真夏の怪物

無鳴 愁


「覚えていますか」
「あの日を」
「青空の半身を支配した黄昏の暴虐に息を呑み」
「死にたい、と思った日を、覚えていますか」

以前書いた自分の遺書を読み返すと、そこには終末のない世界が広がっていた。

──真夏の怪物に抱きしめられた私の命は、きっとそう長くは持たない。





夢のような色をした蝶の羽が折れるその瞬間にしか、私の心臓が鼓動することはありません。
美しいものは死ねばいいのです。
醜い者から先に淘汰されていく世界を作った神様こそ、本当は最も醜い容姿をしていたら良かったのに。
もし本当にそうなら、どんなにか世界を愛せることでしょう。
風に揺れる桜の木々を見て何となく「消えてしまいたい」と口にした春、父は私を宥めながら言いました。
『世界が美しいことをまだ知らないだけだよ』
と。
私は耳を疑いました。
包み隠さず言ってしまいましょう。
道行く数人は振り返ってしまうほどの醜男から発される言葉とは到底思えなかったからです。
そのとき落書きのような顔に青い痣が息をしているのを見て、また私は泣いたのです。
『美しくたおやかな物語ほど早く終焉を迎え、目覚めない標本となってしまいますね』と。
永遠病棟の屍、病的なほど白い向日葵。
きっと私たちは永遠に孤独を強いられる存在なのでしょう。



──病室1059番地。




隣人は今朝ついに怪物になりました。
私が目を覚ますと魔獣の咆哮が轟いていました。
カフカのようだね、と医師は笑いました。その手には漆黒のメスが握られ、罪のない小説をビリビリに裂いています。人一倍視力の良い私は、床に零れ落ちていく物語の欠片に『愛してる』と言葉が書いてあるのを見ました。たった一つの言葉。されど一つの言葉。私は、そこに哀惜を感じずにはいられませんでした。
禍々しい隣人は医師たちに鎖で押さえつけられ、悲鳴のような咆哮を上げ続けていました。普段優しい言葉を叩き売る看護師も、両手に青の冷気を潜ませて笑っていたのです。点滴の雫だけが生命の鼓動を記憶し続ける、闇に満ちた白。私たちの命を絶えず見張り続ける天井の白は、本当は血生臭い赤黒色なのでしょう。世界の縮尺に対してどこか精神の部位が足りない、あるいは出っ張りすぎた者たちの悲鳴を塗り潰すような、そんな白でメッキを塗って。
私は、彼が医師たちの手でそのまま絶息する姿を目にしました。
事実は小説よりも奇なりという言葉通り、何とも惨劇的な朝でした。
『もっと上手く生きられたら良かった。神様にもお母さんにも世界にも愛されるような、そんな大人になりたかった』
昨晩、縋り付くように叫んだ彼の最後の言葉を、私はずっと忘れないでしょう。
私たちの生も死も文学にはなれません。
無数にある千羽鶴の、たった一羽にもなれません。さよならだけを愛していました。
世界に存在しない愛を信じていました。
この病院に神様はいません。世界に存在してはいても、患者たちを愛することは決してないのです。
黒色に潰され、死を予期した彼の手を握り、私が掛けられる言葉など一言もありませんでした。

まるでここは死者の病棟です。
あるいは世界を持てない奇形児たちの処刑場です。

そんなことを考えながら歩いていたとき、私は廊下で歌を口ずさむ男の姿を視認しました。
「──もう泣けますか。貴方、自分のために涙を流せますか」
何度血を吐いてもラブソングを紡ぎ続けるその終末患者の名は、“孤独”です。
『社会に適合するというのは、青く美しい原石を削って無理矢理丸くするということだ』君の名前は“後悔”か。そしてそっちの白い髪の少年は、“善性愛”だな──
初めて“孤独”に会った一年前、開口一番に言われたのはそれでした。私たちの名前を言い当てたのです。白い髪の少年というのは、怪物になった彼のことでした。
その頃の“孤独”はまだ血色の良い肌色をしていましたが、近頃はもう、別人と成り果てています。青白く痩せた身体と、「人間不信が嵩じただけだ」と言いながら隠した腕に咲く無数の目玉。哀憐とも寂寥とも言えない心でそんな彼を見つめていると、澄んだ声がかかりました。
「ああ、そこにいるのは後悔か」
アコースティックギターを弾くのをやめ、“孤独”はこちらへ手を振ります。開いている腕の目があと二つだけになった腕。彼らが全ての視力を失う時が来たら、その時こそ孤独の魂は救われるのでしょうか。彼らは死へのカウントダウンではなく、救済なのでしょうか。彼の、人間としての目だけは、煌々と琥珀色に輝いています。
「遂に善性愛が行ってしまったね。両性具を持った愛など、神以外の何物でも無かったのだが」
俺の死期も近いな、と“孤独”は他人事のように呟きます。両性具というのは彼なりの比喩でしょうが、事実“善性愛”は男性と女性の両面を持っていたように思いました。
「……」
私は黙って遠くに想いを馳せました。
──怪物になること。
この病棟において、それは死に罹患することを意味します。死は私たちにとって一種の病気ですから、人間のように心臓が動きを止めることはありません。「罹患すれば医師にどこかへ連れて行かれる」。私たちにとってはその程度の認識です。しかし、そんなことは分かっていても、それでも“善性愛”が死んでしまったという事実は私の中に癒せない傷として残りました。
「君はいつも喋らないね」
“孤独”がぽつりと言いました。どう答えようか迷った末、私は彼が胡座をかく隣に両足を抱えて座り、ただ笑顔を作りました。
「笑っているのが正解、という訳か。もしかしたら君は、俺よりも外の世界に向かない性格をしているのかもしれないね。本物の不適合者だ」
笑っているのが正解──“孤独”には、私の痛みは絶対に分からないだろうとこのとき思いました。そういうつもりは決して無かったのです。不適合者という点だけは当たっていますが。
私は“後悔”。
だから、口を開くことがないだけです。
「“後悔”こそ常に大口を開けて人間を今か今かと待ち構えているものだろう。その者を苦の深淵へ誘惑するために話術にも優れているはずだ。感情の中で一番厄介だと思うけれど、君はどうやら違うらしい?ああ君、本当に難儀な人生だな。同情するよ」
何を言っているのでしょう、いつも通りの奇怪な文脈と嘆息でした。
“孤独”にそんなことを言われても特に何の慰めにもなりません。
彼はいつもおどけていて呼吸のように嘘や悪態をつくので、私は彼の言葉の半分は虚言だと思っています。
「“善性愛”も絶望にしか愛されなくて気の毒だったな。皮肉なものだな、人間に愛を注がないと死んでしまうのに、肝心の自分自身は永遠に愛されないままだ」
ペラペラと悪戯なことを喋りながらカラカラと笑う“孤独”は、本当にいつも通りの孤独に思えました。仲間が死んでも何も感じることのない、本当の孤独だと思いました。
開かない口を余計に開きたくなくなって、私は少し俯きました。
しいんと深海に沈みきったリノリウムの温度は非常口の緑に照らされ、ゼリーのように光を映しています。
「」
すう、と息を吸う音が聞こえました。
こいつはまた悪態をつくのか、そう思って横を見ると意外な表情が覗いていました。四季の息吹が乾いたこの場所で、ほんのりと太陽の匂いがしました。
今、彼の瞳の中で確かに透明が揺れたのです。
「寂しく、なるね」
ぽつり、と呟いた言葉。
いやほとんど吐息だったと言ってもいいでしょう。すぐにギターが鳴らされたことで掻き消えてしまいましたが、至近距離に座る私の耳には、十分届く声でした。
孤独、と思わず名前を呼びそうになりました。
けれど私の声が出ることはありませんでした。
私が“後悔”で在り続ける限り、どうにもこの声を上げられることはないのでしょう。
「もう泣けますか。貴方、自分のために涙を流せますか」
そして“孤独”は、再度同じフレーズを歌い出しました。
私は特にすることもなく、1059号室に戻ったら“善性愛”の残り香に泣いてしまいそうに思えたので、その日はずっと“孤独”の隣に座っていました。

真夏の怪物

真夏の怪物

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-07-15

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