陶冶



 感情は創造の強い動機になる。特に苦しみや悲しみはどうにもならない感情のもつれを生み、それを直に感じている本人が上手く把握できないために何かの形でそれを表し、表し続けても届かない飢えのようなものを人にもたらす。この飢えは創作に注がれる膨大なエネルギーを生む。今も読み続けられる名作が色褪せない理由は形になったエネルギーが汲み尽くされることなく、しかも個人的なはずの苦しみや悲しみが一切誤魔化されないまま表現され、誰にでも届く普遍性(というより匿名性か)を獲得しているからと考える。
 表現されたものと作り手が向き合う時間が創作には嫌でも生じる。その時間は作り手が表したい苦しみや悲しみと取っ組み合った格闘の証である。格闘と喩えてみたけれども勝つ必要はなく、闘う相手となる「それ」にただ飲まれるだけでも構わない。表現できたものを見つめる自分自身を忘れてはいけないと考えるからである。表現で自分を救い、それをそのまま他人に差し出す。そこで勝負する。そういう覚悟をどの表現者も持っていると筆者は思う。だから尊敬する。密かに「すげぇ!」と称賛する。
 しかし他人の目は冷ややかだ。路傍の石として表現が堆く積み上げられても可笑しくない。
 それなのに他人の関心を掴み取り、「他人事」という皮膜を剥がさせてしまう程に強く残る印象を焼き付ける表現は確かに存在する。そこには一体何があるのだろう。
 智美術館で三輪龍氣生氏の展示が開催中である。不勉強な筆者は氏のことに関する知識を持っていなかった。氏が表現に用いる陶器全般についてもそうで、その形や陶器に描かれる絵や模様の良さといった部分部分に目が向いてしまう。また持って見なければ分からないとか、使ってみなければ分からないとか頭でっかちな言葉に引っかかってしまい、陶器という表現全体に対して抱く良さを自分の中で上手く抱けない。そういう苦手意識が今もある。そんな筆者が氏の作品を見に行こうと思った理由は氏が手がけた作品のインパクト、グロテスクともいえるエロティックさにある。
 モチーフは反道徳的又は非倫理的であればある程、表現に内包される刺激が強くなる。その刺激により今までなんとなくで引かれてきた日常の境界線を書き換える。その結果、今まで隠されてきたエリアに存在する価値や問題に気付ける。社会的に意味のある行為としての表現が有する真理の暴き方だと考える。変わっていて当然、奇妙上等。そこを疑わずにして何になる。そういう気勢を作品から感じる。
 氏の作品にもこの一面がある。男女を問わずにその性的象徴を真剣に又はコミカルに用いて氏は身体の快感を肯定する。し過ぎると思い、思わずそこから目を背けたくなるぐらいに数多く用いる作品もある。理性的な判断が躊躇うそこ、「私」という意識作用が忘れがちな肉体を持った存在という自然な事実を氏は肯定する。例えば国際的な展示会に置かれることを拒否された作品が並ぶけばけばしい異様は、しかし人が生きるための循環の果てに行われる大事な排泄を受け止める。そのために作られた人工物を手がけた氏が堂々と胸を張って表現する。
 その威容に圧倒されて各作品を見つめる時間はそのうちに細部に目が移る。神は細部に宿るという有名なフレーズを引くまでもないその色気は、最初に出会う神に冠されるそれに施された可愛らしくもある花の佇まいであったり、または目隠しされる女性の頭部に流れる外ハネの髪の美しさ、キュートな唇であったりする。さらには摩利耶の女性を彩る艶めいた乳首を冷まし、異性として感じた疚しさを消しゴムで消したくなるような滑らかで綺麗に焼かれた青の身体として現れる。
 紹介文にもある「萩焼の名門陶家に生まれ育った」氏の経歴から、伝統に則った技法が氏の手にとことん浸透していることが想像できる。実際にその作品を目にしても、そのモチーフの激しさを支える技術の背骨の湾曲を感じるときが少なくない。陶器に苦手意識を持っている筆者が決して口に出せない「昇華」という言葉を何度、氏の作品の手足や乳房、性器に掲げようとしたか知れない。
 氏の作品の魅力はこういうところにある、と筆者は言いたい。一見するとユニークな『祈り』は鑑賞する側がその視線を追いたくて(細心の注意を払いつつ)その場でしゃがみ込み、その姿を横から見上げたときに筆者はそのタイトルの意味を知った(と強く感じた)。両側面に表れる表情は純朴で、左右で色を変えるその様子は間違いなく祈りを捧げている。勿論、言葉は聞き取れない。そしてその先には「本当に」何もない。陶器の作品として何も変わらないその一連の最後が愛おしくて仕方なかった。憐れみなんてものでなく、心を打つ感動として。
 『供戦国武将』の各作品は茶器を彷彿とさせた。いや説明文に紹介されているとおり茶器で間違いない。間違いないけれど、作品として伝えるものが物としての茶器ではない。それは華やか死であり、刹那的な時代の覚悟が金色を纏い変形しつつあるものとしてそこにある。
 また具象を用いた抽象的表現と筆者の目には写った『終炎2』が火の若々しい様子と、燃え尽きて硬くなった三角形の大部分を表に出して巡らない終わりの火の粉を伝えてくる様(さま)を振り払えなかった。何を思って氏はこれを表したのか。自然を捏ねて思い描く形にして、火にくべて完成させそれを名付けるまでに、氏はいかほどの闘いを経たのか。展示された作品を見終わった後で余計な想像をせずにはいられなかった。
 現れた表現内容にあるインパクトが生じさせる人の関心という動きは、寄せては返す波のようなエネルギーを持つ。そのエネルギーが巨大であればある程に引き寄せるものの種類や量も増えていく。波打ち際の砂のように内に引き込むものも増えていく。そのうちに作者が思いも寄らない形で剥き出しの「本音」という地層も露わになるかもしれない。しかし注目すべきは「それで、どうする?」という点ではないかと考えてみる。表現者は露わになったものをそのままに晒して自然と風化させるのだろうか。それとも、その上に更なる塗り重ねを施して煌びやかな人工灯で常時照らし続けるのだろうか。そもそも、表現者はそれだけのために苦悩を表現したのか。それだけのためにあんな見事な表現をし尽くしたのか。
 翻って誰かに読まれることを強く意識すれば今もこうして書いている筆者のこの「冷静さ」を保つことは徹底的に行える、のだろうか。考えたい、書いてみたいと思った最初の熱はすっかり失われていないか。
「私はこれに納得できるか?」
 見られて完成するのが表現である。その見られ方は幾つあってもいい。表現者が予期しない、思いも寄らない見方を見る側が行い、表現の新たな地平が切り拓かれていい。そうやって表現は双方向に深まる。その表現の凄さを推し量る広場が生まれる。
 では、これらの深化又は拡張に耐えられる表現が有している潜在性をもって「美」と評していいだろうか。作者本人の性格や信条などに関係するスタイルの違いは言葉による表現を雑多なものにしてより豊かにすると筆者は信じる。しかし、その豊かさの中にも貫かれる一本の芯は確かにあると感じる。作品によって「感じさせられる」。この感覚は、潜在という言葉に抱く筆者のイメージと合致しない。
 その一本の芯は遠くを見つめる視線に通じる。その始まりにある者。揺るがないもの。その見つめるところにいるのは「誰」なのか又はあるのは「何」なのか。
 哲学的考察の対象になる「美」という表現を用いるのが怖い。しかし、氏の作品を思い出す度に否が応でもその外縁に触れていると錯覚させられる。「美」を知れるなんてこれ微塵も思わないのに、そこに成り立っているものに適した言葉が思い付かない。ため息一つ、目蓋を閉じて暗がりの中から思い出される赤い鶏冠の主のその目。蠢く雌雄の象徴に中てられた、筆者はこうして生きている。「麗しい」と書いては消し、「見惚れた」と書いては首を振り。
 何も考えず。美しい、と言ってみたくて。

陶冶

陶冶

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-07-18

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted