夏の思い出
高一の夏休みのこと。午前中に一学期の成績発表と終業式があって、それがおわり、寮で帰省のためオレは荷物をまとめていた。「夏休みは自由の天地」とはよく言ったものだ。別にオレはどこか旅行へ行くとか、の具体的な目的などなかった。ただ集団の拘束から解放されることが、集団嫌いのオレにとっては一番うれしかった。その時だった。机の向こうから同級のHが言った。
「おい。XX。8月10日こいよな。」
オレは反射的に
「しらねえよ。そんなのシカトだよ。」
と言った。するとヤバイことにそこにたまたま室長のGがいた。
「ダメだよ。シカトなんて認めないよ。」
とGは言った。オレは内心舌打ちした。
(Hのバカ。よけいなこと言いやがって。だまってりゃシカトできたのに)オレは荷物をまとめて、そっと空気のように部屋をでた。西武線に乗り、池袋で山手線にのりかえた。だがGの一言が心にひっかかっていた。忘れようと努力するとよけい意識される。夏休みの間は誰にも、何物にも拘束されたくなかった。オレは内心、シカトすることとシカトしないことのメリット、デメリットを考えていた。やはりシカトすると二学期にGと顔をあわせるのが気まずくなる。小心なオレにはやはりそれはつらいことだった。
ここで8月10日のオレにとってイヤなこと、とはこんなことである。学園の生徒は夏休みに、地域ごとに順番に、その地域の父母会の子供の夏休みの工作教室の指導をしていた。それが今回は神奈川県ということになった。Gがリーダーで、横浜地域の小学生が対象ということでHとオレとあと一年下の二人A、Bがその「指導」とやらの役になってしまった。どうして学園の生徒が・・・・と思うに学園は進学校ではないかわりに生活や技術の教育の学校と外部では見ているらしかったからだろう。何をつくるか知らなかったが、8月10日にそのオリエンテーションをして、8月20日が本番ということらしい。オレがいやだったのは夏休みの間は学園の人間とは顔をあわせたくなかった、のと、又そんな子供の工作教室に指導者ヅラするのがいやだったからだ。結局、行くとも行かないとも決めかねた状態での気分の悪い夏休みがはじまった。
夏休み、といっても特にどこへ行く、ということも何をするということもなかった。ただ50mの市営プールで、午前中、人がこないうちに行って泳ぐことだけが唯一のたのしみだった。午後は家でグデーとすごした。何のへんてつもない平凡な日々だった。だが私は夏が好きだった。何をしなくても夏生きていることがうれしかった。夏休みには「自由」があった。だが今年は違った。8月に2回、学園の人間と顔をあわせなくてはならない。それがいやで心にひっかかっていた。
とかくするうちに8月10日になった。オレはやむをえず行くことにした。やっぱり、行かなかったら二学期にGに会いづらい。オレは小心だった。
二時に磯子駅で会うことになっていた。が、一時半に磯子駅についてしまった。まだ誰も来ていなかった。これは私にとってとても照れくさかった。私はいやいや行くのだから少し遅れて行ったほうがいい。しかたなく駅からポカンと外をみていた。磯子駅からは丘の上に大きな白いホテルがみえる。待つ時間というものはとても長く感じられる。次の電車でくるか、と思って駅につく電車を待っていた。彼らは三回目の電車できた。二時を数分過ぎている。Gは私を見ると、
「ほんと、かわったやつだな。」
と言った。駅をおりて、駅前の広場でしばし待っていた。駅前の大きな樹でセミがいきおいよく鳴いている。少しすると小学校六年くらいの女の子をつれたお母さん、がやってきた。Gは、そのお母さんにあいさつして少し話してから、座っていた我々の方をみてうながした。我々は立ち上がって電車にそった道を横浜の方へ歩きだした。彼女は今回の打ち合せの人なのだろう。女の子も工作教室にでるのだろうが、それにしても打ち合せにまでくるとは積極的な子だと思った。
Gは、その子の母親と話しながら先頭を歩いている。少女はお母さんのうしろを歩いていたのだが、夏休みの小学生らしく、何かとても活き活きしている。私はうしろからだまってついていったのだが、どうも気になってしまう。工作の場所は磯子市の公民館の四階の一室だった。その時まで何を作るのか知らなかったが、どうやら二段重ねの本箱をつくるらしい。二枚の横板を、子供の好きなかたちに切って二段重ねにし、あと、横板の外側に子供が何か好きな絵を描く、ものをつくる、ということだった。電動ノコギリで横板を切るのだが、それが小学生では危ないから、我々がそれをやる、ということらしい。結局、電ノコで切ることのために我々が必要なのだ。Gは、電ノコの使い方を説明したあとで、電ノコで実際に板を切ってみせた。少女は一人、Gの説明を一心に聞いている。スカートが少し短くてつい気になってしまう。打ち合せにまでやってくるくらいだから、学校ではきっとリーダーシップをとるような子なのだろう。
実をいうと私は彼女をはじめてみた時、ついドキンとしてしまった。何か言い表わしがたい感情が、私の心を悩ませていた。彼女の美しい瞳と、年上の中で少し緊張している様子と、普通の子なら、恥ずかしくてこないだろうに、あえてやってきた積極さ、が何か私を悩ませていた。それは短いながらも彼女といる時間がたつのに従ってますますつのっていった。私は惹かれてしまいそうになる自分の気持ちと惹かれてはならないと自制する気持ちに悩まされていた。自制しなくては、と思う気持ちはいっそう私を苦しめた。そんなことで、私はGの電ノコの使い方もいいかげんに聞いていた。またわざとまじめにきくことに反発していた。それに私は子供のころから機械いじりは得意だった。みなが電ノコで板を切った。さいごに私もやった。以外と電ノコは重く、力強く固定しなければあぶない。たしかに小学生では無理だと思った。全員おわると、Gは、
「それじゃあ20日の一時に。」
といって解散となった。みなはいっしょに話しながら帰った。私はみなより一足さきに部屋を出た。夏休みで、一番いやだったはず、だが、もう一回、あの子に会える、と思うと工作はいやながらも、20日には来ようと思った。
それから又、午前中プールへ行き、午後は特に何もしないという日がつづいた。ある日の午後、国語の先生がすすめた夏目漱石の「三四郎」のはじめの部分をパラパラッと読んだ。たいへんダイタンな小説だと思っておどろいた。日本を代表する作家がかくもダイタンなストーリーをつくるものなのかと文学の自由さにおどろいた。私は手塚治虫の「海のトリトン」が好きで、トリトンのように海を自由に泳ぎまわれるようになりたいと本気で思っていた。私は平泳ぎはできたがクロールはできず、何とか美しいクロールを身につけたかった。
翌日、私は電車で五つ離れたところにある病院に行った。私はある宿痾があり、二週に一度その病院に行っていた。病院からの帰り、私は病院の裏手から東海道の松林を抜け、海岸に出て、海沿いに駅まで輝く海をみながら歩くのが好きだった。ここは波が荒く、遊泳禁止だった。波がだんだんおそろしいうねりをつくる。ちょっとこわいが今度はどんな大きな波をつくるかが、波と戦っているようで、こわくもおもしろい。少し行くと遠あさで、波がおだやかなためにできている小さな海水浴場にでた。数人の男女が水しぶきをあげている。無心にたのしむ彼らの笑顔の一瞬の中に永遠がある。彼らは自分の永遠性に価値をおいていない。そのことが逆に永遠性をつくりだしてしまう。それは誰にも知られることのない、かげろうの美しさだ。私は松林を上がり駅に出た。
8月20日がきた。一時からで、ちょうどで、遅刻はしていなかったが、もう、みんなきて、ちょうどはじまったところだった。少し気おくれした感じがする。Gは私をみると
「おう。あそこいって。」
といって左側の奥のテーブルをさした。全部で四テーブルで、各テーブルに小学生が4人から5人くらいだった。私は壁を背にした。あの子は左となりのテーブルにいた。まず、はじめに子供がどのようなかたちで横板を切るか、エンピツで線をひいている。そしてその線にそって我々が電ノコで切るのである。となりでは、あの子が一番はやく線をかいた。そのテーブルではHが担当していたので、彼女はHに切ることをたのんだ。Hは電ノコのスイッチを入れて切ろうとした。どうもあぶなっかしい。もっとしっかり板をおさえなくてはいけない。案の定、板に電ノコをあてたとたん、電ノコはガガガッと音をたててはじかれた。板に傷がついた。彼女は狼狽している。HはGによばれて電ノコの使い方をきかされている。(私はその時すでに、一人、自分のうけもちのテーブルの子が切ってほしいとたのまれたので、すでに二枚、板を切っていて、多少切り方のコツをつかんでいた。)V字だったので両方から切った。私は人とかかわりあいたくない性格なのに自分がうけもたされると精いっぱい相手の期待にこたえなくてはならない、と思う性格があるのを発見した。また、やってみてこうも思った。子供がひいた線を少しもはずしてはならない・・・と。
となりのテーブルでは彼女が狼狽している。彼女の担当はHなのだから、彼女もHにたのむべきだとおもっている。しかし、彼女がHの技術に不安を感じているのは明らかにみえた。私は内心思った。
「私ならできる。」
私は彼女に、
「切ろうか。」
といいたかった。本当にいいたかった。しかし、それを私の方から言うことはできなかった。絶対できなかった。私は心の中で強い葛藤を感じながら、表向きは平静をよそおっていた。私が切りたく思ったのは、何も私でなくても他の誰でもいい。たった一度のことかもしれないが、この子は大人を信じられなくなる、のではないか。けっしてそんな経験をさせてはならない、と思ったからだ。
その時だった。Gは
「切れる人はどんどん他のテーブルの人のでも切ってください。」
と言った。彼女は私の方にきて、
「切ってもらえませんか。」
と小さな声で言った。私は内心人生において絶頂の感慨をうけた。だが表向きは平静に
「ええ。」
と、さも自然そうによそおった。だが電ノコを板にあてた時、よろこびは瞬時に最高の緊張にかわった。彼女は不安そうに板をみている。彼女はゆるいS状のラインだった。私は板を力づよくおさえた。電ノコでの切り方には多少のコツがあることを私は前の経験から知った。それは、ミシン目が入ってる所をみるより多少先をみながら切っていった方がいいということだ。私は慎重に、1ミリもはずしてはならない、と自分にいいきかせて切っていった。外科手術の緊張さに近かった。切りおわった。彼女のひいたラインどおりにほぼ切れた。私は内心ほっとした。彼女は本当にうれしそうに笑顔で
「ありがとうございました。」
と言った。私もうれしかった。そののち私はまたもとのテーブルにもどった。
工作教室は何とか無事おわった。二週間後、高一の夏休みがおわった。私にとってもっともいやだと思っていた、工作教室が私の夏休みにおいて(否、私の人生において)最もすばらしい思い出となった。二学期がはじまった。あれから三年たつ。その後の彼女を私は知らない。しかしきっと明るい美しい高校生になっていることだろう。彼女が友達とゆかいに話している姿が目にうかぶ。
夏の思い出