柿の木2

16

雨の降る日だった。つい最近までよく晴れて温暖だったというのに、その日は嘘のように気温も下がった。私の暮らす地域は一日中霧が晴れなかった。朝から降り続ける雨の音を聞きながら、朝食のデザートのヨーグルトを食べる。居間には祖母が毎日楽しみにしている韓国ドラマが流れ、男女が何やら激しくもめていた。その画面をぼんやり見つめる。実に平穏な土曜日の朝だ。
「おはようございます。文子さぁん」
玄関の扉が開くと同時に、祖母を呼ぶ声が居間まで聞こえた。祖母は忙しそうに「はい、はい」と言いながら座っていた座布団から立ち上がった。近所の人か誰かだろう。朝から祖母を訪ねて人が来ることは別段珍しいことでもないので、特に気にしない。前回の内容を知らないため頭が追いつかないドラマに視線を向け続ける。ヨーグルトはそろそろ食べきりそうだ。
「お家の前、猫が死んでるわよ」
ドキッと、心臓が激しく脈打った。祖母の驚愕の声が聞こえる。スプーンを動かしていた手が思わず止まった。そこまで大きな声で話しているわけではないので、話の全貌は聞き取れない。

「黒い縞模様」
「轢かれてた」
「森内さんの家の」

ばらばらの言葉が耳に届くが、私にはそれで十分だった。轢かれたのは、どうやら幼なじみの冷香の家の飼い猫のようだった。しばらくすると、顔も知らない来客は去り、祖母が居間に戻ってきた。

「みゃあちゃん、轢かれて死んじゃったって」

私の予想通りの言葉が、祖母の口から発せられた。


・・・・・


私は食べかけのヨーグルトをテーブルに置き、すぐに自室で適当な服に着替えて玄関へ出た。相変わらず雨が降っていたので、傘を手に持つと居間から祖母が顔を出す。
「冷香ちゃんのお家の方に言わなきゃね。まずは猫をタオルかなんかに包んであげましょ」
祖母は家のタンスから古くなったタオルを2、3枚引き出し、私と共に外へ出た。家の前の道路へと続く石畳の通路から、すでに猫は見えていた。雨に濡れた道路に横たわり、ピクリとも動かない。すぐ近くまで来て見下ろすと、猫は目と口を開いたままだった。本当に死んでいるのだと、そこに来て理解した。口と足から血が出ている。
「かわいそうに」
祖母は道路にタオルを敷いて、猫をその上に移動させた。私は古い布に包まれた猫を持ち上げ、段ボールの中へと入れた。華奢で小さい猫のはずだが、すごく重く感じる。
「動物に食べられると悪いから、あそこに入れとこうね」
祖母に言われるがまま、ごく近くの冷香の家の車庫まで歩き、その中へ段ボールを置く。祖母はすぐに家へ引き返そうとした。
「私はもうすこし見てから帰る」
祖母に伝えると、彼女はうんと頷いて帰っていった。私は地面に置かれた箱の前にしゃがみ込む。
冷香は一軒はさんで隣の家に住んでいる。同い年なので彼女も今頃春休みだが、今日は午前中は買い物に行くと言っていた。そのため車庫に車はないが、昼からは家に呼ぶ予定だった。
冷香の飼い猫は外にも自由に出入りできるようにされていた。そのため、いつ事故が起きてもおかしくはなかっただろう。近所の人には何故かみゃあと呼ばれていたが、本名はジャズだ。人懐こくて、誰にでも鳴き声をあげてすり寄ってきた。結構な年齢のはずだが、黒い縞模様の身体は昔から変わらず華奢でスラリとしている。薄黄緑の瞳がビー玉に似ていると、冷香と話したことがある。愛らしく、美しい猫だった。
そんなジャズが、もう二度と甘えた鳴き声をあげず、濁った瞳を雨で濡らす死体となってしまった。私は飼い主ではなかったが、この美しかったメスの猫を轢き殺した奴が許せなかった。轢き殺したことはまだいい。冷香本人も、事故が起きる可能性に対しては想像できていたことだから。それを承知の上で放し飼いにしていた。ただ、首輪をつけている、明らかに飼い猫である彼女を見て周囲に言及しないことに腹が立った。飼い主に報告し、責められることが怖かったのか。理由は知らないが、とにかくそいつは面倒だったのだろう。だから無視して逃げ去った。
私だって虫やカエルを殺した経験がある。そしてその事を誰かに言及しなかった経験も。我が子を殺されてそれらの生き物の親兄弟は悲しんだだろう。それを考えたら同じことではないかとも思った。だからこんなことは考えてもきりがないのだろう。たぶん、思い入れの深さで感情は変わるのだ。

私は冷香の家の車庫で、まだ温かいジャズを撫でていた。



・・・・・・



どのくらい時間が経ったかわからないが、冷香が母親と共に帰ってきた。その時には、私は家に入っていた。
「森内さん、帰ってきたわね」
祖母が窓の外を見ながら言ったので、私はうんと頷いた。そして、二人で一緒に外へ出た。雨はもう止んでいる。

「あ、月子だ。ただいまぁ」
冷香は車から降りると、にっこり笑って私に手を振る。私は「おかえり」と返事をし、冷香の母親にも挨拶した。祖母が冷香の母と共に荷物を置きに車庫を出る。
私は少し緊張しながら、ジャズが事故死したことについて冷香に話し始めた・・・。


・・・・・・



冷香の反応は意外にもあっさりしたものだった。
「そうなの。でも、ジャズもおばあちゃんだったし、轢かれていなくてももうすぐ死んじゃってただろうね」
そう一言言ってうふふと小さく笑ってから、彼女はジャズを埋めに行こうと私の手を引いた。なんだか私は拍子抜けしてしまったが、飼い主である彼女はジャズの死や事故のリスクに対しての心構えが十分にできていたのかもしれない。私は森内家の車庫に置いてあった園芸用品のスコップを持ち出し、冷香がジャズの安置された段ボールを持って車庫を出た。
「どこに埋めるの?」
湿っぽい空気が流れる外を見渡しながら、私は聞いた。すると冷香はそういえばという風に目を丸くして、歩みを止める。キョロキョロと首を左右に振ると、彼女のセミロングの髪の毛も揺れた。
「柿の木の下はどうかな」
冷香は車庫のすぐそばにある柿の木を指さした。この柿の木は森内家の敷地内にあるものの、いつ誰が埋めたのか、近所の人々も把握していないのだった。それほど昔からあったのだろう。毎年実るのが不思議なほど、その木はやせ細り、弱々しかった。
「この木に、ジャズはよく登ってたよね」
冷香の声に私は頷く。ジャズはたびたび柿の木に登りくつろいだり、老人の肌のように乾いてごつごつとした幹で爪を研いだ。何を話すでもなく二人でそんなジャズを眺めた日を思い出す。轢き逃げをした犯人への怒りが、私の胸によみがえる。

ここの敷地は森内家のものだ。誰も文句など言うまい。私は冷香の前を行き、柿の木に向かって歩みを進めた。
「どの辺?」
「どこでも。とにかく、木の近くならいいんじゃない」
言い出しっぺのわりに適当な冷香の一言に内心苦笑しつつ、彼女の言う通り適当な地面を掘り始めた。冷香も段ボールを置いて私に続く。
ちらりと冷香を見ると、なんの印象も感じられない表情をしていた。彼女の私に比べて明るい色をした瞳は、ただただ雨で湿った地面を捉える。伏せられた目は一定の間隔でまばたきを繰り返し、唇は引き結ばれたまま開かない。こんなにも無表情な冷香を、私は見たことがない。
「何」
冷香はこちらに気付いて、笑った。
「スコップ、そんなに似合わないかな」
それでも、彼女の顔からは何も感じられなかった。



・・・・・・



「終わったあ」
冷香が腰を伸ばしながら、何か大きなことをやり遂げたような勢いで言った。たぶん午後3時になるくらいだろう。私は小腹がすいていた。
ジャズを埋めた場所は雑草が不自然に掘り返され、こんもりとしている。まあまあ不格好なお墓だった。私たちは冷香の家の庭からツツジの花をもいで供えた。濃い赤色をしたツツジは、どこか炎を彷彿とさせる。
「柿の実、今年はたくさん生るかもね」
冷香はお墓を見下ろしながら言う。
「だったらいいね。けど、寂しいね」
その一言に、私はいよいよジャズの死に対する冷香の心に触れるような、そんな言葉を放った。別段意識したわけでなく、なんとなしに言ってしまったというのが正しい。私はジャズが死んだことが悲しかった。しかし、飼い主である冷香を思うと、私がそれを露呈するわけにはいかないと感じていた。
しかし、今までの冷香の反応といえば私を裏切ってばかりである。それでも、彼女は私を前に気丈に振る舞っているだけという可能性もある。冷香の心に触れたかった、真意を知りたかったというのは後付けだ。

それでも、私は裏切られた。冷香は何食わぬ顔で、私に微笑む。
「柿の木は黄泉に繋がっているんだって。漫画か何かで読んだよ。だからね、何度だって会えるわよ。ここに来ればなんにも寂しくないわ。平気よ、大丈夫よ、月子」
漫画かよ、と私がツッコミを入れると、冷香は声を挙げて笑った。無表情な瞳だった。それから私の家で二人でおやつを食べたけど、冷香の瞳は私の記憶の中にある、愛らしい無垢な少女のような様子で笑わなかった。ジャズの死が彼女にもたらしたものを、私はゆっくり噛みしめて、そうして春休みが終わった。

その年の秋、柿は例年よりも多くの実をつけた。

柿の木2

柿の木2

実体験を元に書いたものです。 ペットの死の描写があります。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-07-17

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