産業革命

ワカメ

嬉しいとか悲しいとか、希望とか絶望とか、そんなものより、もっともっと、大きな力でして。

 三丁目を通り過ぎる。

 そうすると、水色のジャングルジムが見えてくる。数人の小学生が、ランドセルを放り捨てて遊んでいる。

 横にはステゴザウルスの遊具が佇んでいる。色の落ちた背中の板は白くなり始めていて、全体的に、もともとどんな色をしていたのかもわからない。

 時計回りに回るジャングルジムを通り過ぎ、チンパンジーの張り紙が貼られた掲示板を通り過ぎる。僕は歩きながら、杖代わりに持っていた木の棒を放り捨て、長蛇の列に並ぶ。

 ざっと見積もって、五、六十人ぐらいは並んでいるかもしれない。

 ただ、食いつながなければいけない、そのために、僕は並んでいるし、ここに並んでいる人のほとんどすべては、そんな感じだと思う。遊び半分のものなど一人もいない。茂みに潜んでいる虎みたいな目をしている。仕方がない。生きるか死ぬかだし、もう明日食べるものもない。ここに並んでいるのはみんな、そんな感じの人なのだ。

 「パンが無いなら、チョコレートを食べればいい」

 王様はそう言った。王様の正式名称は、思い出せない。ハリアリア・クリステン・フォン…なんだっけ、王様だ。みんな正式名称で呼ばないようにしている。寿限無の比ではないし、言い出したら、たぶん一分半はかかる。

 それはそうとして、パンが無ければチョコレートを食べればいいといったのは、昨今の大不況で自国で作るパンすら供給が間に合わなくなり苦肉の策として、外国から安く仕入れたカカオの木を植え、そこからできるチョコレートを食べろという意味だったのだけれど、どう考えても、チョコレートは庶民が買える食べ物ではない。

 けれども、ハリアリア国王がそういうのなら、僕たちは食べざるを得ない訳で、こうして長蛇の列を作って安く作られた粗末なチョコレートを安く買って食べるしかない。

 今までのおかずという概念は、一切なくなってしまって、あったとしても水か紅茶が隣にあるくらい、何を一緒に食べてもチョコレートの味が勝ってしまい、他には何もいらないという現象が起こり、食料品を売るスーパーもチョコレート以外の棚はすべて消滅した。

 実質的に、僕も彼も、あの人もこの人も、チョコレートを食べるほかなくなってしまったのだ。

 僕には政治がよくわからない。食うに困った僕の家族は、家から遠く離れた役所まで、チョコレートを取りに行けと僕に迫った。

 昨日までパンとか牛乳とか、食べる選択肢はいっぱいあったのだけれど、その日から急に何もなくなり、チョコレートだけで我慢しろというのは精神的に来るものがあったけれど、両親のことを思うと従わない訳にもいかず、僕はまるで強制収容所に向かう列車みたいにすし詰め状態の汽車に乗り、遠路はるばる、役所に出向いた訳なんだけれど、ついたとたんに長蛇の列で、さすがに参ってしまった。

 日傘代わりに傘を差すひと、道のわきに力なくもたれかかる人、難しい言葉を矢みたいに放ちあって口喧嘩をする人、泣く子供、諭す大人、役所の前は宇宙ができる前のカオスみたいな状態だった。

 それが、みんな、チョコレートを得るため、しばらく生きる分のチョコレートを得るため、我慢しながら並んでいるのだ。

 チョコレートって、もっとこう、やんごとなく食べて、今日もいい天気ですね、そうですね、なんて言いあいながら、笑顔で食べるものだと思っていたけれど、ここの空気はそんな楽しいものではなかった。

 「君、ここらへんで小学生を見かけなかったか」

 振り返ると、長い布を体に巻いた、いかにも哲学か何かに精通していそうなおじさんが、僕に話しかけてきた。

 「ああ、さっき、ステゴサウルスの隣のジャングルジムで遊んでましたよ」

 そうか、とおじさんは苦い顔をした。

 「いや、実はね、あの小学生たちが、列の先頭に並んでいたのだけれど、どこかに行ったまままだ帰ってこなくてね、もうすぐ販売が始まるんだけれど」

 「先に買っちゃえばいいんじゃないんですか、戻ってこない方も悪いんだし」

 馬鹿者、と僕は久々に本気で怒鳴られてたじろいでしまった。

 「あの小学生たちに了承を取らなければ、買えるわけないだろ」

 「いやでも」

 「大人がルールを守らんでどうする」

 はい、と僕が返事をすると、アリストテレスみたいなおじさんはにっこり笑い、じゃあ済まないけれど呼んできてくれ、ここは取っておくからと諭され、僕は嫌々来た道を戻ることになった。

 僕は再び道端に捨てた木の棒を拾い上げ、チンパンジーの張り紙が貼られた掲示板を通り過ぎ、来た道を戻る。

 ちゃんと人数分のチョコレートが用意してあるのか、ミルクチョコレートなのかビターなのか、カロリーメイトみたいなブロック状なのか、アルフォートみたいな半分クッキーで半分チョコレートなのか、気にしてもしょうがないような不安を感じながら、僕は公園の前までえっちらおっちら歩いてきた。

 公園は静まり返っていた。まるで初めから誰もいなかったような雰囲気だった。忘れ去られたようなさびれたステゴサウルスが対面のプレシオサウルスとにらみ合う公園は、まるで琥珀の中のように静かで、動くものも何もなかった。

 ただ、ランドセルだけは隅の草むらに転がっていた。近くにいるのかもしれないけれど、人の気配は全くない。

 僕はしばらく考えて奥のフェンスの方に歩いて行った。

 夕暮れが近かった。近くでチョコレートの甘いにおいがする。昔はカレーとか焼きそばのソースの匂いが漂ってきたものだったけれど、最近ではただチョコレートを溶かす甘いにおいしかしない。

 郷愁とかそんなものではなく、チョコレートの匂いはこの世の果てみたいな匂いに思えた。楽しみのために食事をするというよりも、ただ生きるために食事をするような、そんな冷たさみたいなものすら感じる。

 個々の人はその日のチョコレートを買うためにあくせくし、命をすり減らし、見るのもうんざりするような現実を見つめながら生きているのだと思うと、なんだか生きているのが切なくなってきた。

 ステゴサウルスでも、もし生きているなら捕まえて肉にして食べたいとさえ思えてしまう。実際には中身は空洞のコンクリート製で、とても人間が食べられる代物ではなくても食べたいと思ってしまう、自分という生き物は、そんなに薄気味の悪い生き物だったのだと思うと鳥肌が立つ。今すぐ打ち首にしてくれと思うのだけれど、打ち首は痛そうだし死ぬの怖いから勘弁してくれと思う。

 近くで子供の笑う声が聞こえる。それはフェンスの向こうから微かに聞こえた。フェンスの向こうは崖になっていて誰もいけないはずなのだけれど、確かに聞こえる。隅に小さな祠がある。狐の置物が二体、安置されていた。それと目が合った瞬間くらいに、僕の体は突然吹いてきた突風に突き飛ばされてものの見事に宙を舞った。舞ったというより吹き飛ばされた。

 そんな非科学的で超常的なこと、起こるわけないと僕はからのレジ袋みたいにすっ飛ばされた青空の中で考えていた。ふんわりと浮かび上がった僕はまた吹いてきた強い風に煽られて、落下するどころかどんどん上昇していった。

 子供の笑う声が突風のつんざくような音の中でも確かに響き続けていた。眼下には地球の丸みにくっつくように高層ビルがそびえたっていた。くるくると駒みたいに回りながら、ふと僕は、このままだと確実に間違いなく死ぬことに気が付いた。

 確かに打ち首にしてくれと一瞬願ったかもしれないが、本音を言うと全然死にたくなかったし、チョコレートが食べたかった。

 不気味にさえ感じたチョコレートの甘いにおいが今更懐かしくも感じたけれど、たぶん僕は助からないと突風の中でため息をついた。

 目の前の一面の青空はとても美しかった。綿あめみたいな雲もなんだか美味しそうだった。

 そんなことを思っている間にも、僕の体は徐々に重力に負けて地面の方に引きづりこまれていく。

 僕はチョコレートの甘いにおいが漂う地面の底に落ちていく。ゆらりゆらりと揺れながら、最終処分場で巻き上げられた紙くずみたいに、地獄の底みたいな摩天楼の中に落ちていく。

 僕は自分の身に何が起こったのか、全く理解が追い付かなかった。僕はゆらりゆらりと揺れながら、誰もいなくなったチョコレートの販売会場に着陸した、というより、落ちた。

 僕はまるで落下の衝撃を受けなかった。まるで体重など初めからなかったように、がさりと音を立てて会場に落ちたのだけれど、落ちたすぐ後に、自分の重みが重なるように戻ってきて、それから、忘れていたように、心臓がまた動き出したような感じがした。

 自分は生きていると、何度も頬を掌でさすって確認した。体の隅々が、長い間正座していたときみたいにしびれて動かず、立ち上がれずに茫然としていると、頭の上の方、ちょうど受付のあったほうから数人の子供の声が聞こえた。

 子供たちは一瞬無言になり、気の毒そうに僕を見下ろして去っていた。

 時間はちょうど販売終了の時間、夕日が山の向こうに消えて、紫がかった空に星が光りだすぐらいの時間だった。

産業革命

産業革命

  • 小説
  • 短編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-07-18

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