こんな感じで生きているよ?今のわたし

 いちにちに何度、いやな記憶に感情が揺れるだろう。わたしは今、どこに立っているだろう?何気なく生きている。そんな感じでこれからも、今の環境でやり過ごしていけるだろう?いま、を生きているのに、そんな感覚しか、ない。わたしという存在が、わたしの意思に関係なく、薄まっていくような感覚。その感覚が、わたしは不必要な存在なのではないか?という言葉を、わたし自身に突きつける。そんな感覚と、わたしはふつうの生活なのに……という感慨ふたつと、闘っている。それがいまのわたし。好きで、生まれてきたわけではなかった。好きで、この会社にいるわけでもない。それが今のわたし。わたしはどうも、今に馴染めていない。生まれてから自分に対して、そんな感想がある。もう少し考えたいのに、時間はわたしを急かした。だからわたしは仕方なく、目の前の岐路を、選択しなければいけなかった。それが今のわたしの感性の歪みに、なっているような気がしている。わたしはどこに立てばいい?そんな不安が感覚としてあった。自分として、何も答えを出していないのに、外側の流れに合わせなければいけなかった。そんな自分に疲れた。そして今現在、疲れている。生きることに、無駄なエネルギーを使用しているような気がする。わたしは私としてしか生きられないことを知った。過去の価値観に、疲れた。

 このままでいることに、何気なく不安。そんな自分に焦燥している。途中まで、わたしはいい子だった。違和感をもってはいたけれど、感じないようにしていた。嫌いな子にするたいどみたいに。周辺の視線にいい子であることに、わたしの内面には疲労が蓄積された。どこから周辺とズレ始めたのか、記憶が曖昧。わたしはいま、どこに立っている?そこから自身に対するその問いの連続だったような気がする。瞬間を生きのびなければいけなかった。心拍数がそのつど上がった。このままわたしはしばらく、生き続けられるだろうか?なるようにしかならなかった。涙をながすことで、らくになれた瞬間もある。わたしは私として、未知なる領域を歩いている。だって未来をこれから生きようとしているんだもの。そんなわたしも俯瞰で見れば、何気ない、点。それが心地よくもある。未来に対して私の瞳は輝いた。そんな時期もあった。それは、遠い過去の記憶として、内側の隅にある。あの時が、やっと今になって、過ぎようとしている。年齢は重ねたけれど。だから今の年齢に対して、感覚がおかしくなるのだろう。相応の服装?相応の恋愛?内側の感性が、ストレスを感じている。ふつうに生きているだけなのに、いらいらするし、ムカつく。流れの中にいる点としてのわたしが、揺れる。わたしは今、どこに立っている?それさえ理解できれば、皮膚の外側の流れなんて、どうでもよくなるのに。だから人の流れのなかにいると、愉快。人の中にいるのに、孤独。消えてしまいそうな自分と、いつのまにか闘っている。人の流れの変化に、わたしが揺れる。もう答えをだした筈なのに、揺れる。そんな感覚が、好き。人を好きではないけれど、だからかもしれない?こんなふうに自分が揺れるのが好き。ふつうに流れることが理想だけれど、それではわたしの感性が満足しない。どうかまだ、生きられますように。どうかまだわたしが、消えませんように。どうか過去の記憶に、いまのわたしが、もっとらくに向き合えますように。こんな感じで生きているよ?今のわたし。

 生きているだけで、思考も感情も揺れる。途中まで、わたしは世間の常識に対して正しかった。ズレ始めた時から、変化した周辺の視線と闘わなければいけなくなった。わたしという存在は、あの頃から不安定になった。精神も肉体も。今でも激しく揺れている。点としての自分に執着してしまって、あの時の自分は滑稽だった。まだわたしの輪郭が見えていなかったから。両親はわたしの幸せを望む。自然な感情だと思う。父が死んだ。いずれ母も死ぬという現実に、わたしの思考は揺れる。わたしという存在に、わたし自身が揺れる。明確な答えを出してから、また歩き始めたかったけれど。不安定なままで、現在に至っている。現実に対してわたしの状態は、壊れてしまいそうだと、自覚はしている。でもどうすればいいのか分からない。わたしだってめいっぱい、生きているよ?もう諦めてしまいたいと思うのは、弱さなの?深奥で、何かが静かに沸騰している。それをわたしは感じている。そんな自分と向き合いながら、日々を何とか生きている。こんな筈ではなかったと、まだ諦めたくはない。まだ私には、若さ特有の潔癖な視線が残骸として、残り香のようにある。その匂いが、最近煩わしい。だから純粋に若い人を見ると、めんどくさく感じるのだろう?好きで生きているわけではないという陰湿な感情が、妙に最近心地いい。不自然に感情を鼓舞する言葉を使う人を、俯瞰で小ばかに出来るスキルが、やっと私にも身に付いたからかも知れない。疲れるよ、そういう人、今の私には。安全な場所で、無関心に観察していたい。そしてまだ、生きていたい。そうすればもっと、過去は薄まっていくだろう。水をたくさんいれた絵具みたいに。悲しくもなく、極端に楽しくもなく。それほど孤独でもない。こんな感覚が、今は心地いい。揺れることに、疲れた。そしてわたしはここにいる。それでもここに、わたしはいるではないか?それについて、とやかく言われる筋合いはない。過去の繋がりが切れることに、今のわたしは恐れていない。もっと輝け!わたし。集団に紛れてしまっても、今のわたしなら大丈夫。そんな自信がある。それでもわたしは生きてきた。それでもう、いいではないか?精神も肉体も、健康に過ぎていく。それでいいではないか?なぜあんなにも、わたしは疲れていたのだろう?これからの時間の経過で、少しずつ、炙り出されていくのだろう?閃きのように、其の都度、わたしに快楽を与えてくれるのだろう?生きていることが、意味だった。生きている今だから、それが理解できる。わたしは死なずに生きなければいけない。生きているだけで、内側から思考が溢れてくる。それを言葉にして取りだして、こうして向き合っているではないか?それがわたしが存在する意味ではないか?揺れる。わたしがゆれる。蹲ってしまいたくなるけれど、でもわたしはがまんする。まだ、わたしはわたしでいられる。どうかまだ、生きられますように。一日を終えることに、こんなにも孤独。こんなにも、不安。こんなにも、感情が揺れる。それをコントロールするわたしが、おかしくなってしまいそう。自分という輪郭の中で、わたしだって、こんなにももがいている。それなのに、輪郭の外側を流れる世の中は、激しく歪む。わたしはそれにも、適応しなければならない。何気なく忙しい。不安を消して安心したいから、その自分の歪みを修正するために、わたしは知識を収集する。生きているとは、こういうことなのかも知れない?絶対的な安心感なんて、ないのかも知れない?常にアップデートし続けなければ、日々の生存でさえ、難しい?わたしは今、どこに立っている?どこまで自分を崩せばいい?過去の自分の判断でさえ、今となっては恥ずかしい。自分で自分が疑わしい。本当の自分なんて、結局無いのかも知れない?そんなことは、今となってはどうでもよくなってしまった。着実に、あの時からわたしは変化している。今を生きるのに、あの時のわたしの価値観はじゃま。これを成長と言うのだろうか?衰退?どっち?言えることは、あの時も今も、疲れているという目の前の現実だ。それは記憶しているし、実感として現在もある。世の中は便利になったけれど、どうやらわたしの本質は何も変わっていない。もう疲れたという感慨は、わたしのエネルギーの使い方が、間違っているのではないか?そんな新たな疑問に、今のわたしは苦しみ始めている。他人の視線の強弱で、内面が揺れる。その揺れに対して、一々答えを出さなければならない。だって不安を抱え続けるのは苦しいし。人の中にいると、そんなスキルが必要になる。結果私の中で、何かが抜けた。腑に落ちたというか。諦めたというか。やっと次のステージに行けたというか。好きでやっている仕事ではなく。固定費を稼ぐために、仕方なくやっている。そんな渦中で、それでも内面は動いていた。それも激しく。そんな自分を救わなければいけなかった。そんな渦中の自分に対して、わたしは答えを出さなければいけなかった。なんとか、今のわたしは冷静でいられる。でもその奥で、破壊を望む欲望が存在することに、わたし自身が気づいている。死ねばいいのに。胃にピリッと電気が流れ、そんな言葉が一瞬思考を流れる。気づかないふりをしているけれど、その言葉は深奥に蓄積されている。何百年の一度の地震みたいに、いつかはそこが、破裂するだろう?その時わたしは冷静でいられるだろうか?日常がふつうに過ぎていく。それなのに、負のエネルギーが深い場所に蓄積されていく。そんな自分に危機感を感じているけれど、どうすることも出来ない。わたしは所詮、無力だった。歴史は繰り返す。そんな言葉は無関心だったけれど、人というものは、結局そういうものだったという、今のわたしの感慨。組織の中のわたしなんて、所詮こんなものだった。それが理解できた社会経験は、無駄ではなかったと思いたい。世の中はきっと、いい方向に収斂していくだろう?わたしはいい方向に向かうための、その為の犠牲にはなりたくはない。だから逃げる。素直に逃げる。なぜなら犠牲になっても、誰からも尊敬なんてされないのだから。しかも、得は何もなく。わたしは経営者でもなく、会社に対する忠誠もまるでない位置にいる。いつでも裏切れる準備は整っている。壊れてしまえばよい。そんな感情を日々、感じていながら細々と生きている。そんな今のわたし。生きることに執着はないけれど、まだ死にたくはなく。だから仕方なく、現実を受け入れる。だから仕方なく、気を使う。人との関係なんて、所詮こんなものだった。それが今の私の感慨。今のわたしは純粋に若くはないし。それでも今の価値観に、迎合するつもりもない。生きられるまで、仕方なく生きる。それが今の私の価値観。純粋に若いひとなんて、どうでもいい。それが今のわたしの本音。目の前のことに精一杯。それが今の私。目の前の生活に疲れている。それが今の私。若い人なんて、どうでもいい。そんな余裕は、今のわたしには無い。まったく無い。好きでやっている仕事ではなく。仕方なくやっている仕事。夢とか希望とかやりがいとか。そんなものは無くても生きられるということを、今のわたしは知った。生きていくことは、そんなに難しくはなかった。それを、今のわたしは知っている。逃げる。わたしは素直に逃げる。生存の為に逃げることは、卑怯なことなの?無意味なことに対して闘うことに、今のわたしは疑問を感じている。さらに、世の中の価値観が壊れてしまえばよい。そうすれば、わたしの存在がもっと心地よくなるだろう?日々、何気なく過ぎていく。それでもわたしの内面は激しく、のたうち回っている。なんだ?この殺意は?なんだ?この破壊の衝動は?そんな衝動を抱えながら、今のわたしは生きている。何かがきっとおかしいのだろう?何かがきっと、おかしくなっているのだろう?はっきり分かっていることは、過去の価値観では、今のわたしは救われないということ。過去の価値観の延長で、今の会社は狂い始めている。それが今のわたしにとっては快楽だ。会社に対して、何の未練もない。それが今の私のポジションだ。どうか、壊れてしまいますように。そんな深奥に、私自身がワクワクする。安定した生活を望んでいるのに、破壊願望もある。そんな自分を自分でも、よく理解できない。過ぎゆくままに、過ぎていく。その都度考えて、わたしは生きてきたではないか?自分に対して逃げずに、それでも生きてきたではないか?それなのになぜ、まだこんなに不安定にゆれるのだろう?きちんと働いているではないか?きちんと税金だって払っているではないか?今のわたしには、肉親は母しかいない。急にポツンとなったような気がして。新しい不安に、まだ免疫が出来ていないことによる、ゆれ。世の中に対して、わたしは何者でもない。そんな無力感。生活を繋げていくことに、大事な時間といのちのエネルギーを使ってしまっている現実。わたしなりに頑張っているよ?でもこれ以上、何を頑張ればいいの?そんな今の自分に、わたしは疲れている。感覚だけで自分を救うことに、もう疲れた。それほど働きたくもない。こう思うことは、怠惰な思考なのだろうか?わたしはそれほど強くはなかった。それを社会に出て知った。だから仕方なく会社員をしている。強ければ、使われてなんかない。皮膚の外側の時間に、いつの間にかわたしの感覚は、鈍感になった。わたしは私をする。いつでも、わたしは私をする。そう決めたんだ。世の中を、無視するわけにはいかない。だって世の中で、仕方なくだけど、生きているんだからね。でもわたしは私として生きたい。だから世の中と闘う。そのぎりぎりの場所で、今のわたしは私として生きている。わたしは変貌できるだろうか?この場所から、美しく変貌できるだろうか?世の中は狭かった。社会に出、それを知った時は衝撃だった。社会に出たときは、嬉々として、ありもしない可能性に目を輝かせていた。わたしは幻想に、酔っていた。その幻想に、心血を使用し、疲れてしまった。わたしは自分を立て直さなければ、いけなくなった。ふつうの人の視線に対する答えを、わたしは考えなければ、いけなくなった。だって自分がその視線で壊れてしまいそうだったから。わたしは逐一、答えを出した。だから今のわたしは、立っていられる。何気なく、飄々と立っているわけではないのだ。それが理解できるだろうか?わたしはこれから、生きていられるだろうか?いつも生きていることを、突き詰められたような気がする。わたしは今現在、私を生きてはいない。だからこんなに不本意なのだろう?生活に不自由はしないけれど、わたしの感覚が怠惰を感じている。そんな自分に疲れている。どうか、世の中を恨みませんように。自分に対して、それを切に願う。感謝より、殺意のほうが蓄積されていく。それを実感として感じることが出来る。ヤバいかも?わたし。まだ、生きられるだろうか?素直になりたい。でも今のわたしは既に、純粋ではない。わたしなりの見方が、ある。いらいらする。静かに、いらいらする。それを感情の下に押しこめる。仕方ない。今のわたしは社会的に、それくらいの存在。裏切る準備は出来ている。その時まで、今はがまんするしかなく。こんな感じで、今のわたしの時間は過ぎていく。ため息を出しても、癒されないことは知っている。この場所で、今のわたしは美しいものを、美しいと素直に感じられない。そんな自分が何気なく、嫌。生活の維持と、精神の安定は、両立できないの?何でこんなにも、精神がぎりぎりで生きているの?戦時中でもないのにさ。生きているだけで、今を生きる時代に対して揺れる。内側から溢れる疑問や不安に対して、答えを出さなければならない。何もしなければ、不自然に心拍数が上がる。その衝動に、若いときは耐えられなかった。だから何でもやってみたくなったのだろう?そうやって、自分の輪郭を探ったけれど、今現在、わたしは私が望んだような存在には、なれていない。だから。いらいらするのかも知れない。だから。自分を滅したくなるのかも知れない。自分の今立っている場所に、誇りが持てない。だったらその場所から去ればいい?そんなことは理解している。静かに。もがいている、私は。何気なく過ぎている時間に、焦燥を感じる。世の中は変化している。それについて、鼓舞する言葉を浴びせられるたびに、わたしの心臓には、ストレスが蓄積される。だったら今のわたしは、何をすればいいの?具体的に。わたしの立っている場所で、いったい何をすればいいの?自分で考えても、これ以上は何も出てこない。情報があり過ぎて、不思議と苦しい。結局……。ポツンとなる。そんな感じになる。何も答えは出ていない。苦しんだだけ。分かったような?理解したような?そんな情報、必要なかった的な?こんな余韻だけが残っている。今の自分をどうにかしたいと思ってはいる。そうして何気なくもがいて、この場所から逃れられない。そんな自分にもどかしい。さっさと諦めて、死んでしまいたくなる。どうか負のエネルギーが、他人に向かいませんように。それが私の自分に対する不安。極端に楽しくもなく、それほど辛くもない。ただ深奥に、漠然とした不安がある。そんな状態で日々を生きている。生きている限り、こんな状態のまま、きっと生きていくのだろう?答えを出しても出しても、きっと新たな問いが、わたしを苦しめるのだろう?わたしは今現在、正しく生きているだろうか?日々のリズムの中で、近くにいる人ほど、遠い。何も知らないし、知りたくもないし、興味自体がない。まったく他人の芸能人のことを、よく知っているし、わたしは心配。自分は心配してもらえないのにね。私は今現在、孤独だろうか?母と二人で住んでいる。これが、わたしにとってはふつうなのだ。これ以上、自分を突き詰める必要があるのだろうか?このまま生きていくことは、不自然だろうか?わたしには、結婚願望がない。子を産み、育てることは、自然。ではわたしは、自然に生きてはいないの?自然に逆らって生きているの?生まれ、今まで生きてきた。その間、内側から溢れてきた疑問に、今のわたしはすべてに対して、明確な答えを出せてはいない。過去はまだ、いまのわたしを苦しめている。そんな状態で家庭なんて、持てる?自信を持って、子供と向き合える?いまのわたしは、そんな無知ではない。好きでやっている仕事ではない。恋愛に対する幻想は、過去のいくつかの恋愛で、すべて吹き飛んでしまった。感覚が、より現実的に硬化してしまった。それでも時間は、何気なく過ぎていく。不安を抱えた自分に、立ち止まってはくれない。このまま生きていくことは、いけないことなの?だから、そんなわたしだから、他人の人生が気になるのだろう?わたしだって、頑張っているよ?わたしだって、いろんなこと、考えているよ?世の中のこの場所に、わたしはいるよ?そんな些細な存在として、いまのわたしは生きている。これでいいではないか?わたしは自分に問う。今日はこれで、いいではないか?だめ?考えなければいけないことが、あり過ぎて。母だって、いずれ死ぬ。そうしたら、わたしはどうしよう?ずっと昔の人も、同じように考えて苦しんで、自分なりの答えを出して、死んでいったのだろう?死ぬこと以上に、大事なことなんて、あるのだろうか?生きているだけで、それだけで、意味があるような気がする。今はそんな境地。いずれ、わたしだって死ぬ。もう過去のように、純粋には働けない。誰とでも、繋がりたいとは思わない。わたしは自分の品性を、堕としたくない。頭の中を、もっとシンプルにしなければ。わたしの精神が、壊れてしまう。過去のわたしは、どうでもいいことにエネルギーを使い過ぎて、疲れた。その経験を使い、もっと自分をシンプルに出来る筈。大丈夫。だってわたしは賢いもの。孤独を怖いとは思わなくなったもの。あの時より、確実に強くなっている。実感として、ある。だから大丈夫。ここまで溢れるものを細かく言葉にしなければ、自分を支えられないとは。言葉にすることで、わたしは私を支えている。珍しく、今日はよく眠れるだろうか?大丈夫。まだ生きられる。生きられている。まだまだもう少しだけ、生きたいとは思っているけれど。ただ、望んだ現実になってはいないということだけ。努力では、どうにも出来ないことがある、ということを突きつけられている、今のわたし。結局わたしは私としてしか、生きられなかった。これっぽっちだけれど、それが知れて良かった。死ななくて良かった。わたしはそれでも、正しく生きているだろうか?こんな感じで内側から溢れてくる言葉と向き合っていると、過去の自分が映像となって意識を流れる。今になって、ようやく過去が、過去になっていく。今、を生きることは、簡単に出来ることではなかった。過去を、頑張ってどうにかしなければ。このまま惰性で生きていくのは、嫌。過去の中で、未だに私は生きている。


 生まれた時から、わたしは周辺に居心地の悪さを感じていた。両親は愛してくれていたけれど、それさえも、わたしにとっては過剰のものだったような気がする。だから未だに、世の中に対して、過剰の期待をしてしまうのだろう?わたしはいつでも温かかった。バリアを纏っているように。そんな自分を世の中に合わせていけばいい。そうやって一日を繋げていけばいい、ということに、最近気づいた。父は亡くなってしまった。あの時、わたしの日常の流れは変化した。怖かった。ずっとこの時間は続いていく。そんな漠然とした安心感があった。人は死ぬんだ。父が死んで、それを強引に知った。痛かった。それでも、わたしはわたしのままで、いた。父が死んだという現実は、少しずつ、断片として、未だに呑みこんでいる。わたしはまだ、あの時の父の娘のままだ。葬儀とか。時間は過ぎたけれど。世の中は変化していく。その変化に希望を見ていた過去の自分に、過去の自分が、意識を流れる。若さ特有の純粋さが、わたしから消えていく。きっと美しく、昇華されたよね?そうわたしは信じたい。やりたくないことを、目覚めてからやらなければいけない憂鬱。こんなことは、誰にも言えない。わたし自身が、どうにかするしかない。そんなことは知っている。自身の深淵が、最近意識に侵入してくる。皮膚の外側は平凡なのに、内面は平凡に過ぎてくれない。苦しかった。だからわたしはあの時転職をした。両親は残念そうだったけれど。自分の輪郭と限界を、あの時少しだけ知った。だからもう、残業なんてやりたくないのだろう?収入は減ったけれど、今のわたしは納得をしている。それでも、親と同居しているから。そんな環境があるから。だからこの生活が続けていけている。言葉にしてみると、深くえぐられる。学生時代、友人と楽しかった。未来が、眩しかった。今は目の前の生活で、その眩しさが見えない。そんな光は、元々無かったのかも知れない。わたしは自分の好きなことだけをやっていた。世の中を、知ろうともしなかった。だから現実を知って、今になってこんなにも震えているのだろう?何も知らなかった、あの頃。そんなわたしを両親は、守ってくれていた。時間が経過しなければ、分からないことがある。それを、今のわたしは知った。時間は確実に経過している。だって父は死んだもの。何も見えていなかったから、怖いものがなかった。何だかドキドキする。心拍数が上がる。見え始めたことに対して、心臓が警戒している?気づかなければ、きっとこのままわたしは過ぎていくことが出来ただろう?今日の孤独は、何だか怖さを感じる。わたしは生きていけるだろうか?今まで怠惰に過ぎた時間は、たまたま運がよかっただけだった。生きることを、連続させることができた。これだけで、幸せではないか?そんな言葉が、わたしから溢れてくる。その言葉を、自身に突きつける。こういう作業で、わたしは何とか現実と折り合いをつけている。まだ、現実に対して生きられる。まだ大丈夫。人に対して、まだぎりぎり優しく出来る。だから今は大丈夫。やりたくないことも、淡々と出来るように、前よりはなった。諦めることと、やらなければならないことで、日々、わたしの精神と肉体はぎりぎりだ。過去の価値観で測定すれば、きっとわたしは悪い子だ。でもわたしは、今を生きている。目の前の現実に対して、手を抜いているわけじゃない。こういう生き方しか、わたしは出来なかった。呼吸が苦しくなる。過去の物差しに自分を無理やり押しこもうとして、呼吸が苦しくなった。だから余計に人見知りになったのだろう?完全に人を遠ざけることが出来たら、どんなに楽になるだろう?そんなことをしたら、洗練された日常を生きられないことを、今のわたしは知っている。繋がり方を、意識でコントロールしなければならない。今のわたしなら、きっとそれが出来る。経験した距離感の蓄積が、データとして、わたしにはあるではないか。ずっとずっと奥には、目を背けたくなるような殺意が、ヘドロとして堆積されている。それが自分でも分かる。そんな爆弾を深奥に隠しながら、わたしは平然と生きているのだ。誰とでも、仲良くは出来ない。しようとすれば、その場所に、さらに殺意が堆積されていくだろう?自分をコントロール出来なくなる前に、だから私はあの会社を辞めた。過去に対して、何度も何度も、答えを出す。そうしなければ、今を生きるわたしが納得しないから。今を生きているのに、未だに過去に対して答えを出し続けている。過去の自分を受け入れるには、相応の軸がいる。その軸が、今になってやっと出来たらしい。その為の時間だったと、無意味ではなかったと、思っていい?きっと何とかなるだろう?わたしがここまでやったんだもの。きっと何とかなると、思いたい。みんな、どんな感じで生きているんだろう?近い人とは、本当に大事な話なんてしないし。近くにいるほど、どうして遠くになるのだろう?わたしは組織の中で、その中で通用する自分を演じているだけ。個としての自分は求められていないから。だから、個としての自分を封印している。ただそれだけ。深い繋がりなんて、そこでは不必要だった。適正な距離感だけが、必要だった。そこに強烈な孤独を感じたけれど、今は慣れた。そういうものとして、慣れた。いつでも裏切れる準備は出来ている。みんな、不安の中で、こんな感じで生きているのだろう?それを思うと滑稽で。自身を深く責めたことを、今更になって馬鹿らしく思う。責めなければいけなかったけれど、責め過ぎてもいけなかった。その按排が、若さは純粋な馬鹿で残虐だから、出来なかった。ただ、これだけのことだった。それが今、理解出来た。よくやったぞ、わたし。これでたらふく眠れば、昇華されるだろう。何気ない日常だけれど、これだけの気づきがある。まだ、生き足りない。今日はそう思える。強烈に、何がしたい!ということが、今はない。それでいいではないか?と、今は思える。自分を不自然に鼓舞することに、今のわたしは辟易している。情報を摂取し過ぎて、病名がまだない病気だったのかも?キリが無い、知りたいと目を不必要に力むことは、ある意味、病気だったのかも?知らなければいけないことと、知らなくても良かったことの分別が、あの時のわたしには出来なかった。今も完全には出来ていないけど。情報にコントロールされていて、それに気づかなかった。過剰に欲しがった。お酒のように。これ以上飲んだら次の日、わたしが使い物にならなくなる、それを理解しているのに飲み過ぎてしまうように。情報を求め過ぎる、その自分の境界を知った。ここまで必要だけれど、これ以上は不必要。その境界を知った。やっと自分に戻ってこられた。内面が、大陸が動くように、アップデートされていく。変化し続けているわたし。そんな自分、嫌いじゃない。難しく考え過ぎなくても、よくない?生活を繋げていければ、取り敢えずはよくない?今はそんな思考になっている。これからどうなるのかは、分からないけれど。自分のことだって、すべてを理解しているわけじゃない。今になって、なんであんな人を好きになったのだろう?って思うし。でも、あの時は好きだった。あの時のわたしから、そして今のわたしに進化?したのだから。きっとそれでいいよね?こう納得するしか、なくない?ますます自分が分からない。わたしは今、どこに立っている?過去がわたしを苦しめる。過去と向き合うには、勇気が必要で。わたしには、向き合わなければいけない過去が、膨大にある。今のわたしの意識は、内側に向かっている。外側に、本当に楽しいことはなかった。それを知った。そして疲れた。わたしにとって、まだ、わたしは生きる価値がある。どうでもよい視線は、どうでもいいではないか?誰とでも、繋がる必要はないのだから。それをわたしは知ったのだから。わたしは私。こうして一々自分をまとめないと、不安で死にたくなる。一度確認したことなのに。それでも再確認し続けないと、立っていることさえ出来なくなる。わたしの思想が揺れる。組織に対して揺れる。その向こうにある世の中に、個として飛び出して行きたいけれど、今のわたしの実力では無理。この場所で、澱んでしまうことに、素直に危機を感じているわたし。もう疲れたよ。裏切ってもいいよね?その瞬間は、近いような気がする?この感覚は期待?予感?それとも逃避?組織というものは、こういうものだったと知れた。これでもう、わたしはいいではないか?達成感に近い、そんな感慨に、今は満ちている。会社に対して、何も感情が動かない。潰れてしまえばいいと思っていることを、気づかない振りをしているし。誇れる時間の使い方を、今のわたしはしていない。生活という足かせがある。何も考えずに働くことが、尊いとは思えなくなっているのにね。この精神的な苦しさが、理解できるだろうか?辞めたくても、止められない。まるで麻薬。このままでいいなんて、思っていない。わたしなりに、努力をしている。それが認められないだけ。世の中は変化している。その変化に、きっとこの会社は耐えられないだろう?その前に、逃げ出さなければいけない。裏切る準備は出来ている。疲れている場合ではない。組織の中では、どうでもいい会話で十分だ。深い思考は、深奥に隠さなければ。裏切る準備を、さらに進めなければ。組織の外側で、いったい何が起こっているのか?それをわたしは知りたいのだ。社内政治に、興味はない。今のわたしは、会社の中が世の中だ。会社が消滅すれば、この世の中は消える。それを陰湿に望んでいる。この世の中が消えても、生きていけるスキルを、身につけようとしている。人により良く使われる為のスキルの習得に、素直に疲れた。不必要な努力は、もうやりたくない。社内の人脈なんて、わたしにはどうでも良かった。だから切る。不必要だから、切る。目の前の仕事はきちんとやる。ただそれだけでいいではないか?コロナで飲み会が蒸発した。わたしにとっては心地いい。わたしは集まって飲むのが嫌だった。心から嫌だった。生活を維持する為に働く。今のわたしには、働くということに、これ以上の気持ちはない。目の前の仕事はきちんとやる。過去の自分から、少しは利口になっている。健康を害するほど、働きたくない。過去の自分が不意に蘇る。その自分と向き合うにも、膨大なエネルギーを必要とする。目の前には、やらなければいけないことがあるというのに。まだ、生きなければならない。どうでもいいことに、エネルギーを使っている余裕がない。裏切る準備も、整えていかなければならない。わたしには、やるべきことがある。人の気持ちを受け入れ過ぎて、辛かった過去がある。その経験から、自分の気持ちだって大切だということを知った。こんな教訓を得られたのは、組織という刺激があったからだ。組織の中で、過去のわたしは激しく揺れた。今はそれ程でもない。揺れに対する答えを、ある程度は身に纏っている。過去の自分は、生きようとした。それに今気づいた。言葉にしなければ、気づかなかった?。結果、そのまま生きてしまったかも知れない?

 わたしは自分を完成させたい。絶えず内側を流れる思考は、その過程だと考える。いつもわたしは、ポツンとしていた。気づくと集団から離れ、その集団を観察していて、ポツンとしている。そんな自分が、不思議だった。その時は、心地が良く。現実に気づいて立ち眩みがする。そんな記憶が多数ある。人が話す言葉は感覚として、どうやらわたしに入ってきていたようだ。話の内容などどうでもよく、その人の本質を、ジッと見ているような子供だった。現実的なことに、どうもうまく対応できなかった。そんな記憶がある。わたしは現実を生きていながら、現実を生きていなかった。意識はどこかに飛んでいた。だから会社のことを、潰れてしまってもよいと、無関心に思えるのだろう。わたしの本質は、あの頃から何も変化はしていない。点在していた自分が、やっと今になって、繋がりを持ち始めている。あのまま生きてはいけなかった。わたしの道は、あっちの方ではなかった。きっとこんな作業を頭の中でしていくことで、歩くべき道が、目の前に現れてくると信じたい。誰とでも、仲良くする必要はなかった。精神的な繋がりを深めることで、わたしはある時から救われ始めた。友達など、それほど必要ではなかった。質の悪い人は、寄らなくていい。感情が乱れ、気持ち悪くなるから。わたしは気高く清潔に生きたいと考える。不毛な言葉のやり取りに、疲れた。誰とでも、理解はし合えない。こんな思考は間違っているだろうか?自分が変化することで、見えなかった現実が、見え始めている。もう過去は過ぎた。それに付随する、そこにいる人達とは、今後一切関わりたいとは思わない。わたしはゆっくり呼吸する。目を閉じて、ゆっくり呼吸する。大丈夫。あの時から、わたしは成長している。途方もない時間、あんなに苦しんだではないか?そしてわたしは逃げなかった。繰り返しの日常のリズムの中で、頭の中で、逃げずに向き合ってきたではないか?それくらい、過去の自分が嫌だった。孤独に、闘ってきたではないか?外の世界でのわたしの可能性は、こんなものだった。だからこの位置で、もういいではないか?資格とか。学び直しとか。そういうコンテンツに満腹感がある。何とか生活は繋げていけている。その隙間の時間に、不必要な努力を詰めこみたくはない。わたしは結局こんなものだった。生きることに、過剰に期待をしていたのかも知れない?夢は確かに大事。でも。夢なんかなくても、でっかい夢なんかなくても、生きられるということを、今のわたしは知っている。そういうのは、今のわたしには滑稽に見える。そして、そういうのに、疲れている。取りあえず、生活は繋げていかなければならない。夢より先に、衣食住を維持していかなければいけない。その痛みを、今のわたしは知っている。すぐに若くはなれなかった。それでもわたしは私だと主張するには、相当な逡巡をクリアしなければいけなかった。人には野蛮な感情がある。大人は狡いから、それを巧妙に隠蔽する。その距離感の中で、日々、生き抜いていかなければならない。絶対的な繋がりは、今のわたしには無い。そんな繋がりを欲しがった時期もあったけれど、それは幻想だった。わたしは私。今のわたしは、ここまで到達した。到達したけれど、過去は過去として、思いどおりに過ぎていかない。そんな便秘のようなもどかしさがある。人の中にいると、わたし自身が揺れる。激しく揺れる。そんな自分が、今は好き。愛おしい。まだ生きられる。偽物の繋がりがぷつんぷつんと消えていくことで、日々、わたしの内面は癒されている。誰とでも、友達になる必要はなかった。他人とわたし。これで良かったのだ。繋がりに対して神経質になり過ぎて。そしてわたしは疲れた。こんな言葉が溢れてくる今のわたしは、世の中に対して、正しく生きているだろうか?内側から溢れてくる言葉に対して答えを出すことに、膨大なエネルギーを使っている。こんなわたしの行動は、正しい行いだろうか?そんな葛藤もある。絶対的な存在と繋がりたい。そんな安心感が欲しい。こんな欲望もある。両親とわたしは、同一だった。思春期を経て、ようやく分離された。わたしは私として、生きなければいけなくなった。ずっと両親の子供のままで、いたかったけれど。このままわたしは生きられるだろうか?母が死んでも、わたしは私として、生きられるだろうか?そんな不安がある。生きられる所まで、生きようとは思う。そして今日が終わった。もうこれで、いいではないか?自分に対して、そんな言葉を突きつける。わたしは全力で、生きてはいないだろうか?毎日全力で生きていたら、疲れる。短期で考えるなら、その呼吸でいいかも知れない。世の中には複数の、しかも雑多な呼吸があって。それを理解し、自分流に落としこむのに、大変だった。わたしは私の呼吸で生きるしかない。今という時代を生きている。今の価値観で、それに対応する呼吸で生きるしかない。過去の価値観では、今のわたしを救ってはくれない。所詮、過去は過去だった。裏切ることの大切さを、今をよりよく生きようとすることで、それを知った。自分の足元が見えるからこそ、平常心で裏切れる。わたしは私として生きなければならない。わたしは、自分を守らなければならない。過度な繋がりに心酔できるほど、今のわたしは純粋ではなく。いつでも裏切れる準備は整っている。世の中が、もっと激しく歪めばいい。それが今のわたしの本音だ。薄くても、今現在の繋がりを、綺麗さっぱり切ってしまいたい。それが今のわたしの本心。すでに、わたしは疲れている。どうでもいいことに、日々、体力を使用している。そのことに疲れている。生活を日々繋げていくことに、それ程の美しさはなかった。労働は、それ程美しくはなかった。だからサラリーマンは、社会的に評価はされないのだろう?それを経験できたことは、きっとわたしのプラスになると信じたい。そんなことに、疲れた。何気なく生きているようで、わたしなりに真剣に生きている。わたしの思考は絶えず、錯綜している。その錯綜に対して、答えを出そうと努力をしている。これが今のわたしの頭の中の状態だ。わたしだって、こんなわたしだって、真剣に生きている。それが今の私だ。正しく生きているだろうか?こんなわたしでも、正しく生きているだろうか?感受性の強いわたしは、それを強烈に気にする。世の中は、こんなものだった。それを働くことで、知った。組織の中は、こんなものだった。それを知ったことで、わたしの内側で何かが悟った。このくらいまでなら、ずる賢くても大丈夫。その按排を知った。今までの価値観が、気持ちよく崩れてくれた。なるべく闘わない。裏切れるまで、仕方なく気を使う。そんなことを学んだ。人は、それ程美しくはない。それを知れた。嫌なものは嫌だ。きっとわたしは岐路に立たされている。どうしたらいいのか、今現在では分からない。どうにかならないなら、死んでしまえばいい。そんな答えがある。わたしは私なりに生きてきた。それが通用しないならばと考える。世の中に対してしか生きられない。もう過度な世の中に対する思考は、今のわたしには強すぎる。今を生きる時代の生活を、繋げていかなければならない。税金を、払い続けなければならない。わたしは今、どこに立っているのだろう?若い頃、自由に生きたいと漠然と思った。わたしはいま、自由に生きているだろうか?今となっては、そんなことはどうでもよく。目の前に、固定費は、漠然とではなく、事実として存在する。だから仕方なく、周辺の人達と、仲良くするのだ。ただ。裏切れる準備はしてある。周辺の人達などわたしにとっては、どうでもいいのだから。今立っているこの場所に、今のわたしは満足していない。しかも疲れきっている。これが現実だった。この現実をわたしなりに、昇華しなければならない。それには裏ぎらなければならない。わたしの気持ちだって大事なのだから。人なんて、そんなにというか、まるっきり美しくなんてなかった。わたしは私の人生を、美しく昇華させたいと、細々と願う。この会社にいれば、目の前の生活は維持できる。その間に、個として生きられる実力を身につけなければならない。わたしには、時間がない。急がなければ。いつまでも、ここにいてはいけない。そんな観念が、ある。働くことは、漠然と美しいと思っていたけれど、実際に働いてみると、それほどの感慨は受け取れなかった。わたしは働くということを、掘り下げて考えなければならない。なぜ働くのか?それを突き詰めて、考えなければならない。漠然と、内面の衝動と記憶と向き合って、それでも与えられた仕事をした。それに対して、ある程度の答えを出した。だから今、働くということに、新たな疑問に立ち止まっているのだろう。仕事なんて、それほどやりたくはない。わたしには、私自身の家族は存在しない。それを寂しいとは、不思議と思わない。時代の影響なのか、わたし自身の歪みなのか?それは今現在、分からない。わたし以上に働くことは出来なかった。だからわたしはあの会社を辞めた。世の中は、経験として、所詮こんなものだった。それが今現在のわたしの感慨。もう疲れた。きっとここで死んでも、こういうものだったと悟って、死んでいけると想像する。誰とでも繋がれなくても生きていける。その事実を、今のわたしは知っている。どうでもいい。わたしは私を生きるしかない。これ自体が、残酷なのかも知れない。癌で、ミントが死んだ。同居する猫だったけれど、その死に向き合ったわたしは、それでも生きている。わたしの記憶には、ミントの死が、鮮明にある。ミントは苦しんで死んだ。その死を記憶しているわたしは、未だに苦しんでいる。ミントは、肉体的な苦しみの中で死んだ。わたしには、精神的な苦しみが未だに、ある。その齟齬を、どう処理していいのか、未だに分からない。肉体的な苦しみを、取ってあげたかったという後悔が、未だにわたしを苦しめる。会社の人とは毎日会うけれど、そんな感情にはなぜかならない。また余計な金が出ていく。そんな下卑た感情しかない。なんの為に、わたしは今現在働いている?どうでもよい人達と、どうでもよい仕事内容と。生活を繋げていく惨めさを、今現在のわたしは突きつけられている。現実と自分との間に、何とか折り合いを見つけて、それでやっと生きている。見つける?もしかしたら、自分を都合よく騙していたのかも知れない。関わり合いたくない人を、都合よく、何とかいい人に見ようとしたり。そんなことに、疲れた。人に対する逡巡に、今の私はある程度の基準を持っている。人は変化する。その変化に、鋭敏にならなければならない。わたしはいつでも裏切れる準備はしてある。同じように、わたしだっていつ、裏切られるか分からない。信じるとか信じないとか。今のわたしはすでに学生ではない。人の中で生きるということは、こういうことだった。今のわたしは孤独ではない。不必要な繋がりにアクセスしないという選択が出来るのだから。誰とでも繋がる必要はなかった。誰とでも繋がらなくても、生きていける。その事実を今のわたしは知っている。自分が強くなれば、選択が出来る。わたしは私でいられる。わたしは私でいたい。だからもっと強くならなければならない。裏切れるつよさ。それはきっと美しい。最近、そんな境地に辿り着いている。わたしは今まで、不必要なことをもっともらしく学び、実践してきたのだろうか?そんな不信感がある。大人を信じられない?大人とは、そんなものだろう。冷静に考えてみれば分かる。死なずに年齢を重ねれば、誰でも大人になれる。ただそれだけのことだった。なんのスキルもなく、なんの精神的な熟成がなくても、死ななければ、大人になれるのだ。そんな大人を尊敬出来るだろうか?自分の中で、うまく立ちまわらなければ。どうでもいいことに、大事なエネルギーを過剰に使ってしまったという罪悪感。要は。目の前の生活を繋げていければいい。その為の仕事。生きるとは、所詮こんなものだった。疲れきっているけれど、仕方なく会社に行かなければならない。わたしを支える思想とは、所詮こんなものだった。今、わたしはどこに立っているのだろう?自分が消えてしまいそうで、それが不安。このまま、わたしはどうでもいい存在として、流れていくのだろうか?そんな思考に対して不安になる。生活を繋げていくには、仕方なく働かなければいけない。そのリズムに、今のわたしは疲れている。完全に裏切りたいけれど、今は裏切ることが出来ない。その狭間で、今のわたしはもがいている。そんな自分に対してもどかしい。イメージはある。人には、それぞれの重さがある。それを自分の意思で、コントロールすることが、今のわたしには出来ない。それがもどかしい。今の会社に対して、何の未練もない。なのに、どうやらその時期ではない。まだわたしは我慢しなければいけないの?そんな抑圧的な苦しみがある。裏切る準備は出来ている。いつでも裏切れる。わたしの準備は出来ている。なのに世の中は、未だにわたしにその順番を与えない。それに対して苦しい。わたしはいつまで我慢をすればいいの?そんな自身に対する疑問に対して、日々苦しい。誰とでも仲良くすることに、今のわたしは疲れている。生活を繋げていく為に、仕方なく働いている。若い頃は働くということに、もっと神聖な気持ちを持っていたような?実際に働くことで、そのこと自体に疑問が溢れてきた。その疑問に対して、未だにわたしは答えを出し続けている。何気なく過ぎていく日常。わたしの内面は、何気なくは過ぎていない。少しずつ、何かを悟り続けている。しどろもどろに答えを出して、その答えを元に、日常の中で、何気なく検証する。同時に過去と闘い、少しずつ昇華している。こんな感じで、今を生きるこの時代を、何とか生きているよ?個としての自分を高めながら、それでも世の中で生きているよ?わたしは私を生きる。世の中に対して、うまく自分を反応させるしかない。だってわたしは、この時代を生きているのだから。この時代をどうにかして、素敵に生きたいと思う。それでもわたしを、生きたいと思う。出来ないことは、やっぱり出来なかった。その事実を、今は素直に受け入れることが出来る。強がりを纏う若さは、今のわたしには強すぎる。目の前にすると、うまく消化できない。今のわたしは、ここまで来るまでに、散々考えての今だ。それを理解して欲しいとも、思わないけれど。わたしは私を生きる。ただそれだけだから。誰とでも繋がらなくても、生きていける。だから今のわたしは大丈夫。それを知っているのだから。この場所に、永住したいとは、思ってはいない。だからこそ、もがいている。きっと、何とかなるだろう?いつまでもいる場所ではないと考えるから、だから何とか頑張れている。世の中に対して、正しい思想を持って、その思想を元に、静かに生きたい。それが今のわたしの願いだ。今は世の中とわたしの間に、会社というものが存在している。それを、取りはらってしまいたいと考えている。でもそれは今ではない。まだ。まだその時期ではない。焦るなわたし。大丈夫。何が大丈夫なのか、分からないけれど。裏切る準備を、少しずつ整えている。自分が揺れている。世の中に対して、会社に対して揺れている。わたしの本質が、反応している。その反応を言葉として取りだし、その言葉と向き合い、自分なりの答えを出そうとしている。わたしはそれでも、しっかりと生きようとしているではないか?日々を繋げていくだけでも、こんなにも精神をコントロールしなければならない。答えを出しても、すぐに不安になる。わたしの立つべき場所、それがすぐに見えなくなってしまう。今、わたしはどこに立っている?記憶が錯綜する。それでも目の前には、やらなければいけないことがあって。それでも週末には、そんな自分に疲れてしまう。だからお酒を飲んでしまうのだろう。緊張感から、解放されたくなってしまう。こんな感じで生きているよ?今のわたし。今の自分に納得をしていないけれど、それでもこんな感じに生きているよ?まだわたしは生きられる。そんな実感がある。だから今は大丈夫だろう?先のことは分からない。今の自分を壊さないように、ぎりぎりで対症療法をしている。それが今の、わたしの状態。根本的に自分を変化させたいと思っているけれど。その為の努力をしているけれど、独り善がりの努力なのだろうか?わたしは内側の衝動に、素直に従っている。死というものは、きっとわたしのすぐ近くにある。この緊張感に耐えられなくなった時、それをわたしは選択するのだろう?努力だけではどうにもならない事実を、今のわたしは突きつけられているのかも知れない。今の生き方は、自分に対して正しいのだろうか?それさえ不安になる。嫉妬に負けたくない。そう考えるけれど、その言葉に、うまく体が反応しない。闘い方が、間違っているのだろうか?そんなことは、誰も教えてくれない。だから余計に不安になるのだろう。今現在、わたしは生まれてきて良かったと、思えない。稚拙な思考だと、そんなことは知っている。知っているから、もどかしくなる。このままのわたしでは、嫌だから。今現在の自分を、ここまでちゃんと理解している。これ以上、今は思考が揺れない。時間の経過と共に、また揺れ始めてくるだろう。思考し、また答えを出せば良い。今現在、わたしは私のままでいられている。衣食住も、満たされている。それでいいではないか?不安定な自分を少しだけど、ゆるせる隙間が自分の内側に出来ていたことを、最近発見した。揺れている状態のまま、歩き続けなければいけない。内側の葛藤は、わたし自身が頑張って外側に破裂しないように細心に注意をして、孤独に乗り越えなければいけない。人には悪意がある。その悪意は、敏感に内側の葛藤を嗅ぎつける。その悪意から、自分を守らなければいけない。冷静になれ!わたし。そういう時こそ、感情をコントロールしなければならない。うまく組織を利用しろ!その為の組織ではないか?辞めるのは簡単だけれど、今の会社に未練はないけれど。次の会社を見つけるにも、エネルギーを必要とする。純粋に、今のわたしは若くはない。狡猾に組織を利用することで、今の自分を守りたい。そんな思考に変化した。今の仕事に対する矜持はない。目の前の生活を繋げていかなければならない。その為の仕事だと、今のわたしは悟っている。いけない?こういう考え方。既に、学生の時からかなりの時間が経過している。感情が揺れ、思考が熟成された。少しずつ過去を取りだし、向き合い、やっとここまで生き延びてきた。自分という存在を完全に好きになるには、まだ、膨大な時間を必要とすることに、今のわたしは気づいている。過去が、目の前に現れては消える。生活を何とか繋げながら、生臭い、そんな内面の作業を続けている。わたしはこんな感じに生きているけれど、他人の人も、こんな感じに生きているの?それはちょっとだけ気になる。だからわたしは本を読むのだろう。周辺の人とはしない会話をしたいから、だから本を読むのだろう。現実の世界は、深い繋がりも、深い言葉も必要なかった。それが若い頃、衝撃だった記憶がある。今は自身の存在を、流れに潜める術が身についている。人の視線は一瞬で変化する。その変化に日々、警戒しなければならない。「私」を求められているわけではないから。だから「私」を内側にギュッと潜ませなければならない。誰とでも繋がらなくても、生きていける。そして、自分を守らなければならない。だからその為に、礼儀作法が必要なのだ。それを無視し、飛び越えて来る非礼に対し、わたしは闘わなければならないのだ。自分に非があれば責められる。責めさせない為の、礼儀作法。社内のコンプライアンスをうまく使用し、自分を守りたい。誰とでも繋がらなくても、生きていける。わたしを攻撃してくる存在を、正しく遠ざけなければならない。人の気持ちを考え過ぎて、過去のわたしは疲れた。その距離感の按排を、今のわたしは知っている。大丈夫。今のわたしなら、洗練された戦い方が出来る。そこの部分だけは、過去のままで生きてはいなかった。その場所に、戻されることはないだろう?人との接触は、それほど得意ではないけれど、そんな自分を確認できるから、程々に人の中にいることも、必要なのかも知れない。誰とでも、仲良くする必要はなかった。礼儀正しく接し、それを非礼で返されるのなら、わたしはそれ以上の思考の努力をする必要はなかった。点として苦しかったことが、やっと線として結びつき、今のわたしは癒されている。わたしは私を生きなければならない。「私」の支点が、ほんの少しだけれど、レベルアップしたような、そんな感じがする。過去はそのままでは、過去になってくれない。孤独になって、何とか向き合わなければ、目の前から消えてくれない。時間が経過することで、見えてくる過去がある。何気ない日常を繋げていくことは退屈だけれど、意味があることを、今のわたしは知っている。続けていれば、見えてきた。目に映る風景が変化した。だから大丈夫。まだ生きられる。時代が変化していくことで、わたしの内面が揺れる。その反応は、自身でさえ予測が出来ない。守りながら、継続しながら、考える。そうすれば、また風景が変わり、思考も変化するだろう?そんな淡い期待が、自身にある。やれるところまで、取りあえずはやる。出来なければ、素直にあきらめる。それで良かった。わたしは私以上にも、わたし以下にもならない。変化しない。それだけの事だった。自分に対して、無理はもうしたくない。わたしは少しは、洗練されただろうか?自分に対する結論は、これくらいでいいような気がする。今を生きる時代に生まれ、思考が流れ、わたしの本質が揺れた。その揺れの修正には、蓄積された記憶の解読を必要とした。日々流れる風景は、きっと美しい。今迄のわたしは、それが見えなかった。このまま生きてしまうことに、もう疲れた。それに気づいていたけれど、きちんとした言葉にしなかっただけだ。信じることを辞める。過去の価値観が崩落していく。気づかなかった緊張が溶け、抑えられていた疲労が溢れてくる。眠りから覚めた時、もう過去のようには出来ないだろう?わたしは今、どこに立っている?このまま生きていくことに、危機感を持っているのに、自身に問いただしても、今は何も溢れてこない。想いどおりに生きられない。その事実を、突きつけられている。時間の経過に対して、初めて焦りを感じる。わたしは生身だから。その生身の間に、どれくらい自分の思ったことを実現できるだろう?それを考えると、少しだけど、恐怖を感じる。生きているだけなのに、こんなにももどかしい。不安だから、思考が流れる。その思考に対する答えを探しに、検索する。分かったような分からないような。一時的な抑制効果なら、あるのかも?こうやって今のわたしは現実と、何とか折り合いをつけている。思考の流れに、わたしの精神は耐え続けることが出来るだろうか?そんな不安もある。自分に対して、明確な答えが欲しいのに、ただそれだけなのにね。きっと、生きられる場所まで、生きられるよね?今は、そんな結論しかない。もう疲れたと、あきらめてしまいたいけれど。まだそれに対抗できるプライドが、今のわたしにはある。だからまだ、大丈夫だと信じたい。過去の揺れが、ようやく落ち着き始めている。なのに目の前には、新たに激しく揺れるであろう人が、現れている。わたしが、無意識に警戒しているのが分かる。人の中で生きていくには、こういう人がいることは、仕方がないのかも知れない。だからと言って、わたし自身を傷つけていいわけではない。わたしは闘わなければならない。わたしからは、攻撃はしない。戦う準備は整っている。大事なエネルギーを、こんなことに使うことに、今のわたしは辟易している。誰とでも付き合わなくても、生きていける。それを今のわたしは知っている。まずは礼儀正しく。それを飛び越えて攻撃してきた時は、コンプライアンス違反として、報告する。世の中には、繋がりを切ってしまいたいと心から思える人がいる。それを、今のわたしは知っている。内面の苦しみは、辛いけれど、自分で正しく昇華しなければならない。他人を巧妙に攻撃することで、それを癒してはいけない。人の気持ちを考え過ぎて、病んだ過去がわたしにはある。どこまで人の気持ちを考えればいいのか、その適正な距離感が分からなかったから。今は体が感覚として、理解している。わたしへの攻撃は、甘えだと考える。そこには、わたしの気持ちというものを考えてはいない。だからわたしは、戦わなければならない。戦う準備は整っている。今のわたしは、過去のわたしではない。この戦いに勝利すれば、過去から一歩ぐらい前に、進めるかも知れない?そんな期待もある。何気なく生きていくにも、巧妙な作戦を必要とする。刺し殺してしまえば気分は高揚し、緊張感から解放されて、すっきりするのになぁと、そんな想像をする。まだ、人生を失いたくない。だからそれはやらない。自分の価値を、自身で貶めたくはないし。自分を正しく守らなければいけない。関わり合いたくない人が目の前に現れると、こんなにも思考が揺れる。その問いに対する答えを、何とか捻りださなければならない。わたしは正しくエネルギーを使っているだろうか?様々な人がいる。その中で、わたしが生きられている。それも、今のわたしは知っている。その中で、適正な距離を取って生きていくには、長い熟練を必要とする。人に関わり過ぎると、孤独になる。近くに寄り添い過ぎると、何も見えなくなる。それを恋愛で知った。何気ない日常の日々の連続は、無駄ではなかった。関わっていい人と、そうでない人。何気ない日常の中にも、危険は潜んでいる。気をつけなければ。新ためて、そんな自戒がある。起きると、頭の中がうまく整理されている。生きてさえいれば、いい感じになろうと、無意識に私自身が反応する。これでいいではないか?最近、そんな感じに思えるようになった。狡い私を許せなかった、若かりし頃。狡いわたしも受け入れなければ、日々の生ぐさい事象に対応できない。裏切る準備は整っている。その上で、嫌いな人とも付き合っていくしかない。日々、礼儀正しく。それを土足で侵入してくる人とは、戦わなければならないけれど。裏切る準備も逃げる準備も、整っている。それは卑怯なことだろうか?生きている限り、日常を繋げていかなければならない。どうでもいいことに、一々真正面から向き合っていられない。歳を重ねて嫌なことは、ため口を利く年下が、点々と発生してくることだ。殺したくなるけれど、うまく逃げなければならない。その為の呼吸のスキルも、高めなければいけない。一々向き合う必要はなく。気づかれないように、少しずつ遠ざけていかなければならない。いつでも裏切る準備は整っている。死ねばいいのにと、秘密に願っている。人は、いい時は続かない。そうでない時になるのを、今のわたしは陰湿に待てる。年齢を重ねると、こんなスキルも身につく。嫌い。だから仲良くする。日々、争っていたら、疲れる。好きでもない仕事を早く終わらせて、自分の時間を大切にしたい。寂しくもなく、孤独でもない。それが今のわたし。激しい感情の揺れは、今のわたしには満腹だ。静かに日常を流れていくには、強靭な精神力が必要だった。起きてみないと、その日一日やり過ごせるか、分からない。無理だったら休む。わたしはそんなに強くない。社会的な立ち位置も、今のわたしは理解している。だからそんなに頑張る必要もない。生活に追われる繋がりを持つことに、あの時のわたしは疑問を持った。その疑問に対する答えは、正しかったと、今は何気なく思える。好きとか嫌いとか、何であんなに夢中になれたのだろう。恥ずかしい。わたしは一人、顔を赤らめる。あの時の、甘味な記憶。好きということに、純粋に酔えた。過去の音楽を聴き、今現在を吹き飛ばして、そこへ戻る。美しい時間を生きた記憶。生臭い現実を生きている今の自分に、不思議なくらい未練がない。時間の経過の外側を、生きてきたような気がする。生きていたのだろうか?呼吸はしていたけれど、「私」を生きてはいなかった。わたしとして、何とか生きてはいたけれど。怖いくらい、裏切る準備は整っている。だから。若い人が、みんな同じように見えるのだろう。名前も顔も、わたしが覚えようとしない。わたしの目の前を、無感情に過ぎていく。静かに。そして静寂に。内面はこんなにも揺れているのに。過去を昇華し続けているのに。時代に対して揺れ、年齢を重ねることに、焦燥している。わたしは何の為に、生まれてきたのだ?こんな言葉が自身から溢れ、その言葉の重圧に独り、苦しんでいる。組織から、まだ抜けることが出来ない。裏切る準備は整っているのに。時間は残酷に経過していく。だから美しかった時間に、音楽の力を使って戻りたくなるのだろう。地球上のどこに行っても、今のわたしは、「私」でいられると、確信している。もう疲れた。「私」でいられない時間が過ぎていくことに、今のわたしは疲れている。裏切りたい人が近くにいることに気を使うことに、今のわたしは疲れている。人それぞれ、生き方がある。それだけのことだった。それぞれのすべての人と、繋がる必要はなかった。頭の中で、現実の世界と精神の世界が、交じり合っていたようだ。複雑に絡まった糸のようなものが、正しくほどけ始めている。現実という生臭い世界を、今のわたしは知っている。必要以上に働きたくないという思考は、野蛮だろうか?危険なら、わたしは逃げる。素直に逃げる。危険な場所や人には近寄らない。それでいいと、今のわたしは納得している。会社の中でさえ、そんな場所や人が存在する。誰とでも、繋がる必要はなかった。発する言葉にも、細心の注意をしなければならない。人の心は、一瞬で悪意に変化する。自分を繊細に観察していたわたしだから。わたしの気持ちだって、瞬時に悪意に変化した。それを今のわたしは経験として知っている。警戒して生きなければならない。近寄ってくる人をフィルターとして、自身の内面を客観視しなければいけない。心が弱っていると、それを嗅ぎつけて、近寄ってくる人がいる。その場所を早急に修復しなければいけない。修復することで繋がりが切れるのだから。人の中にいると、日々、こんな内面の作業をやり続けなければならない。繋がりを秘密裏に切る。何気なく、スリルだ。視点の次元が変化していく。記憶は、新たな側面を、私に突きつける。気づかないことで、生きられたという事実に、気づく。それは運が良かったと、考えるべきなのだろうか?バカだったと知ってはいるけれど、今のわたしはそれを認めたくはなく。精神の便秘を、味わっている。それがすごく嫌。いらいらする。すっきりしたいけれど、そううまく、受け入れることが出来ない。過去の自分にも、今現在の自分にも、いらいらしている。日常は何気なく過ぎていくのに、内面はすっきりしない。過去に、戻りたくもなる。声が聞こえる。記憶から、声が聞こえる。わたしの心拍数が上がる。どうか、冷静でいられますように。大丈夫。今のわたしは弱くはないだろう?孤独だって、今は痛くはないだろう?美しい記憶だけが、眠っているわけではない。そんな記憶たちは、わたしに何を悟らせようとしているのか?そんな記憶たちと、向き合い始めているわたし。そっちではないと、気づき始めているではないか?わたしはわたしを日々、気づいているではないか?信じるとは何か?愛するとは何か?過去の記憶たちに対して、答えを出そうとしているではないか?幼き頃より読んできた本たちが、今のわたしの思考を手伝ってくれている。精神とはどうしてこうも、手が掛かるのだろう?生まれたら、一々自分なりに悟っていかなければならない。それには経験と、大量の読書を必要とする。精神が完成されて生まれてくれば、恋愛だって失敗はしないだろう。生身の恋愛は、ある程度、精神に傷がつく。だから今のわたしは、恋愛を求めていないのだろう。好きとか嫌いとか。今のわたしは辟易している。現実は、こんなものだった。時間の経過とともに、過去は美しく塗り替えられていく。なのに最近、過去の人を見た。容姿が無惨に変化していた。わたしの記憶。どう処理するか、迷う。上書きするのか?美しいまま閉じこめるのか?無視したっていいよね?処理せず、そのままでも。それとも母に話すことで、笑いにしてしまう?若いときの純粋さが、今は愛おしい。社会に出る前の、微妙に皮膚がじんじんする、あの時の感覚。それはもう音楽を通してしか、味わえないのかも知れない?そんなことを悟ろうとする、今の自分に対して寂しい。時間は経過している。あの時の自分に対して、確実に経過している。私の内側に眠る記憶は、わたしの責任で、昇華し続けなければならない。わたしの生きている意味は、ここにあった。わたしはわたしなりの、答えを出せばよい。生活を繋げる。人とは、適正な距離を取る。これでいいではないか?いけない?人の悪意に触角を伸ばし、日々、かわし続けなければならない。人の悪意は無くならない。きっと、そういうものなのだろう?その中で、日々を繋げていかなければならない。それでもわたしは、生きてきたではないか?それがただ、自信になっていないだけ。だから絶対的な安心感を、得られていないのだろう?止めどなく、思考が流れる。これ以上の思考への対応は、さらに必要だろうか?自分とだけ、向き合っていると、その感覚が狂いはじめてくる。洋服のように。どうか、独りよがりになりませんように。感覚を鋭敏に。結局わたしも世の中も不安定なまま、不安定な距離感で、進んでいるのかも知れない?お互いに微妙に調整しながら、何とか輪郭を保っている。日々を繋げていくのに、個を追求し過ぎると苦しくなる。わたしがいて、世の中があれば、どんなに楽だろう?現実は、世の中があって、わたしがある。世の中を意識しない生き方は、「私」が苦しくなってしまう。学生の頃、「私」はこうだと主張した。それが今はどうだろう?きちんと世の中を意識している。「私」は世の中に対して、何が出来るだろう?日々のわたしは無臭でいい。最近、そんなふうに思えるようになった。だって「私」は必要ないのだから。だから洋服で「私」を主張する。こんな感じに生きているけれど、合っているだろうか?わたしなりの思考の帰結だけれど、合っているだろうか?精神的な不安を取り除きたくて、わたしなりに思考を継続させている。答えを出しては、その日一日を何とか生き延びてきた。何気なく生きているだけなのに、こんなにも苦しい。「私」を思いっきり解放してあげたい日だってある。それを恋愛に求めた時期もあったけれど、そんな絶対的な男なんて、現実には存在しなかった。余計にストレスが蓄積されていった。そしてわたしは疲れた。今は孤独でもなく、寂しくもない。不安定な空間で生きているけれど、何とか輪郭を保てている。正しく生きたいと、思ってはいる。目の前の他人の感情の歪みに、今はうまく反応出来ている。そんな繰り返しに、ため息をつきたくなる。わたしが生まれるずっと前の人も、こんな感じで生きてきたのだろうか?母と一緒に住んでいるけれど、こんな話はしない。薄い繋がりの中で日々生きていると、繋がりを持ちたくなる瞬間がある。「私」を理解して欲しいと。だから本を読みたくなるのかも知れない。わたしにとって現実の世界は、こんなものであった。それが今現在の感慨。思考はこんなにも溢れてくるのに、それを理解してくれる存在が、今のわたしの周辺には見当たらない。だから本を読んで、自身を癒そうとしているのかも?わたしは癒しを求めている。それを俯瞰で気づいた。母が死んだら、わたしは一人で生きていかなければならない。それはそれで、ある程度は、覚悟が出来ている。人とは簡単に繋がれない。簡単に繋がることは、危険。警戒しなければならない。ここまで、生きてきたではないか?これからも大丈夫だと、信じたい。誰とでも繋がらなくても、生きていける。不必要に気を使うことに、今のわたしは疲れている。もう、過去のわたしではない。何度も現れる、あの時の記憶は、まだわたしが完全に吸収していないから?そうなの?わたしは十分、強くなったではないか?何でこんなにも、一日が平穏に過ぎていかないのだろう?なぜこんなにも問いつづけなければ、不安になってしまうのだろう?もう世の中から離れたいと、考えている自分がいる。わたしをやり切った感が、ある。会社に対する未練も、人に対する未練もない。もう楽になりたいと考えることは、不自然なことだろうか?働くということに、今は崇高を感じない。出来れば生活の為の仕事はやりたくないと、今現在のわたしは思っている。働きたくない。それが今の、素直な気持ち。適度に働きたい。本能で素直に子供を作ってしまったら、高収入の男でないなら、生活の維持の為に、働かなければならなくなる。その現実を、今のわたしは知っている。今という時代を生きているわたしは、素直に本能に従えない。わたしは深奥では、世の中を軽蔑している。それを自身が知っている。これ以上、世の中と、関わりを持ちたくないと、考えているわたし。自分のことで精一杯なのに、家族の為になんて、生きられない。それが今のわたし。今のわたしの思考は、歪んでいるのだろうか?わたしはここまで、と悟ったのだから、次の命の為の、生き方をしなければいけないのだろうか?今現在、不本意な仕事をやっている。そんな仕事でも、気持ちに輝きを与えてくれるのだろうか?父が死んだ。それから母と住んでいる。家族の形が崩れ、それに対して不安だったけれど、その崩れが、今のわたしを楽にしている。父が死んだことで、どこかの緊張感が、切れた。認めたくはないけれど、わたしはどこか、楽になれている。家族から一つ、解放されたというような?家族でいることに、わたしは疲れていたのかも知れない?それを認めたくはない自分と、今のわたしは闘っている。思考はわたし自身を苦しめる。家族はあったかいもの。それでいいではないか?これ以上、深く考える必要があるのかな?周辺にいる人を、なるべくいい人と勘違いしていたい。連続する緊張感に、今のわたしは耐えられそうにない。権謀術数の、外側にいたい。そう考えるわたしは、もう若くはないのだろう。誰とでも付き合わなくても、生きていける。それを今のわたしは知っている。友達が多くはないということに、今は自信が持てる。そんなことは幻想だから、美しく見えたのだろう。純粋な子供の時に挿入された言葉は、いい大人になっても目の前の現実との齟齬に対して、苦しめる。現実を生きながら、何気なく過去が過ぎていく。わたしはきっと、何かを信じていたのかも知れない。過去に挿入された言葉を、それでも信じていたのかも知れない。だから無駄に、頑張れたのかも知れない。大きな夢が無くたって生きていけるしね。個をうまく誤魔化して生きている人なんて、会社の中には腐るほどいた。みなさん、どんな感じで個としての自分を保っているのだろう?日々、自分のことで精一杯だから。自分を守ることで手一杯だから。そんな話はしないしね。こういう感じが、稚拙な孤独をわたしに感じさせるのだろう。組織の中で生き抜けるスキルを、わたしは求めてはいない。その為の鎧を、もう脱ぎ去ってしまいたいと渇望している。もういいや。一日の始まりと終わりに、その間に、どれくらいその言葉が頭を流れるだろう?わたしはまだ、このままだろうか?もしかしたら、ずっとこのまま過ぎていくのだろうか?それを考えると、自殺がしたくなる。生活の安定だけでは、自分の精神を静かに納得させることは、出来ない。自身の衝動が苦しい。目の前の安定を、拒絶したくなる衝動が、今のわたしにはある。「私」を生きたい。過去に、そんな衝動を自分の中に、感じたことがあっただろうか?夢という言葉では、その衝動を表現するには美しすぎる。わたしが、そうしたがっている。だからわたしの好きに、わたしをやらせてあげたいと、わたしが思った。目の前の現実は過ぎていく。いつの頃からか、そんなことはどうでもよくなってしまった。わたしは私を生きたいと、素直に思った。その変化に、自分自身さえも、戸惑っている。内側で、点としての記憶が繋がっていく。わたしはここを、生きればいいではないか?わたしが生きるべき現実の道は、この道ではないのか?それを今になって、ようやく気づきはじめているわたし。現実の世界を、それでもわたしの脳は、取捨選択をしている。溢れる想いを言葉にし、記憶を蘇らせ、自分という存在を気づかせようとする。わたしはこのまま生きてはいけない。生きれるけれども、それではいけない。それにわたしが気づいている。そもそも、わたし自身が納得をしていない。それが一番苦しい。もう悩んだではないか?他人の視線など、もうどうでもいいではないか?人の悲しみを受け入れ過ぎて、限度が分からず受け入れ過ぎて、わたしが壊れた。わたしはわたしを生きなければならなかった。


 思考の流れが止まった。これは一体何を意味するのか?恋愛でも、こんな瞬間がある。彼に対する思考の流れが止まり、彼本来の姿が目の前に現れる。そしてわたしは気づくのだ。別れなければならないと。多次元的に思考は広がり、その広がりが続く限り、好きでいられた。これが盲目?恋愛という刺激に対して、思考が流れ始めた。その果てに、わたしは何を見ただろう?結局、別れてしまったではないか?わたしは今、どこに立っている?激しい思考の流れの制御に忙殺され、何も見えていなかったような気がする。意味の分からない不安に、うずくまりたくなる。現実から逃げているのだろうか?でもわたしは思考の流れに対して、誠実に向き合ってきたではないか?思考を言葉にし、その言葉と、誠実に向き合ってきたではないか?これ以上、わたしのやるべきことは、あるのだろうか?生活を繋げながら、溢れてくる思考に対して、自分なりの答えを出していく。生きている限り、その作業は続いていく。これは事実。実感として、わたしはまだ、始まっていない。始まりを求めているけれど、その始まりに到達できていない。この葛藤を抱えながら、わたしは今現在の生活を維持しているのだ。俯瞰で見れば、流れのなかの、ほんの些細な存在だろう?わたしなんて。でも深奥では、こんなにも現実に対してもがいているよ?「私」から離れることで、わたしを演じてきた。その一つ一つのわたしが、崩れ去ろうとしている。だって、本来のわたしではないのだから。過去のわたしに疲れた。その過去のわたしが崩れていく度に、そこに繋がっていた繋がりも、崩れていくだろう?そんな期待はある。まるで、何も無かったかのように。初めからそんなことは無かったかのように。思考が止まった?それは過去の自分が崩れた証拠?もうあの時の自分が、終わったということなの?そんなことは、誰も教えてくれないから。それは、自分で気づかなければいけないことだから。わたしの内側では、自身の意思とは関係のない化学変化が、起こっている。そんな気持ち悪さを日々抱えながら、何気ない振りをして、生きているんだ。ずっとそうだったような気がする。両親から生まれ、成長し、その過程でいつも内面の化学変化に、その時を生きるわたしが苦しんでいた。友達のことだって、いつも違和感があった。そのことに、今現在のわたしが、ようやく答えを出して、その違和感が消え、過去になろうとしている。生きている限り、この揺れは続いていく。こんな感じで生きているよ?今のわたし。そう思える今のわたしを、滑稽だと感じる。自分という存在は、所詮感じることでしか、認識できないのかも知れない?わたしは自分を、正確に認識しているだろうか?勘違いして、いないだろうか?もしかしたら、絶対的な自分というものなどなく、自分という存在でさえ、相対的なものなのかも知れない?であるなら、自分というものを探してあちこち彷徨っても、結局そんなものは見えてこないのかも?今という時代を生きている。それを悔やんでも、その事実はどうにもならない。仕方がなくても、今という時代を生きていかなければならない。ようやく若かった時の揺れに対する答えが、見えてきたような?今日は精神的に楽に、お酒が飲めるかも?わたしはわたしの潜在するもので、生きていかなければならない。生活を維持させていくことに、今のわたしは忙殺されている。それでもこんな感じで生きているよ?今のわたし。どうかまだ、生きられますように。今のわたしは、生きたがっている。そう感じるから。だから、どうかまだ、生きられますように。生かされているという感覚を、ようやく感じ取れる領域に入ったような?やっとだけど。やっと辿りついた感がある。わたしといういのちを、大事に使いたい。今は素直にそう思える。思考を繰り返し、その思考に対して答えを出していく。その先に、こんな感覚になった。その感覚を味わって、今のわたしは満たされている。無駄ではなかったではないか?日々の繰り返しの中での思考は、決して無駄ではなかったではないか?こんなことは、誰も教えてくれない。わたしは今、孤独だろうか?こんなにも、精神が満たされているではないか?一時的な感覚だと、冷静に分析するけれど。人として生き続けるには、こんなにも精神と向き合わなければならない。多次元的に揺れる精神と。精神は不安定に揺れている。こんなにも、制御が難しい。その周りを感情が包んでいる。わたしはそれでも、何とか生きてきたではないか?それはそれで、奇跡。どこに行っても、わたしから逃れることは出来ない。それを、今のわたしは知っている。最後は自分と向き合う場所に、辿り着いた。今の自分と向き合って、わたしは後悔も恥ずかしさも味わっている最中。少しずつ噛みしめながら、吸収している最中。自分を知り、理解し、受け入れていくことは、こんなにも苦しい。人として生まれたことに、何気なく絶望はする。そんな思考が溢れてくることは、事実。どうして思考は、こうもわたしを苦しめるのだろう?もっと鼓舞するような言葉なら、日々がもっと楽に生きられるのに。自身から溢れてくる言葉に、打ちのめされる。現実を知り、感情が動き、言葉が溢れ、わたしという存在そのものが、揺れる。不安で立っていられないくらいに。答えを出した筈なのに。そしてその答えへのプロセスを、何度も反芻する。今の自分は、間違ってないよね?そう何度も自身に問う。未来だけが開いていた、純粋に若い頃が懐かしい。今だって、未来だけを見続けていたい。それには過去を昇華しなければ、駄目なのだ。痛みを伴うこの作業は、ある程度、大人にならなければ出来ない作業。その苦痛を、今のわたしは味わっている。未来がどうなるかなんて、そんなことは分からない。ただ、過去は昇華しなければならないから。わたし自身が、そうしたがっているから。わたし自身の精神が、過去の昇華を望んでいるから。だから目の前の現実に辟易しながらも、何気なく、日々のリズムに入っていくのだ。わたしには、まだ向き合わなければいけない過去がある。その先には、神聖な境地があると信じるから。今現在の精神レベルでは死にたくない。最後はなんとか美しく昇華させ、その上で、旅立っていきたい。そんな願いはある。まだ生きなければいけない。どうかまだ、生きられますように。日々の生活と、精神の揺れに忙殺されている、今のわたし。そんな自分を何気なく、滑稽だと俯瞰で見ている自分もいることを、今のわたしは知っている。今という時代を、それでもこんな真剣に生きているではないか?これはこれで、おもしろいではないか?こんな感じで生きているよ?今のわたし。自分について考えることは、こんなにも苦しく、楽しい。今のわたしは、自分のことで精一杯。どうか、自分を見失いませんように。こんな些細な希望を支えにしか、今の自分は生きられない。組織の中に個としての自分を置くと、こんなにも揺れる。この組織から抜け出たいと企んでいるけれど、もっと大きく俯瞰で見れば、地球人という組織の中の、わたしだ。そしてアジア人であり、日本人だ。どこに行っても、絶対的な個としてなんて、生きられはしない。個を突き詰め過ぎると、独りよがりになってしまう。自分に合った組織の中で、適正な距離を取り、個としての歪みを何とか調整しながら生きていくしかないのかも知れない?わたしは間違っているだろうか?誰ともこんなことは、話さないから。自分に合わなかったから、過去にわたしは会社を辞めた。こういう人もいるのだなということを、実際に知れた。そして感情が揺れ、わたしそのものが揺れた。だから自分を守るために、辞めた。それで良かったと、完璧に理解できる。働くということを、わたしは美しく見過ぎていたのかも知れない。見限るということの大切さを、わたしは知った。だから良かった。誰とでも、付き合いたくはない。与えられた命は有限。それを大切に使いたい。自分にとって無理なこと、嫌なことは、今のわたしは知っている。それを知るには、やってみるという経験が必要だった。やってみて、そして気づいた。だから今は、自分にとって不必要なものを、削ぎ落とせる。自分が分からなかったから、頑張るしかなかった。今はもう、無意味に頑張りたくない。見る必要もないものを、無理やり見る必要はないのだ。誰とでも仲良くしなくても、生きていける。どうでもいいことから、逃げる。わたしの精神は、無限に情報を処理できない。そのことを、今のわたしは知っている。わたしの中で、心拍数を上げた記憶が過ぎていく。きっとこれから無意識に、そういったものを回避していくだろう?大丈夫。今を生きるこの時代に、わたし自身そのものが、適応しようとしている。まだ、生きられそうかも知れない。我ながら、ほっこりする。天気がいいからかも知れない。近所に家が建つ。その音が聞こえる。今は金利が安いから。ローンは大丈夫だろうか?まったく知らない人だけど。わたしと同じように、近所も変わり始めている。生きてさえいれば、変化は続いていく。そのうち、いい感じにわたしの流れも、好転するだろう?不必要な繋がりは、冷酷に削ぎ落とす。思考の果てに、そう自身が答えを出した。だからわたしはそれを信じる。一瞬で思考も記憶も変化する。一つの揺れにだけ対応出来たなら、どんなに楽だろう?嫌な記憶が日々、意地悪に現れては、消える。ちっぽけな日常を繰り返していくことで、わたしは今までその記憶達と向き合ってきた。出来ないものは、出来なかった。わたしは独りではなかった。もう抱えこむことは、やめにしよう。もっと誰かを信じても、いいではないか?今までに感じたことのない自分が、何か現れ始めている。これは何か、いい前兆なのだろうか?時代が揺れている。それに呼応するように、会社も揺れている。もっと激しく揺れればいい。わたしは自分と母を守れればそれで良い。裏切る準備は整えている。純粋に若かったとき、会社に対して、世の中に対して、清潔な夢と希望を持っていたような気がする。今はどうか?裏切る準備を整え、出来れば世の中から引退したいと考えている。こんな感じで生きるということは、予想外だった。それが今現在の感慨。世の中に出、年齢を重ねたけれど、まだ自分は始まっていないと感じる。その感覚に対して、焦燥している。与えられたいのちを、わたしは正しく使っているだろうか?完璧に裏切ることが出来たら、どんなに楽で、爽快だろう?みんな、同じ空間に生きている。その空間の中で、二度と会わない距離で生きたい。人が集まるのは理由がある。会社には、仕事の為、人が集まる。人が集まれば、その場が揺れる。その揺れが合わないから、わたしは前の会社を辞めた。思考が変化すれば、自身の揺れも変化する。人それぞれ、揺れを持っている。自分にとって危険な揺れを捉える感覚の尺度を、最近ようやく使いこなせるようになってきた。悪意は、口から出る言葉を揺らす。それをわたしは胃で判断する。日常での人は、それほど美しくはない。瞬時に自分を守らなければならない。悪意のある揺れから、自分を守らなければならない。社交的でなくても、生きていける。それを今のわたしは知っている。無理に社交的になろうとした過去の自分を、今は滑稽だったと笑える。あの時のわたしは、「私」ではなかった。「私」ではないわたしをやって、その不自然に気づいた。だからあの時のわたしは、偽物の自分を演じていただけだ。それによって出来た繋がりは、今では完全に切れている。わたしは「私」に戻ったのだ。分裂しては「私」に戻り、そして思考し、つよくなる。自分に気づいていくには、ある程度の時間が必要だった。人は不思議。頭の中を思考が流れ、その思考に対して、自分なりの答えを出し続けなければいけないから。何の為に生まれてきたのか?わたしはここに生まれ、わたしの頭を思考が流れている。その思考に対して、何とか自分なりの答えを絞り出し続けている。これが生まれてきた意味ではないのか?生きていれば、思考が勝手に流れる。その思考に対して、勝手に自分なりの答えを出そうとする。だとするなら、生きていることが、生きているそのことが、意味ではないの?不安を感じたくない。不安が大きくなり過ぎると、立っていることさえ、出来なくなるから。不安を感じない為には、正しい思考が必要。それには学ぶしかない。今になってやっと勉強の意味を理解している。わたしは正しく思考しているだろうか?独りよがりの思考をしてはいないだろうか?きっと、絶対的な思考も、ないのかも知れない?相対的に擦り合わせることで、導きだしていくしかないのかも知れない?わたしは正しく生きているだろうか?裏切る準備をしている今のわたしは、正しくないのだろうか?人と会社と世の中を勘違いで自分を誤魔化せるほど、今のわたしは純粋ではない。過去のわたしより、少しは利口になっただろうか?信じるという言葉の、麻薬のような匂いに、だいぶ酔っていたのかも?誰とでも繋がれない。それは寂しいことではなかった。自分を秘密裏に、高めなければいけない。なぜなら自分を守ることになるから。出来る限り思考し、その思考に対して答えを出す。そして噛み締め、たらふく眠る。そうすることで、悪意ある揺れは、わたしにアクセス出来なくなるだろう?自分の中の揺れを、消滅させていかなければいけない。その揺れを巧妙に嗅ぎ分け、利用しようとする人が、身近に存在するのだから。わたしの精神は、こんなにも繊細で脆い。それを中庸に保つには、まだ修業が足りないらしい。わたしは今、何を信じているだろう?わたしの日々の行動は、その信じているものを土台とし、行われている筈だ。信じている時、人は強い。自分でも気づかなかった力が、出る。でも信じていたものが偽りだったと気づいた時、立っていることさえ出来ないくらいに、崩れる。わたしは今、何を信じているだろう?何気なく日々を生きているわたしは、何を信じて生きているだろう?そんな不安がある。このまま生きてはいけない。時間だけが、年齢として経過してしまう。そんな焦燥を巧妙に隠して、今のわたしは生きている。思考が回転する。眠って起きて。すると頭の中が整理されて、また自動的に思考が流れ出す。その思考と向き合いながら、また一日をやり繰りする。日常は何気なくなんか、過ぎていかない。わたしの内面は日々、戦闘中だ。こんな感じで生きているわたしは、ふつうだろうか?わたしはわたしの思考で生きるしかない。相対的に、時には俯瞰で見ながら、修正しながらだけど。わたしはこの時代に沿って、生きるしかない。時代を選べない。それにしつこく悲観した時もあったけれど、結局今を生きるしかなかった。仕方なく、それを受け入れる……。自分の精神なのに、素直に言うことを聞いてくれない。未完成でわたしとして生まれてきた。これは事実。だからわたしは完成をめざして、生きているのだろうか?だから精神は不安をわたしに、動き出す原動力として、与え続けるのだろうか?正しく生きたいと思わせることも、世の中と繋がりたいと思わせることも。わたしは自分の意思で生きているつもりだったけれど。わたしとは何か?そう考えさせることも、精神の仕業なの?今までのわたしの行動は、すべて精神に操られていた?結局自分が一番おもしろいではないか?こんなにも、コントロールが難しい。だから自分が満たされることをやることが、正しいのかも知れない?他人から見て滑稽でも。一人よがりにならなければ。自分を経営しているような感覚に、何気なく楽しい。同時にこんなにも自分の経営は難しいということに、今のわたしは苦しんでいる。感情は激しく揺れるしね。もう疲れたと、諦めたくなるし。しかも毎日。こんな感じで生きているよ?今のわたし。それでも生きてきたではないか?わたしなりに、それでも生きてきたではないか?そんなわたしを、「私」は信じる。

 思考は溢れ、わたしを激しく揺らし、消えていく。そんな時にはいつも、わたしが現実に対して揺れていた。わたしはどう生きるべきか?どっちに進めばいいのか?それを自然に考えていたではないか?今考えると、自分に対して重大な決断を無意識にしていた。その連続の果てに、今のわたしがここにある。間違っていたのだろうか?そんな不安も、今のわたしを苦しめる。完璧な答えが欲しかったけれど、未だにその答えを導きだせないまま、今現在に対して揺れている。一日が終わり、疲れきってため息をついて、逃げるように眠る。それが今のわたしの現実。溢れ来る思考に対し、もう少しで切れてしまいそうな精神とやっとの体力で、何とか向き合っているよ?わたしは「私」を生きているだろうか?今まで考えてきたことが、これからのわたしを救ってくれると信じたい。わたしは記憶へ遡る。現在のわたしなら、今に着地しながら、それが出来るだろう?自身の揺れは、もう検証したではないか?わたしは現実に疲れている?だから過去の記憶へと、遡ろうとしているの?生まれてきてよかったと、未だに思えていない。わたしの本質はどこにある?それを探るために、記憶へ遡ろうとしている?どうなの?わたし。絶対的な流れの中で生きることに、「私」が合わないことを、わたしは知ったではないか?大丈夫。あきらめるな。時代は揺れている。取りあえず、わたしは死なない。まだ、「私」自身は耐えられる。いつの時代に生まれてきても、わたしはこういう生き方しか出来なかったと、妙な確信がある。わたしの本質は何も変化しない。その本質が、その時代に対して揺れるだけ。いつの時代に生まれても、生活を繋げていかなければならない。だからこうして日々、仕方なく働いているだろう?そうやって想像すると、滑稽。今、わたしは時代を超えて、精神で繋がっているような、そんな感覚がある。記憶へ遡ったその先に、もしかしたら辿り着いた?わたしはこんな感じで生きているよ?それでも、こんな感じで生きているよ?独りではないよ?だから大丈夫だよ?そんな幸福感?が、満ちている。無理に仲良くしようとしたから、うまくいかなかった。わたしの距離感でなかったから。わたしは自分の距離感に戻ってきた。気づいたではないか?自身に潜行し、気づき、現在の自分を修正する。膨大なその繰り返しでこんなにも、癒されているではないか?自分の本質は変わらないように、人それぞれの本質だって変化なんかしない。その中で有利に生き抜いていくには、賢くならなければいけない。これは狡さではなかった。人の中には悪意がある。これはもう仕方がないことなのかも?わたしにだってそれがある。だからうまくコントロールしなければ。近寄り過ぎると、その悪意が出そうになる。だから自分の距離感で。出来る限り、人は親切で優しいと、錯覚していたい。それには適切な距離感が必要だった。そして裏切る準備は整っている。この状態で、日々を揺れていけばいいではないか?今まで絞りだした答え達で、またしばらくは生き抜いていけるだろう?そしてまた私自身が揺れる筈だから、また考えればいいだろう?そう自身に突きつける。わたしは独りではない。思春期に感じたあの孤独感は、今のわたしにはない。大丈夫。わたしは進んでいる。ゆっくりだけど、進んでいる。人の中にいると、疲れる。それでもわたしは、考えることを止めなかった。だからここまで、生き抜いてこれたのだろう?世の中があって、個としてのわたしがここにいられる。今のわたしはそれを知っている。絶対的な個として生きようとは、思わなくなった。世の中に貢献できる個として生きたいと、今現在のわたしは考えている。この思考は間違っているだろうか?過去のわたしは、自分を主張し過ぎることで、疲れ、失敗したではないか?そんな過去の自分と、今のわたしは決別したいと考えている。正しく生きたい。出来る限り、正しく生きたいと、今現在のわたしは考えている。年齢を重ねることに、純粋なわたしの時は抵抗があったけれど、それなりの年齢になった今のわたしは、精神的に楽に生きられている。純粋に若かった時、わたしは苦しかった。絶えず苦しかった。それは、何も知らなかったから。それを今になって知った。年齢を重ねることは、怖い事ではなかった。年齢を重ねることで、理解できることがあった。それを、今になって知った。わたしはまだ、生きられる。それを、今のわたしは理解している。

 わたしは、愛されて生まれてきたではないか?その記憶が、今のわたしを何とか救っている。何気なく生きているわたしだって、こんなにも溢れ来る思考に苦しんでいる。こんな感じで生きているよ?今のわたし。今現在のわたしには、こんな言葉しか溢れてきやしない。生きるとは何か?その問いに対して、今のわたしはこう答える。こんな感じで生きているよ?今のわたし。これでは駄目?日々、精神的にも肉体的にも、こんなにもぎりぎりで生きている。これ以上、何をすればいいの?絶対的な存在に、答えを与えて欲しい。わたしは、今現在のわたしは、正しく生きているだろうか?生きていることに、こんなにも苦しんでいるよ?今のわたし。わたしの溢れ来る思考は、正しい問いを、わたし自身に与えているだろうか?その問いに対し、わたしは真剣に向き合っているよ?他人との距離感は、何とか会得している。なのに、わたしは完全な自由ではない?思考がわたしを束縛する!わたしは「私」を生きようとしているだけなのに!結局わたしは、「私」の範囲内でしか生きられないのかも?だから「私」は、わたしを演じるしか、この世の中で生きられないのかも知れない?点としての記憶が、今になって繋がろうとしている?だから記憶は、意味があったの?生まれてから今まで、ずっと気持ち悪かった。違和感のまま、いままで生きてきたような?わたしは今、ここにいる。それなのに!ずっと生きているということに、居心地が悪かったのだ!今のわたしにとって、過去はまだ過ぎてはいない!年齢を重ねても、わたしの時間は止まったままだ!生きるとは何か?そんなことは、誰も教えてはくれなかった。それは今だから分かる。そんなことは、誰も知らないのだ。不安なまま、誰もが生きているし、生きていた。生きるとは何か?その問いに対して、今のわたしを思う。それでもわたしは生きていると。こんな感じで生きているよ?今のわたし、と。わたしはこんな答えを出したけれど、どうなんだろう?今現在、わたしは正しく生きているだろうか?精神的にも肉体的にも、こんなにもぎりぎりで生きているよ?だからかも知れない?かろうじて、今の自分をちょっとだけ肯定できる。楽に生きようなんてしていない。わたしは「私」なりに、命がけで生きているよ?今を生きるこの時代を、わたしの呼吸で、何とか生きているよ?もう過去の価値観で生きることに、今のわたしは疲れている。今現在のわたしは揺れている。わたしは「私」の答えを出さなければいけない。人に対して興味がない。それはいい意味で、興味がないのだ。みんな真剣に、自身の人生を一生懸命に生きている。ただそれだけのことだった。わたしはこんな感じで生きているよ?今のわたし。それでも、このわたしは日々生きているよ?


 日常はそれでも過ぎていく。与えられた内面の問いに対し、時間の経過は待ってはくれない。人はそれでも生活を繋げていかなければならない。だから仕方なく、働くのだろう?集団の中で生きていくのは、それほど悪いことではないのかも知れない?わたしは過去の価値観に、異常に毒されていたのかも知れない?もう疲れた。過去の価値観を元に生きることに、疲れた。「私」はまだ、始まっていない。だとするなら、今まで目の前を過ぎた現実は何だったのか?それは無意味だったの?わたしが今迄生きてきた現実は、まったく意味のない出来事だったの?それでもわたしは、命がけで生きてきたよ?自身の命を繋げるために、真剣に悩んで自分なりの答えを出して来たよ?わたしの深淵から溢れる思考に対し、わたしなりに頑張って、その問いに対する最善の答えを導きだしたよ?だから、今現在のわたしがここに存在するんだよね?わたしは生きていいよね?それでも「私」として生きていいよね?そんな些細な疑問がある。過去との問答として、今のわたしが存在する。かろうじて、過去のわたしと勝っている。だから、今現在のわたしが生きられているのだろう?過去の自分が醜かったからこそ、今をより美しく生きたいと、内面の挫折を素直に受けいれようとするのだろう?まだわたしは成長できる。そんな予感がある。

こんな感じで生きているよ?今のわたし

こんな感じで生きているよ?今のわたし

自分の存在に不安。そんな人へ。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 青年向け
更新日
登録日
2021-07-26

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