だかさっぱり分らなくなった。

波のプールについた。
純は波のプールには、全く入らなかった。ここでは泳げない。ここは、親子や友達が、海の波の寄せたり引いたりする感覚を楽しむためのプールである。そもそも純は、大磯ロングビーチでは、シンクロプールでしか泳がなかった。市営プールと違って、一時間に10分の休憩というものがないから、いくらでも続けて泳げる。しかも水深2mだから、浅いプールよりずっと面白かった。朝9時から泳ぎ出して、ずっと泳ぎ続けて、気づいたら12時を過ぎていたということも、ザラだった。
純は京子と手をつないで、波のプールに入っていった。
適度な力を持った波が、やって来ては、足に当たり、そして引いていく反復を何度も続けていた。それは人工的に作り出された潮の満ち引きだった。やってくる波は、適度なエネルギーを持っていて、足に当たる波の攻撃には軽いスリルがあって、それが心地いい。
「気持ちいいわ。何だか海に来たみたい。こうやって、波に入っていくの、久しぶりだわ」
「京子さんは、夏は海には行きますか?」
「全く行きません。中学校の時に海水浴に行って以来、全く行ってません」
「どうしてですか?」
「そうですね。やっぱり日焼けするのが嫌なので・・・」
二人は、手をつないで、どんどん深みに入って行った。
「純さんは、海にはよく行くでしょう」
京子が聞いた。
「ははは。海には行きますけど、海にはほとんど入りません」
「どうしてですか?」
「海では、体が浮くんで、面白くないんです。ブイで仕切られた小さな囲いの中を泳いでいても、面白くありません。それに・・・」
「それに、何ですか?」
「それに京子さんのような素敵な彼女がいませんから。海は泳ぐ所ではなく、友達と一緒に行って遊ぶ所です」
「・・・ふふふ。じゃあ、今度いつか一緒に海に行きませんか?」
純は驚いた。京子は純とまた会いたい、と思っているのか。だが本気ではなく言葉だけかもしれない。本心で京子が何を思っているのかは、さっぱり分らなかった。
二人は手をつないで、さらに、どんどん深みに入って行った。もう水が胸の所まで来ていた。足をしっかり踏ん張っていないと波に押されてしまう。波がくる度、京子は、キャッ、キャッと嬉しそうに叫んだ。波に負けないためには、波がくる前に、波の方に向かっていくくらいでなくてはならない。
「あっ」
大きな一波に京子は、波にさらわれそうになった。
「純さん。助けてー」
ふざけてか本気か、京子は咄嗟にぐっと純の手を力強く握った。純はぐっと京子の手を握り締めた。だが京子は、力が弱いのか、バランスが悪いのか、波に流されてしまいそうだった。
純は、京子の背後に回り、背中から京子の体をしっかり抱きしめた。
「もう大丈夫ですよ。京子さん」
「ありがとう。純さん」
純は京子を背後から抱きしめて、足をぐっと踏ん張った。こうすれば確実に京子を支えられる。だが波はそんなに強い力ではない。し、京子もそんなに非力とも思えない。平泳ぎで50m泳げるほどの泳力はあるのだから。結局、京子は、純に抱きしめられたいため、わざと力を抜いているのだと思った。純はしばし、京子を背後から抱きしめ続けた。京子が倒れないため、というより、抱擁するように。京子も、純の抱擁に身を任せているかのようだった。「支え」ではなく「抱擁」と純が意識を切り替えると、それはとても気持ちのいいものになった。純はこんなことをするのは生まれて初めてだった。京子は抱きしめている純の腕をしっかりつかんだ。しばし、二人は、そうやって、波に揺られていた。

時計を見ると、もう五時近くになっていた。ちらほらと人々は帰り支度をしていた。
「京子さん。もう、出ましょう」
京子を抱きしめていた純が言った。
「はい」
二人は手をつないで、波に押されながら、波のプールを出た。
「京子さん。もう、帰りましょう。今日は最高に楽しかったです」
「私も」
そう言って京子はニコッと笑った。
二人は手をつないで、本館の建物に向かった。
純と京子は更衣室とロッカーのある本館に入った。コインロッカーに入れていた、二人分の荷物を出して、二人は、それぞれ男性更衣室と女性更衣室の前で別れた。
純はシャワーを浴び、ドライヤーで髪を乾かして、服を着て、更衣室を出た。そして、京子が出てくるのを待った。五分くらいして、京子は、着てきた薄いブラウスとフレアースカートを着て出てきた。二人は手をつないで大磯ロングビーチの建物を出た。

二人は駐車場に止めておいた車の所に来た。
「京子さん。また運転しますか?」
と純が聞くと、京子は、
「はい」
と嬉しそうに答えた。それで京子が運転席に乗り、純は隣の助手席に乗った。京子はエンジンをかけ、車を出した。もと来た道を帰るだけなので、帰りは楽である。
「いやあ。今日は人生で最高の一日でした」
純が言うと、京子も、
「私もそうです」
と言ってニコッと笑った。純は真顔になり、興ざめになるのを覚悟の上で、昼間した質問を京子をじっと見据えて言った。
「京子さんは、結婚しているか、付き合っている彼氏がいるのですか?」
「・・・そ、それは・・・」
急に京子の顔が青ざめた。
「京子さん。教えて下さい」
純は強気に迫った。
「もし、結婚しているんでしたら、今日限りにします。だって、これは不倫ですから。ご主人に悪いです」
だが京子は黙っている。
「京子さん。率直に言います。僕と結婚して下さい」
このプロポーズはあまりに唐突であり、京子は唇を噛みしめて眉間を寄せた。京子は黙ったまま返事をしなかった。京子が純に好意を持っているのは、今日の京子の嬉しそうな態度で明らかである。結婚していたり、将来を誓い合った彼氏がいるのなら、ハッキリそう言えばいいではないか。何が問題だというのだ。純には全く分らなかった。しばし時間が経った。
「何か、言いにくい事情があるみたいですね」
純は答えられない京子をそれ以上、問い詰めるのをやめた。
京子のアパートに近くなっていった。
「純さん。昨日のお礼に、家にすき焼きの具を二人分、用意しておいたんです。どうか食べていって下さい」
京子が言った。
「そうですか。ありがとうございます。それではご馳走になります」
このまま家に帰るものだと思っていた純は、思いがけない京子のもてなしに嬉しくなった。しかも京子は昨日から、すき焼きの具を買って用意していたのだから、京子が純に好意を持っていることは明らかである。
やがて車は京子の家に着いた。
「はい。純さん」
車を止めてエンジンを切ると、京子はエンジンキーを純に渡した。純はそれを受け取って財布の中に入れた。京子はアパートの鍵を開けた。
「はい。どうぞ。狭い部屋ですがお入り下さい」
京子に言われて純は京子の部屋に入った。京子の部屋は、六畳が一つで、あと風呂と台所だけの狭いアパートだった。家賃三万円では無理もない。京子は純を六畳の部屋に通し、座布団を純にすすめた。
「すぐに、すき焼きの用意をします。待っていて下さい」
純は座布団に座った。純は部屋を見回した。だが男が一緒に住んでいるようには見られない。
『ここで二人暮らしは、きついだろう。では、結婚しているとすれば別居だろうか』
純はそんなことを考えた。どうしても思考が京子の男関係のことに行ってしまう。
やがてグツグツ煮える音がしてきた。京子は、茹であがった白菜の入った、熱くなったすき焼きの鍋と、焜炉を六畳の部屋に持ってきた。
「おまたせしました」
そう言って、焜炉を座卓の上に乗せ、その上に、熱くなった鍋を置いた。
京子は台所にもどって、牛肉や豆腐、白滝、葱、饂飩など、すき焼きの具を座卓の上に乗せた。そして、純にご飯と生卵と、小鉢と箸を渡した。
京子は牛肉や具をどんどん入れていった。
「さあ。召し上がって下さい。はやく食べないと肉が硬くなってしまいますから」
京子が言った。
「うわー。美味しそうだ。いただきます」
そう言って純は、小鉢に卵を割って入れて、すき焼きを食べ始めた。
肉は横にたくさん置いてあるので、純はどんどん食べていった。
「お味はいかがですか?」
京子が、箸で、具を入れながら聞いた。
「美味しいです。でも、もうちょっと砂糖を入れてもらえないでしょうか。甘いのが好きなんで」
「はい。わかりました」
そう言って京子は、砂糖を鍋に継ぎ足した。
純は、すき焼きをおかずにして、温かいご飯をハフハフいいながら食べた。京子は嬉しそうに純を見守っている。自分は用意するだけで食べようとしない。純にうんと食べて欲しいという思いからだろう。
「京子さんも食べて下さい。一緒に食べた方が美味しいですから」
「はい。わかりました」
京子はニコッと笑って、すき焼きを食べ出した。だが純を思ってか、肉はあまり食べなかった。食事が終わった。京子が肉をほとんど食べないので、純が肉を二人分食べたようなものである。
「あー。おいしかったでした。どうもありがとうございました」
純は丁寧にお礼を言った。京子は、ニコッと笑って、食器を台所に下げ出した。
ふと、横を見ると、ノートパソコンがあった。純は、ネットを開いて、大磯ロングビーチを開いた。「大磯でカシャ」には、純とビキニ姿の京子が、ピッタリとくっついて、お互いに腰に手を回し、笑顔でピースサインをしている写真が綺麗に写っていた。
「京子さん。見て御覧なさい。昼間、撮った写真が写ってますよ」
純に言われて京子は純の横に座った。
「本当だわ。まるで夫婦みたいですね」
そう言って京子はニコッと笑った。純はこの発言の意味もわからなかった。
「京子さんのビキニ姿、凄くセクシーです。きっと多くの人が見ていると思いますよ」
言われて京子は顔を紅潮させた。
「ちょっと、待っていて下さい。シャワーを浴びてきます」
そう言うと、京子は立ち上がって風呂場に入った。シャワーがタイルを打つ音が聞こえてきた。大磯ロングビーチのシャワーだけでは、まだ不十分で、家に帰ってから、石鹸でシャワーを浴びないとプールの水は完全には落ちない。純は今まで、大磯ロングビーチに行った時は、必ず、家でもう一度、石鹸でシャワーを浴びていた。京子もそれなのだろうと純は思った。やがてシャワーの音がピタリと止まった。
出てきた京子を見て、純は驚いた。京子は白いバスタオルを一枚だけを体に巻いて胸の上で縒って、とめてあるだけだったからである。京子はその姿のまま、寄り添うように純に体を寄せてきた。
「あ、あの。純さん。どうか好きにして下さい」
京子の発言に純は胸がはち切れんほどの思いがした。これはセックスの誘いである。純は京子の肩をそっとつかんだ。純はしばし迷った。そして、重い口を開いて言った。
「京子さん。何度も言いますが、京子さんが結婚しているのであれば、僕は京子さんを抱けません。ご主人に悪いですので。僕は、ちょっとカタイ男で、そういう性格なんです」
純はそう言った。京子は黙っている。だが、女の方から誘ってきたのに、女を抱かないなんていうのは、女に恥をかかせることになる。デリケートな純はそれも嫌だった。そのため、あくまでバスタオルの上から、ギュッと京子を抱きしめた。そして、それだけにとどめた。しばしの時間が経った。純は京子から離れた。
「今日はもう遅くなりましたから、帰ります。色々とありがとうございました。今日は僕にとって最高の一日でした」
そう言って純は立ち上がろうとした。
「あ、あの。純さん」
京子が引きとめるように純に声をかけた。
「何ですか?」
「あ、あの・・・」
と言って京子は言いためらった。
「何でしょうか?」
純が促すように再び聞いた。
「あ、あの。もう一度、合って頂けないでしょうか?」
京子の顔は真剣だった。純には京子が何を考えているのか、さっぱり分らなかった。どう考えてもわからなかった。
「何か、複雑な事情があるみたいですね」
純は重たい口調で言った。
「わかりました。僕も京子さんとまた会えるのは嬉しいですから」
「あ、ありがとうございます」
京子は涙を浮かべんばかりに、ペコペコ頭を下げた。本当に感謝している様子だった。
「で、いつ、どこで会う予定にしましょうか?」
「純さん。明日の仕事は何時に終わりますか?」
「そうですね。午後五時には終わります」
「では、明日の純さんが仕事が終わった後に会って頂けないでしょうか?」
今日、会って、また明日とは、早いものだと純は首を傾げた。
「で、場所はどこにします?」
駅の東口のロータリーの近くに喫茶店、××がありますね」
「ええ」
「あそこで会ってもらえないでしょうか?」
「わかりました」
そう言って純は、京子のアパートを出て、車で家に帰った。
家に着くと、純はすぐにノートパソコンを開けて、再度、「大磯でカシャ」の京子のビキニ姿の写真をしみじみと眺めた。それはあまりにもセクシーで美しく、いつまで見ていても見厭きなかった。純はシャワーを浴びて、パジャマに着替え、歯を磨いて、床についた。そしてまた京子のセクシーなビキニ姿の写真を眺めた。そうしているうちに純は今日一日、遊んだ疲れから、泥のように眠った。

   ☆   ☆   ☆

翌日になった。
純はいつもの通り、カジュアルな格好で、車で病院に出勤した。月曜は結構、外来が混むが、今日はそれほどでもなかった。医者なんて八百屋とたいして変わりない。と純は思っていた。し、実際そうである。慣れで、誰でも出来る仕事である。昼休みは、医師の全員は、医局でテレビを観ながらくつろぐのだが、純だけは、医局のテレビの音や医者同士の会話はうるさい雑音でしかなかった。それで純は昼休み、誰もいなくなった静かな診察室で一人カリカリと小説を書いていた。そのためもあって、また酒も飲めなく、人付き合いも苦手で、飲み会にも出ないため、純は親しい医者の友達があまりいなかった。
その日は、仕事が終わった後、京子と会うことが気になって、純は、そのことばかり考えていた。
五時になって仕事が終わった。純は京子に携帯で電話した。
「京子さん。いま、仕事が終わりました。今、どこにいますか?」
「喫茶店××にいます」
京子が小さく返事した。
「そうですか。それでは、急いでそちらに向かいます」
そう言って、純は携帯をきった。そして、車に乗って、急いで車を飛ばした。

   ☆   ☆   ☆

純は駅前の駐車場に車を停めた。そして、急いで喫茶店に入った。京子は、奥の窓際の席に座っていた。昨日と同じブラウスとスカートだった。
「いやあ。待たせてしまってすみません」
「い、いえ」
純は京子とテーブルを挟んで、向き合うように座った。
ウェイターが来た。純はアイスティーを注文した。京子もアイスティーを注文していたからである。京子のアイスティーは、半分くらい減っていた。かなり待ったのだろう。京子は何か今までになく緊張した様子だった。
「あ、あの。純さん。突然、呼び出してしまってごめんなさい」
そう言って京子はペコリと頭を下げた。
「いや。気にしないで下さい。僕は京子さんと会えるのが幸せなんですから」
純は笑いながら言った。京子は真剣な顔になった。
「純さん。昨日、純さんが、色々聞いてきたのに、答えなくってすみませんでした」
京子は深く頭を下げた。
「いやー。僕も無理に聞き出そうとしてしまって、すみませんでした」
「あ、あの。私、純さんが好きです」
京子は、あらたまった真剣な表情で純を直視して言った。
「そう言ってもらえると僕も嬉しいです。僕も京子さんが好きです」
純は微笑んで言った。
「でも・・・」
と言って京子はいいためらった。
「でも、何です?」
純は京子を促した。
「あ、あの。純さんは、バツイチの女なんて、嫌でしょう?」
純は京子が黙っていた理由がわかって少しほっとした。
「なあんだ。そんなことですか。バツイチだの何だのなんて、全然、気になりませんよ」
純は京子を慰めるように言った。
「でも・・・」
と言って京子は再びいいためらった。
「でも、何です?」
純は強気の口調で京子を促した。
「でも、連れ子がいたりしたら・・・絶対、嫌でしょうね」
京子が言った。
「いるんですか?」
これには純も驚いた。
「え、ええ」
京子が答えた。
「男の子ですか。女の子ですか?」
「お、男です」
「どうして離婚したんですか?」
「前の夫は、バーのホステスを好きになってしまって・・・」
「そうですか」
そう言って純はアイスティーを一口、啜った。
「なるほど。そのことで迷っていたんですか」
純は慰めるように言った。
「ダメですよね。こんな女と結婚なんて・・・」
京子は自分に言い聞かせるように言った。言って肩の荷が降りたように、ハアと溜め息をついた。
純は、気抜けした京子の顔を、しばし、じっと見つめた。そして重たい口を開いた。
「いや。そんなことないですよ」
純は自信に満ちた強い口調で言った。
「どうしてですか?」
瞬時に京子が聞き返してきた。京子はまくし立てるように続けて言った。純があっさり答えたのが疑問だったのだろう。
「どうしてですか?血のつながらない他人の子ですよ。純さんは、お医者様で、収入も社会的地位も高いですし。いいところのお嬢様か、女医さんと結婚するのが、ふさわしいのではありませんか。子供だって、当然、自分の子供が欲しいはずですよね」
「いや。そうとも限りませんよ」
焦っている京子に対し、純は落ち着いて話した。
「『人生の悲劇の第一幕は親子となったことにはじまっている』という、芥川龍之介の格言、知っていますか?」
「いえ。知りません。どういう意味ですか?」
京子は身を乗り出すようにして聞いた。
「つまり、自分の血をひいているから、子供は他人ではなくなるということです。子供は自分の分身、自分の所有物のような気持ちになりますよね。そこから、親の愛情がエゴとなり、子供は自分の思い通りに出来るものという親の驕りが起こります。自分の思い通りの人間にする資格がある。そして、そうならないと不快になる、という、いやらしいネチネチした関係になるということです。自分の物だという気持ちから、自分の思い通りにならないと、かえって嫌いになってしまいます。親のエゴの愛というものは。僕は、そういうドロドロした関係より、血のつながらない他人の子供の方が本当に愛せるからです。僕は生きることにドライですから、自分の血をひいた子供を、そして子孫を、残したい、という執着心がないんです。むしろ、逆に自分の血をひいた人間を死後に残したくないとさえ、思っているんです」
「ほ、本当ですか?」
京子は目を皿のようにして聞いた。
「ええ。天に誓って本当です」
純はニッコリ笑って言った。
「で、でも、あの子を気に入ってもらえるか・・・」
京子は不安げな様子だった。
「それは、僕も見てみたいですね」
「では、すぐに来るよう言いますわ」
京子は携帯を取り出すと、すぐに電話した。
「もしもし」
子供とつながったのだろう。京子は話し出した。
「ケンちゃん。今すぐ、駅前にある××喫茶店に来てくれない。タクシー使っていいから」
話し終わって、京子は携帯をきった。

京子は純に振り向いた。そして、真顔になって、重たそうに口を開いた。
「あ、あの。純さん。もう一つ言わなくてはならない事があるんです」
「何ですか?」
「前の夫は、事業を始めるから、銀行から融資を受けるため、資金が必要だと言いました。私は疑わず保証人になりました。しかし・・・」
「しかし、どうしたんですか?」
「夫は資金を、先物取引で膨らましてから、資金を大きくしようとしたのです。それを私は知りませんでした。でも・・・」
「でも、先物取引で失敗して、借金を作ってしまった、ということですね」
「ええ」
「それで借金はいくらあるんですか?」
「い、一千万円です」
純はニコッと笑った。
「わかりました。僕が払います」
「あ、ありがとうございます」
京子はまた目を潤ませた。

   ☆   ☆   ☆

やがて喫茶店の前にタクシーが着いた。京子は急いで、外に出て、財布から1000円札を数枚、取り出して、タクシーの運転手に渡した。京子は、男の子を連れて、喫茶店の中に入った。京子と男の子は、純と向かい合わせに席に着いた。
「あのね。ケンちゃん。この人はね・・・」
京子が息子を紹介しようとした時、男の子は、いきなり大きな声を出した。
「あっ。おにいさん」
男の子が純を見て言った。
「やあ。健太。君か」
純は笑顔で言った。
「えっ。知っているんですか?」
京子は戸惑った目を純と息子に交互に向けた。
「うん。前、野球を教えてくれる親切なおにいさんがいるって、言ったじゃない」
健太は母親に向かって元気に答えた。
純は健太をじっと見た。
「ははあ。健太。プロ野球選手になりたいのは、契約金と高額な年棒のためだな」
「う、うん」
「それで、お母さんを楽させたいと、思っていたんだろう」
「う、うん」
「親孝行だな。健太は」
純は笑顔で言った。
「よかったわ」
京子はほっとしたように胸を撫で下ろした。そして健太を見た。
「あのね。ケンちゃん。この方が私と結婚して下さると、おっしゃって下さったの。だからこの方が健太の新しいお父さんになるの」
「うわー。嬉しいな」
健太は満面の喜びで叫んだ。
「ケンちゃん。何がそんなに嬉しいの?」
健太があまりに嬉しそうにはしゃいでいるので京子が聞いた。
「だって、そりゃー。野球を教えてもらえるもん」
健太は無邪気に答えた。
「ケンちゃん。この方は、お医者様なのよ」
京子が言った。
「へー。そうだったんですか」
健太は興味深そうに純を見た。
「健太。じゃあ、これからは、今まで以上にみっちり野球を教えてやるからな」
純は笑顔で言った。
「ありがとう。おとうさん」
京子はニコッと笑った。健太が、もう純のことを、おとうさんと言ったからであろう。そして、純が息子と親しい仲だったことが、わかって、純と息子がうまくやっていけるかどうか、という心配が吹き飛んだからであろう。

純は真顔になってじっと京子を見つめた。
「京子さん。僕と結婚していただけないでしょうか?」
純は恭しくプロポースして京子の手をとった。
「あ、ありがとうございます」
京子の目頭は熱くなっていた。京子は思わず、ハンカチを口に手を当てた。
今度は京子が純を真顔で見返した。
「純さん。一言、いわせて下さい」
京子の口調は、急に真剣になった。
「何でしょうか?」
「純さん。私には確かに純さんが、お医者様で、収入が高い、という、よこしまな気持ちがあるんです。でも、でも、決して、お金目当て、だけではありません。私、本当に純さんを愛してるんです」
京子は訴えるように語気を強めて言った。
「ははは。そんなこと気にしないで下さい。そんなことで悩まないで下さい。僕は京子さんが僕を愛してくれていることを信じていますし、僕も京子さんを愛してます」
純は軽くあしらうように言った。
「あ、ありがとうございます」
そう言って、京子はまた目頭を熱くしてハンカチで口を押さえた。

   ☆   ☆   ☆

それから二週間後、近くの小さな教会でしめやかな結婚式が行われた。出席者はお互い、誰も呼ばなかった。純は派手な結婚式が嫌いだったからからである。そう提案すると京子も賛成した。
京子と健太は純のアパートに移った。純のアパートは、六畳が二間あり、ほとんど使っていない、ダイニングもあって三人暮らしにはちょうど良かった。

   ☆   ☆   ☆

結婚式の後の最初の日曜日。
純は朝、起きてから小説を書き始めた。昼食を三人で食べ、その後、三時まで一心不乱に小説を書いた。そして、三時から、息抜きも兼ねて、健太と公園でキャッチボールをした。健太は熱心で、丁寧に指導すれば、健太の野球の技術は、そうとう上手くなると純は確信した。
夕方近くまで、純と健太は熱心に野球の練習をした。
京子がやって来た。
「あなたー。健太―。もう夕御飯よー」
京子に呼ばれて、純と健太は家に戻った。
その日の夕食はビフテキだった。
「健太。これから野球はどうする。もう、プロ野球選手にならなくてもいいぞ。学費は出すから、一流大学に進学して、一流企業に就職した方が無難だぞ。どうする?」
純は健太に聞いた。
「僕、プロ野球選手になる」
健太は決然と答えた。
「どうして?」
「だって、一度、決めたことだもん」
純は微笑んだ。
「よし。俺も必ず小説家になってやる。どっちが夢を実現できるか、親子で競争だ」
そう言って純はビフテキを切って口に入れた。
京子が嬉しそうに二人を眺めていた。


平成23年10月11日(火)擱筆

大磯ロングビーチ物語

大磯ロングビーチ物語

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-07-28

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted