とある男の複雑怪奇

16

今日は、最高の一日だったんだ。最高なんて言っても、別に大それたことじゃない。宝くじに大当たりしたとか、とんでもなく好みの美女に告白されたとか、世界の多くの人間がそう経験できないようなことが起こったわけじゃあない。ただ、学生時代から久しく会ってなかった友人たちとようやく都合があって、夜の街、俺の一番お気に入りの店で一緒に酒を飲み交わして、思い出話に花を咲かせたってだけ。広い目で見れば、ほんの些細な幸せだろ。けれど、神に誓ったっていい。俺にとって今夜は、本当に最高の一日だったんだ。あんたもこういう気持ち、わかるだろ?とにかく最高。懐かしい仲間と語らって、飯を食い酒を飲み、夜の空気をゆっくり吸いながら、ほんの少し酔っぱらった足で家に帰る。小さなことだけど、仕事の連中との事務的な会話や不健康な食事を続けていた俺にとって、下手なセラピーなんかよりリラックス効果があったと思う。あ、俺に恋人か妻がいたのなら、もしかしたら死んでもいいくらい最高だったかもな。俺が家に帰ると、愛しの女性が寝室で静かに眠っているんだ。俺はただいまを囁いて、彼女の額にキスをする。さっさとシャワーを浴びたら、同じベッドで彼女を抱きしめ夢の中さ。最高だね、はは。

なんて、ほんの数分前に考えてた俺が馬鹿みたいだ。いいや、ちくしょう、『みたい』じゃない。完全に馬鹿だった。明らかに馬鹿。完璧な馬鹿。何がいけなかった?妄想過多か?ああ、それには俺も自覚がある・・・。でも待てよ?妄想はするだけなら罪じゃないはずだ。俺は無罪だ。罪ならあいつだ。ていうか誰だ。あいつ、どこへ逃げやがった。畜生、痛い。血が止まらない。いや、痛みはどうにかなってきたかもしれない。それより、少し前からなんだか寒くなってきたんだよ。なのに腹からどろどろ、温かい、なんだ?だから血だよ。赤い血が、ああ、どうしてくれんだクソ野郎。なんで俺がこんな目に合わなきゃならない。寒いのに汗が止まらない。口の中が錆び臭い。もう、酒も料理も味を忘れちまった。台無しだ、クソクソクソ、起き上がりたいのに、叫び出したいのに、なんにもできないんだ。俺の身体だろう、言うことを聞けよ役立たず。俺の腹を刺しやがった顔も知らないイカレ野郎をとっ捕まえてぶん殴ってやるんだ早くあいつを探さないと誰かを呼ばないと助けてもらわないと嫌だ嫌だやだやだやだこわいたすけて

「死にたくない・・・」

人間というものは、危機に晒されてこそ力を発揮することがあるそうだ。この男、チャールズ・マカスキルも、どうやら例外ではないらしい。彼の幸運だった点は3つ。ひとつ、暴漢に刃物で襲われ、大量に血を流していたこと。ふたつ、彼はまだ若く、その血が健康だったこと。最後に、彼が襲われたのが夜で、なおかつ人気のほとんどない路地裏だったこと。以上である。この文章だけでは、一体彼の何が幸運なのか、ひとつとして伝わりはしないであろう。しかし、幸運とは様々な角度から覗いてみなければ、理解できないものも時としてあるものだ。様々な角度・・・例えば当人の価値観、目的、好みや性格等など。何をもって幸運とするかは、当の本人、ここではチャールズにかかっているのだ。

「可哀想に、もう死ぬ寸前よ」
「本当、可哀想」
「顔が真っ青、ああ可哀想」

風が囁くような、女の声だった。彼女らは口々に、同じ言葉を自身の足元へ落としていく。3人の足元には、その身から流れた、わずかな月明かりを反射させる血だまりの上に、一人の男、チャールズ・マカスキルが意識朦朧といった様子で倒れている。しかし、女たちの視線は倒れている彼ではなく、彼の腹からあふれ出す温かな血液に注がれていた。女の一人、チャールズの頭のある方向に立っている、栗色の巻き毛に赤いコートをまとった奴が言った。

「彼ったら、とても美味しそう」
赤色の目がキラリと光る。今度は胴体の方向に立つ切れ長の緑目の女が言った。

「それに、よく見るとカッコいい」
黒髪のショートヘアがかすかに揺れる。今度は足元にいる、赤毛のストレートヘアの女。

「見てるだけでお腹がすいちゃう」
オレンジ色のコートを纏った身を震わせ、女は笑う。
女の笑った口の端からは、今にもこぼれそうな唾液が光っていた。赤毛だけではない、栗毛の女も黒髪も、ただ赤毛よりも顕著でないだけで、つやりと輝く口紅で彩られたそこから、化粧品によるものでない光が見て取れた。

「スー、あんた涎が垂れてるわよ、はしたない」
「チー、あんたもおんなじよ」
「あんたほどひどくないけどね」
「何よ、クーまで」
女三人よればかしましいとはまさにこのこと、彼女らは息も絶え絶えのチャールズをよそに、甲高い声で喚き始めた。スーと呼ばれた女は、子供のように顔を赤くして怒りをあらわにしている。猫の毛のように細い赤毛も霞んで見えるほどだ。その様子に、栗毛のチーは呆れたように、黒髪のクーはさも面白そうな笑いを漏らす。スーの幼稚さは、どうやら彼女たちにとっては慣れたものらしい。
しかし、自身を囲むようにして行き交う彼女らの声を鬱陶しく思う余裕など、チャールズには少しもなかった。というか、このとき彼の耳にその声が届いているかどうかも怪しかったのだ。痛みと出血、それに伴う寒さ。それらが容赦なくチャールズの意識を蝕んでいた。

「それで、この男をどうしようかしら」
三人の中でもっとも細く、どこか少年のような響きを持った声、クーが言った。
「放っといてもどうせ死ぬんでしょう」
女性的だが太く、ハスキーな力強さを持った声、チーが素っ気なく言い放つ。
「でも、それだけじゃあもったいないわ」
幼さを感じさせる、どこか鼻にかかった高い声、スーが提案するように言う。

スーの声に、三人は一斉に目配せをした。チャールズの身をどうするか。女たちは、すでにそれを決定しているらしい。たとえ、彼の意志がどうあろうとも。
チャールズの胴体のあたりに立つクーが、その新鮮な血溜まりに緑色のハイヒールを踏み入れる。そして、いまだに出血の止まらないその腹と地面の間に、容赦なく足を突っ込んで、彼の身体を仰向けに転がした。
チャールズはその身に走る衝撃すら、あまり自覚できないらしい。焦点の合わない視線を、女たちともなく空ともない、どこか虚空へ投げていた。ただ、彼女らの存在はすくなからず認識しているらしい。時折、語り掛けるように唇が動くが、あまりにか細い声は喉が鳴ったようにしか聞こえなかった。
「あなた、なんて名前なの」
ぐったりと力の抜けた身体を持ち上げたのはスーだ。彼女はオレンジ色のコートの袖口が汚れるのを気にする素振りもなく、女の細腕とは思えぬ力でチャールズの襟首を引っ張り起こした。
「そんなこと言ったって、答える元気もないわよ」
スーの様子に呆れながら、チーは巻き髪をいじりつつチャールズを覗き込んだ。氷のように冷たく細い指で彼の頬をなぞると、彼女は恍惚と微笑む。
「人間って、本当か弱いわね」
それを自覚しながら彼を蹴り転がしたクーも、二人に並んで彼の顔を覗き見ていた。彼女もまた、恍惚とした微笑みを浮かべている。チャールズの虚ろに開かれた目に、彼女らの六つの瞳が捉えられているのか否か、彼は蚊の鳴くような声で呟いた。
「助けて」

彼女らの赤と緑と橙の瞳が、にやりと三日月形に細められた。



・・・・・・



首筋の辺りが、じくじくする。そこだけ熱を持っているみたいだ。子供の頃、何歳だった?まあ、それはいい。とにかく昔に、思い切り砂利道で転んでできた、あの酷い擦り傷が化膿したときみたいだな。痛痒くて、膿が気持ち悪くて、すごく嫌だった・・・。あの時は間抜けな自分を呪ったもんだが、まさか大人になってからも派手にすっころぶとは。いや、でも待てよ?転んで首筋を怪我するものか?ないだろ。どんなエキセントリックな転び方だ。しかし、転んだ先に障害物があった可能性も否めないな。それよか、目が霞んで仕方ない。気分が悪いわけではないが、なんでこんなに視界が変なんだろう。電子機器の使い過ぎってやつか。近々、眼科に行った方がいいかもな。
・・・・・。待てよ、眼科より先に行くべき場所があるんじゃないか?おい、この間抜けめ。なにを悠長に寝てるんだ!!そうだ。俺は刃物で刺されて倒れていたんじゃないか。せっかく気分よく一日を終えようとしていたのに、どこのどいつか知らないが、俺を刺して金を奪いやがったんだ!!とにかく、そいつに一発くれてやらなけりゃならん。丁度いい、視界も晴れてきた。起きられるってことは、意外と傷は浅かったんだ。近くに警察署があったはずだ。まずは、そこに行かなければ・・・。

「・・・・・なんだ、あんたら」
「「「あら、お目覚め?」」」

ふと目を覚ますと、酷い寒さと痛みは引いていた。刺されてから意識を失うまでの記憶があやふやだったが、それ以外、特に問題はない。結構な衝撃に感じられたものだが、ナイフはそこまで深くは刺さらなかったらしい。人間の身体は、想像よりはるかに頑丈にできているようだ。とはいえ、刺されたことに変わりはなく、財布も盗まれてしまっている。どのくらい時間が経っているのかは検討もつかないが、まずは警察に助けを求めなくては。そう思って身を起こした俺を、赤、緑、橙の派手なコートを纏った女が3人、いたって冷静に見下ろしていた。

「よかった。もしかしたら、死んだのかと思ったわ」
俺の言葉に対する返答をするつもりがあるのかないのか、真ん中に立った赤コートの女が無表情に言い放つ。生きているのか定かではない人間を目の当たりにしていたわりに、いやに冷静な女だ。
「でもこの様子なら平気そう、本当によかった」
次いで橙色のコートの女が、これでもかというくらいに顔を寄せてくる。声色と同様に幼い印象を受ける顔つきだが、香ってくる香水から子供じみた甘ったるさは感じられない。赤コートよりも冷たい印象は受けないものの、しかし、こいつも質問に答えないのは同様だ。俺は無意識に残った緑のコートの女に視線を向ける。助け舟を求めている俺に気づいた彼女は、少し呆れたように微笑んでから口を開いた。
「ただの通りすがりよ。倒れてたあんたに、ちょっとだけお節介を焼いてあげたの」
透き通った少年のような声で、彼女は言う。なるほど、傷の痛みが引いているのも、意識が戻ったのも、どうやら彼女たちのおかげらしい。
「そうだったのか。ありがとう」
怪しい集団だと思った自分が恥ずかしい。年若い、ましてや女性にとんだ面倒をかけてしまったことを、俺は申し訳なく思った。しかし、まずは犯人の特定に急がなくてはならない。その場に立ち上がろうと石畳の街路に手をつくと、水たまりに手を突っ込んだ。最近、雨なんか降ったかな。だが今はそちらに気を取られている場合ではない。
「実は暴漢に襲われて、それで倒れていたんだ。君たちのおかげで平気だったみたいだな。ええと、この辺で怪しい奴は見なかったか」
濡れた手をジーンズで適当に拭いながら、俺は早口に彼女らに言った。返答しだいではさっさと話を打ち切って警察署へ駆け込むつもりだったが。
「私たちがここを通るころには、あんたは一人で倒れてた」
「とっても辛そうだったわ」
「見つけたのが私たちでよかった」
緑、橙、赤がほとんど同時に話すもんで、何が何だかわからない。しかし、彼女らが俺以外の人間をこの辺りで見ていないことは確かなようだった。
「おかしな輩もたくさんいるのよ」
「今に始まったことじゃないけどね」
「あんたは美味しそうだもの」
だから、もう話を切ってここを離れたい。それなのに、俺が言葉を発しようと一呼吸すると、彼女らはまだべらべらと捲し立てるように話を続けた。おまけに話の論点がずれている。美味しそうってなんだ。暴漢の次は強姦か?
「中には持ち帰ってペットにする輩もいるし。でも私、ペットはスーで十分」
「変態がいるのはどの生き物も一緒よね。私の知り合いなんてね・・ちょっとクー、誰がペットよ」
「血の良し悪しと容姿って関係あるのかしら?あんたは見た目も結構イケてる」
「あらごめんなさい、だってあなたってば仔犬みたいで可愛いわ」
「私はあんな風にキャンキャン鳴かないわ!!でも可愛いっていうのはうれしいかも!」
「黒髪の男ってセクシーよね。あんたは瞳もすごく素敵」
「けど、ペットにしたくなる気持ちもわかるわ。あんた魅力的よ」
「そうそう、それで私の知り合いよね、そいつはね・・」
「スー、もしかしてあのペドフィリアの話??」
彼女たちのおしゃべりは止まない。口紅で彩られた唇は、まるで機械仕掛けのように動き続けている。
いち男として美女に褒めてもらえるのは大変光栄なことだが、俺は変態のペットになりたくはないし、第一その話には興味がない。
「待ってくれ!!あんたらなんの話をしているんだ!??」 

少し大きめの声でそう言うと、意外な程あっさりと彼女らの声は止んだ。六つの瞳が一斉に俺を見る。
「俺は自分を襲った犯人を捜したいんだ。それで、あんたたちはこの辺で怪しい奴は見なかったんだな?それなら、それでいい。俺は近くの警察署へ行く。介抱してくれて助かったし、褒めてもらったことも、嬉しい。本当にありがとう。だから、俺はもう行くよ。もう夜中だし、女性だけで歩くのだから気を付けてくれ」
先ほどのトリオの合唱と同等程度に捲し立てる俺を、相変わらず彼女らはきょとんとした表情で見つめている。状況についていけない、という表情だが、それはこちらも同じだ。彼女らにはついていけない。もしかしたら、起きた衝撃で今に傷が悪化するかもしれないのだ。いい加減構っていられない俺は、路地を出るために明るい方向へと歩き出した。
その時だった。三本の腕が、俺に向かってぬっと伸びる。
「必要ないわ」
右腕を掴まれた感触に反射的に振り返ると、赤コートが笑っているのか無表情なのか、とても奇妙な表情で言った。同時に視界に入ったのは先ほど水溜まりに突っ込んだはずの、けれどどうしてか血まみれの右手。
「どこに傷があるっていうの」
「どうして暗闇で私たちが見えるの」
緑と橙が口々に呟く。傷はきっと腹にある。痛みも何も感じないけれど。目は・・・元から視力は良い方だ。きっと、そうだからに違いない。俺は腹の辺りをまさぐる。見ると、おろしたてのシャツの左側、肋骨に近い部分に赤黒いシミが大量に付いていた。シミはじっとりと嫌な湿り気を帯び、噎せ返りそうに生臭い、錆に似たにおいがする。想像を絶する出血量に、俺は思わず青ざめた。だが、シミの辺りをいくら触っても痛みはない。俺は女性の前だということも忘れ、引きちぎるような勢いでシャツの前を開いた。

傷がない。ほんの数センチの跡も。

俺はあまりに非科学的なその状況に言葉も出ない。女たちの方を振り返る。ほんのわずかな光しか届かない路地の中、女たちの色白な顔や透き通った瞳の色、異なった質を持つ髪の毛の一本一本が、判別できる。その背後にある街並みも、俺たちを挟んで建つ煉瓦づくりの衰えた部分までも。
何故か首筋が、じくりと強く脈打った。

「助けを求めたのはあんただった」
「地面の血溜まりはさすがに飲まないけれど」
「あんたが人間のままでもデートに行きたかったかも」

赤、橙、緑が捲し立てるように語る。
俺は熱を持つ首筋にゆっくりと触れる。
首筋には、今だ開ききった二つの穴。

「ヴァンパイアの姿はもっと色っぽいわ」
「私もデートに行きたい!!」
「なんならこれから行きましょう」

かしましく動く彼女らの口に、きらりと輝く牙が覗く。
乾ききった舌を運ぶと、口内に鋭いそれがあることに気付く。
彼女らの六つの瞳が俺を捉える。ああ、なんて

「断る」

なんて最低な一日なんだ。

とある男の複雑怪奇

とある男の複雑怪奇

なんて最低な一日だ!

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-07-17

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