追憶 其の1
誰にでも残しておきたい記憶がある
昼間の蒸し暑さを冷ますような雨が夕方から降り始め、深夜の路面を喰むタイヤの音が半開きにしたバルコニーの窓から僕の寝枕迄聞こえている。呑んだ三杯の焼酎のオンザロックに酔いが回り、妻との夕餉が終わるとそのまま自室のベットに倒れ込だ僕は喉の渇きを覚えて目覚めた。
目覚まし時計の夜光塗料が午前3時を示している。暗闇に慣れた眼に向かいのマンションの常夜灯が滲んでいる。横枕でその揺れる光をボンヤリと見ていた僕は今日で72歳を迎えたが、それから眠れぬままこんな事を考えていた。
人生72年もやっていると、少なからず記憶の断片が頭の何処らやに蓄積されて行く。
しかし僕の様なボンクラ頭は勝手に其れを断捨離してしまい、この歳になると1週間前すら記憶には残ら無い。ところが歳を取ると共に、幼い日や青春の日々がやけに鮮明に甦る事がある。でもいつかは其れも記憶の彼方へと消えいく。そんな自分が暮らしてきた72年の日々の断片をそろそろ書き留めておこうと思う。所詮大作にはならない人生だか、まずは幼年時代からだ。
鎌倉の外れ極楽寺に住んでいた幼少時代、引っ込み思案の僕は幼稚園にも行かず家にいる日々だった。夕方になると母に手を引かれて踏切まで行って江ノ電を見るのが楽しみだった。
高い金属音を残してレールを滑る 2両編成の緑の電車のライトが見えなくなるまで、僕は母の手を握りながら見ていた。いつもながらの優しく柔らかい手だった。
母はいつも大学ノートに日記を書いていた。
僕は縁側に座ってメジロが庭に来るのを待っていて、そんな僕を優しい眼差しで時々眺めながら母は座敷の僅かな陽だまりで日記を書いていた。
おもちゃなぞは余り買って貰った覚えはないが、母は僕には粗末な物は着せなかった。周りには未だ青ばなをふいてテカテカになった服を一年中着ている子もいたが、冬には手編みのセーター、夏は母の着物を縫い直した浴衣などを着せてくれた。
耳鼻が弱かった僕は母に連れられて鎌倉駅近くの医者へ行くのも楽しみだった。
ボンネットが丸く突き出たバスに乗って切り通しを抜けて海岸通りを走ると、何時も僕は何処か遠い世界に母が連れてってくれる様な気がした。
この頃を思い出すと父の記憶は余り残っていない。
当時父は進駐軍関係の仕事をしていた様だが
僕が覚えているのは、海岸沿いにあった銭湯の帰り路、親子四人で稲村ヶ崎に上がる月を眺めて道路の端を歩いていた事ぐらいだ。遊んだ記憶も殆ど無くその頃の僕にとって父は離れた存在だった。
小学校に上がる年、家族は辻堂に引っ越した。
周りは砂山と松林と畑ばかりの集落のようなところで、裏山も無く、メジロもいず、オナガ鳥の嫌な鳴き声だけが松林の奥から何時も聴こえていた。
引っ越した家には小さな庭があったが地続きは一面の畑で極楽寺の入り組んだ路地の奥とは全く様子が違っていた。隣りには小さな集落があり洗濯屋か一軒あるくらいで、江ノ電もボンネットバスも無かった。僕は砂山に這うように生えた松の木に自分だけの基地を作ったり、洗濯家のガラス窓に背伸びをしておじさんがかけるアイロンを見ていたり、夕方には自転車で来る豆腐屋のラッパが寂しい音色をたてるのを聞いてたり、人々の喧騒が溢れる町からは遠く離れ、野遊び以外は何も無く、刺激の無いそんな集落だった。早生まれの僕は小学校に上がってもクラスの友達とは余り馴染めず、学校より母の居る家にいたかった。父の算盤で船らしきものを作り、それを畳に転がして遊んだりしていた。父の言いつけから、夕方には必ず熊手を持って砂と土が入り混じった狭い庭を掃除するの日課だった。小学生3年生になり父が野球ユニフォームとグラブを買ってくれたが、着のみ着のまま姿の他の子からはかえって離れた。野球チームとは言えない程の貧しい子達の集まりの中で、僕は何時も九番バッターで守りは球の来ないセンターだった。
汚れてない白過ぎるユニフォーム姿の自分だけが夕暮れの校庭にいつも取り残されていた。
進駐軍の仕事が無くなり、藤沢の不動産屋に勤めた父はその後兄の会社に入った。土木建築の仕事で年の半分はダム工事の現場に入り、家にはいない日々が続くと、父と僕の距離は更に遠のいて行った。
一歳年上の姉は相変わらず僕とは違い活発で、生来の美人顔でもあり小学校でも人気者だった。そんな姉の影を踏みながら僕は相変わらず、畑と松林や砂山に囲まれた日々を過ごしていた。
小学3年の終わりの通信簿は全て3だった。
母親面談に呼ばれた母は担任教師に、おたくの子は何の取り得も無い子だと言われ、穏やかで感情を表に出さなかった母だが、流石にその時は教師の男に怒りを露わにして言い寄った。うちの子はそんな子ではありません、優しさが取り柄なんですと。
そんなやり取りを聞きながら、僕は教室の窓の外にしゃがんで砂を何度もすくいながら、手からこぼれる自分の涙の様な砂粒を見ていた。
母を喜ばしたかった僕は江ノ島への遠足の時、磯で拾った小瓶に海水を詰め、小さな昆布や海藻や貝殻を入れて帰り ほら水族館だよと、母に渡した。
瓶の蓋を開けると腐った海水の悲しい匂いが鼻に付くだけだった。
4年生になり担任が女の先生に変わった。
とても優しい人だった。僕はその人と母を被らせていたのかも知れないが、幼心にその人には何か包み込む優しさがあった。ある日偶然見た放課後の教室の隅で着替えをするその人の白い体に僕は何かが自分の中で芽生るのを感じた。そして6年生の卒業式の後の送別会で僕は自分で作った独り芝居をやり、来場の父兄やクラスの友達から拍手と喝采を浴びた。教室の隅で目に涙を溜めた母が見ていた。僕の足元で新しく買ってもらった革靴が光っていた。
そして僕は海の匂いが松林の上を風に乗って流れてくる中学に通い始めた。海から松林と海岸道路を挟んだ旧陸軍の通信部隊が使っていた木造の校舎に、教科書が詰まって重たい帆布のバックを横掛けにして、僕は毎朝松林を抜けて通い始めた。
望洋とした海鳴りがその先に聞こえていた。
追憶 其の1