ひとをさしてまわりたい

こないとみ

───その言葉の真意はどこにある?
多分、たくさんの誰かを傷つけてまわりたいのです。
自分がこれまであらゆる所で密やかに傷つけられてきたことに対して、復讐をしたいのです。

でも!それさえもまた、誰かに否定され、密やかに傷つけられることを恐れて言うことができないのです。

私はこれまで沢山我慢してきましたのに、それに対する対価がそろそろ見合わないのです。
どうしても安心が欲しいばかりに、不安を回避するべくそのための数多の我慢を繰り返し続けたが故に、必要な我慢の値がどんどん膨れ上がってまいったのです。その値は最早その場しのぎの安心だけでは到底賄いきれない程のものに肥大してしまいました。
そして私は、ああ愚かだとあざわらってください、その有り余った分の対価が、いつかどこかで返ってくるものと信じきっていたのです。それが根拠のひとつもないことだと、愚かであったとはっきり自覚したのは本当につい最近のことです。この投資がノーリスクよりも有り余るノーリターンであったことに今更ながら気づいたのです。
いや、気づけただけマシなのかもしれません。しかしあまりに遅すぎました。

私にはその対価を取り戻すべく何をすれば良いのか、はたまた諦めきってこの愚かさへの嫌悪を抱え続けながら一生を過ごしたほうがよいのか、まったく分かりません。世の人々はどうやって生きているのですか?はじめから私ほど愚かでないにしたって、私が長らく気づけなかったことにとうに気づいて、ある程度の不安には目をつぶってきたというのでしょうか。それとも私がおかしいのですか?私が不安に目をつけすぎたのですか。ありもしない不安の芽を育て続けてきたというのですか。人々は多少自分勝手に生きても不安を感じられないほどに鈍感なのでしょうか。

それならば私の我慢に対価など与えられないことにも説明がつくのでしょう。私の不安を回避するためだけの我慢に、客観的にはなんの価値もないのですから、必要最低限『安心』さえ与えられていれば文句は言えないのでしょう。

それで私が納得するとでも?
いえ、理論としては至極真っ当だと私も思います。私の我慢は、あくまで私の為だけにされていたはずだと私自身も思っているのです。しかしもっと違うところに、私が溜め込んできたいくつもの不快感が澱のように沈みこんでいます。掬い出すことも叶わないほどたくさん、です。
私は少しでもこの澱をなくしたい。減らしたい。そのために人を傷つけたく思う。これは悪いことでしょうか。

悪いことでしょうね。私が自分自身を傷つけてきた結果、その痛みの憂さ晴らしに誰かに刃を向けているようなものです。しかしそれを分かってもなお誰かが痛みにあげる声を聴きたいと思うのです。


それが…それができたらどれほどいいでしょう。
きっとそれを本当にやってのけるような人間性が私に備わっていたなら、はじめからこんな愚かな我慢はしなかったはずです。
私はこのまま自己嫌悪と共に朽ちていくか、既に無いエネルギーをどうにか捻出して、余分にしてきた我慢の分の対価を稼いでいくしかないのです。しかも今以上の借金をしないために、我慢さえも制限して、くだらないことに傷つき、あらゆる場面で不安に苛まれながら、です。
これまでの我慢だらけの安心の中でさえ、不安は尽きませんでしたのに、私はさらに、苦しい道を何の助けも持たずに歩むしかありません。そうでなければ今までと同じ道。停滞して精神的借金をかさませていくか、借金を減らすために地獄へ出稼ぎにゆくか、二つに一つ。
私にとって我慢というものがどれほど安価で強い味方であったかが思われます。ひとつ変わればじわじわと人を殺す毒物であるというのに。ええ、きっと「安心のための我慢」というのは所謂依存性の強い薬のようなものなのです。

ひとをさしてまわりたい

どうしてつまらないことで我慢してしまうんでしょうね
あとから困るのは自分なのにね
欲しいものは欲しい、嫌いなものは嫌い、ピンチのときには助けて、と言うだけなのにそれができません

ひとをさしてまわりたい

時々タイトルのようなことを考えるときがあります そんなことが出来るほど肝は座っていませんが、じゃあどうしてそう思ったんだと考え始めたらどんどん自分が嫌になっていきますね

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-07-19

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted