恥ずかしがりやな織姫だった
七夕を題材にした、20分で読める短編小説です。
非常に切なく哀しい内容ながらも、最後に晴れやかな気分になる小説となっています。それでは最後までお付き合いください。
七月五日
「どうして七夕の日はいつも雨なのか、知ってる?」
家の天井を見上げてふとつぶやいた声は、まるで他の誰かのもののように感じた。いや、本当に自分の言葉ではなかったのかもしれないが、それを僕はもう、考えたくはなかった。地面を叩く雨音は、さらにひどくなっていた。窓を閉めているというのに部屋の中はその音で満たされている。七月に入って早四日、季節はもう夏本番に差し掛かっているというのに、一向に雨は止まない。天気と鬱病が関係している、なんて話を聞いたことがあるが、実際に仰向けになって、こうして一人で電球を見つめていると、それもあながち間違っていないような気がしてくる。それには今の精神状態も大きく影響するらしいから、だとすれば尚更か。
僕はさっきまで、どうやら寝てしまっていたらしい。時刻は既に午後九時を回っていた。外出先から帰ってきたときはまだ夕方であったのに、僕は疲れているのかもしれない。部屋の中央に倒れるように横になってからは、記憶がない。
そう思っていると、空腹を告げるサインが音を立てた。そういえば今日は朝からなにも食べていなかった。そのことを思い出した僕は、こんな時でも空腹を感じるものか、とそのことを皮肉に思いながらも徐に立ち上がり、冷蔵庫を確認したが、そこにはなにもなかった。近所のスーパーはもう閉まっているだろうから、どうやら僕はこの雨の中、距離的にはすぐ近くでありながらも、わざわざ川を渡ってコンビニに行かなければならないらしい。
憂鬱な面持ちで玄関まで行くと、否が応でも緑色のそれが目に入った。そこに吊るされたカラフルな画用紙には、二枚だけ黒い文字が刻まれていた。しかし僕の目は、既に薄暗い曇天へと向けられていた。
家を出ると、外は既に暗闇に包まれ、非常に強いそれが、あらゆるところでその暗闇を切り裂いていた。僕が一歩その世界へ足を踏み入れると、それは容赦なく僕の肩を濡らした。傘なんてさしていても、意味は無いのかもしれない。
道が高架橋に差し掛かると、僕は思わず川へ目を向けた。川は非常に強い勢いで上から下へと流れており、あと三日もすれば氾濫してしまいそうだ。僕はそそくさと橋を渡ると、そこから逃げ出すようにコンビニへ向かった。
気持ちのいい入店音と共に、商品の陳列棚から溌剌とした、いらっしゃいませ、という声が聞こえた。こんな天気だというのに、なんて元気のいい人だろう。僕は一つだけ残っていた三割引きのお弁当を手に取ると、レジへ向かった。明るい店員は僕を見ると、急いでレジに戻って会計をしてくれた。やはり世の中には様々な人間が存在するのだと、僕はこの時少し感じていた。
店員の最後の挨拶に見送られて、僕はまた現実に戻った。外はやはり暗く、雨もまた、降り止むことを忘れてしまったかのように降り続いていた。僕はさっさと家に帰ってしまおうと、先ほどより足取りを速めて、帰路に就いた。
しかしそれからすぐに、僕の足は止まることとなる。コンビニを出て数分後、先ほども通った高架橋を渡ろうと思ったとき、ちょうど反対の方向からは見えない向こう側の高架下にある窪みに、この状況に決してそぐわないものが入っていくのが見えた。
「・・・人だ。」
僕は思わずそう口にしていた。なにをしているのか、なぜこんな天気の時に、なぜこんな時間にあんなところにいるのか、僕の頭には様々な疑問が浮かんだが、それらはすぐに、この危機的状況への危惧に打って変わった。なぜこれを危機的状況だと僕が直感的に判断したのか、それは後から考えれば至極当然なことだったが、突然のことに冷静さを失った僕は、この状況をうまくつかめてはいなかった。冷静に振り返れば、もちろん僕はその場所に見覚えがあるはずだった。
僕は急いで向こう側まで橋を渡りきると、道からそれて一気に高架下まで走った。すでに傘はその用途を失っており、風に煽られた横殴りに降る雨が全身に刺さったが、それでも僕は姿勢を崩さずに走った。その途中で、そこにある人影が、どこかの制服を着ている学生であることが、そのシルエットからなんとなくわかったが、その表情や姿など、詳細なことはなにもわからない。
「ねえ!君!」
僕は年甲斐もなく叫んだ。しかし、けたたましい雨音にそれはかき消される。もう近づくしかないと思った僕は、逆向きに曲がった傘を捨てて高架下に入り、柵を飛び越えてその窪みに潜り込んだ。
僕がそこに到着したとき、暗くてよくは見えなかったが、それが僕に顔を向けたことがわかった。しかしそれは言葉を発しようとはしない。僕もいざ我に返り冷静になると、それになんと声をかけていいのかわからず、暫く沈黙した。
そんな沈黙を破ったのは、若く、高い、綺麗な声だった。
「どうして七夕の日はいつも天気が悪いか、知っていますか?」
どこかで聞いたことのあるような質問は、僕の胸を鋭く刺し、僕の顔に小さな雨を降らせた。
七月六日
翌日、雨は未だ振り続いていた。僕は一人になりたい気分だったが、その音が僕を放っておいてはくれない。いい加減止んでもいいのではないかと思う自分をよそに、きっと止むことはないのだろうと、確信する自分がいた。あの時もそうだったのだから、と。
時計はすでに、午後十時を示していた。当然今日も家には何もない。またコンビニへいくしかないようだ。あの元気な店員は、今日もまた僕に希望を見せてくれるだろうか。いや、そんな大層なものではないか。
玄関に並んだ二枚の黒い文字。
僕は左に吊るされていた方の黒い文字をもう片方にあったはずの文字にならって引きちぎると、雑にポケットに入れ、家を出た。
最後に残された願いは、物憂げに、そして悲しげに、雨風に揺られていた。
――― 雨が止みますように ―――
黒光りした水滴は、更に激しさを増していた。それらは道に刺さり、町を濡らし、僕の寿命をも少しずつ蝕んでいるかのようだった。溜息交じりに歩き始めた僕の肩は、今日もまた、瞬く間に変色した。
例の入店音と共に聞こえてきたのは、どう考えても憂鬱そうに仕事をこなす、そんな若者の声だった。僕は現実から目を背けるように真っ直ぐ歩くと、目の前にある商品に目を向けた。どうやら今日は割引をしていないらしい。しかしそんなことはどうでもよかった。どうせなら、と思った僕は、その中で一番高い商品に目をつけ、レジまで持っていった。店員はそれに気づいていない。店員に声をかけると、彼は一歩一歩地団駄を踏むように、レジへ入った。
今日は挨拶が無く、やはり昨日のものが最後だったということに僕は気づいた。人間とはなんとも変わりやすい生き物だということを裏付けるように、彼の行動は大きく変化していた。というより、もはや彼は、昨日の明るい店員ではない、別の何かに変わってしまったのかもしれない。
今日は歩いて高架下へ向かうことにした。川の水は更にその嵩を増し、実際に試してみるとその水位は、高架下にある柵に身を乗り出すと、膝が濡れてしまうほどにまで上昇していた。
「どうして七夕の日はいつも天気が悪いか、知っていますか?」
柵に足をかけたまま、開口一番、彼女はそう問いかけてきた。僕には未だその答えはわからない。いや、わからないフリをしているだけなのかもしれない。どちらにせよ、僕は口を噤んだまま、その答えを出せずにいた。
「こんなに雨ばかりでは、どうにも気が滅入ってしまいますね。」
彼女はそう呟くと、僕の同意を促すこともないまま、あの窪みのある方へ向かった。そこには金網で作られた、腰の高さくらいまでの柵が立てられ、立ち入り禁止と書かれているであろう看板が張り付けられていることが微かにわかったが、彼女はそれに見向きもせずその中に入っていった。そこは先程いた柵のある道よりは低地で、金属性の古い柵と斜面を隔てて川と直結しており、おそらくこれは、川の氾濫を少しでも食い止めるため設置された、小さなダムのようなものであることが想像できた。しかしそれはダムと呼ぶにはあまりに小さく、もう少し水位が高くなれば簡単に浸水してしまいそうだ。そして一度浸水すれば、十分もしないうちに、この窪みは川の水で満たされることになるだろう。
彼女が窪みの中に入るのを見て、僕は彼女に声をかけた。
「きっとこの雨が止むことはないと思う。」
「なぜですか。」
「それは、言いたくない。けど多分止むことはない。」
「ずいぶん悲観的ですね、まあこれだけ毎日降っていれば、そう思ってしまうのも無理はないでしょう。」
彼女は、まだその理由に気づいていないのだろうか。
「しかしこうも雨続きでは、織り姫と彦星もさぞ悲しんでいることでしょう。いや、空の上では天気がどうだというような話は関係のないことですね。」
「ああ、確かに二人は天に住んでいるのだから、関係はなさそうだ。」
「でもだとすれば、天気を作っているのは彼らということになりますね。」
「天気を作る、か。」
僕は彼女の答えが、徐々に出来上がっていることに気が付いた。ここで止めればよかったのかもしれないが、既に彼女の思考を止めることはできなくなっていた。
「なにか超常的な力で作っているのか、はたまた、彼らの自然な行動が天気を作り出してしまっているのか、どちらにせよ迷惑な話ですね。」
微笑む彼女に、僕は何も言い返せない。
「天気を故意に作り出している理由など検討もつきませんが、自然な行動が天気を作り出してしまっているのだとすれば、ひょっとすると彼らは・・・。」
―――やはり君もそう思ってしまうのか。
僕は、頬を伝うそれを隠すように彼女から顔を背け、川の方へ目を向けた。川の水は、さっきよりも更に増えている気がする。当初の想定のように、明日の今頃には、この川は氾濫するだろう。そう、ちょうどあの時のように。
雨は、未だ降り止むことを知らない。
七月八日 晴
すっかり降り止んだ雨音に代わり、僕はいつも以上に騒々しいサイレンの音で目を覚ました。最初は、こんなにもサイレンの音は大きかっただろうか、と疑問に思った僕だったが、それは救急車両の到着先がとても近いことや、その数や種類が多いこと、そして僕の意識がまだはっきりとしていないことに起因していた。しかし一時期を皮切りに、サイレンの音はしなくなったため、僕は気づけば、そのまま眠っていた。
僕が再び目を覚ましたのは、何日かぶりに見た朝日と、外の喧騒が原因だった。まず僕は、昨日までの雨が嘘だったかのような雲一つない晴天に驚いた。しかし、そんな驚きはすぐに消え失せた。僕の頭は、意識がはっきりとしてくるほどに、外で起こっている事態の異常さに気づき始めたのだった。
窓から遠目に見ても、その光景は充分に非日常なものであったが、僕はその真相を確かめるべく、すぐに現場へ向かった。そうすると、そこには今まで見たことのないような景色が広がっていた。
―たくさんのカメラやメモ帳を持って、必死に中の状況を探ろうとしている人々、立ち入り禁止のロープの前でその人たちの進行を食い止めている警官らしき人、口々に噂話をするように話している、それを取り囲む大量の一般市民たち。
「これじゃあまるで、殺人現場じゃないか。」
思わず口からこぼれた僕の予想は、あながち間違いではなかった。
―――七月八日午前、女子学生と見られる遺体が近所の川から発見された。遺体はすでに腐敗が進んでいたことから、女子学生は何らかの理由で高架下に入り、先日まで降り続いていた雨による川の氾濫が原因で、七日の夜遅くにはすでに溺死していたものと見られている。そしてそこに事件性が見い出せないこと、彼女は遺体が発見されたその場所にさえいなければ助かっていたこと、また彼女は家庭環境や学校で様々な悩みを抱えており、制服の胸ポケットに遺書らしきメモ書きが縫い付けられていたことから、警察はこれを自殺と断定し、早々と捜査を打ち切った。
これが、概ね僕が簡単に集めることのできた情報だった。しかし僕は信じなかった。君が高校に入学して、僕の知らない環境に行ってから、抱えていた悩みがまた深刻になっていたことは知っていた。それでも、君が悩みを打ち明けてくれたあのとき、初めて心の底から僕らは分かり合えたはずだった。だから彼女が自殺をするなんてとても考えられなかった。しかしどれだけ探しても、それらの証拠は彼女が自殺をしたことを示し、その事実を揺るがないものとした。人間など脆い生き物で、軽い出来事であってもなにかをきっかけに簡単に変わってしまうものだ、ということに薄々気づかされながらも、最後までありもしない真相にしがみつき続けた、彼女のことを信じ続けて。なぜなら僕は、どのような現実を目の当たりにしても、彼女が自殺した、それも誕生日になんて、考えられなかったから。第三者に聞かされる彼女は、僕が知っている彼女とはまるで別人だったから。
きっとなにかに巻き込まれたんだ。
誰かに騙されたんだ。
そうするしかなかった理由が、きっとなにか・・・。
そう言い聞かせてきた僕だったが、そのような幻想は、つい先日、完全に打ち砕かれることになった。数年間探し続けて、最後にようやくたどり着いた遺書らしきメモは、幾度となく見た、あのカラフルな画用紙だった。そしてそこには、今まで誕生日だからと幾度となく聞かれた、あの質問の答えが、こう書かれていた。
――― 二人はいつまでも会うことができなくて、泣き続けているんだね、きっと。ーーー
七月七日
雨は狂ったように降り続いている。日は沈み、外は既になにも見えないほどに暗い。しかしその騒々しさが、やはりまだそれが降り続いていることを示していた。
俺は彼女と共に、あの窪みに座っていた。いつの日か家の玄関で見た、あの黒い文字を握りしめながら。川の水はもうそこまで迫っている。僕は彼女にこう問いかけた。
「どうして七夕の日はいつも雨が降っているか、知っているか?」
「その質問、私がしたものに似ていますね。」
・・・?
僕は彼女の質問の真意が読み取れず、しばし口を開けずにいた。しかしそんなことを知ってか知らずか、彼女は続けた。
「それは、二人が会えずに泣いているからだと思います。」
やはりそう思うか。
「そうだな、多分きっと二人は、これからも会うことはできないだろう。」
「なぜですか。」
「雨が止んでいないから。」
僕はそっけなく答えた。
「それもそうですね、わかりきったことを聞いてしまいました。」
彼女の頬が緩む。きっとこの顔を見るのも、これで最後だろう。
「最後に独り言、言ってもいいか。」
「独り言を止める権利なんて、誰にもありません。」
僕は、それもそうだな、と言うと、ここ数日間胸に秘め続けてきたことを吐き出した。
「君の最後のあの言葉、あれは確かに織姫と彦星のことを言っていたのかもしれない。けど僕は、その意味がそれだけだとはとても思えなかった。あの言葉は、僕らのことを指していたんじゃないか。僕が本当の意味で君のことを理解していたなら、言葉なんてなくても必ず僕は君に会いに行く、そしてそうすれば君の涙は止まり、雨は止み、こんな結果にはならずに済んだのだと、そう言いたかったんじゃないか。そしてそれを、なにより僕を試すために、君はあの日ここに居座った。そうだとすれば、君があの時この短冊に、二人が出会えますように、なんて意味のわからないことを書いたことにも納得がいく。」
彼女はこちらを振り向くわけでも、なにか言うわけでもなく、ただ僕の独り言を聞いていた。僕は一呼吸置いて、続けた。
「でも、そんなのあんまりじゃないか。結果的に僕は、君に会いに行くという選択肢を取ることはできなかった、それは本当に申し訳ないと思ってる。けど、君が一回でも僕にそのことを、それほどまでに追い込まれていたことを相談してくれれば、きっとなにがなんでも僕は君に会いに行った、雨を、君の涙を止めることができた。なぜそうさせてくれなかったんだ。これじゃあまるで、僕がこの事態を引き起こしてしまったようなものじゃないか。この数日間、僕はそのことに酷く苛まれ、寝ているのか寝ていないのかもわからないような時間を過ごし、生き延びるためだけに空腹を満たし、こうして君と同じ結論に至るほど追い詰められた。僕はそれを君のせいだとは言わない。でも、こんな結果になってしまったのは僕のせいじゃないだろ・・・、なあ、答えてくれよ。」
僕が足元に水たまりを作りながら訴えても、彼女はなにも言わない。
「けど、結局人間なんてそんなものなんだろう。数年前まで自分がこんなことをするとは思ってもみなかった。そういうことを聞いても、自分は大丈夫だ、そんなことするはずもないと、信じて疑わなかった。でもそんな僕でも、きっかけがあればこうやって簡単に変わってしまう。やっぱり人間はその程度の、脆い生き物だったみたいだ。」
彼女は動かない。
「でもね、そう頭でわかっていながらも、それでも僕は、僕は、、、最後まで君がそんなことをするような人間じゃないと信じ続けてきたんだ。だから他の全てを擲ってでも、君のことを考え、求め、あるはずのない事件の真相を調べ続けてきた。でも結果はやはり違っていた。君は変わってしまった。本当にどうしちゃったんだよ。あの時、君が悩みを打ち明けてくれたとき、僕はきっとこの先同じような、いやもっとひどいことがあっても、僕たちならきっと大丈夫だって本気で思った。なのにどうしてなんだ。あれも勘違いだったのか。君が書いたこの願いだって、その気になればもっと簡単に叶えられたはずだ。あんな残酷な試練を、僕に科す必要はなかったはずだ。もちろん君もあんな風になる必要はなかった。なにか間違ったことを僕が言っているなら、正してくれよ。いつもみたいにそそくさと現れて、少しはにかみながら、それはこうこうこういうことだって、そんな風に声をかけてくれよ。僕は、君がいなきゃ空っぽだ。七夕の日になぜ雨が降るかなんてどうでもいい。彦星なんて、織姫なんて、七夕伝説なんて、そんなおとぎ話どうでもいい。僕たちには僕たちだけの物語が、想いが、願いが、あったんじゃないのか・・・。」
それからはもう、その小さな雨を止めることはできなかった。
その雨が小降りになるまでの暫くの時間、彼女は何も言わず、ただ待ってくれた。
「こんな小さな雨も止められないようじゃ、この大きな雨を止めることなんてできるわけないな。」
僕がようやく冗談交じりにそう言うと、彼女はまた少しだけ頬を緩めてくれた。これが本当の最後だろう。そんなことを思っていると、さっきより、更に雨脚が強くなったことに気が付いた。
それから二人は話を交わさなくなった。もう言い残したことはない。僕は迫りくる死期を感じながら、懐から睡眠薬を取り出すと、水と共にそれを飲もうと地面においた。そうすると、薬の瓶の方が彼女の手にあたってしまったらしく、カタン、という音を立てて倒れてしまった。僕は慌ててそれがどこにあるか探ろうとしたが、瓶の中で薬が移動する音が、雨音の中微かに聞こえた。どうやら先に彼女に取られてしまったらしい。返してくれ、と頼もうとしたその時、彼女は瓶を振りながら、思いがけない奇妙な質問を、僕にぶつけてきた。
「これ、なんですか?」
僕は言葉の意味をすぐには理解することができなかった。確実に溺死により自殺するには、時期に水が溜まるような場所で、睡眠薬を飲んで眠ってしまうのが一番手っ取り早く、またそれなら苦しむ必要もない。しかしこの期に及んで、その中身が薬であることがわかっているのに、それがなにかがわからないなどということが、本気で入水自殺を考えている者に本当にあり得るのだろうか。僕はこれまで、彼女もまた、何かしらの悩みを抱え、自ら命を絶とうとしているのだとばかり考えていた。最初は止めに入ろうと思ったが、あの質問をされたとき、僕はそれをやめた。その瞬間から無意識のうちに、どこかで彼女の影をこの女子学生に重ねていたのかもしれない。いや、なにより自分も同じことをしようとしていたことを思い出したからなのかもしれない。いずれにせよ僕は、この女子学生は自殺をする気だということを最初から信じて疑わなかった。今思えば、僕は彼女のことをほぼ知らない。知っていることは、その声と、暗闇の中でぼやけて見えるシルエットだけだ。
―彼女は死ぬ気が無かった。
新たに浮上した事実に僕は動揺した。その睡眠薬が無ければ、僕は死にきれないかもしれない。また、ここで自殺をしようとしていたことが彼女に知れれば、彼女は誰かに助けを呼びに行ってしまうか、自分を巻き込んで一緒に死のうとした殺人犯として僕を通報してしまうかもしれない。そうなれば、僕はこれからどのように生きればいい、僕にまだ苦しみを味わえ、ということなのか。
いや、そんな自分のことなんかより、、彼女に死ぬ気が無いのなら、僕は彼女を巻き込むわけにはいかない、また新たに人を殺したくはない、絶対に。
「それは持病の薬で、毎日飲まないと症状が現れてしまうんだ。今日はたまたま今まで飲む暇がなくて、ちょうど今思い出して、飲もうと思ったところだったんだ。」
この状況を解決するには、僕はこう言う他なかった。彼女に睡眠薬であることを悟らせないままそれを回収し、自分で勝手にそれを飲む。川が氾濫して水が浸水してくれば、彼女はさすがにことの重大さに気づくだろう。水が浸水してきてからこの窪みに水が完全にたまるまでの時間は十分弱。その時間は短いが、、僕を起こすことができないことを悟り、仕方なく僕を見捨ててこの窪みから逃げるくらいのことはできるだろう。こうすることで、僕は死に、彼女は助かる。そして後から僕が睡眠薬を飲んで自殺したということが報じられれば、彼女は僕のことを無関係な人間を巻き込み心中しようとした異常者か、いいとこ自分を殺そうとした人間だと憎らしく思うことだろう。そうすれば、彼女が僕のように、間接的にでも人を殺したのだと悩むこともない。
「でも昨日は飲んでいなかったじゃないですか。」
「昨日は家で飲んだんだ、それで今日はたまたま忘れてて、そういうときのために予備の薬をいつも持ち歩いているんだ。」
さすがに苦しい言い訳か。それがどんな持病で、どういった名前か、またそれがなんという薬で、どういった効力を持つのか、というような詳細なことを聞かれれば、誤魔化し通す知識も自信も、僕には無い。
実際は刹那でありながら、僕にとってはとても長く感じた沈黙の後、彼女は口を開いた。
「そうですか、それではお返しします。」
彼女は思ったよりあっけなく、睡眠薬が入った瓶を僕に返してくれた。この暗闇のおかげで、彼女にもこれがなんの薬なのかはよくわからなかったようだ。僕は一息つくと、それを受け取った。
僕は睡眠薬を飲んだ後も、水が浸水するその時までそのことが彼女に知れないように、体を窪みの端に預けて、どこかに倒れないようにした。そして今までの人生を振り返りながら、一思いに睡眠薬を飲みこんだ。
―――これで僕はもう生きられない。結局雨が降り止むことは、いや彦星と織姫も、僕と君も、泣き止むことはできなかった。そして伝説の通り、二人が再開することもなかった。でも最後に一度くらい、会いたかったな。もう後悔なんてないって、そう思っていたけど、いざ死ぬ直前になると、最後の一瞬くらい、もう一度その顔を、いや声だけでもいい、声だけでも聞くことができたら、そう思ってしまうみたいだ。それだけで、僕の一生は明るいものになるだろうに、やはり世界は残酷だ、そんな一瞬すらも与えてくれないなんて。いつぞやの君も、僕と同じようなことを思ってくれていたのかな、そうだと嬉しいな、本当に…。
・・・。いや待てよ、だとすれば君の願いは、その時のために。
それから十五分ほど経っただろうか。僕は服用後すぐに意識が遠のき始めていたが、この頃には既にほぼ眠っている状態だった。しかし、最後に彼女が僕に、
「ご病気、治るといいですね。」
と優しく声をかけてくれた気がしたから、僕は最後に掠れた声で、ありがとう、と口にした。
手に握られていた黒い文字が、倒れるように地面に転がった。そこは湿気のせいか少し濡れていて、黒い文字は滲み、最終的には指で拭われて、消えてしまった。
七月八日 快晴
差し込む朝日が、町を照らす。前日までの大雨は噓のように鳴りを潜め、川の水も、濡れた町も、きらきらと光っていた。動物たちもようやくそれぞれの生きる証を存分に示し始め、いよいよ本格的な夏の到来を予感させた。町は酷く穏やかだ。永遠とも思える時間を世間話に費やす主婦たち、元気に幼稚園から帰ってくる子供と、それをあやす母親、徹夜でもしたのか、目の下にクマを作りながら眩しそうに、でもどこか幸せそうな表情を浮かべて自転車を漕ぐ大学生。それぞれ事情は違っても、皆、幸せそうだ。天気が変わるだけで、ものの見方は大きく変わってくるとどこかで聞いたことがあるが、それはどうやら本当のことであるようだ。
世界はこんなにも美しい。
僕は差し込む朝日に瞼を刺され、はっと目を覚ました。その衝撃で僕は自分の横に置いてあった睡眠薬の瓶を倒してしまった。その痛みで目覚めはしたものの、気を失っていたときのように、僕はここでなにをしていたのか、すぐには思い出すことができなかった。しかし意識が戻ってくるにつれ、自分は、もう死んでしまっているはずの人間だということに気がついた。だとすれば、ここはどこだ。
―――。
しかし、僕はどうやら生きているようだった。そのことは、ちょうどいいタイミングで鳴った、空腹を告げるサインが教えてくれた。やはりこんな時でも空腹は感じられるようだ。
空は晴れていた。この様子から見ると、僕はどうやら死にきれなかったらしい。雨は途中で降り止んで、僕の体を水に沈めるまでには至らなかったのだ。昨日の雨脚の強さからは到底考えられないが、現実がこうなってしまっているのだから、受け入れる他にない。
しかし僕はこの時、重大な問題を見落としていることに気が付いた。そのことに気が付くと、僕は露骨に心臓の鼓動が早くなるのを感じ、今のこの状況が、非常に危ういものであることに気づいた。
―――あの女子学生はどこだ?
朝になってここに置いてあった薬が睡眠薬だと彼女が知れば、いくら彼女でも僕が自殺をしようとしたことに気づく。そうなれば彼女は既に警察へ通報しに行ったかもしれない。それが本当なら、ここにいては危険だ。
そう思い立ち上がろうとした瞬間、見覚えのある小さな長方形の黄色い画用紙が、ひらひらと宙を舞い、地面に留まった。僕はそれをなんの気なしに拾い上げると、掠れたインクの上に、新たな黒い文字が刻まれていることに気が付いた。
――― やっと会えたね。―――
僕はその場にもう一度へたり込んだ。床はひんやりと冷たい。それに少し驚きながらも、もう一度その画用紙の文字を確かめて、僕は全てを理解した。僕の確信は正しかったが、予想はやはり間違っていたことも、君がどうしてあの質問を少し変えていたのかも、なぜ誰もいない、何も見えないあの場所を選んだのかも、あんな願いを書いたのかも、それでも本当のことを言い出さなかった訳も、全て。
僕は短冊を見つめながら、空に向かってこう呟いた。
―――どうして七夕の日はいつも雨が降っているのか、いや天気が悪いのか。その答えがようやくわかったよ。それは二人が泣いていたからじゃない。二人は、二人だけの時間を、空に浮かぶ白いもので覆い被して、誰にも見られたくなかっただけだったんだ、きっと、それだけだったんだ。
――― 叶えてくれてありがとう ―――
短冊は再び宙に舞うと、今度は空の向こう側に飛んで行き、もう二度と帰ってくることはなかった。
恥ずかしがりやな織姫だった
反響、ご要望ありましたら、作中で語られなかったそれぞれの願い、思い、事実を描こうと考えております。
ここまでお付き合いいただいて本当にありがとうございます。