踰越

あおい はる

 せかいに、たったひとりだけ、このひとのために生きたいと思ったひとが、いて。くるおしく、夏の吐息に、ぬれる肺だけが、いまも、なまなましさを植えつけてくる。からだに。喫茶店の、一杯の、ホットコーヒーをのんでいるあいだに、夜が、嬌声をあげて、空から頽れて、ぼくらはただ、みているだけの、ひとびと。目の前のことが、ちがう次元のことのように、ビジョンをとおしているみたいに、つまりは、どこか、遠い国のできごととして、ぼくらの脳は、都合よく処理してゆく。せんせいは、こどもにかえったのか、クリームソーダをみつめて、にこにこしているし、ナナオは、喫茶店のマスターである、あらいぐまと、さいきん読んだ本の内容を語り合っている。金糸雀からの着信は、無視していて、どうせ、一晩、寝床を共有する誘いであり、ぼくは、もう、どうでもいいひととは寝ないことにしたので、そのうち、金糸雀には殴られるかもしれない。意外と血気盛ん、というのは、金糸雀に対する、ナナオの見解である。シュガーポットの白に、オレンジの照明灯がにじむ。クリームソーダのいいところは、チェリーの色も、メロンソーダの色も、じつに人工的であることなのだと、せんせいは言って、あらいぐまの選曲である、店内の、クラシック音楽の、ふいに音がちいさくなる瞬間に、夜の悲鳴はきこえる。金糸雀は、意外と血気盛んであるが、寝相はおもしろいほど、よい。両手を、腹の上で組み、直立不動のその姿は、まるで…。

踰越

踰越

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-07-21

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