湯の街で

湯の街で

小田原を過ぎた頃、車窓から見える箱根山に大きな積乱雲がかぶさっていた。
背景の碧空に置いた切り絵の様な雲のコントラストを僕はぼんやりと眺めていた。
これから向かう湯河原でオリンピックで出来た連休の一日を過ごそとインターネットで宿を予約した。
湘南電車の車中は流石に家族連れ、カップルで混んで、少し贅沢をしグリーン車に席を取った
久々の旅行に車窓を見ながら家内が言った。どんな宿かしらね、食事が楽しみ
ネットのホームページでは凄い美人な若女将で部屋も良かったな、と僕は言った。
女将に期待は貴方だけよ、兎に角私はお料理、あーお座敷で食べるなんて夕ご飯作らないなんて至福だわ、家内が嬉しそうに言った。
根府川の長いトンネルを抜けると眼下に蒼い海岸が望め、何時も車で眺めるのとは違う構図に,僕はカメラのシャッターを切っていた。
何か田舎からきた叔父さん見たいよ、家内が笑った。湯河原駅から私達を乗せたタクシーは川沿いの道を旧温泉街へと上がって行った。
古い温泉町の湯河原はバブル時代に出来た一泊十万円を超えるの超高級旅館と、豪華設備のスパ付きホテル旅館や、その昔文人が長い投泊をした超老舗の名旅館、部屋数を少なくしてオーベルジュ風なもてなしをする洒落た旅館に等に別れ、建屋をつぎはぎにして凌いできた様な創業50年を越す大衆的家族旅館は潰れるか、廃業するかの岐路にある。そんな旅館が旧温泉街には未だ数軒残っている。
タクシーを降りたそこは、僕がネットで予約し、描いていたイメージとは違い、その数軒のひとつだった。
玄関先にも迎えの人影は無い、こんにちは、こんにちはと何回か呼ぶと、帳場の奥から、背の低い老人が姿をあらわした。
あっ今日お泊まりの方ですね、老眼鏡の奥から僕を見て、こちらへと宿帳を差し出した。
では、お部屋へご案内します、と傾斜のきつそうな階段を示した。
その番頭さんとおぼしき老人の言われるままに,僕と家内は階段を上がった。周りの板壁には鹿の首から上の剥製、螺鈿の鶴の額、上がった踊り場には何か分からない木彫りの置物や造花等が置かれている。踊り場から直角に二つの廊下があり、ほの暗い照明の下に客室が並んでいる。
お部屋はこの上になりますから、と番頭さんは廊下の奥の階段を示した。
まるで忍者屋敷のように入り組んだ三階作りの館内は、この建屋が裏山の斜面に沿った狭い敷地に増築をして作られ事を物語っていた。
こちらがお部屋です、と番頭さんに案内された客室は大きな日本間と裏山を背にした窓側に小部屋が付いた部屋だった。竹林が迫る小部屋の網戸を開けると、わずがに川のせせらぎが聞こえる。
かなり古いけど、落ち着くいい部屋じゃない。大きな座卓に座って、番頭さんが入れたお茶を飲みながら家内が言った。ここは相当な年期が入ってるな、とネットの写真を思い出し比べながら僕は部屋を見廻して言った。
暫くして、まあ風呂へ行ってみるかと、浴衣に着替えた僕と家内は階下の大風呂へ降りていった。
ここ数ヶ月、腰の痛みが取れず、肌にも合う塩分の無い湯河原の温泉を期待しての投宿でもあった。
男風呂には誰も居ず、湯船に浸かると古いがよく磨れたタイル張りの浴槽に源泉の流れ落ちる水音だけが響いている。
まあ、こう言うひなびた宿も悪くは無いな、と僕は湯船から身を起こし台座に座り腰湯に変えた。
湯から上がり部屋でビールを呑んでいると、湯から戻った家内は、あー良いお湯だったわ、流石に湯河原ね、とグラスにビールを注いで美味しそうに呑み始めた。白地にグレーと赤で染められた笹の葉柄の浴衣が似合っている。
ちょっと散歩してみるか、と浴衣の帯を締め直した僕は言った。玄関で下駄を履いた二人は表通りへ出た。浴衣掛けで家内とふたりで温泉町を歩くなんて何年振りなのか、道を挟んで反対側には清流の流れる川があり、豊かな水量の水が岩に当たって白い飛沫をあげている。
今が鮎のシーズンだね、釣り人のいない渓流を眺めて僕は言った。鮎は白い岩影に居るのよ、と家内が言ったがその魚影は見えない。
川沿いの道を僕と家内は上流に向かって歩いた。日が傾いたとは言え、未だ強い日差しが木々の間を抜けて川面の蒼い紅葉の葉を照らしている。赤い欄干の橋を渡ると老舗富士屋旅館の木造三階つくりの丹精な家屋が川縁に沿って古風な佇まいを見せている。
その建屋を背景にして赤い欄干に身を寄せる家内を撮った。旅先で一番と思う構図を探して家内を撮るのは僕の楽しみでもあった。
今年は蝉の鳴き声がしないわね、山から降りる緩やかな川風にあたりながら家内が言った。
川に沿って曲がるなだらかな坂道を上ると、道が二手に分かれて、細い石畳の道の入り口には湯河原温泉湯元と刻まれた石塔が立っている。おそらく大正か昭和初期に作られたであろう石組の土台に高い石塀の大きな屋敷があり、其の先、石畳の道は山へと向かっている。多分その先に源泉があるのだろう。曲がり角の古民家の軒先に床屋を示す古い赤白青の電飾塔がゆっくりと回っているだけで、其の先にも人影は無かった。
あれ、あそこ何か記憶にあるの、確か昔来た旅館じゃない、と帰り道で私達の宿と軒を並べる同じ様な古い佇まいの家屋を指差し家内が言った。
表に岩亀荘と書かれた太い筆文字の看板が目に入った。余りにも真隣で、来た時には気付かなかったが、確かにもう15年位前にO夫妻と訪れた宿に間違い無かった。Oは私達が途中で移り住んだマンションに新築当初から住んでおり、なんと家内の弟とは大学生時代、親しい友人だった。
大手のファション企業に勤め、美術品販売からファションへと転身し、何人もの未だ無名に近かった海外のデザイナーを世界的になるまで育て上げた男だった。歳は僕と一緒で同じファションビジネスに携わっていた僕は公私共に、O夫妻とは近所付き合い以上に深いお付き合いをさせて貰った。しかし10年前にご主人のO氏は、不慮の死であっと言う間にこの世を去ってしまった。彼を知る内外の多くの業界人はその突然の旅立ちに驚き、惜しんだ。
生前の彼は仕事以外には、誰も目に止めない様な飲食店を探し、奥様と食べ歩くのが趣味だった。かわはぎの握りが抜群に美味い真鶴の小さい寿司屋、ここ湯河原では、とても目立ちそうも無い町の外れにあった和食割烹の辺屋は彼が見つけ出し、美味い料理屋見つけたんだと、僕と家内は初めて暖簾くぐり、やみつきになりその後何度も通った。大将の渡辺さんがやっていた辺屋は知る人ぞ知るの店で、最初に訪れた時、広い調理場とカウンターだけの店内には壁に架けられた数名の歴代内閣総理大臣からの感謝状が額に収まっていてそれには驚かされた。全国派遣料理人組合の重職だった渡辺大将が送り出した料理人はゆうに百名に上ったであろう。各地に散ったその弟子達から送られて来る四季折々の旬の食材や、冬には相模湾の河豚、春のかわはぎ、初夏の鱧や京都野菜などを大将の包丁捌きと味付けは、食材の味を生かす料理人の魂が込められていた。
湯河原に別宅を持つ梅宮辰夫は渡辺大将を料理の師と仰ぎ何時も自宅に招いて彼が相模湾で釣り上げた魚を料理して貰っていた。梅宮のワイフも娘のアンナも渡辺大将の人柄と料理の腕前が大のお気に入りであったそうだ。地元では尻尾まで身の詰まった巨大な海老の天麩羅、中でも割烹料理屋では決して出さない丹念に煮込んだタンシチューは、知る人ぞの店の裏メニューだった。そんなOが15年前に私達との湯河原泊に選んだのが、彼らしく、有名旅館では無い隣りの岩亀荘であった。そして彼が亡くなり10年が過ぎたお盆の今日、その隣りの宿に私と家内は泊まる事になったのだった。此れは偶然なのだろうか、僕と家内は二軒軒を並べた老旅館を道を挟んで眺めていた。何処かでひぐらしが鳴いていた。

部屋に戻り座卓でビールを呑む僕と家内に、歳を召した婦人が夕餉の支度に部屋を訪れた。
この人が女将さんなのかな、と僕と家内は顔を見合わせた。暫くして、お待たせしました、お料理をお持ちしました、との声で襖が開いた。
其処に姿を見せたのは、淡いブルー地にぼかし柄の黄色の山吹の花をあしらった付け下げに同色系の帯、白い組紐の帯留め、アップにした豊かな黒茶の髪に螺鈿細工が入った大きな髪留め、彫りの深い小顔の背丈のある女性だった。
太く小さな眉、大きな眼と高い鼻、やや日焼けした肌、整った唇に赤い口紅、異国の雰囲気をも漂わせるとても美しい人だった。
僕と家内は思わず顔を見合わせて微笑みながら小さく頷いてしまった。
貴方が女将さんですか、手慣れた袂さばきで突き出し、魚の盛り合わせや、食前酒を座卓に並べる彼女に僕は尋ねた。
はい、そうです と笑みを浮かべて彼女が応えた。
ネットのホームページに載っている女将さんが貴方でしたか と僕は妙な問答をした。
はい私今、29歳でここ湯河原の女将連では一番若いんです。いや全国区でもかしら、と笑った。口角の上がった赤い唇に真っ白の歯が垣間見えた。
又どうしてここに?と僕が聞くと
ここ、私の実家なんです、祖母と母と雇いの番頭さんと中居さん、料理人の四人で何とか切り盛りしていまして、私は東京に嫁いだのですが、今は家業を助ける為に子供二人と月に20日はここへ単身赴任しているんです、主人には申し訳無いのですが。あのホームページも私が頼んで作りましたと微笑みながら若女将が言った。
暫くしたら次のお料理をお持ちしますね
と部屋を出て行く若女将の白い足袋と後ろ姿を僕と家内はまるで狐に摘まれた様に見ていた。
看板に偽り無しね、鯛の刺身の歯応えを味わいながら家内が言った。八海山の辛口の豊穣な味が口の中に広がっていた。
お持ちしました、と上がりにしゃがみ、声をかけた若女将が襖を開けて料理を座卓に運んだ。大きなせいろに旬の野菜や金柑を敷き詰め、和牛、伊勢海老、魚介を蒸し焼きにして食す、この宿自慢の料理だ。
蒸し上がるまで暫くお時間を、と言う若女将に僕は尋ねてみた。
女将さん、ひょっとしてこの町にあった辺屋さんを知っていますか、と
まあ、勿論です、と若女将は驚いた様に僕の顔を見て言った。訳を話した僕に若女将は話しを始めた。
辺屋のご主人、渡辺の叔父さんとは親戚同様のお付き合いをさてせ頂いたんです。私が本当に小さな頃からなんです、両親に連れられてお店に行くと、尻尾まで身のある大きな海老の天麩羅を沢山食べたり、帰りには大きなタッパーにタンシチューをお土産に頂いて帰るんです。本当に優しく、渡辺の大将は私には祖父の様な方だったんです。亡くなった時、葬儀には勿論梅宮辰夫夫妻も参列してました、私、涙が止まらない程に泣いてしまいました。
実はこの旅館の今の板前さんも8年前、渡辺の大将のお世話で来てもらったんです。と言う若女将は懐かしそうに、少し寂しそうな眼差しで言った。
以前大将から、若くして、亡くなった実の娘の話を聞いた事があった。その時僕は思った、きっと渡辺の大将は湯河原で生まれ育ったこの美しい人を幼い頃から我が娘の様に可愛いがっていたのでは無いかと。家内とせいろに箸を入れゴマや酢醤油の薬味で食べる蒸し焼きの海老や肉、野菜の味は格別に美味しく、紛れも無くあの渡辺大将を思い出される味だった。

竹林の下を流れる川音との風にそよぐ竹の葉ずれが弛まず、僅かに聴こえている。
並べて敷かれた夜具に、家内は小さな寝息を立て寝入ってしまった。
布団におあむけになり、床間の薄明かりが照らす茶色になった天井の杉板の模様を僕は見ていた。
そしてこんな光景が蘇った。
僕とOはカウンター越しに大将が捌く大きな石鯛を見ていた。調理場の水道から絶え間なく流れる水を
指さして、ここ湯河原の水は料理には最適なんですよ、何処の水よりもね、と言った。
癌の腫瘍でコブの様になった首が半纏の襟元から覗いている。大きな眼が僕とOを見て笑った。
ほら、早く皿をこっちへ持ってこいよ、魚の活が落ちちまうからよ、全く何年やってんだよ、お前は
いつも怒鳴る声に、奥で女将さんの慣れた顔が覗いている。渡辺大将が飲食業に初めて関わったのは中学を出て直ぐの丁稚奉公からで、初めて自分の店を持ったのは、今の横浜の西口、運河の辺りで開いた小さな中華そば屋だったと言う。その頃から連れ添った女将さんは、どんなに人前で大将に怒鳴られも、それが悪気では無い、料理人の気骨である事を知っていたのだろう。
何度か辺屋を訪れる内に、調理場で若い者を怒鳴り飛ばす大将の声が聞かれない日は無かった、其れを聞くのも楽しみだった。
手土産に持って行く虎屋の黒蜜羊羹が好物で、仕事上がりに、箪笥にもたれて食べる羊羹は格別なんですよ、甘いものは疲れを癒すけど、料理人は決して辛いものを食べてはいけない、舌の味効きが変わってしまいますからね、と長い間、癌と闘いながら、それでも最期まで女将と調理場に立ち続けた大将は言った。料理人の心活が間近に伝わる人が渡辺大将だった。
Oと僕はそんな話を聞きながら、いつも酒を酌み交わし、次から次へと並べられる大将の料理を堪能した。その辺屋も大将が亡くなり、後を継ぐ者も無く
今は店の跡形すら消えてしまった。

眠れないないまま天井を見ていた僕は想った
亡くなったOは何か不思議な力を持っていたと
持って生まれた審美眼とでも言おうか、この世の美を見つける力、絵画、陶器、フッションデザイナー、名の知れぬ影の名料理人、そしてきっとあの美しい若女将もだ。そして仕事では類希な座った腹と厳しさを持ち、人としての優しさを持つ男であった彼が、僕と家内を此処へ連れて来てくれたのだ、Oはお盆に帰ってきてくれたんだと。
その時、僕の中に15年前のあの日のOの姿が浮かんだ。隣の宿に泊まった翌朝、Oと行った早朝の湯河原カントリー、谷越えのショートホール、グリーンも見えなほどの深い朝霧の中、Oの打ったボールは霧の中に消えた。ボールを探しグリーンに上がった二人が見たのはピンから30cmほどで止まっている真っ白のボールだった。Oは本当に嬉しそうな顔で笑っていた。
生涯一料理人を貫いた渡辺の大将
類希な彗眼の持ち主だったO
生まれ育った家業の旅館を継ぐ29歳の若女将
たった一泊の湯の街に、僕は何か
えも知れない繋がるものを感じた
それを輪廻と言うのだろうか

やがて僕は深い眠りへと堕ちて行った。

湯の街で

湯の街で

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-07-26

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