皮を剥ぐ、服を脱ぐ

松原レオン

⚠︎性描写、男色、食人描写等が含まれます⚠︎

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また、読後のクレーム等は受け付けられませんので、予めご了承ください。
((お願いします))

女は皮を剥ぎ、服を脱ぐ

 向井三郎、湯島進一、亀井一男、小畑弘、安藤正男、梶茂。

 ——さて、彼らはどこへ消えたのか。
 生活態度はいたって真面目。狭い交友関係、無論女といった浮いた話題もない。そしてどこへ聞き込みに行こうが、それぞれの近所の住人は口をそろえて言った。
 挨拶したら挨拶してくれる真面目な青年でしたよ、と。
 挨拶してくれる、はてその情報で何かわかるとでも。苦い茶をすすりながら毒づく。吾妻警部は件の失踪事件を統括する責任にあった。
 進展する様子もない事件にほとほと嫌気がさしてきた頃だ。失踪者の何とも冴えない顔写真に唾でも吐きたい気分である。
 唯一の手掛かりは彼らが失踪前に会っていたとされる女。ところが目撃された女はどれも丸切り顔が違ったのである。ひとまず、らしい女を署に連れて来るも、若い衆は彼女の美貌に鼻の下を伸ばすばかりで、有力な証言は得られなかった。
 疲労のせいか、どん詰まりな考えが吾妻の思考力を蝕む。
 連続失踪事件と銘打ったものの犯人は果たして同一人物なのか。考えてみれば、あんな美しい女があんな冴えない男を懇意にするのかも怪しい。なぜ参考人として連れてきたのだろう。あの蠅のような記者どものセンセーショナルな記事に踊らされているのは、他でもない自分たちなのではないか。真面目だろうが人間は色恋で盲目になるのだ。唆されて駆け落ちでもしたのかもしれん。
 吾妻の脳裏に女の面がまるで催眠術のように消えては浮かぶ。
 目尻がピンっと上がった猫のような瞳。赤く濡れる唇から時折舐める舌。
 彼女を形作るひとつひとつが吾妻の洞察力を壊した。
 吾妻はため息をつく。口臭混じりの緑茶の香りが鼻をつく。
 おそらく新聞の片隅に、「青年連続失踪事件迷宮入り!」とでも記事が載る日が来るのだろう。
 そしてやがて、皆に忘れ去られるに違いない。


 今やこんな平家の大屋敷は物珍しかろう。
 あまりの広さに最初は目眩がしたもので、その大きさと言えば近所の小学校が丸ごと入ってしまうに違いないのだ。
 はて、ここに来てどのくらい経ったのか。ならばここは竜宮城か。
 食事は出されるも、それはまるで餌のようであった。よほど金があるのか、焼かれた赤身肉は定期的に並んだ。おまけに高級な果実はデザートだともてなされた。何もかも苦学生の茂には到底手の出せなかった。だのに、それらは餌でしかなかったのである。
 時間を知る術なぞない。日の高さで勘繰るしかあるまい。今はおはよそ昼過ぎだろうか。
 はだけた着物姿で、情交のにおい立つ畳に四肢を伸ばす。
 白魚のような手が茂の勃起した陰茎を上下する。雁首から落ちる透明なそれ。にちゅ、にちゅ、と粘液の音は最近まで女の体を知らなかった茂にとって、未だ慣れるものではなかった。
 あぁセツよ、この女が茂をこの屋敷に誘い込んだのだ。
 何が理由だったか。今では朧げだ。おおよそ何か手伝って欲しいとでも言われたのだろう、あなたが必要ですの、と念押しされて。はっきり言って浮かれていたのである。疎遠となった田舎の友人。金が足りぬ生活に恋人などいる隙間なぞなく、有体に言えば人恋しかった。
 セツ——それは幻のように現れ、そしてやけに茂に興味を持った。思えば異様であった。しかし男女の距離感なぞ知らぬ茂は胸をときめかせた。寂しい冴えない男心をくすぐる、それが彼女の十八番だったに違いないのだ。
 低く色気のない呻き声。セツに陰茎を扱かれながら横を見やれば畳に打ち捨てられるまま男同士で性行為に及んでいた。尻穴を穿たれる男の両腕は肘の先から切断され、腰を振る男の顔の皮は綺麗に剥がれていた。彼の皮はマスクのように丸ごと残され、セツの鏡台に大事に飾られている。
 体の一部が欠損した男たちがごろごろと屋敷内を転がる様は、当初吐き気と恐怖で震えが止まらなかった。そして気づいたのだ。彼らと自分は同じであると。茂もやがてあちら側に転がるのだ。
 今では景色の一部となった他所様の営みを無感情に眺める。尻穴から反った男根を雁首あたりまで引き抜き、勢い良く抽送す。肉同士がぶつかり合い揺れる臀部と玉、やがて男の額に血の汗が吹き出した。途端、男根を搾り上げられる快感に茂の意識は彼らから離れた。
 白くて丸い腹が茂の股の上で踊る。
 半分に切られた桃のような湿った肉片は、穴を目一杯広げて茂のそれを飲み込んでいた。
 上下運動のたびに茂は猿のような声で喘ぎ、拙い動きで腰を揺らしてセツの膣を行き来する。
 甘い嬌声をあげる蒸気した肌。その血色は生きた人間のものに違いない。だのに、なぜその黒色の瞳は深淵のようなのか。
 もはや精液を出させるためだけ行為に、茂はぐったりした体を伸ばして意識を手放した。
 
 日も暮れ、吹き込んだ風が涼しく茂の胸板を撫でた。
 畳で寝ていたせいかひどく腰が痛む。凝り固まった関節を無理矢理動かして身を起こした。
 障子に映る影が動く。悲鳴が上がる。茂はハッとして見る。
 茂が取り残された部屋に面した廊下から物音がする。目をよく凝らせば、少しずつ情景が浮かび上がってきた。
 薄闇のなかセツが男に馬乗りになっていた。その光景は日頃よく見るものと大差なかった。しかし何かがおかしい。男は水中から声を張り上げているような、溺れた者の声をあげて何やら必死に抵抗していたのである。
 セツが男の腕を掴む。そして上へ、上へと引っ張る。男の脇がプシュっと音を立て、着物の袖口から腕が異様に伸びていく。ぶちっという物を引きちぎる音に茂は口を思い切り押さえた。ヒトの腕がゴムのように伸びるものか、あれは肉体から引き離されたのだ。
 男はヒィヒィと掠れた馬のような泣き声をあげて、肩口を必死に押さえていた。
 セツは男からもいだ腕を刀を賜るように両手で持つと、唇を貼り付けて、貪り食った。末梢神経たるものを噛み千切り、じゅぶじゅぶと鼻息で血が泡立つ。
 鬼のようなセツの後ろ姿に茂はうっ、と迫り上がった胃液を押さえ込もうとしたが、喉奥から逆流する悪臭に堪え切れずに畳に吐いた。
 芳しい藺草に広がる嘔吐物。胃酸のツンとする臭いが、温かみを持って立ち昇った。口の周りにつく悪臭と不快なベタつきに、両手を畳について惨めさから嗚咽した。
 畳を擦る足音の主を茂は見上げた。口の周りを血でしとどに濡らしたセツが、あの虚空の瞳を茂に向けていた。
「何を恐れてますの?」
 愛らしい声、そうだ、上品で愛嬌のあるこの声が好きだったのだ。まるで、虫の音を風流と説く秋のように爽やかな声が好きだった。それがどうしてこんなにも恐ろしいのか。
 セツは茂を見下ろし、生臭い口で笑った。
「おまえとて肉を食うというのに」
 その台詞に、茂は先日口にした赤身肉を思って、もう一度嘔吐した。
 

 おまえが一番のお気に入り、それがセツの口癖であった。
 そのセツは顔の皮を剥いだ男の背に跨って、剥き出しの隠部を擦り付けるように、ゆっくりと腰を動かしていた。
 その奇妙な様を見ながら茂はただぼーっとしていた。ここに来てからというもの、茂はろくに歩いたことはなかった。
 いくら広くて上等な屋敷だろうが、一歩部屋を出れば男同士で睦び合い、両目を潰されて呻く肉体が幽霊のように廊下を彷徨い、足のない男が這いずり回っているのだ。さて、いつが自分の番なのか。それがひどく恐ろしくて彼らを視界に入れたいとは到底思えなんだ。
 だから、逃げ出すこともせずに、目の前で行われる不可思議な行為をただ呆然を見つめていたのである。
 うつ伏せに寝かせた男の首から始まり、セツは腰骨の辺りまで跨って動いていた。男の背中一面が粘液で汚れ、セツの股からは何やら半透明の球体が連続して産み出されていた。その物体は男にくっついていたが、茂はそれが何か知らなかった。
 しかし一週間足らずでその正体を知った。
 それは卵であった。
 黄色い液に満たされた中で、何やら人のようなそうでないような形が徐々に大きくなっているのが観察できた。それに合わせて男は衰弱していくようだった。空虚になる生気。この頃には、彼に対する同情心は一切消えていた。
 茂は相変わらずセツの一番のお気に入りで、性交渉をしては、甲斐甲斐しく茂の口に餌をやるのだった。目の前には、徐々に成長する卵を背負った男が転がっていた。
 そしてさらに日にちを重ねた、ある日それらは孵化した。細々として小さな、無数の両腕が母を求めて空をもがく。
 それが茂の見た最後の光景であった。直後、茂の両目をセツの指が潰した。
 
 視界を失った眼に何やら薄いものが巻かれる感触がした。衣ずれの音、体液混じりの女物の甘い香水の香りが鼻孔をくすぐり、相手がセツであるとわかった。
 脳裏にあの男たちの姿がよぎり、とうとうその日が来てしまったのだと、茂は唇をみっともなく震わせた。その唇を湿った何かが覆う。
 やがてそれは口腔を吸い上げ、柔らかい舌を飲み込んだ。逆流し合う唾液に溺れそうになりながら、必死で息を吸う。
「どうして、こんな……」
 荒い息から漏れる、上擦ったか細い茂の声が汗で澱んだ空気を震わせた。
 セツは笑う。「おまえが一番のお気に入り」
 途端笑い声が治まると、切なげで哀愁で満ち満ちた声色が訴えた。「ですのに、セツはもう人型を保てそうにありませんの」
「な、何を言って……」
 セツはキャラキャラと鈴のように笑いながら素肌を茂に押し当て、きつく抱擁した。
「あら、お気づきでしょう? セツが人間ではないって」
 男に産みつけられた卵、孵化する様がありありと浮かんできた。亡霊のような幼生たちの細い腕が潰れた眼を酷く痛ませた。——しかし、あれらは今どこへ?
「あ、あの生まれていたのは、今どこにいる」
 もしかしたら今頃、畳を這いずり回っているのではないかと思うと、恐怖で睾丸がキュッと痛む。ところが、茂の暗い声とは打って変わって、セツは嬉しそうに言い放つ。「気になりますの?」
 顔を上げ、茂の痛ましい顔を寄せると、愛おしくてたまらないと言わんばかりに接吻し、恍惚とした声で蕩けた音色を出す。
「そうですの、そうですの。嬉しいわぁ、おまえの子ですもの。セツとおまえの」
 ——おまえとの子?
 茂は驚愕した。
「じゃ、じゃあ! あの卵は——」  
「どこにいるか、でした? 今は廊下にいるんでしょう、涼しいですから。……何度も孵化できずに腐っていく卵をたくさん見てきましたの、ここにいる誰の子もうまくいかなかった。この部屋は温かい。孵化できる子が多かったのに、でも、その子たちもうまく成長できず……うふふ、おまえとの子はすくすく成長して、今は人の頭ぐらいありますのよ」
 明かされる言葉の数々に、茂は頭を押さえようとして腕を緩慢に上げたものの、セツの冷ややかな手が掴み取る。手のひらに湿ったセツの頬の感触が侵食する。やがてそれは胸元へと下げられ、しっとりとした乳房の感触に変わった。
「おまえが一番のお気に入り、おまえだけがいれば良いの」
 朗らかに笑うセツの心音の下で茂はただ震える。
 
 呪詛のような言葉を囁きながら、セツは膝はぐりぐりと茂のペニスに押し付け、緩やかに刺激する。徐々に膨らむ陰茎の感覚に茂は大口を開けて喘ぐ。開いた口にセツの唾液が注がれ、鶏肉の脂身のようにぶよぶよとした亀頭から粘液がじくじくと滲み出る。
 さて、挿入間近という時に——ボトッ、と何やら重みのある物体が、それもどこか柔らかい物が、ある程度の高さから落ちる音がした。
 ハッと息を呑んだらしいセツは、茂の上から飛んで行った。
 遠ざかる足音が静寂に変わり、ひとり藺草の上に取り残された茂は、盲目のなか不安に襲われた。例え、人間でなかろうが狂っていようが、今ここで茂が頼りにできるのはセツだけなのである。ここへ来てから、彼女の手から餌を貰い、愛撫され、全てを享受された。この屋敷での振る舞い方なぞ知らなんだ。
 這いずる上腕の音、蠅の羽音、快楽に興じる肉の音、生温い風の音……。
 聞こえる音が全て茂を責め立て、敵意を剥き出しにしているような錯覚に陥り、茂は焦り弁解しようとして気づけば失禁していた。
 萎えた尿道からチョロチョロと温かいアンモニアの臭気が立ち込め、着物をじっとり濡らして不快であった。
 あまりの惨めさに茂は、潰れた目元を押さえて咽び泣いた。
 みっともなく鼻水をすする向こうで、摺り足の衣擦れ。近づく声が、大きいのがひとり縁側から落ちてしまったようなの、と安堵しながら告げる。しかし小便垂らしながら赤子のように泣く茂の姿に、「どうしましたの?」と擦り寄った。
 茂は腕を伸ばして、指先に当たった布を必死に掴み寄せた。
「嗚呼セツよ、どうか俺をひとりにしないでくれぇ、セツがいなけりゃ俺はもう駄目なのだ」と、なりふり構わず懇願し、涙でセツの着物をしとどに濡らす。
「セツがいないとおまえは駄目だと言いますのね」
 流れ出る鼻水すら恋しげに、喜色混じりにセツは茂を抱擁する。背中を赤子をあやす母のような拍子で優しく叩き、「一生お側におりますわ、安心してお眠りなさいな」
 揺蕩うような甘い声に茂はグスグスと鼻を鳴らしながら欠伸した。
 

 子守唄のようなセツの心音に包まれながら微睡む。セツの肉体を敷布団に、香水が香りたつ着物を掛け布団にして、朝日らしい日差しの熱が頬を刺し茂は身を起こした。その背にセツが絡みつく。
 あの一件以来セツは茂に対して過保護であったし、茂もそれを当然のこととして受け入れていた。
 幾日——もっとも茂に日時について知るよしもなかったが——経てば経つほど、セツの柔い肌は細かな棘を孕んだ皮に変わっていった。たまに、セツの声が蝿の羽音混じりになったものの、茂はそれらの変化について訊ねることはしなかった。
 時折、バリバリッ、バリバリッという軽いものを砕くような音が聞こえてくるのをセツの問題ありませんわの一言で茂は納得し、ついぞ音の正体を追求することはなかったのである。
 毎夜セツは茂の体を求め、茂はそれに応じた。陰茎を扱く手は、柔らかさを失いつつあったが、独特のザラザラとした感触は得も言われぬ快感を生んだ。引っ掛かりが筋に触れるたび、茂は腰を宙に浮かせて痙攣するように空を穿った。そして精液は一滴たりとも溢さずセツに取り込まれ、度々、産卵のため茂から離れた。その間、茂は膿む闇の中で身動きひとつせず、ジッとセツが戻るのを待つのであった。
 さて、こうも依存関係にあったふたりであるが、終わりの日は訪れた。
 セツは茂に触れることなく、隣で伸びていた。畳に頬をつけうつ伏せ寝になったセツは薄い呼吸音の裂け目から声を出した。
「もうセツは——ズズズズ、この身を保てそうにありませんわ、ズズズズズズズズ、おまえどうかわすれないでね」
「セツ、セツよ何を言うのだ」
 幼児のように舌ったらずな口調に、茂は焦燥に駆られ狂ったように両腕を振り回してセツの体を探した。「俺を捨てると言うか」
「あいしておりますわ、おまえがセツの一等のおきにいりですもの」
 ——さて、茂はこの時まで気づいていなかったが、セツは度重なる産卵のために憔悴していたし、もう未就学児ほどの大きさになったはじめの子らが、最後の肉を求めてこの部屋に這いずって来ていたのであった。
 セツの乾いた笑い声に混じって、母を乗り越え肉を食む音がした。
 バリバリッ、という音に茂は動くのをやめ、突如足元に触れたぶよぶよとした肉を受け入れた。その肉は群れとなって茂によじ登って大口開けて茂の脛を齧る。淡々と胸を支配する絶望と死の感覚がじわじわと波となり、いつしか現実となっていった。
 そして茂はただ泣き叫んだ。

ホモ・インセクトゥム解剖学 壱

 中年にもなると腹の肉はそうは簡単に落ちぬものだが、少しでも凹めと粟島は徒歩で目的地へ向かう。
 季節は初夏。蝉声の煩わしさこの上なきかな——。
 暑い、暑いと振るう腕。粟島の額からはねっとりとした汗が絶え間なく流れた。
 うんざりする坂道もようやく半ば。丘の上に見える豪邸に、ハハァ相変わらず立派だと嘆息せずにはいられなかった。

 家主は岡部敬。御曹司として生まれながら、自身もまた精神科医としてその富を増やしていた。
 まだ二十代半ばという彼は、美しい容貌に加え人心を掴んで離さない魅力があった。粟島ですら敬と目を合わせて話すのはドギマギしてしまうものであった。

 こりゃあ天は二物を与えずってのはァ嘘だな、と言うのが中年男の奏でる哀歌である。
 よれた鞄の肩紐を戻す。これを贈ってくれた頃の娘はどこへ行ってしまったのか。年頃の娘は粟島が通り過ぎただけで癇癪を起こす始末だ。幼き頃は父の日だの誕生日だの、プレゼントを用意してくれていたものを。いやァ敬を前にすれば娘も上機嫌でもてなすのだろう。だが仕方あるまい、現実は少しも落ちやしない贅肉を抱えた中年親父なのだから。
 車庫で赤く瞬く外国車をため息交じりに一瞥し、真鍮の呼び鈴を鳴らす。家主が近づいてくる気配に粟島は肩紐をギュウと握りしめた。詰め込んだのは、猟奇殺人の現場写真であった。


 粟島さんよく来ましたね、と華やかな低音で出迎えた敬は、上品な物腰で粟島を応接間へと招いた。
 天井の縁に取り付けられた扇風機がゆらゆらと首を振る。循環される冷風に有難いと息を吐く。
「すごい汗だ、何か冷たいものでも持ってきましょう」
 視線が額の汗に向いていると気づいた粟島は、羞恥し曇り声でかたじけないと萎縮した。
 人好きのする笑みを浮かべてひらりと身を翻した敬の背中を半ば恍惚と見送ると、革張りのソファを好い人の家に来た乙女のような肩身の狭さで座り込んだ。

 グラスと氷がぶつかり合う足音に、粟島は鞄から取り出した大判の茶封筒を翡翠色のガラステーブルの隅に置く。
 麦茶の入った輸入品のグラスが目の前に差し出される。
 茶葉を限界まで利用し、もはや色のついた水でしかない粟島家の麦茶とは何だか浮世離れしているようで、粟島は濃い麦茶の味に感銘すら覚えた。
「また歩いていらっしゃったのですか?」と、テーブルを挟んだ向かい側のアンティークチェアに座りながら敬はたずねた。
 一気に飲み干したグラスを置いて粟島は頭をかく。整髪料と頭皮から染み出した汗の感触に思わず指先をスラックスで拭った。
「いやァお恥ずかしい、このところすっかり太ってしまって」
 敬はグラスを傾け、努力されているのですね、と微笑した。
 して、思えば贅肉が気になると言いつつ運動なぞしてこなかった粟島が、こうも努力するようになったのは敬がきっかけではなかったか。はじめて敬を見た時の衝撃は忘れられぬ。最近封切られた輸入映画の主人公のような容姿には感動すら覚えたものであった。
 何故だかぼんやりしていたが、「それが資料でしょうか」と敬の視線が茶封筒に向いているのに気づいた粟島は、慌てて封筒を両手で掴み取って差し出した。


 喉首を噛みちぎられたのが致命傷、顔の肉も一部削がれ一面がベッタリと血に濡れた死体。
 半身を貪られ臓物が絨毯に零れ落ちた死体。
 首を切断され絶命した死体は、後に台所にて鈍器で殴り壊された頭部が発見された。そしてかき集めた脳みそは、どう見積もっても総量に足りないという。
 頸動脈が欠損した死体は、司法解剖の結果子宮がやはりなく、子宮のない死体はこれが四体目であった。
 合計十五体。この二週間で発見された異様な死体の数である。

 三十五ミリフィルムの惨劇を一枚一枚丁寧に見つめ、敬はそれらをテーブルに並べ始めた。それらの距離感は定規で測ったように均等で、薄気味悪い芸当であった。
「まァ我々は、ホモ・インセクトゥム(虫人間)による犯行じゃないかって——」
「そこで僕の意見が聞きたいと」
 敬は組んだほっそりとした指の上に顎を乗せ、粟島の語句を継ぐ。
 粟島は頷き、「彼らの考えることはわかりゃしませんし……被害者の性別も年齢もバラバラで共通点もない……こりゃ無差別殺人としか言いようがないのです」
 なるほどと、敬は写真を卓上で混ぜ、それぞれを右と左に分けて置き直した。
「どう思いますか?」
 感情の読めない笑みでたずねられ、粟島はおずおずと身を乗り出して両者を見比べた。

 粟島から見て右側に置かれた写真の群。頸動脈の傷を死体、下顎を噛み千切られた死体、エトセトラ。さて、確かそれらの死体は子宮がなかったのではなかったか。
 左側の群は、半身を失った死体と臓物のほとんどを失った死体、脳みその足りない死体、肝臓付近を中心に欠損した死体、エトセトラ……。
 いつ見ても嫌悪感を呼び起こす不快で惨たらしい光景である。
 一息吐き、「これは——」と粟島は右側を指し示す。「傷が頭部中心、しかも被害者は女ばかりです」
 そして左を指差す。「こっちは致命傷がバラバラ。あとなにより――写真がこっちの方が多いですな」
 ちらと見やれば敬は、デスマスクのように生気のない微笑を浮かべていた。



 まず、捕食の目的が違うのです。右は——粟島さんから見てですよ——性的な捕食、有り体に言えばセックス中あるいは後に捕食した。左は栄養のため。まぁ食事です。
 彼らは虫の感覚を残しています。性欲と食欲を誤認する——よくある話です。メスの場合は出産あるいは産卵のために捕食しますので意味は多少異なりますが、被害者が女性だけなのを見るとオスである可能性が高いですから、そのふたつを誤認したのでしょうね。

 子宮を取り出したのは、自身で孵化させようとしたのかもしれません。ホモ・インセクトゥム(虫人間)にはよくある間違った知識です。おそらく胎生と卵生の違いでしょうが、哺乳類のように十月十日も腹の中に子供がいるなんて知識で知っていても理解はできない。
 そもそもホモ・インセクトゥムのメスには精液を蓄えておく器官があり、それを無精卵にかけて産卵するので、おおよそ人間もそのような繁殖方法だと思っているのでしょう。外見上ホモ・サピエンスとホモ・インセクトゥムはほぼ同じですから。卵がたくさん子宮に詰まっていて、それに精液をかけることで受精すると。あながち間違いでないのが誤解のもとでしょうね。

 自身の遺伝子を残すことが重要なわけなのですから、今回の場合、孵化させたいという気持ちが勝ったのでしょう。母親は自分で食い殺して、死んでいるわけですから。
 おおよそ愛というものを理解していないために、人間から見れば凄惨な事件を起こしてしまう。恐らくこちらの犯人は案外すぐ見つかるか、自首するかもしれません。曲がりなりにも愛していた人物を殺した呵責がありますゆえ。

 ——しかし問題は左の写真です。
 少年期特有の残虐行為と言いましょうか。食事に対して善悪の概念を持つかと言われれば、難しい話でしょう? 当人もそのつもりです。臓器が欠損しているのも、滋養強壮と称してレバーなりハツなりを食べている我々と意味は変わりません。いわゆる幼い個体である可能性が非常に高いですから、自分で気づくまで理解はできない。そうですね……ある程度成長してもこのままでは人間を食材とするでしょうから、早期解決すべきはこちらの事案かと。


 粟島は無意識にぽかんと開いていた口を閉じた。そんな生々しい単語の羅列が愁いを帯びた麗容から飛び出すというのは、わかっていても驚くものだ。
 敬は空になった粟島のグラスに麦茶を注ぎながら、「ですから同一犯と言うことはないでしょう。共通点が無いのも頷けます。……ただ、女性たちを襲ったのは同じかもしれません。彼女たちと接点があった共通の人物がいるのかも」
「ははァ、やはり先生にお伺いして良かった。……しかしですな、どうしてこっちは同一犯と言えるのですか」
「あくまでも推測ですが――子宮を取り出している点が特異的だからです」と敬は答える。伏せられた目元の豊かなまつ毛が呼吸に合わせて微かに揺れる。
 はァ、と頷きつつもどこか納得しきれぬ粟島に敬はからりとした笑い声をあげた。「愛している人が複数いるのが腑に落ちませんか」
 朗らかでどこか陽気な声の調子にはそぐわぬ眼差しに、形容しようのない不安を覚えた粟島は心許ない愛想笑いを浮かべる。
「ホモ・サピエンスとホモ・インセクトゥムは似て非なるものです。愛情もそれぞれですゆえ。あまり責め立てないでくだされ」
 粟島の手の中で溶けた氷がガランとガラスを叩いた。


「粟島さんはとてもいい匂いがしますね」
 いやァ麦茶もごちそうになって。ではまた進展ありましたらお伺いしますわ、どうぞよろしく。
 と、現場写真を詰め込みながら言ったのがこの台詞。返ってきたのがその台詞。さて、粟島は何の話かと思案した。
「……はァ? あ、香水かもしれませんな、ははは……」
 加齢臭が気になると妻にしかめ面で言われたのが余程堪えたのである。くたびれたスーツでデパートへ赴く屈辱よ。化粧品の香りと販売員らの愛い顔立ちに囲まれ、ひとまず安いものをと選んだのがこの香水。妻はそうじゃないのよ、と冷めた目を向けていたが、瓶詰の青い液体は粟島に妙な自信を与えたのであった。

 敬は笑みを深めて喉を鳴らし、「えぇ、えぇ。もう少し高価なものを買ってもよかったのではと思っておりました。だから違います」と、その自信を無遠慮に叩き壊す。
 粟島は思わず硬直した。敬は同年代より落ち着きのある紳士であった。こんな無礼なことを言うなんて信じられなかった。
「でもその香りと粟島さんの汗の匂いが混ざって何とも言い難い、そう、おいしい匂いがするのです」
 その笑みとは裏腹に深淵のような敬の暗い瞳を前に、逃走本能が素早く粟島の思考を捕らえた。
 勢いよく立ち上がり、鞄を掴み上げて玄関へとつま先を向ける。瞬時捕まれた粟島の腕は、食い込んだ爪で深く裂けた。ドクッと溢れた血はゆっくりと下降する。

 その熱さにたまらず敬の顔を見やれば、敬の下顎が観音扉のように左右にパカっと開き——鋭利な牙に黄色い毒液をたたえた屈強な顎が内側から飛び出し、ぷすっと粟島の手首を矢のような速さで噛みついた。
 手首に残された二つの穴。垂れる液。それを眺めているうちに足元から感覚が崩壊した。
 重い頭を支えられず荒い息で床に倒れる。呼吸すればするほど息が苦しくなる苦痛に、粟島は真っ赤な顔で脂汗をかき、助けを求めて手を振り回した。天をかき混ぜるだけの手先は麻痺して、やがて重量に従って落ちるだけである。
 陸に打ち上げられた魚のように震えて悶絶する粟島を見下ろす敬は、少しばかり憤った様子であった。
「いつも、いつも、面白くなかった。歩きでいらっしゃるようになってから本当に。僕の気も何も知らないで。ただでさえ汗の匂いがして堪らなかったというのに」
 しゃがみ込んで粟島の顔を覗き込む敬の顔。
 息苦しさから解放される感覚とともに意識が飛んだ。


 水音。
 ぴちゃ、ぴちゃとやたら近い。
 浮上したばかりの意識で、どんよりと世界を見ていたが、耳に粘液の滴りと肉の熱さを感じて反射的に起き上がる。それを阻止した腕こそが粟島の腕を裂いたのであり、このベッドに縛りつけたのである。
「や……ッ、先生。一体、これは……どういうことですかな」
 久しぶりに呼吸できた感覚だ。粟島の声はまだ苦しげな音を立てていたが、敬は薄闇の中微笑を浮かべる。柔い表情に反して、粟島を引き戻そうと肩を掴む手は硬く、拒絶することは許さぬとささやかな殺意が満ちていた。
 見れば粟島は身ぐるみ剥がされ、扇風機にあおられた胸毛が悲しく揺れていた。あらわな陰部は暑さにやられたのか股座の間で萎んで垂れている。文字通り丸腰。いや丸裸か。
 粟島とて伊達に修羅場をくぐり抜けた男ではない。この不利な状況では逆らわないのが妥当かと大人しく輸入物のベッドに身を預けた。その時、敬の均整のとれた肉体がぼんやりと浮かんだ。そして彼もまた裸であった。粟島はヒッと目を見開く——いやァ、このパターンはじめてだぁ……。
 敬は寝返りを打ち、殺意から慈愛に変わった腕を伸ばして粟島に擦り寄った。頭をぐりぐりと厚ぼったい腕にこすりつけ、唇を這いずらせた。
 粟島は視線を天井に向けて、敬を見るまいとした。
「……先生、悪いことは言いませんけどね、私とて警察です。こんな遅くまで戻ってきてないとなればですな、すぐにバレてしまいますがな」
「失礼ですが、今日粟島さんは非番ではありませんでしたか?」
「ハハッ、何をおっしゃる……」
 ——それが急に自信がなくなったのである。
 家から、妻には何て言ったかな。友人に会ってくると言わなかったかな。
 そしてふと思う。今日はまだ上司にも部下にも会っていなかったな、と。ならば非番だったのだ、そうに違いない。だって職場の人間に会っていないのだから。すると、とある事実がひょっこりと顔を出す。——写真。あの凄惨な事件現場。
「いや、しかしですな、写真が。あの現場写真は持ち歩いちゃあいけませんよ」
 だって大事な証拠なのだから。
 ところが敬は粟島の首筋に顔を埋めながら笑う。
「粟島さん、お疲れですか? 失礼ですが、あれは旅行の時のお写真でしたよ。熱海に行ったとおっしゃっていたじゃありませんか」
 あァそうだ。熱海旅行の時の写真だ。妻と並んで撮った写真じゃなかったかな。そうだそうだ。娘と撮ろうとして、あの子はとても嫌がって——どうして現場の写真だと勘違いしたのだろう?
「ハハ……お恥ずかしい、どうも最近ボケていけませんな」
「いいんですよ、うちでゆっくりしていってください。少し眠った方がよろしい」
 さて、粟島は先刻深い眠りから覚めたにも関わらず、あくびを噛み殺し、とうとう瞼を閉じてしまった。
 寝息を確かめ、敬は粟島の耳穴に吸い付き、舌をねじ込み、啜った。
 
 
 

皮を剥ぐ、服を脱ぐ

皮を剥ぐ、服を脱ぐ

ホモ・インセクトゥムは人類史においてごく最近に生まれた種族である。ヒトと虫の特徴を併せ持つ彼らは、進化のため人間と交わり続ける。 ——そして(愛する者の)皮を剥ぎ、服を脱ぐ。 ホモ・サピエンス×ホモ・インセクトゥムの異類婚姻譚。

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  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2021-07-12

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