ニードボイス

 かなみが死んだとき、わたしはたぶん、シャワーを浴びていた。
 悪夢みたいにひどいシャワールームだった。
 洗面所からカビ臭い匂いがしていたので何となく予想はついていたんだけど、ホーローのバスタブの溝には紛れもない頑固そうな水カビがどす黒く詰まっていたし、昭和の雰囲気のするカランは水を出すと蛇口が浮き上がって、崩壊寸前のダムの排水溝を思わせた。
部屋が北側にあるせいか隙間風が忍びこんできて、氷のように冷たいタイルに足踏みしながら、わたしは身体を温めたのだ。テレビでみたイリノイの刑務所で新入りの女性受刑囚になった気分がした。
 「みずっち、何でもすぐその気になるんだもん」
 かなみが、わたしの恋愛観についてひとしきり悪口を言ったあと、呆れたようにため息をついていたのを後で思い出した。あれって、最後に会った日曜の夕方だったっけ。いや、違う。二学期が終わった前の日? 思い出せない。でも、つい最近のことだ。
ともかく、わたしはそのとき、そんなことないようなことを言ってたけど、ある程度、そのことは自分で分かってはいた。野球好きと付き合えば、野球ファンになってしまう、音楽好きと付き合えば、いっぱしの音楽ファンになってしまう。初期化して新しいアプリケーションをインストールしたみたいに。お手軽な恋愛観。
 でもたぶん、今回に限って言えば、別に後悔はしていなかった。はじめて男の部屋に上がったのだし、こっちだって一応(?)人生十八年生きてる花のJKだ。当然、その後のことも予想の範囲内だった。
確かに十二月の風が吹きしきる中、ドアの前で待たされて、三十分ほど放置されたけど(あれだけ念入りにやってそうだったのにどこを片づけたんだろう?)彼は優しかったし、部屋だってそれほどひどく散らかってはいなかった。駅前で買い物した後、二人で作った豆乳鍋は美味しかったし、ぬる燗の日本酒だって、そのとき初めて飲んだのだ。
 それまでは楽しかった。借りてきたお笑いのDVDをみて二人で爆笑したりしていた。八時を回った頃だ。彼と急にそう言う雰囲気になったので軽くキスをして、とりあえずシャワーを浴びることにした。正真正銘、わたしはそのとき初めてだったのだ。
実際、そのことはよく分からないうちに終わった。痛くもなかったし、気分もそれほどよくはならなかった。意外とどっしりした彼の身体の重さと力の強さ、オーデコロンの匂いに、少しどきどきしただけだった。問題はそのあと、起こったのだ。
 「血、出てない」
 不機嫌そうに彼が言った。明かりをつけて、ごそごそと二人で後始末をし出したときだった。わたしが棄てた使用済みのコンドームに血がついていないのを彼はたまたま見たみたいだった。バージンだったらみんな、血が出るはずだ。わたしもそう聞いていたし、彼も、そう思っていたみたいだった。
 「初めてだって言ってたじゃん」
 彼は頬を膨らませて言った。とても子供っぽい怒り方だな、とわたしは思った。事実、当惑したのはわたしの方だったはずなのだ。それが、何だか不正を非難するように、彼は唇を尖らせた。まるで、クリスマスに、欲しかったプレゼントがサンタクロースから届けられなかった、そんな子供みたいに。
 「俺の前にも、色々付き合ってたみたいだし、まあ、そうだよな」
 そう言うと、彼は、わたしに背を向けた。
 「でもそうじゃないなら、そうじゃないってちゃんと言ってくれなきゃ」
 彼の口調はとても冷めていた。つい一時間前の話し方が嘘だったかのように。
 もちろん、自分にだって身につまされる部分だってある。それは分かっている。でもちゃんと、わたしは、処女を守っていたのだ。別に守るつもりがあるわけじゃなく、当然、今夜の彼のためにそれを守ったわけではないんだけど、ただ、本当に処女を捨ててもいいなと思うときが来るまで、その瞬間を見送ってきたのだ。それなのに。
 そう思ったとき、わたしの中で何かが切れた気がした。ブツ、と、ブレーカーが落ちて、急に回路が冷え込むみたいに。不良品扱いされたわたしは彼にとって、ただの物に落とされたみたいに無価値に感じた。
 かなみが死んだ報せを受けたのは、それから部屋を飛び出した直後だ。
 はじめは、かなみから意味不明のメールが入っていることに、首を傾げていた直後だった。空メールだった。着信は三十分ほど前、つまり、わたしがちょうど彼に言われて震えながらシャワーを浴びている頃。どうしてだか、わたしはそのとき件名も文章もないそのメールを消す気にはなれなかった。虫が知らせるってこう言うことなのだ。
 わたしたちの間はこの頃、少し不穏だった。お互いに、付き合っている彼氏を連れて、遊びに行ったのだが、相性が悪くて、なんか気不味くなったのだ。思えばわたしがバンドマン気取りの専門学校生、かなみが小説家気取りの国立大学院生で、年齢も二十二と二十八、初対面から二人は変な片意地を張り合ってフォローが大変だった。どっちも普段は大人しくて、彼女ともろくに話もしないタイプの癖に同人種とこじれると始末に悪いのだ。しまいにはかなみとわたしまで、お互いの恋愛観を非難する事態になってしまった。
 メールをとっておいたのは、仲直りのきっかけに希望を持っていたから。なんだかんだ言って彼氏色に染まってしまうわたしたちは、とてもよく似ていた。お互いのまずい部分を知っていて、思えば、警告し合う仲だったのだ。
その空メールのあと、ついで五分後にかなみの親から連絡があった。うちの母親とかなみのお母さんは、わたしたちが小学生のとき以来の付き合いだ。電話の声は、まるで感情そのものを失ってしまったかのように平板に、その悲報を告げた。
 「バイトの帰りにスクーターで事故にあったみたいなの」
 かなみは、ちょっと遠いバイト先のために原付の免許を取ったばっかりだった。
 事故は、かなみの完全なよそみ運転だった。バイトの帰り道、かなみは原付を運転しながらメールを打っていた。そのとき携帯をみていて、急停車した前のトラックに気づかなかったのだ。保冷車の荷台に衝突して、かなみは死んだ。即死だった。
 「ヘルメット、ちゃんとしてたのに、どうして」
 そのヘルメットのベルトが衝突の衝撃で、一気に頸に喰い込んだのだと言う。窒息死だ。後続車の男性が、路上にふっ飛ばされたかなみを必死に助けようとしてくれたみたいだけど、スクーターから投げ出されたとき、もうあの子は死んでいた。誰にも助けようがなかったのだ。
 かなみを介抱した男性が、投げだされた携帯電話を拾って持ってきてくれたそうだ。電話は彼氏にメール中でディスプレイは、「今、行く」の「行く」の「い」で途切れていた。わたしへの、あの空メールではなかった。
かなみのお母さんから携帯電話を見せてもらったとき、わたしはふと、おかしなことに気づいた。わたしがかなみの空メールを受け取ったのは九時五分、かなみが最期に送った彼氏へのメールが九時ぴったりなのだ。かなみの最後のメールはわたし宛てだったのだ。
 旅立つ前、あの子は何を話そうとしたんだろう。何もなかった。でも、一番最後にあの子はわたしにつながろうとしたんだ。
 ちょっとして、わたしはかなみのお葬式に出た。どうしてだか、悲しくならなかった。ちょうどあの晩、処女を喪ったみたいに無痛だった。わたしの中で、まだ、死んでいないのだ。それは綺麗に化粧を施されたかなみが火葬されてしまうまで、そのまま続いた。
 死んでから、かなみが送ってきた無言のメールが頭に引っかかっていた分、そのときみんなより少しだけ悲しみの感情がずれたのかも知れない。かなみが灰になってしまった後で、帰ってからわたしは一人で泣いた。吐きそうになった。何も出来なかった。どうしてでも、何か、してあげられたことがあったはずなのに。言っておきたかったこともあるはずなのに。
そのとき、わたしは思った。本を読んだり勉強したりなんかじゃなく、わたしはただ感じることだけで、物事を知ることがあるんだ。初めて思った。
 生きていくのに必要な物事は、過ぎ去ってしまった後で、本当に重要だったんだってやっと判ることがある。後で感じたことを納得しようとするのはただの論理であって、別に、そんなことは無意味なんだ。わたしたちはただ感じることで、姿も名前もない、自分の中の何かを変えていく存在。いつも感覚は速く、論理は遅い。論理は感覚を捕捉できない。
 一度、喪われてしまったものを、理屈で肉付けしてもっともらしい形にすることなんて、ただただ、とても虚しいことなんだ。たぶん、あのとき、かなみはそのことを話そうとしたんだ。

ニードボイス

少し重いテーマでしたが、いかがでしたでしょうか。川端康成の『掌編小説』に影響されて、少しとても短い話をいくつか試験的に書いてみようかと思いました。これはその第1作です。短いのはやっぱり難しいです。キャラは練れないし、今思えばもう少しコミカルなものを書いてもよかった気が。いずれにしてもこれからもいろいろ挑戦したいと思いますので、これに懲りずお付き合いくだされば嬉しいです。

ニードボイス

掌編小説です。初めて挑戦してみました。これは恋愛もの、と言えるのでしょうか。純文ぽいです。18禁になるような描写はなるたけ避けましたが、ちょっと話しにくいところを表現しています。初体験を終えた高校生の女の子が同じ時期に手に入れた、もう一つの経験がテーマになっています。よかったら、ご覧になってみてください。

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2012-12-03

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