伸長

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『   』


 言葉でものを知る人はその論理の中でしかものを語れない。「他人」の視点又は客観的視点を考えてみても、それは議論しうる論理で編まれた自分の中の他人であり、その内容を他の個体が理解し、語りうると想定している。論理を介さずに世界を知る術は宗教が目指すだろう。しかし、その宗教でも教え説かれる言葉があり、禅問答のように非論理的な形で教義を伝える場合であっても逆説的に論理は用いられる。五官で得る感覚も、脳内麻薬がもたらす感情もどういうものかと自ら知り、誰かに伝えようと思うのであれば、それを伝えるための入れ物としての言葉を捏ねなければならない。ただ思ったことも、何を思っていたかを知ろうとすれば、自分で振り返るための過去の記述を要する。独り言、と記すにも言葉は要る。言葉なしに何かを思うことは至難の業であり、言葉なしに「ただあり続ける」のは悟りの境地に似るように思える。直接に世界を知れたら、と憧れる。そして憧れる、と述べている時点で私の憧れは実現しないだろう。手垢のついた表現になるだろうけれども、憧れると記したときに「私」はすでに遅れている。だから、いっそのこと開き直って認める。
 人は論理に従うのみ。それを理性主義と評するのも、批判するのも正にそうなのだから。
 ではここから開く世界は何か。論理は何を扱うのだろう。



『極論』


 不特定又は多数人で構成される『社会』を情報として見ると、その内容の統一に果たしたメディアの役割は大きい。印刷技術の発達により新聞などの紙媒体が大量に生産され、広域に頒布できたこと、また通信技術の進歩に伴うハード面の日進月歩により誕生したラジオやテレビ、そしてインターネットの普及は、人々の間で『社会』とは何かという内容を擦り合わせることを可能にした。
 メディア同士を見比べれば、情報の送受信が一方的になり易いラジオやテレビに対し、インターネットでは双方向で情報のやり取りを行える。そのやり取りを俯瞰してなんとなく見えてくる流れや雰囲気をもって『社会』という情報を更新できる。スマートフォンなどの携帯端末の普及により、情報をやり取りできる時間、やり取りできる量が増えていけばこの更新は常に行われる。そのうちに『社会』が自分たちの手の中に収まる感覚を得られる。打ち込めば『社会』をいつでも変えられると確信する。実際、意味のある議論が行われ、将来にわたって持ち続けられるべき大事な問題提起が行われるのはインターネットの普及で可能になったと考える。その事実を否定してはならない。
 しかし一方で、情報としての『社会』は都合よく利用されやすい。手にした携帯端末で悪意と殺意に満ちたメッセージを発信し、どこぞの誰かを自殺に追い込んで実質的に殺害できるという利用方法が確立され、暗黙のうちに受け入られる。最悪なときには一種のイベントの如く愉しまれている実情を情報として目にすれば、利用者は『社会』という情報に事実上の力を感じ取る。この認識を背景に『社会』という情報にアクセスし続けなければ殺されるという恐怖心が生まれ、『社会』という情報の統一は可笑しな方向へ強く進む。
 殺されないようにするためには同じになる「しかない」。そして同じは違いを生む。だから、排外行動が起きやすい素地は『社会』という情報の中に存在する。受け入れられないメッセージを発信することが命取りになる。先の述べた間接的殺害方法の公開がインターネット上で行われるのもこれに賛同しない者を炙り出し、次の殺人のターゲットになり得るかを判断する踏み絵のような機能を持つかもしれない。メッセージの定型化も進み、ある種の符牒のように機能する。そうではない又は違うかもしれないというグレーな幅が『社会』という情報の内部で失われる。そうして『社会』という情報の定型が生まれる。それ以外のあり方が可能性として失われる。そのうちにこの状態を息苦しい、と自由に述べることすら憚られる。感情面の動きにおいても全体的な統一が進められる。
 こうして、外にも内にも一つになった『社会』が地球上に生まれる。人という情報処理システムである脳内の中で、明滅しながら拍動する。



『口汚い』


 生活リズムを変えただけでしょ。起床と就寝の時間が遅くなっただけで一日の使い方は以前と変わってないし。え?二年以上?関係ないでしょ。効率よく時間を使うために規則正しく寝起きしてるんだったら、以前よりさらに効率よく寝起きできる予定とリズムを組み立てるんだろうし、何となくの気分で変えてもいい。その人次第でしょ、そんなもん。
 アンタたちが「どういうものか」はアンタたちが勝手に公然とバラしまくってるから、こっちの感覚でいちいちそのヤバさを指摘はしないけどさ。たださ、そのルールはどうなのよって流石に思うよ。え?自殺に追い込んで殺害しようとしているアイツが、アンタたちが勝手に決め込んでいる一日の生活ぶりと違う行動をしたらアイツはもう死ぬ寸前っていう訳の分からないごっこ遊びのルールに決まってるでしょ。他に何があんのよ。そんなイカれた遊びしてんの、アンタたちぐらいだわ。
 ゲームのルールってさ、参加する全員がそのルールに従うっていうルールを守るから意味があるんだわ。アンタたちのやってるごっこ遊びも一緒でしょ。で、アンタたちが馬鹿みたいに必死になった挙句、アンタたちをホンモノの人殺しにしちゃったアイツは、アンタたちのルールに従うって言ってくれたの?つーかアンタたちさ、アイツと喋ったことあんの?ていうかさ、アイツはアンタたちのこと知ってんの?気にかけてくれてんの?こっちから見ててさ、アイツがアンタたちのことを見ているとこ、見たことないんだけど。アンタたちだけ盛り上がってるよね?ワーキャーワーキャー、ところ構わず、失礼極まりない格好でさ。悪いけど、こっちから見ててもマジで識別不能だわ。アンタたち。やってることがワンパ過ぎて。区別する意味ねぇわ。「一個」のガキだよ。その頭ん中のオーエス。
 一回マジでやってみたらいいじゃん。二十四時間、常時監視。それを最低でも半年以上続ければアンタたちの「ルール」ってやつが本当かどうか検証できるデータは十分手に入るでしょ。一秒たりとも目を離さないぐらい正確にやれば信用できるし。それを半年以上続けりゃいいじゃん。マジで殺人ごっこしたいなら。
 え?それ、マジで言ってんの?はあ?マジ?え?え?え、マジで言ってんの?ウソでしょ。え?え?
 え、マジなんだ。
「うーわ。」
 え、いやいや。気にしないで。こっちの話だから。大丈夫。大丈夫。え、大丈夫だって。気にしないでよ。ほらー、そんなに気にしたら体にドクだよー。ほらほら、ほいほい。  
 え?言うの?マジで。ウソでしょ。え?マジ?え。え?マジ。マジなんだ?はあー。チョーめんどくさ。どうでもいいのに。はあ、クッソくだらねぇ。
 えー、別に。アイツから聞いてたとおりでキモって思っただけだわ。えー?はあー。言うのダリぃ。えーっと、何でアイツらは確認する前から馬鹿みたいにショウリノガイセンパレードー!って騒ぐんですかー?って訊いたんだわ。こっちはさっきの方法に気付いていないだけって思ってたからさ。で、アイツの言ってたとおりだった。アンタたちはマジというよりただ威張り腐りたいだけ。「これでもう死んだんじゃね?」って勝手に決め付けて、バカみたいに興奮して、我を忘れたいだけ。「オレ(たち)、ワタシ(たち)に苦しめられて今にも死にそうになってんじゃねぇ!?」っていう異常で過剰な自己評価に溺れて自惚れたいだけ。で、同じように興奮してるミンナがいるっていう状況を認識して、お祭り騒ぎの脳内麻薬に各自で浸りたいだけ。で、常時それを続けたいだけ。ただそれだけってこと。
 マジでヤベェじゃん。引くでしょ。そりゃ。



『質疑応答』


 物理法則に従って存在する身体と違って、心ないし精神はものとして存在しない。しかも、生物学的に見て「こうあるべき」という状態が規定できない。では、何を基準に精神状態に対する評価を下せるのか。例えば疾患としての定義づけや、また精神状態が回復したといえるための判断基準などをどう根拠づけているのか。無定形がゆえの難しい問題が人の精神に関しては存在するのでないかと思っていた。その点を教えて欲しくて、当時のテレビなどのメディアに出演していた方にそれとなく質問してみたら、こんな答えが返ってきた。
「業界人の誰もが答えられないことを私に質問するのは、ルール違反である。」
 明快な回答を求めていた訳ではなかったので、この回答には戸惑った。
 素人丸出しの妄想として記述する。
 精神的な苦しみからその人を救うという目標から見れば、人を殺したくて堪らないという苦しみを訴えるその人に対し、「心の赴くままに」という回答を与えることは一応正しいと判断することはできる。たとえそれが社会的秩序の維持という面からとても危ういものだとしても、その人を救う治療方法としては間違っていないと評価はできるからだ。
 しかし、この回答に含まれる違和感は無視できない。そもそも、なぜその人は「人を殺したくて堪らない」という苦しみを訴えているのか。例えば、その人は人を殺したいと思う一方で、人を殺さずにいられる自分になりたいと切望していて悩んでいるのかもしれない。そうであれば心の赴くままに人を殺せばいいという回答は、そこにある悩みを捉え切れていない。悩みはその人の関心の全てを巻き込み、日常生活に支障をきたす程に至っている。しかも複雑に。デリケートに。そんな疑問に対する答えを他人(ひと)が知るのはとても難しいと感じる。場合によってはその手がかりをその人自身の心の動きから発見するしかないだろうし、その解決も納得できる解答としてその人が発見し又は創っていくしかないこともあるのだろう。カウンセラーはそのための意思のある壁として向き合い続ける存在だと見聞きしたこともある。なら、その解答は千差万別になる。本当に愚かな素人である私でも、そこまでは想像できる。 
 だから、明快な回答なんて求めていなかった。最前線に立つ姿をお見せになっていた方だったから、失礼極まりないことを承知しつつ先の質問を投げかけ、心ないし精神という対象に内在する難しさと取っ組み合っている姿の一端でもお見せになって頂けるかと、そしてその姿に私が勇気づけられることを勝手に期待したのだ。
 したがって、反省すべきは私だ。真摯な問いであればこそ本当に最後に、そして大切に発すべきなのだ。


 翻って、私が河合隼雄さんの書かれた本だけは手に取って読んできた理由がここにある。『ユング心理学入門』の冒頭に書かれていたと記憶する「不確かではある。しかし、有用なのだ」という趣旨の言葉を私は忘れていない。
 悲しみは悲しみのまま、難しさは難しさのままに。受け止める、という言葉の底を何度も何度も叩いて確かめる。
 こんこん、こん。と返ってくる。二度と戻らなくても、そういう時が確かにあるのは救いだから。



『かもしれません』


「プライオリティーなんですよ。見るべきは。
 息をするように人を殺す人物は確かに危険です。なんでもないと思う理由で殺人が行われかねない。けれど、その人は殺人に対する拘りはないとも考えられますよね。なぜなら、その人にとって殺人は当たり前すぎてどうでもいいものとして優先順位が低い可能性があるからです。本人にとってはやらなくてもいいことなんですよ。殺人よりも優先すべきことがその人にはある。それが共存のために他人の命を奪わないという「合理的な」判断であるかもしれない。だから、その人とは共存できる。互いを大切にし合えるかもしれないんです。
 対比すれば根深いのは直接または間接の殺人に拘るような優先順位を形成し、それに従っている方かもしれません。その方はTPOを無視して見知らぬ誰かを殺害することを「何よりも」優先する。日常生活に必要なことを蔑ろにし、例えば放火魔のように自殺という名の「殺人現場」に向かい、その周囲を彷徨く。そういう行動も異常に優先された殺人行為の一つなのかもしれません。そういう行動を実際に行う人たちをよく知っています。いいサンプルですから。そうやって拘って、拘って人を殺す。熟慮を何度重ねても危ないと評価するしかないですよね、そういうプライオリティーに従った行動は。そういう方との共存は、だからとても難しいかもしれません。肩を並べたり、背中を預けたりするのを躊躇ってしまいます。
 信用は、難しいですよね。
 だから、彼はその行動を見るべきだと「観察」結果に基づいて主張するのかもしれません。常識人なんてどんな面していても被れますから。ポイントは、その被ったお面を裏切る悦びにハマっている者かどうかを見極めることになるのでしょう。ああ、大丈夫だと思いますよ。難しくはないんじゃないかな。そういう方は自らの本性をバラすようです。暴露癖が激しいみたいですから。そういう自分自身をどうしても評価してほしい、のでしょうかね。彼はそれを利用して値踏みしているみたいです。いや、もうしてはいないかな。彼はさっさと見切りを付けて、次の関心事に夢中になってると思います。彼のプライオリティーは「あちら」に向いていないことは見ていて分かりますから。」


『リユウ』

 デ、イマモソウシテヒトノハナシヲキイチャイナイ。ソチラノセカイハウチュウヨリナゾダヨ。
 ヒュルルルルー。
 モウソウダッテハズレルハズサ。
 


『  』


 象徴は根拠ある主張より説得力があるか。
 言葉を発すれば意味は生まれる。その意味で世界を区切れば、その意味で区切られない「向こう」は生まれる。その「向こう」を論理で細分化されていないイメージで溢れる象徴の領域と捉えれば、言葉と象徴は表裏一体と考えられる。そのどちらが上でどちらが下かという問いに意味がないとは言わない。しかし、十分でもないと肌で感じる。
 象徴は根拠ある主張より説得力があるか。
 鈴木大拙さんならそうお答えになるだろうか、と夢想する。言語を介さずに世界に接することを実践するというのは私が禅に抱くイメージである。食事なども含めた生活のあらゆる面で律することを身体で学び、言葉にしない(又は言葉では届かない)教義を生きる。それが当たり前のもとして生きられるとき、その教義の存在感は強烈になると想像する。既にあるものはこれからもある。その人と共にある。それに惹かれる人も生まれる。大切な教えはこうして「語り継がれる」。
 その禅の教えを言葉にして、理性で触れられるように努められた。数少ないながら鈴木大拙さんの著作に触れたときに感じる、鈴木さんが歩まれたその道に抱くイメージである。矛盾するとも思えるその道は理性の膜で「何か」を包み、言葉をもってその硬軟を指先から伝えてくる。鈴木大拙さんが学び続けたそこに向かって投げ込まれる意味は、同時にその教えの外観を示す。禅を学んでいない私でも分かるその外観がいつもの日常との橋渡しとなって、私の世界が少し広がる(ように感じる)。文字で追っても全ては分からない。文字が繋ぐ理路に流し込んでもその重みは減らない。その全ては汲み尽くせない。象徴を生む言葉の意味の両側面を存分に活かしたように見えて仕方ない。その鈴木大拙さんならどう考えられるだろうか。言葉を手にして問いを眺め、その表裏をくるくると巡ってくれるだろうか。
 これまでかっこ書きで括ってきた小説もどきであっても(だからこそ)私の思うこと、考えることの全てを表しはしない。言葉は本当に足りない。それを承知で言葉を尽くす。そうして可能性は担保される。
 読んでいてどこか引っかかる主張は見つめ続けたい。理性をもってイメージして、分かろうと試みたい。それがどれだけ自分勝手で間違っていても、そこから始まる道がある。
 私という存在を言葉のように用いる一興。理性という台の上に乗って、この手を伸ばす。

伸長

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  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-07-21

Copyrighted
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