丁稚奉公と忍者一家(改訂版)

丁稚奉公と忍者一家(改訂版)

第1話 与作の生い立ち

「与作!何をとろとろやっとるんじゃ。さっさと掃除を済まさんかい!」

「昼飯を食わさんど」

「へへへ、すみません」

 毎朝の様に、三次の町の商店街は、各店前の清掃から一日の始まりとなる。

 下っ端丁稚の与作は、隣近所の商店街の丁稚仲間と、店の前の道を雑談しながら掃き掃除をし箒を振り回すものだから、番頭さんから何時も怒鳴られっ放しである。

「こりゃ、こっちへ来て早よう大八車を引き出して来んかい。雨が降るかも分からんから菰の用意もしとけよ」 

「はい、分かりました」

 薬種問屋、浅田屋の商いの始まりは、薬の卸と、店頭での小売部門が有り、夫々の担当者は、猫の手も借りたい程のてんてこ舞いの忙しさである。手代や丁稚は頭ごなしに呼び付けられ、こき使われていた。

 与作は毎日毎日、雑用を上の者から命じられても素直に真面目にコツコツとこなしていた。

 浅田屋に奉公が決まった時、主人夫婦は朝礼訓示の場で

「此の度、採用した与作は百姓の倅で三男坊の、要らん子じゃと言われとったらしいんじゃ。志和地の庄屋さんに頼まれてのう。うちへ来て貰う事にしたよ。無学文盲じゃが、素直で馬鹿が付く程、真面目じゃ言うとったよ。一生懸命勤めると云うから可愛いがってやってくれんかのう。げに、要らん子と云うのは冗談でぇ、親にとってみりゃ、皆どの子も可愛いものよ。大番頭以下、指導鞭撻の上、宜しゅう頼むで」

 続いて奥様も無愛想な表情で

「与作は毎日、志和地から通うと云うから相当体力が有るんでしょう。どんどん遠慮無く鍛えてやって下さい」

 上得意の庄屋の山田屋の世話でも有る為で有ろうか、かなり雇用条件が良かったのだ。通常、手代や丁稚は、始めから浅田屋の大広間で雑魚寝の詰め込みで住まわせられるのが原則である。その為、一日の見境いが無く、朝から晩迄、何かと働かさせられていた。

 今迄の奉公人は長年に渡って辛い修業を経て、丁稚奉公から手代、番頭と出世し、上手くいけば出店を持てると云うのが当たり前の習慣が有る。

 だが与作の場合は、何の都合か知らないが通いを許されていた。其れを特別扱いしゃぁがってと、他の奉公人は面白くない、口には出さないが心の中では反発していた。

 どんな経緯で、庄屋の山田屋と浅田屋との採用条件の取り決めが有ったかは、奉公人の誰にも分からない。其れも、月に何度も非番の日を設けてくれていたのだ。

 其れ自体の事に付いては、与作自身もはっきりとは分からなかった。

 本来ならば、こんな取り決めなど一奉公人の都合で許されるなど有り得ない事だったのだ。

 多分、此れは以前からの浅田屋と庄屋との関係に原因が起因しているものと思われた。其れを薄々知っている奥様は、半ば、やけ気味に奉公人達の前でこき使えと発言している。

 其れを快く思わない他の連中は、何時も嫌がらせをして来たが、そんな態度にも与作は何処吹く風で有った。然し、与作には信念が有った。

 毎朝晩、片道ニ里半の道を早駆けし、何時も、誰よりも早く一番先に店に顔を出し、仕事納めも一番最後まで奉公していた。瀬谷から垰を越え青河を抜け可愛川沿いを下るのだ。街道筋で比較的なだらかな道であったが何せ遠い。

 今迄に何度も同じ道を、おっちゃんにくっ付いて行っていた時は面白半分で楽しかった。だが、いざ毎日通うとなるとそうはいかない。

 採用される時は、若さと体力に任せて、あゝは言ったものの段々と疲労が蓄積してきだした。たまの休みの日などには泥のように眠っていた。(因みにこの泥(でい)という言葉、古い中国のことわざで海にすむとされる空想上の生き物で骨が無いことから陸に上がると(どろ)の様に形を保て無いことからぐったりとして眠った様な状態になる事を意味する)

 朝はとも角、夕方の仕事納めが不規則なのだ。他の通いの奉公人達は、ある程度、定時に帰宅出来たが丁稚達はそうはいかない。与作以外は店の中に住み込みで居るから何かとこき使われる。そうした時には特に、与作には嫌がらせで狙い打ちされるのだ。手代程度の奴からも、つまらぬ用事を押し付けられ、帰りがけの足を引っ張られ、真夜中に帰宅するのは毎度の事であった。

 そんな与作を見かねた家族は、たまの休みの日に、いくら百姓仕事の手が欲しくても昼過ぎまではそっとして寝かせておいてくれた。

 親父はどうにも可哀想と思ったのか

「お前がそこまで疲れとるのを起こして、百姓仕事を手伝わせるのは気の毒じゃ。住み込みになる様に頼んでみるか」

「じゃが、お前の性格じゃったら、うんとは言わんじゃろうのう」

「今更な」

「其れならもう一寸、近い所から通えや」

「何処にそんな処が有るんじゃ、うちに三次の町に親戚があるではなし、他に下宿する程、給金は貰うとらんし」

「与作よ、ワシが昔、炭焼きをしとった小屋が有ろうが。小さい頃におまえを二、三度連れて行った事が有るで。あこから通うてみぃ、間道伝いに行くと一里は近いで。お前も暫くは独りもんじゃろうが、住むのには困らんぞ」

「そうか、あこなら物凄う近いわ。小さい頃に、すぐ峠の上に駆け登って三次の町をよう眺めとったなぁ。比叡尾山のお城が目の高さにあったよ。其れに夜は泊まって飯を炊いて食べて楽しかったなぁ。囲炉裏で焼いて食べた丸干し、スルメの味が今も忘れられん」

「其れなら、ワシが明日行って見てから段取りを付けちゃろうか」

「ええんか。ほんまに、すまん」

 何せ親父は百姓仕事の傍ら大工を生業としている。

 やはり持つべきは親で有る。

 与作が毎日実家から勤め通いをしている間に、二間四方の小さな小屋に、内装を施し外に風呂や厠まで付けてくれた。材料はいくらでも有る。何せ自分の持ち山だ、綺麗に造作をしてくれた。

 其れから四、五日して

「与作、今晩からあっちへ寝てもええでぇ、一通り住める様にしてやったぞ」

「もう出来たんか。早やいのう」

「風呂だけは二、三日は待てや。塗り土がよう乾いとらんからのう」

「早速、今晩から使わせて貰います」

「皆んなしてやってくれたんじゃろう、有難う」

「そうじゃ、母さん、兄貴、其れにハナちゃんも喜んで手伝どうてくれたよ」

「風呂釜まで重いのに遠くまで担いで上がってくれたんか。何から何まで有難うございました」

「小屋へ住んだらな、ワシ達の百姓仕事の事は全然気にすなよ。とに角、浅田屋の仕事の方を真面目にやってくれ」

「有難う、親父」

 そう言われた短い礼の言葉に、父親は目に一杯涙を溜めていた。やはり、息子が親元を離れるのが父親として寂しかったので有ろう。

 余談だが、後年になって与作が三次藩になくては成らない存在になった時、庄屋の山田屋さんの過去帳を見せて貰った。其の時、山田屋と浅田屋との関係を知る事となった。

 其れによると浅田屋の主人は婿養子に入っている。    

 代々、女系家族で男子に恵まれなかったのだ。当時、浅田屋には娘二人がいたが嫡男がおらず、養子を迎える事となった。其の時、志和地出身の男で後継者に入ったのが、丁稚奉公から長年辛抱をして、当時の店主に気に入られたのが今の主人なのだ。

 其の人は、与作と同じく百姓の倅で次男坊で有った。

 育った家は貧しく田畑は無くて山田屋の小作人で有った。此の男は子供の頃から真面目な働き者でいい性格の人間で有った。処が父親が酒癖の悪い男で、何度も役人の世話になっており、其の度に、牢からの引き取り保証人に庄屋の山田屋さんが何時もなってくれていたのだ。

「お前がそう云う人間じゃったら、子供達が何処からも認められんぞ。働き口が無くなるじゃろうが」

 と、こんこんと諭され以降は一切の酒を断ったので有る。其れが長く続き、此れなら大丈夫だろうと、庄屋さんの世話で次男坊を浅田屋の丁稚奉公に送り出したので有る。

 三次から可愛川を西南に遡る事、二里半の処に志和地が有る。

 現在、此の地は可愛川を挟み毛利軍と尼子軍が支配しており、互いが対峙している要衝の地であった。だが、其処に昔から住んでいる百姓達にしてみれば、安芸、備後の国境には関係が無く、与作の実家は両方の地に田畑、山林を所有していた。庄屋に次ぐ資産が有った。

 然し、所詮は百姓で有る。子沢山の上に年貢の取り立てが厳しく、何時迄も生活が苦しかった。

 与作は三男坊として生まれ、小さな頃から農家の手伝いとして重宝されていた。だが何れは独立しなければならない。当然、跡取りの長男が財産を引き継ぐ時代で有ったからだ。

 此の時代には、学問をする処や其の機会すらなく、田舎者で貧乏暮らしの百姓達は、無学文盲のまま一生を終えていたのが殆どで有った。

 与作は小さな頃から、人懐っこい性格で隣近所からも可愛いがられていた。

 専正寺の住職さんには特に懐いて、何時も頭を撫でられて、子供ながら大喜びをしていた。

 因みに、与作の兄妹や隣近所の子供達で、寺に寄り付こうとするものは誰も居なかった。

 子供にして見れば、仏像や建物の雰囲気が不気味で、お坊さんの袈裟掛けの衣装も怖かったので有ろうか。

 月に一度は有る、お寺での法話集会に、近隣のお年寄り達の大勢が説教を聞きにお参りしていた。其の時は、何故か与作もお婆さんと何時も一緒に出掛けて行く。

 今日もお婆さんの手を引いて

「早よ行こ、早よ行こ」

 と急かすので有る。

「ハナちゃんも行こ」

「嫌!」

 然し、子供の与作にとっては説教など分かりもせず、全く興味が無く目的が他に有ったのだ。法話が始まっても全くじっとしている事が無く、あっちこっち移動しながら天井を見上げていた。

 其処に描いてある多くの絵を見るのが好きで、上を向いて自分の手で絵取りながら頭の中に叩き込んでいた。

 そして和尚さんの説教が済むと、奥様が小さな包みを幾つも持って来て

「今日、お参りしてくれた子供さん集まってね」

 与作も一列に並び、皆んな夫々お菓子を受け取っている。其の度に、和尚さんと奥様が全員の頭を優しく撫でていた。

 与作は此の両方が嬉しくて、毎度、欠かす事無くお参りしていたのだ。

 貧しい農家育ちの子供達にとって当時は、お菓子を口にする事など、お祭り、盆、正月以外には殆ど無かったのだ。まだ与作の家は恵まれた方である。お婆さんが説教を聞きに行くには、何がしかの賽銭か、お米を供える事が出来る大百姓であったからだ。其れが小作人の身分であれば到底かなわぬ夢であった。

 与作は貰った物は、自分だけで食べるのではなく持ち帰り兄妹に分けていた。

 特に妹のハナは大喜びで、よく自分の物迄やっていた。

 其のうち与作は、法話が無くても何時の間にかお寺に顔を出すのが習慣の様になりだした。

 というのも、与作はお参りしていても法話そっちのけで長い廊下や広い前庭を走り回るのだ。ある時、庭の石畳を走っている時滑り転げたのだ。其処には多くの落ち葉が風に吹かれて舞っている。

 膝小僧を擦りむいて血が出ているではないか。其れを見つけた奥様は庫裏に連れて入り手当をしてくれた。

「与作ちゃん痛くない」

「うん、これくらいなんともないよ」

「よかった。大した事なくて。でもごめんね。落ち葉を綺麗に掃いとけばよかったのに」

「うちもね、段々身体が弱ってきて庭掃除が大変なのよ」

 見れば毎日落ちる葉っぱが山の様に溜まり、庭はモグラの穴でデコボになっている。

 此れを治療をしてもらいながら見ていた与作は、何時もお婆さんが言っている「物を大切にせえよ、人の為になる人間になれよ」という言葉が頭をよぎったのである。

 ここが与作の賢いところだ。

 翌日から、小さな身体でびっこを引きながら、わら草履を履いて楽しそうに田んぼのあぜ道を駆けてくる。門の前に来ると一礼して中に入り、嬉しそうに広い庭掃除を誰に言われる事が無くても自然にする様になりだした。終わるとさっと帰って行く。

 全く、人懐っこい性格で、和尚さんや奥様と顔を合わせるとニコッと笑い

「おはようございます」

「お早うさん。今日も来てくれたんか」

「へへへぇ」

 掃除が終り帰りがけに奥様と顔を合わせると

「又来るね」

「母さん、与作はえゝ性格をしとるなぁ」

「ほんに可愛い子ですね」

「こんな子は今時珍しいよのう、他の子や大人迄もが、寺の建物や雰囲気を気味悪がってあんまり寄り付こうとせんのにね」

 段々と日を重ねるに従い

「和尚様、奥様、何か他に与作がする事は有りませんか」

 お寺さん夫婦も段々と歳を重ねて来ており、足腰も大分弱ってしまっていた。

 その為、与作の優しい言葉に何時しか甘える様になっていた。

 何時も全く無料奉仕でやってくれて、何も要求する事が一切無いのだ。

 和尚様や奥様が体具合が悪い時など、鐘を突いたり、買い物の使い走りをしてくれたり、法事、法要の知らせにあっちこっちに連絡に行ったりと、とに角、じっとしている事が無い。

 其れが習慣のようになり、和尚様も段々と甘える様になっていた。

 専正寺としては小僧さんとして面倒を見て上げたい。だが檀家も少なく雇うほどの金銭的な余裕がないのだ。

「与作よ、何時も済まんな、世話になっとるのに何もしてやれなくて」

「とんでもない、何も要りません。ただ、与作は和尚様の顔を何時も見ているだけで幸せなのですから」

「泣かせる事を言うな」

 と目頭を拭ったので有る。

 だが、お寺さんには、しょっちゅう檀家の誰かがお供え物を持って来てくれる。

 其れを必ず与作にお裾分けをしてくれていた。又、盆、節季には僅かながらも心付けをしてくれていた。

 子供の成長は早い。此の頃になると和尚様や奥様から見ると、日に日に大きくなっている様に感じられ、ただ与作をこのまま何も習得しないままで、大人にしていいものかと自責の念に駆られていた。

「お父さん、与作の事ですがね」

「おう、お前の言わんとする事は分かっとるよ」

「与作は何れ世の中の為になれる男じゃ。ワシも今、其れを真剣に考えておるところよ」

「与作はね、何時もお父さんが読経している時、箒を持ちながら近寄って来て、口裏を合わせる様に一緒に唱えていますよ」

「ほうか、其れは気が付かなんだな」

「何時も何かを吸収しようと一生の懸命な様ですよ」

 そうした日々の生活が続いていた時の事で有る。

 昨夜から降り続いた雨も朝方に止み、何時もの様に与作が顔を覗かせた。

 広い庭先の掃き掃除を角から角まで綺麗に済ませた後、砂地の上に箒の柄を逆さにして何やら書いている。

 本堂の横にある案内板に檀家の皆さんの為に書き付けが貼ってある。その書いてある文字をじっと横眼で見つめながら書き写しているのだ。書き順は出鱈目だが何やら文字らしい様だ。たまたま高い本堂の廊下から暫く様子を見ていた和尚は

「与作、何をしとるんじゃ」

「あっ、和尚様すみません」

 と言いながら慌てて掃き消した。

「怒っとるんじゃないよ」

「あのう、此処に貼って有る、和尚様や奥様の書いた、法話案内板の字を見よう見真似で地面に書いておりました」

「お前は学問が好きなのか」

「はい、特別好きと云う訳では有りませんが、興味は多いに有ります。でもしたくてもね、貧乏百姓の倅でお金も無くて、どうしようも有りません」

「そうか、そんな事を気にしとったんか」

「よう分かった。与作よ、お前は何時も善意で寺の為に無料奉仕をしてくれとる」

「お前は、何れにせよ、世の中の役に立てる人間に成れる男じゃ。今からでもええから、ワシの手の空いている時は何時でも来なさい。教えてやる」

「えゝ、本当にいいんですか」

「ほんまじゃ」

「うちには本を買うお金も無いんですけど」

「ええから、ええから」

「でも心配で」

「ワシはな、嘘と髪はゆうた事が無いよ」

 と言いながら自分のつるつるの頭を一撫でしてニッコリ笑ったので有る。

「処でな、与作よ、門前の小僧習わぬ経を読むと云う諺が有るんじゃが、まさかワシが読経しとるんを覚えとるんじゃ有るまいのう」

「はい、ほとんど諳んじております。何時も和尚様の口調に合わせてお唱えをしています」

「やっぱりな」

「ただ、文字の書き方や意味が全然解りません」

「そりゃワシにもよう分からんがな」

 と笑いながら

「よし、其れなら写経をやりなさい。精神修養にもなるし、何と言っても多くの文字を覚える事が出来る。お手本をやるから」

「えぇ、本当にいいんですか。有難うございます。早速始めます。其れと和尚様、もう一つ欲しいものが有るのですが宜しいでしょうか」

「ああ、何でも云ってみな」

「実は、掃除をした後、最後に捨てている蝋燭受けに溜まっているカスを頂けないでしょうか」

「何んにするんじゃ」

「寄せ集めて練り直し又使います」

「ウ〜ン、そうか。いいよ、いいよ。夜にも勉強するつもりか」

「昼間は百姓の手伝いが有り仲々手が空きませんから。其れに自分の好きな趣味もやりたいですから」

「何んじゃ、其れは」

「へへへ」

 と笑いながら話さなかった。

 和尚様は早速その晩に、与作の事で今日話した事を奥様に告げた。

「おい、母さんよ、ワシャ此れから与作の為に学問を教えちゃろうと思うとるんじゃがええかのう」

「お父さん、其れは非常に良い事を思い付きましたね。私もいずれ何かの方法を考えておりました」

「そうか、賛成してくれるか」

「与作はな、既にワシが何時も読経しとるのを聞きながら全て諳んじる事が出来るんじゃ。其れこそ類稀なる才能じゃで」

「必ずや世の中の役に立つ人間になれる男じゃ」

「私やお父さんが具合が悪い時でも、常に喜んで手助けをしてくれました。ほんの少しでも感謝の心を込めて恩返ししてやりましょうよ」

 ー寺子屋はいつの時代から始まったのかー

 室町時代後期の頃から下級武士、町人、農民の子供達を近郷近在から集めて、学問を学ばさせる為に知識、教養の有る僧が教師として寺で始まったものである。こうした世の中の流れに、与作は丁度いい機会で専正寺の一期生となったのである。備後の地に於いてはお寺さんの最初の事であった。 

 与作は、この時分から負けず嫌いではなく、徹底した凝り性で道を極めなければおれない性分なのだ。和尚様が本堂で多くの檀家を前にして法話をしている間、お婆さんに一緒に付いて来た小さな与作は、真剣に天井絵を指差し絵取りながら描いており、ちゃんと頭と心の中に書き留めている様であった。

 此奴は小さいながら、並の人間ではないと和尚様は其の時から感じていた。とに角、観察眼が鋭いので有る。

 案の定、其れから寺に出入りして数年し、庭を掃除する様になってから何時しか、竹箒で白砂の上に絵を描く様になっていた。

 今日も何時もの様に法話集会が有るのだが、寺にお参りに来た檀家の人達が、縁側の上に集まって庭を眺めている。

「何と落ち着いた見事な絵模様ですのう。専正寺さんも、ええ事を始めましたのう」

「ほんに気が休まりますね」

「飛び石と植え木と綺麗に調和しておりますね」

 其れから本堂で法話が始まる前に、お年寄りの一人が砂絵の事について尋ねた。

「御院家さん、庭が見栄えの有るものになりましたのう」

「ははぁ、ありゃワシじゃないよ。そんな絵ごころは残念ながら持ち合わせとらんよ」

「何時も掃除をしてくれとる与作が川砂を板木川から持ってきては描いたのよ」

「へぇ〜、あの子がねぇ」

 写経をやったり、読み書きを、昼夜、暇を見つけては

 お教えてくれる和尚様も与作の吸収の速さには驚いていた。学問を教える前から既に、お手本の中身を全て諳んじているくらいだから、進歩が速いのは当然かもしれなかった。

 其の頃には、仲の良い妹のハナも、学問を学ぶ与作に多いに興味を持っていた。

 与作は何時も離れの納屋の小さな部屋を寝床としていた。家族が多い為、母屋に雑魚寝の状態で蝋燭をつけてまで勉強する部屋が無かったのだ。

 お寺から貰った蝋燭の灯りの下で、手本を読み書きしている処にハナがやって来た。側に座り込むと

「今度は何を教えてもろうたん、うちにも教えてえや」

「どしたん、ハナちゃんも勉強したいんか」

「うん、お兄ちゃんが毎日嬉しそうにしとるのを見ると羨ましいんじゃ」

「よしゃ、今度から真面目に覚えて来て復習がてら教えちゃるぞ」

「ほんまぁ、其れならどっちがよう出来るか競争しょうや」

「そりゃええがな、ハナちゃん、よその人には和尚様から学問を教わっている事を言うなよ」

「うん、分かった」

「家族のものにもあんまり言うまあで」

「分かったよ。二人の秘密じゃね」

「へへへ、頑張るぞ」

「うちもよ」

 こうして与作が和尚様に教わった事の予習復習の口伝てによる、耳学問、目学問で二人の相乗効果が倍加し一気に吸収していったのである。

 ある時、こう云う事があった。昼間に和尚様から一寸づつ教えて貰った与作が帰るのを待ち構えていたハナは、其れ迄、寺の門外で近所の子達と広い寺の周りを駆けっこをしたり、かくれんぼをして遊んでいる。

 それから兄妹で田んぼ道を歩いて帰りながら、声を出しあいながら読経するのであった。

「ナマンダブ、ナマンダブッ、キミョムリョジュ二ョライ、ナムフカシギコ・・・」

 野良仕事をする人や、行き交う周りの大人達は、何と変わった兄妹じゃのうと、すれ違いざま、振り返りながら、半ば変人扱いであった。

 だが、この当時、与作が和尚様から学問を教わっているなど、村人達が誰一人として知る者はいなかった。

 ましてや、無学文盲の両親や兄貴にしてみても、与作はしょっちゅう、寺の為に、掃除や使い走りばかりさせられていると思っていたのである。

 唯一人、本当の事を知っていたのは仲のいい妹のハナだけであった。

 処が、其れも暫く時が経つと今度は

 孔子の「子日く、学びて時にこれを習う、亦た説ばしからずや。朋あり、遠方より来たる、亦楽しからずや」

 と論語を喋り出すものだから、村人達はたまげまくり、この兄妹への見る眼が段々と変わってきた。

「おいおい、与作もハナも気違いどころか天才なんじゃないのか」

 と言われ出して、いっぺんに評判が反転したのである。

 だがハナは、学問を学ぶ為に、寺の門をくぐる事は絶対に無かった。お寺さんが怖いと云う気持ちと、自分が百姓の娘で有り、此の時代は女性が学問をするものでは無いと言われており、田舎育ちのハナにとっては尚更の事であり自覚が有ったのだ。

 あくまでも与作からの口伝てでの習得であったが、ハナは、此れこそ断トツで能力が優れていたのかもしれない。

 与作がお寺さんを辞める二年くらい前から算盤の弾き方を教えてくれだした。

 そろばんと呼ばれ室町時代に中国から伝来したもので珠を動かして計算する道具のことである。

 和尚様は基本は分かるのだがどうにも鈍臭いのだ。

「オイッ、ワシャこりゃどうにも手に負えん、坊主に算盤事は似合わんよ。ハハハ」

 と豪快に笑い飛ばした。

「与作よ、こりゃお前の頭なら簡単に理解出来るじゃろう。自分で鍛えてくれぇや」

 と計算が苦手な和尚様が算盤二本と手本をくれた。

 其れを家に持って帰って来た。

 早速、その晩に練習がてら小さな机に向かい独り悪戦苦闘していると

「どしたん、苦虫を噛み潰したような顔をして」

「ウ〜ン、珠がええがに動かんのじゃ」

「お兄ちゃん、一寸かわってみて」

 ハナは与作から取り上げると

「こんなもんはらくちんよ」

 ハナに苦労しながら手本通りに一通り教えると、瞬く間に習得してしまった。

「どしたんじゃ、何で簡単に分かったんじゃ」

「へへへ、其れはね、買いもんに行った時にお店のおじさんに、ちょっとずつ教えてもろうとったんよ」

「其れにね、和尚さんに貰った他の本にやり方が書いてあったんよ」

「どおりでか」

「うちはね、ほんもんの算盤が無いから頭の中と指先で動かしとったんよ」

 和尚様が算盤を二つくれたのも、とうの昔からハナの実力をお見通しだったのだ。

「お兄ちゃん、うちにも算盤をもろうたんね」

「そうじゃ、お前等で競争しながら鍛えてみぃと和尚さんがな」

「嬉しい!礼を言うといてね」

 暫くして一月もしない間に与作は

「こりゃ敵わんわ。ハナ先生、此れからはご指導の程宜しくお願い致します」

「へへへ、うちが先生か」

 互いに読み上げ算をやるのだが

「兄ちゃん、遅い、もっと速く!」

「待てや、ワシャ、付いて行かれん」

 与作と向かい合いながら、競争する様に読み上げ算を言い合い、凄い速度で珠を弾く様になっていった。

 ハナは朝から晩まで算盤を離さないのだ。何せ、和尚様から頂いた大切な大切な宝物なのだから。

 二人の精進のお陰で与作も相当に速いのだが、とてもじゃないが敵わない。

 とに角、もらった手本に忠実で確実に一段一段と駆け上がり、与作より一足先に頭の中でパチパチ珠を弾き出し、もう暗算の域に達していたのだ。

 志和地には五軒程の小さな雑貨屋、食料品店、衣料屋があった。

 其れらに、たまに母親や与作が買い物に行く時などは必ずハナが付いて来た。

 与作と一緒の時は、お経を唱えたり、孔子の論語を歩く道すがら口ずさみ、又、数字を読み上げながら互いに暗算しあうのだ。

 お店に一緒に買い物をしている時など一瞬で計算してしまう。

「おばちゃん、幾らね」

「一寸、待ってよ、私しゃ頭が悪いから手間が掛かるんよ。ええとね、ええとねぇ七十三文よ」

「違うよ、ハ十文よ。おばちゃん、七文の損よ」

「有り難うね、ハナちゃんは正直者だね」

 以降はどの店も行く度に商店主はハナに頼りきり

「ハナちゃん幾らになった」

 と聞くと

「五十二文よ」と即座に答える。

「有難う、二文負けとくよ」

 店が立て込んで忙しい時などは、他のお客さんの分までも勘定計算してあげていた。

 算盤などは一切使わず全て頭の中で瞬時に解答してしまう。

「ハナちゃんの頭はどうなっとるんじゃ」

「ほんま、凄いのう」

 居合わせた他の客から拍手が起こった。

 一緒に来ていた与作は帰りがけに

「ハナちゃん、ワシは算盤では絶対に勝てんよ、どしてそこ迄出来るんじゃ」

「和尚様から頂いた算盤で、何とか手本に書いてあるような暗算が出来んかと思うたんよ。出来る人が孔子の国の方にはおるんでしょ」

「それにしてもハナちゃん凄いなぁ」

「うちは此れが性に合うとるんよ、好きこそ物の上手なれと言うじゃない」

「生意気な、もう和尚様に習った諺を使いやがって」

「へへへ」

 本当に仲の良い兄妹であった。

 与作は専正寺の和尚様にも可愛いがられたが、更に其れ以前から、近所の下級武士の小さな住まいにハナと一緒に遊びに行っていた。自分の子供の様に可愛がって目を掛けてくれ色々な事を教えてもらっていた。

 お侍様は八幡山城の警備担当でもしているのか、一人者で全く質素な暮らしぶりで、少しの田畑が有り自分が食べる程しか収穫が無いで有ろう。

 そんな男の六畳二間の小さな住まいに、人懐っこい与作は何時も上がり込んでいる。

 今日がたまの休みの日であることを知っていて、オンボロ玄関戸を開けると

「おっちゃん、何しょうるんね」

「おお、与作か、まぁこっち来いや」

「丁度ええとこへ来たな」

「どしたんよ」

「ゆんべな、城で祝い事があってな、紅白饅頭を貰ろうて来たから全部持って帰ってもええで。ワシャ甘い物は苦手じゃ」

「えゝ!ほんま、有難う。うわ〜美味そうじゃ」

「与作、ワシは昨夜、遅そうまで飲んどったから二日酔いじゃ、昼迄寝とくでぇ」

「なんぼでも寝ときんさい。貰って帰るよ、有難う」

 早速、家に持って帰るとハナが飛び付いて来た。

「わぁい、饅頭じゃ!」

 数が多く有り全員が食べるのに充分であった。

 与作の家族は、何時も子供を可愛いがってくれるお侍さんの為に、小さな田畑の世話を殆ど見て上げていた。春先の田起こしから田植え草取り肥料やり、其れに稲刈りから秋の収穫迄もだ。おっちゃんは武士らしく無くて、百姓一家と全く気軽に付き合ってくれていた。

 昼過ぎに与作が外に出て見ると、目が覚めたのか畑に入って鍬を持って草取りをしているではないか。

「ハナちゃん、行こ、手伝っちゃろう」と小さな鍬を持って駆けつけた。

「おっちゃん、有難う」

「おっちゃん、饅頭、美味しかったよ、ハナも草を取るね」

「有難う、有難う、お前達は優しいのう」

 小さな畑だが、子供の手でも捗るものだ。

「おい!、与作、ハナちゃん。ワシの一日仕事があっと言う間に済んでしもうたで、どうしてくれる」

「ハハハ、猫の額程の広い畑じゃのう」

「与作よ、今日は天気がええけ鬼ヶ城の方へ釣りでも行ってみるか」

「行こ、行こ、道具はこの間揃えとったからね、ミミズを掘って来るよ」

 二人並んで釣り竿を肩になだらかな道を、おっちゃんは二日酔い冷ましがてら歩いていた。周りは田植えが済んで一段落し青々とした風景が広がっている。

 仲良く歩く様はまるで親子の様であった。

「おっちゃん、腰に差しとる竹筒は何ね、笛ね」

「こりゃな、吹き矢よ。後から見せてやるか」

 今日は何時もの二本差しではなく此れを腰にしている。

 家から小一里くらい歩いて、やがて川幅も狭まり岩場の険しい渓流釣りの場所に到着した。

「与作よ、ここら辺で始めるか」

「よし、どっちが大きいのをぎょうさん釣るか競争じゃ、負けんよ」

 此の場所では山女魚がよく釣れ、塩焼きにすると非常に美味しいのだ。

 おっちゃんは自分で料理をするのが苦手で、ちょくちょく与作の家に来ては、調理をして貰っていた。その礼に皆んなが食べれる程、多くの魚や他の材料を買って来てくれるのだ。

 夫々、離れた急流の岩場に釣り糸を投げていたら

「与作、一寸、来てみ」

「どしたん」

「今から丁度ええもんを見しちゃろう」

 与作は言われて釣り竿を岩場の隙間に差し込んで呼ばれた方に近寄った。

「今から吹き矢の使い方を教えちゃろう」

 急な足場を少し登った処に松の木が有る。

「静かにしとれよ。あの高い木の上に雀が止まっとろうが」

「うん、おるおる」

 足音を忍ばせて斜め下に来た。袋から矢を取り出し竹筒の中に差し込んだ。

「よう見とれよ」

 そして身体を固定し、筒先がぶれ無い様に松の木の又に筒を置き口を当てて狙いを定めた。

 プッと一瞬音がした。すると雀に命中し落ちて来た。

「凄い!おっちゃん凄い!」

「ざっとこんなもんよ」

「教えて!与作にも教えてよ。おっちゃん、此れ何流」

「何ぃ、こんなもんに流派なんかありゃせんよ。しいて言うなら無手勝流かのう」

「やっぱり有るじゃないか」

「帰ったら吹き矢の作り方から伝授しちゃるよ」

「有難うね、是非共よ」

「そりゃえゝが与作よ、今度、三次に行く用事が有る時に一緒に付いて来んか」

「行く行く、連れてって」

 釣り糸を垂れながら、おっちゃんと与作は釣りそっち除けで雑談にふけっている。

「おい、ごちゃごちゃ話しばっかりしとったが、ちったぁ釣れたか。賑やかにしとるから魚が逃げてしもうたで」

「そうじゃね、今日は引き分けじゃ」

「帰るとするか」

 釣果の無いまま二人は鬼ヶ城を後にした。

 其れ以降、与作は三次に行くのを約束して以来、丁稚奉公に上がる迄に何十回と同行したで有ろうか。 二人共、健脚なので比叡尾山城や代官所、其れに各商店の有る町中で用事を済ませて往復するなど、二人にとっては、一日中の行程で有り楽に済ませてしまうのだ。

 小さな八幡山城には、さしたる数の城勤めの侍は居ないので有ろう。

 三次の町中に、使いに走らせる人員が足り無かったのではないのか。

 其処で与作ならと目を付けたので有ろう。その当時は与作はまだ子供で、城の事情を知る由も無かった。 

 おっちゃんが城主の弟で三男坊で有る事が分かったのは、ずっと後の事である。多分、一人二役も三役もこなしていたので有ろう。

 其処へ、与作は何も文句も言わず喜んで遠い処へも付き合ってくれるので、全く渡りに船だったのである。

 とに角、与作が居てくれると重宝するのだ。

 三次の町に出掛けて行った時は、おっちゃんは必ず代官所に立ち寄り色々な打ち合わせが有るのであろう、結構時間が掛かった。何の用事か子供の与作にとってお侍さんのする事は一切、分からない。ただ与作は仕事を任せられている事だけが嬉しいのだ。

 其の間に与作は、八幡山城で必要な事務用品、什器備の品を書いた紙を持って各店を回って仕入れ、小さなビクを背負いながら、其の中に買った物を入れている。

 其れに時には一段と遠い畠敷の比叡尾山城におっちゃんが一人で駆けて行く事もあった。その時は一日中をかける時間を要していた。何もかもやっていれば、とても一日中走っても間に合わないで有ろう。

 こんな時にも、与作は一緒に帰るまでの間を退屈する事も無く、巴橋の河原に下りて写生をしたり、川面を泳ぐ鵜の動きを観察していた。此れは後に三次の馬洗川で始めた鵜飼という鮎取りを始めるきっかけになったのである。

 とに角、おっちゃんの手足となって動いてくれるので非常に助かった。

 一緒に出掛けて行く最初の頃、与作は、全く読み書きが出来ず、相手の商店に書き付けを渡して読んで貰っていた。だが回を重ねる毎に其れも解消され最後の頃になると、使いの報告書は恐ろしいほど几帳面に整理して書かれ、其れもお手本に有る様な綺麗な字で記載されており、此れは同時期に和尚様から受けた教育の賜物で有った。

 与作が一通り役目を済ませると後は楽しい昼飯だ。おっちゃんは何時も駄賃に昼飯代をくれる。一銭飯屋で

 は多くのおかずが並んでおり、普段に家で食べた事の無い物が食べれるのだ。

 三次の町に出て来る度に決まって太田食堂に立ち寄るのだ。

 最初に店に入った時、小さな子供が来たので店主も訝った。だがそのうち何度も訪れるので話す様になりだした。朝早くに志和地から出て来て買い物を済ませ、此れから夕方に掛けて帰ると言う。

 其れからは、毎度の様に無料で帰りのむすびを包んで持たせてくれた。

「おっちゃん、有難う」

「何の、何の、こまいのに大きなビクを背負うてご苦労じゃのう。気を付けて帰れよ」

「何時も志和地の城のお侍様と一緒に来て、三吉のお殿様の城や代官所で用事をしている間に買い物して回るんじゃ」

 与作は子供心にも店主の親切が身に染みて嬉しかった。

 そして飯代を払ってもまだ十分に余るので、駄菓子屋に立ち寄って親兄妹に饅頭や菓子まで買って帰れる。家族の喜ぶ顔が目に浮かぶようだ。

 さらに少し余ると、ハナに小遣いをやり自分も貯金をしていた。

 時には、ハナは与作が三次から帰って来るのが待ちきれず、一人で歩いて半里程ある峠の上に迎えに来る事が度々あった。てっぺんから見ていると遠くから、おっちゃんと与作がビクを背負いながら坂を登って来るのが分かるのだ。

「おっちゃ~ん、お兄ちゃ~ん」

「おう、ハナちゃんが迎えに来とるでぇ」

 一気に坂を駆け下りて来た。すぐにお土産を抱えて嬉しそうに小走りに駆けて行く。

 一度だけこう云う事も有った。五月晴れの穏やかな日に迎えに来ていた。だが帰りが何時もより一刻ほど遅くなってしまい、待ちくたびれたハナは、峠に有る小さな草葺き屋根の下で眠り込んでしまった。小さな娘が、赤い鼻緒のわら草履を履いたままで有る。幸い悪い人間に合わなかったから良いようなものの、おっちゃんや与作は見つけてたまげていた。

 この青河峠は見通しも良く、上と下に直ぐ人家が有り、山賊が出没する場所ではないがやはり心配なものだ。

 其れ以降は二度と来させない様にしていた。

 時には、おっちゃんは八幡山城で使う馬を購入に、二十日に一度、馬洗川の土手下の河原で開かれる家畜市場に出向く事も有った。その為に、与作に一緒に来てもらおうと乗り方を教えてやろうと家の前に馬を連れて来た。

「ごめんくださいよ」

 おっちゃんの一声に、母親が何事かと戸を開けて出て来た。その途端

「うあー!」

 と驚きの声を発した。

 直ぐ目の前に大きな馬が二頭がいるではないか。

「すまんすまん、びっくりさせて」

「上里様、たまげた〜」

 其処へ与作とハナが出て来た。

「おっちゃんどしたんね」

「ハハハ、与作よ、今度、馬を仕入れに松原の家畜市場に行くんじゃが付き合うてくれんかのう」

「えぇ〜、でも馬に乗ったこたぁ無いよ」

「大丈夫じゃ、今から教えちゃるから付いて来んか。板木の方へ行ってみようや」

「分かった、ハナちゃん行って来るよ」

「兄ちゃん、落ちんようにね」

 この時代になると農耕する為の牛馬を全国各地で取り入れて、農業仕事の効率化を図る様になり出していた。然し、田畑の少ない貧しい農家では夢の又、夢で有った。ただ人手の数だけで米の収穫作業をする為に、何時迄も辛くてきつい百姓達で有った。

 今度、購入に行こうとする馬は、主に軍事馬や早馬として活用する為のものだ。馬といえば通常武士が乗るものであり、町人百姓が乗る事は到底有り得なかった。

 家の前から馬の手綱を引いて板木川沿を歩いて上った。毎度よく行く渓流釣りで通る道だ。やがて人家が見えなくなった辺り迄やって来た。

「与作よ、ここらへんからボチボチやるで」

「ほんまに乗れるんね。ワシャ心配じゃ」

「大丈夫、大丈夫、与作の運動神経なら、難無くこなせるよ」

「先ずな、馬に乗る心得として一番大切なものは何か分かるか」

「さぁ~、全然知らん」

「馬に対する愛情じゃ。とに角、此れが大切なのよ。其れに依ってお互いの信頼関係が生まれるんじゃ、常に優しい心で接しちゃれ。そうすると必ず応えてくれる」

「其れから手綱さばきじゃ」

「乗るのはなんちゅう名前ね」

「八助よ。与作、ビクビクするな、堂々としとれ」

 小さな与作は見上げる様に馬の顔を見つめながら

「八助、宜しく頼むな」

 と言うと、おっちゃんが高い鞍の上に、抱え挙げてくれた。

「ワァ、たかぁ」

「大丈夫、大丈夫、与作なら十分やれる。乗ったら先ずたてがみを撫ぜちゃれよ、此処が馬の一番敏感なとこじゃ」

 言われた与作は其れをやると八助は応えてくれ「ヒヒ~ン」といなないた。

「よし、今からゆっくり行くぞ」

 こうしてゆっくり進みながら手綱の引き方、鞭の使い方まで並行して走りながら教えてくれた。

「常に優しい声を掛けちゃれよ」

 運動神経抜群の与作の事、帰りにはおっちゃんの後を早駆けして付いて来る程になっていた。

 

 又、この頃から後に掛けて、与作は百姓仕事の手伝い以外に毎日色んな事に取り組む様になり出した。

 おっちゃんに教えて貰った吹き矢の製作から使い方を自分だけの山の中の城で練習していた。さらに一番集中したのは剣術の鍛錬で有った。

 日頃、おっちゃんが庭先で木刀の素振りや真剣での居合い、立ち回り稽古を何時も縁側に座って眺めていた与作は、常に自分がやっているつもりで、身振り手振りしながら頭の中に叩き込んでいた。

 其れを山中に入り、そっくり真似をしながら反復練習をしていたのだ。

 刀など有る訳もなく、自分で樫の木を削り小刀の長さに作り、常におっちゃんの倍以上は繰り返していた。

 だが、さすがに剣術だけは手ほどきを受けたいとは言えなかった。与作は所詮百姓の倅で必要の無い事なのだ。身分が違い過ぎる。

 然し、何か有った時に護身に役立てればと軽い気持ちで始めた事だった。

 だが、ここでも道を極めなければおれない凝り性という病を発症してしまった。

 大小二本差しが叶わずとも、せめて小刀なりともと。

 一度だけ与作は父親に厳しく怒られた事が有る。

「与作、お前は、よう棒切れを振り回して剣術の稽古みたいな事をしとるが絶対に辞めえよ。なんぼう、おっちゃんが可愛いがってくれる云うても相手はお侍様だぞ。所詮、身分が違い過ぎるんじゃ」

 以来、内緒で暇を見つけては山中に入って自分の城で練習を繰り返していたので有る。

 専正寺の和尚様に趣味を聞かれた時、笑ってごまかし答えなかったのは、此れらをやっていたからだった。

 何を見込んで百姓の子を重宝する様になったか、子供の与作に理由など分かる筈がない。

 片方が侍で有り、与作は百姓の倅で身分の違いが有り過ぎる。おっちゃんは城まで来いと言ってくれたが絶対に上がる事は無かった。特に父親は承知しなかった。

 三次の町から買って帰って来た物はおっちゃんの家か、城に上がる麓の階段の下に小屋が有り、其処へ何時も置いて帰っていた。其の後は門番らしき人が引き取りに来ていた。

 其れから与作も段々と成長し、何時の間にか世間並みの元服年齢を優に超えていた。

 其の頃になると与作は、専正寺にとっては小僧さん処か剃髪し法事、法要、葬儀が有る度に御院家さんの伴僧で付き従う様になっていた。和尚様や奥様が具合が悪い時や所用が有る時などは他の寺の援軍に迄駆け付けていたのだ。

 そうした時、部落の常会が庄屋の山田屋さん宅で有った。十五、六軒の農家、小作人が集まり村の相談事で話し合いをしていた。其れが済むと、日頃、仲の良い庄屋と与作の父親が何時もの様に一杯飲みながら、長話しを始め出した。

「奥さん、何時も何時も遅うから迷惑を掛けて済みませんのう」

「ええですよ、うちのも毎度楽しみにしとりますから」

「ゆっくり付き合うてやって下さい」

「有難うございます」

「処でな、親父さん、又、今年も年貢米の供出の手伝いをして貰えんかのう」

「あぁ、ええですよ、毎年の事じゃ」

「そりゃええが、互いに歳を重ねようるが大丈夫か」

「何の、まだまだ一俵は楽にさげるで、じゃが来年は分からんですよ」

「ハハハ、来年の事を言や鬼が笑うわ」

 差しつ差されつご機嫌で飲んでいる時、庄屋さんに与作の事で話しを持ち掛けた。

「じつは、うちの与作の事なんですがのう。ボチボチ独り立ちせにゃいけん歳になりましてな」

「ほう、もうそういう歳になったんか。早いのう」

「何時も、うちの前の道を、よう城の三男坊と三次へ往復しとったのう。最近は馬で行き帰りをしとるのを見たで」

「百姓の倅が、城の侍と並んで馬に乗るなんざ考えられん事で。それも城主の弟とじゃ」

「そりゃそうと、最近は専正寺の伴僧をしとる様じゃが辞めてもええんか」

「この間も、うちの親戚の葬儀にも来とったで」

「其処なんですよ。住職さんは、何時迄もうちで引っ張っとったら、与作の将来の為にならん。ワシも妻も寂しい思いをするが、可愛い息子の旅立ちじゃと思うて気持ち良く送り出してやりたいと言うてくれたんですが」

「よし、分かった、何れ此処らで決断せにゃいけんじゃろう」

「此の近くにはないが三次の町なら何とかなるでぇ」

「いやいや、何処でもええですよ」

「じゃが、今迄の百姓の倅と云う事でええ処は忽ち無いで」

「構いません。丁稚奉公からでも一からやらせますから」

「よしゃ、分かった。早速当たって見ちゃるわ」

「処で親父さんは知っとるかいのう」

「何の事でしょう」

「与作の事じゃ。あの男はとんでも無い才能の持ち主じゃと、お寺さんが言うとるのよ」

「嘘でしょう、ワシ等夫婦にそんな子供ができる訳が有りませんわ、ハハハ」

「冗談じゃ有りゃせんよ。色々勉強を教えてやったが、そんなに長い年月じゃ無いのに、今じゃ教える事がのうなってしもうたと住職が言うとるのよ」

「じゃから葬儀で読経をしとっても伴僧の方が目立っとった。御文章など一切使わずに最後迄お勤めをしとるのよ。ワシも見とったで」

 其れに算盤も凄い腕前らしいんじゃ、もっとも算盤ではハナちゃんにはかなわんらしいよ」

「何せ、実際に珠を弾かずに全部頭の中でパチパチ計算するらしいんじゃ。其れも物凄い速いのよ」

「何じゃ其れは」

「此れは、お隣りの明の国では暗算と云うんじゃ」

「類い稀なる才能よ」

「そういゃあ、ワシの倅達も算盤はよう出来とったな」

「そりゃ凄いじゃないですか」

「兄弟二人が廊下でな、算盤の上に足を乗せて滑っとったわ。其のうち珠がバラバラに弾けてしもうてな」

「いっぺんも計算に使うた事は無かったな、ほんまアホよ」

「ハハハハ」

「へへへ」

「おお、そうじゃた、親父さんよ」

「何でしょうか」

「ハナちゃんの事じゃがな、今度から、うちの庄屋仕事から村の行事の計算事迄、やって貰える様に頼んでくれんかのう。うちの嫁はどうにもそう云う事が苦手でのう、とんと埒が明かんのよ、ワシは全く出来んし」

 其処へ奥様が熱燗を持って入って来た。

「見て見いや、女房も計算がよう出来ん云うて、神経衰弱になってしもうて頭が白うなっとろうが」

「何を言うてるんですか、此れは歳のせいですよ」

 と笑いながら

「此処へおってもいいですか」

 と座り込んだ。

「でも、まだハナは若いし読み書きが、ろくすっぽう出来んでしょうが」

「う〜ん、何も知らんのは親ばかりじゃのう」

「お寺さんから教わったのを、与作がハナちゃんにみんな叩き込んどる。読めない字なんか有りゃせんよ」

「ちゃんと、給金を払うちゃるよ」

「私からもお願いです。今度、挨拶に行ってもいいですか」

「使いものになりますかね」

「親父さんはほんま井の中の蛙じゃのう。村中の者は皆知っとるで。店に買い物に行っても瞬時に暗算しょうるのよ。これこそ天才で」

「こっちの方は大丈夫ですよ、要領は私が教えて上げますから」

「有難うございます。きっとハナも喜ぶことでしょうよ」

 其れから三日後に庄屋さん自らが家に訪ねて来てくれた。与作は専正寺の用事で、ハナは志賀神社の秋祭りの巫女の舞の練習で出掛けていた。

「庄屋さん、わざわざお越し頂きまして誠に有難うございます」

 母親がおいこを背負って野良へ草取りに出掛ける処であった。

「忙しいのにすまなんだな」

「とんでもない、お父さんは其処で石垣を積んどりますから一寸呼んで来ます」

 おいこを下ろすと母親は前の田んぼに大声で叫んだ。

「お父〜さん、庄屋さんが来られましたよ」

 其れに気づいて帰って来た。

「いゃあ、庄屋さん、この間は有難うございました」

「何の、何の、与作の事で来たんじゃが肝心の本人が居らんのう」

「はぁ、お寺さんの用事じゃ言うとりましたが」

「其れならええんじゃが、与作の事で奉公先を一応決めて来たで。明日にも与作と親父さんが挨拶がてら顔を覗かせてやってくれんかのう。三次の薬種問屋の浅田屋じゃ。主人夫婦には話しを付けて有るからな」

「ほいじゃが、浅田屋では丁稚奉公からじゃで、ええんか」

「とんでもない、与作には此れが一番いい事なんです」

「与作の頭の良さならすぐに出世するじゃろうて。浅田屋の主人も代々養子でな、今の男は実は百姓の倅で確か四男坊じゃったが、うちの小作人だったのよ。辛抱して認められて潜り込みおったわ、此奴は貧乏で全く学問はしとらんかったが偉ろうなったもんよ」

「ワシは与作の事をな、百姓の倅で無学文盲のアホじゃが、人間だけは誠実で真面目で正直者の将来伸びる、鍛えがいの有る男じゃと云うとる、後は本人次第じゃ」

「有難うございます。全くその通りです。なまじっか学問が出来ると調子に乗せてはいけません。一から何もかも勉強 させんと、其れに何も出世せんでもええですから、少しでも皆んなに好かれ、世の中に役に立つ人間になってくれるのが一番です」

「そりゃええがのう、ワシは浅田屋にとんでもない事を言ってしもうとるかも知れんのよ」

「そりゃ何事ですか」

「ワシは今年の米の作柄状況と年貢を納める石高に付いて報告に比叡尾山城に行って来たんよ。其の帰りに浅田屋に与作の事を頼みに寄ったんじゃ。浅田屋にしてみればワシは上得意の筈じゃ。其れに先代からの事も有るしのう」

「奥座敷に上げて貰ろうてな、段々酒が進み出して気が大きゅうなってな、多分、浅田屋に無理難題を仕掛けたんじゃないんかのう。はっきりは覚えとらんのよ」

「親父さんの百姓仕事の人手の事を思うて、こっちから通わせいとか、十日に一日は休ませとか言うた様な気がするんじゃ」

「まぁ、面接に行った時、よう聞いてみてくれえゃ」

「最後にワシャ完全に酔うて寝てしもうてのう。帰りに駕籠を仕立てて貰うたよ」

 次の日、与作は父親と一緒に手土産を持って浅田屋を訪ねた。朝も暗いうちに出発した。

 与作であれば小走りに駆けて行くのだが、何せ連れは歳でゆっくりと休み休みである。青河に抜ける垰の坂道ではこりゃ先が思いやられると、一日駆けて往復するかとの気になっていた。

 だが垰から船所に掛けてはなだらかな下りで、かなり早く歩ける様に振りが付いている。

「大丈夫か、無理せんでもええよ。いけにゃワシ一人で行ってもええよ」

「いいや、今日はお前の晴れの門出の日じゃ、絶対に行くで」

「有難う」

 店先にようやく到着したのは己の下刻、見知った顔が何人もいる。専正寺やおっちゃんの使いで、何度も店の前を通ったり直接 薬を買い求めに店の中に入っていたが、ご主人夫婦には直接面識はなかった。二人で玄関を入ると

「いらっしゃいませ」

 の声が響いた。すると何時もの様に番頭らしき者が出て来て

「毎度有難うございます。よくお越し頂きました」

「一寸、すみません、今日はお客じゃ無いんです。面接に来ました」

「何じゃ、今度入る予定の丁稚か」

 と途端に態度が変わった。親父と一緒にいるのにこの態度で有る。

「こっちへ来いや、今、ご主人を呼んで来るから」

 早速、店の奥まった部屋に入り暫くすると主人夫婦が出て来た。面接の為に軽く挨拶を済ませた。

「この度は息子の与作の事でお邪魔させて頂きました。何卒よろしくお願い致します」

 と親子二人は頭を下げ御礼の物を風呂敷包ごと手渡した。

「何の何の、こちらこそよろしく」

「処で庄屋の山田屋さんの紹介だが、誠実で真面目な性格じゃと聞いとるが、辛い事もぎょうさん有ると思うが勤まるかのう」

「毎日、志和地から駆けて来ると聞いとるが大丈夫か。うちは夕方遅うまで仕事か有るでぇ」

「はい、体力には自信が有ります。でも今日は疲れました」

「おい、おい、 そんなこっちゃ駄目じゃないか」

「いいえ、私では有りません。今日、親父と一緒に歩いて来ましたが、まともに帰れるかどうか気の毒で気苦労しております」

「優しい奴じゃのう」

「分かった。決めた、明日は気の毒じゃからから三、四日後からでもええから来てくれるか。母さんもええな」

「私も何の異存も有りませんよ」

「有難うございます。今後共しっかり怒って指導してやって下さい」

「宜しゅう頼むぞ」

「はい、お店の為に貢献出来る様に一生懸命頑張ります」

「処でな、ワシも女房も全然知らんかったんじゃが、さっき番頭が言うのには与作は、今迄に何度もうちの店に来てくれて、其れも大量の薬を買うて貰ろうとったらしいのう」

「何時も、八幡山城の受け取りや、志和地の近在の寺々の名で発行しとった様じゃが、与作は其れ等とどんな関係が有るんじゃ」

「エヘヘ ~ 」

「与作は坊主頭じゃ寺へでもおったんか」

 再度、ニコニコと笑ってごまかし何も答えなかった。

 こうして与作の丁稚奉公人生が始まったので有る。

 帰りの道すがら父親は

「お前と並んで歩くなんぞ、此れが人生、生まれて初めての最後ではないか」

「うん、そうじゃ。婆ちゃん子じゃったからね。でも今日は有難う、今迄長い事お世話になりました」

「よかったのう」

 肩を並べて歩く父親の横顔をチラッと見ると目に一杯涙を溜めていた。照れくさいのか話しをそらし

「オウ、そりええが腹が減ったのう。どっかで飯を食うて帰ろうや」

「ウン、そんなら何時もおっちゃんと来とってお世話になっとった一膳飯屋に寄って行こうや。直ぐ近くじゃ」

 飯時の忙しさが済んで一段落を終えた中にはいると

「いらっしゃい、おやまぁ」

「何時もお世話になり有難う御座います」

「何の何の、そりゃええが今日はとしたんじゃ二人連れで」

「オヤジさん、今度、浅田屋さんで採用が決まったんですよ」

「ほうか、それで挨拶に来たんか」

「そうです」

「お目出度うさん。お父さんよかったですね」

「有り難う御座います。その節は大変息子がお世話になりました」

「何の、こちらこそ」

「まぁゆっくりしていって下さいや。料理は好きな物をとって下さいよ」

 親父はおかずが一杯並んでいる飯屋などで生まれて此の方食べた事がない。

「与作よ、考えてみりゃお前は何時も、こうしてええもんを食わして貰うとったんじゃな」

「へへへェ」

「そりゃそうじゃろうて、何せ八幡山城のお殿様の弟君と一緒じゃったからな」

「ええ!おっちゃんはそんなに偉い人じゃったんか」

「知らんかったんかい。お前もお目出度いやつじゃな」

 厨房の中では親子の話しを聞きながらニコニコ笑っている。

 ご機嫌で食事を終えて、親父か勘定を払おうと立ち上がった。すると店主はピシャリと

「いりません。此れはワシからのお祝いです」

 と言い更に包を持たせてくれた。

「親父さん!」

 与作は今迄にお世話になって懇意にしてもらった事に涙が溢れた。

「浅田屋で落ち着いたら又寄せて下さい」

「あぁ、何時でも遊びに来て下さいや」

 食事には大満足であったが次の関門が待っている。

「然し、ワシは何時以来かのう。久し振りに志和地から二里半歩いて来たが、帰ろうと思うと気が遠うなる様なが与作は毎日出来るんか」

「ああ、全然平気よ」

「そうよなぁ、お前は小さい頃から専正寺さんや、八幡山城主の弟の三男坊さんから可愛いがられて三次迄何度も往き来しとったからな」

「其れとな、今じゃから言うがのう、お寺さんから何時も読み書き算盤と学問を学んだが、もうワシの教える事がのうなったと言うとった。お前は類稀なる才能が有ると褒めてくれたよ。寺の大庭の砂絵もお前が始めたらしいのう」

「だが、決して天狗になるなよ」

「庄屋さんが浅田屋さんに紹介する時にはな、与作は百姓の倅で無学文盲と云う事にしてくれとるからな。此れから一から教わって、正直で真面目で何時迄も謙虚な人間になってくれるか。其れがワシからの唯一の望みよ」

「分かったよ、何時迄も肝に銘じておくよ」

 今日、二人で行った浅田屋は三次盆地の中にあり三つの川が寄せ集まる平地の町中にあった。程近くには三次代官所が有り、代官屋敷から武士が住む多くの武家屋敷が並んでいた。約四百年は続く代々三吉氏の比叡尾山城は此処より東に行った畠敷の急斜面を登った山の上にある。

 本来であれば城の下あたりに住まいが密集して城下町を形成するのである。だがこの城は難攻不落と言われ人を寄せ付けないものがあった。

 その点、生活するのに三次の町は便利が良かった。四方八方の街道筋が集まリ、何本もの川が寄せ集まる為に川舟を利用した漁業、荷物運搬便と交通の結節点で有り三次の町は地の利が良かったのである。一般平民の生活に密着する様に代官所、番屋のお役所が町の真ん中にあった。

 そもそも三次とは日本列島誕生以来地形が変わらず、中国山地の奥深く、盆地の中に馬洗川、西城川、江の川が三つ巴状に集まり、古くは古墳時代から気候も比較的温暖で、農耕をするにも人間が住むのに適していた。周りの丘陵地には多くの遺跡が残されている。

 然しながら、十二世紀の頃、藤原氏の末裔の兼範が近江国から下向し、この地に入って来た頃は名だたる豪族も住んでおらず、小さな集落があった程度である。

 何故にも都から遠く離れて住まう事になったのかは定かではない。

 この当時、息子の兼宗が三吉大夫と称して三吉氏の初代当主となった。

 其れが備後国の国人領主して成長、三吉家代々四百年に渡り、大きな変遷も無く時代とともに人口も増え町並みを形成してしていったのである。然し、所詮は中国山地の山奥だ。

 藤原氏族といえば、日本の飛鳥時代、鎌足を始祖とし長きに渡り栄耀栄華を極め、つとに有名な平安時代の藤原道長の句に

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の欠けたるをも  なしと思えば」

 の歌を詠んでいる。

 三次を(みよし)と不思議な読み方だが、更に出雲国に有る木次は(きすき)と呼び変わっている。

 此れは出雲神話の大国主命の時代に出て来る地名だ。果たして三次の地も赤穴峠を越えれば出雲国で大社に近い。いわば奥座敷の様なものだ。比熊山の麓には、やはり大社近くから建立された太歳神社が存在する。其処は清き流れの水の里が見渡せる。これが水良しと呼ばれ、何時の間にかみよしと云われたものと思われる。奥座敷といえば、三次から東に程近い距離に西城という所がある。其処には比婆山が存在し中腹には熊野神社が有り創建不詳とある。

 日本の神々を生んだとされる、伊邪那美命(いざなみのみこと)が葬られている比婆山を遥拝する神社なのだ。  

 こうしてみると、三次の名の云われも、日本古来の神話の世界から名付けられたと思っても何ら不思議ではないだろう。

 翌朝、正午前に庄屋さん夫婦が家に訪ねて来た。与作は最後のお寺さんのお勤めで法要に出掛けていた。夫婦は近くの田んぼの畦の草刈りをしており、丁度、其の時にはハナしかおらす昼飯の用意をしていた。

「御免下さいよ、誰か居られますか」

 と玄関で声がする。呼ばれてハナが手を休めて表に出ると、大きな風呂敷包みを持ってニコニコしながら奥様が立っている。

「あっ、奥様いらっしゃいませ。旦那様もようこそ」

「今、両親は野良に出掛けております、すぐ呼んで参りましょうか」

「ええから、ハナちゃん一寸、話しを聞いてくれる」

「はい」

「この間、お父さんに話しはしていたんですけどね、ハナちゃんの算盤の腕を貸して貰えない」

「えぇ、本当にいいんですか。 でも私は実践した事が無くて出来るでしょうか」

「大丈夫じゃ、頼りないが女房が付いとる」 

 と旦那さんの横車に

「其れは余分でしょうよ」

 と奥様は笑いながら

「要領は教えてあげるからすぐに分かりますよ」

「有難うございます。宜しくお願い致します」

「よしゃ、話しは決まった。此れから祝いじゃ、呼んで来てくれるか」

 と言うと庄屋さん夫婦は勝手に座敷に上がり込み、包みを開けて重箱を並べだした。

「そりゃえゝが、ハナちゃん一寸見ん間にええ娘さんになったのう」

「礼儀正しくて、綺麗になってますよ」

 そこへ、ハナが両親を連れて帰って来た。

「庄屋さん、いらっしゃい、この間はお世話になりました」

 挨拶をしながら家の中に入って見ると宴席が有るでないか。

「なんじゃこりゃ、庄屋さんどしたんですか」

「奥様、此れは何ですか」

「おう、今日は目出度い日でのう。与作もハナちゃんも勤めが決まった事で祝いの席にしょうと思うて作って来たんよ」

「ひゃあ、うちは昼飯は丸干しに漬物だったんですよ、庄屋さん、こんなにご馳走食わして貰うたら罰が当たりますよ」

「えゝから、えゝから昼から仕事はせんで、たまにゃ骨休みでもしんさいや」 

「ハナちゃんよ、熱燗でもつけてくれるか」

「はい、今すぐに」

 ハナは仕事の世話までしてもらい嬉しくて堪らない。更に旨いものには目がない娘だ。こんなご馳走は生まれて初めてで、自宅の座敷に並らぶなど考えもしなかったのだ。其れに大好きな饅頭も有るではないか。しっかりしている様でもまだまだ子供なのだ。

「まぁ、座りんさいよ。皆んなで楽しゅうやろうじゃないか。ハハハ、他所の家に上がり込んで威張る事じゃないか」

「処でお婆さんはどしたんじゃ」

「はい、先程、昼前から与作と一緒に寺に法話を聞きに出掛けました。其れから岡城の方の法事に、与作は行くと云うとりました」

「専正寺さんも気の毒じゃのう、与作がおらんようになったら、年寄り夫婦だけじゃで」

「ワシ等も其れを気にしとるんですわ。まさか、与作がそこまでお寺さんに貢献しておったとは、あいつは一切うちの中では喋らんのですわ」

「お互いにおんぶに抱っこの関係じゃなかったんかのう」

「百姓の倅が、ほんまに、タダで学問を教えてもらい、更に算盤に至っては、ハナにまでお陰があって庄屋さんに雇われる程になりました」

「親のワシが、そのまま知らんぷりじゃったら罰が当たりますわ」

「そんなこたぁないが、此れも親父さんと奥さんの人柄の為せる技よ」

「有り難うございます。でも与作の何分の一も出来んでしょうが、暇を見つけては、寺の役に立つ事をして上げたいと思うとります」

「お寺さんも喜ぶで」

 結局、此の日も宴会の終わる迄に、与作は帰宅する事は無かった。和尚に代わって、出向いた家でお呼ばれになっているので有ろう。

「親父さん、奥さん、今日は与作の晴れの日の見送りが出来んかったがのう、此れからの長い人生、暖かく見守ってやろうじゃないか。ワシらも陰ながら応援してやるつもりじゃ。奴なら必ず世間の役に立てる人間なれる男じゃ」

「有り難う御座います。与作もきっと心強いと思います」

「其れとなぁ、ハナちゃん。此れから嫁入り迄か、其の後も引っ張るかも分からんが、村の為にも宜しゅう頼むよ」

「こちらこそ、宜しくお願い致します」

 翌朝、与作は長い様で短かい間、お世話になった専正寺へ最後の挨拶にやって来た。

 子供の頃から何時も付いて来たお婆さんと一緒だ。

「与作よ」

「なんじゃ、ばあちゃん」

「お前とこうして出掛けるのも此れが最後になるかもしれんのう」

「何を言うとるんじゃ、まだまだ長生きしてよ」

「ワシは、ばあちゃん子でいつも側におったよな。お陰でお寺さんが好きになり、和尚様を引き合わせてくれ、可愛いがって貰い学問を教わったよ。其れに、何時でも人の為になる人間になれ、常に感謝の気持ち持ちなさいと言ってくれた、おばあちゃんの志をワシは引き継いでいくよ。心の中には二人の仏様が居るようなもんじゃ」

「有難うな、嬉しいよ」

 かなりの高齢で八十は超えていたので足腰が弱っており与作が背負って来た。

「此れは此れは、お婆さん、ようおいでなさいました。さあどうぞ」

 と庫裏の方に案内してくれた。

「和尚様、孫が長い間お世話になり有難う御座いました」

「とんでもない、こちらこそ、与作には長い事奉仕をして頂きました」

「ワシも女房も本当に感謝の気持ちで一杯で御座います」

「孫は今度から三次へ丁稚奉公に上がる事になりました」

「其れは又、よかったですね。お目出とう御座います」

「私は今度、三次の薬種問屋の浅田屋に採用されました」

「浅田屋さん云うたら与作に三度ぐらいじゃったか、近在の寺の分をまとめて薬を買いに行って貰ったよな」

「あこは三次一番の分限者でぇ」

「其れでは住み込みで寂しゅうなるな」

「いえ、二里半の道を駆けて行きます」

「毎朝晩か、与作本気か」

 和尚様は笑いながら

「気違い沙汰か、其れは冗談じゃが、う~ん」

「でも与作の力が有れば何事も成し遂げるで有ろうよ」

「与作と付き合うた短い期間に、ワシの教える事が何も無くなった。何れ其の類い稀なる才能が開花する時が必ず来る。其れにな、近い将来、必ず立派な師匠に巡り会えるで有ろうよ。保証する!ワシには見えるよ」

「じゃが世の中は広いよ。学ぶ事は幾らでも有る、それを吸収して世間の為に役立つ人間になってくれ。身分など関係無い、与作になら必ず出来る」

 和尚様の話しを聞いていたお婆さんは感極まって

「和尚様、奥様、有難いはなむけの言葉誠に有難う御座います。与作、よう聞いたか、和尚様の言葉を何時迄も忘れず立派な人間になっておくれ」

「和尚様、奥様本当に有り難う御座いました。此れからの長い人生を無駄の無いようにし、人様の役に立てる様に頑張って行きます」

 別れ際に奥様が

「与作さん、長い間、専正寺の為に尽くしてくれましたね。此れはささやかながら気持ちで御座います」

 といいながら餞別をくれたのである。

第2話 与作と忍者達との出合い

 狼犬鉄との出合い

 与作は何時もの様に奉公先の浅田屋に、夜も明けきらぬうちから間道を駆け抜け、鳥のさえずりを聞きながら、心地よく三次の町を目指していた。ここ十日程前より、街道筋から通うのを辞めて、一里も近い奥屋の山の中にある炭焼き小屋を住まいとしている。

 段々と此の道を通うのにも慣れて来た。然し、日中、此の道を利用する人は殆ど無い。与作が歩く様になるまでは、自分の持ち山が有る地主が、時たま木こりに来る程度で全く獣道であった。

 其れと、比叡尾山城と志和地八幡山城とを結ぶ最短距離になり、街道筋が万一の事を考えて秘密裡ほどではないが、一応は藩の戦略道としておかれていたのだ。  

 毎日、細い道に草木や笹が覆い被さっているのを、鎌を持って一寸づつ刈り払いながら通い、がたがた道の場所には鍬を置いておき、帰りがけに、その都度削り直していた。そのお陰で見違える様に綺麗な道になり走り易くなってきた。

 今朝も薄暗い夜明け前に、小屋から出て間もなくの処で、二、三日前に刈り払った先の笹薮の中で、かすかに小さくクンクン鳴く何かを感じたが、さして気にもせず通り過ぎて行った。

 今日も、何時もと変わらず浅田屋での丁稚奉公が始まった。

 店の前で、箒を持ち軽く体操をしながら独り言を呟いている。

「然し、ええなぁ、一里も近いとこんなに楽だとは。親父もええ事に気付いてくれて、ほんま有り難いわ」

 この当時、四方八方から片道一里半を歩いて、三次の町に仕事に通う人は幾らでもいたからだ。

 当然、田舎暮らしの人達にとっては百姓仕事以外に所得を得る方法が無い。手に職を持つ大工や左官であればまだいいほうだ。だが、一所帯に多くの家族であれば生活に難渋することになる。その為に与作の様に、何の職業でもよく出稼ぎに三次の町へ通う事となるのだ。

 そもそも三次という町の名の由来であるが、住んでいる住人さえも、はっきりとは分からなかった。何故、此の字を「みよし」と読むのか。

 次とは元来、東海道五拾三次と言われる様に宿場町の宿を意味していた。また、高い中国山脈の奥深くの山の麓へ、四方から流れ込む河川が合流する変わった地形をしている。其の盆地の上に三次の町が有り、陰陽交通の要衝の地で有る。

 川が巴の様に流れ込み、其れが一本になり江の川となって日本海に流れて行く。

 其の様が清き「水良し」と言われ、何時の間にか「みよし」になったとか諸説有 ったが定かではない。

 とに角、その時代時代ごとに人々はこの呼称の云われをこじ付けて言い合っていた。其れ程迄に三次(みよし)の名の謂れが古かったのである。

 三次の側には八次という地名が有り此れは(やつぎ)と読む。因みに出雲國には「木次」がある。此れは(きすき)本当に地名はややこしい。

 今朝方、何かの動物の鳴き声がした場所迄に仕事を終えて帰って来た時、又、小さな声がした。はてなんだろう、と立ち止まり辺りを見回してもよく分からない。与作は、どうも気になり、低い草木の中に一歩踏み込んで探してみた。

 すると、小さな子犬がいるではないか。辺りに親犬がいるのではと目を凝らし、暫くその場に立ちつくし、様子を窺っていた。

 だがどうも一匹だけ置いて逃げられた様だ。底冷えのする寒空の下、小さく震えており腹も空いているのか、目が半開きでよく耐えられたものだ、死ぬる一歩手前であった。

 与作は抱き上げて、懐に入れて温めてやりながら、暫くその場で頭を撫でながら様子を見ていた。他にも親兄弟が居ないかと思ったからである。

 然し、いくら耳を澄ませども山中に何の気配も感じられない。よしゃ、其れならワシが面倒を見てやるかと心に決めた。

「よしよし、寒かったじゃろう。これからはワシが世話をしちゃるからな、一緒に暮そう」

 何とか、生かしてやりたいと真剣に考えていた。

 幸いにも我が家はすぐ其処で、暖かくし、お粥も食わせてやる事が出来るのだ。

 考えてみれば、犬が居た此処の場所は二、三日前に草木を刈っている。

 何せ今迄は獣道で有った。其れを自分が歩き易いように刈り取った為に、住みかを奪われた母犬が、他の子犬の兄弟を連れて逃げたのではないかと思われた。

「悪い事をしたな鉄ちゃん。ごめんよ、これからワシが親代わりでずっと一緒だぞ」

 与作は、いきなりその場で鉄の名前が出て来た。子供の頃、父親が小さな野良犬を拾って来て飼っていたのが鉄と云う名だったのだ。

 小屋に帰り着くと、浅田屋の女中さんから貰って来た、むすびを柔らかくする為、鍋に水を加えて煮込んでお粥を作っていた。其の間に薪を囲炉裏に焚べて部屋を暖かくしてやっている。

 すると気持ちがいいので有ろうか、段々と生気を取り戻して来た。頭を優しく撫でてやるとクンクン鳴きだし、大きくて可愛い目を見開いたではないか。

「オゥ、鉄ちゃん、腹が減っとったんか今お粥をやるからな」

 与作はフウフウ息を掛けながら少しづつ口の中に入れてやると、あっという間に飲み込んだ。母犬の乳のつもりで有ろう。

 クンクン鳴きながら美味しそう食べている。

「旨いか、もっとお食べ」

 そしてすぐに、むすび一個分を平らげてしまった。

「鉄ちゃん、凄いな。よしよし此れで元気になれるぞ」

「クンクン」と首を振りながら鳴くのだが、見つけて来た時とは全然、覇気が違ってきた。

「今夜から一緒に寝てやるからな」

「おっと、ワシが飯を食うのを忘れるとこじゃった」

 其の間、鉄は囲炉裏の側で気持ち良さそうに横になって、もごもご体を動かしているではないか。

 食事を済ませ、後片付けをしてから、何時もの様にお経を唱え写経をしていると、膝の上に上がり嬉しそうな顔をしている。其れが終わり床に付くと、安心したのか与作の懐の中であっという間に眠りに着いている。

 何という可愛い寝顔で有ろうか。

 今夜は鉄が家族となった初めての記念すべき日で、与作は中々寝付かれなかった。昔、飼っていた鉄と姿、形はまるで違っているが、何か生まれ変わってこの世に現れた様で懐かしさが込み上げてきた。

 一寝入りするとやがて夜が明けてきた。寝不足ながら何処と無く爽やかであった。懐を見るとまだ眠っているではないか。

 だが何時もの様に浅田屋へ通わなければならない。

 今朝も昨夜と同様に、お粥を作り多めに皿に盛って水を側に置いといてやった。

 囲炉裏には炭を焚べて、一日中温ったかくなる様にしておいた。

「鉄ちゃん、行ってくるからな、寂しいだろうが待っとれよ」

 と声を掛けて与作は出て行った。

 今日は山道を駆けて行くのが嬉しくて堪らない。鉄と云う家族が増え仕事をするのにも張りが出て来たからだ。

「よしゃ、今日も頑張るぞ!」

 店に到着すると早速、ちりとりと箒を持ち出し店先から掃除を始め出した。

 すると毎朝の様に隣近所の丁稚仲間が集まってくる。

「与作どんは毎朝早いけど遠くから通うとるんじゃろう。志和地からか、寝る間がなかろうがや」

「うん、言われりゃそうじゃけどさして気にしとらんよ」

「十日毎に非番が有るから楽をさしてもろうとるよ」

「なに!与作どんは丁稚じゃないんか」

「おう、丁稚も丁稚、一番下じゃ」

「然し、なんでじゃ。ワシ等みてみ、年から年中休み無しで」

「そういゃ、与作どんは丁稚の割にゃ年を食っとるもんな」

 今朝も子供みたいな丁稚等が、自分の奉公先の待遇に愚痴をこぼし、主人の悪口を互いに言い合っている。

「オイオイ、大声で言ようると店に聞こえるで」

「どうちゅう事たぁ有りゃせんよ」

 そうしているところへ浅田屋の主人が定時の様に玄関の戸を開け出した。すると、蜘蛛の子を散らすが如く各店に駆けりこんだ。

 物言わぬ主人に挨拶を済ますと、其れから通いの奉公人達が続々と出勤しだした。

「おう、与作!お前ぇ何を力んどるんじゃ。今日はまともにやれえよ」

「すみません。何時もドジで」

「分かっとるなら、しっかりせえ」

 自分より直ぐ上の手代に怒られれば世話はない。

 何せ与作は一番下っ端なのだから。まぁ怒られ役に徹するか。

 でも一日中、何度も怒られ乍らも嬉しくて仕方なかった。

 何時も、帰りがけにむすびやおかずを包んでくれる女中さんが

「与作さん、今日はえらいご機嫌じゃね。何かあったんね」

「へへへ」

「ご主人さんに褒められたんね。そうでしょう」

「其れじゃ、おかずをもうちょい増やしとくね」

「有難うございます」

 与作は益々嬉しくなつた。

 今日はちっとは美味しい物を鉄に食べさせてやれると、何時もの道筋を全速力で小屋目指して駆けて行った。

「鉄ちゃん、ただいま!」

 と声を掛けると今迄、寝ていたのか声を聞いてヨチヨチ歩きながら玄関の戸の前に来た。そして尻尾を振り振り手や顔を舐めてくる。

「鉄ちゃん、帰って来たよ。寂しかったか、今晩も温ったかい飯を作ってやるからな」

 炊事をしている間も足元にまとわりついて離れない。 

 小さい割には意外に力が有り、鉄の足を見ていると子犬なのに異様に足が大きいのだ。はてさて、こいつは何犬かなという事が頭をもたげて来た。

 唯の雑種の野良犬では無さそうだ。耳は大きく立ち尻尾は太く長い。日に日に成長するに従い顔立ちに精悍さが増してくる。

 それにしても可愛いい。与作を母親の様に思っているのか、優しさと温もりを感じ必ず膝の上や懐の中に入って来るのだ。

 其れを何日か繰り返すうちに、与作が帰り着くと本当に嬉しそうに鉄が迎えてくれる様になり、そして足腰がしっかりしだすと行動範囲が広がってきだした。

 帰るとすぐに外へ飛び出して、其処ら中を走り回っている。そして、しっこもうんちも外でする様になり、躾けをする迄もなかった。

 今朝も出掛けに与作の裾を噛んで離さない。一日中、自分だけで留守番をするのが寂しく辛いのだ。

「ごめんな、鉄ちゃん、お前を店に連れて行く事が出来んからな。我慢してうちを守っとってくれるか」

 と頭を何度も撫でながら言い聞かせていた。出掛けに別れる時の鉄の顔を見ると、悲しそうで辛かったがどうしようもない。

 時には履いて出掛ける草鞋を隠す事もあった。

「コラッ、鉄、何処へやった。持って来い」

 と怒られると、しょんぼりしながら外から咥えて帰って来る。メソメソ小声で鳴きながら小屋の中に入って行くのだ。

「でも本当に可愛いい奴だなぁ」

 与作は、間道を何時もの様に走りながら鉄の事で頭が一杯であった。店に連れて行く訳には行かないし、さりとて、小屋に繋いでおくのも可哀想だ。それか、もう一匹飼ってやり、寂しさを紛らわせてやるか。其れに鉄は段々と大きくなるにつれて狼犬の様相を呈して来たのだ。生まれながらの習性からしたら、群れをなし連れの仲間がいなければならないのか。とに角、何とかしなければと先行きの事を考えていた。

 何時もの様に店に朝一番に顔を出し、店頭から前の道を箒を持って掃除を始め出した。

「お早うございます」

 店の前に主人が出て来て玄関戸を開け出した。此れが毎朝始める主人の役目である。

 相変わらず、何の返答も無い。

 与作はよくもまあ、此れで商売が出来るもんだと変な感心をしていた。

「まぁ、しょうがないか、こっちは 最低の丁稚だし、庄屋の山田屋さんが決めてくれた与作の採用条件が気にくわないので有ろうからなぁ」

 何やかが有った浅田屋での仕事を終えると、

「鉄が待っとるぞ、早よ帰ろう」

 と口ずさみ乍ら炭焼き小屋に一目散に駆けていた。今では、少々離れていても与作の足音と臭いにすぐ反応するのだ。

 玄関先に近づくと、何時もならキャンキャン鳴くのだが今日はしない。

「あれ、おかしいな」

 しかも戸が半分開いている。今頃は鉄も賢くなって、自分で口を使って開け閉めをする様になっており、変だなぁと思いながら

「鉄ちゃん、ただ今、帰ったよ」

 と声を掛けてみた。然し、何の反応も無い。

「あれ、どしたんかいな、何処へ行ったのかなぁ」

 と鉄が何時も座っていた座布団を触っると冷たいでは無いか。

「こりゃ大変じゃ!」

 水の流れる沢に下りて見たがやはり居ない。辺り一面を「鉄!鉄!」と大声で叫びながら山々に木霊して相当遠く迄声が達している筈だ。辺りにいれば反応があってもよさそうなものだ。

 与作は、其れこそ一晩中、捜し回ったが何処にも居ない。泣きながら山中を当てもなく彷徨った。

「鉄、どうした、何処へ行ったんじゃ。ワシを置いて逃げるんか」

 とうとう一睡もする事も無く、外で夜を明かしてしまった。

 然し、どんな事が有っても勤めを休む事は出来ない。

 与作は、朝飯も食べず着の身着のままで駆け出した。涙が止まらない。

 まだ小さいから他の動物にやられたか、沢から転げ落ちて死んだか、とに角、いろんな事が頭の中を駆け巡った。

 そんな状態で仕事に臨んでいい訳が無い。

「与作!ワレ何をボケッとしとるんじゃ、梱包物が違うとろうが。はよう字が読める様に勉強せんかい。性根を入れてやれ!」

「すみません」

 その日、丁稚としての仕事はドジの踏みどうしで有った。本当は読めない字など有りもしないのだが、全く集中力を欠いていた。

 何はともあれ寂しいのだ。

 今日も仕事を終えて暗い間道を帰る道すがら、与作は鉄の事で頭が一杯で有った。

 町を出てから山道に差し掛かって来ると、いきなり『鉄!鉄!」と叫び出していた。

 朝出掛ける時にすぐ後を追って来て、道に迷ってはぐれてしまったのではと、四方八方に声を掛けながら山道を走って帰っていた。

 やはり小屋に辿り着いても一切応答が無い。

「鉄ちゃん、どしたんや。何でおらん様になったんや」

 小屋の中に入ってもシィーンとしている。与作はウヮン、ウヮン泣きながら小屋の外に出て、沢に降りてみた。冷たい水の中に素足で入り、溺れて流され引っ掛かってはいないかと捜したが、やはり何処にも居ない。

 其れこそ毎日毎日、もう捜す処が無い程に声を出して泣きながら歩き回った。

 小屋に帰って、何時もやっている写経にしても、棒振りにしても、全く身が入らずやる気も起きない。

 とに角、鉄が無事に帰って来ます様にと必死にお経をを唱えていた。

 一、二ヶ月経った、たまの休みの日には、実家に帰って百姓仕事の手伝いをする事もあったが、家族には犬を飼っているとか、鉄が行方不明とか一切知らせなかった。

 だが仲のいいハナにだけはこの事を伝えていた。

 与作が町から買ってきた大好きな饅頭を食べながら、写経をしているか、算盤はどうじゃとか話は尽きなかった。

「お兄ちゃんのお陰で、今は庄屋さんや村から計算事は任されて給金を貰っているよ」

 と嬉しそうに喋っている。

「ほうか、其れは良かったな」

「上手い事やっとるか。仕事の量もぎょうさん有ろうが」

「うん、結構疲れるよ。でも、奥様が優しくて助けてくれるよ」

「そんな時はな、絶対に暗算だけに頼るなよ。基本はやはり算盤じゃからな」

「浅田屋の主人もな、一日中に相当伝票に目を通して算盤を弾いておられるよ。ワシから見たら鈍臭いようなが正確じゃで」

「分かったよ。間違えん様に絶対頑張るから」

「でもね、兄ちゃん、鉄ちゃんが心配じゃね」

「そうよ、ワシも寂しゅうてやれんのじゃ」

「大丈夫だよ、絶対に帰って来るよ。鉄ちゃんは狼犬ゆうたよね」

「おお、そうじゃ」

「其れじゃったら、いっとき狼の習性が出たか、親、兄弟が連れ去ったか、何れにしても兄ちゃんの愛情には勝てんよ。絶対にひょっこり現れるよ」

「有難う、有難う。待っとるよ」

 与作は帰りがけに、おいこ一杯の稲藁を背負いながら山道を駆け上がって行った。此れは帰宅し夜なべに縄をなったり、浅田屋の皆んなや、お客様の為に使ってもらう草鞋を作る為の物であった。毎度の事ながら無料奉仕である。

 毎日毎日探し続けそんな生活が何ヶ月も続いたが、何時迄も引っ張り続ける訳にもいかない。

 忘れ様、忘れ様と涙をこらえながら努力し、やがて半年近くが経とうとしていた。

 何時もの様に浅田屋からの帰り、風呂敷包みを小脇に抱えながら家路に急いで駆けていた。今日は、店の創業記念日のおめでたが有り、祝い膳を頂戴したので持ち帰っていたのだ。

 峠を越えて間もなくで小屋に到着する辺りでの事である、今夜は曇り空で月明かりも無く真っ暗闇で有った。

 だが夜道に走り慣れている与作にとって、差して関係は無く提灯など要らなかった。

 処が与作は前方に何かしら気配を感じた。

 突然、十間ぐらい先に目の光る何かがこちらを見ているではないか。

 与作は一瞬ギョッとし立ち止まった。

 さては、重箱を包んだ風呂敷の中の臭いに反応して襲って来るかと、身構えながら睨み有っていた。

 其れもかなりでかい。猪か月の輪熊、或いは狼か。此れは本気で防御しなければと与作は、咄嗟に相手目掛けて包みを放り投げた。

 普通、大抵の動物ならば、此れで尻尾を巻いて逃げるものなのだが此奴は違った。

 その瞬間だ!急に突っ込んで来た。

「オウ~、来やがったな!」

 通常、獲物を襲う時は地を這うように迫って来る。 だが、こいつは凄い突進の仕方だが何故か跳ねている様に感じられるではないか。

 瞬間、与作には分かった。

 仔犬の時とはまるで、姿、形は違っていたが、走り寄り出した時に互いの心が一気に通じたのだ。

「鉄!鉄!」

「ウオーン、ウオ〜ン!」

 と一目散に駆け寄るや、いきなり飛び付いて来た。図体が大きくて暗闇で尻もちをつかされた。

 紛れも無く鉄なのだ。ひっくり返った与作の顔を舐めまくり、尻尾をちぎれんばかりに振っている。

「どうした、鉄ちゃん、何処へ行っとったんじゃ!」

「ウヮ〜ン、ウワ〜ン」

 お互いがグチャグチャに泣き合いながら、二本足で立ち上がり抱き付いてきた。

 子犬の時の様に優しく甘えん坊はそのままなのだ。

 与作の周りを何度も走りながら大喜びをしている。

「鉄ちゃん、ワシを外で待っとったんか。何で小屋に入っとらんかったんじゃ」

「さあ、鉄ちゃんうちへ入ろう」

 木戸を開けてやると小屋の中に飛び込んで来た。囲炉裏の周りを走り回っては、クンクン臭いを嗅いでいる。余程、懐かしいので有ろうか。

 鉄が居なくなってからも何時帰ってもいい様に、座布団は同じ場所にそのまま置いて有る。何度も表、裏にひっくり返しながら鉄は其の上に座ると、炊事の用意をしている与作が

「やっぱりハナちゃんが言うた通りじゃったな。有難う、有難う」

 と言う其の後ろ姿を嬉しそうに見つめている。

 与作は、嬉しくて帰って来た祝いに美味しい物と思ったがあいにくと何もない。今朝、出掛けの時少し残していた焼き魚と漬け物しかない。

「鉄ちゃん、出来たぞ、でもええ物が無くてごめんな」

 鉄が今迄に食べていた茶碗に盛って冷や飯を出してやると、お粗末な物にも関わらずペロリと平らげてしまった。鉄にとっては嬉しい嬉しい何よりのご馳走だったのだ。

「おう、鉄ちゃん。ワシは興奮して忘れとったよ、さっき投げ付けた風呂敷包の物を」

 と言いながら身振りで示すと、鉄は一気に外に飛び出すと、即ぐに口に咥えて持って帰って来た。

「やっぱり、鉄ちゃんは頭ええなぁ」

 鉄は、早速、褒められ頭を撫でられて嬉しくて堪らない。

「よかったよ、さあ、鉄ちゃん。祝い飯をお食べ」

「もう何処へも行くなよ、一緒に暮らそう」

「ウ〜ワン、ワン」

 半年前にどうして突然、出て行き、又、急に帰って来たのか与作には全く分からなかった。鉄の親兄弟達が連れ戻しに来たのか、其れから群れの習性に馴染めず、与作の優しさが忘れられずに再度、戻って来たのか頭の中で葛藤していた。何れにしても鉄本人しか分からない事で有った。

 今夜も以前の様に懐に入って寝ようとしたが、大きくなり過ぎて並んで横になった。何処までも甘えている。本当に可愛い鉄なのだ。

 与作が翌朝、昨夜のご馳走の残り物を鉄と分けて食べてから、出発の準備をしていると鉄は外で待っていた。一緒に行くつもりの様だ。

 子犬の時、与作が出掛けている間、余程、辛く寂しい思いをしたので有ろう。

 案の定、思った様に与作が走り出すとすぐに横に付いた。

 並んで走っている間、さあ、此れからどうするかだと思案しながら思い悩んでいた。

 道中に繋いでおくか、其れとも無理を承知で主人に頼んで見るか、色々考えてもいい方法が浮かばない。

 一緒に走るのは嬉しいのだが足取りは重かった。

 間も無くで人家が見える辺りに来た時である。

 処が、三次の町に入る手前の山中で、鉄は歩を止めた。其れ以上は行こうとしないのだ。

「鉄ちゃん、分かってくれるか」

 そして、そこに座り込んだ。鉄の目を見つめると

「オトウサン、イッテラッシャイ」

 と言っている様なのだ。

 此れも狼犬の習性で有ろう。人家に近かずこうとしないのだ。

「よし、此れなら絶対に逃げる事が無く、待っているで有ろう。繋いで置く必要はないな」

 と確信したので有る。

「鉄ちゃん行って来るからな。帰って来るまで待っとってくれるか」

 だが与作はその日、朝から夕方迄仕事をしながら常に鉄の事を考えていた。一時、立ち寄っただけで、又、姿を消すのではないかと不安に駆られていた。

 何せ、空白の間が半年近くもあるのだから予測もつかなかった。

 だが、与作が仕事を終え暗くなって帰って来た頃、朝、別れた辺りに来ると、クンクンと声を出しながら笹薮の中から足元に寄って来た。

「鉄ちゃん!ただいま。やっぱり待っていてくれたか」

「有難うな、一緒に帰ろう」

 と思わず抱きしめると顔を舐めてきた。

 そして頭を撫でてやると、嬉しそうに飛び跳ねて喜んでいるではないか。

 今朝方からの心配は、全く杞憂に終わってしまったので有る。

「よし!、鉄ちゃん、競争じゃ」

 そう言われた鉄の速いこと、速い事。あっと言う間に見えなくなった。

 然し、すぐに引き返して来る。

「鉄ちゃんにはかなわんわ。でも優しいな」

 暗い山道を鉄は与作にぴったりくっ付く様に駆けていく。

 其れからは何日間、幸いにも 晴れの天気が続いており、鉄の雨宿りの心配をする事も無かった。だが何とかしてやらねば、此れから毎日の道行きとなると必ず雨や雪に濡れて寒い日が来る。

 与作はそんな事を気にしながら、適当な場所がないかと辺りを見回しながら走っていた。

 そして三日目の朝の事だ。

 何時も毎朝、別れる場所の処で立ち止まり、与作の裾を噛んでこっちへ来いと引っ張るではないか。

「どした、鉄ちゃん」

 何事かと付いて行くと、間道を少し入った処に小さな洞穴が有るではないか。

 そして中に入ったのだ。

「おう、鉄ちゃん、ええ処を見付けたな。此処なら雪や雨にも濡れんし寒うないな」

「ワシも一寸、入らせてくれるか」

 と言って洞穴を覗いて見ると、入り口は低く屈んで入った。中に入ると与作が横になって寝られる程の広さが有る。其れに天井も高い、此れなら荷物が隠して置けそうだ。

「よしゃ、鉄ちゃん、帰りに毛布を持って来ちゃるからな」

 それにしても鉄は頭がいい。与作の思った事を事前に察知しているのだ。

 其れ以降は、此の洞穴を別荘と名付けて与作の荷物を置いていたり仮眠場所にしていた。無論、鉄の後からやって来た玉、ラー助にとっては何時でも休める別荘であった。

 一度だけ此の別荘が襲われ掛けた事がある。

 鉄、玉、ラー助が一緒に生活をする様になった時の事である。

 其れは天気のいい朝であった。今日は玉もご機嫌で全く気紛れな、猫独特の性格が出て与作に付いて来る気である。

 皆んなが一緒に、いっぺんに出掛けるなど珍しい事で、鉄も玉もラー助も大喜びをしている。間道を駆け抜け出すと、玉は早くも鉄の背中に乗って掴まっている。

 然し、鉄は嫌な顔一つしない。ラー助は上空を旋回しながら様子を見てくれている。やがて別荘に近づいて来ると、何時もの様に間道から少し入った方に玉は別れて歩いて行った。ラー助もそちらの方向に飛んでいる。

 其の時、鉄はまだ与作と並んで歩いていた。

 玉が別荘に近づいた時である。見ると野犬の群れがいるではないか。其れも中から毛布を引っ張り出し、食べ物を漁っているようだ。何時も魚の干物やむすび程度の物は置いてやっているのだ。

 其れを見て、玉は自分の身体が小さいのも考えず、近づいて威嚇している。気性が激しいのだ。

 然し、中型犬が三匹出て来ると玉は一瞬、ビビって後すざりをしだした。

 其れを上空から見ていたラー助は「此れは危ない」と察して鉄を呼びに飛び立つと

「ギャー、タマチャン!」と頭の上で叫んだ。

 鉄は、あっという間に駆けだした。

 洞穴の前で玉が睨み合っているではないか。其れを見ると

「ガォーン!」

 と大声で唸ったのである。

 三匹は鉄の大きな図体と迫力に圧倒され、尻尾を巻いて一目散に逃げて行った。

「鉄ちゃん、助かったよ、有難うさん」と急に怖さから解放され安堵感一杯でへなへなとその場にへたり込んでしまった。鉄は優しく側に寄り添い、玉の頭を舐めてやっている。

 後はラーちゃんと一緒になって大喜びして戯れあっている。

 其れからは、動物の本能で二度と此の別荘が襲われない様に、ぐるりと周りに臭い付けをし、其れ以降は再び襲われる事は無かった。でも此れはやはり鉄のお陰であった。

 与作は次の日に朝遅くまでぐっすり寝ていた。昨夜のうちに明日は休みと鉄に告げている。

 主人様が非番の日で有る事を知っており、与作が目覚めて飯の用意が出来るのを待って外で遊んでいる。

 何とか一緒に山の中に行きたくて堪らないのだ。

「鉄ちゃん、飯は道場の方で食べるか」

「ウォーン」

「ワシは久し振りに棒振りをするからな。其れから吹き矢を作るで、鉄ちゃんとは宝探しをやるか。今日も忙しいのう」

 山道を上がって行くと竹藪が有る。春先には筍を掘ったりして、何時も内緒で弁当を作ってくれる女中さん達に配っていた。今日は真竹を切って枯らし乾燥させておいたのを、適当な長さに切って吹き矢を作るのだ。

 其の前に、ほぼ毎日欠かさずにやっている、居合いと立ち回りの稽古を何時ものように繰り返している。

 特に居合いは集中的に打ち込んだ。立ち合い稽古はやろうにも何せ相手がいない。

 親からはきつく剣術は止められており、おっちゃんからの教えは受ける事は出来ない。せいぜい出来たのは吹き矢程度である。

 山の中の小さな広場に着くと、藁で作った人形らしき物や紐で吊るした棒切れを相手に見立てて、何度も何度も間合いや呼吸を計りながら打ち込みの練習をしていた。   

 やはり与作一人が鍛錬するには居合いが向いていたのかもしれない。

 時には瞑想する様に目を閉じ又、大きく眼を見開いての瞬間的な抜き打ち抜刀術だ。与作が何時も手にしているのは樫の棒の小刀だ。その点、武士が腰に差している大刀と比べ構えが自由なのだ。有りとあらゆる角度から居合い法を鍛錬していた。間合いの計り方などは、おっちゃんのを見よう見真似で頭の中に叩き込み、倍以上の棒振りを繰り返していた。

 一汗かくと今度は竹藪に入り吹き矢の製作だ。

 今迄に切って乾燥させておいた竹を、何十本も集めて短かく切り揃えだした。綺麗な飴色の様な色合いになっており、真ん丸な筒を確認するのだが此れが結構大変なのだ。

 其れに、与作は副業を兼ねて非番の日に竹笛も作っていた。子供が祭りの時に買ったり、大人達が鳥寄せに使ったりと色々用途が有り、町の問屋さんに納めていたのだ。

 与作の作る笛はお客さんに評判がよかった。筒の外側には藤の蔓を撚って巻き付けて有り、更に、竹の表面を囲炉裏で軽く焼いて装飾を施し、音色も非常に良くてかなり立派な物で有る。子供用には鳥の形の物を付けたりして人気が有った。

 与作が作った笛が売れるきっかけとなったのは、専正寺で年一、二度行われる模擬売店を檀家の皆さんが協力して出店するのだ。その時に与作も笛を並べて置いたので有る。大勢の村人達が楽しみに家族連れで出掛けて来て祭りみたいな催しであった。与作が作った物が程度が良くて安いときている。其れをたまたま三次の町の業者が見つけて以降、製作を依頼してきた。

 今日も、竹の長さ太さは大小様々で其れを丁寧に切り揃えていた。そうした作業中に何本か試し吹きで口に当てて吹いていた。

 細くて短かい竹を手にしながら音色を確かめて吹いていた時の事だ。

 与作が作業している間、鉄が何処かに遊びに行っており暫く周りに居なかった。

 処が、急に山の上からバタバタ足音を立てながら駆け下りて来たのだ。

 そして、目の前に座ってジロジロ見ている。此れには与作も何事か分からなかった。

「どした、鉄ちゃん」

 逆に鉄に聞きたかった。すると「呼んだよ」と云う顔をしている。

「あれぇ、もしや此れは」

 と疑問に思った。

 試し吹きをした時、何も音がしなかったが確かビィーンと手に響き渡る高音を発していた筈と。

 そこでう与作は鉄が見える範囲の近くにいるので再度おもいっきり吹いてみた。なんと耳がピンと立つではないか。この高音が鉄には聞き取れるのだ。

「ウ~ン、此れは何かに使えるぞ」

 以降、夫々に何度も距離を離れて吹く試験をしてみた。

 鉄を小屋の側にお座りをさせておき、与作が東西南北ありとあらゆる方向に駆けて行き、行った先で笛を吹くのである。すると小屋から全く見えない山、川、峠越えからでも反応し、更に距離を伸ばして、一里近く離れていても、笛の音が聞こえ駆け寄って来るのだ。何という聴覚で有ろう。

 こうした新発見により、鉄の為の犬笛が完成したのである。

 そして一度は、小屋がよく見える山のてっぺん辺りから吹いてみた。すると与作が歩いて上がった道筋を寸分違わず追いかけて来るのだ。

 物凄い聴覚と合わせ、狼犬の嗅覚による追跡能力に感嘆せざるを得なかった。

 又、徐々に笛の吹き方に寄り、

「待て!」は短く一回、「行け!」は二回等と何種類もの変化を付けて覚えさせ、鉄の反応を寄り一層進化させていったのである。

 其れからは、与作が仕事を終えて浅田屋から帰る時、洞穴に近づいた辺りで此の犬笛を吹くと、即ぐに足元に駆け付ける様になっていた。

 

 玉との出合い



 与作が浅田屋に仕事に出掛けている間、鉄が洞穴に昼間休んで、何処で何をしているのか全く分からなかった。ただ民家に近づいて農民や家畜に迷惑だけは掛けない様にと願っていた。その為に、空きっ腹にならない様に昼飯用におやつを持たせて別荘の中に入れていたのである。

 与作と鉄が一緒に通いだして何日かした時の事だ。

 一緒に帰る時、どこと無く様子がおかしいのだ。与作には何の事か分からなかったが、何故かソワソワしている。

 小屋に帰って来てからも与作が飯の支度をしている時、外の方に気が向いているのだ。

「鉄ちゃん、晩飯が出来たぞ。さあ食うぞ」

 何時もなら大喜びして飛び付くのだが今夜に限って少ししか食べていない。

「どした。鉄ちゃん具合でも悪いんか」

 聞かれても何処となくうわの空だ。与作が食べ終わっても殆ど口にしないのだ。

 其れどころか、しょっちゅう外を気にしている。そして一度ならず二度迄も出て行くではないか。

「鉄ちゃん、腹具合でも悪いか、薬でもやろうか」

 と聞いてみても返事がない。

 だが与作が見ても、どうにも不具合とは思えない。

 与作は寝るにはまだ早く、藁で草履を作っていた。浅田屋で皆んなに使ってもらったり、遠来のお客様の為に、軒下にぶら下げて何時も無料で提供していたのだ。縄をなっている時、 三度目も与作の仕事をチラチラ横目で見ながら出て行った。

「鉄ちゃん、どうしたんかいな。やっぱり具合がようないんかのう」

 どうにも心配になり鉄が出た後をこっそり付けてみた。

 真っ暗闇の中、近くにある横穴の古い炭焼き窯が有りその中に入って行くではないか。奥が深くて雨露をしのげて暖かい。

 其の中で「ニャァ、ニャァ」鳴く声が聞こえるではないか。

 釜の縁からこっそりと覗いて見た。

 敷き藁の上に産まれてまだそう日が経っていない真っ黒い猫らしきものがいる。其れを鉄が舐めているのだ。

 洞穴の近くの山の中に、村人の誰かが子猫を捨てに来たのだろうか。

 心優しい鉄が其れを見付け、わざわざ咥えて遠い道のりを窯の中に連れて来たので有ろう。

 ご丁寧にも、子猫のそばに置いて有った、竹の皮に包んだむすびまでも持って帰って来ている。だが子猫にとってはとても食べる訳にはいかなかった。米粒ではなくて硬い麦飯なのだ。

「鉄ちゃん、どしたんじゃ、其の猫は」

 びっくりした鉄は慌てて子猫を隠す様に覆い被さった。

「鉄ちゃん、怒っとるじゃないよ心配すな、大丈夫だよ」

 と優しく声を掛けると

 いっぺんに鉄に安堵の表情が浮んだのだ。

「鉄ちゃん、小屋へ連れて入っちゃれ、一緒に面倒見ちゃるよ」

 すると鉄は嬉しそうに子猫を咥えて与作の後を付いて来る。

 囲炉裏の側で見ると、産まれてまだそう日も経っていない様だ。可愛い瞳をして与作をじっと見つめている。

「可愛い顔をしとるなぁ」

 鉄も嬉しそうにペロペロ舐めてやっている。

「それにしてもまだこまいな、鉄ちゃん。麦飯のむすびはまだ食えんぞ」

「此れならまだ柔らかいお粥にしてやらんといけんなぁ」

 と呟き、米粒をしゃもじで潰しながら煮込んでやった。

 暫く冷ましてから少しづつやると、チュウチュウ音を立てて食べるではないか。

「鉄ちゃん、お前の時と同じ様によく食べるぞ。よかったな」

「それにしてもおまえは優しいのう」

 鉄は余程嬉しかったので有ろう「オトウサン、アリガトウ」という表情をして何度も何度もお手をするではないか。

「分かったよ。鉄ちゃん、さあお食べ」

 そして自分の食べ残しの飯をペロリと平らげてしまった。

「鉄ちゃん今夜はお前が抱いて寝てやれよ」

 当然だよ、と云う顔をしながら、懐に抱え込むと仔猫はスヤスヤと寝込んでしまった。

 翌朝、早くに起きて炊事をし飯を済ませると鉄に言い聞かせた。

「鉄ちゃん、暫くは付いて来んでもええから、猫の面倒を見てやれよ。飯だけはちゃんと作くちゃっとくからな」

 鉄は嬉しそうに戸の外迄見送りに出て来た。

「行って来るからな、宜しく頼むよ」

 今日も天気は良さそうだ。朝から与作は気分か爽快で有った。

 鉄の為に、寂しくない様に何か犬か猫を飼ってやらなければと思っていた。そんな処に連れて帰って来たので、こちらも嬉しかったのだ。其れに

「子猫に名前をつけにゃいけんのう。何にするかな」

 間道をキョロキョロしながら足速に駆けて行きながら

「やっぱり、玉にするか。何処にでもおって平凡じゃが此れがいい、今日から玉じゃ」

 嬉しくて山中に響き渡る程の大声を発しながら

「よし、今日から皆んなの為に頑張るぞ!」

 与作も家族が増えて一段と張りが出て来た。浅田屋に丁稚奉公に入ってまだ一年にはなってはいなかったが、吸収は猛烈に早かった。

 入店する時に、庄屋さんが与作は無学文盲だと嘘をついて採用されたが、実際は読めない字は殆ど無く書く字にしても解からない文字は無かった。

 今更、其れを自慢しても詮無いことであり、ミミズ文字の書体で押し通していた。薬の効能書きも使用済みで捨ててあるのは拾って持ち帰り、集めて常に何度も読み直し勉強していた。其れに浅田屋で失敗して使い古した紙も写経用に貰って帰っていた。

 其れから三日して非番の日がやって来た。

「鉄ちゃん、今日はお休みじゃ、もう時期が遅いかも知れんが松茸でも採りに行って見るか」

 鉄は、行くという言葉を聞くとすぐに大喜びで反応して来る。

「イコイコ」と戸をガリガリやりだした

 玉はまだ小さいし其れに今は寝ている。

「弁当を作って有るから山で食べるぞ」

 早速、柳行李を風呂敷に包んで、鉄の背中に括り付けると頂上目指して走り出した。

 与作は山道を走るのが早いのだが、とてもじゃないが鉄の速さには到底かなわない。走っては止まり、走っては止まるを繰り返す。本当に優しいのだ。

「鉄ちゃん、一寸、待ってくれ息が切れるわ」

 すると、側に寄り添ってくれる。

 此処は自分の家の持ち山で子供の頃から親兄弟で競ってキノコ狩りをしていたのだ。だから松茸の生えるシロという場所を覚えている。

「鉄ちゃん此処らから上へ上がって行くぞ」

 早速始め出した。流石に小祭りと云われるこの時期になると、寒さも増してもう駄目かなと思いながら探していた。

 そろりそろりと辺りを掻き回さない様、腰を屈めて下から覗き込む様に見ながら探していくのだ。すると目の前に傘の開いた大きな松茸が有るではないか。

「おう、鉄ちゃん有ったぞ」

 旬の時期であれば、一本有ると大体続いて何本も生えているものだが、誰かの採り残したもので有ろうか。

 すると鉄が近付いて来て臭いを嗅ぎだした。自分も探すつもりなのだ。

 与作も「まあいいか、好きな様にせい」ぐらいのつもりでいた。

 上の離れた場所に駆けて行くとガサゴソ音がする。其れも素早く何箇所でもだ。

 其のうちに松茸を咥えて来た。

「鉄ちゃんもう見つけたか。えらい早いのう」

 ポトリと落としてから又、駆け出した。そして与作の見える処で又やり出したのだ。

 其れも、四本足で地面を引っ掻き回し出したのだ。其れを見た与作は、たまげまくり

「鉄ちゃん、やめえや!駄目!駄目!」

 鉄は驚いて与作の元に駆け寄った。

「あんまり、無茶苦茶するとシロが駄目になるじゃないか、来年、松茸が採れんようになるんだぞ」

 叱られた鉄はしょんぼりしている。そして道の有る処に出て行き、そして其処に座って暫く待っていた。

 多くは無かったがシメジ、クロッコウと傘の開いた松茸が十本採る事が出来た。

「鉄ちゃん、怒ってごめんな。此れから昼飯を食べような」

 途端に与作の声を聞いて大喜びをしている。

「まぁええか、少ないが今年最後の収穫じゃ。女中さんに持って行こう」

 そしてすぐ近くの空き地の芝草の上で弁当を広げて食べだした。鉄は与作と一緒に居られるのが嬉しくて嬉しくて堪らないのだ。

「玉ちゃんは今日はまだ無理じゃたが、今度の休みぐらいから連れて来れるかな」

 此れも与作が言った言葉を有る程度理解出来た。何時も寝食を共にしていると、あっという間に互いが以心伝心理解し得るのだ。

「鉄ちゃん、飯を食うたら眠とうなったな、天気もえ えし一寝入りするか」

 と其の場に横になり昼寝をしだした。鉄は図体が大きくなったにも拘らず、相変わらず甘えて与作の懐にくっ付く様にして寝ている。小春日和のポカポカ陽気で気持ちよく寝ていた。

 どれくらい経ったであろうか。

 与作は足の向う脛を毛虫か何かにチクリと刺された様だ。

「痛た!」

 此れに目を覚まされた。

「オイ!鉄ちゃん起きいや。玉ちゃんが待っとるで」

 ガバッと起きると鉄も同時に立ち上がった。

「鉄ちゃん、玉が誰もおらんと捜すで、早う帰ろうか」

 急ぎ松茸を採ったビクを背負いながら、急な坂道を競争する様に駆け下り出した。

 そして小屋が目の前に近付いた時に与作はハッと思い出した。

「鉄ちゃん!」

 と言った途端、鉄は、もと来た急な坂道を駆け上がり出した。

 すると間も無くして風呂敷包みを咥えて下りて来た。

「ごめんなさい」と申し訳け無さそうな顔をしている。

 行く時に鉄が背負っていたので自分が悪いと気付いたので有る。

「鉄ちゃんが悪いんじゃないよ、ワシが気が付かんかったからな、ごめん、ごめん」

 と優しく頭を撫でてやった。

 与作が寝ぼけて居て忘れていたのだ。何処へ置いたか落としたか、全然、気が付かなかった。

 だが鉄は臭いだけで風呂敷包みを簡単に見つけ持って帰って来た。

 此の時に始めて、鉄にはあらゆる物に対して、嗅ぎ分け追跡する物凄い嗅覚が有る事に気付いたので有った。

 広い山中で、何処に有るか分からないのを捜すなど、人間には到底出来ない事である。

「鉄ちゃん、凄いな。何であんなに簡単に見つけて来れるんじゃ」

 そんなのは簡単よ、鼻がいいからだよ、と云う顔をして自分の鼻を近づけてクンクンしているではないか。

 其れ以降この習性を利用して、鉄と玉に宝探しと称して山中で遊びに興じていた。玉も嗅覚が優れており近場での遊びには負けないものが有った。

 小屋に帰り着くと玉は起きていて寂しかったのか「ニャァ、ニャーァ」鳴きながら、足にまとわり付いて来た。鉄も優しく舐めてやっている。玉の嬉しそうな顔、鉄は雄なのだがまるでお母さんの様だ。

「鉄ちゃん、もう暫く子守をしてやってくれるか」

 そうして十日ぐらい小屋で鉄が玉の面倒を見ていた。

 犬と猫の違った動物が、与作の留守の間、何をしているのかは分からなかったが、山中を駆け回りながら色々な事を教えていたのであろう。

 とに角、仲がいいのだ。

 そうした時、与作が仕事を終えて何時もの様に駆けて帰っていた。すると鉄が見つけた洞穴の近くの山道で待っているではないか。

「鉄ちゃんどしたんじゃ、玉は放ったらかして来たんか」

 すると裾を咥えて何時もの様に洞穴の方に来いと引っ張るではないか。

 そして中を覗いていると玉が飛び出して来た。「ニャーン、ニャーン」と鳴きながら与作に飛び付き懐に入った。

「びっくりした!玉ちゃんも来とったんか。どうして連れて来たんじゃ」

 玉はまだ小さく、長い道のりを歩き通せる訳がない。どうも背中に乗せて来た様だ。鉄は体毛がフサフサしており滑り落ちない様に玉の手で握っておられるのだろう。

 其れは帰りに見る事が出来た。

「よしゃ、今日から此処は別荘じゃ」

「 鉄ちゃん、よかったな。今度から寂しゅうないぞ」

 別荘の中で戯れあいながら非常に楽しくて堪らない。

「ボチボチ皆んなで一緒に帰ろうか」

 早速、玉は鉄の背中に飛び乗った。嬉しそうに「ニャーン」と鳴いている。

 鉄にとっては、玉の目方など物の数ではないわい、という表情だ。

 帰る道中も背中から降りて少し歩いたり、与作の懐に入ったりと全く自由気ままで有った。

 今夜も曇り空で真っ暗であったが此の一家にとっては一切関係なかった。皆んな夜目が効くのだ。

 与作は庄屋さんのお陰で恵まれていた。浅田屋の主人と掛け合ってくれて十日に一度の休みを貰っていてくれたからだ。本来ならば丁稚奉公の身で有ればこんな条件など有り得るはずが無いからだ。

 身体を動かす事が好きな与作は休日を目一杯活用していた。

 幸いにも百姓仕事は手伝わなくていいと父親が言ってくれていたからだ。

「おい、鉄ちゃん、今日は宝探しをするぞ。玉ちゃんにも教えてやってくれるか」

 与作は玉に嗅覚がどれくらいあるのか試してみた。玉の好きな、小さなむすび、いりこを見える範囲に置いて取りに行かせる事から始めたのだ。

 すると鉄と競争する様に喜んで駆けて行くではないか。

 此れもあっという間に覚えてしまった。とても初めてする事とは考えられない。

 段々と距離が離れても見つけて来る様になって来ると

「よしゃ、玉ちゃん、ようやったぞ。凄い凄い!」

 玉は与作に褒められ頭を撫でられ嬉しくて堪らない。

 こうして、日頃の遊びを通じて鉄も玉も研ぎ澄まされた嗅覚に発展していったのであった。

 従順で優しく且つ、又、勇敢な鉄も一度だけ与作にこっぴどく怒られた事が有る。此れは後にも先にもこれ一度だけで有った。

 其れは玉を拾って来てから暫くしてからの事である。与作が浅田屋での仕事を終えてから鉄と一緒に小屋に帰って来た。

「玉ちゃん、今、帰ったよ」

 今朝、出掛ける時に、昨夜からの雨が止まず気まぐれな玉は嫌そうだったので連れて行くのをやめていた。長い時間留守番をしていて寂しかったのか、大いに甘えて来て大喜びをしている。

「一寸、待っとれよ。飯を作るからな」

 其れから晩飯の支度をしていると、何処へ出掛けたのか鉄が暫くいなかった。

「玉ちゃん飯ど、鉄ちゃんは何処へ行ったんじゃ」

 すると戸が開く音がして鉄が入って来た。

 与作が振り向くと、鶏を咥えて嬉しそうに中に入って来るではないか。其れを見ると烈火の如く

「コラー!鉄、そりゃ何じゃ!ワリャ何処から鶏を捕って来たんなら」

 鉄は急に怒鳴られ口からポトリと下に落とした。

 そして尻をおもいきり蹴っ飛ばされたので有る。

「どして、農家で大切に飼っとるのを殺したんじゃ、あれだけ人家に近づくな言うとろうが!」

「外へ出とれ!」

 と再度叩かれ追い出された。

 外はしとしと雨が降る寒い夜空で有った。戸を閉められて何刻、放置されていたであろうか。

 其の怒られる様子を見ていた玉は、飯を食べるどころではない。

 自分も叱られた様て角で小さくなっている。だが気になるので有ろう。しょっちゅう戸の隙間から覗いている。何せ玉にとって鉄は父親、母親がわりで有り心配で堪らない。

 雨に濡れて泥だらけになりながら、ジッとお座りをして向こうからこちらを見つめている。

 そして玉はそんな鉄がどうにも心配になり外に飛び出した。

 与作は、暫くしても玉が帰って来ないので気になり隙間から覗いて見た。すると、鉄と一緒に雨の中に並んで座っているではないか。

 この様子を見て与作は、ほろっと来た。

 戸を押し開けて

「玉ちゃん、鉄ちゃんを連れて帰っておいで。玉に免じて堪えてやるから」

 と手招きをしてやった。

 すると、玉は嬉しそうに鉄を横眼で見ながら帰ろうと促している。鉄は遠慮そうに後から付いて来る。

「さあ、お入り。鉄ちゃん二度とするなよ」

 優しく声を掛けてやると、鉄は頭がいいから与作の言う事がすぐに理解出来るのだ。

「ごめんなさい、二度としません」と心の中で叫んでいるのが顔に現れていた。

 雨に濡れた体を拭いてやると、鉄と玉は与作に甘えて何度もお手を繰り返し小屋の中を走り回っている。余程嬉しかったので有ろう。

 こうして人間と動物の心の絆がこの事件により、より深まったので有る。

 一日の終わりの締めは必ずお経と写経で有った。専正寺の時の押し掛け小僧から続いており、此の日も

「無事過ごさせて頂き有難う御座いました」

 と感謝の気持ちを込めてお祈りをしていたので有る。鉄も玉も愁傷なもので与作の後ろで、ちょこんと座りじっとしている。



  

  空飛ぶ忍者のラー助



 玉が来てから半年くらい経ったで有ろうか、段々と猫独特の自由気ままな性格が丸出しになり出した。普段は雨の朝であれば、絶対に与作と鉄に付いて来ない。だが今日に限って与作の懐に入って別荘に行く腹積もりの様だ。

「玉ちゃん、今日はどう云う風の吹きまわしじゃ」

 与作と鉄は蓑を着ており玉も懐の中で雨に濡れないのだ。

 玉は何故か素晴らしい予知能力を持ち合わせていた。

 何か事有る度に勘がよく当たるのだ。

「今日も、出て来ると云う事は、何かは分からないが絶対に有るぞ」

 与作が浅田屋に出向いてから昼過ぎには雨も上がって来た。此れで鉄も玉も、別荘の外に出て遊べるであろうと仕事をしながら喜んでいた。

 可もなく不可も無い、何時もの浅田屋での丁稚奉公仕事を終えると、今夜は皆んなと一緒に帰れるぞと仕事疲れを忘れ浮き浮きしながら走っていた。

 何時もの場所にやって来ると、犬笛を取り出し一吹きした。すると鉄と玉は既に道の脇に座って待っている。

 与作を見つけると「ワンワン、二ヤンニャン」鳴きながら駆けて来た。

 後は何時もの賑やかな戯れあいである。

「よしゃ、今から競争して帰るぞ」

 処が、玉がその場を動かない。

「どした、玉ちゃん。又、何かしでかしたんか」

 例によって、「ニャ~ン、ニャ~ン」と鳴きながら別荘へ来いと引っ張るのだ。

 仕方なく付いて行くと、玉が中に入って行き与作も屈んで入った。

 真っ暗な中に何かこっちを見ている黒い物がいるではないか。

 目が慣れるまで、よく分からなかったが大きな目玉でこちらを見ている。どうやらカラスの様だ。 まだ飛べる状態ではないのか、もごもご身体を動かしている。

「玉ちゃんか。何処で見つけて来たんじゃ」

 どうやら雨上がりの後、外に出ていて、木の上の巣から落ちて来たカラスを玉が見つけた様だ。暫くその場に居たが親カラスが一向に現れず、其処で鉄を呼んだので有ろう。

 心の優しい鉄は、玉の時と同様に口に咥えて別荘の中に連れて来た。

 まだ完全に毛が生え揃っておらず飛ぶ事が出来ないようだ。

「しょうもない奴じゃな、でもな、おまえさんらの優しい気持ちに免じて許してやるよ」

「さあ、帰ろう此奴に餌を作ってやらんとな」

 与作はカラスを懐に入れてやり、鉄は玉を背中に乗っけている。何とも変わった組み合わせで有ったが、本当に幸せな一家の道行きで有る。

「然し、鉄ちゃん、玉ちゃん、其れに此奴といい皆んな真っ黒でまるで忍者一家じゃないか」

 与作は帰り道を早駆けしながら、此奴の名前を何にするか考えていた。 懐のカラスの目を見ると何と可愛いことか。大きくて真ん丸で瞼をパチパチしながらジッとこっちを見つめている。思わず頭を撫でてやった。

「鉄ちゃん、何ちゅう名にするかなぁ」

 だが、鉄は知らんぷりで前だけ向いてる。

「カラスのカーちゃんか、ラーちゃんか、それともスーちゃんか」

 暫く口の中でブツブツ言いながら思案して歩いていたがラーちゃんの響きがいい。

「よしゃ、ラー助にしよう、ラーちゃんだ。此れに決めた!」

「ラーちゃん、帰ったら粟のすり餌を食べような」

「玉ちゃん、明日から暫くはラー助の子守りだぞ」

 考えてみれば、玉がラー助を拾って来た理由が分かった様な気がした。

 お侍様が山道でマムシに噛まれた時にずっと寄り添って看病していたが以来あれだけ懐いていたお師匠さんと時たまにしか会えなくなり、何時も小屋に自分だけいるのが辛くて寂しいのだ。

 其れに何時も鉄の様に与作について、別荘に行ける程の体力がある訳では無し、猫は猫なりに寂しさを紛らわせる方法を考えたのであろう。

 何れにしても、其れから立派に成長するまでは、玉が我が子の面倒を見る様に可愛いがっていた。

 与作が鉄にしてやった事を今度は、鉄が玉にしてやり又ラー助にして やっている。一つ屋根の下で人間と犬と猫とカラスが暮らしていると、共通の言葉が発生し、心が通じ、一段と意思疎通が出来る様になるので有った。

 何時も、和尚様が教えてくれた仏教によると、輪廻の世界では小さな魂が人間や動物、其れに全ての物へ、良い事、悪い事が巡り巡って帰って来ると和尚様に教わった。

 ラー助がやって来て成長してからは、小屋の中の賑やかな事、此の上なしで有った。

 とに角、ラー助は雛から羽が生え揃いだし飛べる様になりだすと全くやんちゃぶりを発揮しだした。

 其れに自分の事をカラスと思っておらず、人間の与作の子供と勘違いをしガキ大将そのままで有りだした。

 そんなラー助を鉄は大らかな気持ちで見守り、ましてや玉は優しい母親代わりで、お互いの共通語でもあるので有ろうか。

 とに角、じっとしている事が無い。

 此の時期は温かく寝る時は小屋のすぐ横に有る松の木を寝ぐらにしていた。

 ラー助は夕方に、日が陰り出すと自分が作った巣の中に入り、朝は早い時間から動きだし「カァー、カァー」と鳴きながら飛び回す。

 そしてまだ皆んな眠たいのには御構い無しで、入り口の戸をキツツキの様にコンコンやりだすのだ。

 その度に優しい鉄は戸を押し開けて中に入れてやる。 

 そんなある朝、与作が仕事に出掛けようとした時の事である。

 外で「ガアガア」「ギャーギャー」異様な声がするではないか。

 此れは何事かと鉄が飛び出した。

 するとラー助が三羽のカラスに攻撃されている様なのだ。

 其れに気付いた鉄が自分の可愛いラー助がやられていると気付いて

「ワウーン、ガゥーン」と大声で吠えたてた。

 まだそんなに大きくないラー助はビビリまくって遠くに飛んで行ってしまっている。

 ラー助の巣の中に侵入していた他のカラスは、鉄の大声に慌てて飛んで逃げた。

 玉はといえば其の松の木をよじ登っているではないか。

 その仲間も恐れをなして退散してしまった。

 其の様子を離れた遠くから見ていたラー助が暫くして鉄の足元に降りて来た。

「鉄ちゃん、有難う」と云う態度で身体を擦り寄せているではないか。

 鉄もラー助の頭を優しく舐めている。そして玉も心配し近付いて来て戯れあっており、本当に仲良しな忍者一家なのである。

 ラー助も玉に育てられ、何時も与作と鉄に優しく見守られているので、自分をカラスと思っておらず他のカラスは全部敵なのだ。

 出掛けに与作は考えた。ラー助が寝ぐらを襲われ無いように、今夜から皆んなと一緒に小屋の中に住ましてやろうと軒下にカラス専用の出入り口を作ってやるか。

 その日に浅田屋での仕事を終えると、道具一式を買い揃え鉄と一緒に帰って来た。皆んなに晩飯を食わせてやると工事に取り掛かった。

 屋根の下の軒下に真四角に壁を切り取り何時でも出入り出来る様にしてやった。

 出来上がったのが真夜中であったが皆んな起きていて与作の仕事ぶりを見つめている。

 特にラー助は、自分の為に与作がやっている事に気付いており、嬉しくて鉄とはしゃぎ回り早速、出来上がると枠の上に飛び上がり確かめている。そして外に飛び出しては中に入って来る。

「ラーちゃん、此れでええか」

「クェクェ、カァー」

 翌朝から早速、何度も出入りを繰り返している。

 此れで鉄の毎朝の戸を開けてやる役目も解消されそうだ。

 ラー助は此れが出来てからは、嬉しくて堪らない。

 .処が、数日してから厄介な事が生じだしたのだ。

 大体、カラスの習性であろうか、自分が気に入った物を外から咥えて来る。

「ラーちゃん、やめぇや、ゴミ屋敷になるじゃないか」

 与作がいくら叱っても同じ繰り返しをするのだ。時には鉄、玉にも怒られるのだが一向に辞めようとはしない。此れには与作もほとほと懲りて、其の都度まとめて外に置いてやる様に場所を確保していた。

 何と言ってもラーちゃんにとっては宝物なのだから。

「此れも徐々に癖を直しちゃらにゃいけんかのう」

 其れから暫く経ったある日、何時もの様に朝早くから小屋を抜け出したラーちゃんが松の木の上にいる。

 其処で一家に重大事件が発生したのである。

 今朝は何時もの様に大声で「カァー、カァー」と目覚ましの鳴く声がしない。

 突然、朝の静けさを破って

「テッチャン、タマチャン」

 と呼ぶ声がする。

 此の声に、鉄と玉がびっくりして戸を押し開けて外に出た。

 だが誰もいない。

 与作が呼んだと思ったのだ。

「アレ、おかしいな」と小屋の中に又、戻って来た。

 其の時、与作はまだ夢見心地で此の声に気付いていなかった。

 すると又、暫くして「テッチャン、タマチャン、ヨサク」と人間の声が聞こえるではないか。

 此れには与作もガバッと起きて皆んなと一緒に飛び出した。

「誰がワシの名を呼んだんじゃ、誰もおらんぞ」

「親父が呼びに来たんかいな」

 鉄も玉も辺りを駆けり回している。与作も辺りを見回しながら小走りにすぐ近くの間道へ駆け出そうとした時

「へへへ、ラーチャン、ココ」

 其の声がする方を振り返ると、松の木の上からラー助がこちらを見ているではないか。

「ワオゥ!ラーちゃんが喋っとるぞ」

「ワン、ウワーン」「ニャ〜ン、ニャ〜ン」と皆んで大合唱をしだした。

 其処へすぐに地面に飛び下りて来た。互いに顔を合わせるなり

「テッチャン、タマチャン、ヨサク」と呼びだすと皆んな大喜びである。

 皆んなして一緒に寝る様になると、人間と動物の関係だけでなく完全に互いの心が打ち解けていくものなのであろうか。

 元来、昔から、カラスが知能が高い上に喋る事が出来る言われていたが、現実にラー助がやってくれるとは与作は嬉しくて堪らなかった。

「ラーちゃん、たまげたよ」

「メシヲタべ・・」

「よしよし、そうするか」

 今度はめしと聞いて皆んなで大騒ぎである。

 其れ以降もどんどん進歩していき、人間でいえば六、七歳並みの考える能力を有し、会話をする事が出来る様になって来た。

 与作は、ラー助と向き合いながら、色々な言葉を教え、更に発言をはっきり出来る様に、何度も繰り返して叩き込んだ。其れを側で見ている鉄と玉は楽しそうに眺めている。とに角、与作は動物達の潜在能力を引き出すのが上手なのだ。

 此の為、与作と忍者一家との心の繋がりドンドン増すばかりであった。

 此のラー助と目を合わせていて小さな疑問が湧いて来た。今は和尚様のお陰で殆ど読めない字が無いほどになっていたが、烏という漢字で何故、横棒が抜けているのがカラスと読むのか理解出来なかったのだ。

 元来、此の文字は象形文字と言われ鳥の形から生まれたものである。 

 然し、その時は分からなかったが後年、色々な書物に触れるにあたり知る事が出来た。其れによると鳥という字の中の棒線は目に当たりカラスは全く真っ黒で、更に目も黒い。回りから見て目が何処にあるか分からず其れで抜いたらしいのだ。

 漢字の言われなど、そんなものであろう。

 何時もラー助は鉄、玉と一緒に遊ぶ宝探しが大好きであった。夫々が好きな物を与作が山中に隠して来る。競争しながら見つけ出して持って来させるのだ。

 其れをやる度に、場所を変えてやるのだが皆本当に勘が良く鉄、玉、ラー助もいい勝負をしていた。唯、距離が一寸離れると鉄がダントツの能力を発揮する。此れが以降に三次藩の為に大いに貢献したのである。

 又、今迄、与作は鉄と玉で隠れんぼや鬼ごっこ遊びをしていたのであったが、ラー助が来てからは完全にぶち壊しで辞めてしまった。

 ある時、山中で鬼ごっこ遊びをやっている時、与作が鬼になり「もういいかい」と言いながら隠れている皆んなを探すのである、処がラー助は山中に隠れず上空を旋回している。与作が捜しに行き出すと、上から声を出して

「テッチャン、ココ」「タマチャンココ」

 全部バラしてしまうのだ。

「コラッー!」「ワンワン!」「ニャーニャーン!」

 と怒りまくり鉄と玉は追いかけ回すのだが何せ、近ずくと飛び立ってしまい

「ココマデ、コイ」

 幾ら怒っても効き目がない。いたずらが嬉しくて、ラー助も一緒に遊んでいるつもりなのだ。

 以来、此の遊びは辞めてしまった。

 ラー助が成長し言葉が達者になるに従って、世にも珍しい凄い活躍をする様になり出した。これから後にラー助はお師匠さん、三次藩の為に大活躍をする事となる。

 そして何んと日本国中何処にもいない、第一号の三次藩お召し抱えの忍者カラスとなったのである。


 ここまで★★★



 \\\\\ 「 2 」

 其れから間もなくしてある朝、城から家老が浅田屋にやってきた。蹄の音を響かせ二頭の馬が店先に到着すると、家老が家来に

「お前は此処でええ、先に代官所へ行っといてくれ、馬は連れて行ってくれるか」

「その後は如何されますか」

「後は近いから歩いて行くから。荷物だけ下ろせ」

「承知致しました」

 町中の商店街へ家老が馬で駆け付けるなど、異様な雰囲気の思わぬ来客に店先は慌てふためいた。日頃、まず有り得ない事で、他の商店も一様に驚きの眼差しで店先に出て来て浅田屋の様子を伺っている。

「主人はおるか。おったら即ぐに此処へ呼んで来てくれ」

 応対した番頭は其れこそ以前の闕所の事を鮮明に覚えており顔が一気に青ざめて

「一寸、お待ち下さい。今、呼んで参りますから」

 と奥に主人を呼びに駆け込んだ。

「旦那さん!大変です!城からご家老様が来ておられます」

「うん?何事じゃ。即ぐに出るから」

 取り急ぎ身繕いを整えて店先に出て来た。

「此れは此れはご家老様、わざわざ朝早くからのお越し何用で御座いましょうか」

「こちらからお伺い致しますものを」

「おう、浅田屋か。実は重要な話しがあってな」

「ご家老様、此処では何ですから奥にお入り下さいませ」

「うん、そうしてくれるか」

 浅田屋は以前の闕所の事が有り、ドキドキして足を震わせながら客間に案内した。其処へ奥様が顔を出し挨拶がてらお茶を持って来た。

「おう、気にすな、気にすな。ワシャ即ぐに帰るから」

 ご家老様の顔色を伺うようにしながら不安そうに座敷を出て行くと、主人は聞いてみた。

「又、前の闕所の時の様に覚悟していなければならないのでしょうか」

「いやいやそうじゃないよ。その点は安心してええよ」

「実はな、与作殿の事じゃがな」

「エッ、今、何と申されました。うちにおる与作はただの丁稚で御座います。何か人違いをされていませんか」

「うんにゃ、間違うてはおらんよ。其れがな、我が藩で召し抱える事になってな」

「其れも殿様、直々のご依頼じゃ」

「そんな馬鹿な!ご家老様、与作はほんま浅田屋の丁稚ですよ。其れも百姓の倅で全くの無学文盲ときております。何かのお間違いではないでしょうか」

「其れはワシもよう知らなんだわ。然しな、現にお殿様から大分以前に苗字帯刀を許されとるし、剣も大層な腕前らしいんじゃ。じゃが侍には絶対にならんと断ったらしいぞ」

「う〜ん、然し・・・」

 暫く浅田屋は頭をひねって思案をしていた。

「まてよ、そう言われますと心当たりが有る様な気がします。私達家族が何度も危機に瀕した時に姿、形の見えない誰かしらに助けて貰らいました、もしやと思いましたが・・・」

「とに角、与作殿は文武両道に優れており類い稀なる才能を有しているという事じゃ。読み書きにしても分からん事は一切無いらしいで」

「う〜ん、ご家老様のお話しを伺っておりますと、やっぱりなと思われる節が御座います。此処ではミミズの這った様な字をわざと書いていたんですね。だが実際は物凄い達筆でした。其れを一度だけこの目にした事が御座います」

「じゃがのう。与作殿は殿様のたっての願いを断わっておられる様なんじゃ。其れはな、浅田屋への恩と義理があるからと言ってな」

「何と律儀な男よのう」

「そう言う事で与作殿にはいずれ浅田屋を離れてもらわにゃならんのよ。侘びを兼ねてワシが今日此処へ来た次第じゃ」

「既に先を見越して与作殿には畠敷に住まいを確保してあるんじゃ」

「ご家老様、事情はよく分かりました。私には与作殿を何時までも留め置く権利が一切御座いません。本人の自由にさせたいと思います」

「分かってくれたか有難うな」

「まぁ、もう暫くは誰にも内密に浅田屋においてやってはくれぬか」

「今日来た事も与作殿には何も言うとらんのじゃ」

「本人は、今日は非番で店には出ておりませんので追い追い話しをしてみますから」

「其れとな、もうちょいええかな。話しをしても」

「どうぞ、どうぞ幾らでも」

「商いの邪魔にならんか」

「とんでも御座いません」

「こんな嬉しい話で御座いましたら何時まてご随意にどうぞ」

「ところで、ご家老様、早朝よりのお越し食事は済まされましたか」

「いや、実はまだなんじゃ、この後、代官所に寄る用があってのう。其処で食おうと思うとったのよ」

「其れでは、私の処で食べていって下さい。ええものは有りませんが」

「そうしてくれるか、すまんのう」

 そう言うと主人は奥にいる女房にすぐ支度をする様に頼みに行った。すると美和の部屋の中から泣き声が廊下に聞こえてきた。主人がガラッと戸を開けると部屋の隅で抱き合ってシクシク泣きながら震えているではないか。

「おい!どしたんじゃ、お前ら何をしとる」

「でも、又、ご家老様に店を閉めろと言われるんじゃないかと」

「何を勘違いしとるんじゃ。話しは全然違うぞ。与作の事で来られたんじゃ」

「即ぐにご家老様に朝飯の用意をしてあげてくれんか」

「ええ、闕所じゃないんですか。なぁんだ!よかった。そうと分かれば美和ちゃんやろ」

「はい!」

「何と現金な奴じゃのう。まぁええか。実はワシもホッとしとるんじゃ」

 主人も台所について行き女房や美和が楽しそうに食事の用意をする姿を見て嬉しくて堪らない。

「然しよ、与作が大変な事になったで」

「お父さん、話しは後で、今、こっちが大変なんですから」

「分かった、分かった。ワシは向こうへ行っとくから」

 浅田屋は母娘の心配が杞憂に終わり、喜び勇んで支度している姿を見て嬉し涙が出てきた。

 主人は涙を拭いながら再度客間に走り込むと

「すまんのう。朝から迷惑をかけて」

「何を仰います、親娘で喜んでやってますからもう少しお待ち下さい」

「有難う」

「然し、与作という奴は一体、ほんまに何者なんじゃ。同じ志和地の出じゃが何処で学問や剣術を教わったんかのう。そんなとこは何処も有りゃせんがのう。奴一人の独学か。何でワシとこうも違うんじゃ。まぁワシのとこは小作人じゃったからな。土台からして違うからしゃないか」

 主人はほんの一瞬の間に与作と自分の境涯を頭の中で回想していた。

「ご家老様、間も無くで整いますから」

「有難うよ。すまんな」

「其れとな、まだ他にも話しがあるんじゃ」

「又、其れは何んで御座いましょうか」

「実はな、もう一つ大事な事があるのよ。浅田屋は尼子国久公の事は知っとるわな」

「其れはもう。この地を治められる立派なお殿様とお聞き致しております」

「そうじゃ、其の御方がな、是非、浅田屋には礼を言いたいとな」

「こ家老様、一寸お待ち下さい。私は大殿様とは縁もゆかりも御座いませんが」

「処が大有りじゃ」

「国久公が言われるのには、自分が山中で死にかけた時に、誰とも分からんワシの為に薬や食べ物や何から何まで調達してくれ、命を救うてくれたと大感激され心から感謝しておると仰しゃってな」

「分かりました!其れは山中でマムシに噛まれた件で御座いますね」

「そのようじゃ」

「其れは私ではなく与作、いや与作殿がした事で御座います。私は殆ど何もしておりません」

「何を言う、毒消しから何や彼や薬の浅田屋のお陰で命を救われたんで。其れも全く無料奉仕じゃろうが」

「とんでも御座いません。困っている人様をお助けするのは当たり前の事でお礼など一切言って頂く事では有りません」

「そこでじゃ、大殿様は浅田屋に、本来ならば顔を出し礼を述べる処なれど今は出来んので代理を頼む、と言われワシが代わりに来たのよ」

「勿体ないお言葉で御座います」

「それで此処に国久公から預かった物があるので受け取ってくれるか」

「とんでもない事で御座います。其れこそバチがあたります」

「そんな事は言わず受け取ってくれ。そうせにゃワシゃ帰れんぞ」

「ハハァ」

 ご家老様から授かった木箱はかなりの重さがあった。中は分からなかったが大凡の察しがついた。

「其れとな、我が殿からは浅田屋に終身三次藩御用達の看板を授けると仰しゃってな。ほいで以前の闕所の件ではひとかたならぬ迷惑を掛けた、謝っておってくれとのお言葉じゃ」

「重ね重ね有難い事で御座います」

 と主人は深々と頭を下げ礼を述べている時に親娘が食事を運んで来た。

「おおぅ、朝から手を煩わせるのう」

「とんでもない。お粗末な用意しか出来ず申し訳け御座いません」

「すまんな、お内儀さんよ。其れに娘さんも一緒にしてくれたんか」

「どうぞ、ごゆっくり」と言いながら親娘が忙しく台所と部屋を出入りしていた。

「すまんな。有り難く頂くよ」

 と言いながら箸をつけ、そして話しかけて来た。

「然し、浅田屋よ」

「何で御座いましようか」

「この間の闕所の件の時は親娘さんは心配で大変じゃったろうのう」

「はい、私が牢内で死んだものとばかり思っていたそうで泣いてばかりいたそうです」

「そうよなあ、大変なめに合わせたのう。何にも浅田屋は一切悪い事をしとらんから尚更じゃ」

「お殿様が謝っといてくれと言われたが、ワシもほんま申し訳ない事と重ね重ねお詫びをさせてもらうよ」

「ご家老様、お殿様とご家老様のお言葉、全く勿体ない事で御座います。私どもは心から感謝致しております。

 暫くご機嫌そうに箸をつけ朝飯を食べ終えると世話をしていた親娘に

「いやぁ、馳走になったのう」

「どう致しまして」

「然し、お内儀よ、良かったのう。浅田屋も雨降って地固まるじゃのう」

「えっ、え、何のことで御座いましょうか」

「ハハハ、後は主人に聞いてくれ」

 其れから席を立つと礼を言いながら店先から代官所の方に歩いて帰られるのを全員で見送った。

 そして主人は急ぎ店の中に駆け込んだ。其処へ番頭が声を掛けてきた。

「何用だったんでしょうか」

「おうおう、大事ない。大事ない、大した用じゃなかったよ。今迄通りに仕事を続けてくれるか」

「其れは良かったですね。奉公人達も心配しておりました」

「店も以前の事があったが雨降って地固まるじゃ」

 奥に入ると台所で親子が嬉しそうに後片付けをしているではないか。

「お父さん、与作の事でご家老様が来られたと言いましたが、何かいい事でもやったんですか」

「ご機嫌で帰えられましたが」

「終始ニコニコしておられましたよ」

「オォ、大変な事をしでかしゃがったで」

「何をやったんですか」

「でも、与作さんですから間違いは絶対に有りませんよ」

「ねぇ、美和ちゃん」

「そうよ、母さんの言う通りよ」

「其れがな、与作は、いや与作殿はな、お殿様直々に三次藩にお召し抱えになられたそうじゃ」

「これからワシ等は迂闊に声掛けが出来んぞ」

「えぇ、やっぱりね。母さん!」

「そうよ、私が思った通りじゃないですか」

「以前の闕所の件では美和ちゃんやお父さんが助けてもらったのは全部与作さんがしてくれた事じゃないですか」

「ご家老様が言うのには、最初に犬とカラスが召し抱えになり既に活躍しとると言われとったで」

「私が大きな犬と猫に助けてもらったのは知っていますがカラスまでいたとは、こりゃ如何に」

「ワシが知るか」

「其れにな、読めない字など一つもありゃせんとご家老様が言うとったでぇ」

「算盤に至っては暗算の域じゃそうな」

「そう言ゃあ、妹さんも今、志和地じゃ評判になっとるそうなで」

「庄屋さんの仕事や村の経理の仕事はすべてこなしとると山田屋さんが言うとったが、とに角、暗算の域が凄いらしいんじゃ。おそらく日本國中にも二人としておらんでぇ」

「ワシャ、長年商売しとって算盤は鈍臭いが正確じゃで」

「そりゃお父さんの性格そっくりですよね」

「そうよ、そうよ」

「お前達は親娘でワシを舐めとるんか!」

「そうじゃなくて褒めとるんです。なぁ美和ちゃん」

「そうです。お父さん有っての浅田屋で御座います」

「ハハハ、何か面映ゆいのう」

「然し、与作殿は若いのに何時の間に此れだけの事を習得したんじゃ」

「剣の腕も凄くて大分前に苗字帯刀をお殿様から許されとる様じゃし、とてもじゃないが浅田屋の丁稚など畏れ多い事だよ」

「うちの婿さん候補第一号じゃたのにな」

「なぁ、美和」

 と言われて美和はポッと頬を赤らめた。

「しょうがないなぁ誰かええ人を見つけちゃるよ。それとも他に店の中に気に入った奴でもおるんか」

「知らない!」

 と言いながら急ぎ部屋を出て行った。

「オイッ、母さんよ。美和もそろそろ適齢期かのう」

「言われてみれば私も同年代でしたよ」

「あの時分は良かったですねぇ、お父さん!」

「今更、つまらん事を抜かすな」

「然し、庄屋さんには完全に騙されたな」

「其れはお父さんも一緒ですよ。山田屋さんに紹介されて入った時は無学文盲と言われながら今では立派なご主人様じゃないですか」

「おいおい、母さん今日はおかしいで」

「其れとな、他にも嬉しい事があるんじゃ」

「何ですか。勿体ぶらずに早く言って下さいよ」

「オウッ、実はうちの店が今度な、終身、三次藩御用達にするとお殿さまから訓示があってな。其れを認めた書き付けをご家老様から頂戴したのよ。其れに前の闕所の時の不始末でお詫びを仰って下さったんじゃ」

「お父さん!」

 其処へ出て行った筈の美和が飛び込んで来た。

「なんじゃ、美和、聞いとったんかい」

「へへへ、でもお父さん、此れで私は気が変になった娘と言われなくてすむね」

「そうよな、美和には気苦労をかけさせたからな」

「よかったぁ」

 然し、こうなったのもみんな与作のお陰で」

「お父さん、与作殿!」

「ハハハ、そうじゃった、そうじゃった」

「其れにな、更に嬉しい事があるんじゃ」

「以前に、与作が小雪の降る寒い夜に下着姿で飛び込んで来た事があろうが」

「あれは異様な出で立ちでしたよね」

「お前たちは急な事にも拘らず、段取りように支度をしてくれたよな」

「その時、与作がお助けしたのは誰じゃと思う。尼子国久公なのじゃ」

「ヒェー!天下の大殿様じゃないですか」

「そうじゃ、与作は一切、何も喋らんかったからな」

「お父さんにしては珍しく無料奉仕してあげたよね」

「じゃかましい!ワシを馬鹿にしとるんかい」

「とんでもない。私はその時感服しましたよ。ねぇ美和ちゃん」

「そうよ、お父さんを見直しました」

「お前たちは何時も組みゃがってワシをこけにしょってからに」

「げになぁ、ワシもあの時は精魂込めて助かる様に薬の調合をしたでぇ。其れにお前らも何度も奮闘してくれたよな」

「そのお礼として大殿様から褒美を頂いたんじゃ」

「何かしら大変な物の様なで」

「取り敢えずは御用達の書き付けと一緒に仏前に供えておくか」

「ほんま有り難い事じゃ。然し、此れは全て与作が絡んでしてくれた事じゃで」

「ワシも牢屋の中で悪代官に殺されるのを覚悟したからのう」

「お礼は母さんにもせにゃならんでぇ」

「なんでよ」

「気付け藥の調合を間違うてみいや、ワシゃ、今頃はのうのうさん(仏様)になっとるとこじゃったよ」

「其の事ですか。あんときばかりは私も必死だったですよ。まさか与作が麻沸散と知ってお父さんに使ったとは思いもしないしね」

「死んだお父さんに気付け藥を飲ませるなんてね、何と馬鹿な事をする奴じゃと思いましたよ」

「何時も効能書きを盗み見して研究しとったんじゃのう」

「うちには毒薬から麻沸薬まで劇薬が仰山有るが今迄一度も売った事も使うた事もないからのう」

「ワシが試し飲みをさせられたんじゃのう」

「然し、与作も母さんも神業じゃのう。現にワシゃこうして何もなく生きとるで」

「オォ、其れとな、ご家老様が言われるのには、与作殿を即ぐに城に上げるといわずもう暫くは浅田屋においとおいてくれんかと言われてな。浅田屋には恩と義理があるとお殿様に言上したようじゃ。だから暫くは内密に今迄通り丁稚奉公勤めをしてもろおうと思うとる。この事は与作殿には勿論内緒じゃし、他の奉公人には絶対に言わんようにな」

「じゃから、うちにおる間は今迄の様に与作でいくで」

「分かりました」

第3話 お師匠さんとの出会い

 与作は今朝も霜が降りた山道を、鉄と玉を伴って、三次の町の浅田屋目指し駆けていた。薄暗く肌寒い空気の中、玉は与作の懐の中から顔だけを覗かせて気持ち良さそうにしている。

 鉄はといえば、相も変わらず健脚で与作の前を誘導する様に駆けて行く。常に後を振り返りながら気遣ってくれている。

 自由気ままな性格の玉は、気分が乗れば皆んなと一緒に別荘迄付いて来るが、雨でも降っていたなら殆ど出て来ない。

 気まぐれに付き合った時には不思議と何かある事が多い。何故か予感が当たるのだ。

 木立ちの間から家々が見える辺りに近づくと、心得たもので与作から離れて

「いってらっしゃい」とばかりに見送りをしている。鉄も淋しくはない。別荘に入ると、毛布があるので玉とくっ付いて休めるのだ。

 だが其れ以降は一日中、鉄と玉が何処で何をしているのかさっぱり分からない。

 只、鉄は人里には下りて来ず、家畜を捕る事などは一切しなくなっていた。

 与作は、今日一日の浅田屋での仕事は何時もどおりで、何度も怒られながら、こき使われっ放しである。

 丁稚供にとっては、毎日の商品の仕入れ、発送等の荷動き手伝いで殆どが力仕事であり、昼間に町中や郡部の得意先に薬の配達、集金と出掛ける時などは程よい息抜きであった。

 丁稚奉公に上がって以来、相も変わらず毎度、毎度の繰り返しである。だが与作にとっては丁稚奉公に入って間もなくで何もかも新鮮な体験であった。

 夕方暗くなった頃、何時もの様に女中さん二人が近寄って来て小声で話しかけて来た。

「与作さん、今日は折詰が出たからおむすびはないよ」

「何時も何時も内緒ですみませんね」

「其れよりね、この前の松茸やしめじ美味しかったよ。有難うね」

「そうか、今度の休みはもう一回、山に上がってみるよ。もう遅いかもしれんけどね」

「楽しみにしとるからね」

「其れとね、むすびの事じゃけどね、奥様はとうの昔から気付いているみたいよ」

「そうよ、でも遠くから駆けて来る与作さんの事を考えて知らん顔をしてくれているみたいよ」

「奥様も優しいよね」

 何時も仲のいい女中さんのよく喋る事喋る事、二人とも亭主、子供がおり近所から通っているのだ。

「さぁ、今日も無事終わったな。ぼちぼち帰るぞ」

 と独り言を呟きながら商店街を駆けだしていた。

 与作は町中を外れ何時もの一本道を別荘目指して駆けていた。

 懐から犬笛を取り出し、一吹きしようとすると

「ウワン、ウゥー」「ウゥ〜」

「コラー!あっち行けぇ」

 とすぐ道の脇から野良犬二匹に吠え立てられた。

 今日は美和様の誕生祝いで、ささやかながら、丁稚の与作にも折詰を持たされており、今夜は少しはご馳走を食べさせてやれるかなと、浮き浮きしていた処であった。

 野良犬は此れを狙ったのである。だが次の瞬間、

「キャイン!」「ギャー」と叫び逃げて行った。

 鉄が凄い勢いで向かって来たのだ。そして玉も駆けつけて来た。

「オウ、鉄ちゃん玉ちゃん有難うよ」

「ほんま、お前たちは頼りになるなあ」

 後は何時もの事ながら「ワンワン、ニャーニャー」大喜びをしている。

「此れから帰ってご馳走を食べような」

 食べると聞くとすぐに分かる。

 鉄は其処にお座りをしているではないか。折詰の風呂敷包みを肩に括りつけてもらうのだ。そして両脇に玉も寄り添いながら小屋に向かって駆け出した。

 険しい山道も何のその、皆んなは苦もなく駆け上がって行く。

 暫くして 明光山の一番の難所の峠を越える辺りでは玉はちゃっかりと与作の懐に入っている。

「玉ちゃん、ラクチンじゃな」

 嬉しそうにニャーンと一声鳴いている。

 そして下り出して暫く行った処で鉄が急に駆け出した。そして気まぐれな玉も与作の懐から飛び降りて付けて行く。

「鉄ちゃん、どしたんじゃ」

 薄暗い前方を見ると、道の真ん中に誰か倒れているではないか。其れに鉄と玉が心配そうに寄りそって見つめている。

「ウ~ン、お侍様じゃないか、此の寒空の下でどうしたんじゃ」

 与作にはすぐに理解できた。

「マムシに噛まれなさったな」

 元来、この時期になると、出くわす事など殆ど無いのであるが、運悪く踏み付けたのであろう。

 近寄って見ると、左足のふくらはぎが異様に腫れているではないか。

 与作は急遽、処置しなければと、バンバンに張った脚絆を外した。そして傷口に口を当て毒を吸い出す様にしてはペッ、ペッと吐き出した。

 だがすぐに分かった。噛まれてから時間が経ち過ぎており、口の中に毒が感じられないのだ。すでに体中に回っていると。

「お侍様!お侍様!」

 大声を掛け何度揺すっても、意識が朦朧としているのか反応が殆ど無いのだ。

 与作は忽ち、何とか毒の回りを弱め様と、近辺にある薬草を探し始めた。

 昔から言い伝えられている十薬(どくだみ)や(よもぎ)が忽ちの良薬だ。暗がりの中でも何時も見知った山道だ。幸いな事に近くに「よもぎ」が目に付いた。

「此れだ!」

 手に取ると、小石で叩いて揉んで汁気を多く出し、其れを患部に当て手ぬぐいでくくり付けた。

「よし、忽ちは此れでええ、後は毒消しじゃ」

 与作はその場に芝草を寄せ集め寝床にし、自分の着ていた着物をお侍様に被せた。幸いな事に底冷えはするが月も出ており天気は良い。

「鉄ちゃん、玉ちゃん、この人を温めて守ってあげてくれるか。頼むよ」

 というと、すぐに分かった鉄は覆い被さり、玉は懐に入っているではないか。

「よし、ワシは今から浅田屋に行って毒消しを取ってくるからな」

 と言い残すと、下着のまま三次を目指して下りの坂道を一気に駆け出した。

 町の中に入って来る頃、小雪がちらつきだした。寒さも何のその、異様ないでたちで駆け付けると、店の玄関横の通用口を開け中に入った。

「旦那様!お願いします、急用です!」

 浅田屋の看板提灯も前の街灯も消えていたが、奥の部屋の明かりは点いていた。与作の大声に奥から奥様が出て来た。

「どうしたんですか、その白装束の格好は!」

 そのうち、主人も顔を覗かせた。

「オイッ、与作、追い剥ぎにでも遭うたんか!」

「違いますよ。山の中でお侍様がマムシに噛まれて難渋されておられるんですよ」

「よし、分かった。一寸、待っとれ」

 と言うと、奥様や美和様にもテキパキと指図をして

 自分は調剤室に入り込んだ。

 そして間もなくして、与作の為の上着と、毒消し藥と、食べ物を持たせてくれた。

「与作、此れを持って行け。ええか、絶対に死なせてはならんぞ!」

「はい、必ずお助け致します。此のお侍様の持ち物からして名のある御方とお見受け致しました」

「其れに、身体が回復するまでは介抱してあげたいと思います。その間は給金は要りません。休ませて下さい」

「要らん心配はするな、お助けするのが一番じゃ」

「有難うございます」

「そりゃそうと、其の後に何処で寝かせてあげるんじゃ」

「はい、幸いな事にすぐ近くに、以前、父親が使っていた炭焼き小屋があります。実家から一里程離れた山の中ですが、住む為の道具は一通り揃っており、寒さ凌ぎの煎餅布団が二組有ります。

 と咄嗟に口を衝いて出た。今、自分が住んでいるとは言えなかった。

「よしゃ、其れなら寒うないな。忽ち此れで足りるな」

 主人に一言、礼を言うと、再度一目散に山の方に駆け出して行った。

 一方、倒れたお侍様の側に付いている鉄と玉も一生懸命であった。人間と動物の違いはあっても皆、心は有るのだ。

「玉ちゃん、此の人を絶対に守ってあげよう」

「当たり前だよ、あっためてあげてるよ」

 そう会話をしている様な優しさに溢れていた。

 鉄は大きな身体を全身に被せる様にし、当たらない処は、芝草を口で寄せ集めて乗せていた。

 玉は玉で懐に入って心臓を温めながら、時折、額の脂汗を舐めている。

 そうしている時に与作が戻って来た。

「オウ、オウ、よう面倒を見てあげてくれとるな」

「お前たちのお陰で絶対に助かるよ」

 鉄も玉も、あたぼうよと言う様に得意そうな顔をしている。

 其れから、与作はぐったりしたお侍様を肩に担ぎ上げ、程なくして小屋の中に運び入れた。鉄は貰ってきた荷物を口に咥えて先に駆けて帰り、又、残った持ち物を取りに走った。

 本当に狼犬とは思われない心優しさと愛情溢れる行動である。

 囲炉裏の側に、何時も与作が寝ている敷き布団の上に寝かせた。

「すみません、オンボロの煎餅蒲団の上に寝かせてしもうて」

 与作は此の時、お侍様の寝顔を見ながら、この御方はとんでもない身分で、何処かのお殿様ではないかと直感したのである。

 顔の品格、恰幅のいい体格から溢れ出る風格といい、凄い拵えの立派な大小と家紋迄入っている刀をお持ちになっておられる。さぞや名刀であろう。

 与作は暫く寝かせてから、頃合いを見計らって、毒消し藥を飲ませる為に身体を起こした。

 やはり此の時も意識は無く、口をこじ開けてお湯と一緒に飲ませたのであった。

 只、その時は脈が正常に鼓動しており、頑健な体力と併せ、助かるであろうと確信したので有る。此れも咄嗟の有り合わせの、よもぎの効きめがあったので有ろうか。与作は看病の為に朝方まで一睡もする事はなかった。

 其れから、どうにも睡魔に襲われ、うつらうつらとしながら様子を見守っていた。

 だか再度、主人に様子を知らせ、指示を仰ぐ為に浅田屋に向けて報告に行かなければならない。

 今の与作の知識だけでは対処法が分からない。飲まず食わずのまま浅田屋に駆けつけた。

「どうじゃ状態は」

「はい、お侍様は頑健なお身体故に絶対に大丈夫です。其れに主人さんの調合した毒消しは天下一品です」

「ほうかほうか、そりゃええがお前は何も食っとらんじゃろうが。体力が有っての物種じゃ。飯を食うて少しは休んで行けゃ」

 日頃の鈍臭い主人とは考えられない手際の良さとテキパキとした指示に感じ入っていた。

「他に要るものがありゃ女房に頼んで持ってけえや」

「有難う御座います。大至急とって返します」

 寝る間も休む間もなく 、与作は昼過ぎにようやく帰って来ると、鉄も玉も大喜びしながらも腹が減った様な顔をしているではないか。

「すまんすまん、飯がまだじゃったな。今からやるから、悪いがワシはもうよばれてきたからな」

 早速飯の支度に取り掛かった。

 食事を終えると、お粗末な物でも美味しかったよという顔をしている。

 浅田屋の奥様から事前に作ってもらっていた、栄養のある食べ物を自分たちがとってはいけないと、何時も通りの物で済ませたのであった。

 そして丸一日経って朝方の頃、顔色の血色も良くなり毒消しの効能であろうか、全く足の腫れも無くなった。

 そして身体を何度も動かし寝返りを打つ様になったではないか。

 鉄も玉も相変わらず一日中、代わる代わる側に寄り添って様子を伺っている。

 そして突然

「犬が!猫が!」

 と叫んだのだ。其の声に鉄も玉も何事かとお侍様の顔をジッと見つめている。

 そして外で洗濯物を干していた与作を鉄が呼びに走って出て来た。

「鉄ちゃん、どしたんじゃ」

「ウヮン!」と嬉しそうな表情だ。

 中に入いると身体を全身動かしているではないか。

「オッ、気が付かれたかな」

 そして肩を揺すってみた。すると大きく目を見開き

「此処は何処じゃ、ワシは何で寝とるんじゃ」

「お侍様、気が付かれましたか」

「お前は誰じゃ」

「はい、与作と申します」

「ワシは今夢を見とってな、三途の川で溺れている処を、黒い犬と猫に引き上げられて助けて貰うたのよ」

「すまん、一寸、起こしてくれんかのう」

 与作が手を添えて座らせてあげた途端に

「アッ、此の犬と猫じゃ!」

「どうして此処へおるんじゃ」

「お侍様が山中でマムシに噛まれて、倒れておられた時からずっと側に付いております」

「ワシはどのくらい気を失うとったんじゃ」

「はい、丁度、丸一昼夜以上で御座います」

「そんなにか」

「ワシは足に激痛が走ってから段々と気を失い出して、朦朧としている時に、何処となく犬と猫の感触があってな。其れじゃったんか」

「はい、鉄と玉は、私が三次の町の浅田屋まで毒消しの藥を取りに行っている間中、野道でお侍様に寄り添い身体を温めておりました」

「おうおう、鉄ちゃんと玉ちゃん、そこまでしておってくれたのか」

「有難うな。だんだん!」

 と言うと涙ながらに優しく頭を撫でてやった。

 意識が戻ったお侍様の顔や手を一生懸命に舐めている。

 鉄も玉も余程 、嬉しかったのてあろう。そしてピョンピョン飛び跳ねて「ワン、ワン」「ニャン、ニャン」鳴きながら小さな小屋の中を走り回っている。

「お侍様、ボチボチおなかが空きませんか。昨日から腹の中には毒消し藥と水しか入っておりませんから」

 と笑いながら言うと

「そうよなあ、言われてみるとグウグウと腹の虫が鳴いとるな。じゃがどうして知りもせんワシみたいな者にそこまでしてくれるんじゃ」

「いえいえ、困っている人を助けるのは、相身互いで御座いますから」

「何も心配せずに治るまで此処に居て下さい」

「お粥が出来ておりますから」

「だんだん、有難う。頂くよ」

「あっ、そういゃ、だんだんちゅのは出雲弁で有難うと言う意味じゃ」

 囲炉裏にかけて温めていた粥と消化の良いおかずが取り揃えてあった。

 其れをゆっくり食すると鉄と玉が見つめているではないか。

「お前たちも食べるか」

 と言うと嬉しそうに大喜びをしている。一緒に食べれる事が嬉しがったのだ。

 そしてお侍様は急に気付いた。

 自分の身に着けている物がまるで違うのだ。

「与作よ、ワシの着とった物はどうした」

「誠に失礼ながら全部着替えさせて頂きました」

「汚れた着物から下の世話まで皆、してくれたのか」

「下着から全て身に着ける物は、午前中に三次に駆けて行き、浅田屋の主人が調達してくれました」

「皆な新品じゃないか、浅田屋とは何者じゃ」

「私が奉公している藥問屋で御座います。与作は其処の丁稚で御座います」

「道理でな、ワシが助かった筈じゃ」

「すまん、本当にすまん!」

 とお侍様はポロポロ涙をこぼしながら何度も何度も「だんだん」を口にした。

 其れを横で見ていた鉄と玉は顔を近づけ舐めている。玉は特に大きなお侍様の事を自分の子供と勘違いする程になっていた。

 飯を済ませて暫くしてから始めて立ち上がった。

「オウ、まだフラフラするのう。じゃが歩けるぞ」

 と外に出ようとした。

「厠は外よのう」

「すぐ横に有りますから壁伝いに行っ下さい」

 お侍様は始めて早朝の外の空気を吸い込んだ。そして生きている実感をしみじみ味わったのである。

 そして小屋の中に入ろうとした時に洗濯物が目に付いた。

 なんと自分の物が全部干してあるではないか。ふんどしまでもだ。

「何と云う事じゃ!与作は、いや与作殿は」

 とに角、感謝せずにはおられなかった。

 中に入ると

「お侍様、又、横になられますか。もう毒消しは要りません。元気にする薬草が御座いますので飲んでお休み下さい」

「何から何まで済まんのう。そうさせて貰うよ」

 再び床に就くと両脇に鉄と玉が添い寝をしてきた。まだまだ介護気取りなのだ。

「オイッ、鉄ちゃんよ、寝付かれたから又、店へ行って来るで。まだ要るもんが有るからな」

 鉄はガバッと立ち上がると玄関先へ飛び出した。

「玉ちゃんあとは頼むで」

 任せといてよと云わぬばかりに

「ニャ〜ン」

 其れから、お侍様は昼過ぎまで ぐっすり熟睡する事が出来た。

 目覚めて起き上がって見ると、与作と鉄は居なかった。側には玉がいる。

「玉ちゃん」

 と言うと、顔を舐めてきて膝の上にちょこんと乗っかって来た。

「与作殿と鉄ちゃんは何処へ行ったんじゃ」

 見ると囲炉裏の上に鍋が有りお粥が掛けて有る。其れにおかずが取り揃えてあった。

「おお、お腹が空いたなぁ、有り難く頂くよ」

 食事を済ませると、身体の調子を確かめる様に外へ出て見た。

「ワシは今、何処へおるんかいのう」

 と四方を見渡すと、微かに木々の間から八幡山城が見えるではないか。

「そうか、城へ行く迄に倒れたんか」

「早よに行っちゃらんと心配するで。でもまぁ内緒に出て来たからええか」

 と独り言を喋りながら小屋の中に入って来た。

 段々と身体具合が良くなると、こんな山の中に住んでいる与作に興味が湧き出した。小さな二間四方の部屋の中に物は少なかったがきちんと整理され、角に、お粗末な板だけの机が有った。

 其の上に蝋燭立てが有り、古ぼけた書籍が何冊も有った。その前に写経用の経本が開かれて置いてあるではないか。

 其れを覗き込んだお侍様はびっくりしたのである。自分も少なからず写経をするのだが、書いてある事が半端ではない。昼間は仕事が有り夜帰ってからするのであろう。

 一枚の紙に隅から隅まで真っ黒になる程書いてある。其れも裏も表もだ。この時代、紙が貴重品である事は分かっていたが、これ程に大切に使用するとは、お侍様には理解出来なかったのである。何時も浅田屋で書き損じたりして、捨てるものを貰って帰っては其れを利用していたのだ。

 お侍様には与作の実力がすぐに分かった。練習していた枚数も半端ないが、何と云っても書いてある字が整然としており経本通りで何と綺麗なことか。

 其れに何処で手に入れたか、ボロボロの書教が有った。孔子の論語集だ。此れを手本に真っ黒になる程びっしり書いてある。其れに壁には自分が詠んだものであろうか 漢詩まで貼ってあるではないか。

 此れなどは、お侍様も一度も手にした事など無く、読み切る事が全く出来なかった。

「ウ〜ン、此れが浅田屋の丁稚奉公人のする事か」

 古書物はお寺さんから全て頂いていたものなのだ。

 暫くすると、鉄がワンワン吠えなから帰って来た。玉がすぐに出迎えに出ると、互いに大喜びしながら小屋の中に入って来た。お侍様の顔を見ると、其れこそ物凄い嬉しそうな表情だ。

「鉄ちゃん、お帰り」

 見ると背中には大きな荷物が括り付けてある。其れを解いて下ろしてやると、飛び付いて来て舐めまくるではないか。後は、お侍様も子供の様になってはしゃぎ回っている。

 すると与作がようやく帰って来た。

 おいこに一杯の荷物を背負いゼイゼイ荒い息をしながら

「鉄ちゃん、速すぎるよ」

 其の声に玉だけでなく、お侍様も飛び出して来た。

「あれ、もうよくなられましたか」

「お帰り、ワシも玉ちゃんも待っとったよ、与作殿!」

「何ですか、今、どう言われましたか。私は、ただの与作で御座います」

「ええから、ええから、今日からこう呼ばせてれるか」

 と話しをしながら小屋の中に入って来た。そして遅い朝昼飯をする為、準備をしだした。お侍様は今迄寝ていた場所に座り込むと与作に話しかけてきた。

「与作殿よ、ワシはこの度、大変お世話になり生命までも助けて貰うたよ。誰とも分からんワシを、何から何まで親切、丁寧にやって貰いほんまに感謝しとるよ」

「とんでも御座いません。私は藥屋の丁稚として当然の事をした迄で御座います」

「私は浅田屋に顔を出す度に、主人にお侍様の様子を何度も聞かれ、死なす様な事をしたら絶対に承知せんぞ、と言われております」

「其れにお身体から、完全に毒素を抜いて障害が残らぬ様になる迄、面倒を見てあげてくれと言われております」

「其れ迄は、私は店からお休みを頂いております」

「そこまでやってくれとったんか。重ね重ね有難うよ」

「与作殿、ワシは今迄、名乗らずにおって本当に申し訳けなかったよ」

「いえいえ、とんでも御座いません。其れは一切、結構で御座います。何も言わないで下さい」

「私とはあまりにも身分がかけ離れておりますから」

「おい、おい、其れは違うぞ。侍、町人、百姓に格差、貴賎など有りゃせん。人間、皆一緒じゃよ」

 そして後は有無を言わせず一言発した。

「実はワシは出雲国の尼子国久じゃ」

 其の言葉を聞いて与作は、食事の支度をしていた手を休め床にひれ伏した。

「大殿様とは知らず無礼の数々、平にご容赦下さい」

 すると国久公は与作の前に ひざまずいて座り

「与作殿、手を上げてくれ」

 と両手を握って

「与作殿にも、鉄ちゃん、玉ちゃんにも助けて貰い仲ようなって嬉しいよ。此れからもずっとそうしてくれるか」

 そう言われた事が分かるのか鉄も玉もピョンピョン飛び跳ねながら大喜びをしている。

「そうじゃ、此れからはこうしょう。大殿様など七面倒くさい事をいうな。ワシは与作殿より歳上じゃから、師匠とでも呼んでくれるか」

「そして与作殿は大将じゃ」

「そんな馬鹿な、丁稚に其れは全く似合いません」

「いいや、此れがぴったりじゃ」

 与作はただ、苦笑いするだけであった。

「此れはワシと大将との内密の事じゃぞ」

 とニコニコしながら鉄と玉の身体を撫でている。

 与作と鉄は遅い朝飯を食べだした。其れを大殿様と玉が嬉しそうに見つめている。この時、与作の両手に竹刀タコらしきものが有るのを見て取った。

 まさかとは思い聞いてみた。

「大将は剣術をやるのか」

「えぇ、何でですか。私はやりませんが」

「じゃがマメかタコが有るではないか」

「此れは何時もやっている薪割りの斧のせいなのです」

 然し、師匠にはすぐに分かった。自分は若い頃に剣豪と言われた程の腕前だ。

 師匠さんはこの時、思ったのである。

「この大将は一体何者なのじゃ」

 後ろ姿を見た時の隙の無い振るまいといい、風格といい只者ではないと思われ、此れが丁稚などとは到底考えられなかった。

 其れからお師匠さんと鉄と玉は日差しの良い外に出て行った。何やらあっちこっち走り周っている。まるで子供の頃の駆けっこの様だ。此れには皆んな大喜びだ。其れから暫くしてから小屋の中に入って来ると

「大将、ワシは体調が完全に回復したようじゃ。ほんまに長い間、迷惑をかけてすまなんだなあ。ワシはあの時、三次城から八幡山城迄、間道を抜けとる時にやられたんじゃ」

「ワシもここを出立せにゃならん。皆んなと別れるのが辛くてやれんのよ。じゃがワシにはやらねばならぬ宿命というものがあってのう」

「其れはよく存じております」

「じゃが、ワシがこっちに立ち寄った時は、今迄通りに付き合うてくれるかのう」

「其れはもう、私を含めて鉄も玉も大喜びをするでしょう。特に、玉は道の上で師匠さんに付いて看病して以来、自分の子供の様に思っているのです」

「すみません。要らぬ事を言いまして」

「そうか、そうか、玉母さんか、有難うな」

 鉄も玉も師匠さんが居なくなるのが分かるのであろう。大喜びをしている中にも一抹の寂しそうな表情が現れていた。

「お師匠さん、今日お帰りになりますか」

「そうしたいと思うとるんじゃが、どうじゃろうかのう」

「はい、其れは。でも先程、三次から帰って来ます時に主人に話していると回復具合を聞かれました」

「大分以前より良くなられましたが」

 と言うと、「そうか、じゃがのうマムシに噛まれた毒の血液の洗浄には段階を踏まにゃならんでのう。今日渡す朝昼晩の薬が最後で完全回復されるじゃろうて」

「と言われたました。お師匠さん、お忙しいでしょうが今晩だけ居ってもらえませんでしょうか」

「分かった。大将宜しく頼むよ。何と言っても命あっての物種じゃからのう」

「然し、ワシは幸せ者じゃのう。見も知らぬ人達からここまでしてもろうて。浅田屋には今、会う事は出来んが宜しく言うとってくれんかのう。其れに大将、鉄ちゃん、玉ちゃん、本当に有難う」

 その夜は、天下の大殿様と丁稚の与作に挟まれて犬の鉄と猫の玉が枕を並べて寝る、世にも奇妙な光景であった。

 翌朝、お師匠さんが目覚めると朝飯の用意がしてあり、皆んなは外に出てワンワン、ニャーニャー大騒ぎしながら、遥か向こうのお城を眺めているてはないか。

「飯を食ったら送って行くぞ」

 その声に中に駆けりこんだ。

 お師匠さんも手水鉢で顔を洗って来ると

「飯を食ったら出立じゃ」

「ウォーン、オゥ〜ン」「ニャーニャ〜ン」

 鉄も玉も与作やお師匠さんの言う事が殆ど理解出来るのだ。やがて朝飯が済むと

「お師匠さんボチボチ行きましょうか」

「あ〜ぁ、行きとうないのう。ワシャ、別れるのが寂しいんじゃ」

「じゃがワシの双肩にはこの地方の治安が掛かっとるからな」

「よしゃ、鉄ちゃんも玉ちゃんも一緒に行くぞ」

 行くという言葉にすぐに反応して鉄も玉もそこら辺を走りまくっている。

 暖かい太陽の日差しを浴びながら並んで坂道を下って行く。鉄が先導する様に前を歩き、玉はご機嫌で師匠さんの懐の中から顔だけを覗かせている。

「お師匠さん、お加減は如何でしょうか」

「大将、何もかも身体の毒素が抜かれた様で全く快調じゃ」

「其れに短い間じゃったが、食いもんが違ごうただけで、これだけ変わるもんかのう」

「何せ、今迄は偏り過ぎとったよ。城の賄い方が、変な気ばかり使いおるからかのう」

 道中、二人は尽きぬ話しに我を忘れていたが、すぐ近くに城壁が見えて来た。

「お師匠さん、私たちはここでお別れで御座います」

「どおした、中迄付いて来んか」

「とんでも御座いません。百姓の倅が此処に入るなど、有り得ない事で御座います」

「分かった、分かった。此処で別れよう。そりゃえぇが大将、一寸、此処で暫く待っとってくれんかのう」

「鉄ちゃん、玉ちゃんにお土産をやるからな。ワシが持ってくるから」

 鉄も玉も賢い。此処へ来てから一切、大声で鳴かないのだ。

「鉄ちゃん、玉ちゃん、お師匠さんは、たまに此の城に寄って行かれるからな。よく覚えといてな」

 分かったのか、分からないのか、ジッと城壁をみつめている。

 城の侍達には見えない場所で待っていると、風呂敷包を抱えてお師匠さんがやって来た。

「待たせたな、皆んなのお土産じゃ、帰って食ってくれるかのう」

「有難う御座います」

 鉄は嬉しそうに尻尾を振りまくり、玉はお師匠さんの足にまとわりついている。

「処で、大将、今度は何時、休みが取れるんじゃ」

「通常なら明後日ですが、何なら明日も休みを延長してもいいのでが」

 お師匠さんは嬉しそうに

「そうか、そうか、ほんなら明日こっちへ来んか。言うても城へは来んじゃろうからな。城の上に今は全く使うとらん小屋があろうが、此処へ来てくれんか」

「其れならよく知っております」

「よしゃ、昼過ぎにどうじゃ、城の奴等には絶対に寄り付けさせんから。皆んな来てくれよ」

「有難う御座います」

「大将よ、ワシとお主の秘密の仲じゃ、あんまり畏まって物を言うまあで」

「エへへへ」

「楽しみにしとるよ」

 其の日、お師匠さんと別れて帰る山道の足取りの重い事。与作も鉄も玉も三日三晩、一つ屋根の下で同じ釜の飯を食い、一緒に暮らした事がいかに愉しく充実していた事か。

 特に玉は息子が自分の側を離れて行く様で落胆が大きかった。

「玉ちゃん、元気出せよ。此れから何度でも会えるからな」

 与作が懐に入れてやりながら、頭を撫でてやると安堵の表情を浮かべている。

「此れから帰ってから、お師匠さんに貰ったご馳走を食べような」

 食べると聞いて、鉄と玉は一目散に小屋目指して駆け出した。

 小屋の中に入ってから与作は、頂いた風呂敷包みを広げて囲炉裏の前に並べると鉄も玉も目の色を変えている。

「鉄ちゃん、玉ちゃん、よう頑張ってお師匠さんの面倒を見てあげてくれたな」

「お前たちが居なかったら、寒空の下で、亡くなっておられたかもしれんよ」

「有難うな、さあ、ご馳走をお食べ」

 と言うと行儀良く自分の物を食べだした。

 其れを終えると久し振りに何時もの習慣である読経を始めていた。

「お陰様でお師匠さんをお助けする事が出来ました。有難う御座います」

 と感謝のお祈りをしたのである。

 其の日は連日の看病疲れと、何度も三次往復に疲れて夜半までぐっすり寝込んでいた。軽く飯を食べると又寝込んでしまった。

 朝目覚めると、鉄と玉はもう小屋の外に出て城の方を見ながらソワソワしていた。今日もお師匠さんに会えるのを知っており嬉しくて堪らない。

 与作が起きた気配が感じられ「ワンワン、ニャン、ニャン」鳴きながら戸を開けて飛び込んで来た。

「鉄ちゃん、玉ちゃん、朝飯じゃ。軽く済ませるで。昼にはお師匠さんがご馳走を食わせてくれるからな」

「其れから一休憩してからのんびり出発するぞ」

 鉄も玉も朝飯を食べるどころではない。とに角、お師匠さんに逢いたいばかりなのだ。外に出て城の小さな天守閣を一緒になってじっと眺めている。

「鉄ちゃん玉ちゃん、ボチボチ行くか」

 そう言われると一気に走り出した。一里程の下りの山道を早駆けし、与作たちが建物の前へ到着した時にはまだ来ていなかった。

 以前に、子供の頃、遊び半分に近くに立ち寄った頃には、この中から剣術の鍛錬でもしていたのであろうか、掛け声が聞こえていた。

 だが、今は全く使用していないのであろう、かなり傷んでいた。

 其の前で暫く待っていると、鉄が耳を立て、玉は鼻をヒクヒクしながら駆け出した。

 お師匠さんが城から出て来たのだ。でも鳴き声は聞こえない。

 間もなくすると鉄が風呂敷包を咥えてやって来た。玉はもう懐の中に入っている。

「大将、待たせたな。然し、鉄ちゃん、玉ちゃんはよう分かるな。ワシが城の中を移動しとる時から気付いておるんで。物凄い鼻と耳をしとるんじゃのう」

「其れは大好きなお師匠さんだからですよ」

 そして、お師匠さんは、其の建物の閂を外し戸を開けて中に入った。

 中は薄暗くカビ臭い匂いがする。与作も手伝って開き戸をこじ開けた。

 鉄と玉は板張りの床の上を走り回っている。

 其れから皆んなで車座になり其の前に弁当を開げだした。もう嬉しくて堪らない。

「そりゃえぇがのう、大将よ」

「何でしょうか」

「ワシは昨日思うとったんじゃが、お主の手は絶対に斧の豆じゃないで」

「正直に言うてみいや、何ぞ鍛えておろうが」

「はい、実は子供の頃から可愛いがって頂いた、すぐ近くに住むお侍様の庭先で、鍛錬されているのを縁側に座ってジッと見つめておりました。其れを見よう見真似でそっくりに山の中に入って、樫の木を削った棒を振っておりました」

「でも、絶対に教えは請いませんでした。何故なら私は百姓の倅ですから、剣など持てる訳が有りません」

「そうか、そうか、じゃぁ、ワシと一本手合わせしてみるか」

「とんでも有りません、お師匠さんと立合うなど、其れこそ罰が当たりますよ」

「大将、其れを言うなと昨日、釘を刺したじゃないか。大将とワシの関係じゃ」

「分かりました。でも今迄一度も相手と手合わせした事がないんですよ」

「そうか、其れならば此れから何時でもワシが相手じゃ」

 と言うと棚に掛けてあった何本もある木刀の前にやって来て

「すきなものを選べよ」

 お師匠さんは長く太めの木刀を手にして素振りをしている。

 与作は何を選ぶでなく、其処にある小さな小刀を手にした。

 そして二、三度素振りをして腰に差したのだ。

「オイッ、それじゃ勝負にならんじゃろうが、長いのを持てや」

 お師匠さんは何が何やら全く理解出来なかった。鍛錬で今迄に小刀の相手に対した事がなかったからだ。普通、並の相手ならば必ず長い木刀を選ぶものだ。

「いえ、私は此れで結構です」

 一瞬、ムッとしたが

 双方共に真ん中に進み出た。頃合いを見計らって一礼すると

「イザ、勝負!」「イザ!」

「何処からでも掛かって来い!」

 だが与作は腰紐に小刀を差し込んだまま抜こうとしない。両手はだらりと垂らしたままなのだ。

 お師匠さんは、なんぼ初めて対戦するというても、おかしな奴じゃなと首を捻っていた。

 すると其の内、瞑想をする様に目を閉じてしまった。

 お師匠さんは此の瞬間、上段に振り被ると面狙いに打ち下ろした。

「エェーイ!」

 ところが、軽く左側に身を躱された時には、右脇腹に小刀が寸止めされていた。

「参った!」

 此れが一本勝負の戦場であれば完全に殺れられているところだ。

「ウ〜ン」

 お師匠さんはこの思いもかけない勝負に度肝を抜かれたのである。

「然し、凄い奴じゃな」

 と胸のうちで叫んでいた。

「よしゃ、もう一丁いくか」

 ところが小刀を最初から握り締めて対戦しだすとボロが出はじめた。

 初めて手合わせをすると言った通り、お師匠さんに打ち込まれ出した。

 だが、何せ身が軽い。其の内、観察眼の鋭い与作は相手の心を読み切る様になり、次第に手合わせに慣れだし、油断していると間髪を入れず即ぐに懐に飛び込 まれる。

 こうして対戦していて、お師匠さんに六、四の分があったが、何せ小刀で対峙しているのだ。

 其れにかなりの体力差が有る。長くて重い木刀で上から被せられると非力のうえに小刀では押さえ込まれてしまう。だから、大小木刀がぶつかる瞬間に勝敗が一瞬のうちに決していた。

 通常の侍同士がする、木刀と木刀を打ち合わせるガチンコ勝負とはかけ離れていた。其れこそ此れは一撃必殺剣である。

 そして双方が終わって一礼した。

「いやぁ、久し振りにええ汗を流したよ」

「然し、大将よ、何処で鍛錬したんじゃ」

「ワシも若い頃は一応剣豪と言われとったんじゃがのう」

「何時も、お侍様や家に内緒で、山の中で、あらゆる事を想定して千回は小刀を振っておりました」

「真剣での居合い、其れに、木刀での立ち回りとジッと庭先で眺めておりました。でも百姓の倅では刀など持てる訳が有りません。ですから護身の為に樫の木を削って小刀にして振っておりました」

「フゥーン」一流の剣豪でも其処までようせんぞ」

「然し、大将と初めて対戦したがな、いきなり勝負をすると大抵皆負けるで」

「こりゃ小刀使いの忍者剣法かもしれんのう」

「ワシがこっちへ来た時は、何時も顔を見せ立ち合ってくれんかのう」

「有難う御座います」

「ワシも楽しみにしとるで」

 と言いながら鉄と玉の頭を撫でている。

 後は美味しいご馳走を頂きながら皆んなご機嫌であった。

 特にお師匠さんは子供の様に鉄と玉と戯れていた。例え大殿様であろうと無邪気に動物と触れ合う様は、身分は違えども、与作と同じ人間である事をつくづく感じさせてくれた。

 お師匠さんは、歳の違う与作の為に、天下の大殿様の面子をも、かなぐり捨てて接してくれたのである。

 命の恩人だけではなく、文武両道に優れた一人の男として、与作を一目置く存在として見てくれていた。何れは、何に関しても世の中の役に立つであろうと、既にお師匠さんは先を見越していたのだ。

 次の朝、与作は、看病の為の休みを貰って以来、久し振りに浅田屋に何時もの様に早出して箒を持ちながら前の道を掃きだした。

 すると玄関戸を開ける主人が与作を見て一声 掛けてきた。

「オイッ、与作!お武家様はどうなった」

「アッ、ご主人さん、色々助けて頂いて有難う御座いました。お陰で完全回復され、お帰りになられました」

「浅田屋殿は、生命の大恩人じゃ、何れは、お礼に参るか、代わりの者を遣わすかもしれんが、忽ち、礼を言うとってくれんか。と言っておられました」

「ほうか、ほうか。でもそんなお礼など要りません、と伝えとってくれるか」

「当然の事をしたまでじゃからのう」

「処で其の御方は何者じゃ」

 と急に聞かれ与作は言葉に詰まった。何せ、二人の秘めた約束事だからだ。

「あのう、今は、お名前や身分を明かす事は出きませんが、お師匠さん、とだけは申し上げときます」

「分かったよ。そりゃええが与作、お前も大分、薬屋の丁稚らしゅうなったのう」

「有難う御座います。でも仕事を休ませて頂き申し訳け有りませんでした。其れにこの間、大変勉強させて

 頂きました」

「そんなこたぁ、どうちゅ事は有りゃせんよ。其れに給金から差っ引きゃせんから安心せぇ」

「有難う御座います」

 このマムシ事件があって師匠さんと知り合って以来、一月くらい経った後、何時も小屋で寂しい思いをしていた玉が事件を起こした。

 後に師匠さんから空飛ぶ参謀忍者と言わしめたカラスのラー助を拾って来て雛から育てたのだ。縦横無尽に空を飛び交い物凄い能力を発揮して、その後全国でも稀なカラスが三次藩のお召し抱えになったのである。

第4話 総大将襲撃事件と忍者一家

「鉄ちゃん、玉ちゃん、夜なべによう付き合うてくれたな。有難うよ、ボチボチ寝るとするか」
 時はそろそろ子の刻になろうとしていた。
「明日はな、一緒に此れを持って行こうな」
 行くと言う言葉に喜んで小屋の中を走り回っている。
「おい!寝る前に走るなや、埃が舞おうが」
 だがいくら叱っても嬉しいばかりで御構いなしである。
 与作は今夜も縄をなったり草鞋を作っていた。此の時代には、殆どの家庭で履くわら草履や下駄は自分の家族が作っている。わら草履は稲藁が材料で農家では幾らでも調達が出来るからだ。昼間に農作業を終え、囲炉裏を囲んで晩飯を家族で食べた後、親父やお袋が藁を叩いて縄をない、其れを手足に引っ掛けて器用に作っていく。与作もおばあさんの作るのを囲炉裏の側で見つめている。かき餅やあんころ餅、其れにスルメや小魚を火で炙りながら食べる一家団欒のひと時なのだ。
 与作やハナも見よう見まねで覚えて作っていた。
 更に雨の日やぬかるみで足が濡れないような下駄も、子供ながら面白半分で鋸で板を切り小さな足に合わせて作る、いわば工作みたいなものであった。
 何せ親父が大工で道具が揃っており、材料は山に行くと幾らでもあるのだ。
 然し、農家以外の町の人達には其れも叶わなくて履物屋から買わざるを得ず、此の費用だけでも馬鹿にならない。何せ材料が藁で有り即ぐに駄目になる。特に水に濡れると弱いのだ。
 その為に、与作は自分が履くのは無論だが、特に動きの激しい浅田屋の奉公人達の為には、藁の間に竹の皮や使い古したぼろ布切れを挟み込んで編んでいる。こうする事でダントツに持ちが良く履き易いのだ。
 そして遠くの田舎から出て来て浅田屋で薬を買って頂くお客様の為に、何時も店先の軒下にぶら下げていたのだ。勿論お持ち帰り無料であった。
 三次商店街に有る多くの商店ではこんな事をする処は何処も無く、更に店先には縁台を置いていたので必然的にお客様の呼び込みになっている。
 与作は浅田屋に入店して日も浅かったが、今迄にはこんな事をする奉公人は誰もおらず重宝がられていた。
「皆んながこうして飯が食えるのも浅田屋あっての物種だからな、感謝!感謝!よし、小便してから寝るか」
 鉄も玉も連れしょんで外に出て来た。外に出て見ると満月でかなり明るい夜であったが、ただ厚い雲がかかりそうになっている。
「雨は降らんじゃろうがラーちゃん寝とるかのう」
 と言いながら松の木を見上げると巣からこちらをキョロキョロ眺めているではないか。日中は騒々しいのだが夜中には鳴かない様だ。
 ラー助は鳥類であり、こいつは果たして鳥目なのかなと疑問に思ったが実際は分からなかった。玉が拾って来て家族の一員になってからラーちゃんは自由奔放でとても普通のカラスとはかけ離れていた。その上に人間の言葉を片言ながら喋り会話までする様になったので有る。元来、カラスは頭が良く人間の五、六歳並みの知能を有しているといわれる。特にラーちゃんは鉄、玉、与作と一緒に暮らしている為に本人は限りなく人間に近くなっているのだ。更々カラスとは思っていない。与作に言われた事に殆ど反応する様になっていた。
 与作はラー助に「寝ボケて落ちるなよ、おやすみ」を言うと小屋の中に入って来た。
 行燈を消すと何時もの様に川の字に並んで横になっていた。即ぐには寝付かれなかったが突如鉄の耳が立った。そして玉もガバッと立ち上がった。
「オイッ、どしたんじゃ!何かあるんか?」
 与作には何事か全く分からなかった。すると玄関の戸の前に鉄が駆け下りて行き耳をそば立てているではないか。
 一声も発しない。静寂の中、間道から小屋に向かって来る、何かの足音が与作にも微かに聞こえて来だした。
「こんな夜更けに何事なら・・」
 そして間を置いて更に複数の足音が聞こえて来るではないか。
「ウゥン、こりゃ山賊野郎が雨宿りでもするつもりか」
 と緊張が走った。
 やがて庭先に近かずくと玄関戸を小さく叩く音がした。
 鉄を見ると尻尾を大きく振っている。
「お師匠さんだ」
 鉄は即ぐに鼻先を使って小さく戸を押し開けた。
 素早くお師匠さんを招き入れ、音も無く閉めるとお師匠さんに飛びついている。玉も同様に足元に駆け寄った。
 だが気配を感じて一切鳴かない。
 喜びも束の間、鉄は身構え出し、玉も「フゥー」と声を発しながら背中を丸めて持ち上げだした。
「大将、来てしもうた!」
「十人はいますね」
「最初は町中から町人風の二人だけじゃったが、峠から一気に加勢が増えてな、完全武装をしとる」
「ワシも迂闊じゃった。遅うから無理矢理に志和地に行くと言うたもんで「駄目です」と言いやがってからに。ワシも酒を飲んどって気が大きゅうなって癇癪を起こして警護も付けずに来てしもうたんじゃ」
「間者二人くらいなら屁とも思わんかったが、これだけおりゃがるとワシ一人じゃ手に負えそうにない」
「ワシは潔う名乗って出てから討ち死にしようと思うとる。大将に迷惑は掛けられん」
「何をやけくそを起こして馬鹿な事を言うとるんですか」
「でもワシは厄病神みたいな男じゃ、巻き添えにして大将の命まで無駄にしたかぁない」
「ええぃ!事ここに至って何をごちゃごちゃ抜かしとる!ワシに付いて来んかい!」
 与作の凄い剣幕に
「分っ、分かった。大将の指示に従うから。其れにな、ワシは鳥目になった様で暗いとよう見えんのじゃ」
「分かりました。とに角、ワシから絶対に離れん様にして下さい」
 そうこうしているうちに、敵の間者どもは小屋のぐるりをバタバタと足音をたてながら取り囲み中の様子を窺っている。
 この小屋は、与作の父親が随分前に炭を焼き窯の火を維持管理するのに何日もかかる為、仮の住まいとして建てたものである。
 入り口は外開きで鍵なしであったが与作が住むようになってから留守の時の用心に取り付けていた。尤も取られる程のものは何も無かったが。
 窓は東西に二箇所有り半間程の戸板を取り付け、昼間いる時は支え棒でこじ開ける様にし明かりと空気を入れ夜は締め切っていた。
「国久はこの中へ逃げ込みましたが、奴の出入り口は此処しか有りません」
「よし、分かった。袋のネズミじゃな」
 敵の総大将を何とか自分で討ち取り手柄を立てようと連中は血気立っていた。
 満月の月夜とはいえ大きな木が生い茂った暗闇の中で突如、大将らしき奴が大声で叫んだ。
「コラッ!われが尼子国久であるのは分かっとるんど。潔ぎようにとっとと出て来んか。そして此処で腹を切らんかい。首はワシが刎ねちゃるから喜べ。其れとも火を放って丸焼きになりたいんか」
「返答をせんかい!」
 すると与作は
「何をぬかしゃがるワシの豪邸を焼くだと許さん!」
 外には漏れない様な小声で叫んだ。
 事ここに至っても冗談が飛び出す程の冷静さである。
 そして師匠に指図した。
「ええですか。先ずワシが一番前におる奴を遣っ付けます。そいから大物を垂れとる野郎を倒します」
「分かった」
「此れから飛び出しますが後は戦わなければいけません。絶対にワシから離れない様に」
「ワシャ、目がのう」
「気にしなさんな、凄い味方がついておる」
 間者供は段々と間合いを詰めて来ている。壁板の隙間から外の様子を窺っている与作は、今にも玄関戸に手を掛けようとしていた次の瞬間、
「プッ」
 と小さな音がした。すると此奴が前のめりに倒れた。
 其れを見ていた二重、三重にも取り囲んでいた奴等は暗闇の中で何が何やら分からず、起こそうと足元に駆け寄った。
 すると又、次の奴も「ウギャ」と小さな声を発し首筋を押さえながら仰向けにひっくり返ったではないか。
 完全武装をしているのにも関わらず、空いている首筋の隙間を狙われたのだ。
「オイ!何で倒れたんじゃ」
 すると背後から大声がした。
「おい!下がれ、吹き矢じゃ!」
「奴は吹き矢を使うぞ、後へ退がれ!」
「火を放って丸焼けにしろ!」
 与作は「何を抜かしゃがる!そんな事をされたら溜まったもんじゃないわい」
 と叫ぶと
「ワシから離れんといて下さい」
 転がっている二人の前の戸が「パァーン」といきなり開き与作と師匠が抜刀しながら飛び出した。
 国久以外に誰もいないと思われていたが、小屋の中から二人も飛び出すとは相手にとって全く予測も付かなかっのだ。
 なんと与作は着の身着のまま、前ははだけ褌が丸出しでおまけに裸足で飛び出した。
「なんじゃ此奴は!」「野郎はまるで餓鬼じゃないか!」
「取り囲め!串刺しにしろ!」
 其れまで小屋を取り囲んでいた敵の間者が急遽、前に回って来た。与作に二人、国久公には三人が取り囲込んだ。
「オラッ!どん百姓野郎め、子供の刀か!」
 と与作の短刀を見て完全に舐めてかかった。
「ワリャ、命は欲しゅうはないんかい。叩っ斬るぞ!逃げるなら今のうちじゃど」
 と怒鳴りながらいきなり脳天目掛けて上段から振り被ってきた。
 ところがどうだ、相手の振り下ろした一刀を躱すや、いきなり懐に飛び込まれると面食らってしまい、お手上げ状態になってしまった。
 暗闇の中では、大刀を振り回すより小刀の方がはるかに動き易く断然有利である。相討ち覚悟で切り込まれ、次の瞬間右脇腹を切られ、一刀のもとに切り倒されてしまった。
「おい!此奴は何もんなら、ただの百姓じゃないぞ」
 処が、今迄の月夜で明るい空が一気に曇りだし、何も周りが見え難くなったではないか。
 与作にとっては願っても無い状況だ。何せ夜目が利き、鉄、玉同様なのだ。
 だが間者供は其れでなくても足場が悪く、立ち回り難い場所の上に明かり一つ無く、戦況不利となって来た。
 然し、師匠と対峙していた間者供は、目の前に賞金首があると思うと「我こそは、我こそは」と色めき立っていた。
 師匠と云えば鳥目で益々暗くなり前が見えなくなっており、腰が引けて前屈みになり相手構わず刀を振り回し、まるで子供の様な棒振り剣法になっているではないか。
「オイッ、国久はよう目が見えとらんぞ!ええかぁ、一斉に飛び掛かれ!」
 だが次の瞬間、声を掛けた奴が「ギャー」と大声を出してその場に倒れてしまった。そして又、その横にいた間者も「痛たぁ〜」とひっくり返りのたうち回っている。
「鉄!」「鉄!」
 と叫けんだ。
 これには師匠も勇気百倍、二人をなぎ倒してしまった。もう一人はその場から逃げ去ってしまった。
 暗い夜陰に紛れて、真っ黒い狼犬が何処からともなく現れ、目にも留まらぬ速さで襲って来る。
 仲間が噛まれるのを見た間者供は、鉄を大刀を振り回しながら追っかけた。
 国久公を倒すどころではない。 何時、何処から襲われる分からないのだ。
 他の奴等はなんとか鉄を斬り倒そうと追っかけ回した。
 其れこそ鉄の思う壺だ。
 切られそうな距離迄に近寄り追っかけさせる。そして此処までおいてと誘導するのだ。前もよく見えない炭焼き小屋の周りのデコボコの広場で四、五間走った途端に一人の姿が一瞬の間に見えなくなったではないか。
 次の野郎も、深い炭焼き窯の穴に誘導され、盛り土の上に蹴つまずいて頭から突っ込んだ。
 勝手知ったる我が家の庭だ。此処は昔、父親があっちこっちに炭焼き用に掘ったもので、鉄は其れを簡単に飛び越えて行く。此れに間者二人が落とし穴に嵌められたのだ。
 与作は与作で前後を取り囲こまれて対峙していた。
「このど百姓野郎め!ワレを叩っ斬ったる!」
 然し、先程の居合斬りの手口を見せ付けられており、中々切り込んで来れず間合いを計っていた。この時も与作は小刀を握りしめている。
 だが次の瞬間だ!背後の間者が異様な声を発した。
「ギャー、目が!目が、見えん!」
 なんと暗闇の中から飛び出した玉が跳躍して相手の顔に飛び付き両目を鋭い爪で引っ掻いたのだ。
 其れに怯んだ前面の間者も、与作の居合いの一手に難なく倒されてしまった。
 敵のなかにはこの戦況を見ていて逃げ出すものもいた。余程の犬嫌いなのであろう。
 狼犬の鉄は、図体が大きく牙を剥いて向かって来るのだ。恐ろしくないわけがない。一人、二人と駆け出したが簡単に追い付かれ両足を噛まれ、抵抗してくる奴には凄い速さで飛びつかれ喉元を攻撃されている。
 最後に残った、大物をたれた総大将らしき奴が師匠と対峙しだすと
「イヤァ〜、我こそは!」
 相手が叫んだ時、師匠は
「じゃかましい!いらんことを抜かすな!ワレと勝負じゃ」
 丁度その時、与作は少し離れた場所でもう一人と対峙しており
「まずい!」と横目で見て判断したが如何ともしがたい。
「奴は強そうだ!」
 師匠も大きいが、相手は更にでかく六尺以上は優にある。
 大刀を振りかざし、互いの刃から火花が散った。
 そのまま鍔ぜりあいが続き間近で睨み合っていた。その時には師匠は今日の疲れと暗さで殆ど目が見えなかったのだ。
 だが、運が天を味方にしてくれた。
 暗闇を一気に満月が照らし出したのだ。
 これで奴の顔もはっきり見える。ところが安心した瞬間、いきなり外掛けの足払いを喰らい、刃を重ねたまま後ろにひっくり返されてしまった。
「国久!此の素っ首もらった!」
 然し、然しだ!!
 玉がまたもや飛び出して来た。
「我が子がやられてなるものか!」
 玉も必死だ。
 敵の後頭部に飛び付き目隠しをする様に爪を両目に被せたのである。
「ギャー!」
 次の瞬間、相手は首筋を掻っ切られていた。
 寝転がった師匠の上で絶命したままの状態であった。  
 暫くそのまま放心状態であったところに鉄と玉が寄り添って来た。
 与作は戦い終えた事を確認すると、師匠の上に覆いかぶさった敵の間者を横に下ろすと師匠の側に座った。
「大っ、大将!」
 後は全く言葉にならない。涙をぼろぼろこぼしながら与作の手を両手で握りしめ長い間そのままであった。
 そして、ようやく我に返った途端に目の前にいる鉄と玉に気が付くなり
「鉄ちゃん!、玉ちゃん!」
 大声で叫ぶと抱き寄せた。後は
「ワンワン」「ニャー、ニャー」「テツゥ〜!」「タマァ〜!」と大合唱が始まった。
「有難うな。鉄ちゃん!有難うな、玉ちゃん!いや、玉母さん!」
「それにしても鉄ちゃんは忍者犬じゃな。ほんま凄いよ。其れに玉母さん、凄い!凄い!ワシはすんでの所で首をチョン斬られるとこじゃたよ」
 師匠さんから軽い冗談口が飛び出して来だした。戦い終えて殺気も消え失せると
「お師匠さん、泊まっていかれますか」
「大将、そういう訳にはいかんのじゃ。急な用事があってのう、ワシのわがままで夜中に一人で来てしもうてこういう事になったんじゃ」
「分かりました。皆んなで送って行きましょう」
 行くと言う言葉を聞いて鉄も玉も大喜びをしだした。
「ワシャ、ほんまは行きとうないよ。小屋で皆んなと一緒に寝たいんじゃ」
 此処から城まてはまだ一里ほどはあり夜道は長い。
「お師匠さん、歩けますか」
「うん、疲れとるが何とかなるよ。ただな、此の暗さで目がよう見えんのじゃ。鳥目がひどうなっとるんかのう」
「分かりました。鉄ちゃん、お師匠さんを頼むで」
 そう言うと与作は、小屋から縄を持ちだし鉄の首に巻き付け短くしてお師匠さんの右手に握らせた。そして身体にぴったり寄り添って山道を下りて行った。でこぼこ道やぬかるみを避ける様に上手に案内して行く。まるで介護気取りだ。
「鉄ちゃん、有難うさん。お前は本当に優しいな」
 玉といえば与作の懐の中から顔を覗かせ幸せそのものであった。
「大将よ、又、助けて貰うたな、有難うよ」
「ワシも小屋に辿り着く迄に攻撃されとったら、今はこの世におらんかった処じゃよ」
「とんでもない、当然の事をした迄ですよ。礼など辞めて下さいよ」
「分かった、分かった」
「ときにお師匠さん、鳥目に良く効く薬が有りますが明日にもお持ちしましょうか」
「何じゃそりゃ、そんなええもんが有るんか。ワシの奥出雲の方じゃ聞いた事がないぞ。ろくにええ医者もおらんし薬屋も在りゃせん、是非そうしてくれるか。頼むよ」
「さっきはな、暗うてさっぱり前が見えなんでからに、ただ刀を振り回しょったばかりなんじゃ」
「皆んながワシの目の代わりをしてくれたよ」
「状態はどうですか。いつ頃から酷くなりましたか」
「そうよな、昔からじゃないで。ここ一年くらい前からかのう。ワシも分かっとるんじゃが偏食がひどうてな。城の賄い方も栄養管理をようせんのじやろうて。
「然し、大将には何時も何時も迷惑をかけるな」
「お師匠さんの鳥目が進んどるのは多分偏食が一番の原因かと思われます」
「そうよ、ワシがマムシに噛まれて一緒に居った時は体調が良かったからのう。
「其れにあの頃は目もよう見えとったで」
「帰ってから暫くして段々と悪いほうへ戻ってしもうたのよ」
「薬袋に色々効能書きが記して有りますからその通りにして下さい。其れに主人に頼んで目にいい滋養が
 有る食べ物を列記させておきます。城の賄い方に多く摂る様に言い付けられては如何でしょうか」
「お師匠さんの住まわれている処は山の幸、海の幸に恵まれているではないですか。魚介類や海藻がふんだんにあり一番長生きの出来る土地柄ですよ」
「そうじゃたよ。ワシ等は恵まれ過ぎとってかえって気がつかんじゃったよ」
「言われてみりゃ大将が住んどるここら辺じゃ海のものといえば塩物、干物 じゃもんな」
「そうてすよ」
「だからお師匠さんの症状からして急性的なもので慢性化したものでないようです。今からまんべんなく体にいいものを摂り養生すれば直に元通りに回復しますよ」
「そうかそうか、ワシは今日から先生に言われた通りにやるから」
「先生では有りません。冗談ばっかし言われてからに、ただの丁稚です」
「うんにゃ、先生じゃ」
「然し、何から何まですまんのう」
「そりゃええが大将、明日持って来る言うたが無理をするなよ。とてもじゃないが無理で、何時でもええよ」
「大丈夫ですよ。お師匠さんは朝のうちは二階におられますね」
「うん、おる、おる」
「それでしたら呼んだら顔を出して下さい」
 お師匠さんは何の事やらさっぱり分からず不思議な事を言う奴じゃなぁと思ったが
「宜しく頼むよ」と返事を返した。
 やがて色々話しながら歩いて来ると小さな城門が見えだした。
「お師匠さん、私は此処でお別れで御座います」
「いやぁ、大将、今夜は迷惑をかけてしもうたな。ほんま有難うよ。お陰で生命を助けて貰うたよ。鉄ちゃん、玉ちゃんも有難うよ。ほんまにお前達がおらんかったら今頃はよう生きとらんでぇ」
 頭を撫でられた鉄と玉は大喜びをしてお師匠さんを舐めまくっている。
「一寸、待っとれよ。今、お土産を持って来るからな」
「おっと、今日はラーちゃんの姿が見えんかったな」
「そうですよ、今夜は松の木の上から見ておりました」
「ああそうか。ラーちゃんはワシと一緒で鳥目じゃったのう」
 と笑いながら城門の中に入って行った。
 与作は、城の中に入って行く後ろ姿を見つめながら、つくづく武家社会の厳しい現実を思い知らされたような感慨に浸っていた。特にお師匠さんは、上の更に上の方であり世の中の為に、万民の治安を守らねばならない責任をお持ちの御方である。其れ故に敵も多く、今夜みたいにつけ狙われることになる。
 今日来た志和地八幡山城にしても直ぐ下の川一つを隔てると敵の陣地なのだ。
 然し、先祖代々その場所に住んでいる住民にしてみれば何の関係がない事なのである。
 尼子国久大殿様はこの地を二分する国人領主の尼子晴久公の叔父にあたり総大将としてこの地の統括者である。その為、敵も多く何時寝首をかかれるか知れたものではなかった。
 戦国の乱世と云われる世の中を恨まざるを得なかった。
 暫く経ってから、お師匠さんは風呂敷包を持って出て来ると鉄が駆けて行き口に咥えて持って来た。
「有難う御座います」
「今日は遅うまで迷惑をかけたのう。明日、仕事が早いのに本当にすまん事よ」
「いえいえ、結構で御座います。でも私にはまだ此れからやる事が残っております」
「そりゃ何用じゃ」
「はい、今から帰って亡くなった方々の亡き骸を懇ろに葬って差し上げます。そしてその後に供養を致します」
「何、此れからか」
「左様で御座います」
「其れを全部一人でやるというのか」
「其れからお坊さんでも呼んでやるんか」
「いえ、私は丁稚に上がる迄はお寺さんで御住職の伴僧を務めておりましたから一通りの知識が御座います。辞める時に衣装に袈裟懸けを一式頂戴しております」
 いくら戦国時代の世の習いと言えども人を殺してよかろう筈もない。
「 何と言う事か!」
「ワシはな明日にも城から後の始末を頼もうと思うとったんじゃ」
 若いのに写経をする程の心優しさ、与作の大きな人間性を知りお師匠さんは心から感動したのである。
 そして臆面もなく
「だんだん!有難う!」
 を繰り返し男泣きしたのである。
 其れを見ていた鉄、玉とも「ウォーン、ウォ〜ン」「ニャーン、ニャ〜ン」と泣くではないか。おもわず与作も貰い泣きしてしまった。
「宜しくお願い致します」
 天下の大殿様が、町人で丁稚奉公という一番身分の低い男に、丁寧言葉をかけ深々とお辞儀をしたのであった。
 それ以来、総大将が炭焼き小屋の側を通る時は必ず立ち寄り、皆んなで供養をしてくれている十人の間者の墓に参り線香と花を手向けのである。
 そして鉄、玉、ラー助の為に小屋に立ち寄りお土産を置いて行ってくれた。
 城からの帰り道、鉄は大きな風呂敷包を口に咥え、玉は与作の懐の中、やはりなんと言ってもご主人様が一番なのだ。
「鉄ちゃん、玉ちゃん、今日はよく頑張ってお師匠さんを助けてくれたな。ほんま有難うよ」
「さあ、ラーちゃんが待っとるから早う帰ろうな」
 ようやく小屋の近くに戻って来ると足音と声が聞こえたのか
「カア、カアー」と鳴きだした。
「オウ、ラーちゃんが起きとるで」
 すると
「テツチャン、タマチャン、ツイデ二ヨサク」
 此れには与作もたまげるやら呆れるやら
「コラッ、ついでとはなんじゃ。どこで覚えたんじゃ」
 松の木の下迄帰って来ると、ラー助は与作の肩の上に下りて来て鉄も玉も一緒になって大喜びをしている。
「ラーちゃんおいてって悪かったな」
「ナンノナンノ」
「オイッ、今から真面目に亡くなったお侍様達を埋葬をして供養してあげるんじゃ。お前たちは寝てもええからな」
 と言うと与作は十人の亡き骸を葬る作業に取り掛かった。
 土葬をする為にはあまりにも多過ぎる。とても朝迄一つ一つ墓穴を掘る訳にはいかない。だが幸いな事に周りには数個の炭焼き窯が有る。昔、父親が掘った物で今は全く使っていない。此れが結構大きく少し拡張すれば全員収容が出来そうなのだ。
「こうすれば皆さん寂しくないな」
 其れから夫々のお名前が分からない為に無縁仏として幾つもの石碑を建てた。
 埋葬を終えると、今度は下着だけを残し着けていた物は全部脱がせ遺品として大切に保管する様にし、何れ、ほとぼりが冷めると遺族の方々に返還する気持ちでいた。
 一通り整理が終わると供養をしてあげなければならない。
 与作は身を清める為に沢に下りて行った。この寒空の下、身を切る程冷たい川の中に入って一心不乱にお経を唱えていた。
 其れを終えると供養の為の衣装と袈裟懸けをし読経を始めだした。
 この時、鉄も玉もラー助も与作がしている事が分かるのであろう。寝ずに起きており愁傷にも与作の後ろに並んでいる。
 読経の声が山に響き渡る中、ラー助が時たま「ナマンダブ、ナマンダブ」と茶々を入れてくる。
 でも与作は何事も無い様に、皆さんに仏様になって頂く様に忍者一家で一緒にお祈りしていたのである。
 供養が終わる頃には東の空が白々と明るくなりだした。
「もう夜が明けたか。ぼちぼち店へ出発時間じゃな。とうとう寝る間が無かったがまぁこれくらいの事なら死ぬるほどの事はありゃせんじゃろう」
「へへへ、今日は朝から晩迄浅田屋でドジの踏み通しで怒られん様せにゃいけんのう」
 与作は誰に言うとも無く独り言を呟いていた。
「みんなよ、今日は一日こっちで休んどってもええで。疲れとるじゃろうからな」
 朝飯は幸いな事にお師匠さんから貰った物が残っており朝飯を炊くわけではなく簡単に済ませた。
「ワシは行ってくるからな」
 と草鞋を履いて外に出てみると鉄、玉、ラー助が一列に並んでいるではないか。
「おいおい、皆んな行くつもりかい」
「しゃあない奴等じゃな。別荘迄行くか」
 早速、玉はちゃっかり鉄の背中の上に乗り長い毛をつかんでいる。
 ラー助といえば、毎度の如く上空を旋回しながら一寸行っては引き返しを繰り返し常に見張りを続けてくれている。
 道中、鉄も玉も嬉しくて仕方ない。前になったり後ろになったり、特に玉は歩いたり与作の懐に飛び込んだりと全く自由気ままであった。
 与作と忍者一家がまもなくで別荘に到着する所迄やって来た。
「鉄ちゃん、玉ちゃんよ、後は宜しくな」
「ラーちゃんはワシと一緒に浅田屋迄来てくれんか。お師匠さんに渡す薬を運んでくれるか」
「ワシニマカセトケ」
 分かったのかどうか相変わらず返事は良い。だがこれを言って今迄に一度も迷った事が無かったのだ。
 早朝に店に到着すると今朝は珍しく主人が与作よりも先に店先に出てウロウロしていた。
 ろくに返答もしない主人に朝の挨拶を済ますといきなり頼み事をした。
「どしたんじゃ、朝早ようから何の薬の調合じゃ」
「鳥目に良く効く漢方薬が欲しいのです。今日の午前中にお届けすると話したもんですから」
 主人にはすぐにピンときた。此れは間違いなく与作が関わっている大殿様が欲しいと言われているのではと。
「分かった、今、すぐにつくる。してその御方の症状は如何程のものかのう」
「私でしたら昨夜の満月でしたらハッキリ見通せるのですが、その方は一寸雲がかかっただけでそろそろ歩きの手探り状態でした。以前より症状が進行している様です。後から聞いてみるとかなりの偏食の様です」
「ほいじゃが与作が今から行っても間に合わんじゃろうが」
「私は今日お店を離れません」
「其れじゃ誰が届けるんじゃ。間に合う訳きゃなかろうが、空でも飛んで行かん限りは絶対に無理で」
「へへへ、大丈夫です」
「其れとすみませんが、食事療法で治すええ食べ物を書いて貰えませんでしょうか。
 其れを賄い方に提供されると言われてましたから」
「分かった。薬と一緒に同封しとくよ」
「有難う御座います。此の代金は私の今度の給金から差っ引いとって下さい」
「何を言うとる。そんな事は一切気にすな」
「重ね重ねすみません」
 主人は何時もの様に玄関戸を開けると即ぐに店の中に入って行った。早速薬の調合にかかった。
「然し、与作も不思議な事を言う奴じゃのう。此処からどうして朝早ように志和地迄届けるんじゃ」
「其れよりほんまどうするつもりかのう」
 とんでもない事を簡単に口にする与作の事が主人にはますます理解出来なくなっていた。
 翌朝、お師匠さんは昨夜の襲撃事件の疲れがどっと出て朝遅くまでぐっすり寝ていた。東の空から朝日が差し込み陽射しが顔に当たりだした。
 眩しくなったのでボチボチ起きるかと欠伸をしながら眠気まなこを擦っている時だ。
 窓枠の辺りから何やら声が聞こえるではないか。
 其れにガタガタ音がする。
「誰が今時こんな処へ登って来やがった!許さん!」
 と立ち上がった。すると又
「オシシヨ、ヨウサンクスリ、オシヨサンクリ?」
 舌足らずな変てこりんな声がする。
 お師匠さんが やおら窓枠に近付いて覗いて見た。
「オハヨ、オハヨ、オシシヨサン」
 可愛い目をしてこっちを見ているではないか。つられて「おはよう」、
 此れには一遍に目が覚めた。
「何じゃこりゃ此れは!ラーちゃんはワシの物真似までしとる。如何して此処が分かったんじゃ」
 朝早くにラー助は与作と一緒に浅田屋に行き、用意してくれた薬の袋を首にかけて貰い一気に飛び立ち持って来てくれたのだ。
「ラーちゃん、有難うな、頭ええなぁ」
「ナンノ、ナンノ」
 首から外して頭を撫でてやると目を細めて嬉しそうな顔をして
「オモイ、オモイ」
「ハハハッ、こりゃ面白い。其れにしても凄いな」
「ラーちゃん、此れからも仲ようしような」
「ワシ二マカセトケ」
「そうじゃった。ラーちゃん今すぐお土産をやるからな」
 と言いながら用意してあった朝飯の中から猪の肉を一つやると「パクリ」と一飲みし目をパチパチしている。
「そうか、そうかラーちゃんはよう食べるからな。包んじやるから皆持ってけ」
「アリガトザーマス」
 嬉しそうに飛び立って行った。
「なんて事だ。大将のとこの鉄や玉やラー助にしても到底考えられん能力を発揮しおる。ほんま与作殿は生きとる物の怪じゃのう」
 兎にも角にも、お師匠さんはたまげまくって一気に目が覚め興奮しまくったのである。
 帰巣本能を利用した伝書鳩の例を、他国でやっていると人伝てに聞いた事が有る。だが現実にラー助がやってくれるとは。
 其れも人間の言葉を喋り、荷物まで運び、幼児並みだが会話までする。其れにしても大将はなんちゅう人間なんじゃろうかつくづく感じ入っていた
 それ以降、お師匠さんはラー助と大の仲良しとなり、道中カラス笛を吹くと、何処からともなく飛んで来て上空より敵からの見張り役をこなしてくれていた。
 与作とお師匠さんの連絡以外、比叡尾山城と志和地八幡山城を超高速で書簡の伝達をしてくれていた。
 用事がある時、緊急時には書簡のやり取りを何の苦もなく確実にラー助は喜んやってくれた。
 報酬も何も要らない。ただ、美味しいご馳走を置いておくだけでいいのだ。
 飛んで行かせたい場所に違った食べ物、肉や魚を置ておくとちゃんと覚えていて確実に目的地に届けてくれる。実に頭がいいのだ。
 又、ラー助が持って飛べない重い荷物は鉄がこなしてくれ、早馬よりも早く、人間の三倍以上も速かった。

第5話 美和様の誘拐

 何時も、浅田屋の一人娘、美和様の稽古事や買い物のお供は、丁稚の与作の役目で有った。
 だがこの日は、北へ二里以上有る布野村に、昼過ぎから薬の配達や集金に出掛ていた。
 この当時、布野村は陰陽交通の要衝の地で有り布野宿と云われ 、国境番所や番屋、庄屋に商店、宿屋、薬の小売店と宿場町を形成し、かなりの繁栄ぶりであった。
 元来、この道は古代神話の故郷、出雲大社へ続く神話街道と云われていた。山陽筋から老若男女が出雲詣でをする重要な街道だっのである。然し、街道とは名ばかりの険しい峠が何箇所も有り、出雲詣で客を難渋させた。其れだけに御利益があろうというものではなかったのか。
 特に赤名峠は曲がりくねった急坂で旅人泣かせであった。
 中世に入ると大森銀山が発掘され、その銀や銅がこの道を通って荷車で瀬戸内に運ばれる様になった。銀山街道と呼ばれ重要な街道となっていったのである。
 その為、峠の双方に国境番所が設けられていた。
 莫大な儲けを生ずる此の山の利権を巡って、何度も戦さが繰り返されてきた。その為に現在、国境を接する尼子軍と毛利軍が衝突していたのだ。
 与作は昼過ぎ遅くに浅田屋を立った為、忙しく何軒も用達しをしたので夕方迄に帰れそうにない。
 村の集落から左に曲がり小さな祠の前を右に進むと小さな山道に入っていく。帰る途中の山家という処に旅人の歩く目安となる一里塚が有る。其の峠に差し掛かった時には日が暮れ掛けていた。険しい山道で、道標の有る側の大きな石の上に腰を掛けながら
「今日はどうにも美和様をお迎えに行けそうに無いな。しゃないか、誰かが代わりをやってくれるだろうよ」
 とブツブツ独り事を言いながら一休憩をしていた。
 こんな山道を通らなくても、布野村から三次の町の尾関山にかけて布野川が流れ側をなだらかな小道が有るのだ。此の道を通れば距離はかなり近い。ただ、途中に何箇所か川まで迫り出した断崖絶壁が有り、今日の様に背中に荷を背負っていると何時、落石や崖崩れで川の中に転落するとも限らない。実際に何人もの人が落ちて亡くなっている。其れで帰り道を変えたのであった。
 此の場所は、赤名峠ほどにはないにしろ山坂が急で、昔から山賊が出ると言われていた。然し、犯人は今迄に捕まった事がなく、多分、近在の貧しい農家の若者か誰かが手拭いで顔を隠して襲ったもので有ろう。其の為、大金を狙うのではなく
「殺されとうなかったら、なんぼでも置いてけ!」
 と脅している。常に相手が弱そうな大人や女性を付け狙っていたのだ。
 其れで今回も与作が標的にされたのであろう。
 煙草を吸うでなく、背中のビクを下ろし、道側の湧き水を竹筒に汲んで来て飲みながらのんびりと辺りを見回していた。
 すると、まもなく後ろの林の中からガサガサ音を立てながら、訳の分からん奴等が出て来たではないか。
 一瞬、熊か猪かと思いびっくりしていると、いきなり背中を棒切れで叩かれた。
「何をするんですか!」
 相手は悪餓鬼みたいな頰被りをした三人組で、何処で手に入れたか、脇差しの刀の柄に脅しのつもりか手を掛けている。
「コラッ、此処は地獄の一丁目でぇ、挨拶料ぐらい置いていかんかい!」
「こらえて下さい。私は町の薬屋の丁稚で今から帰る処です」
「じゃかましいや、くどくど抜かすな、命が欲しゅうはないんかい ! 」
「丁稚!、ワレは集金して帰りょうるんじゃろうが。全部とはいわん、ワシ等に置いて行け」
「お助け下さい、この金を盗られたら店を首になりますから」
 相手は、与作の前垂れ姿の身なりを見ると、弱そうで簡単に脅しがきくと思ったのであろう。
 そこへ正面の男が再度、棒で脳天めがけて殴り掛かって来た。
 与作は次の瞬間、振り下ろした棒を躱すやいなや、相手の男は面打ちをくらい其処に伸びてしまった。居合の一手で有る。掛かって来た右腕を掴み返すや、自分の右手を添えて、その棒で相手の脳天を一撃していた。目にも留まらぬ早業である。
「コラッ!まだやるか ! 此れがほんまの刀じゃったら此奴は、お陀仏だぞ」
 其れを見た他の奴等は一目散に藪の中に駆けり込んだ。
「二度と弱い者いじめをする悪さをしたら承知せんぞ!我等の人相、風体を番屋へ知らせるぞ!それか此奴を連れて行こうか」
 すると与作のこの声に、二人は薮の中から再び現れて頰被りをとり素顔で地面に手を付いて謝ってきた。
「すみません、二度と致しません。堪えて下さい」
「よし分かった。お前らはまだ若い。牢屋にいれられてみい親も困るで。今後そういう気持ちなら堪えちゃる。悪い事はすなよ」
 早く帰ろうとしていたのだが要らぬ手間が掛かってしまった。速足で掛けだしたがどうにも美和様のお迎えには行けそうにない。
「しょうがないな、代わりに誰か行ってくれるだろうよ」と諦めた。
 その頃、店では与作がどうにも帰れそうにないのが分かると主人は
「おい、春三、代わりに美和を迎えに行って来てくれるか」
「はい、分かりました」
「暗うなりょうるから気を付けて行けえよ」
 日が暮れるのが早く辺りは真っ暗になっている。
 春三は荷物を小脇に抱え、提灯を美和様の足元にかざしながら帰り道を急いでいた。
 細い路地裏を歩いている時、誰とも出会う事はなかったが、暫く行くと建物の物陰から何故か人の気配が感じられた。というより小さな話し声が聞こえたのだ。其れは美和も気付いていた。
「何時もと連れの丁稚が違うぞ、一寸、待てや」
 暗い路地で、すぐ近くに来るまで確認が取れなかったのであろう。
「おい、丸浅印の提灯じゃ、間違いない、やれ!」
 そして次の瞬間、暗闇から頰被りをした二人組に襲われた。
 美和は声を出し叫ぶ間も無く、いきなり当て身を喰らわされた。
 春三は、後ろから足を払われてひっくり返され馬乗りになられ、鳩尾を刀の柄でおもいっきり打ち付けられたのだ。春三は浅田屋への繋ぎの連絡用で有ろうか、切り殺される事はなかったが、其の場で完全に気絶してしまった。落とした提灯に火が着き犯人が足で踏み消し立ち去った。
 屋敷と屋敷の狭い塀の小径で、全く人通りが無い。
 何刻経ったで有ろうか。
 仰向けに倒れている処を通行人に見つかった。
「おい、どうしたんじゃ大丈夫か。飲み過ぎたんか、此処へ寝とっちゃいけまぁが」
 提灯をかざしながら
「起きいゃ、あれ、酒は飲んどらんようじゃのう」
 様子が分からず心配した通行人は、何度も身体を揺すったり、頰を叩いたりしたが一向に目が覚めない。
 そうしている時、暫く経っても戻らない美和を心配した主人が代わりの者を使いによこしたのだ。手代が迎えに走って来て、丁度、其の現場へ出会した。
「あれ、春三じゃないか」
「此の人は浅田屋さんか。さっきから起こしょるんじゃが気絶しとるんかのう。息はしとるで」
「おい !春三、どしたんじゃ、起きろ!」
 胸ぐらを掴み手代が何度揺すってもウンもスンも無い。
「こりゃ埒が明かんな、水でもぶっかけるか」
 とすぐ横の用水路に手拭いを浸けて冷水を含ませて顔に投げ付けた。
 其れに春三は「ハッ」と目を覚まされた。
「おい、気が付いたか、お前!どしたんじゃ」
「美和様は何処に居られますか」
「誰もおりゃせんよ」
「大変だぁ〜、美和様が拐わかされたぁ」
 と大泣きしだした。
「エェ〜、こりゃ大事でぇ、すぐに主人に知らせんといけん」
 襲われた場所が浅田屋より二本裏道であったのですぐ近く、手代と見つけてくれた人とで両脇を抱えながら店迄連れて帰った。
「旦那様!美和様が二人組に襲われて拐かされました。すみません! すみません! 」
 丁度、此の時刻になると通いの奉公人の半分以上は既に帰宅していた。
 与作もその時に店に丁度帰り着いた処で、玄関先でバッタリ出合ったのだ。
 予期せぬ事の重大さに、主人、奥様や奉公人の番頭や手代達も顔色が青ざめ、全く為す術が無かった。
 普段は此の時刻になると、玄関先の灯りは消すものだが、皆んな気が動転しており戸も閉めず提灯が点いたままだった。与作は帰ろうにも帰れず、かといって何もする事が出来ない。
 奉公人の中には
「ワレがもう一寸早う戻っとりゃ、こんな事にゃならなんだのに馬鹿たれが」
「ほうじゃ、ほうじゃ」
 この言葉には少々、ムカついたが如何せん事件が発生したのは事実だ。
 然し、このまま何の対策を立てずにいたのでは、其れこそ何の解決方法にもならない。 事が事だけに生命に関わりかねないのだ。
 多分、主人は後の事が怖くて役人に知らせる事は出来ないで有ろう。
 此の誘拐事件の責任の一端は自分にも有る。もう少し早く布野での仕事を終わらせ帰っておれば、こんな事にはならなかったで有ろうと悔んでいた。
「よし! ワシが絶対にケリを付けちゃる」と意を決したので有る。
 こうなれば与作は決断と行動が早い。普段、店ではグス、ノロマと云われる丁稚だが美和様を助け出す為に豹変したので有る。
 今迄は一度も店から鉄を呼んだ事は無い。何時も待ってくれている山の方を見つめながら、此処から呼ぶのは何んせ初めての事、
「気が付いてくれるかな。鉄、頼むぞ」
 と大きく息を吸いこみ犬笛を一気に吹いた。高音で人間の耳には一切聞き取れ無い。
 やがて肌寒い暗闇の中、店の外で待っていた。この時刻になると本通りを行き交う人は誰もいなくてシィーンとしていた。
 此処から山の麓迄はかなりの距離がある。
「鉄ちゃん、聞こえたかなぁ」
 と心配になり再度吹いてみた。
「なんぼう、鉄が速いゆうても初めて来る道じゃけ分からんで迷うとるんじゃないかのう」
 だが、その時、ひたひたと足速に駆け付けて来る音が聞こえてきた。
「おう、鉄ちゃんもう来てくれたか」
 笛に対しての反応は勿論、与作が通う道筋に残る臭いを敏感に捉え、浅田屋の店先迄、一気に駆け付けたのだ。
 日頃、山の中でやっている隠れんぼ遊びのつもりなのだ。
 声は一切出さず、おもいっきり尻尾を振っている。
 すると、又、暫く間をおいて息を弾ませながら、後から玉も付いて来たではないか。
「おやまあ、玉ちゃんも来てくれたんか。有難うよ」
 足元に擦り寄りながら小さな声でニャン、二ャン鳴いている。
 鉄も玉も頭や喉元を撫でられ大喜びをしている。
 ようやく呼吸を整えると、今、町中に呼ばれた事が理解出来るのだ。緊張して 来て「さあ、何するの」と互いに目で催促している。
 今日、来た玉は、動物的な直感が鋭く何時も何か有る事に予感が殆ど当たるのだ。
「一寸、此処で待っとってくれ、すぐに出て来るからな」
 と言いながら、物陰に隠れる様に座らせてから、与作は店の中に入って行った。
 此の時分には、番頭達や通いの者達も帰っており、店先は真っ暗で有った。
 主人夫婦は美和が囚われの身になっており、何時までも店先を明るくし奉公人がウロウロしていては犯人達を刺激すると思い早々に帰宅させたのだ。
 さあ、此れから鉄と玉の為に宝探しの材料を手に入れなければならない。何にしょうかと木戸を開けて店の中に入り思案していた。
 誘拐された美和様の臭いの付いた物が店内にないか探し始めた。だが与作が入店以来、お嬢様か日頃に店先に顔を覗かせる事を一度も見た事がない。母屋が別棟になっており出入り口は他にあった。浅田屋の屋敷はかなり大きく奥座敷の前には築山の庭が有り裏の通用門は別の通りに面していた。
 だから履物、傘などは一切無いのだ。
「こりゃ、此処では無理じゃな」
 店内では美和様に関する臭いが付いた物が手に入れられそうに無いとなると
「ええい、ままよ此の際じゃやむを得ん、躊躇している場合ではないわい」
 と灯りの点いている主人夫婦の部屋迄やって来た。
 そして、いきなり障子戸をガラッと開けて
「奥様、美和様の身に着けていた物を何でもいいから一点貸して下さい」
 夫婦は一瞬、呆気にとられた。そして怒号が響いた。
「馬鹿野郎!丁稚風情のお前が何で此処へ入った来たんじゃ、出て行け!」
「何よ、此の阿呆は!馬鹿、ボケ、間抜けの助平野郎!」
 と有らん限りの罵詈雑言、其の上に奥様は目の前の火鉢に有った鉄の火箸で頭を叩きつけたのだ。
 与作の額から血が滴り落ちた。 其れでも怯まず与作は続けた。
「奥様、とに角、貸して下さい!即ぐにです、美和様の生命に関わる事なのです」
「お前に何が出来ると言うじゃ、ワレみたいな読み書きが、ろくすっぽう出来ん奴が何を抜かしおる」
「旦那様、こうして問答している間にも、狼みたいな奴等にどうされるか分かりませんよ」
「其の内、朝迄に身代金要求の脅迫状が来るでしょう。多分、犯人は娘が可愛さのあまり、親が代官所へ届けはしないと確実に読んでいますよ」
「ワレは犯人等の手先なのか、何で其処まで分かるんじゃ。ワレが早う戻っとりゃ、こんな事にはならんかったんじゃぞ」
 と凄い剣幕で拳を上げたが流石に叩かなかった。
「今、此処で私を疑うのは結構です。幾らでも疑がって下さい」
「でも、一刻も早く美和様を助け出す事が先決です」
 与作は怯まず真剣な目で訴えた。
「溺れる者は藁をも掴む」心境の主人は、しょうがないと思ったのか
「持って来い」
 と奥様に命じた。早速、奥の美和の部屋に駆け込むと長襦袢を取り出して来た。
 与作は黙って其れを受け取ると、部屋を出る前に
「店の中に内通者が居るやも知れません。此の事は一切誰にも内緒にしておいて下さい」
 と言いつつ急いで出て行った。与作が部屋を出て行った後
「なんじゃ、あのボケカスは!偉そうな事を抜かしおってからに」
 だが夫婦は後は全く無気力状態で畳の上にへたり込んでしまった。
 奥様も流石に与作の頭を殴った事には沈み込んでいた。与作だって、美和の事を心配した上で何とかしょう思ってやった事なのにと反省し、そして誰に言うともなく呟いた。
「美和を助けて ! 」
 与作は長襦袢を受け取ると布袋に入れ、外で待っている鉄と玉に、
「さあ、行くぞ」
 と促した。
 処が鉄も玉も与作をジイッと見つめている。
「どうした、何か有るか」と目を確認してみると低くなれと催促している。膝を折ると顔を舐めて来る。先程、奥様に火箸で殴られた時の傷で血が滴り落ちていたのだ。
「有難うよ、でも別に大した事は有りゃせんよ」
 と手拭いで拭いて落とした。額に小さなたんこぶが出来ていた。
 早速、店の程近くで、春三が倒され美和が誘拐された路地裏の現場にやって来た。
 何と鉄と玉には襲われた現状が直ぐに推測できたのだ。そして即座に犯人二人と美和様の臭いを嗅ぎ分け追跡態勢を整え出したではないか。
「ふ~ん、此処か。えらく近い処で大胆な犯行に及んだものよのう。此の路地の両隣は藩の武家屋敷じゃのにな」
 此奴等の首謀者や美和を連れ去った二人組みの犯人は、地の人間じゃないとすぐに推測が付いた。
 布袋から長襦袢を取り出すと鉄と玉に匂いを嗅がせた。
「此れが美和様の匂いじゃ、宜しく頼むぞ」
 と言うとお互いに張り合う様にじっくりと匂いを嗅いでいる。
「分かったな。よし行くぞ」
 日頃、炭焼き小屋の近くの山中で鉄、玉、ラー助が食べ物や手拭い、手袋などを隠して取ってこさせる宝探し競争をやっているのでお手の物で有る。
 近場の嗅覚ならば玉も並外れたものが有った。だが鉄は人間の感覚では到底及びもつかない、狼犬独特の恐ろしい程の嗅覚の持ち主で有った。
 案の定、すぐに地面に鼻を押し付け、嗅ぎ分ける様に歩き出した。玉も可愛いいもので分かっていたかどうか同様の素振りで並んで同道していた。
 誘拐されて、まだ時間がそんなに経っておらず、風も無く良い天気ときている。嗅ぎ分けるのには都合が良く歩く速度は早かった。
 街灯が消え、人通りも途絶えた真っ暗な街中を抜け、小さな橋を渡ると一面、田んぼが広がっている。その中にポツポツと農家が有り、ぼんやりと障子越しに薄明かりが漏れている。カタカタ鳴る水車小屋の前を通り過ぎて行くと細く小さなあぜ道だ。
 空は三日月に雲がかかっており辺りはよく見渡せない、然し、与作は夜目が効くので提灯など明かりは全く要らず、鉄、玉、同様で不自由しないのだ。
 暫く、なだらかな田畑の中の道を進んで行く。十町は来たで有ろうか、やがて低い山の麓の近くに辿り着いた。目の前に白壁の塀に囲まれた大きな一軒家が有るではないか。
「何じゃ此処は!」
 約三年前に出来た薬種問屋、深澤屋の別邸だ。三次の町に昔から有った浅田屋の競争相手で四、五年前から進出して来ていた。
 とかく代官所との繋がりが有るのではと黒い噂が立っていた。
 正面から後に回ると同じ敷地内に小さな小屋が有り、暗い夜更けの中、鉄が立ち止まった。
 今夜は母屋に誰も住んでいる様子が伺え無い。
 すぐ横を見ると小屋の前で浪人者らしき二人が見張りをしているではないか。
「此の中なんじゃな、鉄、有難うよ
 玉も同じ様に付いて来た。
「玉ちゃんもようやってくれたな」
 頭と首筋を撫でながら優しく褒めてやっている。
 鉄も玉も自分達が与作の為になっている事が嬉しくて堪らないのだ。
 与作は此の近辺の下見をしだした。別邸の周りをぐるりと歩くと、さらに四方に目を凝らした。少し広い道を西に進むとお寺さんが有る。すぐ近くだ。
 此処へは何年か前に、専正寺の使いで一度来た事が有り、庫裏の中に入って行き和尚様に会っている。
 もし美和様を連れ出し匿って貰うならば此処しか無いで有ろう。
 さらに、屋敷の壁伝いに裏に回って見ると、 北側の奥まった小さな離れの部屋に明かりが見える。多分、此の屋敷を管理している下男が居るので有ろう。
「ははあ、此れは深澤屋が二人組みが誘拐して来た美和と知っていて匿っているな」と悟った。
 座って待っている鉄と玉に近づき「ボチボチやるぞ」と態度で示すと、ランランと目が輝き出した。
 小屋の前では、浪人者が松明の明かりの下で、のんびりと七輪の上で鰯の丸干しを焼いている。其の場に徳利が五、六本転がっていた。
「玉ちゃん、頼むよ、行け」
 暗がりからノコノコ歩き出し、七輪の前に近づいた。そして臭いを嗅ぎながら一人の目の前をウロチョロしだした。
 浪人は黒い猫に気を取られてしまい
「シィー、あっちへ行けぇ」
 と追っ払おうとした。処が玉も役者だ、七輪の丸干しを爪で引っ掛けて取ろうとするのだ。
 其の隙に、鉄は木戸の隙間から中へ忍び込んだ。
 蝋燭の薄暗い明かりの下、小さな部屋に美和は猿ぐつわをかまされ後ろ手に縛られていた。
「長襦袢のお嬢さんだ」 
 鉄にはすぐに分かった。
 浪人達は、まさか、こんなに遠く迄、誘拐されて捕らわれている美和を、見つけて来るとは夢にも思っていなかったので有ろう。全く油断しており、退屈そうに酒を飲み徳利がゴロゴロ転がっていた。
 真っ黒い大きな犬が音も無く中に入って来た時、美和は一瞬、ドキッと驚いた。
「えゝ、何でぇ」
 然し、ジィ〜と美和を見る目は優しく、尻尾を一杯振りまくるのだ。顔つきは恐ろしいのだが、舌を出して甘えた表情で、本当に地獄に仏の心境で有った。
 即ぐに近づいて来ると、後ろ手に縛られていた縄を簡単に噛み切ってくれた。
 後は美和が自分で猿ぐつわを解いて、縛って有る足首の縄を解こうとした。だがきつくて足に食い込んでおり、其れを見て鉄はガリガリ小さく噛んで足を傷つけない様にゆっくり外してくれた。
「頭、いいね」
「でも何よ、不思議な此の犬は。全然、知らない私を助けてくれている」
 鉄の目をみつめながら声を出さずに口で「有難う」と、合図し頭を優しく撫でると
「マカセトイテ、コイツラヲヤッツケルカラネ」
 と犬が言っている様に感じたのである。
「まだ、もう少し助けてね」
 鉄は軽く頷いた。美和の言わんとする事が言葉や素振りで分かるのだ。
 其れから、此処を抜け出す為に、小屋の外の浪人を気にしながら入り口を閉じてる閂に手を掛た。
 然し、押せども引けども美和の力では外れない。
 其れを見ていた鉄は協力しようと、二本足で立ち上がり大きな口で引っ張った。
 開いたはいいが「ガタッ」と音がしてしまった。
「しまった!」
 幾ら飲んで酔っ払っていても寝てはいない。
 美和は、一目散に裸足ですぐ浪人の目の前を通り抜けようと走った途端に後から肩を掴まれ引き倒された。
「キャー、助けてぇ! 」
 然し、次の瞬間だ。浪人者は悲鳴をあげ、もんどりうって倒れ込んだ。中から飛び出して来た鉄に思いっきり、両足を噛まれたのだ。そしてもう一人も追って来たが、後から飛び付かれ尻を噛まれて引き倒された。
 二人共、激痛がはしり立ち上がる事が出来なかった。
 暗闇の中でその様子を監視していた与作は、美和が外へ駆け出すのを見るや、先に下見していた、前方に有る寺を指差して鉄に案内してくれる様に目で合図した。後はうずくまって動けなくなった二人など敵ではない。役人に捕まえられる朝迄の間、眠って貰う為に峰打ちを喰らわせたのである。
 此の騒動は、田畑の中の離れた一軒家で有った為に、近辺の農家に聞こえる事は無かった。
 そして、鉄と玉は駆けて行く美和にすぐに追い付き、両側で挟む様に護衛しながら寺迄案内した。
 門を入って明かりの点いている庫裏の前迄連れて行くと静かに去って行った。
 山門の外で見ていた与作は出て来た鉄と玉に
「よくやってくれたな、鉄ちゃん、玉ちゃん。お嬢さんを助けてくれて有難うよ」
「ほんま、頭ええなあ」
 と褒めて頭や首筋を撫でてやると大喜びしている。
 処が暗がりでよく見えなかったが、近寄って見ると玉が何やら口に咥えている。
「玉ちゃん、そりゃ何じゃ」
 というとポトッと下に落とした。
 何と浪人供が食べ残していた丸干し三匹だ。
「何というやつじゃ。 こんな緊張した時にも一番冷静なのは玉ちゃんじゃな、皆んなに持って帰って分けて食べるつもりなのか。ラーちゃんにもやろうな」
 一方、美和は庫裏前で明かりの方向に向かって大声で叫んだ。
「和尚様、助けて下さい!」
 女性の叫び声に勤行を続けていた住職はすぐに飛び出した。
「ありゃ、浅田屋のお嬢さんじゃないか、どしたんじゃ!」
「とに角、中に入りなさい」
 裸足で駆けて来て血が滲んでいる。怯えて震えているのを見た和尚様は奥方を呼び二人で落ち着かせようと励まし続けた。
「大丈夫、大丈夫、此処にいる限りは絶対に安全じゃ、心配するな」
 奥様は肩を撫でながら優しく励ましている。
「美和さん、一寸、足の手当てをしようね」
 奥様は井戸から水を汲んで来ると桶の中で足を洗い傷薬を塗り込んでくれ、そして奥の部屋へ案内してくれた。
 暫く怯えていたが奥様の優しい声掛けと時が経つにつれ美和も段々と冷静になって来た。
「おい、今夜は一緒に付いて寝てあげてくれるか」
 と主人が頼むと
「えゝ、勿論そうしてあげます」
 美和の不安な気持ちを少しでも柔らげてやろうと住職夫婦は一生懸命で有った。
 翌朝、浅田屋では奉公人達が昨夜の事件の事が有り、沈痛な面持ちで各人とも仕事が手に付かなかった。日頃、一番先に起きて来る気の弱い主人は、具合が悪いと云い寝込んで仲々店先に出て来ない。ましてや奥様は昨夜から一睡もしていない様で目が真っ赤で有った。
 与作は昨夜、鉄と玉で一仕事を済ませてから、遅くに炭焼き小屋の自宅に帰り着いたが、今朝は何事も無かった様に朝一番に店に顔を出していた。
 何時もの様に箒を持って前の道の掃除を始めていると、誘拐事件の事を何も知らない近所の丁稚仲間が近寄っては、雑談を長々と始めては箒を振り回している。
 此の大変な事態の時に相変わらずの仕草に、店の中から出て来た番頭が、大声では無かったが
「馬鹿野郎!与作、えゝ加減にせんかい」
 丁稚仲間も、慌てて散り散りに各店に走り込んでしまった。
 他の者達も、苛立ちと怒りを与作一身に浴びせ「ボケ、カス、間抜け!」と罵りまくられた。中には箒を持って追っ駆け叩く者までいた。
 特に主人夫婦は、昨夜から続く恐怖と、与作の非礼な態度に怒りが頂点に達していた。
 店の中をウロウロする与作を見る度に
「此の馬鹿野郎!何をしとるんじゃ」
 と一挙手一投足が悉く気に喰わない。今にも「首だ、出て行け!」と叫びそうな雰囲気で夫婦揃って冷たい視線を浴びせていた。
 与作は昨夜の傷に小さな膏薬を貼り付けていたが、其れに奥様は何の反省の気持ちを一切、示さなかった。
 与作は店の中に居場所が無くて外で掃除する振りをしていた。
 すると、其処へ三軒先の呉服屋の店主がこっそりとやって来ると、とんでもない物を手渡された。
「おい、与作、うちの店先の側溝にこんなもんが落ちとったぞ。主人に渡してくれ」
 と、四つ折りにした紙切れを手渡されると、路地裏に走り込み、店の中の誰にも分からない様にこっそり開いて見た。やっぱり脅迫状で有る。
「一千両と引き換えに美和を引き渡す、代官所に届けたり変な事をすると殺す、又、知らせる」
 と云った内容の文面で有った。中身は左手で書いた様な汚い文字で、筆跡を隠すつもりなのか。又、何で美和の名前を知っていたのか、裏には糊の代わりに飯粒が付いており、与作は咄嗟に気付き小さな飯粒を剥ぎ取った。
 又、左手で文面を書くのに紙が安定せず右手で押さえたので有ろうか、其の時、墨を押し付けた指紋が付着しているのをはっきり見てとった。
 昨夜は遅く迄、何人も店に居残り玄関先は開けたままになっており、早朝に誰かが貼ったものと思われた。
 夜半から何度も突風が吹いており、剥がされて飛んでいったもので有ろう。
 此れは確実に浅田屋の身近な者が書いた仕業に違い無いと思った。
 与作は何喰われぬ顔をして店の別棟の奥にいた奥様に
「今、呉服屋の主人が来て、此れを手渡してくれと言われました」
 と声を掛けると、紙を引きちぎる様に取り上げ、一読した途端
「お父さん!」
 と叫びながら主人がウロウロしている奥の部屋に走り込んだ。
「何じゃ、又、厄病神が来やがったんか!」
「与作がこんなもんを持って来ました」
「一寸、貸して見いや!」
 主人は脅迫状の文面を見て、一千両の身代金の額に目を、白、黒させて卒倒し掛かった。
「お父さん、大丈夫ですか!」
 と側に駆け寄り支えたのである。
 与作は此の様子を障子戸の向こう側で伺っていて気の毒と思ったが、とに角、足早に其の場を立ち去った。
「あいつが犯人じゃないんか!」
 と主人の大声が店の帳場付近まで聞こえてきた。
 店先で開店の準備をしていた、番頭や手代までもが首をすくめていた。
 何はともあれこの事が他人に知られてはならない。気丈な奥様は、店を飛び出し呉服屋の店先に駆け込んだ。主人を呼び出すと
「実は、昨夜、稽古事の帰りに美和が拐かされました。さっきの紙は脅迫状で、変な事をすると殺すと書いて有りました。絶対に誰にも話さないで下さい、お願いします!お願いします!」
「分かりました。絶対に誰にも喋りませんから」
 短かい時間の間に度重なる不幸な出来事に、主人は布団を被って寝込んでしまった。
 気丈なのは奥様だけで有ったが、如何せん手のうち様が無い。そうかと云って開けた店を閉める訳にもいかない。
 晩秋の肌寒い空気のこの朝、本通りを歩く人々の吐く息が白い。
 商店街も各店の丁稚供が、かじかむ手で暖簾を掛け始めた。やがて人の流れが段々と増えはじめると街中に活気が出て来だした。
 此の季節になると郡部から暗いうちから出て来て、まとめて買い物をする者が多い。秋の取り入れを済ませて一段落した農家の人々が、大きなビクを背負いながら繰り出すのだ。
 小祭りと云われる此の時期は、雪の降り出す少し手前で、長い冬を越す為の準備に取り掛かる 。
 国境にある赤名峠は七曲りの大雪の降る処で出雲街道とは名ばかりの難所で有った。
 此の時は、村人の何人かが協力して衣類、薬品、保存食等を仕入れに来るのだ。其れに年に一、二度の芝居見物を兼ねながら楽しみ半分で出て来る。
 そうした人達が朝一番に店の中に入って来た。
「いらっしゃいませ」
 と番頭や手代の威勢のいい声が店内に響いた。
 いかにも田舎者と分かる人達に、何処から来たかと尋ねると、赤名峠を越えて来たと云う。
「道中、朝早くから出て来られ寒かったでしょう。お茶でもどうぞ」
 一寸した心遣いがお客様を和ませる。此れも丁稚供の役目なのだ。
 其れから店先も活気を増しだした。一刻、経った頃で有ろうか、数あるお客様の中にお寺の小僧さんが入って来た。
「いらっしゃいませ」
「すみません、和尚さんが風邪を引いて熱が出ました。薬を下さい」
 応対に出た番頭は、此のお寺さんは、日頃、奥様が婦人会の寄りで懇意にしているのを知っており、呼びに行こうと思ったが、美和様の件が有りどうしたもんで有ろうかと思案していた。
 其処へ、たまたま、近くの親戚に美和の事で、相談しに出掛けようと思って店先に出て来た奥様とバッタリ出会した。
「あら、いらっしゃい。和尚様の具合が良くないんですか」
「はい、熱が有るようです。此れ下さい」
 と紙切れを手渡した。
「承知しました。暫くお待ち下さい」
 其れを受け取ると奥様は調剤部屋に入って行った。
 主人は相変わらず布団を被って寝込んでいる為に、止む終えず、自ら調合しょうと紙を広げて一読した。
「ウワァ〜」
 其の中身を見ていた奥様は腰を抜かさんばかりに驚き奇声を発した。
 此の声に、何事かと店先の番頭が駆け寄って来た。
「奥様、どうされましたか!」
「いえ、何でもないのよ。一寸、滑っただけよ」

 〜美和様は何事も無く、救出され寺で匿って上げています。安心して下さい。ただ、今すぐに帰ると身に危険が及ぶやも知れません。浅田屋さんは暫くじっとしていて下さい。又、連絡します〜

 と和尚様が書いた文面が認めて有った。
 奥様は其れを何度も何度も読み返した。
「嘘、嘘、冗談でしょう。何でお寺に居るのよ」
 とに角、心の中で自問自答していた。そして喜び勇んで奥に駆け込んだ。
「お父さん、此れ!」
「何じゃ、馬鹿たれ、騒々しい!」
 床に臥していた主人は又、脅迫状が来たと思い込んでいたのだ。
「ちょいと読んで下さいよ」
「そんなもなぁ読めるか」
「ワシャ、寝る!」
「お父さん!違いますよ」
 と奥様は寝ている主人の目の上で紙を広げると
「ウゥン?」
 其れを読むと、パッと顔が明るくなり、現金なもので急にガバッと起き上った。
「ワシが出る!」
 と調剤室に駆け込み、見せ掛けだけの薬を調合して、店頭で待っている小僧さんの応対に出て来た。努めて冷静さを装いながら
「何時も有難うございます。処で熱が有るそうですね。丁度いい薬が入りましたから飲ませて上げて下さい」
 和尚様は小僧さんを使いに出す時、一切、本当の事は何も知らせていないのであろう。
 大事そうに薬袋を持って帰って行った。
「和尚様にはゆっくりお休み下さいとお伝え下さい」
 と丁寧に見送りをしていた。
 そして急ぎ奥の部屋に駆けり込んだ。
「母さん!母さん!良かったのう」
「お父さん!」
 奥様と手を握り合い涙を流しながら喜び有っていた。
「よかった、よかった。美和の無事が一番じゃ。金なんかはどうでもええ」
 奥様も此の主人の言葉を聞いて、一人娘の美和が浅田屋にとって、如何に大切な存在で有るかを知った思いであった。
「じゃがな、どうして美和が無事にお寺さんにおるんじゃ」
「私に分かる訳がないでしょう」
「そりゃそうじゃ、なんでお前の仲のええお寺さんに駆け込んだんかのう。まぁ其の内に分かるじゃろうて」
 然し、まだ誰が書いたか脅迫状の件が有るので、其れ以降の時間は、与作が言った様に店内に内通者がいるやも知れず、誰にも気付かれない様に沈痛な面持ちで仕事を続けていた。
 だが此の時も、与作が犯人の片割れではないかと夫婦で疑っていた。
 一方、誘拐現場では、朝早くに近所の百姓が、深澤屋の別邸のすぐ側の畑に鍬を持って野菜を採りに出掛けた処、小屋の内外に浪人者が倒れているのを見つけた。
「此れは大変だ!」
 とすぐに近所の農家に駆け込み、役人を呼んで来る様に頼んだのだ。
 だが現場と代官所を往復するには時間を要した。
 其の頃には、近所の住人が多く集まり遠巻きに高みの見物をしていた。
 此の時もまだ二人は気絶したままで、周りの皆んなは死んでばかりいるものと思っていた。双方の足は血まみれで有ったが既に固まっており、どす黒くなっていた。
 小屋の扉の閂が抜けており、中には切れた縄と猿ぐつわをした様な白い布、其れに若い娘用のかんざしが落ちており、此れは女性が監禁されていたに違いないと誰もが感じていた。
 役人が到着するのに時間が掛かった為に、多くの住人が事前に誘拐現場を覗き込んで見ており、勝手に犯人推理をし、野次馬根性丸出しの状態で有った。
 此処の現場のすぐ裏手には下男がおったであろうに、此れだけの事件で大騒ぎをしているのに一切顔を覗かせる事は無かった。
 そうした処にようやく四、五人の役人が到着した。
「どけどけ!ワレ等、邪魔じゃ向こうへ行け!」
 役人が実況検分を始め出した。
「オウッ、此奴等、まだ息が有るじゃないか」
 倒れた側には 五、六本の徳利が転がっており、七輪の上には焦げた丸干しが残っていた。二人からは相当の酒の臭いがしている。
 暫くそこら辺を見分をする様に歩き廻っている。やがて集まって来ると
 一人の古参役人が、大声で、さも得意そうに推理を始め出した。
「酒の飲み過ぎでフラフラになり、野犬に襲われて咬まれて気絶したんじゃろうのう」
「足の怪我から見て間違いない」
「此奴等が勝手に住人が留守の間、此の小屋を利用したんじゃろう」
「然し、捉えられとったと思われる女は何処へ逃げたんかのう」
「オイッ、お前等、ここら辺に女がおった痕跡が他に何か有りゃせんか」
 と他の役人に尋ねると、皆んな首を振っている。
「そうか、誘拐した此奴等が気絶しとる間に自分で縄を解いたんだろうな」
「よし、此奴等を縛って連れて帰るぞ。牢の中へぶち込んどけや」
「後、白状さしたるわ」
 とに角、大きな声で状況を説明するものだから、遠くから見ていた百姓町人に話しが全部筒抜けなのだ。
 然し、かなりいい加減な役人達で有る。
 美和が拉致監禁されていた小屋の中に、七輪や火鉢があり徳利まで転がっている。犯人達が始めから勝手に忍び込んで、こんな物を用意出来る訳が無い。誰かが差し入れたものに違いないのだ。明らかに裏手に住み込んでいる下男と思われた。
 だがそんな事には全く探索もする気が更々無いのだ。
 そして、帰り際、犯人に縄を掛け引き連れようとしたがまだ気絶している。そこで乱暴にも浪人者に頭から大きな桶で冷水をぶちかけた。
 だが其れでも目を覚まさない。
「ワレ等、何時迄寝とるなら」
 こん棒で顔から身体までを思いっきり殴っている。此れにはさすがに意識を取り戻した。
「引き揚げじゃ、朝早うから手間を取らせやがって」
 浪人者の二人は後手に縛られ、ちんばを引きながら役人達に追い立てられ、代官所の方に向かって歩いて行った。
 美和が駆け込んだお寺の和尚は、実況検分の一部始終を高い鐘撞堂の上から見ていた。
「ははあ、あいつ等が美和さんを誘拐した犯人だったのか」
 然し、どうして浅田屋の商売仇の深澤屋の別邸の中で、事件が有ったんだろうかと思ったが、和尚には一切、何も経緯が分からなかった。
 美和に付いては、たまたま子供の頃から知っていた。  
 此処の光照寺と浅田屋とはかなり離れている。檀家では無かったが浅田屋の妻と此の寺の奥様が子供の頃から仲が良く、従姉妹同志で親戚付き合いをしており、その為、しょっちゅう美和を連れて来ていたのだ。
 今も婦人会の世話をしており繋がりが有る。
 まあ、犯人が捕まったので、美和さんを帰していいものかどうか、浅田屋に相談してみようと昼過ぎに、又、別の薬が欲しいと講釈を付けて小僧を使いに出した。すぐさま、浅田屋の主人は裏口に駕籠を呼び、店の誰にも分からない様に寺に向かった。暫くして境内に着くと和尚と奥様が待っていた。
「和尚様、奥様、有難うございます。此の度は迷惑をお掛けしまして本当に申し訳けございません」
「何の、何の、無事でよかったですなぁ。さあ、美和さんが待っておられますよ」
 と庫裏の方に案内してくれた。中から出て来た美和は余程嬉しかったのか主人の懐に飛び込んで来た。
「お父さん!」
「美和!」
 と泣き崩れた。父娘とも泣きながら暫く言葉にならなかった。
「おうおう、無事で良かったのう。心配しとったよ」
 ありったけの涙を流すと漸く落ち着いてきた。
「此れもお寺さんのお陰です。本当にありがとうございました」
 美和も涙ながらにお礼を述べていた。
「私も、あの時、和尚様や奥様に慰めて貰えなければ気が違える処でした」
「然し、町中からかなり離れた此処まで連れて来られ、深澤屋の寮に拉致されとったのを、誰が如何して分かって美和を助け出してくれ、お寺さんに案内してくれたんでしょうか」
 と浅田屋が和尚様に尋ねると
「美和さんが今朝方言うには、犬と猫が助けてくれたと言うとられるが」
「ほんまか、美和!」
「はい、間違いなく黒い大きな犬と、真っ黒い猫が助け出してくれました。心優しい犬は、私に尻尾を振り振り優しい目を向けたまま縄を噛み切ってくれました。其れから夢中で逃げる時に、犯人に追い付かれ肩を捕まえられましたが、足に噛み付いて引き倒し、犬と猫が私を挟む様にしてお寺さんに案内してくれました。全く勇敢で頭のいい犬でした」
 此れを聞いた和尚様と主人は顔を見合わせた。
 二人共、全く信じられず誘拐された恐ろしさで、気が違えたのではないかと思ったのだ。だが其れはおくびにも出さなかった。
「そうかそうか、仏心の有る犬と猫じゃのう。此れも日頃の信心のお陰じゃのう」
 何はともあれ、何事もなく無事でよかったと安堵の表情を浮かべていた。
「時に、和尚様、まだ分からない事が有るんですが」
「其れは、何ですかいのう」
「実は、今朝方に誰の仕業か店の玄関戸に、こんなものが貼って有ったらしいんです。其れが昨夜の突風の為に、三軒先の呉服屋の前の側溝に飛んでって落ちとったのを主人が見つけて届けてくれたのです」
 と脅迫状を懐から取り出し和尚様に見せた。其れを読んでいたが
「此れは捕まった二人の浪人者が出来る事ではないぞ。此奴等は昨夜からずっと美和さんの見張りをしながら飲んどったからな」
「どう云う事でしょうかね」
「こいつ等は此処から一歩も離れてはおらんのよ」
「と云う事は、別に店の身近な処に内通者が居るやも知れんぞ」
 和尚様は早朝の犯人の逮捕劇を見ており
「犯人の主犯か片割れか知らんがまだ誘拐犯が捕まった事を知らんじゃろう」
「じゃから、此奴は又、脅迫状を投げ込むかもしれんぞ。浅田屋さん、とに角、今夜も美和さんの面倒を見るから安心していてくれるか」
「ご迷惑をお掛けしますが、何卒よろしくお願い致します」
 主人は美和を励ましながら帰って行った。
 一方、与作は浅田屋で何やかや騒動が有った一日を終え帰る準備を始めた。
 然し、実はこれから脅迫状を書いた犯人を捜さなければならない。
 誘拐犯の浪人者二人を代官所の牢の中に入れたので、後は此奴を炙り出さなければならない。そうしなければ浅田屋夫婦も美和様も安心して眠れない。
 与作は今夜も鉄を呼ぶには少し早過ぎた。時を潰す為に再度拉致現場に行って見る事にした。何か確証のある証拠物件があるかもしれないと思ったからだった。
 そこら辺を隈なく目を凝らして見たが何も得るものは無い。
「やっぱりワシ一人じゃ何も見つけられんのう」
 ならばと犯人達は何故此処を選んで犯行に及んだのかと思案してみた。
 此処は武家屋敷に挟まれた狭い路地道である。その一方は商店街に通じており誰の目にも晒されやすい、必ず犯人が目撃されてもおかしくない。という事は反対方向から侵入した事になる。その道を出た所は代官所に通じている。
 此処は誰が犯人でもます通らない。するともう一つ別れた道から侵入した事になるのだ。
 その道を暫く行くと何と深澤屋の通用門に突き当たる。表通りが正面玄関で商店街の西の一番端っこにあたる。浅田屋とはかなり離れている。
 其れであれば、美和が時たま通う稽古事の帰り道は何時も同じで襲いやすいのだ。
 与作は再度犯行現場に来てよかったと思った。
 其れから帰って来ると店先から犬笛を吹いた。感のいい鉄は今夜も何か有るであろうと、何時も帰りを待つ処より半分以上も浅田屋に近い場所迄に踵を向けていたのだ。
 すると速い速い、あっと云う間に足元に駆け付けた。処が玉が見えない。何時も並んで走って来るのだが、気まぐれな性格だから今日は来ていないのではと思いきや、鉄の背中からピョンと飛び降りた。
 共に真っ黒だからよく分からない。
「玉と云う奴は」
 嬉しそうに「ニャ〜ン」と甘えた声で鳴いている。
 小さな玉など鉄にとっては余りにも軽く楽々乗っけて来たのである。
 全く嫌がっていないし本当に仲良しなのだ。すぐに鉄も玉も早く、早くと催促するのだ。
「一寸、待っとれよ今取り出すからな」
 と言いつつ袋から小さな米粒を一つ取り出した。
「こんなに小さいのでも分かるかな」と浅田屋の玄関先の戸の下で包みを開いて臭いを嗅がせた。
「こりゃ、流石に無理じゃろうのう」
 今も昔からも言われる事だが犬、猫の嗅覚は人間の何千倍も有るといわれている。玉は特に食べ物に強く、鉄は全ての物に対して嗅覚を働かせる。其れも桁外れなのだ。
 だが鉄も玉も鼻を擦りあわる様に暫く嗅いでいた。だが玉の反応が早かった。
 何時も残り飯を食べさせているので、玉は特に大好きで、どんな小さな一つの飯粒さえも証拠として成り得るのだ。
「オイッ、此れで分かるんかい」
 日頃、山中でやっている近場での宝探し遊びでは玉のお手の物だ。
 暗がりの中、浅田屋の玄関先から出発していきなり駆け出した。角を二度回ったほんの短い距離で、近くの三軒長屋の奥の小さな玄関戸の前にやって来た。
 案の定、与作が睨んでいた通りの男の住まいで有った。
 事件があった翌朝のあの時、与作を追っかけ箒で叩いた男だ。
 此の男は、与作より大分先輩で、卸担当で三次から上下、庄原、東城方面に出向いていた。
 確か、東城村の出身ではないかと思ったが定かでない。東城は当時、三次よりむしろ繁栄していると思われ日本海、瀬戸内の海産物や鋤、鍬、鎌、鍋釜から刀剣等を作るたたら製鉄が有り陰陽交流の拠点地で有った。そうした場所に店を出させてやるからと声を掛けられたか、はたまた、何かの弱みを握られ、共犯を強いられたか、其れは与作には分からない。
「よし、鉄ちゃん、玉ちゃん、今日はこれで帰ろう。よくやってくれたな」
 鉄は「えゝ此れで終わり」と云う様な顔をしている。
 玉は与作の懐の中に潜り込み顔だけ出して勝ち誇った様な幸せそうな表情で有る。鉄も尻尾を上に巻いて体をくっ付ける様にして夜道を速掛けし、小屋に向かった。何と云ってもご主人様が一番なのだ。
「ラーちゃんが待っとるから早よう帰ろうな」
 翌朝、主人は早い時間にこっそり店を抜け出し、美和が心配で徒歩で寺に向かった。
「和尚様、何時迄もご迷惑をお掛け致しまして申し訳ございません」
「何の何の、美和さんも元気にしとられますよ」
「本当に有難うございます」
 と言いながらお礼の為の小包を差し出した。
「済まんですな、あんまり気を遣わんで下さいや」
「とんでもない。お世話のかけっぱなしで申し訳けございません」
「処で、昨日の浪人者は代官所の牢に入れられたらしいですな」
「はい、そう云う話しは聞いております」
「そうすると今頃は罪人として厳しい詮議を受けておるじゃろうて。直接手を下した奴等じゃけえ当然の事よのう」
「あれから浅田屋さん、何も繋ぎが来んのですか」
「はあ、一切、何の音沙汰も有りませんが」
「ハハァ、其れじゃ共犯の二人が代官所に捕まったのを知って今頃はビビリまくっとるな」
「主人が見せてくれた脅迫状を書いた犯人は、多分、店の中におるんじゃないかのう」
「私もそう思うとります。多分、出店をしてやるぐらいの誘いを受けたんじゃないですか。気の弱い奴でしょうよ」
「ただ此奴はうまく口車に乗せられただけで、美和さんには直接危害を加える事は無いじゃろう」
「美和さんも帰ってから暫くは外出せずに家族で目を光らせておく事じゃのう」
「分かりました」
「今日の昼からでも主人が美和さんと一緒に脅迫状を持って、代官所に出頭してみたらどうじゃろうかのう」
「店の者が共犯者なら代官所が追求したら、すぐに白状して捕まるんじゃないか。証拠になりそうな事が脅迫状に一杯有り、ワシでも読み取れたからのう」
「早速、美和を連れ帰り、その様に段取りをつけます」
 お寺さんは小僧さんを走らせ駕籠二丁を呼んでくれた。
 浅田屋親娘は大変お世話になったお礼を住職夫婦に述べて寺を後にし、昼前には店先に帰り着いていた。
 奉公人達は美和様の無事な姿を見て口々に「お帰りなさい」 と声を掛けている。
 主人と美和は玄関から中に入ると、何事も無かった様に皆んなに、にっこり笑いながら丁寧に頭を下げていた。
 後は、番頭を筆頭につとめて何もなかった様に振る舞い、店内は落ち着いた雰囲気で有った 。
 美和は廊下を通って奥の部屋にいた奥様の処に一気に駆けり込んだ。
「お母さん!」
「美和ちゃん!」
 二人は抱き合ったまま、ワンワン泣きながら後は声にならない。
 暫くの間、嬉しさのあまりに泣きどうしであった。
 やがて少しずつ冷静になってくると
「何も無く、無事で良かったね」
「うん、犬と猫に助けて貰い、後はお寺さんにお世話になっとったんよ」
「光照寺さんで良かったね」
「うちはね、春三と帰りがけに浪人者に暗闇の中で襲われて、鳩尾に当て身を食らわされて気絶したのよ。気が付いたら深澤屋の寮だったわ」
「両手、両足を縛られ猿ぐつわをかまされていたのよ。其処へ大きな犬が小屋の中に入って来て縄を噛み切ってくれたわ。そしてコソッと抜け出そうとして閂を引いた時に「ガタッ」と音がして犯人に気付かれ肩を捕まえられてね、其の時に犬が二人の脚に噛み付いて引き倒してくれて、その隙に夢中でお寺に駆け込んだのよ。
 その時も犬と猫が両側に付いてくれて庫裏まで案内してくれたわ」
「此れを和尚様とお父さんに言うと、私が気が違えたんではと言う顔をしていたわ」
「お母さんは信用できるよね」
「何処の犬と猫かね、うちには全く飼っとらんし美和ちゃんも知らんじゃろう」
「私も初めて見たわ」
「だけど、其れは必ず誰かが飼っとる筈よ。頭のええ犬じゃね」
「不思議な事じゃが、でも良かったよ、美和が無事で」
 其れから昼飯を親子三人で済ませると、
「母さんよ、今から行ってくるからな。きっと犯人を捕まえてくれるじゃろうて」
 暫くしてから主人と美和は一緒にそう遠くない代官所に歩いて出頭した。
 門を入って中庭を見ると誰も居ない。大きな声で
「お願いがございます。お取り次ぎ頂けないでしょうか」
 と声を掛けると、対応に出て来たのは下っ端役人で
「何用じゃ、ワシは今、飯を食うとったんじゃ後にせぇ」
 するともう一人が出て
「おい、何用じゃ、手短かに言えや」
 といきなり面倒臭そうで、ものぐさな態度で有る。
「お代官様にお願いがございます」
「代官殿は、御用繁多で町人供の話しなど聞いとる暇などないわい、ワシ等が聞 くけえ手短かに言えや」
「分かりました。実は一昨日の尾関山の麓の深澤屋の別邸で、誘拐監禁されていたのは娘の美和でございます」
「ワレか、朝早ようからワシ等の手を煩わせおって。眠たいのに叩き起こしゃがってからに」
「其れは其れはご迷惑をお掛けして申し訳け御座いませんでした」
「そりゃええが、親父!ワリャ今、何を言うたんじゃ」
「おかしいではないか。早朝に出っ張った時には現場に居なかったではないか」
「ほんまにあんたが捕まっとったんか。ワシもその場に掛け付けて行っとたんで」
「えゝ、本当でございます」
「其れでは、ワシ等が行った時にはお前は何処に居ったんじゃ」
「・・・ 」
「現場状況から見て、もしもお前だったら、縛られ、猿ぐつわを噛まされとったのに、どおして抜け出したんじゃ」
「其れは大きな黒い犬と猫が助けてくれたのです」
「何!今、何を言うた!もういっぺん言うてみいや」
「でも本当なんです」
 すると役人はこそこそ耳打ちをしだした。多分、此の娘は頭がおかしいのではないのかと思ったので有ろう。そして
「あのなぁ、浪人供は見張りをしながら酒を飲んでいる時、野犬に襲われ噛まれて朝方迄も気絶しとったんだぞ。其れが、どおしてお前は犬と猫に助けられたと言うんじゃ。浅田屋が犬でも飼うとるんじゃなかろうが。其れとも野犬が一方に噛みつき、方や、お前を助けたとでも言うんか」
「馬鹿も休み休みに言えや、おかしげな事を抜かすな!」
 此れには美和も二の句を告げられなかった。
 そして、次ぎに浅田屋が持参した脅迫状を役人に渡す間が全く悪かった。
 懐から紙切れを取り出し役人の前に差し出し
「でも、一昨日の夜中にこんなものが店の玄関先に貼って有りました」
 だが、役人は一切、中身を開けて見ようとはせず
「ワレが言うのは脅迫状じゃと云うんじゃろうが、馬鹿も休み休み抜かせ。遠く離れた処に居った浪人供が如何して書いて貼れるじゃ」
「どうせ、お前等、親子が後から取り繕った自作自演じゃないのか、ワレは役人を強請るつもりか」
「何なら牢へぶち込んでもええぞ」
 二人の役人は席を立って奥に引っ込んだ。そして中々出て来ない。
 浅田屋の主人は少々不安になって来た。お寺さんが言っていた脅迫状を代官所が見たら、簡単に共犯者を挙げてくれるだろうと思っていたが、全くの見込み違いもええとこだ。
 役人共は一切、見ようとしないのだ。ワシ等親子を気違い扱いにしゃがってからにと怒り心頭に発していた。
 然し、元はと言えば、美和の証言に有る。
 主人は不安な気持ちのまま美和の横顔を見つめた。頭が事件の衝撃で狂うたんじゃなかろうかと。
「う〜ん」
 だが、美和は涼やかな顔をし落ち着いて正座をしている。
「まともじゃ。でもどうして犬、猫が助けてくれたのじゃの理解不能な事を言うんかのう。誰がどう考えても訳くそ分からんで」
 主人は其の場で色々思案をしていた。そして暫く経って役人が出て来た。
「分かった、分かった、お前等の言う事には一々、付き合うてはおれん。あんまりおかしげな事を言うて御上の手を煩わせるな、こっちまで頭がおかしゅうなるわ、二度と来るな。帰れ!帰れ!」
 と言いながら今度は本当に席を立ってしまった。
 浅田屋親娘は、何ともやるせない気持ちで有ったが、如何せん相手が代官所だ。諦めざるを得なかった。
 其れにしても、仮に美和以外に他に捕らわれていた女性がいたならば探索するのが代官所であろう。それか事件を起こして、捕らえられて牢屋にいる浪人者二人に、誘拐した女は誰か正すのが筋であろう。其れをしようとはしない代官所に何かスッキリしないものが有った。
 反応の鈍い浅田屋の主人は何故、深澤屋の寮が犯行現場に利用されたかと言う事に対して、何の疑問も持たなかったのだ。
 三次代官と深澤屋が手を組んで仕掛けた事など、後々迄も知る由も無かった。
 代官所を出ると門前払いを喰わされた様な浅田屋は帰る途中、怒りが収まらず、大きな声で処構わず当たり散らしている。
「役人供の馬鹿野郎!ワシ等親子を気違い扱いにしゃがってからに」
「くそ腹の立つ下っ端役人め!」
「お父さん、お父さん、もういいじゃないですか、役人に何を言っても無駄ですよ。諦めましょうよ」
「いいや、ワシャ腹の虫が治らん!」
「其れよりもね」
「何じゃ」
「私は、捉われたが無事解放されて、こうして元気でお父さんと一緒に歩ける事が一番幸せなんです」
「そうか、そう言われてみると、そうじゃのう」
「 お前とこうして話しながら歩くのは、確か小さな子供の頃のお祭りの時以来かなあ」
「あの時、確か、かんざしとお菓子を買ってくれましたよ」
「よくもまあ、覚えておるなあ」
「お母さんばっかにお前の守りを押し付けてしもうたからな。ワシは仕事一筋で構ってやれなくてすまなんだなあ」
 此の美和の一言に主人は大分、救われた様な気持ちであった。
 懐かしい親娘会話をしながら歩いていて、あっと思う間に帰り着いてしまった。
 だが、まだ店に帰っても主人の怒りは収まらず玄関先で
「話しにならん、役人の奴等め、被害を受取るワシ等親子を気違い扱いをしゃがってからに」
 店先にお客様が居るのにも拘わらず、大きな声で不満をぶちまけている。
 余程、腹に据えかねたので有ろう。其のうち、怒りの矛先が与作の方に向いてしまい、番頭に大声で名指しはしないものの
「丁稚供をよう見張っとれ!」
 外で積荷の荷造りをしていた与作の耳にもはっきりと聞こえてきた。
 然し、此の声にも全く何処吹く風で有った。
 何はともあれ、其の日は美和様が無事で帰って来た事により店も平穏な一日を終わろうとしていた。
 何時も店に内緒で、一人者の与作が、二里半を駆けて往き来するのは腹が減るで有ろうと、残り飯を包んでくれる台所方の女中達が近づいて来た。小さな声で
「与作さん、店の中で内通者は「あいつだ 」と噂されているのを知っている」
「ヘェ、そうですか、知りません」
「まさか、与作さんでは」
「そう思いますか」
「全然!違いますよね。誠実で正直者の与作さんですから嘘に決まっていますよ」
「有難う」
「旦那さんが、代官所で犬、猫に美和様が助けられたと言ったら、役人に気違い扱いされた腹いせに与作さんに八つ当たりしているんですよね」
「其れどころか、もしかして助け出したのは与作さんじゃないの」
「そんな馬鹿な、買い被らないでくださいよ 」
「でもね、与作さん云うたら、後ろから見たらシャキッとして、まるで侍の様に風格が有るよ。正面に回ると面白い人だよね、フフフッ」
「何じゃそりゃ、褒めとるのか、けなしとるのか」
 此の女中さん達とは日頃仲が良く、弁当のお返しに松茸や筍、山菜等、山の季節の味覚をあげていた。
「処で与作さん、犬と猫を飼っているの」
「何で」
「何時も洗って返してくれる風呂敷にたまに黒い毛が付いている事が有るよ」
「すみません。ご迷惑をおかけしています。でも此れだけは店の他の者には絶対に内緒にしておいて下さい」
 事件が有ってから、美和が無事に帰って来てからは再度脅迫状も来る事は無く、店の奉公人達は詳しい事情を知る人間は誰一人として無く、安心感が広がり通常の静けさを取り戻していた。
 だが、主人夫婦は美和とは一日中常に一緒にいて、店の者に目を光らせていた。
 やっぱり一番警戒されていたのは与作で有ろうか。朝晩の挨拶や日中顔を合わせても、一切、言葉を交わせようともせず、冷たい視線を浴びせていた。
 入店以来続けていた美和様のお供も外されてしまった。
 其れから四日目の昼過ぎの事で有る。与作にとって衝撃が走った。
 例の美和の誘拐監禁事件での犯人、浪人者の二人が代官所に於いて処刑されたので有る。
 狭い三次の町にすぐに情報は広まった。代官所が云うのには、他にも多くの余罪が有り処刑に値すると云う事らしい。
 然し、おかしな話しでは有る。被害に有った人間が現場には居らず、殺された訳でも無い。其れこそ被害者不詳では拉致監禁が実証される訳が無い。実際には美和が被害に遭っているのだが気違い扱いをされ却下されているので二人にとって罪など軽いものなのだ。
 其れに深澤屋が代官所に申し立てた理由によると、留守の間に勝手に建物に侵入されて事件を起こしたと証言している。仮にそうで有ったとしても軽微な犯罪だ。
 其れが何故処刑されるのか。
 完全に証拠隠滅を図り、事件をうやむやにして揉み消そうと云う三次代官と深澤屋の腹の内だ。だが代官所以外の部外者にとっては証拠を掴む術がない。
 此の情報は、すぐに浅田屋でも知る事となった。此の時、与作は、店先で自分が今迄夜なべをして作って溜めていた草鞋を十束ほど店先に掛けていた。遠来のお客様に無料で提供する履物だ。
 丁度、其処へ呉服の三次屋さんが与作を見つけて手招きしている。
「おい、与作、美和さんはどうなっとりゃ」
「はい、元気にしとられますよ」
「へぇじゃが、ちっとも姿が見えんじゃないか。浅田屋が奥座敷に閉じ込めとるんじゃないかと世間の噂じゃでぇ。其れに人が言うのにゃとうとう狂うたんじゃないかと云うとるで」
「そんな事は有りませんよ。ただ、まだ親娘で警戒をされてはおられます」
「稽古事にも一つも出て来んと、うちの娘も云うとったからのう。其れならええんじゃが」
「処で与作よ、さっき聞いたんじゃが美和さんを監禁しとったと云う浪人者が処刑されたらしいで」
「何ですか、そりゃほんまの事ですか」
「代官所も嘘は言わんじゃろうて」
 与作は慌てて店の中に飛び込んだ。処がまだ主人も奉公人も誰も知る者は無く静かなもので有った。其れが知れたのは昼時の少し前に番頭が代官所近くまで薬の配達から帰って来て知れたのだ。
「旦那様、此の間の犯人が処刑されましたよ」
 大きな声で言うものだから、店中に響き渡ったが幸いお客様は一人もいなかった。
「何!そりゃほんまか、然しどう言う事なら」
「為して被害者もおらんゆうとるのに首を刎ねられるんじゃ」
「代官所の野郎は頭がおかしいんじゃないんか」
「旦那さん、声が大きいですよ。外へ聞こえますよ」
「そん事たぁ分かっとるわい!」
 此の時刻、小雨がぱらつき出したので与作は店内で雑用をしていた。
 共犯内通者と読んでいた奉公人の丸東は、此の日、地方への出張が無く伝票整理で店内にいた。
 他の奉公人達は此の話しで持ちきりで有った。
 与作は、何も知らない様なふりをしながらそれとなく丸東を見ていると、すぐに席を立って厠にでも行ったので有ろうか暫く帰って来なかった。
 やがて、戻って来ると自分の机に着いた。
 其の時、目が虚ろで焦点が定まらない。顔が青ざめ体が小刻みに震えているではないか。
「死人に口なし」と代官所と深澤屋が、あらゆる証拠を捏造して迄も強引に浪人二人を処刑に追い込んだ手口に来たからには、こちらが先に手を打ってやらねば、丸東は早めに消されるで有ろう。幾ら悪い奴とは云え、直接手を下したのでは無く、うまく口車に乗せられ利用されただけなのだ。
 今迄、同じ釜の飯を食った仲で有り、消されるのは忍びない。
 其の日、夕方に仕事を終えると、与作は、丸東の為に事前に書いておいた証拠固めの書付を用意した。
 此れがこんなにも早く活用しなくてはならないとは代官所も相当焦っているな。ならばこちらが先手を打って仕掛けてやらねばならない。
 戌の刻になり、店の近くから犬笛を吹くと凄い速さで鉄が駆け付けて来た。
 相変わらず声は一切出さず大喜びをしている。此の日は玉は来ていなかった。
 朝、出掛ける時に冷たい小雨が降っており濡れるのが苦手なのだ。
「玉ちゃん、今日は来んでもええからな。ラーちゃんと一緒にいなよ」
「二ャーン」
 すぐに聞きわけてくれたのだ。
 鉄は少々の雨はお構い無しなのだが、濡れるのは可哀想なので、小さな蓑を着けさせていた。
 幸いにも、帰りを迎えに来る時刻になると良い天気になっていた。鉄は上手に蓑を外して来ている。
 雨や雪の日などの時、与作に呼ばれる迄は洞穴を棲家としている。此処は鉄、玉、ラー助にとっては別天地なのだ。
 又、与作のいざと云う時の持ち物が隠して有る。
「鉄ちゃん、今から別荘に行って来るからな。大切なものを取って来るから」
 と言うと一気に駆け出した。
「よし!競走じゃ」
 処が全く話にならない。あっという間に見えなくなってしまった。物凄く速い、早馬などでも直ぐに置いていかれるであろう。
 暫く行くと心配そうに座って待っている。本当に優しい狼犬である。
 別荘から引き返して来ると
「鉄ちゃん、此の前の所に行くからな、後は宜しく頼んだよ」
 丸東の住まいはこの前に玉と一緒に顔を覗かせている。
 口に封書を咥えさせ、玄関戸の前に置いて来させる様に命じた。そして、戸に当たってトントンと音をさせる仕草を態度で示した。
「よし、行け」
 本当に頭が良くて与作の命令する事が理解出来るのだ。
 三軒長屋の入り口に走って行き、云われた通りに其れをやり一目散に帰って来た。
「有難う、有難う。一寸、様子を見とろうや」
 すると間も無く、さっきの戸を叩く音に気付いて、こっそりと戸を開けて中から顔を覗かせた。キョロキョロしながら、目の下に落ちているのを拾い上げると戸を閉めた。
 今迄にも何度か同じ方法で深澤屋の誰かと繋ぎを付けていたのだろう。
 だが、今、見ると余程ビビッているので有ろう。ましてや、直接面識は無いが共犯の片割れ二人が、簡単に抹殺されているのを聞かされて恐ろしくない訳が無い。
「よし、今日は此れでいいぞ。鉄ちゃん帰ろうか」
 鉄ちゃんは、えゝ此れでいいのと云う顔をしている。
「いいんだよ、此れで丸東の生命が救えるよ」
 封書の中身はこうだ

 丸東へ

 ・脅迫状を糊替わりに使って貼った飯粒で、凄い嗅覚の犬がお前の住まいを捜し当てた
 ・近所の聞き込みで事件が有った其の日、朝方早く走って行く音と帰って戸が 閉まるのを近所の住人が聞いている
 ・脅迫状を書いた紙は浅田屋専用の物と紙問屋が証明しとる
 ・右手の指紋がはっきり分かる程墨の跡が付いとる
 ・文中には備中訛りの言葉が書いて有る
 ・何故、美和の名前を知っていたのだ
 以上の様に丸東が書いた証拠が一杯挙がっとる。
 此れをワシが明日にも三次代官所に持って行けば、すぐにでも脅迫状を書いた丸東を捕まえて、有りもせん罪を被せて消しにかかるぞ。
 何と云っても代官所と云うより一番悪いのは三次代官でぇ、そいつが深澤屋と組んどるんじゃ。
 とに角、奴等はほんまにビビリまくるで、何で当事者で無いものが此処まで知っとるんじゃとな。其れこそ、古い時代から代々伝わる三次の物の怪じゃ。姿は見えないのに真相を皆、知っとる。奴等は自分らがやった事を世間に知られるのが一番怖いからのう。ワシも其の場で殺されかねん。
 悪い事は言わん、今すぐにでも、何もかも放ったらかして早よう逃げろ。浅田屋なんかどうでもえゝ、考えとったら殺されるぞ。
 ー三次の物の怪よりー

 次の日、与作は鉄と何時もの様に暗いうちから山道を駆けて下り、町中に入る手前で別れて浅田屋に到着した。
 やはり今日も一番早くに出て来ている。其れから主人も顔を覗かせ玄関戸を開けだしたので
「おはようございます」
 と挨拶してもウンもスンも無い。与作は苦笑いをしながら
「まぁ、いいっか」
 と箒を持って前の道の掃除を始めだした。やがて多くの奉公人達が出揃いだすと一斉に賑やかになりだした。
 今朝も各番頭による輪番制の朝礼の訓示が始まった。
「此の最近は、色々な事が有り、少なからず店の中や奉公人の間で動揺が有りましたが、此れもご主人の冷静な対応により盤石な体制に立て直しを図る事が出来ました。私達は浅田屋精神に則り、社会に為に貢献しようでは有りませんか。其れが店の為にもなり奉公人の為になり生活が安定する事になります。本日も頑張りましょう」
 浅田屋主人も此の言葉を聞いてさぞや、面映ゆい思いをした事で有ろう。
「ワシはビビリまくっとっただけじゃがのう。でも、えゝ奉公人を持って幸せじゃのう」
 其れから朝礼が済むと、何時もの如く朝の準備で、てんてこ舞いの忙しさになってきた。
 各地の小売店に送る荷物を大八車に積み込まなければならない。其の為の荷の仕分けで手代や丁稚は走り回される。
 丁度、其の時に庄原、東城方面に配達を指示する担当の本人がまだ出て来ていないのだ。
「どしたんじゃ、丸東は。まだ寝とるんか、二日酔いか」
「馬鹿たれ、ええ加減にせんかい!」
 と大声で怒鳴りまくっている。
「おい、与作、ワレが行って叩き起こして来い!」
「はい、分かりました」
 と即ぐに呼びに走り出した。といっても浅田屋の裏道のすぐ近く、三軒長屋に着いて玄関戸をドンドンと叩いた。
「丸東さん、与作です」
 幾ら叩いても返事が無い。やむを得ず戸に手を掛けると簡単に開いた。
 小さな部屋を覗いて見ると何も無いではないか、普段も荷物が少なかったが今は全く空っぽだ。
「よかった!」
 大きな風呂敷包みに、一括りにして持ち去ったのであろう。
「イエィ、イエィ!」と叫びながら与作は喜び勇んで店に走って帰って来ると
 先程の番頭に報告した。
「どうした、まだ、寝とったか」
「あのう、丸東さんは神隠しに遭って居られません」
「何い!馬鹿たれ、何をふざけとるんじゃ。ワレど突くぞ!」
 物凄い剣幕の番頭の声に店中はおろか、奥に居た主人迄もが飛び出して来た。
「どしたんじゃ、大きな声を出して、他所へ聞こえるで」
「すみません、与作が、神隠しに遭ったなぞふざけた事を言うもんですから」
「別に私はふざけてはおりません、ただほんまの事を言った迄です」
「近くですから、自分で行って確かめて下さい」
 とニコニコして云うもんだから番頭は更に頭に血が上った。
 然し、主人が目の前に居るもので、仕方なく膨れ面をしながら自分が確かめに行き出した。
「与作、ワレも大概にせえよ。首になりとうなかったら真面目にやらんかい!」
「すみません、今後、気をつけます」
 丸東を夜逃げさせる事により、生命を助ける事が出来て与作は、浅田屋で仕事をしている一日中、心が晴れ晴れとしていたので有った。
 主人は、丸東が急に浅田屋を辞めた理由など全く知る由もなかった。
 然し、与作は仕事を終えて鉄と帰る道すがら自問自答をしていた。
「勝負はまだまだ此れからだ。三次代官と深澤屋は今後どう云う手を打って来るか、多分、色々仕掛けて来るで有ろうよ。ワシは絶対に悪者連中から浅田屋を救ってみせるからな」
「鉄ちゃん、今後も頼むよ!」
 鉄には与作の気持ちがすぐに伝わる、与作を見上げて
「マカシトケ」
「玉ちゃん、ラーちゃんが待っとるから早よ帰ろうな」

第6話 前代未聞! 丁稚奉公人の苗字帯刀

 与作は最初の頃、お師匠さんが何故に遠い奥出雲から三次藩の属城である八幡山城の志和地まで度々出っ張って来るのか理解出来なかった。其れに何度も長期滞在している。
 西国の山陽道、山陰道、其れに石見銀山の覇権を巡り大内、毛利と尼子が勢力争いを繰り広げていた。毛利元就の本拠である吉田郡山城と志和地八幡山城とはほど近く、可愛川を遡ると三里の道のりで、明光山の頂上に上がると相手の三つの城と陣地が全て見渡せるのだ。その最前線に接しているのが志和地だった。何年か後に可愛川を挟んで両軍が対峙する。三千の軍勢を率いて出雲街道を南下し赤名峠を超え、三次に入り八幡山城に陣を張り犬飼平の合戦へと進展していくのだった。その時の総大将が尼子国久公だったのである。
 こうした時に与作は大殿様と知己を得たのであった。
 だがこれだけの御方がその覇権の事に関しては一切、おくびにも出さなかった。
 お師匠さんは天下の大殿様という自尊心と誇りをかなぐり捨て、一人の男として与作や忍者一家と付き合ってくれたのである。
 マムシに噛まれて山中で死に掛かった時や、二度の襲撃事件にも忍者一家は強い味方になってくれ命からがら生き延びる事が出来たのだ。
 其れからはお師匠さんが、最前線の要衝の地を訪れる度に間道を抜けて炭焼き小屋に立ち寄り、その都度、毛利勢の戦死者の為に花と線香を手向けて供養をしてくれている。
 与作や忍者一家が留守の時は何時もお土産を置いていってくれた。
 時には与作が仕事休みなどの時は、お師匠さんは寂しい為に、何とか大将と忍者一家に会いたいと思い呼び出しを掛けて来るのだ。
 天守閣の窓からお師匠さんが顔を出して手を振ると、一里離れたラー助の松の木の高い寝ぐらから見えるのだ。到底、人間の目から考えると及びも付かない事であるが、其れをお師匠さんは面白半分にやる。するとラー助も其れに応えてくれる。美味しい物が食べれるからなのだ。これだけ遠く離れているのになんと云う
 視力であろうか。其れを見逃してしまった時の為に肉や魚をぶら下げて置くと気付いてくれる。
 その都度、書簡を取りに飛んで来させたり鉄、玉の為に美味しい物を包んで爪に引っ掛け持たせてくれるのだ。本日もお師匠さんは例の如く呼び出しをかけて来た。
 ~大将よ、今回はな、新しい警護の奴を二人連れて街道筋を抜けて来たんじゃ。それなりに腕は立つんじゃろうが実力が分からんのよ。ついては大将よ、一寸、腕試しをしてやってはくれんかのう〜

 〜ええそんなぁ、私にはそんな力が・・・~

 ~何を云うとる、ワシャな、若い頃は剣豪と云われとったんじゃ。其れが大将相手に四苦八苦しとるんで。其れも子供みたいな小刀でな。とに角、皆んなで来いや昼飯を一緒に食おうや〜
 
 こんな他愛のない連絡を、お師匠さんはラー助を使って仕掛けてくるのだ。其れを又、ラー助は呼ばれるのが嬉しくて堪らない。
 何しろ、ラー助の松の上の巣から常に城を見ており天守よりお師匠さんが手を振るのを待っているのだ。
「オイッ、鉄ちゃん、玉ちゃん今からお師匠さんのとこへいくか」
「ラーちゃんが知らせに来たで」 
 ラーちゃんの動きを知らない鉄と玉は大喜びだ。ラーちゃんも一緒に行こうと急かしている。
 昼前に道場に到着するとまだお師匠さんは来ていなかった。
 早速、鉄と玉が駆け出した。そして何時もの城から見えない所で静かに待っている。ほんの一時してお師匠さんと警護侍二人が細い道を上がって来た。
「オイッ、危ない!あの木陰に狼がおるで!デカイぞ」
「お殿様逃げて下さい!」
「こりゃ、狼狽えるな。鉄はどうもしゃせん」
 すると鉄はお師匠さんが見えだして大喜びだ。尻尾を振って駆け寄り甘えまくっているではないか。其れに玉も飛び出して来ていきなり懐に飛び込んだ。
「なっ、大丈夫じゃろうが」
 すると鉄は警護侍の足元にやって来た。此れには大きな狼犬に咬まれるのではとビビりまくっているではないか。
「オィ、たまげる事たぁない、包を渡しちゃれ。鉄が運んでくれるから」
 手に持っていた包を慌てて下に落とすと、口に咥えて先導する様に歩きだした。
「なんちゅう事じゃ」
 道場に着くと与作が入り口で待っていた。
「呼んで頂き有難う御座います。皆んな大喜びしております」
「オウ、大将よう来てくれたな」
 こんな挨拶をしている時、少し離れて付いて来た二人は
「オイッ、彼奴は何もんじゃ。何でお殿様は親しげに会うとられるんなら」
「ありゃ、ただの百姓、町人だぞ」
 と小声で話している。
 そして
「ご苦労じゃたのう、これでええから帰ってくれるか」
「でも!」「然し」
「此処は城の直ぐ近くで、何ぞあるか」
「其れではお付きの役目が・・」
「そうじゃ、お前等、丁度ええ処へ来た。道中が長うて身体が鈍っとるようじゃから、チョロっと立ち合い稽古でもして帰れや」
「其れで相手は誰ですか。まさかお殿様では」
「馬鹿たれが!ワシャ年じゃ。目の前に居ろうが」
「?」「・・・」
 与作の姿、形、身なりを見た時、二人はあっけにとられた。
「えぇ、何でこの男と稽古などをせにゃならんのですか。とんと、さんに掛かりませんよ」
「ほうか、まぁよいよい、一太刀でも指南してやってはくれんか」
 そう言われた二人は
「おまえ、一丁もんじゃれや」
「分かりました」
 最初の侍は与作を見るなり、全く舐めてかかってきた。棚の木刀を手にするなりビュンビュン振り回し威嚇する様に位置についた。
「怪我をせんうちに帰ったほうが身の為でぇ」
 そして与作はどれを選ぶではなく、小刀を手にし二、三度振ってから中央で相対した。
「オイッ、どこからでもかかって来んかい」
「分かりました。宜しくお願いします」
 ところが例の無念無想の姿勢である。
 審判を務めるお師匠さんは何時もの手でくると思った。
「オイッ、ワシを舐めとるんかい!」
「よしゃ!準備は出来たな」
 一呼吸終えると
「始め!」
 こんな相手なんざぁ一捻りよ、とばかり大きく振り被り上段から面打ちに突っ込んで来た。
 ところが次の瞬間
「勝負有り!」
 全くお師匠さんが最初に一本取られた手口と同様であった。
 お師匠さんは「フフフッ、ワシの時と一緒じゃな。じゃが次はその手は通用せんぞ」と心のうちで叫んでいた。
「次!」
 と促した。
 そして一時置くと、二人目が棚から一番太くて長い木刀を選び「エイッ!」「トウ!」と大声を発しながら素振りを繰り返している。
 相棒がお殿様の前で警護侍として大恥をかかされている。其れだけになんとか面目を保とうと非常に気負っているではないか。
「こりゃ駄目じゃ!」
 お師匠さんは、冷静沈着な大将を見ていて、即座に判断を下したのである。
「速うに出て来んかい!」
 急かせる様に二人目が血走った目をしながら相対した。
 処が一番驚いたのはお師匠さんだ。
 対戦した大将の構えは、お師匠さん自身も今迄に全く見た事がなかった。
 小刀を逆手にして右脇の下に挟み込み、左足を半歩前に突き出し中腰に構えた。
 こんな剣法などどの流派にも絶対にありはしない。
 二人の間に沈黙が流れた。
 然し、相手は心の中で葛藤していた。
「ウン、何じゃ?なんじゃ!」
「居合いじゃないんかい」
 お師匠さんも
「こりゃなんだ。どうするつもりじゃ」
 一瞬、胸の内で叫んだ。
 そして躊躇しながらも合図の声を発した。
「始め!」
「ト~ン」
 と床を軽く踏みしめた音がした瞬間
「勝負あり!」   
 案の定、相手は思考する間も構える余裕もなく、勝負は一瞬にして決着がついた。
 完全に機先を制されたのだ。
 与作がこの構えをした時、完全に目は大きく穏やかに見開いて相手を凝視していた。この時、既に狼狽する相手の心理状態を捉えていたのである。
 そして相手がまばたきをした瞬間、逆手に構えていた右手首を返し、左足を更に半歩前に突き出し体制を一段と低くし踏み込んだ。
 相手は自分が握った木刀を、如何様にも構える事が出来ず、突っ立ったまま動く事が出来なかった。
 眉間に触れた小刀の切っ先を寄り目になりながら、一声、低く唸り声を発した。
「ウゥ・・・ン」
「凄い!」
 お師匠さんは叫んだ。そして暫く沈黙の後
「お前等、これが戦場だってみぃ、完全に殺られとるぞ」
 二人はお師匠さんの前に駆け寄り平伏した。
 そして
「お殿様、警護侍として何の役にも立たない不甲斐ない私共をお手討ちにして下さい!」
「申し訳け御座いません」
「馬鹿野郎!何をつまらん考えを起こしょるんなら。そんな気持ちが有るなら更なる鍛錬をする気にならんかい。腹を切る様な事をしょうると、其れこそ絶対に許さんからな」
 二人に安堵の表情が浮かんだ。
「とに角じゃな、油断大敵じゃ。相手の身なり風体で判断をするな」
「分かりました」
「お前等は若い。此れからも心身共に鍛えてええ藩士になってくれるか」
「実を言うとな、ワシは与作殿をどうして大将と呼ぶか分かるか。あれは三次へ来てから出会い最初の頃に試合をしたんじゃ。その時、ワシは全く舐めて掛かったが居合いで完全に一本取られたんじゃ。ハハハ!」
「其れとな文武両道に優れとってな、常に何時も精進しとる」
「まあ、そういう事でな、今日の事はワシとお主等の内緒事にしとこうで」
「お殿様の配慮、有り難う御座います」
「気を取り直して帰らんかい」
「はい!」
 そう言われた二人はそれでも肩を落とし意気消沈しながら剣道場を立ち去った。
 城門に差し掛かった時
「ヨイヨイ、キニスナオマエラ」
「ウン?」「・・・」
 声がしたほうを振り向くとラー助ではないか。
「なんちゅう事じゃ!」
 とに角、二人は志和地に来てから忍者一家に度肝を抜かれ放しであった。
 お殿様の優しい心をラー助は伝えに行ったのである。
 後は何時もの長閑な空気が流れ鉄、玉、ラー助が板の間を走り回っている。
「オウ、一寸待て皆んな、今から競争じゃ。其れが済んだら飯にするからな」
「ヤレ、ヤロ!」
 なんじゃ、ラーちゃんそれは」
 と言いながらお師匠さんは広間の押入にあった「おじゃみ」をニ十個程取り出してきて、其処ら中にまいた。
 此れは特に忍者が相手に投げつける目潰し用の小袋道具の事だ。
「ええか、誰が一番早うに仰山集めて来るか競争じゃ」
 毎度する事だが飽きもせず、忍者一家は嬉しくてたまらない。
「始め!」
 先程の号令と一緒だ。
 各自、一斉に走り回っている。上空とは違い狭い道場の中、ラー助も走っている。
「ありゃ、ラーちゃんも結構走れるんじゃのう」
「足は強いですよ」
「然し、何遍も滑り転けとるがご愛嬌じゃのう」
 玉の動きがやはり一番軽快だ。其れに頭がいいから近場から攻めていく。鉄は毎度の如く勝つ気など更々になく、玉とラー助をのんびりと走りながら優しく見詰めている。猫とカラスの対決だ。ラーちゃんも始めは走っていたが何度も滑り転ける為に最後は飛びだした。こうなると先へ先へと飛ぼうとする様になって無駄足になってしまう。
 結局は玉の圧勝になってしまった。
「玉ちゃんの勝ち!」
「然し、大将は策士じゃのう」
「どうしてですか」
「そりゃな、最初の勝負の時はじっと目を閉じて焦らし作戦の居合切りじゃ。二人目には眼を大きく見開いての瞬間的な脇の下剣法じゃ。そりゃ相手も戸惑うわ」
「メシワマダカ」ラー助が叫んだ。
「すまんすまん、其れじゃ頂くぞ」
「いただきまぁす」
 の合図とともに何時もの様に一斉に食べ始めた。
「然し、何時もの事ながら皆んな凄い事じゃな」
「オチャオチャヌカセ」
「なんじゃこりゃ。ほんまラーちゃんは楽しいな」
 お師匠さんは何時もの様に酒をひょうたんの容れ物に入れて来て呑み干している。飲んで酔っ払った後は陽気でダジャレを飛ばし、例によって子供のように鉄、玉との駆けっこである。
 与作は此れがほんまに大殿様かいなと思うほど無邪気であった。
 然し、お師匠さんは散々、走り回った後にとんでもない事を口にしだした。
「大将よ、ワシは悪い事をしたな。すっかり忘れとったよ」
「何ですか。お師匠さん、何も全然してませんよ」
「いや、与作殿を大将と呼んどるのに、其れ相応の事は一切しとらなんだ」
「其れはお師匠さんが勝手に付けたんじゃないですか」
「そりゃそうじゃ」
「じゃけん今日から苗字帯刀を差し許す」
「何ですかそれこそ。要りませんよ。私みたいな町人でしかも百姓あがりですよ。そのうえに世間的に一番最低の丁稚奉公です。天地がひっくり返っても有り得ません。仮にそうなったとしても絶対に侍になどなりません」
「そりゃよう分かっとる。じゃがのう。与作殿はいずれ世の中になくてはならない人間になる男じゃ」
「そんな、買い被らんで下さいよ。私はただの丁稚ですから」
「うんにゃ、必ず日本國中の役に立つ男じゃ」
 此の一言に「今日はえらい悪酔いをしておられるな」ぐらいの軽い冗談としか考えていなかった。
「ワシは与作殿に今、先行投資をしておくで」
「でもこっちは初めから破産した様な丁稚ですが」
「茶化すなや。ワシャほんまに大真面目じゃ」
 すると、お師匠さんは大小二本差しの内、小刀を抜き取り前に差し出した。
「大将は長いのを使わんかったから此れを受け取ってくれ」
 此のあまりの行為に与作は腰を抜かさんばかりに驚いた。お師匠さんは全く本気の様だ。
「とんでも御座いません。天下の大殿様の腰の物を頂戴するなど誠にもって畏れ多い事で御座います」
「おいおい、其れを言うなと約束したよな、互いに二人の仲じゃないか」
「然し・・・」
「備前長船じゃ。大将よ、心配するな。こんなもなぁ鍛冶屋に打たしゃなんぼでも出来る」
「気休めを言わないで下さいよ」
「頼む!受け取ってくれるか。そして御守りで持っといて欲しい」
「分かりました。でも其れは堪えて下さいよ。私にはあまりにも不釣り合いですわ。其れに家紋が打ち込んで有り物凄い拵えじゃないですか。其れこそ安いのをしつらえて下さいよ」
「何を言うとる。男が一旦、口にした事をひっくり返す訳きゃなかろうが」
「すみません。丁稚の浅はかな考えで」
「そうじゃ、そうじゃ尤もじゃ」
 とお師匠さんは鼻歌のようなダジャレを放ちながら豪快に笑い飛ばしたのであった。
「苗字帯刀の事たぁ三吉の殿さんに間違いなく言うとくからな」
「ほんま重ね重ね、有難う御座います。家宝として何時までも大切にします」
 因みに、此の当時に町民、農民が苗字帯刀を許されるなど有り得なかった。武家社会に於いては武士は当然、苗字を名乗り刀を帯びる事が出来た。然し、農民で一部の由緒ある名主(庄屋)や金に絡んだ藩の御用商人等は苗字を名乗る事は出来てもほんの数に限りがあった。ましてや帯刀は許されておらず併せて認められるなど有り得なかったのだ。其れも自藩内では通用しても他國に出れば一切通用しなかった。
「そりゃええが大将は、店を何時休んどるんじゃ」
「何でそんな事を聞くんですか」
「ワシも度々、三次に来るが八幡山城に泊まらず、たまにゃ炭焼き小屋に行きたいんじゃ」
「でも布団の無いのは知っとるじゃないですか」
「そんな物なぁ要りゃせんよ」
「鉄ちゃん、玉ちゃん、ラーちゃんが引っ付いて寝てくれるから大丈夫じゃ」
「其れでしたら月に十日毎に貰うとりますが」
「分かった。今度から出来るだけ合わせて来るからな。たまにゃ大将が仕事を終えてから一緒に帰ってみるか」
「そりゃ皆んな大喜びですよ」
「その時は城からラーちゃんを呼んでもええか」
「勿論ですよ」
「ラー助は何処におっても大好きなお師匠さんを直ぐに見つけますから分かりますよ」
「鉄と玉は別荘の近くにおると思いますから犬笛で呼んでみて下さい」
 其れから丁度十日経った頃、ラー助はお師匠さんが来る日をちゃんと知っている。
 朝方に庄原を出立した国久公一行は警護侍を伴い昼前には和知を右に曲がり馬洗川に沿って八次に入って来た。右手の山頂に比叡尾山城が見えて来た。
 例のややこしい地名の「やつぎ」は城の眼下の小さな集落で三次「みよし」の町の中にあるのだ。
「おい!お前たちは此の城は初めてか」
 二人は初めてのようだ。もう一人は一度経験があると言っている。
「結構、坂がきついど」
「難攻不落と言われとるが今時こんなものは要らん様な気がするがなぁ」
「城勤めをするもんの気持ちになってみいや。通いで下から上がって来るたびにヘトヘトじゃで。よくもまぁ四百年も続いたもんよ。馬は使わりゃへんしな、三吉の殿さんも引きこもりになるで」
「今は見てみいや、代官所なんかも平地の便利のええ三次の街中に集中しとるしのう」
「ご尤もで御座います。はい」
 比叡尾山城を眺めながら田んぼ道を歩いている時だ。
 突然、国久公目掛けて空から黒いものが襲って来た。
「殿様、危ない!」
 殿様を前後に挟む様に進んでいて後ろに付けていた警護侍が叫んだ。そしていきなり抜刀しながら近寄って来ると、前の二人も振り向いた。
「待て待て!大丈夫じゃ!」
「オシシヨウサン、キタカ」
「オウ、ラーちゃん見張っとってくれたか、まだ呼んどらんのによう此処が分かったな。有難うな、だんだん」
「ナンノナンノ」
 殿様の肩に止まったカラスとの会話に共侍は度肝を抜かれてしまった、そして一刻おいて大喜びに変わっていった。
「殿様、そのカラスは何ですか」
「ワシワラーチャンジャ」
「凄い!会話までしとる」
「ヨウキタノウ」
「ハハァ!、お殿様の連れでやって参りました」
「ヨイヨイ、コラドッコイショ」
「ほんま楽しいですね。殿様は何時の間にこんな事をされる様になられたんでしょうか。まるで物真似じゃないですか」
「 ウン、山の中で知り合うてからのう」
 そうこうして楽しい会話をしているうち一番下の山門が見えだした。
「オウッ、こっから先は真面目に行くで。あのなぁ、今あった事は絶対に誰にも喋るなよ内緒じゃ。お前等、バラすと切腹させてバラすぞ」
「冗談、冗談じゃ。げに内密にしといてくれえのう」
「分かりました」
「ラーちゃんよ。此処でな、もうええから後は別荘で待っとってくれるか」
「ワシニマカセトケ」
 と言って西の空に飛び立っていった。
 其れから国久公は本丸に入ると三吉殿と打ち合わせがあるのであろう。暫く城内に滞在した。其れに昼飯をよばれたのであろう。
 何時もとは違う時間に次の目的地八幡山城を訪れる為にまだ陽が高い内に下山して来た。
「お前たちよ、もう暫く行ったらワシは別々に行くからな。三人は下道の街道筋から行けぇよ。ワシは間道を抜けて行くから。其れに今晩は八幡山城には行かず明日の昼までには入る予定じゃ」
「お殿様、其れでは警護にならんじゃないですか」
「ええから、ええから後はワシに物凄い警護が付いとる」
 付きの共侍も、殿様の言う事が全く分からなかったが命令とあらば致し方ない。畠敷から馬洗川の浅瀬に架る橋を渡り田園の中を抜けると左手に若宮さんと言われる由緒ある神社の鳥居が見えて来た。今から四百年以上前に初代三吉兼連により勧進、建立され代々三吉氏から受け継がれ地元の人々に信仰され崇められてきた。
 又、この辺りは古墳群が多くあり古代に大いに繁栄した跡が残されている。
 やはり、三次の名の由来通り、みずよしと云われる川が幾つも有る事が生活する上で利便性を果たしていたのであろう。
 更に大昔に遡ると日本が誕生する前は海の底だった証拠が残っている。城の近くの切り立った山肌の地層から大量の貝殻が堆積している。其れに少し離れた比和村辺りでは、鯨の化石が見つかっている。
「ワシはこっから別々じゃ、気を付けて行けえよ」
「分かりました。其れでは一足先に失礼します」
 大殿様は包みを受け取ると左に曲がり山手に向かった。そしてやおら懐から犬笛を取り出した。別荘迄は間があったが試しに吹いて見ようと思ったのである。
「鉄ちゃん、頼むで!」
 するといきなり
「オシシヨウサン」と声がしてラー助が
 目の前に飛び下りて来た。
「やっぱりな。ワシをずっと見張っとってくれたか」
「ありがとさん」と礼を言った途端、飛び立っていったではないか。
「もう鉄ちゃんが来てくれたか」
 案の定、田んぼ道を駆けてくるのが見えて来た。そして間を置いて玉も後を追って来ている。
「おうおう、皆んな来てくれたか」
 幸いここら辺りに人家は無く大騒ぎしても気にならない。
 久し振りに会うので皆んな嬉しくて嬉しくて大喜びなのだ。
「大将が帰って来る迄別荘で待っとろうな。ワシャ行った事がないけ案内してくれるか。其れからご馳走を食べような」
 鉄も玉も競走する様に前を行き、鉄は風呂敷包みを口に咥え駆けて行く。何度も通る間道から少し入った所に別荘がある。到着すると此処だよと案内する様に
 先に玉が入って行くではないか。
 お師匠さんは大柄な為、腰を屈めて入ってみると以外に中は広い。
「オウ、こりゃあったかいのう。毛布まであるし、鉄ちゃん、玉ちゃん、ラーちゃん快適じゃないか」
 見ると腹が空かないように皿が三つ置いてあり食べ物が入っていた。以前に一度野犬に中を荒らされた事があったが鉄が追っ払ってしまい、全員で臭い付けをし縄張りを示し一切、寄りつかせないにしてしまったのだ。
「よしゃ、今から大将が帰って来る迄横になって休憩しとこうか。其れまで此れを食うとってくれ」
 と風呂敷を広げて包みを取り出し前に並べた。其れこそまた大騒ぎになり出した。
「いただきます」と声を掛けてやると一斉に食べだした。然し、夫々の違った動物なのに何でこうまで規律正しいのか、「ワシは同じ人間を一つにまとめるのに苦労をしとるのに、とてもじゃないが与作殿の人間性には敵わんなぁ」
 お師匠さんもさすがに疲れたのであろう。横になると即ぐに大いびきをかいて寝てしまった。今朝から五里近くを歩き通しだったのだ。
 お師匠さんを挟んで以前マムシに噛まれた時の様に鉄と玉は介護気取りで身体を寄せ合っている。
 一刻ほどお師匠さんは爆睡していた。
「おお、ワシャよう寝とったのう。玉母さんと一緒に寝とる夢を見とったで」
「皆んな有難うな」
 外を見ると日も陰り薄暗くなっている。
 その時だ。皆んな一斉に飛び出した。大将が呼んだのだ。
 勿論、お師匠さんには何もわからない。外に出て見ると駆け出して行くではないか。後を追って間道に出て来た。だが誰も居ない。暫くそこで待っていると
「ワンワン」 「ニャンニャン」「ガァガァ」五月蝿いほど騒々しく駆けて来るではないか。
「大将、お帰り」
「すみません、遅くなりまして」
「さっきはな、一刻、別荘で皆んなと一緒に寝とったよ。ほんまに我を忘れて気持ちように寝とったよ」
「其れじゃ、もう直接帰りましょうか」
「酒を五升買うて来ましたよ」
「丸干しにスルメは有るかいのう」
「ええ其れも買うて来ましたよ」
「ワシャ、此れが忘れられんのじゃ」
 見ると背中にビクを背負っているではないか。
「ワオゥ、嬉しいのう。帰ったら宴会じゃ、云うてもワシだけか。鉄ちゃんも玉ちゃんもラーちゃんもやろうぜ!」
「エイエイオー」
「どうぞどうぞ、心いくまで飲んで下さい。一応、酒の肴は揃えましたから」
 すると鉄が前に来て座るではないか。
「鉄ちゃんも運んでくれるか」
 与作はビクを下ろしその中から小袋を背中に括り付けてやると嬉しそうに駆け出した。
「おお大分軽うになったな、有難うよ鉄ちゃん」
「然し、忍者一家はよう人の気持ちが分かるんじゃのう」
 暗い山道に入って鉄や玉、其れにラー助が前後になりながら進ん行く。
 だが道を照らす灯も何もない。与作は不思議に思い聞いてみた。
「そりゃええがお師匠さん、暗いのにまともに歩いておられますが鳥目のほうはもうええんですか」
「そうじゃった、言うのを忘れるとこじゃたよ。大将のお陰でな、城の賄い方も気を付こうてから、指示どうりにやってくれてな。ご覧の通りよ。感謝!感謝よ!浅田屋にもよう礼を言うとってくれんか」
「其れは良かったですね」
「然し、鳥目のラーちゃんはどうなっとるですかね」
「そうじゃのう。見えとるんか見えとらんのかワシらにさっぱり分からんよな」
「ラーちゃん、前は見えるんか」
「オメメアルカ」
 此の返答には二人ともに「ウヌ?」と頭を捻り大笑いしながら
「なんじゃ、どっちか分からんじゃないか」
 ただラー助は空高く飛ぶのではなく、少し飛んでは地面に下りるを繰り返したり、時に鉄の背中乗ったり与作の肩に止まっている。やはり、あまり見え難いのであろうか。
 なんやかや喋りながら夜道を歩いているうちに小屋に到着した。鉄も玉もラー助も我先に飛び込んでいく。やはり此処が一番いいのであろう。
「お師匠さん、今日はご苦労さんでした。汚いとこですがどうぞ入って下さい」
「おお、有難う、有難う。嬉しいのう」
「そりゃええが風呂へ入りますか」
「今から沸かしょったら暇がかかろうが、ええよ」
「それより早う一杯やりたいのう」
「熱燗がええですか」
「いらんいらん、ほんまの酒飲みは冷やが一番じゃ」
「然し、教師の前でこんな事をゆうてええんかのう」
「何ですか。私は何も説教しておりませんが」
「ハハハ、鳥目の事よ」
「ああその事で。今日なんぼ飲まれても大丈夫ですよ。その代わりにおかずも仰山添えて食って下さい。偏らん様になさったらいいですよ」
「酒いっぽんは絶対駄目ですよ」
「分かった。そうするよ」
 与作が食事の用意をしている間中、背中に向かって話し掛けてくる。玉は膝の上に乗り、鉄は横に寄り添い嬉しそうにしているではないか。ラー助だけが忙しく出たり入ったり与作の肩に止まったりして飯の出来具合を確かめている。
「ラーちゃん。うろうろすなや」
「メシメシシヌシヌ」
「馬鹿、死にゃせんわ」
「ハハハハ、然し、面白いのう」
「大将よ、ワシャ此処へ来たら子供の頃に戻れるんじゃ。ほんま懐かしゅうて楽しゅうてな」
「ワシも子供の頃犬を飼うとってな。龍という名じゃったよ。凡そ名とは似ても似つかぬ小ちゃな犬てな、可愛ゆうて何時も抱いて寝とったよ。朝から晩まで一緒に走り回っとったよ。やんちゃじゃったがよう言う事を聞いてな」
 そう言いながら箸を休めては鉄、玉の頭を撫でている。
「ワシがマムシに噛まれて道の上で寝込んどる時、鉄、玉が寒空の下、寄り添い身体を温めてくれとったが、その時にな、朧げながら龍が出て来たんじゃ」
「まごちゃん助けてあげるよ」
「ワシはな、子供の頃は孫四郎と名付けられておってな。言いにくかったんか知らんが、まーちゃん、まごちゃんと皆んな呼んどったよ。其れがある時、龍が三、四歳の頃かワシと駆けっこをしている時にな、勢い余って高い城壁から下の石段の上に落ちたんじゃ。頭を強く打って死んでしもうた。ワシャ、悲しゅうて悲しゅうて毎日泣いておったよ」
「其れが何十年振りかに現れたのよ。鉄、玉に乗り移ったかのようにな。其れから大将と忍者一家に宜しくと言っているような気がしてな」
「そうでしたか。私らはお師匠さんとは何かの強い繋がりが前世からあるのでしょうか。然し、それじゃったらお師匠さんはお気の毒としか言いようが有りません」
「何を言うとる、地獄の巡り合わせに逢うてみいや。そう思やよっぽどましじゃ」
「然し、誰が考えてこんな事を尤もらしゅうに六道輪廻の事じゃのと世間に広めるんかのう」
「これも輪廻の世界では魂は巡り巡ぐって色々な道に帰っ来ると言われております。動物だって人間だってこの世の中では皆繋がりがあるのです。
 難しい事はよく分かりませんが、今、生ある限りはただひたすらに自分の行くべき道を進む方法しか有りません」
「そうよなあ、ワシャな、何時も皆んな前では虚勢を張っとるがな、ほんまはご覧の通りの気の小さい人間なのじゃ。だから、ここへ来て皆ん居るとどれだけ心が休まる事か。其れに此処へ来て大将と顔を合わせとるとな、みんな心の内をさらけ出す事ができるんじゃ」
 しみじみと語るお師匠さんの姿に、お殿様としての苦悩を与作は十分に汲み取ることが出来たのである。
「さあ、お師匠さんもうちょい残ってますよ。飲んだら寝ますか。そして明日は皆んなで賑やかに出かけましよう」
「そうじゃそうしよう。皆んな明日は楽しみじゃのう」
 と言うと鉄、玉、ラー助も嬉しく堪らない。
 毎度の様にお師匠さんと与作に挟まれて犬と猫とカラスが枕を並べて眠りに就いた。本当に考えられない光景であった。
 翌朝、東から陽が昇り小屋の中が明るく暖かくなり出した。日頃は必ず暗いうちに起きて準備をするので調子が狂ってしまい、今日は休みじゃったなとようやく気が付いた。
「おう、ほうか。ゆんべお師匠さんが泊まったんじゃった。いかん!飯の支度をせにゃいけんかった」
 お師匠さんはと見ると高いびき中だ。昨夜は二升は飲んだであろうか。
 鉄も玉もラー助も外に出て気を遣って騒がないのだ。戸を開けて外に出ると足元に駆け寄って来た。与作は口に人差し指を当てシィーと合図をすると声を出さない。本当に皆んな頭がいい。手水鉢で顔を洗うと
「鉄ちゃん、暫く待っとれぇな」と言うと即ぐ聞きわけてくれる。
 朝飯の手間は飯を炊くだけで手っ取り早かった。昨日のうちに有り合わせの物を買って来ており、其れに、お師匠さんが城から持ち込んでくれたお土産物が有るからだ。
 其の内、ようやくお師匠さんが目覚めて欠伸をしだした。
「オウ、ようよう目が覚めたか。よう寝とったのう」
「ほんまに久し振りで。こんなにぐっすり寝たのは。ありゃ、どした誰もおらんじゃないか」
 お師匠さんの起きた声を聞いて皆、競争する様に飛び込んで来た。
「オウオウ、皆んな気を付こうとってくれたんか。有難うな」
 嬉しくて狭い小屋の中を駆けずり回しているではないか。
「オイ!飯の前でぇ、やめぇや」
 飯と聞いて更に喜んでいる。
「とに角、食べるぞ。其れから遠足じゃ」
 鉄、玉、ラー助にとっては朝から嬉しいのだ。
「然し、大将よ、此の朝飯がええんで。献立を作ってくれたお陰で家来の奴等も実践しおるのよ。ほんまに鳥目がようなったと、ぎょうさん報告が上がっとるんじゃ。其れに調合してくれた漢方も効果てき面じゃ」
 忍者一家はあっと言う間に食べきってしまった。そして外に出て今か今かとお師匠さんと与作が出てくるのを待っている。
「お師匠さん、今日はええ天気の様ですから山にでも登ってみますか」
「山じゃ云ても此処も山ん中じゃろうが」
「ハハハ、そりゃそうですが、明光山のてっぺんですよ。登られた事が有りますか」
「うん、一度だけじゃがな。八合目辺りにある出っった岩の上から下を眺めたよ。敵の陣地が丸見えじゃったな」
「色々と面白いものが見えますよ」
「そうか、皆んなと一緒に登ってみるか」
「よしゃ!出かけるぞ」
 此の与作の一声に、嬉しさのあまりそこら辺を走り回っている。如何に好きな人と行動するのが楽しい事か。
 炭焼き小屋から明光山の頂上は程近かった。何せ今住んでいる場所自体が中腹であり、たまの休みの日の散歩道であったのだ。時間もそう掛からない。ようやく岩の上に到着した。
「ラーちゃんよ、あの向こうの城の様子を見て来てくれるか。帰ったらおやつだよ」
「マカセトケ」
 分かったのかどうか、でも飛んで行く方向に間違いはなかった。
「お師匠さん、前に襲撃された時、此の峠を越えた辺りから間者が増えたと言われましたね」
「そうじゃ。其れまでは二人が付けて来ておって町人風でな。そして此処から下辺りから皆武装をしとったよ。何時の間に着替えをしたんかのう」
「成る程、お師匠さんは此処からまだ上に登った事が有りますか」
「ないない、此のうえは木が生い茂って見晴らしが悪いじゃろうが」
「そこが盲点かもしれませんね」
「どう云う事じゃ、ワシにはさっぱり分からんで」
「直ぐに分かりますよ。もう少し上がってみましょう」
「じゃが道がないじゃないか」
 与作は、背丈まで有る茅草をかき分ける様に入って行った。五十歩も進んだであろうか、周りは低い芝草の歩き易い平地になっており獣道の様に踏みしめた跡がある。
「此れは人間ですよ」
 其れから少し進むと窪地の木陰に小さな小屋があるではないか。まず見つけ難い場所であった。全く粗削りで丸太を簡単に組んだ雨露をしのげる程度の建物である。
「大将、此れは何なら」
「入れば分かりますよ」
「中に誰もおらんじゃろうのう」
「其れは大丈夫ですよ。忍者一家が付いて来とるじゃないですか」
「そうじゃったな」
 二人は小屋の前に来ると、
「建物はそう古くはないな何年も経っとらんぞ。為してこんなもんが立っとるじゃ」
 お師匠さんが、やおら戸に手を掛けて引き開けた。
「オイ!大将!こりゃ何じゃ!」
 何とお師匠さんが襲撃された時と同じ武装用具が有るではないか。
「ウゥーン、此処から下りて来て間道で合流したんか 」
 小屋は小さかったが十人程度なら雑魚寝が出来るだろう。
「然し、奴等、此処までどうやって来たんじゃ、明光山は敵の陣地じゃろうが」
「お師匠さん、そんな事は全く関係有りませんよ。百姓、木こりに変装すれば簡単な事ですよ。其れに可愛川には両方の人間が利用出来る渡し舟が有るじゃないですか」
「じゃが地の者が見れば即ぐに分かろうが」
「お師匠さん、私の実家でも昔から深瀬や犬飼平に田地や山が有りますよ」
「そうか、そんなもんか。国境じゃの事と線引きしとるのは領主ばっかりか」
 小屋を確認し終えると又、岩の上に二人は座り込んだ。
「お師匠さんが三次のお城から出た後にどうやって、いち早く此処へ知らせたと思いますか。そして待ち伏せしていましたよね」
「ウ〜ン、よう分からんわ。早馬か」
「時間の余裕が有ればそれも可能でしょう。然し、お師匠さんが比叡尾山城に到着し、いきなり出立されたから敵は絶対に間に合いません」
「ならどうして出来たんじゃ」
「此処からよく見てください」
 と言いながら与作は北の方向を指差した。
 その方向には高谷山が有る。明光山より大分高い山だ。目の高さにあり間近に見えるのだ。
「お師匠さん、高谷山は知っていますか」
「名前は知っとるが登ったこたぁないよ」
「此の頂上からは三次の町とお城がほんま良う見えるんですよ」
「つまり三次藩内に潜り込んどる宍戸の奴等は畠敷のどの辺りか知りませんが狼煙を上げると高谷山に届き中継して明光山にいち早く到達するのです」
「成る程な、大将、もう一遍更に上へ上がって見るか」
「そうしましょう。此処からは鉄と玉に任せましょう」
「鉄ちゃん、玉ちゃん頼むよ」
 二人は腰を上げて鉄と玉の後を追い出した。
 かなり雑草が生えていたが思ったほど歩き難くはない。先ほどの小屋の前に立ち止まり暫く臭いを嗅ぐと同時に進み出した。然し、以外にも小屋から距離がある。更に岩肌が見え出し一段と険しくなってきた。
「お師匠さんは息が切れ出して「鉄ちゃん、しんどい!ゆっくり行ってくれ」
 其れを聞いた鉄は全く優しいのだ。駆け降りて来てぴったり寄り添ってくれる。
「有難うな、玉ちゃんも来てくれたか」
 ゆっくり登っていくと頂上が見えて来た。
「大将、何も無いで」
 二人が休憩がてらその場に佇んでいる時、この位置から鉄と玉がてっぺんの向う側に走り出した。後を付けて行くと
「お師匠さん、やはり有りますよ。火を焚いた跡ですよ」
 山頂の北側に面し八幡山城からは見えない様になっていた。だがこの位置から高谷山は真っ正面にはっきりと見えるのだ。
「鉄ちゃん、玉ちゃん凄いな。ワシらだけじゃたら見逃したとこじゃったよ」
「此れじゃったら連絡が瞬間的に伝わりますね」
「有難うな、今日はええ山登りをさせて貰うたよ」
「然し、何べんも言うが鉄ちゃん、玉ちゃん、ラーちゃんは大将を含めて忍者一家じゃのう」
「さあ、お師匠さん、岩場に下りておやつがわりのむすひでも食いますか」
「おおう、そうしよう。腹が減ったよ」
「鉄ちゃん、玉ちゃん飯だぞ。早う来いや」
 お師匠さんが岩の上から声を掛けると、一緒になって茅の間からガサガサ音を立てながら顔を覗かせた。
 すると口に何か咥えている。
「オイ、何を持って来たんじゃ見せてくれるかのう」
 玉がお師匠さんの前にポトッと丸めた紙を落とした。其れを広げて見ると一瞬、たまげた顔になり、それから高笑いをしだしたので有る。
「ハハハ!大将、此れを見てくれ!笑わせやがる」
「何がそんなに可笑しいですか」
 与作がそれを受け取り読んでみた。
 ーこの男、悪玉の大将に付き、討ち取りし者には金五十両を与うるものなり。尚、仕官出世は思いのままなりー
 の人相書き付きの手配書であった。
「宍戸の野郎、ワシを舐めてけつかる」
 お師匠さんは自分の評価があまりに低いのにムカッときたのだ。
「それに何じゃ、ワシの顔はまるで山賊じゃないか!もう一寸、ええ具合いに書けや」
「まあまあ、気にせんといて下さいよ、あちらさんは財政が逼迫し、食い詰め浪人まで利用している思えば腹も立たんでしょう」
「ハハハ、物は考えようじゃのう」
「然し、大将よ、此処から眺めとったらなにもかも丸見えじゃのう。深瀬から甲立の五竜城や毛利の城山迄見えるで。ましてや下の八幡山城は人の動きや警備箇所の人数まで見えるじゃないか」
「奴等、何時も偵察をしとったんじゃのう、特に今はワシの命を狙っとりゃがる。此処から見てみい、三次から街道筋の青河峠を越えて志和地に歩いてくるのがハッキリ見えるで。ウ〜ン」
「大将、そりゃええが小屋はどうする」
「と申しますと」
「此れは宍戸の野郎等が建てたもんじゃろうが」
「待ち伏せしてやっつけるか」
「その必要は更々有りませんよ。ただ、ぶっ壊しとくだけで十分ですよ。二度とよう上がって来る事はないでしょう。腹の太い処を見せてやってはどうですか。
 此れが相手にとって一番恐ろしい事なんですよ 」
「分かった。明日にも叩き壊しに行かせよう」
「其れより、又、奴等は別の場所に同じ様な事をするでしょう。其れを早く見つける事が先決ですが難しいでしょうね。何せ周りは山、又、山ですから」
 そうした時に鉄がいきなり吠え出した。するとお師匠さんは
「ウンッ、何事なら、誰か上がって来やがったかな」
「ラーちゃんですよ。西を向いて尻尾を振っとるじゃないですか」
「然し、何も見えんで」
 玉もようやく分かったのか「ニャーン、二ャーン」と鳴き出した。
 其れでも二人には分からない。
「然し、人間では到底付いて行かれんのう」
 分からないはずだ。ラー助は西からの偏西風に乗り高い上空を一気にすっ飛んで帰って来たのだ。そして真上から急降下、飛び降りて来て初めて気が付いた。
「オオゥ、ラーちゃん帰ったか。ご苦労さん」
「ハラへタ」
「そうかそうか、さあ、ラーちゃんお食べ」
「五竜城はどうしゃたかな」
「エイエイオ、オルオル、エイエイオオ」
 此の声を聞いたお師匠さんはラー助の頭を撫でながら
「ラーちゃん、凄い凄い!ほんま空飛ぶ忍者じゃのう。だけど、大将が指を差しただけでそこへ行くとはこりゃ如何に」
「冗談はともかく、ラーちゃんの能力は全く以って神業じゃな」
「大将、早うに教習所を開設して欲しいのう」
「鉄ちゃん、ラーちゃんは初代の先生でぇ」

第7話 二度目の襲撃事件

 二度目の襲撃

 戦国時代、中国地方も風雲、急を告げる情勢で、安芸の毛利軍と可愛川を挟み尼子軍とが対峙していた。其の要衝の地に志和地八幡山城が有った。其の為に互いの情報収集を得る上で、頻繁に総大将が出っ張って来ていたのである。
 総大将の尼子国久公は前の襲撃事件の事が有り、以後は必ず三人もの護衛侍を付け、この日は敵の間者の動きが目立つ昼間に向かっていた。
 今日も比叡尾山城を出た処より間者に見張られており、すぐに後を付けられていた。
 最初からの追跡者の二人は丸腰で全くの町人風で有る。
 毛利軍勢も、総大将が奥出雲から、有る程度は定期的に国境の三次に出っ張って来るのを知っており、其れから更に、両軍の接する最前線の志和地八幡山城へ来るのを察知していた。
 志和地の明光山の山腹から、相手の陣地の三つの城が目の下に有る様に分かり、敵の動きが完全に見渡せるのだ。
 深瀬の宍戸陣営は尼子勢が何時、何刻に出向いて来るのかは分からない。
 その為に、常に敵の陣地の中に入り込み見張りを付けていた。城のすぐ近くで、別の小山の山裾に有る竹藪の中に小さな穴を掘り笹を被せて分からない様に潜んでいたのだ。身なりは百姓か木こりの格好をしており山中に紛れ込んでいた。
 此の日も総大将が険しい坂道を警護侍と共に登って来て城に入ったのが分かっており、見張り役の仲間が更に別の谷向こうから炭焼きに見せかけて煙を上げたのである。其れを何時も常駐している南西の方向でほぼ目の高さに位置する高谷山の仲間が見て、道中の間道で襲う為の助勢を頼む為に早馬を立てて、可愛川沿いを駆け上がり深瀬祝屋城へ連絡に走った。 知らせを受けた間者供は、 犬飼平を川舟で渡り志和地に入ると、明光山の間道迄へと一気に駈け上がる。
 こちらの方が、険しい間道を時を掛けて抜けて行く、国久公より一足早く先回りして待ち伏せする事が出来るのだ。
 明光山は志和地にあり此のてっぺんに登ると毛利方の三っの城が見渡せるのだ。宍戸兄弟の五竜城、深瀬城から更に毛利元就の本拠地の吉田郡山城が微かにみえる。可愛川を挟んで両軍が接している位置関係にある。今でこそ難しい国境になっているが元々は盆地の中にある集落であった。国人領主が勝手に決めた境目であり百姓町人にしてみれば今も昔と変わらず夫々に田地や山を持っており往き来しているのだ。
 その為に深瀬の農民も明光山に草刈りや材木切りだしとかするのだ。侍の世界では今現在互いが敵であり、夫々の陣地を守って欲しい処だが現実不可能な事であった。 
 だから国久公が通る間道にしても百姓に化けて、何時でも何処からでも入ってこれ襲撃態勢が取れるのだ。
「おい、二人が付けて来ちょるが気付いておるか」
「えぇ、本当で御座いますか」
「町人の格好をしておるが絶対に侍だぞ、振り返るなよ」
「然し、三次藩の警備はどうなっとるんなら。城の正面玄関からの出入りが、敵にみな筒抜けじゃないか、ほんま、間抜けな奴ばっかりじゃのう」
 此の比叡尾山城は三吉家代々四百年間続いており、さしたる紛争も無くある程度平穏無事に世を過ごして来たのであった。当主もその時その時に小さな諍いがあったが「どうじゃ、お前等に此の城は落とせんじゃろうが」ぐらいの難攻不落な城だと自画自賛し何処の奴等も攻めて来れないぐらいの気持ちしか無かった。
 其れゆえに山が険しいだけで実際の守りには全く疎いものが有ったのだ。此の時代になると互いの攻撃方法も段々と進化し、ただ険しい山城だけでは通用しなくなり出していたのである。
 家並みが続く町中を暫く歩くと、人家がポツポツと途切れ出して、やがて山道に差し掛かって来た。一本道をかなり離れて、さり気なくキョロキョロしながら付いて来る。
 総大将は草鞋の紐を結び直す振りをしながら屈んで後方をチラッと見た。
 やはり間違いなく尾行されているのだ。
「ウ〜ン、今日も奴等は、前と同じ様に十人前後の間者を呼び寄せるじゃろうのう。じゃがワシが城に入ってすぐに、わざと早う出て来ちゃったから、深瀬から助っ人を呼んでも間に合わんぞ。奴等はワシが暗うなってから出立すると思うとったんじゃろうが目論見違いよ。奴等が追っかけて来た時には、既にワシ等は八幡山城に入っとるわい」
「例え、途中で襲われても此れくらいの人数なら、なんちょう事たぁないか、手練れも付いとるしな」
 然し、総大将の読みは甘かった。
 城を出る時には城主の三吉氏が自ら見送りに出てくれた。
「大殿、昼間の明るいうちで大丈夫とは思いますが、目の方は悪るくはないんですか」
「あぁ、此の時間ならよう見えるわ」
「なんなら、手勢を増やしましょうか」
「いや、ワシ等で十分じゃ」
 三吉氏の援軍要請までも断って、一行は間道を駆け抜ける為に足速に出立した。
「じゃが、念の為に鉄を呼んでみるか。大将が居らんのは少々心細いが、忍者犬が居れば百人力じゃからのう」
 細くて険しい山道に差し掛かる場所迄やって来た。総大将は与作から貰った笛を腰から抜いて初めて思いっきり吹いた。
 木立ちの木々が微かに揺れる静寂の中、耳を澄ましてみた。
「確か、何時もこの一本松の木の辺りに鉄はおると聞いたんじゃがのう」
 だが一向に足音が聞こえて来ない。
 立ち止まって様子を伺ったが何の反応もない。
「大殿、息が切れますか、少し休んでいかれますか」
「馬鹿、そう云う事じゃない」
 と言ってから歩を進めるも、芝草の上を歩く自分等の足音しか聞こえて来ない。
 全く何の反応もない事に一抹の不安が生じ出した。
「どうしたんじゃ鉄は、ワシの笛が聞こえんかったんかのう。何処ぞに遊びに行っとるか、其れともワシを信頼しとらんのかのう」
 と心の中で叫び葛藤していた。とに角、もう一度吹いてみた。 然し、何の反応もない。
「えぇい、ままよ、三人の手練れが付いておるから大丈夫じゃろうよ」
「おい、これから二里の道が勝負の分かれ目じゃ。覚悟して掛かれよ」
「分かりました」
 総大将は口では強がりを言ったが、やはり鉄が現れてくれるのに、いちるの望みを託していた。やがて、この間道の一番の難所の峠に差し掛かって来た。
 この細くて険しい山道は殆んど与作と鉄の専用道みたいなもので有った。一日中、先ず普通の人が通る事がない。
 こんな道を通らなくても可愛川沿いになだらかな街道が有るからだ。
 だが、此の道は行き来する人も多く、敵、味方が入り乱れて歩いており、其れこそ何処で、どんな方法で、いきなり襲撃されるかもしれないのだ。
 与作に案内されて明光山の山頂に上がった時、下の街道筋が如何に狙われ易いかを見ており、其れよりも間道を選んだのだ。
 丁度、其の頃、与作は浅田屋を離れて山道を駆け上がっていた。
 総大将が吹いた犬笛で、山中で仲良く一緒に遊んでいた鉄とラー助はすぐに気付いたのだ。
 笛の方向へ一気に駆けていく。 ラー助はもう上空に飛んで来ている。
 そしてお師匠さんに近付こうとすると、二人の間者が尾行しているではないか。
 頭のいい鉄は間者の後を付かず離れず足音も無く着けて行く。
 鉄もラー助も恐ろしい程、危険予知の能力が高いのだ。動物的な勘と云うので有ろうか、なんとラー助の判断で与作を呼びに行ったのだ。
 なにしろ速い、空を飛ぶのだから。鉄も速いがとんと話しにならない。
 そして浅田屋の上空を旋回すると、庭先で仕事をしている与作をすぐに見付けた。
「カアー、ギャー、カァー」と大きく鳴いた。
「オゥ、ラーちゃんか、どうした」目の前の低い植木に止まるや
「オシショウサン!」
 のこの一声に危険を察知すると
「よし、分かった。すぐ行くぞ」
 店で地方発送の荷物の積み込みを手伝っていた与作は、仕事を放っぽり出して奥へ走った。
「コラー!与作、何やっとるんじゃ、我りゃ何処へ行くんじゃ!」
 番頭の大きな怒鳴り声が店内に響き渡った。だが、お構い無しに奥の帳場の前に座っていた主人の処に走って行き
「今から一日、暇を下さい。急用が出来ました。其れが駄目なら首にして下さい」
 真剣な表情で訴える与作に
「よし、分かった。後の事はええから安心して行け、首にはせん」
「有難う御座います」
「今、鳴いとったカラスが知らせに来たんか。確か「オシショウサン」言う声が聞こえたが。カラスが、ものを言うのを初めて聞いたよ、ハハハ」
 と主人は笑いながら聞いたが与作は何も答えなかった。
 浅田屋の主人は以前、まむし事件の時、与作が言っていた名の有るお武家様の事を覚えていた。主人は何時も薬の商いで城中に出入りしており、山中で尼子国久公が、まむしに噛まれて死にかかった時に、多分、与作が助けたので有ろうと云う噂を何度も聞いていた。又、今度も何か緊急事態が発生したのかと感じ快く許してくれたのだ。
 主人は、国久公と与作が今も繋がっているのではないか、と思い非常に嬉しかった。其れに自分も少なからず協力していると思ったら、内心誇りに思えてきたのである。
「与作!何か手助けを必要とする事が有れば何時でも言えよ」
「有難う御座います」
 着替えもせず、其のまま店を出ると一目散に走り出した。するとすぐ頭の上をラー助が飛んで来た。
「ラーちゃん、有難うさん、すまんが先に行ってお師匠さんを守ってあげてくれるか」
 と山の方を指差すと
「ヨシャ、マカセトケ」
 たどたどしいながらも、お師匠さんの声色で全く憎めないラーちゃんだ。あっと云う間に飛び去った。
 与作は道中に何時も隠している小刀と吹き矢を携えて、別荘から全速力で駆け出した。
 一方、総大将は間道の峠を下りだして、遥か前方に小さく八幡山城の天守閣が見え隠れする場所迄やって来た。此の頃になると、何か後の方でザワザワと絹擦れと云うか、寧ろ、武具擦れの音が聞こえ出したのだ。後を振り返る事が出来ないが、気配から察し、十人近くはいるで有ろうか。峠の頂上辺りで先回りしていた間者が見張っていて、仲間の戦闘用具を揃えていたのだ。
「なしてじゃ、ワシは敵の裏をかいて早ように出立したのに、何で先に待ち伏せしとるんじゃ」
「おい、一気に間者の数が増えたぞ。 其れも完全武装をしとるぞ」
「・・・」
 警護侍は一切、何も声を発しないのだ。緊張し足が震えているではないか。
 此奴等は今迄に一度も総大将の連れをした事が無く、ただ道場で腕が立つくらいのもので実戦経験には乏しかったのだ。
「家老の野郎め、もっとましな奴を選べや」と胸のうちで思っていた。
「お前等、しっかりせんかい!覚悟を決めてワシと一緒に戦え。勝負は時の運じゃ」
「分かりました、性根を入れて戦います」
 然し、総大将は内心「敵は十人はおるぞ、相手も精鋭を集めておるじゃろうから、ワシも此れまでかのう」
 と自ら覚悟を決めた。
 段々と足音を立てながら大胆になり距離を縮めて来た、そして間者供は襲撃の機を伺っている。
「然し、ワシの勘も当てにならんのう。奴等、先に来て待ち伏せしとりゃがる」
 其の頃で有ろうか。
「ウォ〜ン、ウォ〜ン」
 と遠くはないが何処からともなく、狼か犬の遠吠えで有ろうか、鳴き声を師匠は聞いていた。無論、敵にも聞こえたで有ろう。
 此れがまさか鉄で有ろうとは思いもしなかった。
 極度の緊張状態で警護侍は身体中が震えていたが、チラッと後を振り返ったので有ろう。今にも走り出して逃げそうな雰囲気だ。
「なんと頼りない奴等じゃのう、三吉氏の援軍要請を受けときゃえかったかのう」
 敵の間者の動きが身近に迫り武具擦れの音を一段と高く響かせ出したのだ。
「万事休す、ワシもこれまでか」
 忍者一家の活躍

 其の時だ、間道をゆっくりと歩を進める道の側のすぐ先に有る低い草叢の中から、何やら動物の小さく鳴く声がした。
「キュ〜ン」
 先頭を行く総大将にしか聞こえなかった。
「鉄!鉄だ!鉄だ!」
 と心の中で何度も叫んだ。一旦、立ち止まった。そして涙が溢れ出して止まらない。やはり来てくれていたのだ。
「だんだん!だんだん!有難うよ」
 どれだけ勇気付けられた事で有ろうか。
 大泣きしている総大将を見たすぐ横の侍は、「任しとけ!」と空威張りする程の気迫も無く、弱々しそうに
「申し訳け御座いません、私等が頼りないばっかりに」
 だが、そんな事は全く関係なかった。
 そして四、五歩前進し横を向くと、草陰の中に低く伏せている鉄と目が合った。
 目がランランと輝いている。
「お師匠様、お助け致します」
 と云う自信満々の面構えだ。
 襲撃する機会を狙っている敵の間者の後を、音も無く、気付かれない様に尾行していたのだ。何と賢い忍者犬で有ろうか。
 さらに鉄は、顔を上に向けて空を見渡した。
 何て事だ!
 上空をラー助が飛んでいるではないか。
「ラーちゃん迄もが見張っておってくれたんか。だんだん!だんだん!」
 だが感傷に浸っている時ではない。相手は何時襲って来るかも分からない。
 鉄もラー助も動物的直感で、其れが間近で有る事を知らせてくれている。
 お師匠さんは何度も歩いている山道なので地形はよく知っている、細い道の先には格好の広い場所が有り多分此処だなと読んだ。
 処が、又々、読みを誤った。
 毛利勢の間者供は事前に潜伏、前後で挟み討ちにする算段で広場のすぐ手前の処に、弓の射手を待ち構えさせていたのだ。
 其れを察知せずに、警護侍は不覚にも総大将を一番狙われ易い、先頭を歩かせており、前後から囲んで総大将を守る基本を怠っていたのだ。
 狭い小道より開けた広場が見えて来た。
 其の時だ。前方の小高い木陰より
「ギャー」
 と言う悲鳴が聞こえた其の瞬間、総大将の頭上を、すれすれにかすめて矢が飛んで行った。
「ウォー」
 まさか、飛び道具で来るとは思ってはおらず、正しく度肝を抜かれた。
 三人に緊張が走り抜刀して身構えていると、すぐ其の後で、声がした方からラー助が飛んで来た。何と隠れて矢を放った其の時、敵の間者の右目を鋭い嘴でくり抜いたのだ。
 そして目の前の路上に顔面血だらけになり、のたうち回りながら転げ落ちて来た。
「ラーちゃん、有難うよ!奴を見張っとってくれたんか」
「ナンノ、ナンノ」
 日頃の師匠さんの物真似に、思わず引きつっていた顔の三人から笑みがこぼれた。
 ラー助が助けてくれたお陰で、間一髪、総大将の命が救われたのだ。
 三次の町を出て、何時もの場所で与作から貰った犬笛のお陰で、ラー助も聞き付け上空からずっと間者の動きを見張ってくれていたのだ。
 非常に目のいいラー助は、敵の動きを逐一見ており、広場に近付いた時に総大将を追っていた相手の指揮者らしき侍が、前に隠れている射手侍に向かって
「やれ!」と合図を送った。
「キューン」と目一杯弓を引き今にも矢を放とうとした瞬間
 真上を舞っていたラー助が急降下したのだ。
 目の前の負傷した間者のすぐ横を通り抜けて広場に到着し、愈々来るなと三人が総大将を囲むように陣形を敷こうとしていた。此の時、初めて来た道を振り返ると、十人前後が鎧を着けて完全武装をし、こちらを睨み付けながら挑発しているではないか。
「オゥ、彼奴等と合間見えるがお前等、覚悟して掛かれよ」
 処が三人からは小声一つ発する事は無かった。
「糞ったれ!頼りない奴ばっかしじゃのう」
 双方供に離れた距離から睨み合いが続き静寂の時が流れる。
 其の時だ、目の前の笹薮の中からガサガサと音がした。一瞬、何事かと目を向けると、鉄が現れた。
「鉄!来てくれたか!」
 そして日頃聞いた事の無い様な異様な声で「グウォーン、グウォーン」と吠えると其の唸り声が山中に響き渡った。
 警護侍は、目の前の総大将に、狼犬がピタッと寄り添いながら大声を発するものだから、其れこそビビりまくり、全く犬嫌いなのか震えまくっている。
「おい、鉄は大丈夫じゃ何もせん。安心せい」
 すると今度は反対方向から「ドッドッドッ」と足音がして四、五頭の狼が現れた。大きな図体に口が裂け牙を剥き出しでこっちに来るではないか。
 此れには総大将も度肝を抜かれた。
「ワシ等もやられるんかい、鉄ちゃん!」
 と緊張しながら鉄の目を見た。
 処が全く涼しい顔をし、微笑んでいる様な優しい目をしている。
 だが三人は警護どころではない。其の場にへたり込んでしまった。
 然し、近付いて来ても自分達を襲う気配がまるで無い。それどころか鉄が先導し総大将を中にぐるりと取り囲み、鉄が一声発するとゆっくり回り始めた。
「オイッ!お前等、立て!」
 牙を剥き睨み付けながら歩くのだ。其れを遠巻きに見ていた間者供は、総大将を討ち取るどころではない。
「オゥー、ワシ等が完全に殺られるで!」
 と全くビビりまくり逃げ腰になってしまった。
 前の襲撃の時、いっぺんに十人の手練れの仲間が殺られ、誰一人として帰る事が無かった。
 其の時は比叡尾山城から八幡山城へ、夜道を一人で間道を抜けて行くとの情報で、この時ばかりは、敵の総大将を討ち取り、手柄を立てる事が出来ると、我先にと競って遠征に参加して行ったが全滅ときた。
 前の仲間も此の狼犬に殺られたに違いないと、相手の間者全員が察したのである。
「おい、前の時、深瀬殿の家来十人が一向に帰って来んのは、此奴等に殺られて喰われてしもうたんじゃないのか」
 此の一声に取り囲んでいた仲間は全く戦意喪失し後すざりを始めた出したではないか。
「誰か国久の処へ突っ込めや、ワシャ喰われるのは嫌じゃ。恐ろしゅて無理じゃわい」
「オイッ!ワレ行けや」
「嫌ですよ」
「然し、国久は何処で狼犬を手懐けとるんじゃ」
「とてもじゃないがワシ等じゃ無理じゃ、引き揚げるぞ」
「中尾を担いで行ったれや。そろそろ退がれよ。狼を刺激すな!」
 戦わずして完全に戦意喪失してしまい目玉をくり抜かれた仲間を抱えて一目散に逃げて行った。
 暫くして殺気だった戦闘気配が消えて山中に静寂さが戻って来た。
 すると、鉄が優しい一声で「ウォ〜ン」と鳴いた。
 今迄、牙を剥いていた狼達の仲間は、この狼言葉の号令で有ろうか、牙を収め柔和な顔に戻っているではないか。そして静かに背を向けて山中に消えて行った。
 道中で聞いた狼の遠吠えは鉄の声で、仲間を呼び寄せてくれていたのだ。
 総大将は一気に緊張感から解放されると暫くは放心状態であった。
 警護の侍は先程から腰抜け状態で有る。冷静なのは鉄とラー助だけでお師匠さんの前でジィーと見つめている。
 そしてお師匠さんが我に返ったのを見るや飛び付いて来た。
 後は何時もの様に戯れまくっている。此の度は、鉄、ラー助にとっては特に嬉しいものが有る様だ。全く自分達で師匠さんの命を救ったのであるからだ。
「鉄ちゃん、ラーちゃん有難う。お前さん達のお陰でワシ等の命が救われたよ。だんだん!だんだん!」
「ナンノ、ナンノ、タンタン」
 とラー助の声がし、鉄は「ワン、ワン」叫びながら喜び走りまくっている。
「お前さん達はほんまに策士じゃのう」
 鉄もラー助も頭を撫でられて嬉しくて堪らない。他に何の欲も無い。でも、たまには美味しいご馳走が食べたいよと云う顔をしている。
 其の間にも警護侍は、へたり込んだままである。
「お前等、ちったあ正気に戻ったか。何時迄ビビっとるんなら」
「・・・・」
「おい、ワシ等が何もしとらんのに、大勢の敵の間者が逃げてしもうたがな」
 三人は苦笑いをしながら
「さ、左様で御座います」「申し訳け有りません・・・」
「ほんまに痛快で凄いお犬様とお鴉様じゃのう」
 此の話しを聞きながら冷や汗を流していた。鉄とラー助が居なかったら、総大将は完全に殺られていたで有ろう。
 何の為の警護なのか、山中での細い一本道で一番狙われ易い先頭を総大将に歩かせるなど、全く無能としか思えない。
 ラー助が間者をやっ付けなければ、総大将は弓矢で心臓をぶち抜かれ命が絶えていたのだ。
 侍達の切腹だけでは到底済まされる事では無いのだ。
「おい、何時迄もビビっとらんで、こっちへ来て鉄に触ってみいや。どうもしゃせんから」
「でも、恐ろしいですから・・」「・・・・」
「一寸、よう見てみ鉄を、耳を寄せて後ろに寝かせとるじゃろうが。其れに第一、尻尾を目一杯振っとるで、お前等と仲ようしようと思うとるし、可愛いがって貰いたいと思うとるんじゃ」
 其れでも、言われるがままに恐る恐る近付いて頭を優しく撫でた。
 すると鉄は三人の手を代わる代わるペロペロ舐めだした。そして嬉しそうな表情をしている。
「あゝ、やっぱり大殿の言われる通りだ」
「あれえ、ほんまに優しいんじゃ!」
 そして慣れて来ると暫く子供の様に一緒になって戯れていた。
 幼い頃を互いに思い出したので有ろうか、広場を走り回っている。
 そうしてボチボチ出立するかと、大殿が腰を上げた時に、鉄が急に耳を立てて、 もと来た道の方向に走り出した。
 すわ!又、奴等の急襲かと三人に緊張が走った。だが鉄の走る後姿を見ていたお師匠さんには即ぐに理解で来た。
「慌てるな、何も有りゃせんよ」
 案の定、草木が繁って、先が見え無い道の方で鉄の甘えた声がする。大将が来てくれたのだ。
 鉄が嬉しそうに与作に寄り添いながら三人の目の前に姿を現した。
「お師匠さん、ご無事ですか!」
 師匠からため息交じりに喜びの声が溢れた。
「大将、来てくれたんか。ハァ〜、又、奴等が戻って来たんかと思うてびっくりしたよ」
「此奴等、さっきまで腰を抜かしておったんじゃ、ハハハ」
「鉄ちゃんとラーちゃんのお陰で命拾いをさせて貰ろうたよ」
「ワシはなんとも無いがどうして此処が分かったんじゃ」
「ラー助が呼びに来てくれたんですよ」
「でもラーちゃんは鉄ちゃんと、ずっと一緒にワシ達を尾行して来てくれとったんじゃがのう」
「お師匠さん、ラー助には羽根が有り、あっという間に空を飛ぶんですよ」
「そうか、そうか」
「ラーちゃんはお師匠さんが危ないと知ると、ワシの所に繋ぎに来て、すぐ折り返したんですよ」
「ほうか、然し、ラーちゃんも凄いやっちゃなぁ」
「じゃが、よう急に店を出て来れたなぁ」
「首を覚悟で主人にお願いして許して貰いました。師匠の命には代えられません」
「有難う、有難う、だんだん、だんだん」を繰り返し目頭を拭いながら男泣きし何度も頭を下げたのである。
「お前等もよく礼を言え!」
 三人の侍もさぞたまげた事で有ろう。
 自分等の大殿様が涙を流しながら、町人である丁稚奉公人に何度も地面に頭を擦り付けるなど到底考えられない事であったからだ。
 何せ、与作は着の身着のままで駆け付けており、小刀と吹き矢は腰に付けてはいたが、浅田屋の前垂れを掛けて丁稚そのままの格好で有る。
 そんな事にはお構い無く、天下の大殿がこの態度である。
「ワシ達を助けてくれた、鉄とラー助の飼い主様じゃ、其れに剣の達人で吹き矢の名手じゃ」
 此の言葉と大殿の丁重な姿勢に度肝を抜かれた警護侍は
「ハハァ、此の度は大殿の命を救って頂き誠に有難う御座いました」
 二人は其の場の地面に土下座して頭を何度も下げ平伏している。
 だが与作にはこの状況が何が何やらさっぱり分からず全く困惑していた。
 この場所で、鉄とラー助がやった事など、与作は後から駆けつけており知る由も無く、返答するにもどうしていいか分からず躊躇していた。
 其れでもお師匠さんは与作の狼狽える姿を見て、嬉しそうにニコニコ笑いながら鉄の頭を撫でている。
「お師匠さん、此れは・・・」
「ハハハ」
「そりゃそうと、一番活躍してくれたラー助が今迄おったんじゃがのう。何時のまにか何処へ飛んで行ったんかのう」
「多分、其れは落武者が相手の陣地に戻る迄、上空から見張っているんではないですかね」
「ほんまかいのう信じられん。どうしてそんな事迄、大将には読めるんじゃ」
「ラー助はね、小さな頃から此れをするのが好きなんです。鉄と玉とラー助は私と隠れんぼ遊びをしょっちゅう、山中でしておりましたが、必ず上空から見つけて付いて来るんですわ」
「今は、特にラー助が、好きで好きで堪らない、お師匠さんの為にやっているんではないですか」
 与作はにっこり笑いながら
「待っていましょうよ」
「処でな、大将、ワシも炭焼き小屋に寄ってもええか」
「どうぞ、どうぞ、汚ない所ですが」
「ラーちゃんが帰って来る迄、待っておりたいんじゃ」
「よし、そうと決まればお前等、先に城へ行っておれ。それとな今度の件の事は内緒でぇ、誰にも他言無用じゃぞ、分かっておろうのう」
「喋ってみい、お前等の評価が落ちるでぇ」
「三人共、狼犬を見て震えとった云うて家老に言いつけるで」
「其ればかりはご勘弁を」
「ハハハ、冗談、冗談じゃよ。そんなこたぁしやぁせんよ。お互い内密にしょうや」
「ハハァ」
 と侍は直立不動で
「其れでは先に行っております」
 そして与作の方を向いて
「此の度は、大将様には何度も助けて頂き誠に有難う御座いました。後は大殿を宜しくお願い致します」
 と何度も頭を下げたので有る。
 与作は警護侍から大将様と呼ばれるなど、思ってもみず全く返答に窮し只々、照れ笑いを浮かべながら黙礼をするのみで有った。
「後は皆んなと一緒に帰るから気を付けて行けよ」
 と警護の三人を見送った。
「よしゃ、大将、ワシ等もボチボチ行こうか」
 と出発準備をしている時、又々、鉄が帰る方へ走り出した。然し、今度も尻尾を巻いて嬉しそうに行くではないか。
 其の先には息せき切って駆けて来る玉がいる。
「玉ちゃん、どうした」
 なんと、玉も山中に木霊する鉄の吠える声を小屋にいる時に聞き付け、心配して駆け付けたのだ。ハアハァ、荒い息をしている玉を、抱き上げ懐に入れてやると「二ャーン、二ャーン」と甘えながら師匠さんの顔をペロペロ舐めまくっている。
「玉ちゃん迄も心配して来てくれたんか、有難う有難う」
 マムシに噛まれて苦しんでいた時に、鉄と玉で看病して以来、玉は師匠さんを子供の猫の様に思って好きで堪らないのだ。
 鉄は相変わらず山道を歩く師匠に身体をぴったりくっ付けて、何時もの様に介護気取りなのだ。
「ほんまに汚ない処ですが入って下さい」
「有難う、有難う、いやぁ久し振りじゃのう。マムシに噛まれて世話になって以来じゃのう」
 中に入ると囲炉裏が有る。玉は先程迄に寝ていた座布団の上に案内して座らせた。
 日頃、可愛いがって貰っているお礼のしるしのつもりなので有ろう。
「こんな処で何も有りませんがこらえて下さい」
「要らんよ、何も無くても皆んなと居るだけでええよ」
 与作は、師匠さんの為に何か有ればと戸棚を開けると、此の前に浅田屋から貰った祝い酒が有るではないか。何れ自分の家に持って行く事にしていたがこの際に丁度いい。
「お師匠さん、祝い酒が有りますが飲まれますか」
「ほんまかいな、それは有難い。ワシは酒には目がのうてな」
 戸棚から菰樽を取り出すと
「お口に合いますかどうか」
「ワオゥ、ぎょうさん有るな、五升樽か」
 と非常に嬉しそうだ。
「全然、封を切っとらんが大将は飲まんのか」
「私は酒を一滴も飲めん体質なんですよ」
「ほう、其れは悪いな。一人でええ思いをさせて貰うて済まんな。へへへ」
 と一人悦に入りながら一合升で口にしている。
 山中で酒の肴を買いに行く訳にもいかず、何時も食べている、丸干しやスルメが有ったので其れを囲炉裏で焼いて出すと
「大将、極楽じゃ、極楽じゃ。側には地獄の一丁目から救ってくれた鉄と玉が居るし此処は御殿だな」
 城中ではこんな物は食べた事などないのであろう。始めて庶民が口にするものが旨くて珍しくて全くご機嫌で一人酒をしている。
 その間、与作は近くから、ミョウガや山芋を掘って来て簡単に調理して出した。更に青い柚子が有ったので味噌を其れの上に乗せて炭火の上で焼いて食べさせた。
「大将、ワシは大酒飲みじゃが、こんなに美味い酒と料理を食ったのは生まれて初めてじゃ、実に美味い!」
 酒が進むと明るく饒舌になり、周りも楽しくなって来て鉄も玉も嬉しくて堪らない。
「それにしてもラー助が遅いのう。何処へ行ったんかのう」
 とえらく心配している。
「どうしたんですか。間も無く帰って来ますよ」
「大将、聞いてくれるか。ラー助の活躍ぶりを」
「ラー助が何かしましたか」
「ワシの命の大恩人よ。ラー助が来てくれんかったら今頃はお陀仏になっていただろうよ 」
「ワシ等は間道をずっと尾行されとったんじゃ、前と同じ様に十人はおったな。完全武装をしてな。さっきワシ等がおった広場の手前に栗の木があろうが、其処で木の陰に隠れてワシを待ち伏せしとってな、毛利方の弓の射手が心臓を狙うとったんじゃ。後を付けて来る奴ばかり気にしとったから、前方に全然気が付かんかってのう」
「奴等が襲って来るのは広場じゃばっかりと思うとったから、突然、矢が頭のすぐ上を飛んで行ったからびっくり仰天よ。じゃがのう、目の前の木の陰から射手が道に転げ落ちて来てな、右目をくり抜かれて血だらけじゃ」
「其れがな、空から見張っとったラー助が弓を放つ瞬間、真上から急降下して攻撃してくれたのよ」
「ワシは間一髪、心臓をぶち抜かれずに済んだんじゃ」
「そんな事が有ったんですか」
「だから今すぐにでも逢いたいのよ」
「でも、もうじき帰って来ますよ」
 と話している時に
「テッチャン、タマチャン、ヨサク」
 と小屋の上から声がした。何と一番先に師匠が飛び出して行った。余程、弓矢から難を逃がれたのが嬉しかったので有ろう。
「ラーちゃんお帰り、待っとったよ」
「オショウサン」
「ワシは坊主じゃないよ」
「カラスカ」
 とトンチンカンな会話を外でしている。
 与作は其れを聞いていたが、おかしさに吹き出した。
 すぐに肩に止まって中に入って来た。暫くは小屋の中は「ワンワン、ニャーニャー、ガァーガァー」賑やかな事、賑やかな事、天下の大殿も酒の勢いかどうか、子供の様にはしゃぎまくっている。
 何とも奇妙な取り合わせである。
「処でラーちゃん、口に何を咥えておるんじゃ」
 と師匠が聞くと、与作が答えた。
「其れは、水芭蕉の花ですよ。ラー助は逃げて行く間者供を上から見ていたのです。山中から怪我をした仲間を担いで下りて、可愛川沿いに行き其処から川舟で対岸の敵陣の犬飼平に渡りました。
「そんな事が何で分かるんじゃ」
 と師匠が不思議そうに聞くと
「其れはラー助が持って帰って来た花なのです。水芭蕉は此の地では犬飼平の窪地の池にしか咲いておりませんから。子供の頃に仲間と泳いで渡り、よく採りに行ったものです」
「う〜ん、凄い!もの凄い読みじゃのう。大将がワシの参謀に付いておってくれたら千人力なのじゃがのう。惜しい、実に惜しい」
「済まん、つい愚痴が出てしもうたが許してくれ」
「然し、ラーちゃんは空飛ぶ忍者じゃなぁ」
 大好きな師匠に頭を撫でられ、褒められると大きな目をパチパチし、照れながら膝の上にちょこんと乗っかっている。
「ほいでな、他に鉄ちゃんの事じゃがな、どして狼犬の仲間を呼んでくれたんかのう」
「何ですか、其れこそ私には分かりませんが」
「さっきの広場でワシ等が囲まれて殺られかけとった処へ、牙剥き出しの図体が大きな仲間が四、五頭来てくれてな、ワシ等を取り囲んで奴等を威嚇してくれたんじゃ、笹薮から出て来た時はワシ等も噛み殺されるんじゃないかとビビッたよ。じゃが強い味方になってくれて全部追っ払ろうてくれてな、奴等は這々の体で逃げて行ったんじゃ」
「さいなら、さいなら云うて送くっちゃたよ」
「じゃが、ワシ等を守ってくれた狼達が帰える時はな、牙を収めて穏やかな顔になってくれてな、ワシャ嬉しゅうて又、遊びに来いよと言うてやったよ」
「ワシは日頃から鉄を信頼しとるが、其れにしても狼の仲間を呼び寄せるとは、如何に与作殿に鉄が恩義を感じているかと言う事じゃ」
 師匠は酒が段々に回って来ると、全くご機嫌で冗舌で、冗談ばかりを飛ばしている。
「ワシは此処におるのが楽しゅうて堪らんのじゃ。何でバカ殿を続けにゃいけんのかのう。ハハハ」
「鉄ちゃん、ようやってくれたな。お前も師匠さんが大好きだからな」
 与作と師匠さんに頭を撫でられ大喜びをしている。
「然し、鉄ちゃんは義理、人情に厚い犬じゃのう。ワシもほんまええ勉強させてもろうとるよ」
「私にも、よう分かりませんが多分、小さな時に一度だけ、半年くらい家出した事が有ります。その時は多分、親兄弟の狼に見つかり連れ戻されたのでしょう。 然し、人間の愛情が忘れられず、又、狼の群れの習性に馴染めず戻って来てくれたのではないでしょうか。迷い子になったのを拾って生命を助けて貰った恩返しではないでしょうか」
「じゃが、鉄は従順で優しくて全く勇敢じゃな」
「ほんま大将の処は忍者一家じゃのう」
 色々喋っているうちに師匠さんの瞼が重くなりだした。一升以上を飲み干し、流石に疲れたのであろう。今日の襲撃事件の気苦労も有り
「ワシはもう眠とうなった、今日は城には帰らんぞ。大将、泊まらしてくれよ」
「布団は有りませんよ」
「要らん、要らん。囲炉裏とゴザで十分じゃ。其れに地獄の一丁目から救うてくれた、鉄と玉とラーちゃんがくっ付いて寝てくれるからな」
「其れに此処で忍者一家と一緒におると、ワシは何十年分もの、幸せを取り戻した気分になれるんじゃ」
 その夜は師匠さんと与作に挟まれて鉄、玉、ラー助とも皆んな安心して腹を出し仰向けに寝たのであった。
 他人様から見れば馬鹿かと思われる程、奇妙な取り合わせで有った。
 翌朝、与作は仕事の為に出掛けなければならない。早めに起きて師匠さんと皆んなの食事を作り用意をしておいた。
 玄関戸の外に出ると皆んな見送りに一列に並んでいるではないか。
「今日は来んでもええからな、お師匠さんをちゃんと送って上げてくれよ」
 と言うと心得たものですぐに聞き分けてくれた。
 そして小屋の上から
「ダイジョウビ、ダイジョウビ、ワシ二マカセトケ」
 何時もの師匠の声色のラー助の一言
「ほんま頼りになるな、お前達は。じゃ行って来るからな」
 其れから与作が出掛けてから暫くして、師匠が目覚めると与作はもういなかった。顔のすぐ上に鉄と玉とラー助がジィーと覗き込んで待っている。
 背伸びをして欠伸をすると鉄と玉が顔をペロペロ舐めまくりながら大騒ぎをしだした。
「ラーちゃんは堪えてくれ、目を潰されるからな」
 と冗談を言いながら、優しく頭を撫でている。
 起き上がって見ると、質素ながら食膳が並んでいた。
「有り難うよ。ほんまにすまんことよ」
「よしゃ、一寸、外に出てみるか」
 と鉄が先に戸を押し開けた。
「オッ、鉄ちゃんすまんのう」
 陽射し眩しい本日もいい天気のようだ。
 手水鉢で手や顔を洗うと後から鉄も玉も同じ様にやりだした。
「何という事じゃ」
 其れが済むと遠くに見える城を観やりながら「飯を食ったら出発じゃ」
「鉄ちゃん、玉ちゃん、ご飯を頂くぞ」
 と言うと屋根の上から「ラーチャン、オルゾ」
「すまん、すまん姿が見えなんだからな」
 皆んなで一斉に小屋の中に入ると自分の食べ物の前で師匠さんが食べるのを待っている。
「何という躾をしとるんじゃ、大将は」
 箸を取り上げると思わず涙が出て来た。
「メシ、メシ」
 のラーちゃんの一声に急かされて
「いただきます」
 麦飯に丸干しを焼いたのと、囲炉裏の側には冷えない様におみおつけと梅干しが有った。こんな質素な物でも師匠にとっては、何物にも代え難いご馳走で有った。
 鉄、玉、ラー助も何もいい物を与えていなかったが互いに美味しかったよ、と云う顔をしている。
 やがて食事を済ませると
「城で皆、心配しとるじゃろう。よし、出立じゃ」
 途端に「ワンワン」「ニャァ、二ャァ」「ガァー、ガァー」と騒々しい事、この上なしである。
 小屋から城までまだ一里程は有る。此処から大将は
「天守閣の上からワシが手を振るのがラーちゃんには見えると言うとったが、どんなええ目をしとるんじゃ。城がほんの豆粒しかないで」
 朝もやの中、爽やかな道中であったが昨日の今日で有る。城へ着くまで油断は出来ない。
 鉄と玉は与作が居ない分、師匠の警護気取りで挟む様にして山道を歩いて行く。
 上空を見るとラー助が弧を描く様に空から目を光らせてくれている。
 やがて城門が見えて来た。
「鉄ちゃん、玉ちゃん、有り難うなもう此処でいいよ。後は一寸待っといてな、ラーちゃん行くか」
 小さな八幡山城の前では城主と警護侍が待っていた。
「大殿、心配しておりましたが、無事で居られましたか」
「アァ、全く大丈夫じゃ。朝帰りしてすまんのう」
 と互いの挨拶を済ますと城内へ入って行った。
 二階に上がって行くと昨晩と今朝の食事が用意して有った。既に窓枠にはラーちゃんが止まっている。
「一寸、待っといてくれるか。今から一筆書くからな」
 と言い師匠は猪の肉を持って来てくれた。其れを頬張っている間、暫く考えながら手紙を書くと
「ラーちゃんよ、此れを大将に渡してくれるか。其れに飯を持って帰るか」
 包みを持って飛べる様にこしらえてくれた。
「ラーちゃん、此れを持てるかな。重いぞ」
「ダイジョウビ、ダイジョウビ」
 足の爪に大きいのを持たせ、口に書状を咥えさせた。
 城の上から見ると山中の道に鉄と玉がこちらを見ている。其処へラーちゃんが舞い降りた。窓枠から顔を覗かせ手を振ってやると目一杯尻尾を振っている。
 其れから大きな包みは鉄が咥え、玉は背中に飛び乗っている。皆んな嬉しそう帰って行くではないか。
 中身が美味しいご馳走で有るのを皆よく知っている。
 礼金

 師匠は今度の襲撃事件の事が与作が居ない時に発生し、鉄とラー助が大活躍してくれたのが余程嬉しかったのか
「大将、来てくれ!皆んな引き連れ来てくれ。でも城へは絶対に来んじゃろう。ワシの方から行こうと思う、何処がええかのう」
 と書状を書いた。
 其れを頭のいいラー助は、すぐに浅田屋の与作の処へ一っ飛びした。
 店の上空から見渡しても見つからない。今日は何も急く事ではないとラー助はよく知っいる、屋根の上からキョロキョロのんびり見渡している。 然し、物凄い視力で観察力が半端ではなく、其れに鼻も利くと来ているから空飛ぶ忍者のラー助から逃がれる事は出来ないのだ。
 そうして暫くして又、空高く舞い上がると、遥か向こうの田んぼの中の一本道を荷物を小脇に抱えながら与作が歩いているではないか。
 ラー助は其処へ飛び立ち急ぎ目の前に舞い降りた。
「ラーちゃん、びっくりするじゃないか、どうした」
「オシショサン、ガミガミ」
「おう、お師匠さんから手紙か。わざわざ持って来てくれたんか」
 咥えていた書状をポトリと落とし、与作は広げて一読すると
「ラーちゃん、今から返事を書くから又、城へ届けてくれるか」
 すると田んぼのあぜ道に腰掛けて、御用聞き用で何時も携帯している、筆と紙を取り出し一筆書きだした。
 お師匠様へ
「其れなら、明日は非番で百姓の手伝いも無く大丈夫ですが。お師匠さん、天気も良さそうなので昼頃、城の近くのすぐ上にある堤の処に皆んな総出で行きますが、いいですか」
 こんな簡単な書状のやり取りは、ラー助が果たしてくれる。
 店に戻ると、丁度、主人が商いの事で城へ出掛ける処で有った。
 ばったり顔を合わせると
「ご主人さん、昨日はご迷惑をお掛けしてすみませんでした」
「いやいや、どうちゅう事たぁないよ」
「其れでお師匠さんは何とも無かったんか」
「・・・・」
 何にも喋らなかったが、ニコニコしているのを見て主人は
「昨日、国久公が三次へ来られたというのを聞いたでぇ。与作よ、外で話すか」
 と言いながら一緒に街中を東にぶらぶらと歩いて行った。
「そりゃええが、昨日、城から使いが来てのう。ワシャご家老様に呼ばれてな、何事かと思うて登城したのよ。又、闕所じゃ言われるんじゃないかと、ヒヤヒヤしながら緊張しまくってのう」
「処が全く違う話しじゃったのよ」
「殿様がな、此の前の闕所の事で浅田屋に、大変、迷惑と心配を掛けて申し訳ない、謝りたいと仰せになったらしいんじゃ。其処でご家老様が代わりに、ワシに手をついて頭を下げられたのよ。ワシはびっくりしたで」
「其れは良かったですね」
「其れからな、浅田屋さんに頼みたい事が有るんじゃが聞いてくれるか。とおっしゃってな」
「私に出来る事なら何なりとお申し付け下さい」
 と言うと
「うちの家来供の事に関する由々しき問題でのう。此れのせいで横着者がぎょうさんおってな。藩の士気に関わる事じゃ」
 と言われて、
「鳥目に関わる予防と対策について是非、講義をしてくれんかのうと頼まれたんじゃ」
「聞く処によると藩士の中に一杯おるらしいな。これじゃ夜間の城の警備も、いざ合戦になった時に、何の役にも立たんと嘆いておられたよ。其れに、此れを口実に日頃の仕事を、わざとせん不心得者がいるらしいんじゃ」
「多分、其れは、お殿様の依頼でしょうから、堂々と藩士の皆さんの前で有りったけの知識を披露されては如何ですか」
「此れは藩を掌る、重要な役目のご家老様も、主人さんに期待されていると思いますよ」
「なるほど、ワシは侍相手にやると思うて少々ビビッとったが、自信を持って話せばええんじゃのう」
「そりゃそうですよ。浅田屋はお城とは先代からの長きに渡り、信頼関係を築いて来たのですから」
「分かった、有難う。ワシは今から行くけぇ此処でええよ」
「堂々と胸を張って一席ぶってきて下さいよ。すみません。丁稚が要らんことを言うて」
「何の何の、頼もしい男がおってくれて浅田屋も心強いよ」
 与作は、今日は一日中、仕事をしながらご機嫌であった。主人が以前と同様にお城に出向き、商いに精を出している事に、心の中で嬉しくて堪らなかった。
「コラー、与作!何をニヤニヤしいしいボケーとしとるんなら。昼飯を抜かせるど」
 昨日、仕事を放ったらかしにして逃げて怒鳴られた、あの番頭の大声が店内に響き渡っている
「す、すみません。真面目にやりますから」
 浅田屋での仕事を終えてから、鉄と一緒に小屋へ帰り着くと
「おい、皆んな明日は休みじゃから、師匠さんの処へ遠足に行くぞ。そして久し振りに宝探し遊びをやるからな」
 途端に此の言葉を聞いて大喜びをして、部屋の中を飛んだり駆け回っている。
「辞めぇや、埃が立たあや」
 そんな事には御構い無しで、与作も処置なしで有った。
「オイ、晩飯を食うたら早う寝るど。又お師匠さんに会えるぞ。明日は朝飯抜きでご馳走をいただくぞ」
 食べると言われて又、走り出した。
「オイ、ほんま辞めいや」
「エイエイオー、オラーオラー」
「好きな様にせぇ、ワシャ寝る!」
 翌日、昼前に堤の側の広場でゴザを敷いて待っていた。
 其の上に座って師匠さんが早く来ないかなと、与作と鉄と玉が城の方を見つめている。
 其の時には既にラー助は、城を出て来るお師匠さんを待ち構えている。
「キタ、キタ」
 早速、小さな包みを受け取ると爪に引っ掛け皆んなが待っている処に飛んで来た。
 すぐに、其れに気付いた鉄と玉は迎えに走って行く。そして本当に嬉しそうに鳴きまくっている。鉄は大きな包みを咥えて駆けて来た。
「大将、待たせたな」
「どういたしまして、わざわざ有り難う御座います」
「今朝、弁当を作らせたから皆んなで食べようか」
「ワシは酒を一升程持って来たが、大将は飲まなんだなぁ、へへへ、すまんな」
 与作は頂いた包みを広げだすと
「オイ、皆んな喜べ、大ご馳走だぞ。どうも有り難う御座います」
 すると一斉に鳴き出しお礼を言っている。
「お師匠さんは先に飲んどって下さい。でも弁当を頂く前に忍者一家が宝探し遊びをしますから、よ〜く見といて下さいよ」
「ほう、そりゃ楽しそうじゃのう」
「よし、お前達ええな、お師匠さんの前で誰が勝つか競争じゃ」
 鉄も玉もラー助も此れをやりたくて、喜びはしゃぎまくっている。
「今から此処へ五つの宝を置きます。そして皆んなに臭いを嗅がせ、其れを私が此れから山中に隠して来ます。其れを誰が一番早く多く取って来るか競争させるのです。
 やがて与作は袋の中から「草鞋、足袋、手拭い、しゃもじ、弁当箱」を取り出した。するとお師匠さんは
「ハハハ、屁みたいな宝じゃのう」
「茶化さないで下さいよ。皆んな真剣なんですから」
「すまん、すまん、ごめんよ」
「でも、そんな事が出来るんか」
「出来るか、出来ないかやってみましょう」
「よし、臭いを嗅いだか」
 鉄も玉もラー助も額を突き合わせながら、真剣にクンクンと大きな鼻息で嗅いでいる。
「よし、ええな。今から隠して来るから一寸、待っとけ。ワシが帰ってから競争じゃ」
 与作はすぐに草木が茂る山の中に駆け上がって行った。
 今迄、甘えていた鉄、玉、ラー助の表情が一変し、全く真剣な顔で与作が駆け上がって行った先を見つめている。
 結構、広い範囲に隠しに行ったので有ろうか、大分、時間が経ってから与作が坂道を駆け下りて来た。
「師匠さん、今から始めますから号令を掛けて下さい」
「よしゃ、分かった。皆んな頑張ってくれよ」
「さあ、行け!」
 と両手を「パン」と叩くと一斉に動き出した。鉄と玉が並んで走り出し、ラー助は一気に飛び立った。
「然し、大将、面白い事をするな。こりゃ楽しみじゃ、酒がすすむぞ」
「こうなりゃ、ワシと大将の人間同士の勝負じゃ。誰が勝つか賭けようではないか」
 とニコニコ笑いながら挑んで来た。
「ワシはラー助が勝つと思うが、大将はどうじゃ」
 与作は苦笑いをしながら
「ウ〜ン、多分、鉄でしょうが」
 と言葉を濁しながら笑っている。
「じゃが、真面目な話、大将は相当広い範囲に隠しに行ったが、皆んなに全部見つける事が出来るんか」
「其れに、此処は何時も遊ぶ処と違ごうて、慣れとらん始めての場所じゃろうが」
「さあ、其れは私にも分かりません。だが皆んなを信じております」
 色々話している時にラー助が飛んで来た。
「ウオゥ!やった、やったあ、ラーちゃんじゃ、幸先がええのう」
 手拭いをゴザの上に落とし又、飛んで行く。
 其れから、更に一杯飲んでいる時に玉が帰って来た。
「オウ、玉ちゃん、頑張れ!ええぞ、ええぞー」
 しゃもじを置いて又、駆けて行く。
「然し、鉄も玉もラー助も人間では到底考えられん程の鼻と目と耳をしとるんじゃのう。今、やっとる嗅覚を利用した宝探しにしても学者が言うには、狼犬は人間の何千倍も有るらしいんじゃが、大将ほんまかいな」
「ハイ、鉄に関して言えば、何の臭いにも敏感に反応するのです。一山二山、向こうで有ろうとも確実に見つけて来ます。玉も優れていますが、何もかもとはいきません。自分の好きな物に対しては反応が良いのです。でも離れた距離では無理な様です。今日の宝探しの距離が限度でしょう。ラー助は今日の場合は嗅覚に頼るのでは無く、上空からの桁外れの視覚に専ら頼ります」
「今、言われた何千倍という数値に関しては全く分かりませんが、感覚としては分かります」
「浅田屋のお嬢さんが誘拐された時、脅迫状に糊替わりに付けていた一つの飯粒を嗅がせると、此れを書いて出した犯人の処の住まいに辿り着きました。店から通り二本を隔てた奥まった長屋でしたが、此れがその感覚ではないでしょうか。それを玉がやったのです。鉄ならその何倍も出来るのです」
「なるほど。然し、大将は、夫々の動物の特徴を上手に引き出すなぁ」
 色々、話している間、時間が経っても鉄だけが帰って来ない。
「鉄ちゃんは、どうしたんじゃ。まだよう見つけきらんのかのう」
「そうですね。苦労しとるようですね」
「大将、ワシの勝ちじゃのう」
 わいわい、ヤイノ、ヤイノ、師匠の賑やかな事、子供の様にはしゃぎながら応援をしている。
 やがて山裾の木陰から鉄が現れた。
「鉄じゃ、鉄じゃ、遅かったがようよう帰って来たぞ」
「鉄ちゃん、頑張れ!頑張れ!」
「あれ、じゃが二つ咥えとるでぇ」
 そしてすぐ後に玉が追って来る。 互いに決勝点迄の駆け込みだ。
「鉄行け!、玉、頑張れ!」
 師匠の大きな声援に皆んな一生懸命だ。
 少し先を鉄が行く。だが、決勝点手前の十間辺りの処で口から弁当箱を落とした。
 その間に玉が足袋をゴザの上に落として座り込んだ。
「やった!やった!玉ちゃん勝ったぞう」
 玉はプィと上を向き尻尾を立てて勝ち誇っている。
「ワオゥ、ワシの負けじゃ」
「玉が勝つとは思わなんだな」
「然し、完全に大将にやられたよ」
「じゃがのう、大将は鉄が勝つと、はっきりと言わんかったが、どうして分かったんじゃ」
「わざと玉に勝たせたんじゃないのか」
「其れは分かりませんが、鉄の大らかな性格と優しさが出たのでしょう。自由気ままな性格の玉を、自分の子供の様に思っているのです」
「そんな玉が巣から落ちていた雛鳥のラー助を拾って来て育てたのですから、鉄にとっては可愛いくて仕方ないのです。顔は怖いですが本当に心優しい狼犬なのです」
「いやはや、大将の動物の性格と特徴を見抜く眼力には恐れいったよ」
「ワシはほんまにええ勉強をさせて貰うたよ」
「其れはええが、ラーちゃんが帰って来んが何をしとるんかのう。もう負けたんが分かっとらんのかのう」
「呼んでやりましょう。まだ探しとったら可哀想ですから」
 師匠がカラス笛をひと吹きするとすぐに飛んで帰って来た。
「カッタ、カッタ」
 の声を出しながら師匠の肩に止まった。
「ラーちゃん、勝ったんじゃなくて負けたんじゃろうが」
「シミマセン」
 と言ってペコと頭を下げた。スの発言が出来ないのだ。
 此れには二人とも笑い転げたのである。
「ヘヘヘェ」
「ご苦労さん、皆んなよう頑張ったな。さあ、師匠さんに頂いたご馳走を皆んなで頂こうか」
 ゴザの上に広げたご馳走に、鉄も玉もラー助も目の色を変えている。
 日頃は、丁稚奉公で気持ち程度の給金しか貰っていないので、贅沢が出来ないのだ。
 麦飯に少々のおかずを添えただけのお粗末な食べ物だが、皆んな美味しそうな顔をして食べてくれる。
 会う度に、何か持って来てくれるお師匠さんが好きな筈だ。
 やがて宴が終わる頃、お師匠さんが真顔になり呟いた。
「実はな、今日は皆んなにお礼がしたくて来たんじゃ」
「今更、何ですか。二度と其れは言わないと申し上げたではないですか」
「じゃがのう、ワシは大将と知り合ってからそんなに長くはないが、この間に三度も生命を助けて貰うた。一昨日などはラー助が助けてくれなかったら弓矢にやられて今はこの世に居なかったで有ろうよ」
「前の時も大将は命を賭けて迄、ワシと一緒に戦ってくれた。其れに鉄と玉に物凄い活躍をして貰うた」
 と言いながら、重そうな木箱を前に差し出した。そして姿勢を正して
「大将、是非受け取ってくれるか」
 と蓋を開けたのである。
 こちらへ来る時にお師匠さんが背負って来て、両手には弁当の包みを持って来た時に薄々気づいていたのだが、まさか其の中身が小判だとは想像もつかなかった。
「何ですか!これは!」
 途端に与作は腰を抜かさんばかりに驚いた。大枚の小判がぎっしり詰まっているではないか。
「冗談じゃありません。受け取る事は出来ません。全く恐れ多い事で御座います」
「大将は、ワシの生命の代償がこれより安いと云うのか」
「とんでも御座いません。私も鉄、玉、ラー助もそんな気持ちは毛頭有りません。只、お師匠さんと顔を合わせて、可愛いがって頂けるだけで十分なので御座います。私を含めて皆んな、お師匠さんが好きで好きで堪らないのです。お気持ちを頂くだけでお金は一切要りません」
 こうした与作の欲の無い本当の気持ちに接し、おいおい大声で、男泣きしたのである。
「大将!頼む、受け取ってくれ。ワシは今も賭けに負けたではないか。其れと思って受け取ってくれるか。頼む!」
 ゴザの上に平伏して頭を下げたのである。
 与作は、あまりにもの師匠の所作にびっくり仰天し、相対して師匠の目の前に平伏した。
「分かりました。お手をお上げ下さい。有り難く頂戴致します」
「ほんまか!大将、受けてくれるか」
 与作はこっくり頷き互いに両手を上げると
「有難う、有難う」
 そして一家を見渡し、「鉄ちゃん」「玉ちゃん」「ラーちゃん」と名を呼びながら頭を丁寧に優しく撫でている。
「頑固なご主人様がようよう承知してくれたよ。皆んな良かったな」
 こうした天下の大殿と丁稚奉公の与作との、とてもじゃないが常識では考えられない男の友情に、実は一番満足していたのは尼子国久公であった。
「ええ気分じゃのう。ドンドン食ってくれ、ワシもほんまに酒が美味うてやれんよ。もう一升持って来りゃよかったのう」

 専正寺

 与作は貰った大金に思案をしていた。何せ百姓あがりの丁稚奉公と、中国地方を支配する天下の大殿とでは、まるで金銭感覚が違うのだ。
 子供時代、百姓の我が家で、小判を見た事など一度も無く、ようやく目にしたのは専正寺さんや、おっちゃんと三次の町に一緒に買い物に行く時、目にしただけなのだ。
 自分は、浅田屋勤めをしており、僅かばかりではあったが給金を貰っており、贅沢をしなければ食うに困らない。婆ちゃん子である与作は常に「物は大切にせえよ、人の物は盗るなよ、人の役に立つ人間になれよ」と常に言われて育っていた。
 其れから与作は毎日毎日思案に暮れていた。この大金をどうすればいいものかと勤め先の浅田屋でも家に帰っても難儀していた。
 そうした時、浅田屋の使いで志和地の庄屋の山田屋に用事があり出掛ける事になった。その日は昼過ぎには到着した。
 此の当時、まだ薬を手に入れるのには庄屋の世話により薬種問屋からまとめて仕入れしていたのだ。後の富山の売薬業者が全国各地の家々を訪ねて置き薬を配置することになるのだが、其れ迄は貧しい家々の為に庄屋が一括仕入れをして面倒を見ていたのである。
 玄関先で「ごめんください」と一声かけるとハナが中からから出て来た。
「オウ、ハナちゃんか。久し振りじゃのう。無事勤めておるか」
「お兄ちゃんこそ何用よ」
「庄屋さんに渡すもんがあって来たんよ」
「ご主人夫婦は、葬儀に出掛けているよ」
「そうか、其れじゃ渡しといてくれるか」
「うん、わかったよ」
「そりゃええが、ハナちゃんお土産の饅頭。ハイ!」
「ワァ、有り難う。此れは志和地の店には無いからね。美味しいんよ」
 ハナは其れからお茶を出して来た。縁側に腰掛けながら二人で挨拶代りの世間話を始めていた。
「ハナちゃんよ。実はな、ワシはどうしてええか困っとる事が有ってな。何か方法はないかなあ」
「何よ、兄ちゃんでも困る事があるんね」
「ワシは今な、何百両という大金を持っとるんよ」
「えっ、今、何を言ったの」
「どうしたの、店の金を盗んだんね。そんな事はお寺さんの伴僧までしとったお兄ちゃんはせんよね」
「当たり前じゃ」
「実はな、有る事で尼子の大殿様の命をお助けして、褒美で頂いたのよ」
「それにしても考えられん金額よね」
「ウン、丁稚奉公のワシと天下の大殿様じゃ天地の開きが有る程の金銭感覚じゃ」
「そりゃ困った大変な事よね」
「身分不相応という事もある。ワシには全く必要が無いお金じゃ」
「分かった。お兄ちゃんの純な心は仏様の教えを説いて下さった専正寺に有り。其れじゃ其の使い道は、専正寺さんにしますか」
「今ね、お寺さんも修繕が大変な様なのよ。何せ建物が古いでしょ。じゃがね、ご住職様も檀家さんに迷惑をかけられんと気を遣っておられるのよ」
「よし、分かった。早速、今度の非番の日に顔を出してみるよ」
「ハナちゃん、ええ事を教えてくれたな」
「ハナちゃん、お礼に少しだけじゃが残しといてやるよ。お前が嫁に行く時の花嫁道具一式は揃えてやるよ」
「ワァ〜、嬉しい!さすがお兄ちゃん!有り難う」
 ご主人様が留守の間、兄妹は饅頭を食べながら久し振りの逢瀬を楽しんでいた。
 ハナも、今は庄屋さんや村から給金をもらって少々だが貯金をしているとか、専正寺さんよりお兄ちゃんを通して学問を教えてくれた事に感謝して写経を続けているとか、昔はお寺さんが怖かったが今は喜んで御院家様や奥様と話しをさせて頂いており、奥様には私の代わりに伴僧をやってもらえないとか言われたけど、自分は百姓の小娘だから断ったのと、とに角、よく喋る。
 でも、与作はハナの話しを聞いていて心地良かった。
 最後に与作は
「ワシはボチボチ帰るが、ハナちゃんよ、今話した事じゃが絶対に内緒だぞ」
「分かっているよ。私はお寺さんの子供の子供だもん。仏様の教えは忠実に守りますよ」
 其れから程なくして非番の日がやって来た。
 たまの休みを鉄、玉、ラー助もよく知っており外で会議を開いている。
 処が今日はお寺さんに顔を出す日で鉄も玉も連れて行く訳にはいかない。鉄に帰って来る迄は留守番をする様に頼んだ。
 本当に賢い。寂しそうにしていたがすぐに聞き分けてくれるのだ。
 与作は木箱を風呂敷に包み背負って山道を駆け下りた。
 押し掛け小僧みたいに入り込み、お世話になり、更に学問を教えて頂いた、大恩ある和尚様に是非お会いしなければ。
「ハナの話しでは寺の修復普請に、金が要ると聞いている。だから和尚様に相談してみるか」
 専正寺へは何時以来で有ろうか。丁稚奉公に出てから何年も来ていない。
 我が家には立ち寄らず、通り越して田んぼ道を進むと、目の前に寺が見えて来た。
 何度も突いた鐘つき堂が懐かしい。一礼をして境内に入り庭を眺めると砂絵が描いて有るではないか。与作が何時もいたずら半分でやっていた事だが、今は和尚様がやっているのではと思っていた。
 暫く眺めていると庫裏の方から声がする。
「与作ではないのか」
「アッ、和尚様、お久し振りで御座います。ご無沙汰致しまして誠に申し訳け有りません」
「何の、何の、与作も元気そうじゃのう。真面目に勤めておるか」
「まぁ上がれや。それにしても随分変わったな」
「おい!与作が来てくれたぞ」
 と声を掛けると、奥から奥様が顔を覗かせた。
「あら、与作さん、いらっしゃい。よく来てくれましたね」
 と奥の離れの部屋へ案内してくれた。
「和尚様の教えを忠実に守り、浅田屋で少しでも役に立てる様に頑張っております」
「そうじゃろう、そうじゃろう。お前の事じゃ、必ずや信頼されておる事じゃろうて」
「与作さん、随分、立派になりましたね。後ろから見ていましたが、風格が有り堂々としていて感心しましたよ」
「奥様、買い被らないで下さいよ。私はまだ丁稚奉公の身ですから」
「いや、与作よ、ワシには分かるんじゃ。お前は、いずれ世の中の役に立つ人間になれると言ったが、ワシの読みに狂いはないよ」
 和尚様と奥様は懐かしさのあまり、子供時代から無報酬で寺に尽くしてくれた与作に対して、長々と回想しながら話しかけて来た。
「与作よ、お前が去ってからワシらは、寂しゅうて、寂しゅうて狼狽えまくっとったよ。特に女房はしょっちゅう泣いとるのよ」
「お父さんこそ、毎日、ボケッとしてたじゃないですか。鐘は突き忘れるわ、法事、法要の案内をするのを忘れるとか、もう大変だったんですから」
「すみません、本当に申し訳け御座いませんでした」
「でも今は大分慣れてな、与作がええ道を創ってくれてからは、後輩が育っとるのよ」
「さっき、庭に入った時、砂絵がありましたが、今は和尚様がやっとられるんですか」
「違うよ、ワシじゃないよ。今はな、与作の後輩が描いてくれとるのよ」
「近郷近在の方に評判がようてな」
「ワシも与作が去ってから暫く寂しゅうてな。寂しさを紛らわせる為に、武士や町人の子供を集めて寺小屋を始めたのよ。なんぼ、戦国の世の中とはいえ、学問の場が必要と思うてな」
「かって、どんどん進歩していく与作を教えてから、はまってしもうたのよ。皆んなの日々成長していく姿を見ていると愉しゅうてな」
「其れにな、今は侍の子も来ておってな。町人の子達とも仲ようやっとるよ」
「順番を決めて掃除までしてくれとるんじゃ。庭の絵も我先にと競うて、季節毎にやってくれておるんじゃ」
「此れも与作が創ってくれた道のお陰だよ。ほんまに有り難う」
「其れは良い事を始められましたね。すると私が一期生ですかね」
「そうじゃ、そうじゃ、優秀な大先輩じゃ」
 和尚様は久し振りに与作と会ったことで嬉しく仕方ないのだ。奥様も側でニコニコしながら聞き入っている。
 尽きぬ話しが佳境の頃、お茶を飲みながらお菓子を頂いている時、与作はとんでもない話しを切り出した。
「和尚様、実は私がお寺を去る時に、はなむけの言葉に、お前は何れ途轍もない立派な師匠に巡り会うだろうと言われました」
「うん、確かに言うたよ」
「正しく、其の様な御方に遭遇致しました」
「何、もう巡り逢うたのか。早やいのう」
 和尚様も奥様と顔を見合わせ嬉しそうに
「して、其の人はどのようなお方じゃ」
「其の御方は、武術の達人で剣の修業をしてくれ、更なる学問の習得と心の大切さを教えてくれました。今現在も懇意にして頂いております」
「何い、今時、百姓育ちで丁稚奉公のお前に、そんな物好きな侍はおらんじゃろうが。戦乱の世の中で殺るか、殺れるかの世界だぞ」
「第一、お前に剣が持てる訳が無かろうが。もし百姓あがりのお前が刀を持っとるのがわかつてみい、たちどころに切り捨て御免じゃぞ」
「ワシには理解が出来ん。してその人とは何者じゃ」
 あまりにも突飛な事を言うもので、びっくりした顔をしている。
 だが和尚様夫婦は膝を乗り出し興味津々である。
「和尚様だけには言います。絶対に内緒にしておいて下さい」
「勿体ぶらずに早う言うてくれえや」
「其れはある事がきっかけで知己を得ました。中国地方の此の地を治める、尼子晴久公の叔父上にあたれらる国久大殿様で御座います」
「・・・・」
 和尚様は暫く絶句し、驚天動地の大事件の様な表情である。
 奥様は其のやり取りを、嬉しそうにニコニコ笑顔を浮かべて聞いている。
「何い!もう一遍言うてみいや。絶対に冗談じゃろうが」
「嘘をつくな!」
「私は嘘は付きません。嘘付きは泥棒の始まりと、和尚様に教わりました」
「じゃが、此の御方は八幡山城の城主や三吉のお殿様も足元にも及ばぬ立派な大殿様だぞ」
「だから、黙っておいて欲しいのです」
「考えても見ろ、武家社会の世の中で武士が幅を効かせる此の時代、一番上の更に其の上の天下の大殿様だぞ。町人の与作が、其れを世間に口にするだけでごみ屑みたいに斬り捨て御免で叩っ斬られるぞ」
「天と地ほどの身分格差が有り、其れが何で百姓の出で、丁稚奉公の身である与作が其れを言うんじゃ」
「独りよがりでは有るまいな」
「私は絶対に嘘は付きません。何度も言いますが内緒にしておいて欲しいのです。国久公に迷惑が掛かりますから」
「ウ〜ン」
 と大きな溜め息が和尚様の口から漏れた。
「ワシも志和地の城主とは懇意で何度も城に上がった事があり、その折に大殿様は、しょっちゅう常駐されているとは聞いた事は有るよ。だが出会ってご尊顔を拝した事は一度も無いよ」
「分かった、今迄の話しは一切聞かなかった事にする。絶対に他言はしない。其れこそワシの首も飛ぶとこじゃ」
 隣に座っていた奥様は只、二人の会話に聞き入っており、頼もしい与作の姿と話しぶりに聴き惚れていた。
「こんな事を言っちゃあなんじゃが、当てになる様でならんワシの勘ばたらきも、ええ方に働いたのう。有り難う、有り難う。自信が湧いてきたよ」
「此れからも、和尚様、世の中の為に宜しき教えてを広めて下さい」
「分かった、ワシも与作の様に頑張るぞ」
「処で和尚様、話しは変わりますが、今日はお寺の修復普請に金が掛かると聞いて様子を伺いに来ました」
「ハハハァ、一遍に話しが下界に下りて来たな」
 と苦笑いをしながら
「今、難渋しておるところでな。方々が傷んで雨漏りするんじゃが、ワシが屋根の上に上がって直す訳にもいかんしのう。何せ建物が古いからな、檀家の皆さんにあんまり迷惑は掛けられんからのう」
「此の部屋を見てみい、あっちこっち畳が濡れとろうが。うちで一番大切な客間じゃで。其れに与作が子供の頃、何時も見とった本堂の天井の絵もシミだらけじゃ」
「大変ですね、和尚様」
「お父さんも少々低い処は自分で修繕をするんですがね。何せ年ですから、危なかっしくて見ていられないんですよ」
 と奥様が笑いながら言うと、与作が話しを切り出した。
「和尚様、奥様、私も大した事は出来ませんが、子供の頃から可愛いがって頂き、更に一番大事な学問を教えて頂き大変お世話になりました。少しばかりですが寄進させて下さい」
「有り難う、有り難う。じゃが浅田屋の丁稚奉公では出世する迄の当分の間は、ただ働きみたいなものじゃろうが。気持ちだけでも嬉しいよ」
「気持ちだけは頂いておくから、与作の将来の為に其の分は貯えておってくれ」
「そうですよ。与作さん、あなたの優しい心根だけで充分ですよ」
 だが与作は、おもむろに風呂敷包みから木箱を取り出すと、目の前に差し出した。
「でも、ほんの気持ちですから、どうぞお受け取り下さい」
「ええんか、頂戴しても」
「はい、宜しゅう御座います」
「母さん、与作の志をお受けしようよ」
 和尚様は、気持ちは大変嬉しいのだが心の中で躊躇していた。だが強い気持ちの与作の厚意にまけ、姿勢を正し両手を合わせると一礼して蓋に手を掛けた。
 奥様も一緒にこっくり頷き頭を下げた。
 ゆっくり開けた途端、和尚様は大声で叫んだ。
「なんじゃ、此れは!」
 奥様もつられて奇声を発した。
「与、与作さん、どうしたんですか此の大量のお金は!」
 中にびっしり詰まっている小判を見て、びっくり仰天してしまった。
「ちょっ、一寸と待ってくれ!」
 暫く絶句した後
「与作は浅田屋の丁稚奉公ではないのか。月になんぼうも貰うとらんじゃろうが、此れは一生掛かっても稼げん額だぞ」
「まさか、浅田屋の金蔵から盗んで来たのでは有るまいな」
「お父さん!」
 と諌める奥様の声、でも明るく非常に嬉しそうだ。
「すまん、すまん。此れは全くの冗談じゃ」
「私には必要のないお金です。是非、お寺さんの為にお役立て下さい」
 和尚様は大きな溜め息をつきながら
「尼子の大殿様の話といい、此の大金の事といい、ワシの寿命を縮める程、びっくりさせてくれるな」
「和尚様、此れは全くまともなお金で御座います。理由は申し上げる訳にはいきませんが、専正寺さんにお使い頂く価値が十分に御座います」
「ウ〜ン、どうしたお金か知らんが一切、聞くまいて。誠実で正直者の与作の事はワシが一番よう知っとる。此れは、村の皆さんにも寺の為にも大切に使わせて頂きます」
 と言いながら夫婦で、姿勢を正し丁寧に何度も頭を下げたのである。
「本当に有り難う御座います」
「和尚様、奥様そんなに畏まらないで下さい。今迄の様に普通にお付き合い頂けなければ、今後も来にくいでは有りませんか」
「分かった、分かった。今迄同様に付き合う事にするから」
「今後とも宜しくお願い致します」
 と与作は、お寺さんに対し今まで育てて頂いたお礼を述べると
「和尚様、今日は、私は此れでお暇致します。ご馳走になりました」
「一寸、待ってくれよ。まだええじゃろうが」
「ワシも女房も、久し振りに来てくれた与作と積もる話しが一杯有るでのう」
「今、女房が取り急ぎ飯の用意をしとるんじゃ、有り合わせのもんじゃが食って行ってくれるか。今日は此れから別に用事が有りゃせんじゃろうが」
「本当にすみません。其れではお言葉に甘えまして宜しくお願します」
「よかった、よかった。飯の前に与作殿、一寸、見といて欲しいんじゃ」
「和尚様、其の殿付けは辞めて下さいよ」
「いいや、其れではワシの気持ちが収まらん。今後は一切、此れでいく」
 と毅然とした態度で一声放った。
 与作も苦笑いをする他なかった。
 和尚様は与作を案内し座敷を出て懐かしい庭先が見える長い廊下を渡り本堂の中に入ると
「与作殿、何時も子供の頃、眺めておった天井絵もご覧の通りじゃ」
「シミだらけで、欠片が今にも頭の上に落ちて来そうですね」
「そうじゃ、危ないから早速にも修復させて貰うよ 」
「私が小さい頃、和尚様が説教されている間中、うろちょろ、うろちょろしながら絵の下に行っては絵取り頭の中に描いておりました。あの時分は迷惑を掛けて申し訳け有りませんでした」
「何の、何の、あの頃から何処となく見所の有る人間じゃ思うとったよ」
 そして縁側の上に来ると懐かしそうに
「あれは小さい頃、与作殿が箒の柄で見よう見真似で字を書いておったなぁ」
「そうですね。其れを和尚様に見つかって、其れが学問を教えて頂くきっかけになりました」
「本当に有り難う御座いました」
「和尚様、其れにしてもええ庭で、それにふさわしい見事な砂絵ですね」
「そう思うてくれるか」
「庭を拡張してな、生徒の腕を競わせる様にしたのよ」
「此れを楽しみにしてくれる檀家の人が増えてな。与作殿はええ道を創ってくれたよ」
 余程、先輩が残してくれた事が嬉しくて見せたかったのてあろう。其処へ庫裏の方から食事の用意が出来たと奥様の声がした。
「すみません。わざわざ手間を取らせて申し訳け有りません」
「どうぞ、どうぞ、ゆっくりしていって下さいね」
「さあ、やってくれるか。与作殿、一杯飲むか」
「いえいえ、私は全く飲めません」
「そうか。其れじゃワシと女房だけですまんな。坊主の酒好きには困ったもんじゃ、ハハハ」
 と豪快に笑い飛ばしたのである。
「処でな、妹のハナちゃんじゃがな。今では村で無くてはならない人になっておられるのよ。与作殿と同様に全く優秀じゃ。ワシが上げた算盤のお陰かのう、此れは冗談じゃ」
「冗談では有りません。本当の事です。今でもハナは宝物といって大事に大事にしております。此れもみんな和尚様のお陰で御座います」
「和尚様に教わった読み書き、算盤をそっくり其のまま、復習がてら私が伝えたのを吸収した迄の事です。和尚様の子供の子供ですから」
「与作殿は上手い事を言いおるな。有り難う、有り難う」
「じゃがなぁ、美人で気立てが良うて頭のええハナちゃんに、嫁の貰い手が引く手数多でなあ。でも庄屋殿が離そうとせんのよ」
「そうですよ、ほんに困ったものですよ」
 といい和尚様と奥様は嬉しそうに話しをしている。
「ワシらも世話を頼まれとるんよ」
「何せ、ハナちゃんは与作殿と一緒で御文書の経本無くしてな、スラスラ唱える事が出来るんじゃから。とてもじゃないが毎日お経を唱えとるのに出来ん事で」
「ワシは直接、ハナちゃんに御文書を一行たりとも教えとらんのに、この離れ業よ」
「並の坊主のワシ等には到底及ばぬ芸当よ。其れに算盤に至っては天才としか思われん。頭の中であっという間に暗算してしまうんじゃ」
「村の行事の経理の仕事は、安心して任せられると皆んなの評判よ」
「確かに算盤だけは絶対に勝てません」
「だけど、ハナが其処まで皆さんの役に立っているとは知りませんでした」
「只々、和尚様の教えの賜物で御座います」
「そう言うてくれると、ワシも鼻が高いわ」
「今じゃな、ハナちゃんはしょつちゆう顔を出してくれるんじゃ。子供の頃は寺が怖いゆうてよう来んかったらしいのう」
「そうですよ、私がいくら誘っても嫌!云うてましたから」
「色々、遅う迄引っ張ってすまんが、もう一つだけ聞かせて貰うてもええかのう」
「どうぞ」
「与作殿は国久公より剣の修業をして貰うたと言うたが、苗字帯刀は許されたんか」
「和尚様、実は此れも胸の内にしまい、内緒にしておいて欲しいのです。八幡山城の殿様も三男様も全くご存知無い事ですから。国久公は三次の城の三吉氏にしか言うとらんと笑われておられましたから」
「何度も立ち合い稽古の後、大殿様は突然腰から小刀を抜き取り其れを私に渡されました。
 私は何時も対戦する時は小刀で対峙しますから
「お前に此れをやる」と言われ
「私もびっくりして丁重にお断りしました」
「ええから、ええから心配するな。替わりは打てばなんぼでも出来る」
 と意に介さず
「大将、今日から苗字帯刀を許す。お守りで持っておってくれ」
 と言われました。
「家紋入りの備前長船で御座います」
「大殿様は、与作殿の事を大将と呼んでおられるのか」
「しまった、口が滑ってしまいました」
「ええじゃないですか、其処まで信頼されているという事は」
「然し、与作殿、此れは自分だけでは無く、三次藩にとっても大変名誉有る事で すよ。何れ、三吉のお殿様からお呼びがかかるでしょうよ」
「でも、私は其の時、きっぱりと侍になる事はお断りしております」
 国久公は
「よいよい、好きな様にせい。お前の力を持ってしたら、何れ、何事に於いても三次藩の為に貢献するであろうよ。これからも精進してくれよ。と励まされました」
「道理でな。与作殿が寺に入って庭を眺めていた時の後ろ姿を見て、全く侍の様な風格が有ったよ」
「そうですよ。私も直ぐに其れを感じましたよ」
「今、考えて見るとワシが趣味を聞いた時に返事をせんかったが、その時頃から鍛えとったんじゃな」
「確か、城の三男様に可愛いがられとったよな。居合いの達人と聞いた事が有るが、その方の影響か」
 だが、何も返事はしなかった。
「今はな、ここを離れて三次代官所の次席をやっておられるよ」
「其れは薄々知っております」
「然し、与作殿は、今現在も国久公と懇意にしていると言ったが、どう云う関係なんですか」
 ただ、後は何も言わずニコニコ笑っていた。
 食事を頂きながら、取り留めのない話をしているうちに日が暮れてしまった。
 鉄、玉、ラー助が待っている。
「和尚様、奥様、私はボチボチ此れでお暇致します、今日は大変ご馳走になり有り難う御座いました」
「長い間引き止めてしもうてすまなんだな」
「処で一つだけお願いが御座います」
「何かのう」
「今度の寄進の事で一切、札に名前を書かないで下さい。其れに八幡山城やうちの家にも何も言わないで下さい」
「分かった、分かった。ワシの心の奥だけに記載しておく」
「奥様、今日は美味しかったです。其れにお土産迄頂戴して誠に有難う御座います」
「与作様、今日は大変なものを頂戴して誠に有難う御座いました。心から感謝致しております」
「奥様、一寸、そんな言い方堪えて下さい。今後、来にくくなるじゃないですか、今迄通りの与作でお付き合い下さいよ」
「分かった、何時でも気楽に顔を覗かせてくれよ。其れに、たまには後輩の勉学ぶりも見てやってくれよ」
「分かりました。私にさしたる事が出来ませんが、遠からず来させて頂きます」
「与作さん、遠からずと言わず近々、顔を見せて下さいね。話しを聞くのを楽しみにしていますからね」
 住職夫婦はわざわざ寺の門の外迄見送りに出てくれた。暗くなった夜道に奥様が
「提灯を持って行きますか」
 と声を掛けてくれると
「いえ、結構で御座います。私は朝晩の暗い山道を明かりがなくても通っておりますから夜目が効きます」
「あぁ、其れと今は家からではなく、此処よりも三次に一里も近い、奥屋に有る炭焼き小屋を一人住まいしております」
「そうなんですか、遠いのに暗くなる迄引き留めて、すみませんでしたね」
「いえいえ、心配しないで下さい。山道は全く苦になりませんから」
 住職夫婦は何時までも門前に佇み与作を見送ってくれていた。
 其れから八幡山城の近くの急坂を登り、なだらかな小道になった頃、両足に何かが当たった。鉄と玉なのだ。帰りが遅いのを心配して迎えに来てくれた。声を一切出さないのだ。
「オゥ、オゥ、鉄ちゃん、玉ちゃん遅うなってごめんな。さあ帰ろう」
 余程、嬉しいのだろう。其れから山の中を駆け回りながら「ワン、ワン」「ニャ〜、ニヤー」うるさいほど鳴きまくっている。
「ラーちゃんが待っとるから早う帰ろうな。今晩はご馳走が有るぞ」
 此れを聞くと、鉄は与作が手に持っていた荷物を取り上げ口に咥えて小屋を目指してまっしぐら、玉も後を追いかけて行く。

第8話 三次代官所役人襲撃事件

 与作が浅田屋での仕事を終えて帰る途中での事であった。
 晩秋の肌寒い夕闇の中、犬笛で鉄を呼び寄せる何時もの場所より少し手前の家並みが途切れる辺り、やっと大八車が通れるくらいの道の真ん中で、大勢の人垣が見える。
「こんな夜更けに何事かいな」
 近づいて見ると、二人が倒れて横たわっているではないか。近くの町医者らしき者が、救急の手当てをしている様だ。
 四、五人の役人がその周りを忙しく立ち回わり、其れを野次馬根性丸出しで遠巻きにし、近辺の百姓や通りがかった町人達がざわざわと小声で話しながら見物をしている。
 そこへ丁度、風呂敷包みを小脇に抱えながら、帰りがけの与作が出会したのであった。
 その直ぐ横を通り過ぎ様とした時
「こりゃ、ワリャ何処を通とるんなら、あっちから回れ!」
「すみません。向こうへ帰りたかったもんですから」
「オウ、そりゃええが何処から帰って来たんなら!」
「はい、代官所の直ぐ近くからです」
「ほうか、此処へ来る迄に怪しげな三人組に出会わんかったか」
「いえ、別に誰とも会いませんでしたが」
 と答えると、役人は御用提灯をこちらに当てながらしげしげと顔色を伺っている。あっ、この間抜け面なら一切、関係無いかと云う様な顔つきで
「分かった。早ういねえや」
 与作は一瞬、この役人野郎、何ちゅ物言いをしゃがると思ったが口には出せない。立ち去り掛けながら、駄目もとでこの役人に聞いてみた。
「何か遭ったんですか」
「事件が有るけいワシ等が来とるんじゃろうが、馬鹿たれ!」
「すみません」
 そう話している時にも役人の口から酒の臭いがするではないか。
「小半刻前にな、ワシ等の同僚二人が何者か分からんが覆面の三人組に襲われて切られてな、瀕死の重傷を負うとるんじゃ」
「金品も盗まれとる様じゃ」
 其処に別の手付役人が血相を変えながらやって来た。
「コラー、ワリャ何をつまらん事を町人にベラベラ喋っとるんなら!」
 上司の一喝に下っ端の手代役人は小さくなっている。
「すみません。私の為に申し訳け有りません」
 と与作はすぐに頭を下げた。
 其れから怒鳴った役人が
「ええか、お前も誰か怪しい奴か、不審な動きをする奴を見つけたら、早う代官所に知らせいよ。分かったな」
「じゃが所詮、百姓供には無理な頼みか」
 如何にも高飛車な役人の物言いに一瞬ムカッと来た。
「何でワシが怒られにゃいけんのじゃ」
 与作も犯罪者扱いをされた様で腹が立った。いくら百姓町人と云えどもこんな言い種は無かろうにと口にはつい出さないが憤慨していた。
 何はともあれ、事の成り行きを見届けてやるかと、少し離れた田んぼのあぜ道へと移動した。
 御用提灯の薄明かりの中、暫く立って眺めていた。そこへ後ろ足に何かぶっかった。びっくりして振り返って見ると、何と鉄ではないか。
「どうした。鉄ちゃん、まだ呼んどらんのに何で此処へ来たんじゃ」
 声は一切出さずに嬉しそうに顔を擦り寄せ尻尾を目一杯振っている。
 さらに左足に今度は玉が寄って来た。
「オイオイ、何じゃ、玉ちゃんも来とったんか」
 小さな声で「ニャーン、ニャ〜ン」と鳴いている。
 後は鉄と玉が一緒になって戯れあっているが決して声を発しない。
 この現場は洞穴から程近く、多分、与作がもう帰って来るであろうと道端に出て待っていた。その時に、切りつけられた時の叫び声と血の臭いで、いち早く駆け付け、木小屋の陰から仲良く見ていたのだ。
「よしゃ、丁度ええとこに来たな。役人供が帰った後から宝探し遊びをやるか。鉄ちゃん、玉ちゃん、ええな」
 途端にこの声を聞いて、やろうやろうと地団駄を踏み出した。
「野郎等はワシを全く小馬鹿にしおったからな、目にもの見せてくれるわ」
 そうと決めたからには
「腹が減っては戦に成らんからな、今から飯を食いながら奴等がやる事を見物しとこうや」
 鉄も玉も、普段は帰ってからご主人様と一緒に晩飯を食べるのだが、今は田んぼのあぜ道に、浅田屋の女中が何時も仕事帰りに、残り飯を包んでくれる弁当を広げて並べていた。
 小さかった子供の頃、親たちの野良仕事の茶飯し時に同じ様に一緒に食べるのが美味しかったのを思い出しながら、箸になる物を探しに一寸離れた。 
 処が、その隙に鉄と玉か全部平らげてしまったではないか。
 山中を走り回って、よっぽど腹が減っていたのであろうか。
 振り返って見ると竹の皮だけになっていた。此の当時は弁当は柳行李に詰めて入れ持ち歩いていた。其れに手っ取り早くには、竹の皮にむすびと漬物を添えて包んでいたのである。
「オイッ、ワシのが無いじゃないか」
 鉄も玉も申し訳けなさそうな顔をしているが
「オイシカッタヨ、デモコレカラガンバルヨ」と云う顔をしている。
「そうか、腹が減っとったか、ええよ。ワシは今食わんでも死にゃせんよ」
 両方の頭を撫ででやると、満腹感と同時に本当に嬉しそうな表情をしているではないか。
 食べ終えて一休息がてら見物していると、やがて、近くの農家で納屋か其処等の戸板を外して来たのであろう二枚持ち込まれた。
 その上に布団を敷き負傷者が乗せられ、役人に協力して百姓達が両角を持ちながら町に向かって運んで行った。
 後は御用提灯の明かりも無くなり野次馬も家路につき、何時もの暗闇と静けさを取り戻していた。
「鉄ちゃん、玉ちゃん、誰もおらん様になったで、ぼちぼち始めるか」
 腹一杯になったし、俄然やる気になって来た。
 空には薄ぼんやりと三日月が出ている。与作は夜目が利くので此れくらいの暗さなどとんと気にならないのだ。
 早速、血が染み込んだ場所に鉄と玉が駆け寄ると、強烈な嗅覚を働かせ出した。
「何か手掛かりになりそうな物を捜してくれるか」
 与作も腰を屈めながら辺り一面に目を凝らしていた。
 治療に駆け付けていた町医者によると、かなりの出血ではあるが二人供、急所を外れとるから生命に別状は無かろうと言うとったな。じゃが、此れだけ地面に染み込んどるのを見ると、相手も必ず返り血を浴びているに違いあるまいとブツブツ呟きながら田んぼの中を歩き回っていた。
 鉄と玉は役人達が探索していた範囲より遥かに広く臭いを嗅ぎながら走り回っている。
 そして鉄が何やら咥えて来た。
「オウ、鉄ちゃんそりゃ何じゃ」
 与作の目の前に落としたのだ。
「印籠じゃないか」
 普段、こんな処に侍が大切な印籠を落とす訳がない。此れは斬り合いの際、落とした犯人の物に違いない。手に取って見ると血が付いている。
「鉄ちゃん、何処に有ったか教えてくれるか」
 すると、畦道を超えて行くと此処だよと足で引っ掻いた。落ちていた処には、もみ合った様な足跡が幾つも点在していた。刈り取った稲株の田んぼは柔らかくてはっきりと残っている。その中には異様に大きな跡がある。
「こりゃ背丈が六尺以上ある相当な大男じゃないか」
 と察しが付いた。
「鉄ちゃん有難うよ、物凄いええ物を見つけてくれたな」
「役人供もドジよのう。此れをよう見つけきらんとはなぁ、じゃが仕方ないことよ、ワシ等は夜目が利くが、提灯の明かりだけではそこら辺が見える訳じゃ無いからのう」
 次に玉も草叢の中から何やら咥えて来た。
「オゥ、玉ちゃんも見つけたか」
 其れは、相手を斬った時、刀の血のりを拭き取って投棄てた懐紙であった。
「玉ちゃん、ようやったな」
 与作に褒められて、頭や首筋を撫でられて喉をゴロゴロ鳴らしながら目を細めて大喜びをしている。
「よしゃ、此れで充分じゃ、今からいくぞ」
 与作のこの一声に、鉄も玉も此れから大好きな宝探しが出来るとぴょんぴょん跳ねている。
 証拠の品を手拭いで包んで懐に入れるとゆっくりと歩きだした。
 与作が先程、浅田屋から帰って来た道を町中に向かって進んで行く。辺りは真っ暗で出会う人とて全く無かった。
 鉄も玉も血の臭いを嗅ぐ様に鼻を地面に擦り付けながら行くのだが、此れが結構速いのだ。天気も良く臭いをかき消す風も無い。
 段々と家並みが続き出したが、まだ道の両側は田んぼで今は秋の収穫を終えて稲はでも無く、所々で藁や枯れ草を焼いた跡から煙が燻っている。
 この辺り迄来ると農道が夫々と交わり与作が何時も通う道とは違ってきた。
 其れから細い一本道を北に進んでいると、やがて小さな小川と並行している場所迄やって来た。
 此処らには二箇所の水車小屋が有る。普段は低い溝からほんの少し高い農耕用の田んぼに水を引く為に利用している。なだらかな三次盆地の田畑の中には十箇所は有るであろう。此の時期になると水は要らないので収穫された穀物を水車の力を利用し、つき臼で脱穀したり粉にするのである。カタカタ、コトコト音を立てながら勝手に仕事をしてくれる。
 三次盆地は独特の地形で、中国山脈の奥深く高い箇所に有りながら可愛川、馬洗川、西城川の他、支流が流れ込み江の川という一本の大きな川となり日本海に流れて行くのだ。此れ等の川が農耕用の田地より大分低い処を流れている為に、はるか上流から用水路を使い水を確保しなければならない。そうした独特の地形の為に水車が必要だったのだ。
 与作はこの辺りを何時も配達や雑用で隈なく歩いているので地理には詳しい。
 水車小屋を少し行くと、板二枚程の小さな二枚橋と地元の人が呼んでいる場所にやって来た。
 草葺屋根の小さな小屋が有り、水辺に足場を板と丸太で作っており溜まり場なのだ。日頃、此処は春、夏、秋と百姓達の野良仕事の合間に小休止する処だ。鋤、鍬や手足を洗ったり茶飯を軽く食べ、子供達は小川で小魚を追い込んで獲ったり、しじみを漁ったりしている。
 与作も暑い時期には、配達がてら此処へ来ると顔を洗ったり、川に足を突っ込んで涼を取っていた。
 その時、たまたま、鉄が喉が渇いたのか、水辺に顔を近づけて水を飲みだした。其れを見ていた玉も下りて来て飲もうとした時、突然、目の前の草叢に飛び込んで行った。続いて鉄も後から走り込んだ。
「オイッ、何が有るんじゃ」
 すると玉が何かを咥えて上がって来た。そして与作の前に来るとポトっと落とした。
「オオッ、こりゃ財布じゃないか」
 手に取り上げて広げて見ると中身は空っぽだ。当然といえば当然だが
「お粗末な物入れじゃのう」
 暫くして、鉄も引き返して来た。
「鉄ちゃん、今度は何じゃ」
 口に咥えている小銭二枚と小さく丸めた紙切れをその場に落とした。
 中を広げると証文らしいもので宛名書きが有る。
 よく確認して見ると所属部門らしき事が書いて有るが、与作には詳しい事情が分からない。多分、三次城内にあるものと察しが付いのてある。
 此れで財布の持ち主が特定出来るであろう。
「役人が言うとった金品を盗まれたと云うのは、此れじゃあないかのう」
「よしゃ、よしゃ、鉄ちゃん、玉ちゃんようやってくれるな、有難うよ」
 褒められ頭や首筋を撫でられ大喜びをしている。とに角、ご主人様に喜ばれる事をしたくて堪らないのだ。
「多分、間も無くで奴等の処へ行き着くで。もうちょい頑張ってな」
 田んぼ道から段々と家並みが続く町中に入って来た。
 日中、御用聞きで走り回っている与作の縄張り範囲である。まだ、眠りに就く時刻ではなく家々には障子越しに明かりがもれてくる。町中には通りを照らす街灯や店先の門提灯があり結構明るい。
 このまま通りを歩いて行くと何せ大きな狼犬と猫連れで、誰かに見られたら与作がすぐに浅田屋の丁稚とバレてしまう。盗っ人被りの様に手拭いを顔に巻いて足速に駆け抜けようとした。
 その時で有る。
「鉄ちゃん、玉ちゃん隠れろ!」
 通りの大分、向こうから丸浅印の提灯を持ちながら二人連れが此方に向かって来るではないか。何と浅田屋夫婦である。
 確か今夜は近くのお寺さんの寄り合いがあると云っていたがこの時間に帰宅していたのだ。
 慌てて細い路地裏に逃げ込むと目の前を通過、幸いにも気付かれる事もなく
「鉄ちゃん、玉ちゃん、あの人が与作の仕事場のご主人様だよ。この前に助け出してくれた長襦袢の美和様の両親だよ」
 処が、鉄も玉も顔を見合わせながら、其れは先刻、承知済みだよと云う顔をしている。
 長襦袢の臭いを嗅いだ時、美和と一緒に暮らしている両親の生活臭と云うものが染み付いているのだ。動物達は一様に人間を容姿で判断するのでは無く、臭いが一番の決めてなので有る。
 向こうからこっちに歩いて来る時には既に気付いていたのだ。
 何と如何に凄い嗅覚を互いに持ち合わせている事だろうか。
 浅田屋夫婦が通り過ぎると又、キョロキョロしながら進み出した。鉄は相変わらず地面に鼻を擦り付けながら歩いて行く。
 この頃には流石に玉は歩く道筋からは臭いを嗅ぎとる事は出来なかった。与作の懐の中で気持ち良さそうにじっとしている。
 如何に狼犬の鼻が凄いか只々、感心しきりであった。
 やがて浅田屋の前を通過して行く。
 先ほど、帰った夫婦は門灯を消して中に入り玄関戸は固く閉ざされていた。
 商店街を進んで行くと四ッ角に来た。其れを左に曲がると城勤めをする多くの武士が住む通りに入って来た。かなり大きな門構えで長い塀の有る屋敷が並んでいる。
 与作はこんな住まいの処に犯人が潜んでいるなど全く半信半疑であった。
 そして一段と大きな白壁造りの門構えの正面玄関の前にやって来た。
 すると鉄が其処で立ち止まったではないか。玉も懐から飛び出した。そしていきなり固く閉まっている大きな扉を引っ掻きだすではないか。
「オイオイ、此処は全然違うぞ!何処でどう勘違いしたんじゃ」
「血の臭いを嗅ぐ方法を間違えたんか。犯人の奴等と被害者のものとごちゃごちゃになっんじゃ有るまいな」
 然し、執拗に鉄と玉が引っ掻き続けるが入り込む隙間は無かった。
 この時刻には門番は居ないのであろう。
「分かった、分かった、今日は此れで帰ろうな。ワシが明日にも確認を取ってみるからな」
 無理矢理、其の場を離れる様に踵を返して、やがて我が家を目指して走り出した。玉は流石に疲れたのか与作の懐に入ったり、鉄の背中にしがみ付いたりしながら時折少し歩く程度であった。
「ラーちゃんが待っとるから早よう帰ろうな」
 + とに角、ご主人様と一緒に道行きするのが、嬉しくて、嬉しくて堪らないのだ。

 翌朝、三次代官所では大変な騒動になっていた。昨日の役人襲撃事件を、いの一番に知った家老が城から駆け付けており、物凄い表情で評定所の入り口に控えていた。
 まだ昨夜の事件の事を何も知らず、のんびりと出仕していた役人達は思わぬ遭遇に度肝を抜かれた。
 睨みつける様に立っているので、出仕して来た者は急に姿勢を正し
「お早う御座いほます」
 然し、返事が全く返って来ない。
 そして、日頃立ち入る事のない白砂を敷き詰めたお白州に全員呼び集められた。
 もう此れだけで皆んな自分達が犯罪者気分にさせられてしまったのである。
「オイ!お前等、何たる無様な事を仕出かしたんじゃ。取り締まる側の役人が襲撃されるなんぞ、聞いた事もないぞ。ほんまに阿呆か。日頃からお前等、 何をしとるんなら。今朝みたいにダラダラ出仕しとるから、こう云う事になるんじゃろうが」
「斬り付けられた野郎等は、よう歩けん程に酔っ払い、前後不覚にも何も覚えとらんと云うじゃないか。何をふざけた事をやっとるじゃ」
「オイッ、我等、近日中にも犯人を取っ捕まえんと承知せんぞ。分かったか代官!」
「其れにな、此れは日頃、代官所に恨みの有る奴かも知れん。食い詰め浪人を含めて街道筋を徹底的に網を張れ、絶対に取り逃すな」
「分かりました。即ぐに緊急手配を致します。必ず二、三日うちには犯人供を挙げてみせますから」
「馬鹿野郎!今日中にも取っ捕まえる覚悟でやらんかい!」
 家老は顔をゆで蛸の様に真っ赤にしながら、言いたい放題、喚き散らすとサッサと帰ってしまった。席を立った後のお白州は暫く茫然自失状態であった。
 家老は朝早くに比叡尾山城から代官所迄歩いて出向いて来たのだが何せ遠い。
 還暦の坂を超えており、山坂を何とか歩いて到達したのであった。此れでは帰りの登りの急坂を上るのはとてもじゃないが無理だ。
「オイ、門番、ワシャ、帰りはとてもじゃないがよう歩るかん」
「如何ように致しましょうか」
「馬か駕籠にするか」
「馬はお辞め下さい。急坂で振り落とされる怖れが有りますから」
「それなら駕籠にするか」
「今は此処の担ぎ手が居りません。町の駕籠屋で宜しいでしょうか」
「おおぅ、何でもええ」
 家老はつくづく思った。「ワシもそろそろ隠居かのう」
 家老が帰って暫くすると場内のあちこちから騒めきがし出した。
 散々、嫌味を垂れられ怒鳴り捲られた代官は我に返ると、今度は家老の二番煎じをやりだした。
「お前等、家老の言われた事をよう聞いとったか。何が何でも近いうちにケリを付けるんじゃ」
「今から各班に分かれて要所、要所を見張れ。そして聞き込みを徹底的にやれ」
「とに角、三次中を隈なく探索するんじゃ」
「そいでな、犯人を逮捕した者には報奨金が出る様に家老に掛け合ってやる。それに関わった班には出世にも影響するかも分からんぞ」
 この一声に、「ウオゥー」と歓声が漏れて一気にお白州内が高揚して来た。
 この時ばかりは代官も必死であった。日頃は商売人との胡散臭い繋がりで悪評が立っており、この事件が仮にでも未解決に終われば、完全に自分の首が飛びかねない。
 事件の早期解決を目論んで飴と鞭作戦に出たのである。
 この代官の言葉を聞いた面々は俄然やる気になり、各班に分かれて対策を講じ夫々、競争する様に情報収集に飛び出して行った。
 然し、此の事件に関しては非常に厄介な問題があった。
 そもそも、事の発端は町外れの寂しい一本道で斬り付けられた事に有る。事件が発生した夜はかなり遅い時間で有った。
 その為に代官所の役人も少人数しか詰めていなかった。通報が有って出っ張ろうとした時は行きてが無く、急遽、敷地内に住む手代役人を呼び寄せる事になったのである。中には仕事を終えて一杯飲んでいる者もいた。
「オイッ、済まんがうちの奴等が、誰か知らん奴に斬られたらしいんじゃ。一寸、手を貸してくれんか」
 声を掛けられた下っ端役人は、逆らう事も出来ず渋々ながらも承知し現場に駆けつけた。其の時には、辺りの町医者が応急手当をして止血処理を施し二人の命に別状は無かった。
 半分酔っ払った様なあてがい役人には、現場検証などどうでもいい事で現状をチョロチョロと立ち回っただけで有った。こんな調子で証拠の確証が取れる訳がない。
 聞き込みに回るのにも、暗く寂しい一本道で余りにも目撃情報がなく犯人逮捕の手掛かりとなる物証が少ないのだ。
 斬り付けられた二人の役人は居酒屋で深酒をし、更に知り合いの自宅迄行ってご馳走になる梯子酒を重ねていた。帰りには前後不覚に陥いる程の酩酊ぶりで、帰りの夜道を何度も転げて着物が泥だらけの有様であった。
 そうした体たらくの時、後を付けていたと思われる三人組に襲われたら一溜まりもない。
 二人供、後から袈裟懸けに切られており、全く立ち向かう気力も失せていたのだ。幸いにも急所を外れたのか、わざと外したのか刀傷を負っていたが生命に別状は無かった。
 戸板で町医者に運び込まれた時も意識はあったが、何を聞かれても一切覚えておらず、二人供に
「分かりません。何がどうなったのかさっぱり分かりません」
 を繰り返すのみであった。証言者が此れである。
 更に、事件の時に出っ張った役人は御用提灯の届く狭い範囲しか検証しておらず証拠となる物が何も見つかっていなかった。
 早朝に他の役人が、治療をして貰っている町医者宅で襲われた時の様子を聞くと
「確か犯人は三人組だとは覚えておりますが、特徴は全く記憶に有りません。其れに暗いうえに覆面をしておりましたから」
 此れでは全く取り付く島が無い。雲を掴む様なもので探索に動き回る役人達も何から手を付けていいかさっぱり分からなかった。
 だが、如何に有ろうとも絶対に事件を解決せねばならない。
 下っ端役人は代官から檄を飛ばされているので血眼になり何が何でも手掛りを得ようと必死であった。
 其れに代官の言った、魅力的な飴が目の前にちらついており、出し抜いてやろうと精力的に街中に駆けて行った。
 先ず、一番に家老の言った街道筋の手配に各班は動いた。
 出雲街道を中心に馬洗川、可愛川、西城川、江ノ川に沿ってある主な道筋に緊急の検問所を設けて、蟻の這い出る隙の無いほどに見張り、如何なる通行人といえども立ち止まらせて情報収集に当たらせた。
 街中では医者、薬屋から刀鍛冶屋、各商店、さらには日頃から怪しげな浪人者の住まい、飯、蕎麦屋とありとあらゆる処に聞き込みに走った。
 夜は夜で犯人供が屯しそうな居酒屋、蕎麦屋、一膳飯屋、女郎屋等やら、隈なく探索に入った。
 無論、与作のいる浅田屋にも朝から晩迄入れ替わり立ち代わり違った役人が訪ねてくる。傷を負った怪しい奴が薬を買いに来ないかと気にかけているのだ。
 結局、この日は朝から夜中にかけて探索したにも関わらず、何一つ手掛かりを得る事が出来ずに徒労に終わってしまった。
 翌朝、各班の幹部連中を前に代官が血走った目をしながら怒鳴りまくりだした。
「お前等、昨日、何一つ手掛かりを掴んどらんらしいのう。大の男が仰山おるのに何をしとるんなら!」
「上里、もう一寸、厳しゅうに徹底してらやらんかい」
 次席迄へも八つ当たりを始め出した。
「申し訳有りません。皆んな一生懸命、探索をしておるんですが、何とか今日中にもどんな小さな手掛かりでも見つけ出し、逮捕に結びつける様に致します」
「なぁ、皆んな!」
「オウ!」
 威勢のいい掛け声と共に飛び出した迄はよかった。
 だが、この日も全員探索に走り回ったが何一つ手掛かりを得る事が出来ず、無駄足に終わってしまった。
 何日も派手に役人があっちゃこっちゃ聞き込みに走り回り、厳しい検問をするものだから事件の噂を誰一人として知らない者はいなかった。
 今迄、町人、百姓達に対して威張り腐していた役人供に「罰糞よ」と口に出しては言わないものの皆んな心の中ではほくそ笑んでいた。
 そんな町人に対して今回は恥も外聞も無く、頭を下げて目撃情報から遺留品発見に協力を求めていた。
 探索に走り回わる役人供にも段々とイライラが募り出して来た。
「あの粟屋や上村は何をしとったんなら、ボケ〜としゃぁがってからに」
「奴等の為に朝から晩まで走らされてからに少々報奨金を貰うてもあゃあせんぞ」
「其れに何なら、百姓野郎が武士と一緒に飲むなんざ。ちょいと灸をすえちゃれや」
 と中には直接、文句を言いに行く馬鹿もいた。
 然し、駄目なものは駄目であった。
 その日の夕刻に帰って来る役人達は焦燥感一杯で疲れきっていた。
 各人、詰所に帰って来て報告し合っている最中に、突如、鬼の家老が飛び込んで来のである。
 その場に居合わせた役人達は皆、血相が変わった。
 口々に驚きの表情と共に小さく「アッ!」と叫んだ。
 だが、代官を始め皆んなを見回しながら何故か雷が落ちない。
 日頃からは考えられない柔和な顔で口を開いた。
「実はな、今回の事件の事を殿様が知ってな、大変心配しておられるのよ」
「お前は茶瓶の様に即ぐにカッと熱うなって怒鳴り散らすが、其れでは代官を始め皆んなが萎縮してしまうぞ。其れよりは柔おう言うて励ましてやってくれんかと言われてな」
「其れに犯人逮捕のあかつきには報奨金をとらすとのお言葉じゃ」
「ワシもお灸を据えられたが、犯人を捕まえる迄は皆んな気を引き締めてやってくれるか。ほんま、宜しゅう頼むぞ」
 家老が立ち去った後、代官と次席の上里はお白州の横の部屋に詰めていた。
 因みに家老の事で有るが、今回は比叡尾山城からの往復は駕籠を使っている。
 自分も登城する為の不便さをつくずく思い知らされたが、此の時代頃から山城は廃れる時に来ており、三次の殿様に度々、町中の便利な程近い処に移転する様に進言していたので有った。代官所のある辺りが立地的に特に良いと思ったのである。何せ、現在の位置関係は一里以上も離れているのでどうにも遠いのだ。
 この後、家老が隠居して数年経った頃から徐々に移転計画が始まっていた。
 中世から戦国時代末期に掛けて四百年、国人領主三吉氏十五代に渡り続いた難攻不落と言われた比叡尾山城も、幕を閉じることになるので有る。
「毎日毎日、どいつもこいつも走り回っても何で一つも手掛かりが掴めんのかのう。こんなにも証拠を残さん犯罪など今までに経験した事がないぞ」
「そうですね、何か捜査方法を間違えているんですかね」
「今一度、現場第一主義に戻って再吟味して見ますか」
「そう言われてみると、最初、現場に立ち会った野郎等からは、何一つ手掛かりになる様な報告が無かったわな」
「現場で争った足跡の足形も取っておらんかったな」
「然しよ、斬られた粟屋と上村じゃが何であんな遠い寂しい処迄行っとったんじゃ」
「はあ、奴等の言うのには、始め町中の居酒屋で飲んでおりましたが、たまたま其処へ知り合いが入って来て、それから暫く一緒に話しをしながら飲んでいたそうです。場が盛り上がり、更に延長しませんかと云う事になり、一緒に三人で田んぼ道を酔っ払っいながらフラフラと気が抜けた様に歩いていたので、何処迄来たか全然分からなかったと言っとりました。大きな家で暫く飲んでおり、泊まって帰るかと言われましたが遠慮が有り帰ると云ったそうです。どうやら其の後に襲われたらしい様です。
「とに角、明日にも早朝立ち会って見ましょう。幸い事件以来、雨も降っておりませんから何か分かるかも知れません」
 翌朝、上里は二人の役人を伴い襲撃現場を訪れた。
 辺りは事件があった事など、ほとぼりが冷めており何も感じられず、のどかなものであった。
 然し、上里を始め鑑識係は全く真剣であった。小道や田んぼの中を小さな針をも見つけん程に目を凝らし、這う様に探していた。
 前回は提灯の届く範囲しか調べていなかったが、段々、前に進むとあぜ道から一尺程低い田んぼの中の刈り取った稲株の間に大小、七、八歩の入り乱れた足跡が残っているではないか。
「上里様こんなものが残っとります」
 小さい方は斬り付けられたどちらの跡であろう。お互いに五尺そこそこしかないからだ。だが大きいのは背丈の高さ六尺は有るかると思われた。
「此れだけの大男は、三次の町にもそうそうおるもんじゃない。ましてや刀を使うとなると限られてくるぞ」
「そうですね、今迄の経験では一番大きなものですね」
 足形を採取すると上里はかなりの確信を得て
「オウ、ご苦労じゃったのう。此れは重要な証拠になるでえ」
 二人の鑑識を先に帰らせた自分は、現場に程近い二人がご馳走になった知り合いの家を訪ねる事にした。
「御免、誰かおられか」
 大きな屋敷の中庭で声を掛けた。暫くすると
「どちら様でしょうか」
 お内儀が顔を覗ぞかせた。
「拙者は三次代官所の次席を務める上里陽三郎と云う者じゃ」
「事件以来、御宅には毎度に渡り大変ご迷惑をお掛けしている様で申し訳けない。配下の者が行なった失礼な態度と言葉を聞いて、ご主人には非常に嫌な思いをさせてしまった。重ね重ね申し訳けない、この通りじゃ、謝る」
 何度も頭を下げたのである。
「上里様、もうお辞め下さい。わざわざのお越し本当に嬉しゅう御座います。此のお声を聞くと主人も心から喜ぶと思います」
 お内儀はおもわず涙が頬を伝って溢れ落ちた。
「今は、出掛けており留守をしております」
「そうか、そりゃ止む終えんのう。ワシは帰るが宜しゅう云うとってくれるか」
「上里様、一寸、お待ち下さい。お話ししたい事が御座います」
「実は昨日、訪ねて来たお役人様には主人が散々嫌みを言われ、我みたいな百姓が何で代官所の役人と一緒に飲んどるんならと、散々怒鳴られておりました」
「実は上里様がお越しになる迄は、私はずっと口を噤んでいる気持ちでしたが、今、宜しいでしょうか」
「何なりとどうぞ」、
「事件が有った夜、私は犯人のうちの一人の顔を見ているので御座います」
「其れはなしてですか」
「あの晩、粟屋様と上村様と主人が客間で飲んでいる時、私が漬物を取りに外の味噌部屋に行きました。其の時に壁の外でこそこそ話し声が聞こえたのてす。
 こんな夜更けに誰かいるのかと部屋の隙間から覗いて見ると三人の男の人が居ました。でも暗闇で二人の顔は分かりませんでした。そして「出て来るのをよう見張っとれ」と云う声が聞こえました。声は其れだけであとは立ち去りました。其れから暫くして私はもう一度、こそっと味噌部屋に入って行き外を見ると石垣に腰掛けておりました。其の時、顔ははっきりと見ました。若い方でした」
「昼間見ても分かりますか」
「勿論!」
「其れと暗闇で顔までは見れませんでしたが三人のうち一人は異様に大きな男で御座いました」
「有難う御座います。本当にご協力感謝します」
「いえ、どう致しまして、少しでもお役に立てれば光栄で御座います」
 上里はつくづく寄り道をして良かったと意気揚々と代官所に引き上げて来た。
 そうしている時に、城から使いが来たのだ。
「家老が代官様に城に捜査状況を知らせる様にと、呼び出しを掛けておられますがどうしましょうか」
「分かった、即ぐに顔を出すと伝えてくれ」
 使いが帰った後、代官は狼狽えながら上里を捜している。
「オイッ、次席は何処へ行った」
 他の役人に聞き回っていると
「確か、今しがた帰られました。鑑識の方ではないですか」
「お前よ、一寸、呼んで来てくれんか、詰所迄な」
「分かりました」
 暫くすると上里は足速に駆け込んで来た。
「オイ、上里よ、愈々、城から直接呼び出しがかかったで。ワシャどうすりゃええんじゃ」
「有りのままの現状を報告すればいいじゃないですか」
「でものう、何も掴んどらんしのう」
「大丈夫ですよ。下の者を信頼して下さい」
「じゃが、ワシ一人じゃ心細いのう。一緒に来てくれんかのう」
「分かりました。お供致します」
 代官と上里は急遽、馬で登城した。
 城に上がると家老が待っていた。
「遠路、ご苦労じゃったのう」
「ご家老様こそ、何度も大変だったでしょう」
「ワシャ、ほんま死ぬかと思うたよ。こんな遠くて高い山ん中は考えにゃいけんのう」
「オウ、そりゃええがどうなっとりゃ。あれから前へ進んどるか」
「ハア、毎日、鋭意、探索に皆が走り回っております」
「ほうか、ほうか」
「然しじゃのう、犯人はとっくの昔に三次の地を離れて他藩に逃げ込んとるじゃないのか」
「出られない様に常に監視を厳重にしておるのですが何故か手掛かりがないのです」
「食い詰め浪人をもう一度よう当たってみいや」
「分かりました」
 其処へ次席の上里が口を挟んだ。
「ご家老様、一言、宜しいでしょうか」
「オウ、何じゃ言いたい事があるか。そちは志和地から来た上里じゃったのう。言うてみい」
「はい、有難う御座います」
「此の事件の犯人は食い詰め浪人の犯行でも無く他藩の者の仕業でも有りません。必ず町の中におります。従って網を張る必要は有りません」
「何!どおしてなら!」
「ワシが言うとる事が間違っとると申すか!」
「お前の意見を言うてみい」
「はい。粟屋と上村は寂しい山の麓の一本道で襲われております。普段なら夜の夜中に此処らは誰も通りません。此の先は狭くて険しい間道に続いており、仮に犯人が金銭強奪目的であればこんな所迄来てわざわざする事はないでしょう。やるのであれば町の中のある程度明るく即ぐに逃げ易い処で狙うでしょう」
 其れに何で武士を二人も襲撃しますか。幾ら酔っ払っていたといえども二本差しです。必ずや反撃に遭います。わざわざ自分の身の危険を冒してまでしないでしょう、又、金銭目的であれば銭が有り弱そうな者を狙いますよ。ですから食い詰め浪人説は当たりません。仮にやっていればとっくの昔に其の足で遠くに逃げていますよ」
「其れならば他に何が有る」
「今は確約出来ませんが怨恨がらみではないでしょうか。何れ近いうちに結論をお出しします」
「お前は、絶対にそう言い切るのか」
「私もそう申し上げる限りは覚悟を決めております」
「分かった。其方の言葉を信じよう。とに角、事件を解決する事が一番じゃ」
「代官よ、ええ配下がおって心強いのう。互いに頑張ってくれぇよ。お殿様も気に掛けておられるからな」
「絶対に早急にケリをつけますから」

 一方、各班の役人達は毎度同じ様なやり方で町中を走り回っていた。
 今日も相変わらず浅田屋へは、一日中、足繁く役人が顔を覗かせた。
 余りにもしつこく来るもので、下っ端の丁稚供がその都度対応させられていた。
 与作も遅い昼飯を済ませてから玄関先に出て打ち水をしていた。
 そこへ先般の現場で出会した小生意気な役人が二人連れでこっちに向かって来るではないか。
「あの野郎、又、来やがったな」
 昼間よく見るとさして世代的に変わらない。
 ワシも歳がいった捻くれ丁稚じゃが、奴もまだ見習同心みたいなものであろう。
 丁稚といえば幼さが残る子供髷で、親元を離れて店に住み込みで朝から晩まで働かされる。ほんに僅かばかりの給金で修業がてら使われていたのだ。
 与作はといえば浅田屋に入る迄の二年間は剃髪して専正寺さんの伴僧を勤めたが現在は町人髷である。
 然し、幾ら腹が立っても所詮は身分上は丁稚である。
「お役人様、今日も残念ながら、いいお知らせがないんですが」
「そうか、やっぱり無駄足だったか。面倒かけて済まんのう」
 あれぇ、どしたんじゃ、何時もの空威張りが出んじゃないか。さては代官所中で相当行き詰まっとるなと与作は感じた。其れと事件の夜に顔を合わせていたのだがよく見ておらず、こちらに全然気付いた様子がない。
 すると忽ち次に行く場所が無いのか、その場で立ち話をし出した。
「オイッ、こんな調子だったら褒美処か皆んなで責任を取らされるで」
「どうなるですかね、アァ~」
「迷宮入りにでもなってみいや、代官も新任の上里様も完全に処分されるで」
「この間、嫁をもろうたばっかりじゃろうが」
 途端に何気なく聞いていた与作は、上里様の名前が出たのでびっくりして問い返してみた。
「すみません。宜しいでしょうか」
「何じゃ」
「上里様とおっしゃいましたが、志和地のお方ではないでしょうか」
「そうじゃ、それがどうした」
「私も志和地ですから」
「ほうかほうか、じゃったらお前も協力して助けてあげてくれ」
「分かりました。出来るだけ頑張ります」
「お前も調子のええ奴じゃのう」
「えへへへ」
 此れを聞いた与作は急に元気が出て来た。
「よし、明日はワシが非番じゃから、皆んなを連れて山の中から出て来るか。喜ぶじゃろうのう」
 本日も無事仕事を終えると帰る道すがら明日の対策を練りながら走っていた。
 一本道を進み何時もの辺りで鉄を呼んでみた。
 向こうから一目散に駆けて来るのが見えるではないか。すると玉も競走する様につけて来る。
「玉ちゃんも来てくれたか、有り難うな」
 お互いが挨拶していると頭の上から
「コンバンハ、オカエリヨーサクサン」
 何とラー助まで来ているではないか。玉と遊びがてら昼間に別荘迄来ていたのだ。
 今は暗くなっておりカラスは鳥目で有ろうと与作は思っていたが近場は見えるので有ろうか。
「ラーちゃん、見えるんか」
「オメメアル」
 此れには与作も嬉しくて大笑いであった。
 忍者一家は明日が与作の休みである事をよく知っている。嬉しくて迎えに来たのだ。
 翌朝、何時もより遅く迄寝ていたがもう外では鉄、玉、ラー助が集まって会合を開いている。今日の作戦でも練っているのであろうか。
 与作も昨夜のうちに「比熊山の物の怪より」と云う書簡を作成していた。
 気を遣って与作を早く起こさない様にしていたが、目覚めた気配を感じて皆んな中に入って来た。
 目を擦りながら大欠伸をしていると鉄も玉も同じ仕草をしているではないか。
 此れも動物に移るので有ろうか。そしてラー助が部屋中を飛び回りながら大騒ぎをしている。
「一寸、待っとれよ、今から朝飯と弁当を作るからな」
 朝飯を食べ終えると全員の弁当を作り柳行李に詰めて風呂敷に包んだ。其れを他の荷物と一緒に鉄の大きな背中に括り付けた。
「よ〜し、鉄ちゃん、玉ちゃん、ラーちゃん、今からこの前の続きをやりに行くぞ、出発進行!」
「エイエイオー」
 ラー助の勇ましい掛け声にドタバタドタバタを繰り返している。
 今日も皆んな元気が良い様だ。朝霧の立ち込める山道をのんびり歩き出した。
 玉はちゃっかり与作の懐の中から気持ち良さそうに顔を覗かせている。
 ラー助は何時もながら少し飛んでいっては待ち、偵察がてら目を光らせてくれている。
 多分、何処の飼い犬や猫にしても、ご主人様と一緒に居たり行動する事が如何に楽しいものであるかが分かるで有ろう。其れに人間の幼児みたいな知能のラー助にとってみれば、正に遠足気分なのだ。
「どうせ、ワシ等が行っちゃらん事には絶対に解決出来んのは分かっとるからな」
「宜しく頼むよ」
 と一声掛けると「ウォ〜ン」「ニャーン」
 更に頭上から「エイエイオー」
「ほんまにラーちゃん、何処で覚えて来るんじゃ」
 最初の頃は、美和様誘拐事件の際、浅田屋親子を気違い扱いにし、浪人者二人を有耶無耶にし葬り去ってしまった、三次代官所に捜査協力をするつもりは更々無かった。
 然し、現在は代官、次席とも入れ替わっており、前の悪代官は厳罰を喰らい処分されている。その時に、上里様は昇格していたのだ。
 その為に今は全く高揚した気分なのだ。
 昨日、小生意気な役人が言っていた、上里様の為にも事件解決をしてあげなければ、絶対に処分を受けさせてなるものか。
 子供の時代、可愛がって貰った大恩あるお方に、こんな時こそお役にたたなければと心に念じ、代官所を目指して山道を進みながら奮い立っていた。
 一旦、別荘に立ち寄ると
「オイッ、此処で一寸の間休憩してから行くからな。此れから先が愈々ほんまの勝負じゃ、皆んな頑張ってな」
 この一声に、段々と目が輝きだした。
 此処に隠しておいた財布と印籠と血の付いた懐紙を袋に入れ、更に昨夜書いておいた小さな紙きれを詰めると
「ヨ〜シ、今から出発じゃ。この前の処から始めるぞ」
 洞穴から出て直ぐの処が現場であった為に傍に人家が無く、前の夜中の時の様に、一通り皆んなに臭いを嗅がせた。
「分かったな、じゃ行くぞ」
「ワシワシランゾ」
「ハハハ、ラーちゃん、今は知らんでもええぞ」
 与作は此処から先は昼間で有り、知り合いに顔を見られては不味い。
 頬被りで誰にも分からない様にしている。臭いを嗅いで行ってくれる鉄には首に縄を括りつけ与作が握っている。玉は少し離れた後から付いて来させている。一緒に歩くとどうにも目立ちすぎるからだ。
「鉄ちゃん、この前の続きが出来るか」
 鉄の顔色を伺うと、当たり前よ、とばかり自信満々の表情だ。
「何と頼もしい奴ちゃな、有り難うよ」
 でもこのやり取りは玉には気づかれない様に、こそっとやった。
 そうしないと妬けて即ぐに駆け寄って来るからだ。
 ラーちゃんは相変わらず上空をぐるぐる旋回しながら見張ってくれている。
 やはり今日もこの前と同じ様に二枚橋迄やって来た。
「愈々、近くにやって来たぞ。水でも飲んで休んで行くか」
 この前の時、財布や受取証文、小銭を見つけてくれた場所だ。するとラー助も舞い降りて来た。
 そして突如、与作の方を向いて何か水の中を見ろと言っている様なのだ。
「何じゃ、ラーちゃんどうした」
 板の洗い場の下の川底は腰の深さまで有ろうか、結構ある。
 与作が腰を屈めて中を覗いて見るとキラッと光る何かが見える。
「ウーン、何じゃろう。でも深いなぁ」
 与作が躊躇しながら皆んなで並んで覗き込んでいると
「バシャ!」
 鉄がいきなり飛び込んで潜ったのだ。
 そして光る短い物を咥えて上がって来た。
「オゥ!そりゃ小柄じゃないか」
 ラーちゃんには高い真上から陽の光で水の中からキラッと反射するのが見えたのだ。此れは、犯罪に拘る誰の物かは判断が付かないが何かの役に立つで有ろうと
「ラーちゃん有り難うさん」
 と頭を撫でてやった。
 そして其れを見ていた鉄と玉が近付いて臭いを嗅いでいたが
「ワウーン、ワゥ〜ン」「ニヤーン、ニャ〜ン」と何か訴える声をあげた。
「ウン、此れも犯人の物か」
 この前の時は深い水の中に有ったので臭いが全然しなかったのだ。
 その時、びしょ濡れの鉄がいきなり身震いをしだした。
「コラー、すなやぁ、向こうでやれや」
 玉もラー助も怒っている。皆んなビチャビチャだ。
 でも水遊びをしている様で何故かお互いが嬉しくて堪らないのだ。
「然し、お前さんらは物凄い忍者一家じゃのう」
 其の場で一段落を終えるとやがて又ゆっくり進み出した。与作は休みの日だ。すれ違う通行人の中には何時も見知った顔が何人もいた。
 なかには大きな狼犬を連れて地面に鼻を擦り付けて歩くものだから、もの珍しくて振り帰る人が何人もいた。
 本通りに入って来ると愈々緊張して来た。前方に浅田屋の看板が見えて来ると
「鉄ちゃん、知らん顔をして行けよ」
 用心しながら店先を覗き込む様に通り過ぎると幸いにも誰も顔が見えないではないか。
「其れ行け、其れ行け、見つからんぞ」
「よかったのう、鉄ちゃんバレずに済んでホッとしたで」
 もし、奉公人達に出会していれば、頰被りをしていても与作の身体付きで絶対にバレていたで有ろう。
 そして走り込む様に直ぐ近くの四つ角を左に回り込んだ。
 やがて例の大きな門構えで白壁の塀の側にやって来た。
 そして鉄が立ち止まり、離れて付いて来ていた玉が駆け寄って来た。
「玉ちゃん、済まんな、この前は疑ってごめんよ」
 嬉しそうに「ニャー、ニャー」鳴きながら与作の足に身体を擦り付けている。
 此の建物は三次代官所なので有る。
 役人達が幾ら捜しても犯人が見つかる訳が無い。斬り付けた犯人が、何食わぬ顔をして毎日探索に加わっているのだ。
 三次代官も可愛げがなかったが、此奴等は更に悪い野郎だ。
「許さん、絶対に許さん!」
 何時迄も、長居は出来ない。即ぐに役人に見つからない様に奥まった路地に身を隠した。
 其れから、屋根の上から見ているラーちゃんに手招きをして降りて来させた。
「ラーちゃん、今から一仕事頼むから一寸、待っててな」
 与作は其の場で昨夜書いておいた書き付けに新たに文を書き加えた。其れに先程見つけた小柄を包み直した。
「よしゃ、ラーちゃん出来たぞ。今から奥の誰も居ないお白州の庭先に此れを落としてくれるか」
 与作はお白州を指差して落とす仕草を見せると
「マカセトケ」
 何時もの、お師匠さんの物真似だ。ラー助が此れを言って今迄に頼まれた事を一度も間違えた事が無く、言われた事が殆ど理解出来るのだ。
 小さな袋を爪で引っ掛けると屋敷の奥の方に飛び立ち上空で旋回している。
 其れが与作にも鉄、玉にも見えるのだ。
「ラーちゃん頑張れ!」
 そして落とすのが見えた。
「ヤッター、ヤッター」
 皆んな声を出さないが大喜びをしている。

 一方、お白州の横の詰所では、仲々、手掛かりを掴めぬ事に業を煮やした代官が歯ぎしりをしながら
「おい、お主は家老の前で大啖呵を切ったがほんまにケリが付けられんるんか」
「ワシも一蓮托生で始末されるんじゃないじゃろうのう」
「お代官、近日中に絶対に解決して見せますよ」
「ほんまかいな」
「然し、何でこんなにも犯人はぼろを出さんのかのう。家老が言う様に奴等は三次の町を抜け出しておってみいや、完全に迷宮入りじゃで」
「弱気は禁物ですよ。私を信じて下さい」
「一寸、お代官、休憩しましょうか。厠へ行って来ます」
 上里は頭を冷やしがてら外の空気を吸っていた。暫くしてから戸を開けて中に入ろうとした途端、庭先に大きな「ボトッ」
 と砂にめり込む音がし何やら落ちて来た。
「オイッ!上里、今の音は何なら」
 代官が障子戸を開けて飛び出した。次席は縁側から裸足で砂地の上に飛び下りると其れを拾い上げた。
「そりゃ何じゃ」
 上里は袋を広げて中身を一つ一つと取り出し其の場に並べ出した。
 上から見つめていた代官が駆け下りると
「おいおい、こりゃ凄いもんがあるでぇ」
 財布、印籠、小柄、其れに血の付いた懐紙が有る。
「何じゃこりゃ」
「もしや此れは。奴等、財布を盗られたというとったな」
「オイッ、上里、こりゃ即ぐに町医者の処へ行って確かめて来いや」
「分かりました。大至急、行っ来ます」
 取り急ぎ其れらを別の袋に入れ替えて駆け出す準備を整えた。
「処でな、此れを投げ入れた者を見とらんし、其れに逃げる足音も聞かなんだよな」
「私も即ぐに辺りを見回しました。其れに木戸には閂が掛けて有りますから中には誰も入られません」
「其れにしても、此の袋を外から投げ入れるのは絶対に無理じゃぞ」
「こりゃ空を飛んで来たんか、あり得ん事で、不思議な事が有るもんよのう」
「お代官、とに角、私は行って来ますから」
「宜しゅう頼むぞ」
 上里は正面玄関から駆け出して行った。
 その頃、与作達はラー助の仕事を見届けてから其の場で休憩をしていた。
「上里様は気付いてくれるかなぁ、見てくれりゃええんじゃが」
「此れから帰る途中で昼飯を食うぞ」
 と言うと皆んな嬉しそうな顔をしている。
「まぁ今日は此れくらいでええか。よしゃ、ボチボチ帰るとするか」
 立ち上がり頰被りをし、鉄の首縄を手にして路地を一歩踏み出した途端
「一寸待て、隠れろ!」
 正面木戸から急ぎ飛び出した誰かが此方に向かって来るではないか。
 速足に目の前を通り過ぎて行く横顔を見ると、何とあの「おっちゃん」ではないか。
 この前の役人の話しによれば、次席に出世したという事だったが、さては袋の中身を見てくれたで有ろうと直感した。
「よかった、よかった、見てくれたんじゃ」
「よし、鉄ちゃん、ラーちゃんよ、あのおっちゃんが何処へ行くか付けてくれるか」
「ワシと玉ちゃんは此処におるからな」
 鉄もラー助も非常に頭がいいから与作が言った事が理解出来るのだ。
 鉄は付かず離れず後を追いだした。ラー助は何時もの様に上空から監視してくれている。
 上里陽三郎は、代官所を出てから即ぐに誰かに付けられているのに気付いていた。さすがに藩内随一の遣い手だけの事はある。
 全く背後を振り返らず、気配だけで感じ取っていたのだ。さてはこの間の襲撃犯なのかと暫く様子をみながら歩を進めていた。だがそう間隔が空いていないのに不思議な事に相手の息遣い、衣擦れの音、足音が一切しないのだ。
 陽三郎は、此奴は相当出来るなと身構える体勢を整えていた。
 然し、幾ら歩けども全く殺気が感じられないのだ。寧ろ心地良ささえ感じる。
 代官所を出て直ぐに南の方へ路地を駆けて行き二つ通りを抜けると、町医者の看板が見えてきて上里は其処に駆け込んだ。
 結局、付けられている間、相手が何者であるか全く分からなかった。
「よし、多分、帰りも同じ事をするじゃろうから確かめてやるか」
 と子供のような悪戯心が生じていた。
 此の医者は浅田屋の得意先で何時も薬を卸したり、奉公人達が怪我をした時などにもお世話になっており、与作は御用聞きでしょっちゅう顔を出していたのだ。
 町医者に入ると、先ず順庵先生に挨拶をした。
「先生、この度はご迷惑をお掛け致しまして誠に申し訳け御座いません」
「いえいえ、此方は仕事ですから気にせんといて下さい」
「夜分にわざわざ遠くの現場に出向いて頂き感謝致しております」
「然し、何であんな寂しい様な処で襲われたんでしょうかね」
「多分、後を付けられていたんじゃないかというとりますが」
「目的は何ですかね」
「物盗りですか其れとも怨恨ですかね」
「どう云う事ですか」
「其れはですね、つまり斬られた二人の傷の具合ですよ。背後から袈裟懸けに遣られておりますが、普通なら叩っ斬られると死につながる様な傷口なのですが、どうも今度のは撫で切りにした様なのです。つまり、殺す意思までは無かったのではないかと思われるんですよ」
「仮に 物盗り野郎に襲われたのであれば完全に斬り殺されたでしょうよ」
「いやぁ、先生、素晴らしい見立て、色々と参考意見を誠に有難う御座います。必ず早急に犯人逮捕に結び付けますから」
 早速、上里は治療を受けている二人に声を掛けた。
「具合はどうじゃ、随分と顔色がようなっとる様だのう」
「有難う御座います。お陰様で生きている実感をしみじみ味合わせて頂いております。此の度は私達のドジで皆さんに大変、ご足労をお掛けしておる様で誠に申し訳け御座いません」
「そんな事は気にせんでもええから、ゆっくり休んどればええんじゃ」
 二人は床に寝ていたが起き上がって話しに応じている。
「オイ、無理をせんでもええぞ」
「いえいえ、此の方が楽でええんですわ」
「処でな、二人に見て貰いたいもんが有るんじゃ」
 と言いながら、袋から、財布、印籠、小柄、血の付着した懐紙を取り出して目の前の畳の上に並べた。
「此の中で何か心当たりの物が有るか」
 すると、いきなり粟屋が声を上げた。
「アッ!其の財布は私の物です」
「何処に有ったんですか。無論、中身は無いでしょうね」
「あぁ、空っぽじゃ、悪いけど中身は抜かれとる」
 当の粟屋本人は残念そうな顔になった。
「今の処はまだはっきりせんが多分一本道辺りではないかと思われるんじゃ」
「何でそんな処に」
「多分、犯人が逃げて行く途中で金子だけを抜いて、後は投げ捨てたんじゃないか」
「其れとな、此の印籠と小柄に覚えはないか」
 二人は互いに其れを手に取りながら粟屋が口にしだした。
「多分、此の印籠は新任の奥村さんのもんじゃないですかね。新しく来られて今迄には一度も話した事も無く、面識も有りませんのではっきりしませんが、一度だけ居酒屋で座敷に座っている時、目にした様な気がします」
「分かった、帰ってから早速確認を取ってみる」
「其れと小柄に見覚えはないか」
「其れは全然分かりません」
「よしゃ、此れだけで十分じゃ」
 帰りがけにもう一人の上村が聞いてきた。
「処で私の財布は見つかってはいないのでしょうか」
「うん、残念ながら今の処、報告が上がって来とらんのじゃ」
 上村は情けなそうに肩を落としながら
「親の形見に貰った大切な物で、皮革の財布だったんですが」
「とに角、二人共よう教えてくれた。後はゆっくりと養生して体を治してくれ。吉報を待っとれよ」
 上里が町医者での聞き込みには結構手間どった。ずっと外で待っていた鉄とラー助は「ハラヘタナ」と高い木の上から鉄に呼び掛けている。だが何の事やら分からない。ラー助は直ぐ近くにある柿の木に飛んで行き熟柿をついばんでいる。
 そして一個を咥えて下りて来て鉄の前に落としたのだ。
「ラーチャン、アリガトデモイラン」
 カラスは雑食で何でも食べれるが犬はそうはいかない。然し、互いが心が通じており忍者用語で話せるのだ。
 其の時だ。鉄の耳が急に立った。ラー助は空から町医者の玄関先を見ると鉄の処に飛んで来た。「デテクル」
 ようやく中から上里が出て来た。怪我をしている二人が見送りに出ているではないか。
 鉄には即ぐに分かった。「あの時に倒れていた二人だ」
 斬られた傷が痛々しそうで有ったが歩くのには支障なさそうだ。
 別れの挨拶を済ますと、一目散に代官所目指して突っ走りだした。
「よし、此れでかなりの目処が付きそうじゃ」
「オウ、さっきの続きが有ったな。思い切り走ってやるか。ワシの足には勝てんぞ」
 然し、とてもじゃないが鉄に勝てる訳がない。人間の三倍以上は悠に速いのだ。陽三郎は何度も角を曲がって駆け抜けるとゼイゼイ、ハァハァと荒い息をしながら代官所の玄関に飛び込んだ 。門番がたまげて
「上里様、どうされましたか、水でもお持ちしましょうか」
「大、大丈夫じゃワシは、一寸、悪戯をしたのよ」
 と大木戸の隙間から外を覗いている。
「やっぱりだな」
 門番が何が有ったんですかと問いただすと
「いや、何もない、何もない。こっちの遊び心よ」
 陽三郎は、正面から出て行く時に路地裏の奥に人間と動物がいる気配を感じ取っていた。帰りに又、此の場所に入って行く黒い狼犬を見届けたのだ。
 そして間も無くして路地から出て来ると南の方に向かって犬と猫と飼い主で有ろう、走り去って行くではないか。頰被りをした後ろ姿を見て陽三郎は叫んだ。
「やっぱりな、有難うよ」
 だが、空を飛び、ラー助が鉄と一緒に付けていたとは陽三郎には全く分からなかった。
 さすがは忍者一家で有る。
「鉄ちゃん、さっき行ったとこへ案内してくれるか。其れから先は河原に降りて皆んなで昼飯じゃ」
 飯と聞いたらすぐ分かる。飛び上がらんばかりに大喜びをしている。
「メシ、メシ!」
 来た時と同じ様に頬被りをして各自離れて歩いている。帰りは浅田屋の前を通る事も無く少しは気楽で有った。
 鉄とラー助は先程訪れた町医者の前に来て此処だよと教えてくれた。
「ラーちゃん、有難うな。お白州に知らせる大切な仕事をしてくれたから、上里様が処分される事無く、後は絶対に犯人を捕まえてくれるよ」

 代官所に取って返した上里は、早速、事の次第を代官に報告した。
「財布は間違いなく粟屋の物でした。其れと印籠ははっきりと確証が有る訳ではないですが多分奥村の持ち物ではないかと言うとります」
「よし、分かった。早速、奥村を呼んでみるか」
「其れでは、今、何処におるか捜してみます」
 役人達は今日も朝早くから探索の為、東奔西走しており昼休憩に帰って来る迄見つける事が出来なかった。
 代官は事を現時点では穏便に収める為に内密に呼び出した。
「奥村よ、毎日、毎日、探索に走り回って貰いご苦労さんじゃのう」
「云え云え、此れもお勤めで御座いますから。処で私に何用でしょうか」
「実はな、一寸教えて貰いたい事が有るのよ。此の印籠はお主の物か」
 次席が近寄り手渡された印籠を手にするなり
「此れは私の物です。何処に有ったんですか。四、五日前に何処かに落として失くしておりました」
「そうか、実はのう、この間の事件現場の近くに落ちとったらしいんじゃ」
「えっ、何の現場ですか」
「粟屋等が斬られた事件の事よ」
「私はそんなに遠い処へは行った覚えが有りませんが」
「其れなら、印籠を拾った誰かが持って行って投げ棄てたとでも言うんじゃな」
「そうとしか考えられません」
「此の印籠には少しじゃが血痕がこびりついとる様じゃ」
「私には何の事やらさっぱり分かりません」
 後は代官が何を聞いても奥村は知らぬ、存ぜぬの一点張りで、とんと埒が明かなかった。
「分かった、分かった。忙しいのに呼び出してすまなんだな。昼からも大変じゃろうが探索に頑張って協力してくれるか、宜しく頼むぞ」
「分かりました」
 奥村が立ち去ってから代官と上里が詮議を始めていた。
「オィ、此奴は限りなく黒に近いのう。印籠を何処に落としたか分からん言うとるがどうも怪しいで。暫く様子を見て泳がしておくか」
「まさか、脱藩はせんじゃろう」
「そうですね、確証を掴む迄はそうしましょうか」
「又、明日の朝に二人に聞き込みに行って、何でもええから思い出す様に頑張って見てくれぇや」
「そうしてみます」
「処で上里よ、不思議な事が有るもんよのう」
「突然何んですか」
「お主が出た後にな、袋を引っ張っとったら中から小さくたたんだ紙きれが落ちたんじゃ、其れが此れよ」
 代官から手渡されたのを一読してから、頭を捻りながら、信じられないと云う表情をしている。
「この最後に書いてある(比熊山の物の怪より)とはどう云う奴ですかね」
「そんな事を聞かれてもワシに分かる訳がなかろうが」
「考えてもみいや、ワシ等、探索専門の大勢の役人が何日掛けても何にも犯人逮捕の手掛かり一つよう見つけんのに、此奴は昼間見た様に克明に全部知っとる。上里が現場に駆けつけて調べた足跡にしても此奴はその時、現場で事件を見とった様に知っとる。背丈六尺の大男までもじゃ」
「・・・」
「真っ暗な夜中じゃぞ。逃げて行く犯人の足取り迄、綺麗に寸分違わず分かっとる。天から証拠の品をお白州に投げ込んだ事と云い、此奴は化け物か。まるで生きた物の怪の様じゃのう」
「何はともあれ、敵か味方か分からんが、天から重要証拠を与えて貰った限りは早急に決着を付けねばならんのう。其れがワシ等の務めじゃ」

 次の日の朝早くにも例によって二人組の役人が浅田屋に聞き込みにやって来た。
「朝早くから御苦労さまで御座います。今迄の処、店に変わった犯人らしき者は現れてはおりません。仲々、協力出来なくて申し訳け御座いません。何か有れば即ぐにでもお知らせ致しますから」
「オゥ、すまんが宜しゅう頼むでぇ、邪魔したなぁ」
 下っ端役人供は完全に行き詰まっているのか、えらい殊勝な態度である。
 応対した与作は
「フフフッ、代官所の奴等まだ難渋しておるのか。だがもうじきにケリがつくじゃろうよ」
 やはり、与作の読み通り其の日の夕刻頃に、何時もつるんで行動している二人が評定所に呼び出されていた。
 此の日の朝、上里は治療を続けている町医者の所に駆けつけた。
「度々、朝早うに来て済まんのう」
「とんでもない。私等の為に代官所中を煩わせて誠に申し訳け御座いません」
「多分、お前達への聞き込み調査は此れが最後になるであろうよ」
「よく心して思い出してくれんか」
 そう言われた粟屋と上村は全く真剣な表情となり正座した。
「オィ、そんなに緊張すなや。楽に座れや」
「いえ、横になっておるよりこっちの方がええんですわ」
「ほうか、其れなら気楽に聞いてくれるか」
「あのなぁ、印籠じゃが粟屋が言うとった様に奥村のもんじゃったよ。奴は四、五日前に落としたと云うとるんじゃが、何処かは全然知らんととぼけとる様じゃ」
「粟屋よ、何処に有ったと思やあ」
「私にはとんと見当がつきません」
「お前が斬り付けられた直ぐ近くに落ちておったのよ」
「当番の皆んなが駆け付けた時には辺りが暗うて御用提灯の明かりも届かず見落した様じゃ。じゃが役人ではない誰かが拾うて代官所へ届けてくれたんじゃ」
「奥村に聞いてみると、現場周辺には一切、行っとらんし他に拾った奴が其処らへ落としたんじゃないかととぼけてやがるのよ」
 其処へ何か思い出した様に粟屋が叫んだ。
「一寸、待って下さいよ。そう言われてみると思い当たる節が有ります」
「其の時、奴は覆面をしており顔は分かりませんでした。じゃが身体の特徴がはっきり思い出せました。奥村さんは大柄な体格で六尺は有るでしょう。道場で同僚との稽古で一度だけ遠目に見た事が有ります。その時、木刀を構える姿勢が常に右肩上がりでした。襲われた時には私は全く足腰がフラフラで最初は正面を向いていましたが、あぜ道に蹴躓いて後ろ向きになった時に斬り付けられたと思います。刀を抜く間も有りませんでしたがチラッと見えた時にやはり右肩上がりでした」
 そしてもう一人の上村も何か思い出した様だ。
「私も少し思い出せた様です。斬り付けた奴は背丈が五尺そこそこで目の高さがほぼ一緒でした。足元がおぼつかなくて下ばかり見ていましたが、どっちかの足か分かりませんが少し引きずっていました。
「ほうかほうか、大分記憶が蘇ったか、さすがお役人様じゃのう」
「冗談を言ってからかわないで下さいよ」
「いやいや、お主達が本来の姿に戻ってくれて此方も嬉しいのよ」
「処でな、お前が対峙した足の悪い野郎に心当たりがあるか」
「はい、記憶している奴の着物の柄から間違いなく名前がはっきりと言えます」
「よしゃ、分かった。其れともう一人については誰か分かるか」
 と聞かれると全然知らないと頭を振った。
「まぁ此れだけ情報を得りゃ充分じゃ。二人供有難うよ」
「とんでも御座いません。何卒今後も宜しくお願い致します」
 と話すと上里は席を立ち後は順庵先生の処に顔を出した。
「先生、昨日は大変貴重なご意見を頂き有難う御座いました。お陰で近日中には完全に解決するでしょう。誠に心強い限りで御座います」
「何の何の、私の拙い話でも参考にして頂ければ幸いです」
 町医者の処で話しを聞き終えると代官所、目掛けて急ぎ足で駆けていた。今朝は心地よい追跡者が後から着いて来ない。何処となく一抹の寂しさを感じていた。
 だが何故か「有難う」を口ずさみ口笛がついて出た。
 詰所に戻って来ると既に代官は出仕していて上里の帰りを待ち侘びていた。
 とに角、事件解決の目処がつき、事態が急転した事で子供の様に、はしゃぎまくり嬉しさを隠し切れなかった。
 然し、上里が帰った時は其の態度は表さなかった。
「オウ、朝早うから御苦労さんじゃったのう。どうじゃ奴等は少しは思い出したか」
「はい、確実に犯人を絞り込む事が出来ました」
「そうかそうか、分かったか、ようやってくれたのう」
「其れじゃ、最後の詰めに取り掛かるか」
「代官、一寸、待って下さい。此れから最後の二つの証拠固めをして来ますから」
「小柄と血の付いた懐紙の事か」
「そうです」
「其れならばワシが一つ解決しちゃたでぇ」
「えぇ、そりゃ何ですか」
「懐紙の事よ。勘定方に行って確かめるとな、此れは三次城に納めとる専用の物じゃと云うとったで。透かしが入っとるらしいんじゃ。ワシ等には全く分からんかったよ」
「其れはお手柄ですね」
「おいおい、からかうなや」
 でも代官は非常に嬉しそうな笑顔でご機嫌であった。
「最後のもう一つを宜しく頼むで」
「分かりました、今から早速当たってみます」
 代官所を出た上里は三次の町に有る刀剣商を訪ねる事にした。小柄は大小の刀に付随した物で当然、拵えが一体で有る。其れを無くした侍は当然有り合わせの物を急遽求めるで有ろう。其の為には必ず刀剣商にやって来るであろうと二軒有る店を聞き込みに入った。
 先ず、最初の立ち寄った店は馬洗川の河原の直ぐ近くで有った。此処は以前に八幡山城にいる頃、与作と三次の町に一緒に出掛けて来ていて、何時も帰りに待ち合わせをしていた処なのだ。此処の石垣の上に座ると懐かしさが込み上げてきた。
 そして此れからも又、因縁の繋がりが生じるのではと川の流れを見つめながら感慨深いものがあった。
「よしゃ、先ず此の店から当たってみるか」
 看板には竹澤屋とある。年代物の表札が掲げて有った。
「ご免、ご主人は居られるか」
 其の声を聞いて奥から店主が顔を覗かせた。
「此れは此れは、次席様、よくお出で下さいました」
「オイオイ、何でワシを知っとるんじゃ」
「其れは何時も遠目で拝見させて頂いております。今日は例の件で御座いますね」
「そうじゃ、毎日毎日、迷惑を掛けとる様で誠に相済まん」
「とんでもない、少しでも情報が有れば即ぐにお知らせ致します」
「処でな、此の小柄を見て貰いたいんじゃ」
 と次席は懐から包みを取り出しチラッと見せたのである。
「次席様、此処では都合が悪う御座います。此方にお出で下さいませ」
 と言い、奥の部屋に案内をした。そして席に座るなりいきなり一声発したのである。
「其れは多分、上川様の物でしょう」
「ご主人よ、何で手にも取らず、見聞きもせんのに其れが分かるんじゃ。いきなりたまげるじゃないか」
「其れは小柄の拵えを見た時に即ぐに分かりました。大小二本と小柄は一体となっており、二つとして同じ物は有りません」
「じゃ、何で上川の物と断定するんじゃ」
「次席様、自らお持ちになったと云う事は並々ならぬものが有るでしよう。本来ならば商売人にも守秘義務というものが御座います。然し、此れが犯罪がらみとなれば別で今、はっきりと申し上げます」
「其れは襲撃事件が有った翌日に、どっかに落としたと言ってうちの店に来られました。同じ様な物は有りませんが、とお答えすると構わん何でもええと店に有る物をお持ちになりました」
「其れから例の騒動が有って以来、顔を見せてはおられません」
 話し終えてから次席が目の前に差し出した。其れを手に取って見ていたが
「間違いなくあの方の物です。私の目に狂いは有りません」
「ウ〜ン・・・」
 其処へ、話している最中に、毎度の如く聞き込みの役人がやって来た。
 主人は店先に出て丁寧に応対していた。
「然し、此の男は何者なんじゃ、半端な人間じゃないぞ」
 竹澤屋は、何時も情報が提供出来ず申し訳けないと丁重にお断りをして帰ってもらった。
「済まんな、迷惑を掛けて。でも此れが最後にするから」
「然し、ご主人よ、お主の刀を見る目には恐れ入ったよ。有難う、有難う」
「とんでもない、少しでもお役に立てれば何よりで御座います」
 次席はいきなり訪ねて来た店で、自分と世代的に差して変わらない齢なのに此の慧眼振りに驚いた。
「何時頃から此の商いをしとるかのう」
「ハイ、先代が無くなってから引き継いで五年そこそこで御座います」
「其れでこれか!」
「処で話しは変わるが、お主は地の生まれ育ちではないな。何処のなまりか分からんが瀬戸内の方か」
「左様で御座います。備前の國の生まれです」
「まさか備前長船では有るまいな」
「正しく其処で御座います。子供の頃から吉井川の側で育ちました。何時も目の前を砂鉄舟が行き交いしており川岸を追いかけたものです。私の家の直ぐ側迄に舟が着き砂鉄の袋を運び入れており、其れは大層賑やかなものでした。
 でも私は刀鍛冶では有りません。父は此の地では長船四天王と言われておりましたが長男が跡を継ぎ、私は四男坊でした。父らが大槌、小槌を打つのを見て育ちましたから普通の人より刀を見る目は御座います」
「何でこんな山ん中へ来たんじゃ」
「ハハハ、嫁の都合でこうなりました。婿養子ですよ」
「然し、凄い筋の人間が此の地におってくれたとはな。今迄、何も知らんかったよ。お殿様もきっとお慶びになられるよ」
「確か、時折やって来られる尼子国久公のお腰の物は長船と聞いた事があるが」
「はい、その通りで代々、尼子のお殿様筋で御使い頂いているとの事です。其れは父の作と聞いております」
「ご主人よ、ワシは今日来て良かったよ。こんな幸運に恵まれるとは思いもしなんだよ。是非共に今後、お主の慧眼を発揮して貰えんかのう」
「有難う御座います。是非、喜んでご協力をさせて頂きとう存じます」
 代官所に戻ると早速、事の次第を報告した。
「小柄は竹澤屋の証言によると、間違いなく上川の物でした。其れも事件後の翌日に無くしたと代わりの物を求めて来だそうです。拵えを見て即ぐに分かったそうです」
「フゥ〜ン、餅は餅屋だのう。凄い!」
「然し、此れも又、凄い事よ」
「何の事でしょうか」
「天から落としてくれた証拠の品よ。全部、奴等に関連した物ばかりじゃないか。どうしてあっちこっちに有った物を一箇所に集められるんじゃ。化け物以上の寧ろ神業じゃぞ」
「上里、まさかお主が関わっとるんじゃ有るまいのう。何時も冷静に涼しい顔をしとる」
「とんでもない、私は常にお代官の命令、指示に従っておるだけですから」
「ほんまかいな、どうも信じられん」
「処でのう、次席よ、ぼちぼち奴等を呼んで始めるかのう」
「最初は取り敢えず誓約書を書かせてみるか」
「お代官、其れはいいですね。此奴等かなりしぶとそうです。特に奥村は一筋縄では行きそうに有りませんからね」
「明日の朝、皆んなが出っ張った後やりますか」
 翌朝、二人は内密に評定所に呼び寄せられた。
「次席、私等、何で此処へ呼ばれにゃいけんのですか。今、直ぐにでも大切な役目があるというのに」
 と奥村が口をとんがらかせて文句を言った。
「そうか、済まんのう。手っ取り早よう済ますけ付き合うてくれんか」
 其処へ代官が入って来た。
「オウ、忙しい時に来てもろうて済まんのう。他でもないがお主等に聞きたい事有ってのう」
「今度の事件の事でかなりの確率でお主等が関わった形跡があるようなんじゃ」
「そんな馬鹿な、私は全く関係有りませんよ」
「私も同様で何の事やらさっぱり分かりません」
「そうか、そうじゃろうのう。何も関係無いと言うんか」
「其れなら、はっきりと誓約書が書けるのう」
「お代官、其れこそ何ですか。始めから疑いの目で見られているじゃないですか」
「じゃが何も悪いことをしていないなら素直に書けるよな」
「其れこそ必要ないじゃないですか」
「私は始めから真面目に務めております」
「じゃがのう、お主等は三次代官所の役人だぞ。並の人間とは当然違うぞ。だったら、三次藩の御定法に従うのが当然じゃろうが」
「其れが嫌なら即刻、辞めて貰う。何処へでも行くがいい。好きな様にせい!」
「上里!ワシャ帰るぞ」
「お代官、一寸、短気を起こすのは辞めて下さいよ」
「此奴等も人生、先は長いんですから」
 其の一言に上川は顔色が変わってしまった。だが奥村はしぶとく全くの無表情で有った。此の男は三次藩のある属城の四男坊で帰る処が有ると思っているのだ。
 だが、代官は本当に席を立ち帰ってしまった。
「オッ、ほんまに帰ってしまわれたな。然し、気にすなよ。後は上手く取りなしておくから」
「じゃが、一筆は書いとってくれよ」
「其れから探索に加わってくれるか。宜しく頼む」
 奥村も上川も次席の声に救われたので有ろう。ホッとした表情で一筆書くと出掛けて行った。
 其処へ次の間の部屋で様子を伺っていた代官が入って来た。
「オイ、上里、効いたのう」
「いやぁ、仲々の役者振りで恐れ入ります」
「そりゃええが明日にもケリを付けるか」
「そうしましょう。何時までも引っ張っとったら経費ばかりが掛かりますから」
「幸い、粟屋や上村も順調に回復しているようですから。奴等も気にしとったんですかね。撫で切りで良かったですよ」
「其れともう一人の奴をどうしますかね」
「分かっとるんか」
「はい、知っとります」
「此奴は何もしとらんよのう」
「たまたま、偶然にも出会い利用されただけのようですが」
「見習いじゃったな」
「一寸だけお灸を据えてやるか」
「其れがいいでしょう」
 二人は詰所での詮議を終えると、一服していた。 そして事件解決の目処が付いた事で非常事態を解除するための許可をもらう為に城に知らせなければならない。
「オイ、上里よ、ご家老に報告に上がらにゃいけんのじゃが 誰が行きゃ」
「私はまだする事が仰山有りますから、代わりの者を行かせましょう」
「よしゃ、ほんなら直ぐに書状を書くから持たせてくれるか」
「分かりました。馬でやらせると、午前中のうちには済むでしょう」
 城では代官の報告を受けた家老が、急遽、お殿様に知らせに上がったようだ。
 そして、何と家老が老体に鞭打ち馬で詰所に駆け付けた。
「何遍も来とう無かったが又、顔を出したよ」
「代官よ、報告に有る事はほんまの事か」
「はい、全く其の通りで御座います」
「ウ〜ン、身内同士のいざこざじゃったか」
「まぁ、ええ事じゃないが穏便に済ましちゃらにゃいけんかのう」
「じゃがこれだけ藩内を騒がせたからのう。お灸を据えといちゃれ」
「其れとな、上里よ、ワシがいらん指図をしたが為に混乱させてしもうた。悪かったな。此の通りじゃ」
「ご家老様、とんでも御座いません。あの時は止む終えない事です。ご指示に間違いは御座いません。結果的にこうなっただけですから」
「おおそうか、すまん、有難うな」
「処で今回の褒賞金の事じゃがな、身内の事ゆえに大ぴらには出来んでのう。皆んなに一時金上乗せで堪えてくれんか」
「其れはご家老様、有難いお言葉で皆んなに成り代わりお礼を申し上げます」
 家老は余程嬉しかったので有ろう。道中が辛いとも言わず帰って行った。
「其れとですね、若い新田の事ですが、一応は面通しをして貰いましょうか」
「おお、三人目の奴はあの男じゃったか。あの晩、誰か見たもんでもおるんか」
「そうです」
「よしゃ、即ぐに来て貰うか。誰か迎えに行かせえや」
「お内儀さんですから出来れば駕籠でも、其れと帰りに何か手土産でもあれば」
「分かった。然し、お主は細やかな配慮をようするのう」
 本日も 朝から相変わらず出掛けて走り回っている役人達。まだ事情を何も知らず、腹を減らして代官所に帰って来た。其の時にはお内儀さんも駆け付けていた。出迎えた上里は
「度々お手を煩わせて申し訳ない。遠いのにすみません」
「何をおっしゃいます、上里様、先般は有難う御座いました。貴方様の温かいお言葉に、主人は感激して泣いておりました」
「イヤァ〜、其れは良かったですね。こっちまでも嬉しくなりますよ」
「処で、ぼちぼち帰って来ようりますので、こっから見とっ貰えますか」
 小部屋の戸を少し開けてジッと見つめていた。
 四、五人が班ごとに腹を空かせて帰って来た。その中に若い男が二人連れで話しながら現れると
「あの人ですと指を指した」
「有難うございます」
 上里は、小部屋から覗いて証言してくれたお内儀さんに、丁寧に礼を述べるとともにお土産を持たせ帰ってもらったのである。
「早速、誰にも分からん様に新田を呼んでみるか」
 昼飯を食べ終えた後で一休憩をし厠に立とうとした時、新田は声を掛けられた。
 何事かと先程の詰所の横の小さな部屋に入ると、代官と次席が座っているではないか。
 途端に直立不動の姿勢になってしまった。
「おいおい、そんなに緊張すなや、気を楽にしてまぁ座れや」
 と言われた新田は安堵の表情を浮かべながら畳の上に座り込んだ。
「処でな、お前は何処の生まれじゃ」
「はい。私は廻神村で御座います」
「何い!やっぱりのう」
「どう言う事でしょうか」
「実はな、ワシは今朝、‘‘お前の近くに神と名のつく村で生まれた奴がおらんかな。其の者には近頃災難が降りかかっとる,,と大明神様からお告げが有ってな」
「知っとるかな、比熊山大明神様じゃ」
「私は田舎の出ですから知りません」
「其れが言われるのには、此の近くで神と名の付く処は神杉と廻神との二箇所しかないんじゃ。ほいで次席に調べてもろうたら新田、お前しかおらなんだ」
「ワシはこの歳になってから信心のお陰でよう見えるになってな」
「近頃、お前、なんか不幸や不信な事はありゃせんか」
 と聞かれた新田は一瞬、ドキっとした表情になった。然し
「いえ、別に変わった事は御座いませんが」
「じゃがのう。此処より南東の方角に斬られてもがき苦しむ二人か三人の姿が見えたんじゃ。お前よ、何んか関わっとりゃせんじゃろうのう」
「いえ、ワッ、私は其の様な処には行っておりませんが」
「其れならええんじゃが、神のお告げが間違っとったんかのう」
 代官は暫く瞑想する様な振りをしながら間を置いて次の言葉を告げた。
「処がな、先程、事件が有った近くに住む人が来て
「何時までも解決しないのに自分だけが口を閉ざしているのは心苦しい」
 といって代官所へ駆け付けてくれてな。其れがお前が仕事から帰った時にバッタリ出会ってな。互いに顔は知らんわな」
「あの晩の人です」と知らせてくれたんじゃ」
「やっぱり因縁というものは怖いもんよのう」
「此れも大明神のお引き合わせじゃで」
「お前らはあの晩三人で粟屋と上村を付け回っとたな。処が連れの知り合いの男に思わぬ場所迄引っ張られて行き、更に時間が経った為に新田は見張りをさせられておったよな」
「その時、お前は真っ暗闇の中で、座って待っとった石はな、墓石じゃったんじゃ。自分の背中に何かが引っ付いて両手を肩から前にぶら下がっておったのに気が付かんかったか」
 代官が此処まで話していると突然、新田が泣き喚き出した。わんわん大声を出しながら
「だから悪い事をしたら物の怪に懲らしめられるとおばあちゃんが言っとったが、やっぱり出て来たじゃないですか」
「お代官様、後は何もかも白状致します」
「おおう、そうかお前は純で正直な奴じゃな」
「じゃが心配はすな。物の怪はもうお前には取り憑いちゃおりゃせん」
「あの後、斬り付けた二人に乗り移ったんじゃ」
「此の度はお前のした事は無理矢理利用されたじゃけ、大明神様から天罰を下される事は無いぞ」
「いいえ、私は悪い事をしました」
「そうかそうか、じゃが心配するな。物の怪様は堪えて下さるよ。代官所も何もかも追求は一切せんから」
「後は話しは次席が聞いてくれるから正直、皆、話すんじゃぞ」
 新田は泣きじゃくりながら「済みません」「済みません」を繰り返し頭を畳の上に擦り付けていた。
 そして次の日の午前中に奥村と上川がお白州に呼び出されていた。
「お代官、なんで私等が此処へ来なけりゃならんのですか」
「毎日、毎日足を棒にして走り回っておりますものを」
「おう、そりゃご苦労じゃのう」
「そりゃそうと上川よ、今、足と言うたがお主は足のどっちかが悪いんか」
「はい、子供の頃、崖上から落ちて左脚を骨折して今も少し引きずっております」
「其れが何か、関係が御座いますか」
「おう、二人共よう聞け!単刀直入に言う、お前ら今回の事件に全て関わっておるじゃろう」
「何で私等が関係あるんですか。証拠を出して下さいよ」
「そうですよ。私は何もしておりません」
「お前らがした事は比熊山の物の怪様が全てお見通しじゃ」
「何を子供騙しみたいな事を代官は言われますか。馬鹿馬鹿しい」
「そうか、其れなら今から言う事をよう聞いとれ」
 代官は昨夜のうちに「比熊山の物の怪より」をよく精読して記憶したので有ろう。
「お前等は最初に居酒屋で二人で飲んでおったわな。ご機嫌でおった時に粟屋と上村が入っきたのよ」
「其れが衝立一つの即ぐ隣じゃった。互いに顔は見えん。其れから暫くして酔いが回って来ると愚痴や悪口が出始め出したんじゃ。そこに奥村の事が出始めてな。あの野郎は新入りの癖に威張りくさしゃがるじゃの、ワシ等の手柄を横取りしたじゃの、属城の殿様の弟じゃのと、偉そうにしやがる、とに角言いたい放題じゃたのよ」
 ええ加減、頭に来たお主は懲らしめてやるぐらいの気持ちで外に出てから襲おうと思ったのよ。処が暫くすると名主みたいな奴と一緒に出て来てしもうた。此れじゃ無理じゃと二人になるまで付けて行ったのよ」
「えらい遠く迄、行きゃがるのうと思い今日は諦めようとしたが、どっちかが行くゆうたんじゃろう」
「そのうち襲撃現場の近くの大きな家に入って行くと其れこそ大分待っとった。
「後は例の襲撃じゃ。其の後はお主等は急ぎ足で一本道を掛けて行き二枚橋の処まで駆けて来た。そして、洗い場で刀の血糊を洗い落とし、その時、物取りに見せかけて盗った財布から現金を抜き後は草叢に投げ捨てた。
 上川はその時着物の裾が乱れとったので帯を結び直したのよ。そしたら帯で引っ掛けて洗い場に屈んだ時に小柄を溝の中に落としたんじゃ。しまったと思うたが暗くて深くてよう見えん。諦めて帰ってしもうた。朝のうちに代わりを竹澤屋に買い求めに行っとるな。其処から先は別々に違ごうた道を通り代官所の宿舎へ帰ったな」
「おい、此処まで言うて何か違ごうた事が有るか」
「そんな事は何の証拠にもなりませんよ。単なる作り話しですよ」
「そうかまだ証拠不足と言うか」
「それじゃ粟屋と上村に証言さすか。奴等、記憶がかなり戻ってな。奥村の右肩上がりの癖や、上村が上川の脚を引きずる特徴を思い出したよ。そしてその時の着物の柄までもな。現場に残されとった大きな足跡な奥村のと、ぴったし一致したよ」
「・・・」「・・・」
「まだ、足らんか」
「・・・然し」
「奥村!、我の部屋の天井裏から上村の皮革の財布が見つかったぞ」
 次の瞬間緊張が走った。奥村が
「ギャアー!」
 と大声で叫んだ。
 そして短刀を鞘から引き抜いて胸を刺そうとしたのだ。
「コラッ!」
 目の色が変わるのを見ていた次席は離れた距離にいた為、小柄を引き抜くと奥村の右手首を目掛けて投げ付けた。
 怒鳴られ、たじろいた一瞬、短刀がポトリと前に落ちた。
「馬鹿野郎!何をしゃあがる!命を粗末にすな!!」
 二人はガックリ首をうなだれて観念し、白砂の上に飛び下り土下座をしたのである。
「奥村!、つまらん考えを起こすな。お殿様の気持ちが分からんのか」
「お前等を決して処分をされようとは思ってはおられんのだぞ。二人には将来ある若者じゃ、寛大な処置をと言われとるんじゃぞ」
「二人共、決してつまらん考えを起こすでない、分かったか!」
「其れとな、粟屋と上村も近く復帰出来る見込みじゃ。本人等も自分達が悪かったと反省しておるんじゃ」
 奥村と上川は小さな声で「はい」とこっくりと頷いた。
「お前等、一日だけ牢屋に入ってよう頭を冷やせ。明日には解放してやる。お殿様を有難いと思え!」
 代官は、迷宮入りをするかと思われる様な襲撃事件を、其れこそ訳の分からない比熊山の物の怪の力を借りて解決する事が出来た。
「まぁ、何でもええ、ケリさえ付けばこっちのもんよ」
 と馬の尻を叩きながら意気揚々と家老の待つ比叡尾山城を目指していた。
「オオゥ、代官、よう来たのう。この度はご苦労じゃったのう」
「有難う御座います」
「お殿様も事が解決して大変お喜びになっておられるよ」
「そりゃええが、今度の事件解決には比熊山の物の怪が活躍したと町の評判になっとるようじゃがどう云う事かいのう」
「其れに付いては私もよう分からんのです」
「実は、あっちゃこっちゃ投げ棄ててあった奴等の証拠の品を拾い集め袋で 代官所の中庭に落としてくれたんです。外から投げても絶対に届きません。不思議なことがあるものです」
「フゥーン、そうじゃったか。然し、ほんまに物の怪なんぞおりゃせんじゃろうが」
「然し、何れにしても人間のした事でえ。心当たりは無いのか」
「そういえば次席がと思い問い詰めました。じゃが自分は全く知らんと云うとります」
「然し相当関係しているとも思われます」
「其れとご家老、是非共お殿様の耳に入れたき儀が御座います」
「何ぞええ話しでも有るんか」
「はい、実は事件解決に走り回っております頃、次席の上里が刀剣商を訪れ話しをしている時、ここの竹澤屋の主人が備前長船の生まれである事を知りました。
「何! そりゃ初耳じゃ。してその者は」
「長船四天王と呼ばれる代々の名工で、国久公のお腰の物は父親の兼光作だそうです。本人は今、故郷を離れて此の地に住まいし、今は刀鍛冶では有りませんが刀に関しては凄い慧眼をしているそうです」
「そりゃそうじゃろう。おい!、一寸、待っとれ、お殿様に進言してくる」
 と言いながら席を立った。
 戦国時代と云われる此の当時、備前長船から輩出された刀は武家、武士の間で垂涎の的であった。
 ましてや、国人領主ともなれば殿様の象徴、誇りとして名のある物を携えかったのである。
 そして家老が満面に笑みを浮かべながら駆け込んで来た。
「あのな、是非共、次席が竹澤屋の主人を伴って此処へ来てくれんかと言っておられるんじゃ。大変、お慶びになっておられる」
「分かりました。帰りましたら即ぐにでも申し伝えます」
「其れからお殿様がな、喜びついでに、今度の犯人二人に付いて罪一等を減ずる措置を講じてやってくれんかと云うお言葉じゃった 」
「此奴等はまだ若い、此れから将来ある若者じゃとな」
「分かりました。今後二度と此のような不祥事を起さぬ様藩内の引き締めを図って参ります」
「そうかそうか、宜しゅう頼むぞ」

第9話 頼母子講毒殺事件

闕所 (けっしょ)

 薬の歴史は人類の歴史と同等と云われる程に古く、古代から長きに渡り世界中に人間の知恵として活用されてきた。
 日本國でも出雲神話に出て来る因幡の白うさぎを大国主命が助ける伝説も薬にまつわる逸話であろう。
 又、薬の知識は日本に大陸から伝来した仏教とともに持ち込まれ、聖徳太子が大坂四天王寺を建立、其処で種々の薬草を育て薬を製造、調合、処方する施薬院をつくった事が発端と云われる。其れから長い長い年月を経て人々は工夫し西洋の蘭学や漢方医学を学び発展させたのであった。
 こうした事から、日本各地の寺院に於いて広い寺社地を利用しての薬草栽培も行われていた。以降もこの流れで貧しい平民の為に、寺院は檀家へ薬の世話をしていたのである。
 漢方薬、和薬を広く世間一般に普及させる為の薬店や薬種問屋が生まれ出したのが室町時代からと言われ、戦国時代後期の豊臣秀吉の頃から急速に波及しだしたのである。大きな大坂城築城にあたり急速に城下は発展し、それともに多くの人民が暮らす様になった。
 その為、薬の需要も増し出し城の直ぐ近くに隣接する道修町に集中的に薬製造、売薬店、薬種問屋が作られていったのである。この地は古くから薬に関わる伝統の地である四天王寺に近く、天下統一と共に全國に売薬が波及していったのである。
 武家社会だけに限らず農工商と全ての民から一番必要とされていたのが医薬品であろうか。この時から江戸時代以降にかけて急速に発展し、夫々の家庭に常備薬される様になってきた。
 こうした需要の為、日本各地の主要な町へも波及し、この備後の田舎の地に於いてもご多分に漏れず同様な事態になりつつあった。
 約四年前に瀬戸内沿いの備後尾道から進出して来た同業の深澤屋は、地元の三次でいち早くから商いを営んでいた浅田屋と、備北方面への薬種問屋の覇権をめぐり、熾烈な争いを繰り広げていた。
 深澤屋は後発のため策を弄して、三次代官と結託してまだまだ普及が遅れている、次なる山陰出雲への進出の足掛かりとなるべく、浅田屋潰しの野望を持っていた。
 娘の美和の誘拐監禁事件では失敗に終わったが、次なる新たな一手を練っており、何れ又、何か仕掛けて来ると与作は読んでいた。
 私利私欲の業突く張り代官と手柄を焦る深澤屋三次店主の権三はとんでもない企みを思いついたのである。
 此れが誰も全く想像しえない形で事件が発生し、驚きを禁じ得なかった。
 薬種問屋、浅田屋善兵衛を陥れるために 、とんでもない策略を講じたのである。
 歳も押し迫った師走の二十日、今年、最後の頼母子講が浅田屋で催された。
 地元の商店主十五軒が集まり、恒例の頼母子講が本年最後で、忘年会を兼ねて亥の刻頃迄、賑やかに執り行なわれた。
 頼母子講とは、鎌倉時代に庶民の間に自然的に発生した、小さな金融機関みたいなもので相互扶助を目的としていた。少人数が集まり積み立てたお金を毎月融通しあっていたのである。
 与作達の丁稚仲間と、下っ端の手代は宴会が終わる迄、雑用を命じられ付き合わされていた。
 やがて「シャンシャンシャン」の手締めでお開きになると、家路につく各商店主の為に、玄関先への見送りから、中には足元がおぼつかない店主もいる為、お土産の荷物と共に自宅へ送って行く手代もいた。
 与作も、何組も近所のお店先迄お供をしていた。そうした中に呉服の吉田屋と荒物屋の兼澤屋が座敷から一緒に玄関口に下りてきた。
「お疲れ様でございました。おうち迄、荷物をお持ちしましょうか」
 と与作が声を掛けると
「ええから、ええからワシらはな、一寸、小腹がすいたから蕎麦でも食うて帰るよ」
「分かりました。足元に気をつけてお帰り下さいませ」
 完全にお開きになり、各商店主が帰宅し座敷の後片付けを済ませたのは真夜中を超えていた。接待していた浅田屋の家族、女中、手代、丁稚供もクタクタに疲れきっていた。朝早くから昼間中はずっと仕事をした上だったので尚更である。
 だが、奥様が皆んなを広間に集め座らせると、奥から盆の上に小袋を幾つも載せて現れ皆んなに一言お礼を言った。
「皆んな、遅く迄ご苦労様でしたね、疲れたでしょう。此れは少ないですが気持ちです、受けとって下さいね」
 と言いながら各人に寸志を手渡してくれたのだ。
 この奥様の優しい言葉と態度に、いっぺんに疲れが吹っ飛んだ気持ちに全員がなったのであった。
 特に住み込みの手代、丁稚にとっては日頃、無給金の様なもので飛び上がらんばかりの喜び様であった。
 其れも 、日当分以上のものが入っており思わぬ年末報奨金に「有難う御座います」「有難う御座います」の大合唱で夫々がお礼の気持ちを述べていた。
「ご主人さんだったら、舌でも出さんのにな」と皆んなが顔を見合わせながら小声で呟いていた。
 ようやく解放された与作は、浅田屋を出ると、
「鉄が遅くなって心配しなが待っているだろうなぁ、早よ、帰ろう」
 と気に掛けながら小走りに駆けていた。山道に差し掛かる辺りで、ボチボチ呼ぶかと思った途端に両足に何かが当たった
「おお、鉄ちゃんか、ありゃ、玉ちゃんも来たんか」
 あとは「ウワン、ワン」「ニャア、ニャア」と大騒ぎをしている。
 流石に忍者一家である。近ずく足音も吐息も立てないのだ。
 玉ちゃんは、与作の帰りが何時もより大分遅いので、小屋から夜道を駆けて来たのだ。
 小さな歩幅の玉ちゃんは迎えに来るのにさすがに疲れたのか、ちやっかり鉄の背中に乗っている。暖かくて気持ち良さそうだ。本当に親子兄妹の様に仲良しなのだ。
 時に、与作の懐に入ったり、歩いたりと全く気まぐれである。
 こうした遅い残業明けに、寝る間も無いのにも拘らず、与作は何時もと同じ時刻に浅田屋へ一番に顔を出していた。
 早速、箒を持って中庭や店先の掃除を始めていた。
 そのうち主人が、昨夜の疲れからか眠そうに欠伸をしながら玄関戸を開け出した。
「おはようございます」
 与作が挨拶しても何の反応もない。丁稚の疲れなど何とも思っていないのだ。
「へへへ、まぁいっか」
 そのうち通いの番頭さんや他の奉公人も続々、出勤して来だした。
「おはようございます」
 だが、ろくに返事もしてくれない。
 然し、どいつもこいつもこりゃ何だ、よくもまあ此れで商いが出来るもんだなと変な感心をしていた。「まぁ仕方ないさ、こっちは新米の丁稚だからなぁ」
 何時もの様に商店街も揃って開店準備を終えて店先が忙しくなる頃、前の道をバダバタ駆けて来る足音が聞こえた。
 そして浅田屋の店の中に四、五人の役人が飛び込んで来た。
「お役人様、朝早くから何事で御座いますか」
 と番頭が尋ねると
「浅田屋の主人はおるか」
「只今、中におりますが御用をお聞きしたいのですが」
「ワレでは話しにならん、呼んで来い!」
 押し問答をしている時、騒ぎを聞きつけて主人が顔を覗かせた。
「私が浅田屋善兵衛で御座います」
「オオゥ、浅田屋か、ゆんべな、お前の処で頼母子講があったらしいのう」
「ハイ、子の刻の頃迄、皆さんいらっしゃいましたが、何事も無くお帰りになられました」
「其れが大有りなんじゃ。お前のとこで出した料理に当たって二人が死んだと届けがあったんじゃ」
「そんな馬鹿な!」
 主人はびっくりして
「うちで出したものが当たるなど考えられません」
「今朝も昨夜の残り物の料理を、住み込みの連中と私は皆んなで食べました。何とも無くてこうして全員ピンピンしております」
「私達も異常は全く無いですが」
「私もです。お代わりもしたし」
 と住み込み手代や丁稚が口々に叫んだ。
 然し、役人は毅然とした態度で
「ワレ等がどう言おうとも、現実に二人が死んどる。今朝の医者の診立てでも食当たりと判明しておるんじゃ」
「お役人様、うちで出した昨夜の仕出し料理は、三次で信用ある長岡屋さんから調達した物で御座います。絶対に間違いは有りません」
「何を言うとるんなら、我れん処の不潔な台所と汚い手で扱こうたんじゃろうが、どう言おうとも理由にならん」
「そんな不合理な理由で何の詮議も無いのに、どうしていきなり捕まえられるんですか。おかしいじゃないですか」
「じゃかましい!つべこべ抜かすな、文句があったら代官に言え」
 と言いながら浅田屋に縄を掛けてしまった。そして外へ連れ出すと
「今日から即刻、店を開けてはならん。分かったな」
 と主人に聞こえない様に番頭に言い残し連れ去ってしまった。
 突然の出来事に、奥様を始め奉公人達はどうしていいか分からずに右往左往していた。
 昨夜半から早朝に掛けての短時間の出来事に、代官所は即座に逮捕に来たが、どう考えても判断が早すぎる。其れに、死んだ二人の店に、役人と一緒に医者が立ち会った節が全く無いのだ。
 与作が早朝に前の道を掃き掃除をしている時、本通りは一本道で見渡せる。其れに何かあれば隣近所の丁稚が必ず騒ぎ立てる筈だ。
 完全に仕組まれている事は明白であったが、忽ち証を立てる事が誰にも出来ず為すがままであった。
 店を開けられず闕所になれば、何れ財産を没収され三次を所払いされる可能性があり、浅田屋の家族にしても、奉公人達も忽ち露頭に迷う事になる。
 美和の誘拐監禁事件の時、浪人者二人の素早い処刑といい、今回の手際のいい役人の踏み込みにしても、完全に代官と深澤屋がグルで有ると云う事は明白で与作には分かっていた。
 この時代は戦国の世で、権力者の横暴が罷り通っていた。今度の様に、悪代官の匙加減ひとつで町人、百姓の命など法が有って無い様なもので如何様にもなったのである。
 今回の事件解決には、代官所を頼る事は全く出来無い。
 事を急ぐ奴等に対して、こちらが早急に手を打たなければ、主人は浪人者の様に有らぬ罪を被せられ、簡単に首を刎ねられるであろう。
 今日から店を閉められるとなると 、忽ち毎日が無職の身となる。自分としても此れから先 、長くお世話になるで有ろう浅田屋が消えて無くなるのは、どうにも忍びない。
 与作は浅田屋を助けるべく、即ぐに行動に打って出た。
 昨夜は宴会が引けてから、殺された二人を、与作が玄関先に見送りに出ており、その時に小腹がすいたと言いながら北の方に歩いて行っている。
 此処からの行動が重要な手掛かりとなるので、足取りを逐一追跡しなければならない。
 然し、与作が動くに当たっては、事件現場が浅田屋の全く身近かな処故に、其のままの格好では、すぐに丁稚奉公勤めの身分かバレてしまう。其れでは全く話しにならない。
 代官所から店を閉めろと言われてしまったので、与作は急いで店を離れた。
 街中を離れるとすぐに犬笛を吹いた。
「こんな早い時間に吹いた事たぁないが鉄ちゃん居ってくれるかな」
 帰りに呼ぶ何時もの場所より町中で吹き、更に山寄りでもう一度吹いてみた。
 処が鉄も
「何処に居ても聞こえるよ」
 とびっくりした様な顔をしながら駆けつけた。何時もは殆んど夕方暗くなってから呼ばれるからだ。
「鉄ちゃん、今から帰ってくるぞ。競走しよう」
 途端に嬉しそう表情だ。本気で走らせたら与作の三倍以上は速いで有ろうし、其れに持久力が半端ではない。長い登り坂でも一気に駆け上がる。
 少し前を走りながら常に後ろを振り返えっては与作を気遣っている。
「鉄ちゃん、速いな。でもお前は本当に優しいな」
 道中の半分くらいの垰で休憩がてら
「ラーちゃんも呼んでみるか」
 とカラス笛を吹いてみた。するとアッと思う間もなく与作の肩に止まった。
「何じゃ、ラーちゃん見張っとってくれたんか」
「へへへ」
「ほんま空飛ぶ忍者じゃ、凄いのう、ワシにも全然分からんかっよ」
「師匠さんが喜ぶ筈だ、ラーちゃんが付いとってくれると全く心強いからな」
「お前達は大の仲良しで目も鼻も凄いから、お互い何処におるのか直ぐに見つられるんじゃなあ」
 鉄とラー助は嬉しそうに見つめ合っている。
 炭焼小屋に近づくと、足音を聴き玉が飛び出してきた。今朝、出がけに小雨がぱらついていたので遠慮したのであった。
「玉ちゃん、晴れてきたから一緒に行くぞ」
 この行くという一声を聞いて、鉄とラー助と一緒になり大騒ぎしながら喜んでいる。
「おい、ちよっと待っといてくれ、今から支度をするから其れ迄、外で遊んどれな」
 此れからが与作は大忙しだ。今日一日中、手間が掛かるかも知れないので皆んなの弁当を作り、髷を結い直し、そして変装の為の付け髭や衣裳を整えなければならない。先ず米を炊く為に囲炉裏に鍋を掛けて火を焚いていた。
 今回、本当はやってはならない事だが、この際やむを得ない。
「使わせて下さい」
 と物入れに手を合わせた。総大将襲撃事件の時、亡くなった方の遺品の着物を取り出し、そして 二本差しも借りることにした。
 肝心の顔に貫禄を持たせる為に、自分の髪を間引き、 飯粒を 練って熱を加えたコテでくっ付け、鼻の下から顎にかけて付ける髭を用意した。
「こりゃ付きが弱いから糊も毛 も予備に持っとかにゃいけんのう」
 その間に飯が炊けたので、簡単に有り合わせのおかずを添えて弁当を作り風呂敷に包んだ。そして外に一声掛けた。
「皆んな今から出発じゃ」
 一気に集まって来た。だが其の前にやらなければならない事がある。
「一寸、墓参りをしてから行くぞ」
 すると愁傷なもので与作の後で横一列に並んでいる。
 何時もの様に短いが読経を始めた。其の途中にラー助が
「ナマンダブ、ナマンダブ」
 と茶々を入れてくる。憎めない本当に可愛い連中なのだ。
 それを済ませると愈々出発だ。
 鉄の背中に荷物を括り付けると早速玉が其れにしがみついている。鉄は嫌な顔一つしない。
「よし、別荘迄一気に行くぞ」
 この道中は、日中に忍者一家が始めて揃って出かける事となり、皆んな嬉しくて堪らない。普段は与作の仕事の都合があり、先ず無理 なのだ。
 別荘に到着すると、荷物を置いて皆んな、真剣な表情でやる気満々になってきた。衣装替えを済ますと、侍になりきり探索を開始しなければならない。
 弁当の用意や身仕度を整えると、与作の変装姿にラー助は一瞬怪訝そうに
「アレッ」 
「ラーちゃん、ワシじゃ、よう覚えとけよ」
「ワカッタアル」 
 さすがに鉄、玉は一切動じない。姿、形でなくご主人様の臭いで判断するからだ。
「鉄ちゃん、玉ちゃん 、此れから宝探しをやりに行くがよろしく頼むぞ」
「ラーちゃんは暫く空から様子を見とってな」
 鉄も玉もラー助もランランと目が輝き出した。
 偽侍は昼間にも関わらず、堂々と闊歩し、本通りに駆け付けた。其れも縄で首を括った犬と猫連れだ。
 浅田屋は戸が閉まっており、更に三軒先の吉田屋も同じだ。もう一軒の兼澤屋だけが通りの一番端にある。やはり此処も閉まっている。今日の商店街は事件の影響で、お通夜の様な状態であった。そんな中で与作が侍に化けて、犬、猫、連れでいるとは誰も気付く者はいなかった。
「亡くなった二人は夜中に帰宅した同時刻頃に、家に入ろうとし、玄関戸に手を掛け「ドンドン」と叩いた途端に其の場に倒れて吐いたのである。物音に気付いた家族が中に引っ張り込んだのだ。吉田屋も兼澤屋もほぼ同じ状態であった。
 両家の家族の者は、毒を飲まされて死んだなど知る由も無く、飲み過ぎの自然死と思い医者にも役人にも知らせる事はなかった。
 其れなのに早朝に役人が踏み込んだなど、明らかに大嘘で有る事を与作は察知していたのだ。
 与作が察するに先ず遅効性なトリカブトの毒を蕎麦に混ぜて入れたものと思われた。
 昨夜、浅田屋で食べた物は胃腸に残っており、蕎麦と日本酒だけを吐いている。
 与作は鉄と玉を夫々の店先に連れて来た。其の場には灰や砂が被せられていた
 先ず、自分で嗅いでみる。時間が経っているので分かりにくかったが、そこは丁稚と言えども薬屋の端くれだ、微量だが トリカブトである事を嗅ぎ取っていた。
 其れから鉄と玉に臭いを嗅がせると吉田屋と兼澤屋とに分かれて出発させた。日頃から得意の、食べ物の臭い嗅ぎが強い玉は吉田屋の前からすぐに駆け出した。
 鉄は兼澤屋の前からゆっくり地面に鼻を擦り付けながら歩き出した。与作は鉄に付いて行く。
 しょっちゅう 、山中で宝捜し遊びをやらせているので、こんな時、十分な能力を発揮してくれるのだ。本通りの一本裏道の花街の入り口に有る、蕎麦処の寿屋という店に辿り付いた。
 既に玉は到着していた。だが何故か店主に、箒を持って店先の路上を追い掛けられている。与作を見付けると此方へ駆けて来た。
「玉ちゃん、どうした!」
 途端に心細そうに「ニャーン」と鳴くではないか。
「こりゃあ!ワリャ、ワシの猫に何をするんなら ! 」
 店主は髭面の侍の怒鳴り声にびっくりして平謝りをしだした。
「お侍様の猫でしたか、誠に申し訳け御座いませんでした。準備中の店の中に入って来たもんですから」
「分かった 、分かった、猫のこたぁもうえゝ。一寸、お前に聞きたい事があるけぇ来たんじゃ」
「何か知りませんがワシは、今、仕込みで忙しいんです。邪魔ですから帰って下さい」
 と、えらく機嫌が悪い。猫が店内に入って来たのが余程腹が立ったのであろうか。
「ほう、お主、えらいえゝ返事をしてくれるのう」
「とに角 、目障りですから」
「分かった。今すぐに帰る。但し、ワシはこの足で代官所に出向くぞ」
「ゆんべな、本通りの二人の商店主が死んどる。それがお前の処で出した蕎麦と日本酒を飲み食いした後じゃ、吐いた証拠の物がちゃんと残っとる」
「邪魔じゃろうから帰るとするか鉄、玉行くぞ」
 と言い残して戸を閉めてから帰ろうとすると店主が慌てて追い掛けて来た。
「お侍様 、ちょ、一寸とお待ち下さい」
「何じゃ、話しはもう済んどるんじゃが」
「今の話しは本当でしょうか」
「わりゃ、ワシを舐めとるんか!ワシが何も知らんと思うとるんか」
「何でワシの猫の玉がな、ワレの店へ来たと思う」
「分かりません、どういう事でしょうか」
「玉はな、死んだ吉田屋が家の前に吐いた処から、臭いを嗅ぎながらお前の店に辿り付いたんじゃ。そしてな、此処におる犬の鉄が、兼澤屋から同じ様にして此処へ来たのよ」
「其れで両方の吐いた物の中から微量じゃがトリカブトの毒が検出しとるんじゃ」
 与作の話しに顔が段々と真っ青になり出した。そして
「お侍様、中にお入り下さい、何もかもお話ししますから」
「確かに、二人の方が亡くなった噂は先程、隣の人に聞きました。でもうちで一杯飲みながら、蕎麦を食べた後に死んだなど思いもよりませんでした」
「まあ、お前の店が関わったとなると先ず打ち首の処刑かのう。良くて遠島かのう 。何せ二人も死んどるんでな、知りませんでしたは通用せんよ」
「ワシはまだ寄らにゃいけん処があるから此れで失礼するよ」
 すると、帰ろうとする偽侍の足にすがり付き懇願しだした。
「お侍様、何もかもお話ししますからどうぞお許し下さい」
 と言いながら店先の戸を閉めだした。
「どうした、今日は店を開けんのか、さっき邪魔になる言うとったが」
「其れどころではありません」
「よし、分かった。お前がその気ならじっくり話しを聞こうじゃないか」
 店主は椅子をすすめて座らせると自分は地べたに膝まずいて座った。
「おい、おい 、そんな事たぁせんでもええよ。気楽にして話そうや」
「有難うございます」
「処でなんでこんな事になったんじゃ、お主に事情が分かるか」
「はい、お亡くなりになった吉田屋さんと兼澤屋さんは昨夜確かに来られました。其の時には他にお客さんが誰もおられませんでした。すぐその後 、吉三が入って来ると、同じ席に座って日本酒三本を注文されました」
「吉三とは何者じゃ」
「上方の役者あがりの女形でございます」
「何で一緒に来たんじゃ」
「さあ、其れは私には分かりません」
「吉三は確か三年くらい前に三次にやって来ました。以来、花街あたりを彷徨いております」
「そうすると薬問屋の深澤屋と同じ頃か」
「そう、そう、お侍様、 何でご存知なんですか。私もはっきり覚えております。
 引っ越しの開店祝いの後で深澤屋と女形の吉三がうちの店に来たんです。全くド派手で目立つ格好でした。でも、どことなく瀬戸内の方の訛りが有りました」
「其れから、まもなくしてから吉三が厨房にやって来て蕎麦を二つ作ってくれ 、ワシは要らんと男言葉で言いました」
「承知致しました。と返事をすると作っている間中、三人は大層会話が弾み非常に楽しそうでした。そして出来た頃合いを見計らかって又、吉三が厨房に顔をのぞかせて「ワシが持って行く、盆ごと貸せ ! 」と強引に取り上げました。どうもおかしな奴じゃなと思い暖簾の隙間からこっそり覗いて見ました。
 すると直接二人の処に持って行かず衝立の有る所に置きました。そしてキョロキョロしながら懐から何やら白い紙包みを取り出し、其れを広げて丼二つの中に入れるのが見えました。でも、さして気にもしませんでした。まさか毒を盛るなどとは一切考えませんでしたから」
「そのうちに店も一気に立て込んで来て大忙しでした。そしてお二人が食事を終えて勘定を払われる時は吉三はもう居ませんでした。ごく当たり前にお帰りになったので、今、お侍様の言われる事を聞いて大変驚いている処で御座います」
「私の処に代官所が捕まえにやって来んでしょうか」
「さあ、其れは分からんぞ。お前次第じゃ」
「返答によっては首が飛ぶかも知れんぞ」
「考えてもみい、毒の効き目がもうちょっとでも早かってみいや。お前が作った蕎麦で店の中で死んだ事になるんじゃで」
「例え吉三が毒を入れるのを見た言うても、代官所と吉三がグルだってみいや罪はお前に全部被せられるぞ」
「お侍様、どうか命だけはお助けください!」
「でも此れだけは、ワシにもどうにもならんかも分からんぞ」
「代官所が判断を下す事じゃからのう」
 と言われると再度、地べたに頭を擦り付け出した。
「分かった、分かった。頭を上げぇや」
「心配するな、絶対にそういう事は一切させん。此れからも安心して蕎麦屋を続けられる様にしてやるよ」
「有難うございます」
「おい、おい、そんなに畏まらなくてもええぞ。まぁ椅子に掛けぇや」
「処でな、主人が知っている事があったらもう一寸、教えて貰いたいんじゃ」
「何んなりとお聞き下さい」
「店の方はえゝんか」
「戸を閉めておりますから。其れにお侍様の方の話が一番重要な、生命に関わる事で御座います」
「分かった、手短かに済ませるからな」
 店主は震える手でお茶を出しながら自分も椅子に腰かけた。
「さっき言うとった深澤屋と吉三は、よく来るのか」
「はい、しょっちゅうです。どうも此奴等、男同志出来とる節が有りますわ」
「フフフ、そう云うもんか」
「処で三次代官はどうじゃ」
「お代官様は直接お越しになった事は有りません。でも代官屋敷には出前に行った事は何度か有ります。その折に深澤屋が玄関口に出前の蕎麦を取りに出た事が有りました。又、一度だけ吉三が屋敷に来ていたと思います。と云いますのが玄関に派手な履物が揃えて有りましたから。こんな物を履く奴は三次には吉三しかいませんよ」
「其の時は、代官と深澤屋と吉三が何やら密談をしている様でした」
「其れから余分なことを言うかも知れませんがよろしいでしょうか」
「あゝ、是非共頼む」
「以前に、浅田屋の美和さんが誘拐された事が有りましたよね」
「おう、其れならワシも覚ておる」
「其の時の浪人者の犯人二人を、事件が有る前に店に深澤屋が連れて来たんですよ。其の時はお客さんが多くおられて 、何を話しているかは分かりませんでしたが 、何か耳打ちをしている様でした。其れから間も無くして捕まり、えらい早くに処刑になったじゃないですか」
「町の噂では 、代官所は犯人の詮議を、ろくすっぽうせんで、いきなり処刑するとはおかしいじゃないかと、代官を疑がっていたんですよ。其れに其処まで、罰する程の罪じゃないでしょう」
 店主は堰きを切ったようにベラベラと 喋り出した。余程、偽侍の 店を続けさせてやるとの言葉が嬉しかったのであろう。
「店主よ、色々、えゝ情報を提供してくれたな、ほんま感謝しとるよ。何とか亡くなったお二人が浮かばれる様にしてあげんとな。絶対に性悪な野郎を厳罰にする為にもな。其れと何も悪い事をしとらん浅田屋の主人を、いの一番に助けてやらん事にはな。此れも悪代官に早々にも殺されかねん。其れと一番肝心なお前の事じゃが、兎にも角にも早急にケリを付けちゃるから安心せい。グルになっとる三次代官と深澤屋をのさばらせる事は絶対にさせん」
「店主よ、此れは少ないがワシの気持ちじゃ、取っとってくれるか」
「とんでも御座いません。要りません。こちらが感謝一杯ですから」
「えゝから、えゝから 店を遅らせたからな」
「ほんまに宜しいんでしょうか。其れでは有り難く頂戴致します」
 と両手で丁寧に受け取りながら深々と一礼をした。
「長い間手間を取らせたな」
「処でお侍様、腹はすきませんか 。宜しかったら蕎麦を食べて行きませんか 、お代は無論頂きませんから」
「有難う、有難う。じゃがまだ約束しとる処があってな、今度、ご馳走になるよ」
「其れともう一つだけえゝか。吉三は、何処へ住んどるんじゃ」
「あゝ、奴はこの近くですよ、すぐ分かります。其れとですね 、吉三は大の犬嫌いでね、お侍様の大きな犬を見たら、腰を抜かしてションベンをちびりますよ」
「ハハハ、そりゃ面白い」
 偽侍はやがて席を立って帰ろうとすると
「お侍様たまにはうちに寄って下さいよ」
「あゝ、そうさせて貰うよ」
 と店先を離れてから与作は吹き出しそうになった。
「馬鹿こけ、ワシがほんまに寄れる訳きゃなかろうが」
 普段は浅田屋の丁稚奉公で、しょっちゅう顔を合わせているのだ。
「然し、全く、変装した偽侍がバレんとは上手く化けたもんよのう」
 と一人悦に入っていた。
 だが店を出ると与作は途端に不安に襲われた。
 他でもない、懐に有ったなけなしの有り金を、気前よく蕎麦屋にくれてしまったのだ。
「然し、ワシもおっちょこちょいよのう。まぁええか、節約すりゃなんとかなるさ。皆んな御免な、美味しい物を食わせてやれなくて」
 偽侍と一緒に並んで歩く姿は幸せそうで、全く気にする素振りも欠片も感じられなかった。
 そして与作は此れからどうしたもんかと思案しながら歩いていた。
「鉄ちゃん、玉ちゃんどうするかなあ」
 と話しかけている時にラー助が降りてきた。
「ワシワドウシタ」
 僕はまだ何もしていないよ、と云う顔をしているではないか。
「そうか、そうか、ラーちゃんもう一寸、仕事をするか。飯は其れからじゃ」
 皆んなと一緒に吉三の住まいに向かって歩き出した。が、さっきの話しで察するには毒殺された吉田屋さんと兼澤屋さんは昨夜、与作が玄関先に見送りに出ている。其処から蕎麦屋に行く迄の間に吉三が接触したものと思われる。多分 、相手は誰でもよかったのだ。他の人達は手代や丁稚が相手の店先に送っているからだ。二人が歩いている時に、小股の切れ上がった夜目には美人に見える吉三に声を掛けられて、蕎麦ぐらいならと付いて行ったのであろう。其処は手練手管の女形あがりだ。そして店に入る時に遅れて来たのは、暗闇の中で待っていた誰かに包みを手渡たされたのだろう。
 蕎麦屋から情報を仕入れた与作は、毒を飲ませた可能性の高い吉三の住まいに向かった。
「花街のはずれた処から、すぐ側に小さな小川があり三間程の橋を渡って二軒目が奴の住まいですよ」
 と店主に教わっていたのですぐに分かった。
 橋の上に来てから与作は予備に持ってきた付け髭と糊を取り出した。どうも乾燥してきた様でブラブラしだしたのだ。蕎麦を食べて下さいと言われたのだが、蕎麦汁で濡れてどうにも落ちそうだったので断わった。其れこそ浅田屋の丁稚とバレてしまうと元も子もない。
 水辺に顔を映して水に浸し再度付け直した。
「よし、出来た」
「あのな奴の家は其処じゃから、鉄ちゃん、ラーちゃん呼ぶ迄、此処で待っとれよ」
 と声を掛けると鉄がお座りすると玉もラー助も其れに従っている。
 与作は玄関先に佇みながら案じていた。今度も又、下手をすれば吉三も利用された後に消される運命ではないかと思ったのである。奴等は其れを簡単にやりかねないからだ。
 見ると大きくはないが小綺麗で一人住まいにしては贅沢な建物であった。 此れも多分、深澤屋が充てがったものであろう。
「オゥ、吉三はおるか」
 玄関戸をドンドン叩きながら呼んでみた。然し、返事が無い。間をおいて再度、叩いていると
「うるさいな、誰方ですか」
 と眠そうに目を擦りながら玄関口に出て来た。
「何じゃ、此奴が小股の切れ上がったえゝ女か、大髭ずらで、ずんぐりむっくりじゃないか」
 偽侍は一瞬、笑いを堪えていた。
「何がおかしいんですか。こっちは、おたくみたいな人には用がありませんよ。帰って下さい。まだ眠むたいんですから」
 然し、此の男が上方の役者あがりの女形とは、まるで三文役者じゃないか。もっとも千両役者と言われる程の人気があれば三次くんだりする程、落ちぶれていないか。与作は此れでは馬の足程度の役どころの男ではないかと変な納得をしていた。
「そりゃ、すまんな。手短かに言うから聞いてくれ」
 全く不機嫌で仏頂面のまま
「其れで」
「昨夜な、二人の商店主が毒殺されたのを知っとるか」
「私が知る訳ないじゃないですか」
「お前が一緒に居った蕎麦処の寿屋で、吉田屋と兼澤屋が帰る途中、家の前の玄関先で倒れて死んだんだよ」
「全然、何んの事か分かりません。私には何の関係も無いですよ、変な因縁を付けたら役人を呼びますよ」
「 ほう、其れなら其れでかえって手間が省けると言うもんじゃ。早ょうに呼んでくれるか」
 えらい自信である。三次代官と深澤屋がグルで何度も料亭の席に呼ばれており密談を聞いている。代官が強い味方ぐらいに思っている様だ。
「云うとくがな、お前のゆんべの動きの全てが見られておるのよ。蕎麦屋に連れて来る前に、お前が吉田屋と兼澤屋に声を掛けたろうが。そして一緒に本通りを右に曲がって花街の方へ行くのを見られておるのよ。浅田屋で頼母子講が終わってから、夫々の商店主を手代、丁稚が送っていたから其の中の一人が証言してくれたわ。其れから蕎麦屋に入る前に、お前は暗闇の中で何処かの男から何やら受け取り店の中に入った。
「オイ、此処迄云うて違ごうた事があるか」
「違うも何も私は全く知りません」
「そうかまだ、白を切るかつもりか。其れなら此れから云おう思うとった事を、今から代官所へ出頭してから代官に申し伝えるつもりじゃ」
「他に何を知っていると言うんですか」
「そんな事はお前にはもう関係ないよ」
「只な、一つだけ云うとっちゃるとな 、お前が衝立の裏側で丼の中に何か白い粉を入れているの見られている事よ」
「まあ、ワシから代官所にタレ込みをしてみい、何もかも知られとると思い、奴等は内情を世間にバラされるのを恐れて、先にお前をこっそりと証拠隠滅のため始末するぞ。代官と深澤屋との黒い繋がりを知り過ぎとるからな。今のうちに此処で白状しとく方が、命は確実に助かると思うがなぁ」
「半年前の浅田屋の娘の誘拐監禁事件を知っとろうが。浪人者二人は大した罪でもないのに、全部責任を被せられてしもうて簡単に処刑されとるぞ、悪代官じゃからこそ出来る事じゃ」
「邪魔したな、お前も寿命が何時まで持つかな。達者で暮らせよ」
 偽侍はくるりと背を向け帰る振りをしながら 、見えない様にさっと犬笛を吹いた 、音は誰にも聞こえない。玄関戸に手をかけ開けた時はもう顔をのぞかせていた。
「鉄来たか、帰るぞ」
「アリャ、ラー助 も来たんか」
 両方とも玄関内に飛び込んで来た。
「ギャー」
 突然、吉三が叫んだ。
 其の声に驚いた鉄が牙を剥いて今にも飛び掛ろうとしている。其れにラー助 も 目を据えて攻撃姿勢をとっている。
「コラァ 、辞めい ! この人は悪人じゃないぞ」
 だが依然として鋭い眼つきで睨んでいる。
 振り返えって吉三を見ると、腰から落ちて小便をちびっている様ではないか 。蕎麦屋の言った通りだ。
「すまん 、すまん、この犬とカラスは悪い奴を見ると噛み付いたり、相手の目を突きに行くんじゃ」
 吉三を見ると腰を抜かして震えまくっている。
「おっ、お侍様、あ、あっちへやって下さいよ、お願いしますから ! 何もかも白状しますから!」
 全く話す言葉が、しどろもどろでほんまに気の毒なほどである。
「悪かったな、別にお前をたまがして、脅すつもりは何もありゃせんのに、すまんな」
「鉄、ラー助行け ! 」
 犬とカラスが外に出て行くと、シクシク泣きながら肩が震えている。一番嫌いな狼犬の鉄の所為だけでもなさそうなのだ。
 今迄、利用されるだけ利用され、あとはゴミ屑みたいに捨て去られる事に恐怖心を感じたのだ。
「お侍様、何もかも白状しますが、此の後、私はどうなるんでしょうか」
「其れはな、お前次第じゃ、其れによっては奴等に何もさせずに絶対に逃がしてやる」
「是非、宜しくお願いします。綺麗さっぱりお話ししますから、一寸、着替えさせて下さい」
「そりゃえゝで。ゆっくりしてくれ」
 と言いながらようやく立ち上がると奥に引っ込んだ。
 偽侍は外に出て待っている鉄 、玉、ラー助に声をかけた。
「此処が済んだら、河原で飯じゃ。もう一寸待っとれよ」
 飯と聞いた途端、ピョンピョン飛び跳ねながら大喜びをしている。
 暫くしてうちの中に入って行くと、きちんと着替えをして出て来た。
「お待たせしました。何から話しましょうか」
「其れじゃ先ず聞くがな、ゆんべ暗闇の中で深澤屋に逢うたんじゃな」
「はい、蕎麦屋に入る前に白い包みを手渡されました」
「其の時、此れは気つけ薬じゃ。二人の丼の中に入れてくれ、と言われ私は何も疑いもせずにしました。其れを店主に見られていたんですね」
「其れが、まさか毒だったとは・・・・」
「お二人はお亡くなりになったんですね」
「そうじゃ、つい先ほど店の前を通ったんじゃが三軒とも店が閉まっとる。まるで通りがお通夜状態よ。此れも皆んな代官と深澤屋が関わっとるんで」
「私はずっと寝ていて、お侍様より報告を受けて初めて知りました」
「本当に気の毒な事をしてしまいました」
「浅田屋をみてみいや、店主が何も悪い事はしとらんのにいきなり闕所だぞ。お前が毒を盛って死んだ二人の責任を即ぐに浅田屋に押し付けおったんじゃ」
「結果的には吉三、お前が2人を殺し三軒の店を潰してしもうた」
「お侍様、もう何もおっしゃらないで下さい、気が狂いそうです」
「分かった、分かった。もう追求せん。お前は何も知らずに騙されて利用されただけじゃからのう。やった事は何も咎めはせん。其れに、ワシにはそんな権限は何も無いからな」
「其れと、もう少しだけ協力してくれるか。其れからお前が代官所からの手配や、深澤屋から逃れる方法を教えてやるよ」
「其れでな、吉三は三年くらい前から三次へ来とる様じゃが、丁度、同じ時期に深澤屋も現在地に店を構えとるが何か繋がりが有るんか。其れと三次代官とはどうじゃ」
「深澤屋とは同郷で備後の尾道の出で御座います」
「丁度その頃、出雲方面へ進出の計画が有りました。足がかりとして、先ず、三次の浅田屋を攻略してからと弟の権三様が派遣されました。其の時、私は誘われて来たのです」
「初めのうちは、ごく真面目にコツコツとやっておられました。なにせ、全然知らない土地勘の所ですから。そんな折り、ひょんなことから三次代官と知己を得られた様です。 何がきっかけかは私には分かりません。だが 、強請り、たかりをされる弱みを、深澤屋さんは握られたんではないでしょうか」
「其れからは毎夜の如く座敷に呼び出されては、全て費用は深澤屋さん負担でした」
「何か有ったら何時でも言え、ワシが面倒を見ちゃる。と恩着せがましく言われていました。要するにたちの悪いたかりですわ。其れからは商売の拡張どころでは有りません」
「代官は私利私欲の塊の様な男で、徹底的な大酒飲みで、のべつくまなく呼び出されておられました。其の度に私も座敷に出て協力させられました。とに角、ほとほと手を焼いておられました」
「最初の美和さん誘拐の事を持ち掛けて来たのは代官でした。其れが失敗すると暫くおとなしくしていましたが、強欲な虫が騒いだのでしょう。
 遂には浅田屋さんの闕所の件を持ち出し筋書きまで全部、代官が書いて来たのです。其れがうまくいけば浅田屋の店はお前の物よ。その代わり儲けの上がりの半分よこせと強要していました。此れが代官所のする事ですか」
「私はこの相談事を聞いていて震えが止まりませんでした。何れは、何もかも知っている私も消されると思ったんです」
「代官所じゃないよ、みんな此れは悪徳代官一人がしたことよ、絶対に許さん。厳罰にしてやる。其れとな、本来なら深澤屋も断罪を 逃れられん処じゃが、代官に脅されてやった事じゃし、お前に免じて三次からの所払いで話しを付けてやる気持ちじゃ」
「私はどうなるんでしょうか」
「お前の事は一切、問わんよ」
「すきにしてええ、じゃが其れだけでは不安じゃろう」
「はい 、全く心配で御座います」
「其れならこうしょう」
「どうすれば宜しいんでしょうか」
「今すぐにも此処を出て行く事じゃな。深澤屋とは袂を分かち合う事になるがな」
「今日は無理で御座います。今晩の座敷に呼ばれて居ります」
「そうか駄目か。ウ~ン」
「じゃが待てよ、 考え様によっては其れが、かえってえゝかも知れんぞ」
「どう云う事でしょか」
「是非共そうせい 、奴等を油断させるには一番えゝ手じゃ。宴会の席では絶対に毒を盛られる事は無いからな」
「但し、其れが済んだら絶対に家に帰るな 、夜討ちを掛けられるかも知れんぞ」
「お前 、今のうちに持って逃げられる物を用意しとけ。現金以外の物は余り持つな、家財道具は一切置いとけよ。家宅捜査に入った時に、物が置いてあればまさか逃げたとは思わんからな。其れだけ遠くに逃げるのには日数を稼せげるからな」
「代官は必ず明日にも、毒を盛ったお前に全ての責任を被せて追っ手を掛けるからな」
「其れからもう一つ言うとくとな、逃げる時から女形を辞めい。髷を結い直し完全な男になって逃げたら絶対捕まらん。お前も元役者だったら其れくらいの変身はお手の物じゃろうが」
「第一、代官自体が悪い事をやっとるんじゃ。逃げたお前を遠くまで手配し追いかけるのは全く無理な話しよ」
「有り難う御座います。其れにしてもお侍様は一体何者で御座いますか」
「ハハハ、ワシか、差し詰め比熊山の物の怪かのう。冗談 、冗談」
「いいえ、いいえ、あなた様は生きた心優しき物の怪で御座います。私は本当に改心致しました。此れから亡くなられた、お二人の為に一生ご供養をして参ります。そしてご遺族の方々に、少しでも陰ながら援助をして上げたいと思います」
「えゝ心懸けじゃのう。お前の目を見れば分かるよ、達者で暮らせよ」
 その後、三次の地を離れた吉三の行方を誰一人として知る者はいなかった。

 浅田屋の牢抜け

「よっしゃ、皆んな帰るぞ。今日は別な道を行くよ」
 一仕事を終えて鉄、玉、ラー助とも満足感一杯の表情であった。可愛川を上流に遡り、なだらかな道をのんびり歩いている。
「鉄ちゃん、ラーちゃん、お前達はほんま役者じゃのう。女形の吉三よりよっぽど脅しの演技が上手かったよ」
「エッヘン」
「何んと、ラーちゃん分かっとるんか」
 鉄は知らんぷりで玉を背中に乗せて嬉しそうに歩いている。やがて前方に砂の河原が見えてきた。
「えゝ処があるぞ、あそこで昼飯じゃ」
 飯と聞いてもう嬉しくて堪らない。
 でも与作は嬉しがる鉄、玉、ラー助を見つめながら「ごめんな、もう少しええ物を食べさせてやれたらなぁ」と心から思っていた。然し、此の時代として止む終えない事であり、ましてや薬屋の丁稚奉公の身分なのだから。
 やがて昼飯を済ませると小屋を目指して早駆けしだした。街道筋から左に曲がり青河神社の前を通り、いつもの間道に合流した。
「おい、もう近いぞ、競争しょうか」
 途端に鉄の背中から飛び降りて玉が走り出した。
 与作が最後に小屋に到着すると、鉄が荷物を咥えている。
「お前達、速いなワシがどんべじゃ」
「そりゃえゝが、鉄ちゃんそりゃ何なら。あれ、こりゃ、もしかして師匠さんが来たんか」
 見ると何時ものお土産と書き付けが挟んである。其れに前の墓には線香と花が供えてあった。
「おい、師匠さんには悪かったな、誰もおらんかったで」
「ラーちゃん、今から一筆書くけ届けてくれるか」
「アイヨ」
 お師匠様へ
 この度は私達 、誰もいない時にお越しになられましたね。本当にすみませんでした。其れとお土産を頂き誠に有り難う御座いました。鉄、玉 、ラー助達も大喜びしております。
 話し変わりますが、実は大変な事が発生して小屋を空けてしまい申し訳け御座いません。一昨日、私が奉公している浅田屋が闕所になり店を閉められてしまい、全員が首になってしまいました。
 二十日の夜、浅田屋で開かれた頼母子講を兼ねた宴会が有りました。その時に出された、仕出し料理に当たって二人の町内会の商店主が亡くなりました。その為、早朝に役人がいきなり踏み込んで来て主人を連れ去ってしまいました。何の詮議も一切有りません。そして
「今日から店は一切、開けてはならぬ闕所じゃ」
 と言われました。あまりにも急な事で、正月を前に奉公人一同が路頭に迷う有様となりました。こんな馬鹿な事があっていいものでしょうか。役人が言うには、早朝、医者の診立てによると、食中毒じゃと言いました。然し、亡くなった二軒のお店には医者が立ち合った節がありません。ましてや代官所の役人までも絶対に顔を覗かせてもおりません。仮にどちらかが被害者宅に来ていればすぐに分かります。なにせ三軒隣りですから。半年前の浅田屋の一人娘の誘拐監禁事件に関わ り未遂に終わった三次代官と深澤屋は再度仕掛けて来たのでしょう。
 私は今回の食中毒による死亡事故に関して即座に探索する為に鉄、玉、ラー助を呼び寄せました。亡くなった二軒の玄関先で吐いた処で、私もその場で鼻をくっ付け嗅いでみると、微かにトリカブトの毒性を感じました。其れから鉄と玉に臭いを嗅がせ追跡すると、一本裏通りのすぐ近くの蕎麦の壽屋に辿り着きました。
 厳しく追及すると、上方の役者上がりで女形の吉三と云う芸者が浅田屋を出た後、吉田屋さんと兼澤屋さんを掴まえて蕎麦を食べに連れて来ました。その時、吉三がこっそりと衝立の陰で懐から白い紙袋を取り出し其れを広げて丼の中に入れたのを店主が見ていたのです。その中身がトリカブトの毒でした。だが店主は其れが自分に累が及ぶのを恐れて固く口をつぐんでいました。
 そして吉三の住まいへ直行し問い質しました。その時は鉄とラー助が活躍してくれました。中身は内緒。
 初めは知らぬ存ぜぬと返答を拒んでいましたが、悪どい代官の手口を知ると、とうとう白状し出しました。今迄は他人の不幸が人ごとの様でしたが、いざ自分に及ぶとなると恐ろしくなったのでしょう。堰を切った様に話しをしだしました。
 其れによると前の美和様誘拐事件と今回の浅田屋乗っ取りの筋書きを書いたの代官だそうです。浅田屋を闕所にして潰した後は深澤屋に店をやる。その代わり儲けの半分はワシに寄こせと、提案ではなく命令されたそうです。最近では代官の意のままにされ、座敷遊び好きの大酒飲みで毎晩の様に呼び出され、費用は全部、深澤屋持ちだそうです。恐ろしくなって三次から撤退しようとしましたが、お前が一番の悪じゃからのう、ワシに歯向かうたらどうなるか分かっとろうのう。何時も座敷の宴会の席で代官と深澤屋の話を聞かされている吉三は恐ろしくなって、何時、逃げ出そうかと思っていたのですが、追手がかかるのを恐れて躊躇していました。
 まだ他にも、代官のあるまじき行いが色々ありますが詳細は 別紙に箇条書きに記しておきます。
 以上、長々と書きましたが私は 此処までしか出来ません。どう にも代官や三次代官所に喧嘩を売るわけにはいきません。
 お師匠様、どうか、何の罪も無い浅田屋の主人が消されない様お助け下さい。今日か明日中にも、牢屋の中で毒を盛られ始末されるやも知れません。宜しくお願い申し上げます。
 ー与作よりー

「よし、出来た。ラーちゃん持っててくれるか」
 与作は書簡を丸めて括りラーちゃんに咥えさせた。
「頼むよ」
「アイヨ」
 何時もの様に軽い返事だ。ラー助は八幡山城目指して一気に飛んだ。
 其れを、皆んなで外に出て見ていたが
「速いなあ ! あっと云うまに着いてしもうたで」
 此処から見て一里くらい距離があり、与作の目には、豆粒ほどにしか見えないが、ラーちゃんには城の窓からお師匠さんが手招きしているのが見えるのだ。
 鉄の嗅覚と云いラー助の視力と云い、人間では到底考えられない能力なのである。
「オシショサン、ガミ。オショウサンテガミ」
 へんてこりんな声で窓から覗いている。
 すると階下から駆け上がる音がした。
「おー、ラーちゃん来てくれたか。今日は誰もおらんかったな」
「今日は何かのう」
 と言いながらラーちゃんの持って来た書簡を広げて見た。
 其れを読んでいたが
「こりゃ大変な事じゃ、返事を書いちゃらないけんわい」
 と言い
「ラーちゃん、一寸、待っとってくれるか」
 と階段を下りて行った。そして
「此れを食って待っとってくれるか」
 暫く思案しながら返答を書いている。
 ラー助はご機嫌でお師匠さんを見つめクェクェ鳴きながら肉をほうばっている。
「よし、出来た。ラーちゃん頼むよ」
「アイヨ」
 ラーちゃんが帰るのを皆んなが陽射しのいい外でのんびり待っていた。
「ラーちゃんはな、今頃美味しい物を貰っているよ。今に口の周りを舐めながら帰って来るぞ」
 すると鉄ちゃんが先ず吠えた。次に玉が、与作に帰って来るのが見えたのは直ぐ近くだ。
「こりゃまた、凄いなお前さん達には勝てんよ」
 帰って来たラーちゃんを見ると口の周りを汚して舐めている。ご馳走を貰ったのだ。
 与作はラーちゃんが掴んで持ち帰った書簡を広げて読んだ。
 与作殿へ
 よう分かった、此処から先はワシに任せとけ。
 只な、ワシは今回長居が出来んのじゃ。其れで明日の昼過ぎに此処へ来れんか。そして三次の城に行かにゃならん。馬を用意するが乗れるかのう。ハハハハ聞くだけ野暮じゃった。道中で話しながら行くとするか。ワシは城主に会うから大将も一緒に連れて行く、鉄も玉もラー助も皆んなじゃ。其れともう一つ大事な事じゃ、三次代官の手口から見て、お構い無しで浅田屋の主人の命を狙うかもしれん。牢屋の中でやられると誰にも分からんからな。
 今夜からでも鉄か玉に見張りをさせといてくれんか。浅田屋殿は命の恩人じゃからのう、死なす訳にはいかんわい。多分、朝飯の時がヤバイぞ。
 お師匠さんからの返書を読んだ与作は
「よしゃ、此れでえゝぞ。又、一休みしてから三次代官所の牢屋へ行くぞ」
 この与作の声に皆んな嬉しくて堪らない。走り回わったり飛び回っている。
 与作は、今日明日の飯が要ると思い多めに弁当を作る事にした。皆んなのおやつはお師匠さんから貰っていたので、其れを持って行けば大助かりなのだ。
 こまめな与作は独身だ。だが可愛いい動物の為には愛情を持って何時も一生懸命なのだ。
「よしゃ、出来た。此れから別荘に直行だぁ」
「エイエイオー」
「ラーちゃん、何処で覚えて来るんじゃ」さ
 忍者一家は、陽が暮れ出した間道を登り降りしながらゆっくりと歩いていた。
 別荘に着くと軽くおやつを食べさせて、皆んな一列に並んで横になって寝ていた。
 与作を挟んで鉄ちゃん、反対側に玉ちゃんが寝てラーちゃんがピタっとくっ付いている、母さんがわりで甘えているのだ。
 やがて、一寝入りを終えると、一番肝心の主人の救出に向かわなければならない。
「おい、皆んな今から代官所の牢屋へ行ってワシのご主人さんを連れ出すからな、言う通りに宜しく頼むよ」
 分かったのか、分からないのか、でもコックリ頷いている。
「ラーちゃん、真っ暗じゃが前は見えるんか」
「ダイジョビダヨ」
「ほんまかいな」
 と言いながら与作は鉄ちゃんの背中に乗せたのである。
 鳥類は、大体、鳥目で暗くなると見えないと云われるがラーちゃんに関しては如何なのであろうか。毎度の事ながら与作にもよく分からなかった。
 暫く歩くと浅田屋の店の前に来た。其の先を左に曲がれば代官所だ。正面辺りの塀は高くて頑丈だが、牢屋のある裏手に回ると平屋の棟続きのお粗末な建物であった。炭俵や松明、焚き木が置いてある木小屋で其の横が牢屋であった。外から丸見えの吹き晒し状態である。一室だけの小さなぼろ小屋だ。
 夜になると門番と牢番を兼ねている様で離れた所に詰めていた。
「よしゃ、皆んな、この小屋で夜が明ける迄、隠れて休ませて貰うぞ」
 幸いな事に身を隠すのには十分な程、空間があり暖をとる為に、むしろも有り身体を寄せ合うと寒くない。
 やがて空が白み始める頃、遠くの方から鶏の鳴く声が聞こえた。
「コケコッコウー」
 与作は此れに目覚めた。
「鉄ちゃん、玉ちゃん今から始めるぞ」
 鉄も玉もラー助も大分前から起きていて、与作が起きるのを顔のすぐ近くでジッと見つめていたのだ。
 さあ、何をするのと身構えている。
「鉄ちゃん、牢屋の中の主人にこの紙を持って行って落として来てくれるか」
 鉄は与作が言った事がすぐに理解出来る。木小屋から歩いてすぐ隣が牢だ。
 隙間の下から入り込み囲いの外から顔を入れ、口に咥えていた書き物を中に落とした。
 浅田屋は、何時もの習慣でこの時間には目覚めており、狭い牢内で屈伸運動をしていた。
「ありゃ、どしたんじゃ。こんな所へ大きな犬が来たで」
 其れを見ていた主人は近寄り拾い上げ、広げて読んだ。其の中には
「浅田屋殿へ、此処から出して命をお助けするので暫く辛抱していて下さい」
 と有り月下美人の絵が添えてあった。其れも達筆で見事な静物画だ。
「うぅん、こりゃあ美和が言うとったんと一緒じゃないか」
 一方、玉ちゃんには朝飯の見張りを頼んだのだ。
 木小屋の天井は人間が通るには無理であったが、木組みの柱だけで棟続きの牢屋のすぐ上に玉には簡単に伝わって行けた。
 案の定、奴等の企みは早まる事となった。牢にぶち込まれて三日目の朝の事。
 朝飯の差し入れが、何時もの牢番ではなく代官自らが運んで来た。
 ニコニコ笑いながら
「浅田屋、喜べ。お前の嫌疑が晴れて此処から出られるぞ」
 と言う、だが主人も一瞬この一声に疑念を持った。何で一度もお白洲で詮議もせんのに疑いが晴れるんじゃ。
 俄かには信じ難かったが、何はともあれ此処から出られると思い
「有り難う御座います。代官様にはお手間を取らせました」
「ほうか、ほうか。良かったのう、今朝は祝いで温かい飯じゃ」
 代官が立ち去ると、湯気の立つ朝飯を見ながら感慨に浸っていた。
「ワシは何も悪い事はしとらんけえ、解き放しは当然じゃが、暫く店の様子を見とらんが番頭等や皆んなは、上手いこと切り盛りしてくれとるかのう。母さんも美和も無事でやっとりゃあええが」
「其れにつけ、何ならさっきの訳の分からん手紙は。ワシは今日にも出られると云うのに、いらん事をしゃあがって」
 実際には主人が捕まったその日に浅田屋は闕所になって、店を閉じられている事など一切、知らされていなかったのだ。
 代官と浅田屋とのやり取りを、早朝から天井裏に潜んで隙間からずっと見張っていた玉は、温かい汁から上がってくる湯気に、並の人間では到底考えられない強烈な嗅覚でトリカブトの毒性を嗅ぎ取っていた。吉田屋の店先で店主が吐いた時の臭いを覚えていたのだ。
「有り難い、此れで牢の中での最後の飯じゃ、愈々、シャバの空気が吸えるのう」
「頂きます」
 と手を合わせながら箸を持って、すまし汁を口に入れようとした瞬間だ。
「バシャ!」
 茶碗めがけて天井から玉が飛び降り叩き落とした。
 この時、初めて美和が救出された時に言っていた言葉が頭の中をよぎった。
「もしや、代官の野郎、毒を盛りゃがったな」
「どうも簡単に牢から出られると言いやがって、おかしいと思ったがやっぱりな、こう云う事か!」
 そこは薬屋の主人だ。床にこぼれた汁を人差し指に付けて舐めてみた。
「うん、痺れるわ。間違いなくトリカブトじゃ」
「ワシゃ、どうすりゃええんじゃ」
「このまま生きとるんが分かってみいや、奴は次に何を仕掛けてくるか分からんぞ」
 浅田屋は急に寒けがして震えが止まらなくなりだした。
「母さん、美和、ワシは此れでもう駄目じゃ」
「何時、何刻、牢内で殺されるかもしれん。ようこんなにつまらん人間と長い事付きおうてくれたな、母さん有難うよ。美和よ、お前の此れから先の長い人生を無茶苦茶にしてしもうてほんまにすまん」
 浅田屋は牢内で遺言めいた言葉を口走りながら静かに瞑想をしていた。然し、凡人だ。どうにもこの世に未練が残った。
 そうした時に、目の前に優しい目をした猫が、こちらをジィーと見つめているではないか。
 主人は、はたと気付いた。首に小さな小袋をぶら下げている。
「此れが助けてくれると云う意味なのか」
 すぐに袋を手に取り中の物を取り出した。
「一服飲んで暫く寝ていて下さい、此処からすぐに出して上げますから」
 と書いてある。
「此奴は相当に薬に精通しているに違いない」
 浅田屋は、小さな包みを広げて舐めてみるとすぐに分かった。
「然し、何と云う事じゃ。こうなりゃ奴の策に乗ってみるか、どうせ牢内で殺されるのを待つよりええわ。一か八か、賭けてみるか」
 此の当時は、まだまだ麻沸薬の調合方法が確立されておらず、試し飲みするのには其れこそ生きるか死ぬかの賭けであった。
 四半刻経った頃牢番が箱膳を下げに来た。
「おい、飯を食うたか。膳を下げるぞ」
 と聞いたが返事が無い。然も浅田屋は身動き一つしない。
「おい、具合でも悪いんか」
 やはり何の反応も無い。
 慌てた牢番は 鍵を開けて中に入って来た。そして横向きに寝ていた身体を揺すると仰向けにゴロッと転がったではないか。そして大声で
「大変だあ、浅田屋が死んどるぞ!」
 するとすぐに代官が駆け付けた。
「馬鹿野郎、大きな声をすな。こう云うこたぁ静かに処置せえやぁ」
「すぐに浅田屋の店へ棺桶に入れて送り返せ。家族を呼びに行って来い」
「分かりました」
 と牢番は言いながら、押入れからむしろを取り出し浅田屋の顔から全身に被せた。
「今すぐに引き取りに来させますから」
 と牢番が駆け出して行った。其の場に誰もいなくなると代官は
「浅田屋め、手間を取らせやがって、ようよう逝ったか。然し、よう効くのう」
 と独り言を呟いた。
「娘の監禁の時は失敗したが、今度は完璧じゃのう。此れでワシも甘い汁が吸えるわい、ヒヒヒ」
 その間に牢番は代官所からすぐの処にある浅田屋の店先に到着した。
 店は闕所になっており、奉公人は誰もおらず家族は中に居るのかひっそりとしていた。
 そうした時に雨戸の隙間から覗いて待っていた与作は、箒を片手に持ちながら飛び出した。
「おい、お前は浅田屋の丁稚か」
「はい、そうです」
「主人が牢内で死んだから、すぐに棺桶を引き取りに代官所の裏口に来いや」
「分かりました。大八車を用意してすぐに参ります」
 与作は店の中に入り、廊下から奥の部屋に声を掛けた。
「奥様、ご主人が今朝方、牢内で亡くなったそうです。今、役人が知らせに来ました。亡き骸を引き取りに来いと云う事です」
 途端に、奥様と美和の大声で泣き叫ぶ声が聞こえてきた。
「お父さん!お父さん!何でぇ〜」
「お父さん!!」
「これから、うちらはどうすりゃええのよ」
 暫く、泣き続けていた。たが廊下に立っている与作の存在に気付くと、気丈な奥様は座敷から出て来て、涙目ながら
「私は、よう行きません。与作、すみませんが宜しくお願いします」
 そう言われた与作は落ち着き払って
「大丈夫ですよ、奥様、何も心配する事は有りませんよ。取り敢えずご主人は引き取って来ますから。其れと今すぐに布団を敷いといて下さいよ、其れと気付け薬を用意しといて下さい。此れが一番大事な事ですからね。奥様、何処に保管して有るか知っていますよね」
「はい、分かります」
「よし、此れでいいか。すぐに主人を連れて帰りますからね」
 と言い残して与作は急いて店を出て行った。
 だが、「死んだ」と言われた言葉を聞いて奥様は気が動転しており。与作が言っている事が全く理解できなかった。死んだ者に気付け薬など、それすら及びもつかなかった。
 だが 奥様は此の命令には素直に従い、調剤室に駆け込むと其処に有った処方箋を真剣に読み通していた。
 美和も大泣きしながら布団を敷いている。
 与作は大八車に菰を乗せると、ガラガラ音を立てながら全速力で駆け出した。そんなに遠くない代官所の裏手に到着すると、裏口で待っていた牢番と二人で主人の頭と足を抱えて棺桶の中に入れた。
 むしろを被せてあったので、代官や牢番に顔色を伺う事が出来ないのが幸いであった。
 幾ら仮死状態といえども生温かく完全に死んだ様ではなく、与作はとに角、其の場を一刻も早く立ち去りたかった。
「面倒をお掛けしました」
 と挨拶もそこそこに駆け出した。他の荷物に見せかける為に棺桶に大きな菰を被せていた。
 帰った時にも、やはり店の事を心配して、顔を覗かせている奉公人は一人もいなくて、与作が玄関戸を開け大八車ごと中庭に引っ張り込み急いで戸を閉めた。
 外を歩く通行人に、大八車に棺桶を積んでいる事を気付かれる事はなかった。
 奥の座敷から、奥様と美和が鳴きじゃくりながら飛び出して来た。
 与作は其れに構わず、縄を解いて遺体を下ろそうとしていたが、其れに取りすがって更に泣くもので与作に一喝されてしまった。
「えゝ加減泣くのはやめろ!其れよりも早く言った通りにして有るか」
 どちらが主人か分からない様な命令口調に一瞬、親娘はたじろいたが素直に
「はい、準備しています」
 与作は遺体を抱き上げて奥の部屋に移動し布団の上に寝かせた。
「奥様、気付け薬の調合が分かりますね。ワシはそこまでハッキリ知りませんから」
「大分前に主人から教わった事が有りますが」
「旦那さんの命は奥様の匙加減一つですよ」
 そう言われた奥様は、今迄、泣いていた顔がいっぺんに職業意識に目覚め、真顔に豹変したのである。
「与作さん、此れでいいですよ」
「よし、美和様、水 ! 」
 与作は硬く閉じられた口をこじ開けて気付け薬と水を混ぜて流し込んだ。
「フゥ〜、一段落済んだか」
 と与作はほっとしながら独り言を呟いた。
 其れから三人は固唾を呑んで主人をジッと見つめていた。時間が経つのも分からない程、重苦しい空気が漂っていた。
 突然、奥様が気が狂った様に大声で叫び出した。
「与作さん!こんな子供じみた馬鹿らしい事をやって、死んだお父さんが生き返る訳がないじゃないですか。私や美和を騙すつもりですか」
「そうよ、お父さんは・・・」
 親娘で大泣きしだした。
 此れにはさすがの与作も弱り果てた。然し、此処で挫けては男がすたる。逆の言葉が飛び出したのだ。
「うるさい ! 黙って様子を見とれ!」
 凄い与作の剣幕にいっぺんに泣くのをやめてシュンとなり沈黙を保っていた。
 其れからの与作は、正座をし主人の傍に座った。
 カッと両目を見開き両手を合わせ、何やら念仏らしきものを唱えている。
 これを直ぐ横で見ていた奥様は、此れが到底、丁稚の与作とは想像すらつかなかった。背筋をピンと伸ばし祈る姿が威厳すら有り寧ろ神々しさを感じていた。
 それもそのはずだ。与作が専正寺を辞める時には、ご院家さんの伴僧を勤めていたほどであったのだから。
 親娘は其れに引き込まれる様に互いに両手を合わせていた。
 念力を与えている間中、二人は静かに主人の顔をじっと凝視していた。
 ほんの少しの時間も長く感じられていた、
 其の時だ!
 主人の唇が微かに動いたのである。
「奥様!今、確かに動きましたよ」
「えゝ、私も見ましたよ。美和ちゃんも見たでしょう」
「うん、見た!見た!」
 すると、どうだ、掛布団の下の足先が震え出したではないか。
「ウ〜ン」
「あれぇ〜、お父さんが生き返えったぁ!」
「お父さん! お父さん!」
 美和が大声で主人の身体を揺すって叫んでいる。
 暫くすると今度は目をパチパチしだした。そして喉から、かすれ声が出だした。
「お、お、おい此処は何処なら」
「ワ、ワシャ今、三途の川を流されとったが、誰か知らんが手を差し伸べて引き上げてくれたで」
「あれぇ、母さんどうして此処へおるんなら、お前も道連れで牢内に入れられたんか」
「一寸、起こしてくれんか。ありゃ美和も来とるんか」
「お父さん!お父さん!此処はうちですよ」
「牢屋ではありませんよ」
 と美和が呼び掛けると、ようよう我に返った様に親娘を見つめている。
「どうりで温い布団じゃ思うたよ」
「すまんが、水をくれんか」
 美和は嬉しそうに台所に立ち水を汲んで来た。
「いやあ、美味いのう。此の水は格別じゃ、処でワシャ何で此処へおるんかいのう」
「お父さん、まだ意識がハッキリせんのですか」
「じゃが、今な、天井を見よって自分の家と気が付いたわ」
「此処は今のところ、我が家ですよ」.
「そりゃ、どう言う意味なら。此の家はワシのもんじゃろうが」
「知らないんですか。お父さんが捕まってから直ぐに闕所になったんですよ。私らは多分、すぐにでも此の家を出にゃいけんのですよ。浅田屋は一難去って又一難なんです」
「だから今は、お店を閉めており奉公人は誰もいません。唯一、与作さんが此処に居てくれます」
「何ぃ、うちは潰れとるんか!」
「う〜ん、知らなんだわい。代官の奴め、ワシに一切何も言いやがらんかったな」
「そうじゃ、大分、記憶が蘇って来たぞ、あのクソ代官野郎め!深澤屋の権三と組んでワシんとこを乗っ取るつもりじゃ」
「じゃがのう、ワシは所詮半端な町人じゃからな、此れからどうなるかのう」
 大分、頭の回転が良くなり出したら要らぬ心配までし始めた。辺りをグルグル見渡し出すとそこに与作が居るではないか。
「アリャ、与作、ワリャ何で此処へおるんなら、お前は此処へ一番おって欲しゅうない人間じゃ、出て行け !」
「お父さん!何を言っているんですか。与作さんはね、お父さんを代官所から棺桶に入れたまま連れて帰り、息まで吹き返えらせてくれたんですよ。そんな口を訊くと罰が当たりますよ!」
「そうですよ、お父さん!」
 親娘の声に、何で生き返えり此処に居るのか主人にはまだ理解出来なかった。
「ワシャ、誰が何と言おうが此処から出んぞ。柱へでも括り付けといてくれ」
 どうにもまだ完全には意識が回復せず朦朧としている様だ。
 与作は部屋を出てから奥様を手招きをし此れからの事を指図した。
「奥様、まだ、ご主人は完全に意識が回復しておりませんから、暫く寝かせといてあげて下さい。それと多分お腹が空いているでしょうから、お粥を食べさせてあげるんですが、それに気付薬を少なめに混ぜて下さい。体力も十分有りますから絶対に良くなります」
「それとね、ご主人は牢内で死んだ事になっておりますから、今日一日は誰にも合わない様に部屋の外には出さないで下さい」
「分かりました。言われた通りにします。でも与作さんは此れからどうするんですか。まだ親子で心配で心配で心細いんです」
「私は、此れからやらなければならない大事な事が有ります」
「ですから出掛けますが、奥様、心配要りません。絶対に大丈夫ですから、明日まで此処を守っていて下さい」
「明日になれば何もかも解決しますよ。又、今まで通りに商いが出来ます。此れ迄にずっと真面目にやって来られたんですから。きっと三吉の殿様もご存知ですから」
 と言い残すと与作は急いで駆け出して行った。
 主人を無事牢屋から救出してきた与作は、大事な次の一手を打つ為に浅田屋を駆け出した。
 すぐに鉄、玉とラー助が付いて来ている。
「今日は間道を走ると馬が可哀想じゃから街道筋を通るぞ」
「ラーちゃん、一寸、下りて来てくれるか」
「すまんが、此れをお師匠さんに届けてくれるか」
 と其の場で今からすぐ帰りますからと一筆認めた。
「ラーちゃん頼むよ」
「マカセトケ」
 相変わらず何時もの様に返事がいい。それを足に括り付けるとアッと云う間に飛び立った。
「今から駆け出すと青河の垰の辺りで会えるぞ。それ行け」
 どうにも、玉ちゃんの足では無理だ。何時もの様に鉄ちゃんの背中にしがみついている。玉の目方など軽いものだよと云う顔をし又、与作を気遣いながら前を走って行く。とに角、嬉しくて堪らないのだ。青河村に入って来ると真っ直ぐ前方に垰のてっぺんが見えだした。
「お〜い、お師匠さんは見えるか」
 だが鉄も玉も無反応だ。まだ垰を登っているのであろうか。
 するとすぐに「ワン、ワン、ニャン、ニャン」と鳴きだした。
 上空をラーちゃんが飛んで来たのだ。与作には相変わらず見えない。
 峠のてっぺんより遥か高い処を飛んでいるのでこちらが丸見えなのだ。やがて馬二頭が見えだした。ラーちゃんは折り返してお師匠さんの方に向かっている。
 警護しているつもりなのだ。そして肩に止まった。
「キタ、キタ」
「オォ、皆んな来たか。然しラーちゃんがおるとほんま心強いな、だんだん」
「タンタン」
 両方から坂を登って来て、てっぺんで合流したのだ。
 鉄と玉が駆け出した。お師匠さんに飛びついている。後は例によって大騒ぎしている。
 与作が遅れて到着すると一頭の馬にお師匠さんが乗りもう一頭には若い侍が乗っていたが、てっぺんですぐに下りて手綱を握って待っていた。
「お待たせしました」
「おうおう、皆んな来たか。それにしても早いのう」
 お師匠さんは、連れの侍に声を掛けた。
「ご苦労じゃったな。お前は此処でええから帰りは歩いて帰ってくれるか」
「其れは宜しゅう御座いますが此の馬は如何されますか」
「其れはやな、大将が乗って三次迄まで一緒に駆けて行くんじゃ」
 若侍は何の事か全く理解出来なかった。なにせ目の前に居るのは百姓風情の、うだつの上がらぬ小男が居るだけだ。
「その方は何処にいらっしゃいますか」
「ハハハ、目の前におるではないか」
 若侍は只々、呆気に取られるだけであった。
「・・・・」
「大殿様を宜しくお願い致します」
 と一礼してから下りの坂道を一気に駆け下りて行った。余程、照れくさかったのであろう。
「うざい奴が、おらん様になってしもうたで。話しゃ変わるが、其れにしてもラーちゃんは凄いのう。大将等が一里くらい向こうから、こっちへ来るのを見とって一々報告に下りて来るんじゃ。此れが戦場なら凄い事で」
 色々な話しをしながら峠で馬を休息させている間、道端の草を食んでいる。
「そりゃええが、今日の一番大事な事じゃが、浅田屋殿に関しての大将の報告じゃが真実と思うてええんか」
「嘘偽りのない全く本当の事で御座います」
「然し、よく此処まで短期間に調べあげたもんよのう。何も知らん三次の殿さんもたまげるで」
「よしゃ、馬も休んで落ち着いた様なから一気に行くか」
「分かりました。皆んな行くぞ」
 又々、お師匠さんと与作と一緒に行けるのが嬉しくて堪らないのだ。
 玉はちゃっかりお師匠さんの懐に入って顔だけ覗かせている。
 だが特に喜んでいるのが誰あろう師匠であった。
 町中に入る手前から与作は顔を隠す為に頰被りをした。こんな犬、猫連れの派手な道中をしていると必ず顔見知りの人に出会い身元がバレれてしまうからだ。

 初登城

 代官所の大きな建物を左手に見ながら目の前に馬洗川が見えてきた。そこを川沿いに東に上る。平地の町中に主な物は代官所を含め集中していた。だが比叡尾山城は街外れで此処から一里も先で更に高い山の頂上に有る。
「然し、あこまで行くのは一過あるのう。よう藩士は毎日毎日通うのう。ほんま今時流行らんで」
「まぁ馬を休ませゆっくりと上がるとするか」
「大将は此処を登った事が有るか」
「いえいえ、初めてです」
 いざ城中に入いるとなると緊張で表情が強張ってしまった。町人等らが入る事を絶対に許される処ではないからだ。
 其れを咄嗟に読み取ったお師匠さんは
「大将、気にすな、気にすな、ワシが付いとるから大丈夫じゃ。ええから堂々と胸を張って入れ」
「有り難う御座います」
 小走りに馬ニ頭と大きな狼犬が城の正面に到着、そしていきなり
「門を開けい!」
 中から門番二人が飛び出して来ると慌てて大きな木戸を押し開けた。
 此処から先は師匠ではなく、此の地を支配する尼子勢の殿様、尼子国久公である。
 さぞや、門番もびっくりしたであろう。大殿様の後から百姓風情の小男が馬に乗り城中に入って来た。武家社会の今の世の中、百姓、町人等が絶対に中に入れる訳がない。ましてや正門からである。おまけに大きな狼犬と大殿様の懐には猫がいる。この時には顔に巻いた頰被りは外していた。
 与作が乗った馬の前に門番が割って入り制止しょうとすると
「構うな!」
 と一喝、慌てて一礼して中に招き入れた。
 城中に入ると、与作と鉄と玉は大殿様に案内されて別室に控えていた。
「大殿、先程、上の方から見ておりましたが、町人風情の男が馬に乗って城内に正面玄関から入っておりましたが何故に」
「ハハハ、見ておったか」
「まさか」
「そう、そのまさかの男じゃよ」
「三吉氏も、薬問屋の浅田屋を知っとろうのう」
「知っているどころか叔父上の時代から三次藩は長い付き合いが御座います」
「奴はその浅田屋の丁稚奉公じゃ」
「何ですか、其れは!」
 三吉氏は、此の一言にシゲシゲと顔色を伺いながら只々、絶句してしまった。大殿様は涼しい顔をしながら
「まぁ、話しは終いまでよう聞けや」
「其の浅田屋の主人が今、大変な事になっとるんじゃ」
「と申しますと」
「三日前から代官所の牢の中にぶち込まれとるんじゃ。其れも明日をも知れん命じゃ」
「そんな馬鹿な!」
「何でそんな大事な事を三吉氏は知らんのじゃ」
「家老を始め、代官所からの報告が一切上がっておりませんものですから」
「第一、ワシがそんな指図をする訳が有りません。今すぐにも代官所に出向いて取り調べをさせましょうか」
「まぁ、待て待て、其れではやっぱり代官の独断じゃな。牢内で殺してから、あれこれ理由をつけて事後報告するつもりじゃな」
「代官を此処に呼びましょう!」
「まぁ慌てるな。此処はさっきの男に任せておけ、上手に解決するじゃろうよ」
「大殿、何を悠長な事を言うとられるんですか。今にも殺されると言われたじゃないですか。其れに、あの男は代官所とは全く関係のない部外者ですよ」
「ほうじゃった、ほうじゃった。ハハハ、まぁええ今日一日は黙って様子を見とれよ」
 三吉氏は此の話しにどうにも納得がいかず、大殿が言っている事がさっぱり分からない。
 すると急に立ち上がり、戸棚の引き出しを開けて一枚の書類を取り出してきた。そして
「大殿、此れが奴の苗字帯刀の許可状で御座います。此れには名前が与作と有ります。与作と云うんですか」
「そうじゃ」
「職業欄には何も書いて有りませんが、まさか丁稚奉公とは・・・・」
 と言い三吉氏は後は絶句してしまった。だか国久公は毅然とした態度で
「侍、町人、百姓と職業に貴賎はありゃせんよ」
 だが、はたと気づいた。
「もしや!」
「そう、其のもしやじゃよ」
「大殿が山中の間道でマムシに噛まれ、死の淵を彷徨っている時に助けてくれたと云うのは此の男ですか」
「そう云う事よ。与作殿は寒い山道を下着一枚で走り回り、解毒薬を調達する為に浅田屋を叩き起こして薬を作ってくれたのよ。其れに栄養のある食べ物を持たせてくれた。誰とも分からんワシの為にだぞ、浅田屋も命の恩人よ。更にな与作殿は道の真ん中に倒れとるワシを三次の町へ行って帰ってくる間、寒さから身を守る為に芝草を集め其の上に着ていた着物を被せてくれたんじゃ。其の時、一緒におった狼犬の鉄と猫の玉がな、ワシを温める為にずっと寄り添っておってくれたのよ。其れからワシの看病の為に、治る迄仕事を休ましてくれと許可を取ってくれたんじゃ」
「すると主人は、お前も薬屋の端くれじゃろうが。お侍さんを死なす様な事があったら承知せんぞ」
 と言いながら、何度も往復してくれる与作殿に、食べ物と薬を持たせてくれたようじゃ」
「銭にもならんただ働らきだぞ」
「其れこそ、両方共に命の大恩人じゃないでか。此れは大変失礼致しました」
「其れとな、ついでにもう一寸、話しをしてもええか」
「どうぞ、どうぞ、いくらでも」
「ワシはな、今迄に与作殿には三度も命を守り助けてもろうたんじゃ」
「二度目は、三吉氏も知っとると思うが、ワシは三次藩に夜分に警護して出立するのを遠慮して、誰も付けずに一人で八幡山城に向かったわな」
「其のことはよう覚えとります」
「城を出てからすぐに毛利の間者の二人に跡を付けられておったわ、其れから間道を半ば過ぎる頃には十人に増え皆完全武装をしとる。皆、手練れの連中ばかりで有ったろうよ」
「其の晩は月夜じゃったが、ワシャ鳥目でよう見えん。ワシの人生も此れで終いじゃと覚悟をしたよ」
「奴等も襲撃するなら狭い道の処ではなく、少し広い場所でワシを取り囲んでメッタ刺しにして殺そうと思うたんじゃろう」
「そうしとったらな、与作殿の住んどる炭焼き小屋迄来たんじゃ。マムシに噛まれて看病して貰うとった小屋でのう」
「ワシの命は奴等にとっちぁ賞金首じゃ、多勢の手練れを集めて眼の色を変えておるわ」
「じゃがのう、与作殿はワシが襲われそうな気配をすぐに悟っていたんじゃが、気持ちように小屋へ迎え入れてくれたのよ。ワシは死神みたいな男じゃで、普通なら誰でも自分の命が大切じゃけ追い出すぞ」
「じゃが与作殿はそんな事は一切気にせずに「お師匠さんを此処で死なす訳にはいきません」と言って戦ってくれたんじゃ。ワシは其の時、此の男の心意気に感服したわ」
「何せ、此の一家は夜目が効く。松明や提灯の明かりが無ければ、普通の人間には周りが見える訳がないわ。真っ暗闇の中で最初に板壁の隙間から吹き矢で前方の二人を倒し、ワシも一緒に外へ飛び出したんじゃが、前がよう見えんのでまるで子供の棒振り剣法よ。足手纏いになったろうよ。じゃが其の時、鉄が助けてくれたよ。大きな狼犬が暗闇から、いきなり現れて鋭い牙で相手に噛みつき引き倒すのよ。玉は玉で相手の顔に飛び付き引っ掻きまわすし、奴等はワシや与作殿を相手にするどころじゃないわ。両方共に真っ黒で何処から襲って来るのか全く見えんのよ。与作殿といえば小刀遣いじゃが剣の達人じゃ。昼間やってもワシの方が分が悪いんじゃ」
「ワシは殆んど活躍しとらんのに与作殿と犬と猫が十人の間者を退治してしもうた」
「嘘みたいな話しじゃがほんまの事じゃ」
「今でも奴等十人の墓を大切に守っとる。ワシも側を通る時は何時もお参りをしとるよ」
「三度目の時はな、ワシが又、狙われては危ないと思うて、ずっと月山から二人の一応の手練れを警護に連れて来たのは三吉氏も知っとるわな」
「あぁ、其れはよく存じております。確か此処から八幡山城には昼飯時前に向かわれました」
「其の時も、前と同じ様に城のすぐ近くから二、三人の間者が町人の格好をして付けだしたのよ」
「そりゃええが、三吉氏、どうにもおかしいとは思わんか」
「何がですか」
「考えてみい、此処は三次藩じゃぞ。其の三吉氏の喉元にな、何時も毛利方の多分、宍戸の野郎じゃろうが他所の陣地に入って来て藩の動きを見張っとるんだぞ。其れも城の真ん前じゃ。お主、よう此れで枕を高くして寝ておられるのう」
「ウゥ~ン。迂闊じゃった。此れは私の全くの油断で御座います。すぐにも周辺の山から隈なく探索し手を打ちます」
「其れにな、奴等はワシが城を出立するのを知って、一度ならず二度迄も先回りして待ち伏せしとるのよ、だから早馬用の小屋を此の近くに必ず持っとるはずじゃ、絶対に百姓のふりをしとるぞ。可愛川沿いを一気に駆け上がって深瀬迄連絡に走っとる」
「其れとな、ワシが思うに間道を抜けて行くワシ等より遥かに早く先回りして待ち伏せしとるという事は、早馬より更に早い方法を使うておるしか思えんのじゃ」そ
「そりゃ又どんなやり方ですかね」
「そりゃ今迄は備後と安芸の国が互いに平穏無事じゃったが、今はこう云う戦況で情報収集合戦じゃよのう。何時もワシが此処へ来る度に見とるんじゃが西に高い山が有ろうが」
「ああ、高谷山ですか」
「そう、其れよ。多分、あのてっぺんからは両方の陣地がよう見える筈じゃないのか。三次藩で管理はしとらんのか」
「当然、ワシ等の物です」
「子供の頃には何度も登った事は有りますが、三次の町が綺麗に手に取るに見えます」
「今は誰も上がらんのか」
「多分」
「其れならば、今は奴等が三次藩の動きを見張りに使うておるな。城の前の山中から白旗を振ると高谷山から見える筈じゃ。其れを受けて狼煙を上げると志和地の方に丸見えよ」
「いやぁ、非常にえゝ指摘有り難う御座います、今一度、性根を入れて三次藩の引き締めに徹底的に掛かっていきます」
「其れに、早急に高谷山警護班を設け、常駐する様に家老に命じておきます」
「ハハ、話しが外れてしもうたのう。ついでにもう一つ言うてもええか」
「どうぞ、どうぞ」
「今迄のやり方よりも更に速い方法があるんじゃ」
「何ですか、そりゃ」
「ハハハ、空飛ぶ忍者よ」
「大殿、全く理解出来ませんが」
「今度実際に見せてるやるよ」
「そりゃええがワシャ何にゅ言うとったかいのう」
「三度目の襲撃事件ですよ」
「そうじゃた。其の時は、与作殿が仕事でどうにも呼ぶ事が出来なんだ。うちの警護の奴等ではどうにも頼りにならんのでな。又、必ず相手は十人前後を集めて来るで。其処で何時もの処で犬笛を吹いたのよ。すると鉄とラー助が間者に気付かれない様に離れて後を尾行してくれてな。其の様子はワシには全く見えんし分からんで心配しとったのよ。其れからは前と同じ様に明光山の峠に差し掛かる頃には途中合流した奴とで十人程に増えてな。皆、完全武装しとったわ。今度は昼間で道もよう見える、すぐ其の先にかなり広い草地があり、此処でワシ等三人に襲い掛かると見たのよ」
「ラー助とは何者ですか」
「ハハハ、カラスよ」
「こいつが又凄い奴でな」
「広場の手前に来た時に、前方の小高い松の木の裏に隠れとった間者の弓矢でワシの心臓が狙われとったのよ。其れをいつの間にか空を旋回しながら見とったラー助が急降下して弓の射手の右目を襲ったんじゃ。矢はワシの頭上すれすれに飛んでいったわ」
「そして愈々、目の前の草地に到着してから、間者どもに遠巻きに囲まれて一斉に襲撃する陣形をとられ出した時は、ワシャもう諦めたよ。付いとる二人の野郎がブルブル震えとるのよ、話しにならん。半ばやけくそになりかけた時じゃ、林の中から鉄が現れたんじゃ。そして其の後から四、五頭の狼犬がドドッと地響きを立てながらワシ等に向かって来てな。ワシも完全にビビッてしもうた。二人は腰を抜かして座り込んでしもうて戦意喪失じゃ。ワシもやられると思うたよ。処が、鉄と目が逢うと全く優しい眼差しで「お師匠さん、助けに来ました」と言うとる」
「案の定、狼犬はワシ等をぐるりと取り囲んでくれ牙を剥き出しにして奴等を威嚇してな。此れを見ていた間者供は襲撃どころか、恐ろしゅうなって後すざりを始めおった」
「奴等は前の襲撃の時、仲間の十人を失うとる。其れが此の狼犬にやられたと思うたんじゃろう。目を負傷した仲間を担いで這々の体で逃げ帰ってしもうた」
「其れが終わると暫くして他の狼犬は牙を収め優しい顔になって山中に消えていったのよ。此れも死にかけた鉄を助けてくれた与作殿への恩返しかも知れん。来てくれた他の狼犬は多分、親、兄弟じゃないか」
「お陰でワシ等は刃をまみえず誰も殺生する事がなかったんじゃ」
「と云うような訳でな、本日、忍者一家を皆引き連れて来たのよ」
「カラスがいないのでは」
「おう、そうかそうか。ラーちゃんな、多分、今は天守閣の上でワシを見張ってくれとるはずじゃ」
「そんな馬鹿な!、大殿、狼犬はとも角、カラスがそんな事が出来る筈がないじゃないですか。嘘でしょう」
「実際に、頭がえゝとは聞いた事は有ります。じゃがワシにはどうも信じられんのですが」
「よし、今度見せたるよ」
「大殿、今度ではなく、今、無理ですか。犬も猫もさっき来とったじゃないですか」
「よし、分かった。お主が信用出来んと云うなら仕方ないのう」
 と言いながら、大殿は懐から二本の笛を取り出し、其の一本を見せ
「よう見とれよ、此れがカラス笛じゃ」
 と立ち上がり、窓際に寄り添い一呼吸おいて力強く吹いた。音は高音で聞き取り難かったがピィーと響く音が聞こえた。するとまだ吹き終えないうちに外から声がした。
「オシショウサン-ダイジョビ」
 とぎこちない声がして窓枠に「カタン」と音がしてラー助が止まった。何とほんの一瞬の出来事だ。
「ラーちゃん、来てくれたか。ダンダン、有り難う」
「ナンノ、ナンノタンタン」
 全くの大殿の物真似に三吉氏は大笑いであった。
「ハハハハ、こりゃ何じゃ!」
「いやぁ、凄い、ほんまに凄い!何ちゅう事じゃ!」
 此れには
「完全に参りました。今迄は大殿の言葉を、大風呂敷の話し半分に聞いておりましたが、真実である事がはっきり分かりました」
「それ程ではないよ」
「今度はな、八幡山城から三次城迄の二里半をラーちゃんに書状を運ばせるからな。ほんまにアッと云う間だぞ。さっき言うたのはこの事じゃ」
「大殿、此れは今後、戦略上重要な役目を果たしそうですね」
「早馬など全く目じゃないですな。派手に騒々しゅう駆けて行く馬に比べて何一つ音がせんのがいいですよ。第一、空を飛ぶから川や険しい峠も全く関係無く行けるし、ラーちゃんなら往復する事が簡単に出来るんでしょうね」
「当然の事じゃ。だから三次城から飛ばす時にも、三吉氏に慣れといて欲しいのよ」
「伝書鳩を見いやぁ、あれは一方通行のみで。其れに下手すりゃ何処に飛んで行くか分からんからな」
「確かに」
「其れにな、今連れて来とる鉄も速いぞ。競走すると早馬が簡単に置いて行かれるぞ。其れに少々の荷物なら肩に括り付けてぶっ飛んで運んでくれるわ」
「も一つええのは、行け!と命令すればどんな川でも泳いで渡る事よ。三次の町は川が多いからのう、特に役立つで」
「前に与作殿が言うとった話しによると、鉄や玉は自分が居らん時、昼間に何時も別荘の近くで遊んどるらしいんじゃ。其の時、たまたま人里が見える辺りで、百姓の嫁が小さな子供を連れて川の側で遊んどったんじゃ、だが足が滑って水の中に落ちて流されたらしいのよ。「誰か助けてー」と叫んでも周りに人は居らん。川幅はそんなに広うはないが流れが速うてどうにもならん。其の時に側の藪の中から、最初黒い猫が出て来て、すぐ其の後に、狼らしい大きな動物が飛び出して、水の中に飛び込んでくれたそうじゃ。そして子供の腰の帯を咥えて岸迄引き上げたら、すぐに山の中に消えたらしいのよ」
「其の事を帰ってから近所で話した事が評判になって、忽ち町中に広まったらしいのよ」
「其の話しならワシも小耳にした事が有りますよ」
「其れがどうも鉄らしいのよ。じゃが鉄は話しは出来んからのう、はっきりは分からんでぇ」
「与作殿は、暑い時期は何時も風呂替わりにすぐ下の沢で汗を流し身体を洗うらしいんじゃ。其の時、鉄が毎度飛び込んで来るらしいよ。わざと水の中に暫く潜ると、溺れたと思うて心配して犬かきで来るゆうとったよ。さすがに玉とラー助は水が苦手なんかのう」
「なるほど非常にええ事を聞きました。早速にも犬やカラスの訓練所みたいな処を作りたいと思いますがどうでしょうか」
「そりゃえゝ思い付きじゃ」
「西の方の國じゃ既に犬の鋭い嗅覚と戦闘能力を利用して探索、追跡に軍隊が活用しとるらしいじゃないですか」
「其んな話しならワシも聞いた事が有るのう。ましてやカラス迄加わってみい、片田舎の三次藩が日本の先駆けとなるなるかも知れんでぇ」
「こんなに動物達を思い通りに躾ける事が出来る、与作殿とは一体何者なんですか」
「ハハハ、本人は只の男と言うとるよ」
「何れ、三次藩の為に協力願えませんでしょうか」
「そう云う事なら喜んで力を貸してくれると思うよ、ワシもよう言うとっちゃるよ」
 三吉の殿様は大殿との会話が楽しくて、本来なれば重要な戦略会議が第一の目的であったが、嘘か真か訳の分からぬ大殿との会話に時の経つのを忘れる程であった。
「処でな、三吉氏にお願いが有るんじゃが」
「何で御座いましょうか、何なりと」
「今、来たラーちゃんに何か食べ物をやってくれんかのう」
「えゝ、たったそんだけの事ですか。お安い御用ですよ」
「ラーちゃんがな、腹が減ったんじゃろう、口の周りをしきりに舐めとるのよ」
「ハハハ、ラーちゃんごめん。気が付かずに悪かったのう」
「シミマシェン」
「大殿、ラーちゃんはこっちの言う事が大体理解出来るんですなぁ」
 三次の殿様はお付きの侍に食べ物を持って上がって来るよう命じた。
「オイ、肉が有ったろう。すぐに持ってこい」
「肉だけでなくてもええよ。此奴は何でも食べるからな、只、味付けの塩分は控えてくれるか」
「大殿、動物に塩味はようないんですか
「ああ、与作殿が何時もそう云うとる。間違いない」
「然し、ラーちゃんには、たった此れだけの報酬でえゝんですか」
「そうじゃ、他に何の欲もないわ。しいて他に有るとすれば愛情を込めた声掛けかのう。だからラーちゃんに限らず動物達に接する時には、子供をあやす時の様に猫撫で声になるのよ」
 其のうちに階下から食べ物を持って上がって来た。
「どうぞ、やって下さい」
「いやいや、お主がやってくれるか。そうするとすぐに覚えて仲良くなれるから」
 と大殿に言われた三吉氏は包みから肉を取り出し
「ラーちゃん、有り難うな、さあお食べ」
 と言いながら優しく頭を撫でてやると嬉しそうに目を細めている。ラー助は三口くらいを食べると、大殿が残りを包みなおし爪に引っ掛けさせた。
「さあ、ラーちゃん持ってお帰り」
「アリガトサン」
「今後共宜しくな」と三吉氏が言うと
「ワシ二マカセトケ」
 と全く大殿そっくりのもの真似に二人共大笑いしながら
「大殿、こりゃ癖になりそうですな」
「ハハハハ、ワシもはまっとるよ」
「其れにしても与作殿と云う男は凄い能力が有りそうですね」
「ワシもな、最初の襲撃事件が有った時は酷い鳥目でのう。暗い夜道で前がよう見えなんだ」
「其れを与作殿はワシの為に、薬の処方箋から食事方法と色々と教えてくれてな。こんなもなぁ病気じゃない、と言われたんよ。教えてもろうた通りに偏食を辞めて、貰うた薬を飲んだらきれいに治ったわ」
「其れは又、全然知りませんでした。うちの野郎等にもぎょうさんおるんですよ。其れで、暗うなったら外をよう歩かん言うて夜の見廻りをせんのですわ。此れじゃ、ろくに城の警護も出来ません。戦になったら何の役にも立ちませんよ。中には仮病の横着もんもおるでしょう」
「今度、浅田屋に来て貰って講義を受け対策を協議します」
「そうじゃ、其れがえゝで」
「処で、大殿が最近ずっと持っておられる二本の筒が忍者笛ですか」
「えらい立派な拵えですね」
「ハハァ、三吉氏、仲々上手い事を言うのう。そう此れが鉄とラー助を呼び寄せる犬笛とカラス笛じゃ。此の笛はワシの為に与作殿が作ってくれたもんよ」
「玉は両方に反応してくれるよ。此れはさっき使ったぶんよ」
「大殿、ついでにもう一本吹いて貰えますか」
「おう、そりゃええが此処は城の中でぇ、ほんまえゝんか」
「構いません、是非。ワシも楽しみにしとるんですわ」
「そうか、ほいじゃ見とれよ」
 大殿はおもむろに立ち上がり、腰の犬笛を手に取り口に当て一吹きした。此れもやはり人間の耳には全く何も聞こえない。
「三吉氏、鉄はワシが襲われとると思うて凄い顔をして来るで、噛まれん様に気を付けとってくれるか」
「えゝ、冗談でしょう!」
 階下の部屋に控えていた与作と鉄と玉は、ゆっくり休んでいたがどことなく落ち着かなかった。何せ城中の大広間の青畳の上に座って控えている。自分の実家は畳など無くムシロを敷いた部屋に他は板張りであったからだ。だがその時、突然鳴った笛に鉄の耳がビンと立ち目の色が変わった。
 すっくと立ち上がると
「鉄、お師匠さんが呼んどる、行け!」
 と与作に言われ一気に廊下を駆け出した。すると玉も後に続いている。
 階段を駆け上がり、大殿と三吉氏がいる部屋の前に来ると戸が閉まっている。鉄はお構い無しに其れにバ–ンと体当たりして、ひっくり返し中に飛び込んだ。
 まさしく牙を剥いて凄い顔をしながら近寄り三吉氏を睨んでいる。
「鉄!駄目!」
「辞めい、この人は味方じゃ」
 大殿のこの一声に、即座に其の場にお座りをしたではないか。
 全く柔和な表情に一変して尻尾を振っている。そして、其の変わり身の速さに
「ウヮ〜、肝を冷やしましたよ。いやぁ、凄い迫力ですな」
「たまげた!たまげた!ワシャ噛まれたかと思いましたよ、これじゃ大殿が言われた様に間者供も恐れをなす筈ですわ」
「鉄ちゃん、来てくれたか有り難うな」
 大殿が優しく声をかけると、途端に大きな鉄がまるで借りてきた猫の様におとなしくなったではないか。
「もう大丈夫じゃ、褒めてやってくれるか」
 三吉氏が恐る恐る頭を撫でてやると「ウォーン、ウォーン」と大喜びをしている。
 すると今度は玉が駆け付けて来た。
「おやおや、今度はほんまの猫の玉ちゃんも来てくれたんか」
 来るといきなり「二ャ〜ン、二ャ〜ン」と鳴きながら大殿の膝の上に座っている。
「此奴は此れで可愛ゆうてな。全く癒しになるのよ」
「然し、鉄ちゃんも玉ちゃんも可愛いですな」
「じゃが、いざと云う時には、さっきの通りで、全く勇敢で無茶苦茶強いぞ」
「あのなぁ、鉄ちゃんと玉ちゃんの頭を優しく何度も撫でてやるとすぐに懐いてくれるよ。特に鉄は全く従順で優しいよ」
「鉄は此れから強い味方になってくれ、特に三次藩の為の初代の訓練犬の手本になってくれるよ。戦闘能力と桁外れの嗅覚を利用すると凄い戦力に必ずなるよ」
 と言われると三吉氏は目を見つめながら「鉄ちゃん、玉ちゃん」と呼び優しく頭を撫でると本当に嬉しそうな顔をしている。
「こうして鉄と玉が此処にいてくれると心が和み、癒やされますな」
「これだけの事が出来る与作殿に付いてもう少し聞かせて貰うて宜しいでしょうか」
「アァ、何なりと」へ
 と其の間に、もう鉄は三吉の殿様の横にぴったりとくっ付いている。
「そもそも苗字帯刀を許す結果になった事と、百姓の倅が何で剣術をやる様になったんでしょうか」
「其れはな、奴が云うのには子供の頃に何時も可愛いがってくれるお武家様が近くに住んどったらしいんじゃ。少しの田地が有ったんじゃが独身者で城勤めときとる。其れでその世話を殆んど与作殿の家族が面倒みとったらしいのよ。田植えから稲刈り、畑のしごう迄もよ。だから互いに仲がようての、しょっちゅう小さな侍の家に遊びに行っとったと言うとる。
 其の時に、何時も庭先で真剣での居合の稽古や木刀の素振りをしとってな。じゃが、其れに与作殿は興味が有ったらしくて家に帰って真似事をしとると、 其れを見た父親は「ワレは百姓の倅じゃ、馬鹿な事たぁすな」と怒鳴られたらしい」
「与作殿は子供の頃から物事に徹底的にのめり込む性分で観察眼が鋭いのよ。親に内緒で山中に入り、そっくり其のまま真似をして素振りをしとったらしい。其れも千回だぞ、剣豪でもそこまでよう出来んぞ。自分で樫の木を削り小刀にしてな、短い小刀だぞ。其れは護身が目的じゃ云うとった」
「自分は百姓の倅で、剣術は一切必要のない事なので、其の侍に絶対に教えは請わんかったらしいんじゃ。とに角、自分の趣味が高じたらしいのよ」
「三吉氏の処に居合の達人で誰か心当たりのある奴がおるか」
「分かりました。多分、其奴は代官所の次席を務めとる上里ではないかと思われます。八幡山城の出身ですから」
「其奴はどう云う流派かのう」
「どう云う流派かと申しますと、さして言うなら無念無手勝流ですかね。近在の腕自慢が対戦した奴で、一本勝負で勝てる者は一人もおらんのですよ」
「ジッと目を閉じたまま刀に手を掛けず、肩の力を抜いた自然体のままで対峙するらしいんですわ」
「 其れよ!与作殿は其れをそっくり真似たのよ、間合いといい、構えといい全く同じじゃ」
「ワシがマムシに噛まれて看病して貰う時には、鉄と玉が居ってラー助はまだおらなんだな。
 具合が大分ようなった頃、世話をしてくれる与作殿の手を何気無く見ると竹刀だこが有るんじゃ。剣術をやるんかと聞くと、これは百姓仕事のまめですと言いおった。然し、ワシにはすぐに分かったよ」
「一丁、ワシと手合わせをしてみるかと云うてみたらな、渋々承知しおったわ」
「今迄に、一度も相手と対した事は有りません。お手柔らかに願います」
「オゥ、どこからでも掛かって来い」
「と言った迄はよかったが見事一本取られたよ」
「二本目からはボロが出初めたが、其れにしても身が軽い、油断しとるとすぐに懐に飛び込まれる」
「今では此方で合う度にええ対戦相手じゃ、何せ奴は小刀だぞ、凄いに決まっとる」
「其れにな、も一つ加えると与作殿は吹き矢の名手じゃ。百発百中、何と云っても凄いのは一度に五連射出来る事よ。目にも止まらぬ速や技よ、 こっちの方の一本の竹筒は構造が違うとったな、普通なら左手と右手で固定して構えるんじゃが、此れは筒の先の方に、縦に短い把っ手が付いておってのう。其れで目標を定めて吹くらしいのよ。
 そして矢じゃが五本が段々と一つに重ねて入っておりプッと吹くのではなくピシッと鋭くと言うとったよ。矢の方に工夫をしとるらしいんじゃ。其れはワシには教えてくれず笑うとったな」
「まるで手妻じゃ。こんな事が出来のは國中探しても他におらんぞ」
「此れは子供の頃にお武家様と川に釣りに行っとった時に吹き矢の作り方から吹き方まで教わり習得したらしい。何せ研究熱心な男じゃ」
「そう云う事もあり更に命の恩人でもある。ワシはすぐその場で腰から小刀を抜いて与作殿に手渡し、御守りで持っておってくれ、そして今日から苗字帯刀を許すと言ったんじゃよ。三吉氏には何も許可を取らずに決めてしもうて迷惑を掛けたな」
「とんでもない。三次藩に取っても大変誉れ高き事をして頂きました。大殿のお腰の物は備前長船兼光の名刀とお聞きしとります。其れを授かった与作殿は藩としても大変名誉な事で御座います。三次藩を代表致しまして御礼を申し上げます」
「三吉氏、そう思ってくれるか、有り難う、感謝しとるよ」
 色々話しをしてくれる国久公に三吉氏は楽しくて仕方がない。今迄は大きな身体で強面の高圧的な大殿と思っていたのだが、人や動物に対してこんなにも愛情溢れる人間とは及びも付かず、其れに気さくなうえに饒舌な方とは思ってもみなかったのだ。
「大殿、今日は三次藩にとってもの凄くえゝ事をご教示頂きました。目から鱗が落ちた思いで御座います。悪い事もぎょうさん有ると思いますが、その都度、指摘願えれば大変嬉しゅう御座います」
「其れとですね」
「何かいのう」
「其れは大殿が苗字帯刀を許すと言われた与作殿に是非会ってみたいもんですが如何でしょうか」
「ハハハ、止めとけ、止めとけ、今は。ましてや今日は絶対に駄目じゃ」
「どうしてですか」
「其れは、お主が三次藩の殿様と知れば恐れおののくわ」
「では大殿とは何とも無いんですか」
「其れは奴とワシとは師弟関係で有り、一時、同じ釜の飯を食った仲で友達でも有るからよ」
「そんな馬鹿な」
「じゃが、此れが現実で大真面目のこんこんちきよ」
「今では師匠、師匠と呼んでくれるがな。実際ほんまのところはワシが弟で与作殿が師の方よ」
「そりゃ又、どんな理由で」
「それだけ文武両道に優れておるのよ。其れに信心深こうてな。写経をやっとるんじゃが第一、長い長い経文が全部頭に入っとる。ワシも少しはかじっとるんじゃがのう。とてもじゃないが凡人の頭では付いていけん。浅田屋に奉公に上がる前はお寺さんの小僧をやっとったらしいんじゃ。終い頃には若いのに既にご院家さんの伴僧を勤めとった様じゃ」
「其れにな、与作殿の、お粗末な机の上に有った書き物を盗み見すると、ボロボロの孔子の論語の書教が有り、書き写しの紙一面が真っ黒になる程書き尽くされておったよ。恐らく日本國中、地方で此れを読み切る事が出来る者はおらんぞ」
「何れは三次藩に無くてはならない人間に必ずなるだろうよ」
「然し、苗字帯刀を許されとっても絶対に侍にはならんからな。ワシも一発で断わられたよ。奴がおってくれたら凄い参謀になるんじゃがのう」
「分かりました。何れ、如何なる方面でも力添えを頂くように致しますから」
「そうか、そうか有り難う。すまんなワシもよう言うとくから近いうちに是非合わせてやるよ」
「然し、大殿は当藩にとって色々凄い事を提供して頂きますね」
「さして何もしとらんよ」
「大殿が見つけ出してくれなければ、与作殿と言う優れた人材を埋めてしまう処でした」
「ハハハ、三吉氏がそう思うてくれるか。ワシは嬉しいよ」
「処で、話しは変わるが忽ち三吉氏にやって貰いたい事じゃがな」
「何でしょうか」
「代官が勝手に浅田屋を闕所にしとる事よ。今、店は完全に閉まっとるが、奉公人達は年末じゃと云うのに路頭に迷うとる事じゃろう。すぐに解いてやってくれるか」
「分かりました。明日、早朝にも知らせてやりましょう」
「其れにしても悪い奴よのう。殿様の権限をまるで無視しとる」
「此奴らは近いうちに潰した店を乗っ取るつもりじゃ。薬事免許も取り上げてから、全てを深澤屋に任せて代官は其の儲けの上前をはねるつもりじゃ」
「許さん、絶対に許さん!ワシの目が届かんと思うて悪い事のし放題しゃがってからに。代官も深澤屋も厳罰じゃ!」
「ワシは今、此処に今回の毒殺事件に絡む、与作殿が調べ上げた報告書を持って来ておるんじゃ。ワシが下に行っとる間に読んどって貰えるかのう」
「一寸、下におる与作殿に報告しといてやらんといけんので失礼するぞ」
「どうぞ、どうぞ行ってやって下さい。与作殿には、三次藩としてとんでもない失態を犯す処じゃったと、そして心からお詫びすると伝えて下さい」
「分かった、有り難う」
 小半刻経った頃、大殿が与作達が控えている部屋に、ドンドンと足音を立てながら掛け込んで来た。そして大声で
「大将!喜んでくれ。事は解決したぞ。浅田屋の闕所はすぐに解いてやる、無罪放免じゃ!」
「すぐに伝えてやってくれるか」
「ほんまですか、有り難う御座います」
「其れに、此処の殿様がな、今度の一件で、三次藩の恥さらしな窮状を救ってくれて感謝していると礼を言うとったで」
「とんでもない、私は何もしておりません。みんな大殿様のお陰で御座います」
「またまた、大将と云う奴は」
「処でな、闕所が解けたのはえゝんじゃが、浅田屋の主人はどうなったかのう」
「昨日、大殿がすぐにでも見張っといてくれと言われた事で、其の役目を玉が果たしてくれました」
「然し、今朝方、代官所の役人が店にやって来て「死んだから亡骸を引き取りに来い」と言いました」
「其れで私が、代官所の裏手から運び出された棺桶を大八車に乗せて店に引いて帰ったのです」
「亡くなったのか」
「いえいえ、玉の機転で店に帰って息を吹き返しました」
「ウ〜ン、びっくりさすなや」
 と唸って暫くため息をついていた。だがやがて大笑いしながら
「大将といい、鉄、玉、ラー助といい全く何と云う奴等じゃ」
「ほんまに凄い!」
「大殿の指図通り天井裏から見張っていた玉は、物凄い嗅覚で、朝食の中から上がって来る湯気で毒が入っているのを嗅ぎ分けると、主人がすまし汁椀を口に当てる瞬間、天井から飛び下りて叩き落としたのです。其れから死んだふりをする為に、痺れ薬を飲ませ仮死状態にして、すぐに棺桶に入れさせ運び出したのです」
「何と上手い事を考えついたもんじゃのう」
「店に帰ると、奥様が気付薬を飲ませて息を吹き返えらせました」
「此れも大殿の的確な指示のお陰で御座います」
「又々よう言うてくれるわ、でも嬉しいよ。浅田屋の主人はワシの命の大恩人じゃから当然の事をした迄よ」
「大殿様、今日は私達町人にとっては、絶対に入る事が出来ない城中で長居をさせて頂き有り難う御座いました。私達は此れで失礼させて頂きます」
「そうかそうか、ご苦労じゃったのう」
「一寸、待っとれよ。皆んなにお土産が有るんじゃ」
 と言って奥に引っ込み小包を持って来てくれた。
「何時も誠に有り難う御座います」
「何の何の」
 其れが美味しいご馳走で有る事を忍者一家はよく知っている。
 鉄と玉は大殿に甘えて大喜びをしている。
「今から門の処迄、送って行くからな」
「とんでもない、結構で御座います」
「えゝから、皆んな行くで」
 部屋を出ると城の中の玉砂利を踏みしめて正面に向かった。そんなに長く歩く距離では無かったが出会う侍は一歩下がり一礼をしている。そし玄関口に来て愈々帰ろうてして
「本日は誠に有り難う御座いました」
「オゥ、皆んな気を付けて帰れよ」
 と挨拶をしている時、一人の侍が城の中に入って来た。
 なんと「おっちゃん」ではないか。歩みを止めて大殿の手前、一礼をしている。其の時、上目遣いに与作と目が合った。
「おっ・・、」
 と危うく叫ぶところであった。さぞびっくりした事であろう。
「何で大殿と一緒におるんじゃ」
 おっちゃんは与作と別れて以来、一度も合っていない。互いの仕事が忙しい為もある。
 だが、 其れ以上に、方や代官所の次席、方や薬屋の丁稚奉公と格段に身分格差が生じており会える訳がないのだ。何れ、おっちゃんは三次代官に出世するであろう。
 そんな与作が、天下の大殿様と、城中からニコニコ談笑しながら並んで歩いて出て来たのだ。其れに奥の方では我が殿も柱の陰から見送っている様だ。
 側には大きな狼犬と大殿様の懐には猫がいる。だが与作はといえば、全く身なりがお粗末な格好である。城中で初めて目にする異様な光景に、ただ唖然とするばかりであった。
 でもその後は、さり気なく互いにやり過ごしたのである。
 あの子供の頃、可愛いがった百姓の倅の与作が、天下の大殿様と城中を歩いている。
 でも、おっちゃんは、心の中では嬉しさと喜びに溢れていたに違いない。
 其れ以降、与作と忍者一家は、三吉のお殿様に一目置かれる存在となり、何かと重用されて三次藩や 代官所に於いて、陰の実力者として大いに貢献したのであった。
 城を出て暫く歩いていると、ラー助が舞下りて来て鉄の背中に止まった。見ると口の周りを舐めており、更に包みを持っている。
「ラーちゃん、さては師匠さんに呼ばれたな」
「エへへへ」
「おまえは、師匠さんが好きだからな」
「よし、此れから別荘に行ってから飯にでもするか」
 今日も皆んな仕事をした充実感一杯で飯と聞いて更に大喜びをしている。
 与作は今度の事件に関して、町人には到底解決などあり得ない事を国久公に成し遂げて貰い、只々、言葉では言い表わせない程の感謝の念で一杯であった。
 そして日頃、お世話になっている浅田屋の主人を救い、明日にも店を再開できる事で今迄通りに奉公人達も、此れで正月を迎えられるであろうと心がうきうきして堪らなかった。

闕所の解除

 生き返った主人は昼過ぎまでぐっすり寝ていた。余程、牢屋より寝心地が良かったのであろう。
「オ〜イ、母さん、腹が減ったよ。飯にしてくれんかのう」
 隣の部屋から襖を半開きにして、母子が固唾を呑んで長い時間様子を伺っていた。
 主人の麻沸薬からの意識回復は、奥様の匙加減一つに掛かっていますよと、与作に言われた為に、どうか間違い有りません様にと手を合わせながら祈っていた。
 目覚た主人の声を聞いて
「何時ものお父さんの調子に戻っているよ」
 と美和がいうと
「そうね、元気になったみたいだね」
「良かったぁ、うちは調合を間違うとらんかったんよ」
 襖を開けて奥様が声を掛けた。
「お父さん、目が覚めましたか、お粥を持って来ましょうか」
「要らん、要らん、何時ものでええよ。考えてみりゃワシャゆんべから何も食うとらんで。朝には代官に毒を飲まされたからのう」
「じゃがな、美和よ」
「何ですか、お父さん」
「ワシもな、美和と同じ事をしてもろうたのよ」
「何の事ですか」
「美和が誘拐された時に助けてくれたと云う犬と猫な、美和が代官所で言うたら 、気違い扱いされたが、ワシも同じ事をゆんべしてもろうたのよ」
「そうでしょう。私が言っ事は間違いないでしょう」
「代官がワシを殺そうとしゃがったが、どうも深澤屋とグルで店を乗っ取ろうと企んどる様じゃ。其れが証拠にすぐに闕所にしたろうが。どうにも此奴等が藩に内緒で決めたとしか思えんのじゃ、三吉のお殿様は絶対にこんな酷い事はなさらんぞ」
「明日中にな、どうしょもなけりゃ、ワシは覚悟して殿様に直訴をするから」
「でも直訴は御法度じゃないんですか」
「そんな事ぐらい、始めから分かっとるわい」
「では、お父さんに全て任せます。いいですね、美和も」
「はい」
「でもね、お父さん、与作が言った言葉も信用しましょうよ」
「ほいでも、相手は代官所のほんまの悪代官じゃぞ。与作でどうなるもんじゃないぞ」
「丁稚一人で何が出来るんじゃ」
「ようし、こうなりゃ末期の酒じゃ、母さん、美和、ドンドンやるで」
「そうね、此れで最後と思うたら気が楽になりました。酔い潰れるまでやりましょうよ」
「オイ、オイ、然し、母さんも度胸が座っとるのう」
「美和ちゃん、有る物を皆持って来てよ。明日の朝までジャンジャンやりましょうよ」
「親子で最後の宴ですね」
 主人は二人の横顔を見つめながら「なんと腹の据わた母子よのう。ほんま誰の子かいな」と思い今、初めて母親の逞しさに感じいっていた。
 どれほど呑んだであろうか、三人共に意識が朦朧とするほどの酩酊ぶりであった。そうした早朝、与作が来るよりも早い時間、玄関戸を派手にドンドンと叩く音がする。これに奥様が気付いた。
「今時、何用かな。うちは潰れとるというのに」眠気眼を擦りながらハッと気付いた。
「こりゃ大変だぁ!どうしよう、どうしよう」処
 が二人共に爆睡中で大いびきだ。
「えぇい、ままよ」
 と立ち上がり表に向かった。覗き窓から外を見ると
 二人の役人が玄関先に立っている。
 此れは昨日、浅田屋が牢屋で亡くなった為に、財産没収と店舗引き渡しの通告に来たものと覚悟して奥様が出て来た。まさか主人が、生きて帰って来ているとバレる筈はないんじゃが、と思いながら恐る恐る戸を開けて外に出た。
「お役人様、私らは覚悟をしております。仰せの通りに従います」
「オイオイ、御内儀よ、何を勘違いしとるんじゃ、今朝はな、えゝ知らせを持ってきたのよ」
 早朝にも関わらず、やって来た役人二人はニコニコしながら
「浅田屋、喜べ、闕所が解けたぞ。今日からまた店を開けてもええぞ」
 悪い事ばかり考えていた奥様は、この一声を聞いて其の場で腰を抜かして、へたり込んでしまった。昨日からの飲み過ぎで足腰がふらふらのせいもあった。 
「オイ、大丈夫か」
「アッ、はい、大丈夫でございます。又、今まで通り商売を始めてよろしいんでしょうか」
「アア、そう云う事じゃ、上の方からお達しがあってな、すぐに行って喜ばしてやれとな。其れで、早朝にワシ等が出っ張って来たのよ」
「本当に有難うございます。でも何でこういう事になったんでしょうか」
「そんな事を聞かれてもな、ワシ等、下っ端に分かる訳きゃ無かろうが」
「間違い無く伝えたぞ」
 と言い二人が帰ろうとすると
「お役人様、一寸、お待ち下さい」
 と言って立ち上がろうとするが腰砕けだ。役人が手を引いてくれてようやく立ち上がった。
 そして、奥に入って戸棚の中から、得意先用に用意してあった一斗樽の祝酒を持ち出そうとしたが、またもや樽ごと転んでしまった。
「お役人様、助けて下さい ! 」
「どした!又か。大丈夫か」
「お役人様に持って帰って頂きたくて」
「えゝ、こんなにくれるんか」
「どうぞ、どうぞお待ち帰り下さい。朝早くに来て頂いたお礼でございます」
「いやあ、すまんのう、有難う」
「浅田屋、ほんまに良かったのう。ワシらもええ伝達に来れて気分が晴れ晴れじゃ」
 と丁寧にお礼を言いながら二人はご機嫌で帰って行った。
 玄関先から役人が帰るのを見届けた奥様は慌てて奥座敷に駆けり込んだ。
「お父さん!大変だあ ! お店の闕所が解けましたよ」
 と大声で叫びながら、廊下を走り奥の部屋に飛び込んで来た。其れまでは押入れの中に潜む様にしていた二人は、奥様の声を聞いて抱きあって泣いている。
「お父さん、美和、何処に居るんですか」
「此処じゃ、此処じゃ」
 そして襖を開けて転げ出た。
「お父さん、どうしたんですか」
「ヒヒヒヒ、飲み過ぎで足腰が立たん」
「もう隠れなくても、直訴もしなくてもいいんですよ」
 この知らせに浅田屋一家は、嬉し涙に泣き濡れながら抱き合い、そして部屋や店中を何度も転びながら走り回っていた。
 主人は店先に下りては帳場の前に座り、帳簿が書ける、算盤が弾けると子供の様にはしゃぎまくっている。
「母さん、今度は祝い酒じゃ」
「そうですね、やりましょう。やりましょう。美和ちゃんもこっちに来て、又、一緒に飲みましょう、ジャンジャン持って来て」
「何言ってんですか。この大酒飲み、五升樽がもう一寸しか残っていませんよ。其れにつまみや食べ物は全然有りません」
「無かったら、美和ちゃん買って来て ! 」
「何よ。今 、何時と思っているんですか」
「叩き起こせ ! 」
「オイ、母さんもの凄いぞ、まるでウワバミじゃないか」
「知らなんだなあ、女房がこんなかったとは」
「お母さん、凄いね。でも今、買って来ますからね」
 美和が買い物に出かけてからも一層、元気が出て来だし、いささか心配になり出した。
「まあ、後の世話は美和に頼むか」
「処で、母さん、うちの店は如何してこうなったんじゃ」
「そんな事を聞かれても私も、美和も分かる訳が無いでしょうが、つまらん事を聞くな ! 」
「代官はワシが知らん間に、勝手に闕所にしおってからにな。一旦こうなったからには、お殿様が決めて下さらん事には解除出来んぞ。よっぽど偉いお方が動いてくれたとしか思われんのじゃがなあ、多分、代官は厳罰を喰らうぞ」
「其れにしても誰が助けてくれたんかのう。美和もワシも犬と猫に助けてもろうたが、実際には必ず飼い主がおるで。其の時に書いてあった紙にはな、
 もの凄い達筆で、綺麗な月下美人の絵が描いてあったわ」
 其の時に美和が一杯の荷物を抱えて帰って来た。
「ワシは何の事やらさっぱり分からんが、お前ら分かるか」
「さあ〜、わっからね〜」
「こりゃ、母さんは駄目じゃ」
「此の月下美人の花言葉は何じゃ 、美和 ! 」
「其れはね、夜咲く花と言われているわ」
 と美和が答えた。
「フ〜ン」
「其れにしても、与作の言った通りになったろ。奴は賢い, なぁ、美和ちゃん」
「分かった、分かった」
「美和、酔い冷ましに母さんの顔へ水でもぶっ掛けや」
「お父さん ! お父さんも何言ってんですか」
「冗談、冗談じゃ!早よう寝かしてやれぇや」
「まさか与作じゃなかろのう。奴は最初うちで使う様になる時、庄屋の山田屋さんは、百姓の出で無学文盲じゃと紹介して来たぞ。今も字を書いてもミミズがほうたように下手クソじゃし全く絵は描けんぞ。其れに犬も猫も飼うとらんじゃろう。毎日、志和地から走って来とるから無理よのう」
「然し、庄屋さんに騙されたんかのう」
「其れか、自分の力を全く隠して、猫を被っとるんかのう」
 役人が相当に早い時間に来たもので親子の話が佳境の頃、ようやく、何時もの様に与作が顔を出した。
 今朝も、くぐり戸を開けて箒を取り出すと店先から路地の隅々迄、掃除を始めていた。
 丁度、其の頃、与作が来た事に奥様が気付いた。
「ほら、お父さん、与作が何時もの様に来ましたよ。店が閉まっているのに必ず顔を覗かせるんですよ。然も志和地から来るんです。他の奉公人達は誰一人として来た事がないのに」
「私や美和は、お父さんが何と言おうと、今は与作を一番信用してますからね」
「お父さん、しっかりせえ ! 」
「オイオイ、こりゃ完全に悪酔いじゃ」
「美和よ、すまんが後は母さんを頼むで」
「ワッカリマシタ。任せてチョウダイ ! 」
「オイ、此奴もかい」
 酔っぱらった母さんから聞いた与作の事を主人は「フゥ–ン」と唸りながら席を立ち店先の戸口の処に近寄った。
 外では、毎朝の様に隣同志の丁稚仲間の話し声がしてくる。
「与作どんは、店が潰れて閉まっとるのに何で、何時迄も馬鹿な事をするんじゃ」
「其れも、遠くから来とるんじゃろう。一銭にもならんじゃろうが」
「変われ ! 、変われ ! 」
 と皆んなで合唱している。
「こんなケチがついた店など縁起が悪いわ」
 隣、近所の丁稚供は散々浅田屋 のことをこき降ろしている。
 其れを聞いていた主人は少々頭に血が上ったが、与作の一声に一気にかき消された。
「ウン、じゃがワシには他にする事も、行く処もない。脳足りんじゃから此れでいいのよ、主人が、又、店を開けてくれるのを待っとるんじゃ 」
「牢屋の中から何が出来るんじゃ。どうしょうもない阿呆じゃのう」
 だが丁稚等の喧騒の中、与作の冷静さに浅田屋は目が覚めた。そして美和が言っていた花言葉を、酔っぱらった頭で一生懸命考えていたが、この時、始めて此の意味が浮んだのだ。
「夜る、咲く花、夜る咲く花、夜咲く花、よさくはな、よさく、与作じゃ。オウー、絶対に間違いない ! 」
 丁稚供の話しを聞く迄は、まだ与作を疑っていたが、皆んなして浅田屋を去ってしまった店に、とんでもない能力を有した忠義者が残ってくれていたとは・・
 主人は玄関戸の裏で一人声を押し殺し号泣したのである。
 やがて、丁稚供が夫々の店に散っていくと、外には与作一人がポッンと立っていた。東の空に向かって両手を合わせ暫く何やら拝んでいる様だ。
 其れを見計ってから、主人は涙を拭いて玄関の戸をガラッと開けて出て来た。
 其れを見た与作は
「おはようございます。ご主人さん身体はもういいんですか」
「うん、有難う。与作のお陰で、気分も身体も快調じゃ」
 与作が浅田屋に雇われて以来、主人が「有難う」を初めて口にしたのである。
「与作よ、今朝、早ように代官所の役人が来てな、上からの御達しで闕所が解けて無罪放免じゃと言うてな、ほいで今日から店を開けてもえゝ言うんじゃ」
「じゃが信じられるか。わしゃまだ店を開けてもえゝんか迷うとるんじゃ」
「どうしてですか」
「ころころ変えりゃがる代官所の方針に、ワシの身にもなってみいや。其れに生きたり死んだり忙しい事よのう」
「ご主人さん、もう大丈夫ですよ。三吉のお殿様を信じてあげて下さいよ」
「そうか、そうか、与作もそう思うか。自信を持ってもええんじゃな」
「其れじゃあ、今から番頭さんを始め奉公人さん達を呼び集めなければいけないですね」
「私も又、雇ってもらえますね」
「当たり前だよ」
「有難うございます」
 其れでは、早速取り掛かりますから」
「ほんま、宜しゅう頼むよ」
「処でな、ワシャ、代官にほんまに殺されるかと思うとった、こんな難しい事件を誰が解決してくれたんかのう。ワシにはさっぱり分からんのじゃがな。与作よ知っとるか」
「私は全然、其れこそ知りません」
 と返答すると、与作は、今迄勤めていた奉公人さんの住まいに向かって、呼び戻しの為に掛け出して行った。
「然し、何と粋で冷静沈着な奴が、浅田屋におってくれたもんよのう」

第10話 三次藩お抱え忍者鴉ラー助と狼犬鉄

 〜 大将よ、実はワシも今迄の様に頻繁にこっちには来れん様になるやも知れんのじゃ。薄々、分かっとるじゃろうが毎度の様に、各地のワシ等の陣営を回りながら、薬屋も無いような奥出雲のど田舎から出っ張って来とった。世の中の戦況が時事刻々と変わって来よるからのう。
 そこでじゃ、ワシは是非とも早急に大将を三吉殿に引き合わせておかにゃならんと思うてのう。その時は追って知らせるから宜しく頼むよ。都合によっては、大将の仕事の日に重なるやも知れんが此れだけは付きおうてくれんか。
 それとな、ワシと会う時はええんじゃが、一応は三次藩の殿さんと会うからには前垂れ姿での面談はやめてくれるか。
 その時の連絡はラー助に頼むからな 〜
 案の定、国久公よりの呼び出し依頼の日は与作の勤務日に当たっていた。そこで急遽、浅田屋の主人に掛け合った。
「旦那さん、申し上げにくいんですが」
「何じゃ、お前の言いそうな事は凡そ察しがつくで」
「明日、休みを・・」
 と言うやいなや主人は
「オオゥ、そうか例のお師匠さんと会うんじゃな。よかろう。休みの日を変えちゃるよ。行ってこいよ」
「有難う御座います」
 えらい簡単に許可をしてくれるな、さてはお師匠さんの正体がバレたかな。旦那さんはしょっちゅう商いで比叡尾山や代官所に出入りしており、噂話の情報を聞き得ておるやも知れないと与作は感じた。
 与作は急遽、昨日のうちに実家に帰り、親父の礼装もどきの着物を借りて来ると別荘に置いていた。
 此処からならばお城は直ぐ近くだ。
 巳の刻頃に来てくれと言われており、城中に入る段取りは付けておくからとお師匠さんから聞いていたが、今日は何せ一人での登城である。いや、自分だけじゃないか、鉄も玉もラー助もいる。皆んな家族だ。
「ヨシャ!堂々と入るぞ。付いて来い!」
「エイエイオー」 
 威勢のいいラー助に押されていっきに坂を駆け上がって行く。
 城の正門前に到着すると門番が二人いる。近づいて本日の登城の理由を告げようとしたところ、その後ろから国久公が急ぎ駆け付けて来た。
「オウ、大将、よう来てくれたな。鉄ちゃんも玉ちゃんも有難うな」
 早速、玉はお師匠さんの懐の中に飛び込んでいる。
 すると空からラー助が舞い降りて来た。
「ラーちゃんもよう来てくれたのう」
「ナンノ、ナンノ」
「ハハ、早速ワシの真似をしおってからに」
「大将よ、きつうなかったか、この坂は。ワシゃ此処へ来る度に嫌になるよ」
「いえいえ、これくらいは何とも有りませんが、然し、緊張しとります」
「ハハハ、大将らしゅうもない。三吉殿もワシじゃと思うて気楽にせいや」
「然し・・・」
「まぁええ、ワシに任せとけ」
「宜しくお願いします」
 城内に入ると三吉の殿様が出迎えに入口で待っていた。
「オォ、与作殿、よう来てくれたのう」
「本日はお招き頂き誠に有難う御座います」
「まぁ、気楽に入ってくれえや」
 城内に入ると家来たちが何人も行き交いして庭や廊下ですれ違った。その都度、国久公と三吉の殿様に挟まれて歩いている町人風の髷を結った小男に怪訝そうにチラッと見やりながらやり過ごして行った。其れに、なにしろ恐ろしい程の大きな狼犬とこれまた可愛い仔猫まで一緒ときている。其れが廊下から座敷の上を歩いているではないか。
 大広間に入ると国久公が気を使ってくれ、いきなり
「此処で話そうや」
 と自ら座布団三枚を一段低い畳の上に車座になるようにして並べた。
 此れには与作が恐れておののいた。
「大殿様、此れはとんでもない事で御座います」
「大将よ、其れを言うなと約束したよな」
「三吉氏、此れでええな」
「ワシに何の異存はありませんよ」
「よし、決まった。後は気楽にいこうや」
 賢い鉄は離れて隅っこの方でお座りをしている。其の横にラー助もちょこんと座っている。玉は何時もの様に大殿様の膝の上だ。
 するといきなり三吉のお殿様が声をかけてきた。
「与作殿よ、この度は浅田屋には大変迷惑を掛けたのう。前の代官が仕出かした不祥事の件、ワシもこの通り謝る、許してくれ」
「とんでも御座いません。浅田屋への寛大なるご処置痛み入ります」
「ワシの管理不行き届きをええ事に、あり得ん事をしでかしゃがったよ」
「然し、浅田屋救出に際しては相当に面白い手を使い、新手の牢破りをしたらしいのう」
「誠にもってすまない事を致しました」
「何の何の」
 と其処へ国久公が口を挟んで来た。
「そうじゃった、そうじゃった。仲々に傑作な事じゃで。ありゃワシと大将と忍者一家の合作じゃ。其れに薬屋でないと出来ん手で」
「でも其れまでの段取りは、みな大将が付けといてくれたから解決したんでぇ」
 と国久公は与作と忍者一家に助け舟を入れてくれた。
「其の時に、あの男に任せとけば何もかも解決するよ、と大殿に言われたましたが何で部外者の与作殿に分かるんだと思いましたよ」
「此れも大殿様に的確な指図を頂いたお陰で御座います。玉の嗅覚で牢内での主人の毒殺を免れる事が出来ました」
「危うく長年に渡り世話になっとる浅田屋を消すとこじゃったよ」
 お殿様は再度も詫びを述べながら大殿様の懐の玉の頭を撫でたのである。「ニャ〜ン」
「玉ちゃん、ようやってくれたな。有難うよ」
 さらに喉を「ゴロニャーゴロニャー」鳴らしている。
 そして次なる要望を告げて来た。
「そりゃええがのう、与作殿、お主の優秀な能力を三次藩の為に活用させてくれんかのう」
「ワシも家老も楽しみにしとるんじゃ」
「代官所役人等の揉め事、傷害事件もお主や忍者一家が解決してくれた事じゃろう」
「いえいえ、私は何もしておりません」
「嘘を言うな、人間技とは思えぬお白州の庭に天から落とした証拠の品はラー助の仕業じゃろうが。其れに比熊山の物の怪とは絶対に与作殿じゃで」
「・・・・」
 ところが離れて大広間の隅にいたラー助が叫んだ。
「ワシジャ、ワシジャ」
 此れには全員がたまげまくった。
「ほれみろ、ラーちゃんは正直で!ハハハハ、こりゃ又、傑作じゃ」
「ワッハハー、いやぁ、凄い!凄い!」
「大将、嘘はつけんのう」
「ハハハハー、ほんまじゃ、ほんまじゃ」
 此れには実際、与作もびっくりした。だが本当の処は何時もお師匠さんとラー助が会話をしている時、常にワシじゃとかワシ、ワシというもので名前の「ラー助」を言われて咄嗟に口を衝いて出たのであろう。
「然し、皆んなして当藩の内輪揉めをよう丸う収めてくれたのう。ほんま感謝しとるよ」
 常に寛大な心を持ち合わせている三吉のお殿様は何度も与作に向かって頭を下げた。
「お殿様、お辞め下さい、勿体のう御座います」
「分かった、分かった。じゃが是非共、今後も力を貸してくれんかのう。然し、与作殿の凄い才能には恐れいったよ」
「有難う御座います。今日は大殿様から声掛けして頂きこうした席を設けて頂きました。私も非常に嬉しゅう御座います」
「でも、私は現在浅田屋に籍を置いておりますし今すぐ急に辞められない義理が御座います。もう暫くは様子を見させては頂けないでしょうか」
「うん、そうじゃのう」
「でも、鉄やラー助は何時でも藩としてお使い下さい。私が浅田屋で仕事をしている間は一日中幾らでも動いてくれますから」
「そりゃほんまか、ええんか」
「どうぞ、どうぞ。鉄もラー助もお殿様が大好きです。喜んで犬笛を吹くだけで直ぐに駆け付けてくれますから。其れにラー助は天守閣からカラス笛を吹かれるか、窓に何か目印を置かれていると、どんなに離れていても見つけて飛んで来ますから。
「こりゃ楽しみじゃのう」
「よしゃ、決めた!鉄とラー助は三次藩の召抱え忍者第一号じゃ」
「おお、三吉氏、そりゃええ考えじゃ。犬はとも角、カラスが活躍するなど日本國中何処を探してもおらんぞ」
 こんな痛快な事が有るであろうか。
 現実に中国地方の山奥の三次藩で カラスのラー助が忍者鴉として任じられたので有る。
 忍者が大ぴらに公表される事などあり得ない事であるが、ましてやカラスと狼犬など聞いた事がない。
 何という事であろう。何時も騒々しいラー助が召し抱えになるなど到底考えられず、三吉のお殿様の茶目っぷりには呆れるものも多かった。然し、戦国の世の中にあって一服の清涼剤として歓迎する者も多かったのだ。
 だがラー助は頭が良くて、全く現実離れをした大活躍をしたのである。
 誰にも為し得ない空からの見張りと追跡、時に上空からの急降下攻撃、其れに超高速な情報伝達能力と人間の言葉も喋り、正しく空飛ぶ忍者として面目躍如たる能力を備えていた。
「そりゃええが与作殿にはワシから苗字帯刀を許しておるんじゃが、ついては此の近くに家屋敷を提供しょうと思うとるが如何かのう。今は一里半も向こうから通うとるんじゃろうが」
「とんでも御座いません。丁稚奉公には身に余る光栄でございます」
「然し、私には起きて半畳、寝て一畳も有れば十分で御座います。其れに、此の近くには別荘も所有致しておりますので必要は御座いません」
「なに!浅田屋ではそんなに給金を貰ろうとるんか」
 其処へ国久公が嬉しそうに口を挟んで来たので有る。
「そうじゃった、そうじゃった三吉氏、与作殿と忍者一家の邸は小さいが屋敷は相当に広いぞ。ワシも一度だけ寝た事が有るが快適じゃったよ」
 と言いながらゲラゲラ大笑いをしている。与作も思わず苦笑いをしてしまった。
「そうか、其れなら忽ちはええな」
 三吉のお殿様は、国久公と与作の言っている別荘の事が全く飲み込めなかった様である。
「然し、何れにしても、今から其方には教習所や学問所を開設してもらわにゃならんので、この近くにおって貰わんとな」
「分かりました」
 だが大殿様がポツリと寂しそうに呟いた。
「そうなるとワシも寂しくなるのう」
「大殿、何でそうなるんですか」
「あぁ、いや、何でもない、こっちの話しじゃ」
 お師匠さんにしてみれば、今迄の様に楽しかった炭焼き小屋での忍者一家との触れ合いや、大将との立合い稽古も出来無くなってしまうのだ。
「大将よ、今日は長い間よう付きおうてくれたな」
「今後共、何時迄も三次藩の為に頑張って其方の類稀なる才能を発揮してくれるか」
「大殿様、其処まで私を買い被らないて下さい」
「いや、そうじゃないで、国久公の見られる目は節穴じゃないぞ。この地だけに止どまらず何れ世に名を残す人間に間違いはないよ」
「とに角、精進してくれるか」
「有難う御座います」
「よしゃ、決まった。与作殿、早速じゃが明日にも鉄ちゃんとラーちゃんにワシんとこへ来てくれんかのう。ハハハ、ワシの話しが一遍に細うなってしもうたな」
「とんでもない、其れは喜んでお殿様とご一緒するでしょう」
 そう言われた鉄とラー助は以心伝心即ぐに伝わるのだ。そして部屋の中を走ったり飛び回っている。
「もう完全に三吉氏に懐いたな。よかったよかった」
 と大殿様はご機嫌で鉄と玉とラー助を優しく撫でている。
 次の日、昼飯時の前にお殿様は家老を呼び出した。
「オイ!ワシは今から一寸、出掛けてくるからな」
「突然、何事ですか。今更、何処へ行くと言われますか」
「お殿様が行かれなくても用事は誰かがしてくれますよ」
「いいや、ワシが一人で行く」
「其れでは供の者を何人か付けましょうか」
「そんな奴は要らん。久し振りに歩いて行くよ」
「何と馬鹿な事を。其れで何処へ行かれますか」
「高杉城じゃ。此処は一番近いし平坦地にあるからのう」
「誰も付けずにですか。なんぼう藩内じゃ云うても何があるか分かりませんよ」
「護衛をつけましょう」
「うんにゃ、ワシだけじゃ」
「ワシも長らく城から出とらんからのう。たまには町中の様子や農耕作地の百姓達の暮らし振りも見てみたいのよ」
「家老も一度は聞いた事があろうが。西洋の方の國では軍隊が大型犬の高い戦闘、護衛能力を使い活躍しとるのを知っとろうが」
「其れは私もちょくちょく耳にした事は御座います」
「じゃが何処にそんな犬がおるんですか。誰もそんな凄い犬を飼っていないじゃないですか」
「実はな、今迄に家老には話しをせんかったが、国久公の窮状を救った犬がおるんじゃ。大殿が二度襲撃されたのは知っとるわな」
「其れはよく存じております」
「其の犬達と一緒に今日出掛けようと思うとる」
「殿様、犬達と言われましたが何匹いるんですか」
「ハハハ、実は犬と猫とカラスじゃ」
「何とまぁ、おふざけが過ぎますよ」
「真面目じゃ、大真面目じゃ」
 余りにも突飛な事を言う殿様に家老は呆れ返ってしまった。
「其れでは好きにして下さい。どうぞご勝手に」
「オウ、其れでな、ボロの着物を用意せい」
「分かりました」
 兎にも角にも家老は何が何やら分からず家来に着物を持って来させた。其れを着込むとお殿様は
「一寸、行って来るからな。後は付けさすなよ」
 と念を押しながら 、頰被りをしとても殿様の出で立ちとは思えない格好であった。
 門をくぐって他の家来に見つからない様に裏口の木戸を開けてこっそりと外に出て来た。坂道を少し下ると林道の側から鉄と玉とラー助が道の真ん中に出て来たではないか。与作が事前に段取りをつけたのであろう。
「オオゥ、やっぱり来てくれたか。皆んな有難うな」
 鉄も玉もラー助も声は一切発しない。目一杯尻尾を振りラー助もクェクェ小さく鳴くだけで大喜びをしている。早速、玉は懐に飛び込んでいる。
「よし、今から出掛けるが宜しく頼むよ」
「ワシニマカセトケ」
「ラーちゃんか、何と心強いのう」
 一方、家老はお殿様の一人歩きに頭が錯乱状態であった。
「為してこんな事になったんじゃ、お独りで行かせてええ訳が有る筈が無かろうが」
「オイ!誰かおるか、一寸、来い!」
「腕の立つ奴は居らんか」
 階下から四、五人が駆け上がって来た。
「今な、お殿様が一人で高杉城に行ってくると言われ出掛けられた。万が一襲われでもしたら大変な事になるんじゃ」
「今からお前ら三人で後を追って見張りを続けろ。決して気付かれるでないぞ」
「分かったら即ぐに行け!」
「承知しました」
 お殿様と鉄は馬洗川沿いの道をのんびりと東に向かって歩いている。ほんとにいつ以来の事であろうか。
 左手の高い処に微かに先程まで居た天守閣が見える。
「然し、高いのう。ワシが引きこもりになる筈じゃ。ご先祖さんが難攻不落のつもりで造ったんじゃろうがもう一寸低い処に住みたいのう。家来達も通うのにはええ加減しんどいじゃろう」
「鉄ちゃん、玉ちゃん、久し振りに外に出ると気が晴れるのう」
 と声掛けすれどもとんと反応が無い。玉はとも角、鉄は警護気取りで鋭い眼光でお殿様を誘導していく。
「鉄ちゃん、気楽に行こうで」
 爽やかな川風に吹かれながら土手の上の道を歩いていると、狼犬を連れて懐の中から顔を覗かせた猫を見つめた百姓夫婦と子供連れが「ワンワ、ニャンニャ」と叫びながら嬉しそうにすれ違って行く。
「ええもんじゃのう。今は農閑期で暇なようなが百姓達のお陰でワシらも飯が食えるんじゃからのう」
 心優しいお殿様は軽く手を振っている。
 左下を見ると狭い浅瀬の川の中で梁漁をする人が二人いるではないか。興味があり下りて行き覗いて見た。
「此れが落ち鮎漁か。仰山獲れとるのう。此れをどうするんじゃ」
「町の魚屋が引き取りに来ますんで」
「そうか、ご苦労じゃのう」
「塩焼きもええが、うるかも酒の肴に丁度合うよのう。お主等のお陰で美味しいものが食えるよ」
「お侍様、此処に少しじゃが其れを持って来ておりますのでつまんで行って下さいよ。其れにどぶろくも有りますから」
「何という!嬉しいのう」
 お殿様が一杯ご馳走になりながら一人の百姓と話している時、もう一人が気付いたのである。頰かむりの下から殿様風の丁髷(ちょんまげ)が見えたのだ。其れに身なりは悪いが凄い刀を差しておられる。
「もしや!」
 すると口に人差し指を当て
「シィー、ええから、ええから」
「有難うな、美味かったよ」
「気をつけてお行き下さいませ」
 暫く其の場にいたのだが其れを離れた道上の場所から三人がさりげなく監視している。無論、お殿様は気付いていなかった。
 やがて又、高杉城を目指して田んぼ道を歩き出した。すると突然ラー助が頭の上に来ると
「テキテキ!」と叫ぶではないか。
「何!敵じゃと」
 其の声を聞くと、お殿様は草鞋の紐を結び直す振りをしながらしゃがむと脇の下から後を振り返った。
 其処には藩士の三人が遠目に離れてジッと見つめているではないか。
「家老の奴め、あれ程云うとったのに。まぁええか」
「ラーちゃん、有難うよ」
「ナンノナンノ」
「然し、凄い奴じゃな」
「よし!鉄ちゃん、其の先辺りで奴等を脅してやるか」
 お殿様が言う事が理解出来るのである。途端に尻尾を振り始め目が輝き出したではないか。
 丁度、曲がりくねった道の先にこんもりとした木立ちがある。
「鉄ちゃん、あこへ隠れろ」
 そして其処の低い笹薮の中に飛び込んだ。そんな事には気付かずに三人は前を向いて後を追って来る。やがて目の前を通過した。
「鉄!行け!」
 言われた鉄が背後から道に飛び出した。
「ウゥー」と唸り声を上げた。そして「グワーン」と叫ぶや一人に飛び掛ろうとした。
「ウワー、助けてくれ〜!」
 更に後の二人も其れを見て一斉に走って逃げ出した。
 人間が狼犬から逃げ遂せる訳がない。一気に前に回り込まれてしまった。
「其れを見ていた大殿様は可笑しいやら嬉しいやら
「鉄!もう辞めい。もう苛めてやるな!」
 鉄は追って来る三人が城から付けて来ているのをとっくに気付いていた。襲撃犯ではないのを見抜いていたのである。
「鉄、こっちへ来い!」
 と声を掛けると大殿様の横にピタッとくっ付き座っている。奴等を見ると道にへたり込んでいるではないか。
「お前等、どしたんなら、家老に言われたんか」
「それにしちゃ、お前等、だらしがないのう」
「・・・」「・・・」
「まぁええ、今の事は家老に告げ口はせんからこっから即ぐに帰れ。ワシも高杉に寄ったら早う帰るからそう言うとけ」
 お殿様から命令された三人は肩を落としてすごすごと帰って行った。
「然し、鉄ちゃんもラーちゃんもほんま凄い忍者じゃのう。人間が何人掛かって来ても敵わんで」
 と云いながら頭を優しく撫でている。鉄、ラー助にとって此れが一番嬉しいのだ。
 やがて歩いていると鳥居が見えて来た。この高杉城は山城ではなくほぼ平地に立っている。其れに入り口が神社の様な作りになっている。
 お殿様は一礼して中に一歩踏み込んだ。すると脇から呼び止められた。
「オイ!一寸待て。ワレは何者なら顔を見せい」
 全く頰被りをしているのを忘れていたお殿様は慌てて手拭いをとった。
「アッ、三吉のお殿様、此れは大変、失礼致しました。申し訳け御座いません」
「よいよい、ワシが悪かった、気にすな。中に入いるぞ」
 案内をされ中に入ると参道の奥に小さな城郭があった。
 手前の一角に先祖代々の墓がある。お殿様は其の前に佇んで
「すまんのう。急に来てしもうて、何のお供え物を持参せなんだよ」
 手を合わせ拝んでいる時に奥の方から家来と共に城主がやって来た。
「此れは此れは三吉のお殿様、急なお越しで何用で御座いましょうか」
「イヤァ、済まん済まん。大した用もないのに一人で来てしもうたよ」
「何という!」
「実は一寸、試したい事が有ってな」
「何を試されますんで」
「ハハハ、それはじゃな。今迄は急な用事は早馬を立てとったよな」
「此れが一番早かったですが」
「今日来たの此れよりも断トツに速い方法なんじゃ」
「お殿様、立ち話しも何ですから中へどうぞ」
 と言うとさして広くない中庭を通り屋敷に案内してくれた。
「然し、そんな方法が今時有る訳がないじゃないですか」
「其れがあるんじゃ」
「其れは今連れて来られた犬ですか」
「うんにゃ、鉄じゃないよ。今連れて来ておるのよ」
「まさか、懐の猫では」
「へへへ、猫騙しじゃあるまいしのう。分からんじゃろうて」
「後は空でも飛んで行かない限りは絶対無理ですよ」
「鳩ですか」
「鳩じゃないが其の手よ」
「お殿様、ワシには全然理解が出来ませんが」
「其れをカラスがやってくれるのよ」
「そんな馬鹿な!其のカラスがおらんじゃないですか」
「おお、今呼ぶからよう見とれよ」
 お殿様は懐から笛を取り出すと一気に吹いた。そして立ち上がって戸を開けた途端に「ミヨシドノ、ナニヨウジャ」と飛び込んで来た。
「なんじゃこりゃ、カラスが喋っとる!」
「ワシハラースケジャ」
「どうしたんですかこのカラスは!」
 此れには城主もぶったまげた。
「ハハハ、みんな国久公の物真似で会う度に吹き込んどられるんじゃ。実はな、此のラーちゃんがさっき云うとった事をやってくれるのよ」
「ウ〜ン・・・」
「じゃから今から証拠を見せるから一筆書いてくれんかのう」
「誰に何を書くんですか」
「比叡尾山の家老宛に書いてくれるか」
「して何を書けばよろしいんで」
「あゝ、へのへのもへ字でもええ、其れに今の時刻を書いとってくれんか。最後にワシも一筆付け足しとくから」
「どれくらいで届くか測ってみるんじゃ」
「分かりました、早速にも」
「然し、お殿様は面白い事をされますね」
「其れが済んだら封書の外に赤い小さな布切れでも付けといてくれるか。此れがワシとお主の互いの連絡の絆じゃ」
「何やらさっぱり分かりませんがお指図に従います」
「其れと、今な、此処で鉄、玉、ラー助と仲ようなっとってくれるか。此れが後々に有効に生きて来るから」
 その間、交互に頭や首を撫でてもらい気持ち良さそうにしている。
「其れとな、すまんが此奴に何か食べ物をやってくれんか」
「承知しました。お安い御用で御座います」
 お付きの家来が用意の為に台所に立った間に三吉の殿様は最後に一筆認めた。

 ー ワシは今から帰る。出る時に付けて来るなと言ったが、おまえ等は城を出た時からずっと見張られて、すぐに後を尾けられとったんだぞ。どうせやるんならもっと上手にせんかい。
 じゃがのう、ワシは久し振りに外の空気を吸うたので気分が晴れたよ。今迄はほんま引きこもりっきりじゃたからのう。有難うよ ー

「いや、此れはな、みんな国久公に教わったのよ」
「今からの急な用事は此れでやるからな。その為にはラー助に慣れとってくれるか。常に頭を優しく撫でてやると直ぐに懐くから。其れと一番は食べ物じゃ。とに角、此れが一番大事な事よ。特別ええもんは要りゃせんよ」
「分かりました 」
「祝氏、此れを其方からやってくれるか。そうすると直ぐに慣れるから」
「分かりました。ラーちゃんご苦労じゃったな。褒美じゃお食べ」
「アリガトサン、ホウベ」
「ハハハハハ・・こりゃ面白い。ラーちゃん、ホ、ウ、ビ、じゃよ」
 此の全く変てこりんなラー助の話しぶりに呆れ返っていたが、的を射ているのには両方のお殿様も感心しきりで有った。幾ら頭の良いカラスと云えども、其の潜在能力を引き出す事が如何に難しい事か、とに角、与作殿による訓練所の早期開設を望んでいた。
 今日一緒に 出掛けて来て、目にした鉄の物凄い戦闘能力と脅しの名演技と云い、即刻、命令に従う従順さ、更に人間の何千倍の嗅覚が有ると云う事を、今日は見る事は出来なかったが、非常に有意義な一日で楽しくて仕方なかった。
「お殿様。今日は面白いものを見せて頂き有難う御座いました。其れはそうと昼飯時ですが食って行かれますか」
「有難う。じゃが今はええよ。それよりも早う帰って情報伝達具合を確かめてみたいんじゃ。付いては帰りは馬を貸してくれんかのう」
「其れはお安い御用で御座います」
「オイ!即ぐに鞍を載せて馬の用意をせい」
「祝氏、誠に済まんのう」
「どう致しまして。私も楽しみにしております」
「ヨシャ、ラーちゃん頼むぞ。家老に届けてくれるか」
「ワシニマカセトケ」
「然し、凄いですね」
「そりゃそうと二、三人警護の者を付けましょうか」
「いらん、いらん!物凄い奴が付いとるからな」
「鉄!競争じゃ、行くぞ!」
 すると途端に此の声を聞くとやる気になって来た。
「へへへ、ワシャソラトブニンジャ」
 ラー助は西の空に向かって一気に飛び立つとアッと思うまに見えなくなってしまった。
「然し、又、凄い事ですな。川も急な山坂も関係なしでこりゃ比叡尾山までなんぼも掛かりませんよ」
「世話になったな。馬は明日にも引き取りに来てくれんか」
「分かりました。今日は楽しい思いをさせて頂きました。気を付けてお帰り下さい。然し、其れにしても恐ろしい程強そうな警護が付いておりますな」
「そうじゃろう。十人分以上の警護が付いとる様なもんじゃで鉄は」
「さらばじゃ」
 城門を出るとお殿様の馬と鉄は一気に馬洗川の土手沿いを畠敷を目指して駆け出した。
「何という速さじゃ。其れにしても鉄は凄いのう」
 高杉城主は見送りをしながら、つい本音を漏らし一人ほくそ笑んでいた。
「此れであの辛い比叡尾山登りをラー助のお陰でかなり軽減出来るな」
 八次の集落に駆け戻って来た。
 お殿様は此れから川を渡ってきつい坂道に掛かっていかなければならない。
 今の時期は川の流れも渇水期だ。
 馬に乗っても楽に通れるがちょっと水かさが増すと難儀をする事となる。
「橋を架けるとすぐに流されるしな。民百姓には難渋させて申し訳けないのう」
 こうした優しさが三吉家代々四百年間に渡り十五代続いた所以であろう。特に戦を好まず自分の方から仕掛ける事は無かった。
「然し、ラー助がおってくれると物凄い助かるで」
 と独り事をブツブツ言っている時に鉄が吠え出した。そして懐の玉も「ニャーニャー」鳴き出した。
「ウン、ラーちゃんが来たな」
 とすぐに真正面から飛ん来た。
「おやまぁ、珍しい事で、何時もは忍者の如く何処から現れるか分からんのにな」
 此れも仕事を成し遂げた達成感なので有ろうか。
「ラーちゃん、速いな、もう家老に渡してくれたんか」
「ミヨシドノ、オソイ」
「ハハハ、負けたよ。然し、凄いのう」
「ホ、ウ、べ。ホべ」
「ラーちゃん、ほうびじゃよ。もう一寸待っとれな」
 もう間もなくで城への坂道に突かかってきた。
「此処からは降りて歩いちゃりゃにゃいけんのう。馬が可哀想じゃ。よしゃ、皆んなで登るぞ」
 お殿様も楽しくて苦にならない。
 馬に犬に猫にカラス、そしてお殿様、全く奇妙な取り合わせであった。
 急坂がくねくねとかなり続き崖が迫り出している。先人が敵からの侵入を防ぐのにより難攻不落にする事で意図的に造成したもので有ろう。
 お殿様は過去に何度も何度も登坂を繰り返して来たが其れを一度でも感じることも無かった。ただ、きついだけの山道ばかりと思っていたがこうして楽しく歩いていると、ご先祖さんの工夫が見えて来た。
 五合目辺りまで来た時である。樹々の間から何人か登って行く人間が見えるではないか。
 この時はラー助も一緒にいた。
「ラーちゃん!」と呼びかけ山の上を指差した。一気に飛び立つとすぐに舞い降りて来た。
「テキ、テキ」
「なんじゃ、奴等まだ此処らをうろついとるんかい」
「まぁ怒っちゃるまいのう。ワシらが速いという事よ」
 漸く行くと昼前に合流した地点まで登って来た。
「皆んな此処でええよ。今日はご苦労じゃったのう。ワシも楽しかったよ」
「後は一寸、待っとれな。ほうべを持って来るからな」
 言われた事が分かると鉄はその場にお座りをした。玉もちょこんと並んでいる。
 お殿様は裏木戸から出て来るとお土産を鉄の肩に括り付けてくれた。
「おまえ達、気をつけて帰れよ。又、近いうちに来てくれぇよ」
 大声は出さないが皆んな名残り惜しそうに振り返り振り返り山道を駆け下りて行った。
 お殿様は再び正門より入り直すと、早速、家老が家来と出迎えにやってきた。
「お殿様、速いお着きで御座いますね」
「オゥ、帰りは馬を借りてきたよ。明日にも返しにやってくれんか」
「承知しました。其れにしても殿様、凄い事を考えられましたね。奴等はいましがたヘトヘトになって帰って来ましたがラー助はとっくの昔に「へのへのもへじ」を届けてくれましたよ」
「飛び立った時刻が書いてありましたがほんま瞬きをする間に帰って来ましたよ」
「ほうか、ほうか、空を飛ぶと如何に速いかということよ」
「此れは全ての支城に活用せにゃならんですね」
「其れにしてもラー助も鉄も凄いですね」
「警護に行った奴等、腰を抜かしたと言って帰って来ましたよ」
「怒ってやらないで下さいよ」
「ハハハ、驚かしてすまなんだな。そりゃ誰でも鉄を見たらビビリ捲るで、大きゅうて牙を剥いて向かって来てみい物凄い迫力じゃ」
「此れは早速にも教習所を立ち上げにゃいけませんね」
「そういう事じゃ」
「処でこんな凄い犬とカラスは誰がどうして飼い慣らし躾けているんでしょうかね」
「其れがな、今は薬屋の浅田屋の丁稚奉公人なのよ」
「何ですかそりゃ!」
「じゃがのう、国久公が仰るのには奴はワシの友達でもあり師でもあると仰しゃってな。全く耳を疑ったよ。だが話しを聞くと尤もじゃとワシも思ったよ」
「今迄、誰にも言わず内緒にしとったがこの男には既に苗字帯刀を許しておるのよ」
「なんと言う事を!」
「然しじゃな、家老も薄々知っとるじゃろうが、浅田屋闕所の件も、奥村等が仕出かした刃傷事件の解決にはみな与作殿が関わっておるんじゃで」
「最初、大殿様から聞いた時は耳を疑ったよ」
「物の怪がした事じゃと世間に騒がれた、代官所のお白州への証拠物の品々の落下の件な、あれは与作殿が飼い慣らしておるカラスのラー助の仕業なのよ。其れからあっちこっちに有った証拠の物な、嗅覚が物凄い発達した鉄と玉が集めたものよ」
「そう言えば、事件の途中報告で私が代官に問い詰めると、次席が自信を持って解決すると言いましたが此れだったんですか」
「処で次席と与作殿の関係を知っとるか」
「さぁ、私にはさっぱり分かりません」
「然し、家老は何も知らんのじゃのう」
「そりゃそうでしょうよ。私はずっと籠の中の鳥ですから」
 家老は少々むくれきみになってしまった。
「すまん、すまん、ワシが悪かった」
「ワシが話しとるのは全て国久公からの受け売りでのう」
「次席も与作殿も同じ志和地の出のようじゃ。其れもこっちに出て来るまでは住まいが隣近所同士だったらしいのよ。独り者だった上里は小さな田地のしごうを殆ど与作殿の家族の者に面倒を見て貰っていたらしい。そういう関係で「おっちゃん」「おっちゃん」と懐いてな、教えたかどうかは知らんが、いつのまにか小刀遣いの達人になっていたということよ」
「国久公も立ち会い稽古では分が悪いと言っておられたよ。何せ相手は小刀だぞ」
「其れに学問の方じゃが写経から論語集から全て習得しとるという事じゃ。算盤は暗算の域らしい」
「此れは近くの専正寺の和尚から手解きを受けたようじゃ。長い長い御文章は全て記憶し、浅田屋に奉公に上がる前は伴僧を勤めとったらしいのよ」
「我が藩で孔子の論語集を読みきり理解出来る者がおるか」
「いや、誰も居りません」
「此れも学問所を開設せにゃならんのう」
「仰せの通りで御座います」
「そこでしゃ、家老よ、すまんが浅田屋に行って来てくれんか」
「其れは、お言い付けとあらば如何様にも」
「今から三つ言う事を記しておくから此れを伝えてくれんか。宜しく頼む」
「承知しました」
「其れとな、話は変わるが家老よ」
「他に何用で」
「この間、代官所の次席が教えてくれた事があろうが。何んじゃったかいのう」
「上里の事で」
「そうじゃない、国久公の腰の物じゃ」
「あぁ、備前長船の事で」
「そうじゃ、其れじゃ」
「竹澤屋と今度、何時か機会があれば是非会わせてくれんかのう」
「其れは宜しゅう御座いますがこりゃ又何故に」
「お主は知らんのか」
「竹澤屋は長船の生まれじゃで」
「えぇ、其れは初耳で知りませんでした」
「其れもじゃな、長船四天王と言われる刀鍛冶の倅らしいのよ。其の親達は代々尼子家への献上する銘刀を打っておるらしいのよ」
「今は竹澤屋の婿養子におさまっとるようじゃが、刀を見る目は物凄い慧眼をしとるらしいのよ」
「こりゃ又、凄い男がこの地に来てくれたもんですね」
「早速にも呼んでみましょう」
「うん、今は代官所の次席の元、大いに協力してくれとる様じゃけ一緒に頼む」
「分かりました」
「ワシも長船を手にしたいもんじゃ」
「其れはもう是非共に」
「何せ、ワシより先に銘刀を与作殿が手にしとるでのう」
「其れこそどういう事ですか」
「国久公より苗字帯刀を許された時、腰の小刀を直接その場で授かり御守りで持っといてくれと言われたようなんじゃ」
「国久公は何度も命を助けられてな。其れにこっちに来られた時は毎度の如く剣術の対戦相手らしいんじゃ」
「其の時には必ず小刀で対峙するという事で、後は御守りで持っといてくれと手渡たされたようなんじゃ」
「処で話しゃ変わるがな、国久公がかなり頻繁にこの地を訪れられとるが、いよいよ機が熟したんじゃないかと思われるのよ」
「今は國中が戦国の乱世で各地で群雄割拠しとる状態よのう。ワシの処も今は尼子勢に組みしとる状態じゃ。じゃが戦況によっては今後どうなるか分からん。何せ毛利の本拠郡山城とは目と鼻の近さからじゃのう」
「近々、互いが一戦をまみえるやもしれん。勝つのはどっちかワシには全く分からん。ワシとしては前戦にあまり加わらず今迄通り対峙する毛利勢との最前線陣地としての防御の役目をするつもりじゃ。ワシの性分としては合戦は全く嫌いじゃ。互いに犠牲者は出したくないのよ」
「と申されましても・・・」
「尼子の軍勢が今年中には出雲方面から大軍を率いて南下させる様じゃで」
「まぁ、こっちの方はこれくらいじゃ。後は他でもない浅田屋の事じゃ」
「この間の闕所の事で」
「其れもある。国久公が命を何度も助けられたのは浅田屋と与作殿のお陰じゃと申され大変な借りがあると仰ってな。今迄一度も名乗らずにいたのは礼を失する。ワシが直接顔を出すのが筋じゃが今は叶わぬ故に宜しく頼むといわれてな。礼状の書簡を預かっておる。其れと与作殿を育ててくれたお寺さんにも感謝状が認めて有るのよ。皆一緒に届けてくれるか。宜しく頼む」
「分かりました」
「ワシとしては浅田屋に終身御用達の看板を授けたいんじゃ」
「其れは浅田屋も喜ぶでしょう」
「又、国久公はな、中身は何か分からんがお礼の物を授けたいとワシに託されておるんじゃ」
「分かりました。明日に浅田屋に顔を出してみますから」
「すまんが宜しゅう頼むぞ」

第11話 犬飼平の合戦

 合戦間近

 与作は、国久公の介添えによる三吉のお殿様との面談により、町人から三次藩士として苗字帯刀を許された身となった。然しながら、はっきりと侍になる事は決断しておらず、猶予期間を頂いており、今もこうして浅田屋の丁稚奉公勤めを許されている。
 だが、三次藩のお殿様から直々嘱望されている限りは、何れ、近いうちに藩士として新たな事に挑戦しなければならない。如何に国久公の引きがあるとはいいながら、与作はそうした事には一切気にもかけない性格で、寧ろ希望を持って挑戦出来る得な性分であった。
 本日も、何時もの様に仕事の最中にラー助の伝達により、お師匠さんからの書状が届いた。
 〜 大将、今日は浅田屋の仕事の様じゃったな。昼過ぎからワシは比叡尾山を出てから、移動は可愛川沿いの街道筋から来たよ。参謀を含めて十人でな。
 じゃから小屋に立ち寄るのが無理じゃったよ。その間もな、ラーちゃんは、城を出た所から常に高い空から眼を光らせておってくれたよ。
 久し振りにカラス笛を懐から取り出して吹いたんじゃ。すると、早い事早い事、あっと思う間に肩に止まりおる、ほんま心強いのう。例によって深瀬の野郎共が後をつけ回しょったんじゃ。じゃが何せこっちは十人もおるでのう。其れにな、今日も間道から行くと思うたんじゃろうて。奴等の目論見違いで、結局、途中からの助っ人が増えなんだよ。青河峠辺りで諦めてしもうた。此れも全部な、ラーちゃんが空から知らせてくれるんじゃ。
 話しゃ変わるが大将よ、急に悪いが今晩、仕事が済んでから疲れとろうが城迄来てくれんかのう。大事な用があるのよ。ワシは何時でも起きとるから玉ちゃんと来てくれんか。玉ちゃんなら外から誰にも気付かれず、城の中に入って呼びに来てくれるからな。そしたらワシが外に出て行くから。
 ワシは明日から何処へ出向くか分からんのじゃ。宜しく頼む 〜

 与作は庭先で大八車への荷積みを手伝っている時、ラー助が上空から舞い降りて屋根の上に止まると、キョロキョロ辺りを見渡しながら小さく「カァ、カァ」鳴くと目が合った。
 与作は小便に行くふりをしながら其の場を離れて
「どうした、ラーちゃんよ。お師匠さんに会うたんか」
「オトウサン、ガミ」
「おおそうか、有難うな」
「ナンノナンノ」
「一寸、待っとれよ返事を書くから。然し、ラーちゃんはお師匠さんが何処に居られても、視力と勘がええから見つけるんじゃな」
「へへへへ」
 連絡を受けた与作は、今日は仕事を早めに切り上げて帰るつもりで準備を始めていた。
 そして奥の部屋で算盤を弾いていた主人に向かい
「旦那さん、今日は一寸、野暮用が有りまして此れで失礼させて頂いて宜しいでしょうか」
「そうかそうか、ええで。アリャ、終わりの時間がとうに過ぎとるじゃないか、ご苦労じゃったな」
 ところが木戸を開けて帰ろうとした途端、何時もの可愛げのない手代が、ワザと主人に聞こえる様に配達の用事を押しつけて来たではないか。
「おい!与作、今から粟屋の庄屋のとこへ薬を届けて来いや。急用じゃ言うとるけ即ぐ行けや!」 
「すみません、今日は緊急の用事が有りましてお先に失礼します」
 と有無を言わせず店を飛び出した。主人は奥で苦笑いをしている。
「あの野郎!」
 手代の一声を聞いて器の違いを感じ取っていた。
 与作は背後から罵声を浴びながら、鉄の待つ別荘へ駆け出した。
 普段より大分、手前で犬笛を吹いていたので民家の近く迄迎えに来ていた。
「鉄ちゃん、早いのう」
 後は鉄との競走で小屋を目指して駆け出した。
 鉄はとに角嬉しくて堪らない。互いが後先になりながら急な山坂も何のその、一気に小屋近く迄立ち帰って来た。
 すると玉ちゃんが眠そうな目をしながら迎えに外に出て来た。臭いと足音で気付き
「オゥ、玉ちゃん、今からお師匠さんに会いに行くぞ」
 その掛け声を聞き、途端に「ニャァ、ニャァ」大喜びをしている。与作は風呂敷包を入り口に放り投げると、その足で鉄と玉で一気に城へ向けて下り坂を転げる様に走り出した。ラー助は外が真っ暗闇になっており留守番においてきた。
 城の近くに来ると、与作は鉄と其の場に立ち止まり
「玉ちゃん、お師匠さんの所へ行って呼んできてくれるか」
 玉にはすぐに分かる。
「アイヨッ!」
 という感じであっと思う間に、木戸の隙間から城の中に入って行った。
 暗闇の中、鉄と与作はジッとその場で待っていた。暫くすると裏木戸からお師匠さんが両手に小包を抱え、懐からは玉が嬉しそうに顔だけ覗かせて出て来た。
 今度は鉄が大喜びだ。だが声は一切発しない。
「オゥオゥ、皆よう来てくれたのう。ワシゃ嬉しいよ」
 頭や喉元を撫でられ甘えまくっている。そして何時ものお土産を鉄の肩に括りつけてくれた。
「大将よ、愈々、ワシもやるべき事をやらにゃならん様になってきたよ。何れは永の別れになるやもしれん。ワシは本当に皆んなと別 れるのが辛いんじゃ。ワシはこっちに来る度に布団の中で泣いとるのよ」
「辛い事じゃがワシのやむを得ぬ定めじゃ」
「お察し致します」
「其処でじゃ。最後のお願いがある。陣を張る事になる八幡山城に医薬品を調達してくれんか。大八車へ何台分あるか分からんが宜しく頼む。今、おおよその数量は書いとるから其れでやってくれんか」
「分かりました」
 話しは早くに済んでしまい、暫く戯れ合っていたが城へ来てから即ぐの別れに、鉄も玉も名残り惜しそうにしている。
 特に、玉は柄は細いがお師匠さんを看病して以来、我が子の様に思っており「ニャン、ニャ〜ン」泣きまくるではないか。
「玉ちゃんよ、寂しいじゃろうが堪えてくれよ」
 お師匠さんの優しい声掛けに、与作も互いを引き離す辛さに涙が頬を伝って落ちた。

 翌朝、何時もと変わらぬ時間に与作は店に到着した。
「さぁ、今日も頑張るぞ」
 と前の道を掃き掃除を始め出すと、隣の丁稚が近寄り愚痴をこぼし出した。
「あのなぁ、」
「オウ、話しゃ明日じゃ」
 すると、主人も出て来て「ガタガタ」と音を立てながら玄関戸を開けだした。
「おはようございます」
「やぁ、おはよう」
 与作の事を家老から何もかも知らされた主人は、今までとは違い接し方に苦慮していた。何せ、お殿様から直々の三次藩召し抱えと聞いている。本来ならば迂闊に声もかけられない。
 浅田屋に義理と恩が有ると筋を通してくれた事と、藩との永久御用達のお墨付きまで取り付けてくれたのだ。
 主人は、箒を持って何時もの様に掃き掃除をする、与作の後ろ姿に感謝の念で一杯で有った。
 今朝も各自出動し、開店間際の朝礼が始まると、輪番制の番頭訓示だ。そして軽く身体をほぐす体操を終えると忙しい一日の始まりだ。
 其処へ、いきなり番頭の奇声が店頭に響き渡った。
「旦那さん!大事です!」
「何じゃ朝から騒々しい」
 朝一番、主人は何時もの様に帳場の前に座り、一日の段取りを取るべく支度に取り掛かっていた。
「すみません!与作が、さっき大変な量の薬の注文を受けて来たと言うとります」
「そうか、それでは其の伝票を見せてみい」
 番頭は大慌てで何枚もの書き付けを寄せ集め、主人に手渡すと
「ウ〜ン、こりゃまさしく凄い数じゃのう」
「旦那さん、私は知りませんよ。代金は貰えるんでしょうね。丁稚が仕出かした責任は取りませんよ。他の奉公人も関わりが有りませんから。発注元に、何やら訳くそ分からん花押が有りますよ」
 主人はその確認を取った後、にっこり笑いながら
「ええから、ええから、与作のやる事なら間違いはないよ」
「今日中に品揃えをして、明日、早朝にも注文品をまとめて大八車で指示場所に運び入れてくれるか」
「旦那さん、本気ですか!とに角、私等は知りませんからね」
「じゃかましい!番頭がガチャガチャ抜かすな。もし騙されとったらワシが責任を持つわい」
 主人は其の場でつくづく与作の底知れぬ人間性に感じ入るばかりであった。
 注文伝票を受け取った時に花押にピンと来たのである。
「然し、浅田屋も惜しい人材を無くすのう。美和には悪い事をしたなあ」
 主人は一人寂しく其の場でため息をついていた。
 翌朝早い時間に、昨日、積み込んでいた山盛りの荷物を大八車三台に分けて志和地を目指していた。一台に前後に二人掛かりで荷を引いて行く。
 昨日、主人に散々文句を垂れた、二番番頭のみが空身がらで手伝いもせずに先を歩いて行く。
 与作以外は、何の目的で此れだけの薬を運び入れるのか全く知る由もなかった。
 だが与作には今迄に長い様で短い間、お師匠さんと付き合ってもらっていて以心伝心、物言わぬお師匠さんから手に取る様に心情が分かっていた。漸く機が熟したという事を与作には理解出来たのである。
 此の戦さは元々、安芸国毛利元就が尼子に臣従していたが、其の尼子家当主が亡くなり孫の晴久に変わった為、従属先を山口、周防国の大内氏に寝返った事に起因している。毛利は大内の支援を受け安芸、備後国北部に勢力を拡張していった。此れを怒った晴久は、叔父の新宮党党首である国久公を、征伐に吉田郡山城へ派遣したのであった。
 偵察がてら何度も三次藩を訪れて、志和地八幡山城を最前線基地に、目と鼻の先の距離の毛利軍勢と、雌雄を決する為に集結するのであろう。
 途中、ガタガタ道の為、何度も休憩を取りながら二里半の道を志和地の市場という所まで漸く辿り着いた。  
 目の前に高くはないが急峻な城山が見えてきて、麓の市場橋の側で待っていると、八幡山城からバタバタと足音を立てながら十人程下りて来た。到着の頃合いを見計らって城山の上から見張っいたのだ。その中の一人の侍が
「大将殿はおられますか」
 と声を掛けてきた。
 七人掛りで荷を引いて来た浅田屋の奉公人達は、きょとんとしている。番頭は訳もわからず
「いえ、店主は来ておりませんが」
 大勢駆け付けて来た其の中に、以前に、青河の峠まで馬を引いて来た若侍がいた。他の奉公人には目もくれず、
「あの方だ」
 そして近寄って来て前垂れ姿の与作を見るなり、丁寧に頭を下げてきた。
「あの節は大変失礼致しました」
「とんでも御座いません。こちらこそ」
「本日は大殿様から代金をお預かり致しております」
「お釣りはいらないと言われておられました」
 と言いながら他の若侍が小包を与作に手渡した。
「申し訳け御座いません。大殿様には宜しくお伝え下さい」
「承知致しました」
 早速、荷降ろしを始めると城の下の小屋の中に運び入れた。与作が子供時代からおっちゃんと三次の町に何度も一緒に使いの連れをした時、帰りの荷物を置いていた場所だ。
 大人数であっという間に終了、すると、先ほどの侍が与作の前にやって来て
「ご苦労様でした。後は気を付けてお帰り下さい」
「有難う御座います。皆様にはお手伝い下さり感謝申し上げます」
 互いが挨拶を済ませると、空車を引いて竹薮沿いの板木川側を下って行った。
 今日は立ち寄る事が出来ないが左手に、大きな専正寺の赤い屋根がみえる。
 この時、お寺さんへの感謝の気持ちが込み上げてきた。
「此れ迄育てて頂き有難う御座います」
 手を合わせ心の中でお礼を述べていた。
 なだらかな田んぼ道を、ガラガラと音を立てながら三台の大八車が峠を目指してのんびり進んで行く。
 懐かしい庄屋の大きな屋敷の門の前を通過する時、一瞬、妹のハナか顔を覗かせたと思った。然し、何か他の仕事をしていたのか、よく似た奥様が庭先で作業をしていた。
 そして水車のある田んぼの中の小屋辺りに来た時、一人先を歩く番頭が思い出した様に振り返り
「オイッ、与作!、おまえ、さっきはどしたんじゃ!」
「何でしょうか」
「わりゃ、お侍様から大将殿と呼ばれとったが何でじゃ」
「いや、別に、其れは主人に言われたんじゃないですか」
「其れこそ、帰る時、どのお侍様も皆んな頭を下げとったで」
「なんでなら、お武家様が商人のワシ等に深々と礼をするなど、天地が逆さまになってもあり得ん事じゃ」
「さぁ、何でですかね」
「ワレみたいな読み書きがろくすっぽう出来ん、くそ丁稚にそんな力はありゃせんしのう」
 帰る道中、番頭や他の奉公人達は全く狐につままれた様な状態でポカンとしていた。
 更に、番頭は納入作業を終えて藩士と別れた後、歩きながら貰った代金が異様に重いのに気づいていた。
「釣りはいい」
 と言われたが、納品伝票金額よりもはるかに多そうなのだ。
「なしてなら!何でこんな馬鹿な事があるんじゃ。此処の殿さんは気が狂うたんかいな。此れだけ、買うたら負けてくれぇや、言うのが普通じゃがのう」
 峠に掛かる迄の間に、不思議な事の連続に、番頭は頭を捻りっぱなしであった。
 帰りの青河峠の登り坂は七曲りで、空車でもかなりきつく、皆が汗ダクダクである。其の中で番頭だけは手伝いもせず、御機嫌で知らんぷりをしながら一人先を行く。 
 やがて、てっぺんに到着すると腰が抜けた様にへたり込んでしまった。
 丁度いい場所に広場と雨露を凌げる休憩所が有る。
 更に少し下った先に一軒の茶店が見えてきた。
 店先からいい匂いが漂って来るではないか。
「あ〜疲れたぁ、腹減ったな」
 と一人の若い丁稚が叫ぶと他の奴等も
「これから店へ帰って飯を食おう思うたら何時になるか分かりゃへん。昼飯と晩飯が一緒じゃ」
 後ろの方で不平不満を声高に言うのが聞こえたのか
「おい!おまえ等、あこで飯を食うからな。ひと休憩じゃ」
「えぇ!番頭さん奢ってくれるんですか」
「うんにゃ、貰うた代金が過分に有るけえ何を取っでもええぞ」
「ウワァー、さすが番頭さん!」
 そう言われた手代、丁稚供は大喜びしている。
 番頭は手柄は我一人という様な顔をして得意そうである。だが本当のところは本人が一番空腹だったのだ。 
 昨日、主人に怒鳴られた憂さ晴らしに、やけ酒を飲み過ぎて寝坊をして、朝飯を食っていなかったのだ。その上に、朝一番にまさか自分が志和地まで行かされるとは思ってもみなかった。
「何でわしがこんな遠く迄、来させられんるじゃ」
 本人が一番不満であったが、この際、どうという事はないじゃろうと、半ばやけ気味になった。そして受け取った代金が倍以上あり、釣りはいらないと言われて気が大きくなり、其れに手を付ける気になったのだ。
「まさかこれくらいの飯代の事で旦那さんは文句は言わんじゃろう。ワシが一々、此奴等に奢ってやるほど給金を貰ろうとりゃせんしのう」
 と変に番頭は自分自身で納得していたのである。
 与作はといえば、相変わらず素知らぬ顔で下っ端丁稚に徹していた。
 空腹を満たした手代、丁稚供は 、帰りのなだらかな下り坂を交代交代で引いて行く。ご機嫌で鼻唄混じりで三次の町を目指していた。
 長距離配達を終えて、店に戻ると、番頭が早速事情を伝えると珍しく主人は
「オオゥ、そうかご苦労じゃったのう」
 居合わせた丁稚共は口々に
「有難う御座いました」
 なんのお咎めも無い事に、一人の手代は聞こえない様な小さな声で「明日は大雨が降るでぇ」
 天下の大殿様と関わりのある与作の手前「ご苦労さん」以外、声を荒げる事はなかった。

 犬飼平の合戦

 時に天文九年六月、尼子国久公率いる新宮党の尼子勢は三千の兵を率いて出雲街道を南下して来た。
 総大将、自らが度々偵察に訪れていた、三次藩の志和地八幡山城から可愛川を挟み毛利軍への総攻撃を掛ける為の行軍である。
 出雲街道とは名ばかりで道幅も狭く、多くの武器食料等の搬送に難渋し、その為に思わぬ日程を要していた。
 何せ、中国山脈の山越えで名だたる頓原、赤名峠の難所が控えているのだ。其れでも歩を進めなければならない。
 一行は難所赤穴を超えて布野村に入って来た。此の国境番所の有る布野はかなり広い平坦地があり、其処に昔から番屋に宿屋、商店が立ち並びかなりの賑わいのある宿場町を形成している。
 其処へ半里は続こうかという大群が列をなし入って来たのだ。今迄に見た事もない数で村人達はたまげまくったのであった。
 此れだけの人間を到底収容出来る宿屋が有る訳もなく、村人達は尼子軍の為にありとあらゆる場所を提供してくれた。
 無論、食料の米、味噌、醤油は多めに各住まいの家に、お礼の為置いてきた。
 布野村で一泊した後は小さな山家峠を越えると一里塚が有る。其処で小休憩を取ると程なくで三次の町に入る。
 なだらかな坂を下って来ると西城川に突き当たった。川沿いに道を進むと右手にこんもりした比熊山がある(此の山は、永年、三吉氏が比叡尾山に居城していたが其処を離れて、その後に拠点を此処へ移築している)
 此処等に来ると人家も多く、道行く町民が何事かと行列を遠巻きにして眺めている。
 此の光景をラー助が見逃す筈がない。常に浅田屋上空で与作の動向を気にしており、ましてや最近お師匠さんに会えなくて寂しくて堪らないので、西へ東へと飛びまわっているのだ。
 そんな時、ラー助は町の中心より北の方向に、異様な格好で動く軍団を見つけたではないか。
 勘のいいラー助は即座に分かり一気に飛び立った。
 長い長い行列の上を旋回すると、馬に乗ったお師匠さんを簡単に見つけ出した。
 そして真上から急降下したのだ。
 総大将を挟む様に護衛していた後の侍が
「危ない!」
 と叫んだ瞬間、真っ黒い物体が頭を目掛けて落ちて来た。
 処が総大将の肩にピタッと止まったではないか。
「オシシヨウサン!」
「オウッ、たまげた!ラーちゃんじゃないか。どうして分かったんじゃ」
「オメメアル」
 此れには周りにいた者が皆、びっくりするやら呆気に取られてしまった。
「カラスが大殿様と話しをしとるど!」
「ほんまじゃ、わしも聞いたで」
「ラーちゃん、重いよ」とお師匠さんが声を掛けると
「シミマセン」
 此れには周りの家来達も、大声で歓声をあげながら笑顔が絶えなかった。  
 肩から離れ飛び立ったラー助に
「後は宜しくな」
「ワシニマカセトケ」 
 本当に心強い空飛ぶ忍者である。
 一行は此れから最前線地に陣を張る為、志和地八幡山城へ急ぎ歩を進めた。 
 何せ三千の大所帯だ。城の一箇所に収容出来る訳もなく、急遽、仮住まいを確保しなければならない。此の時期は陽は長いが暗くなっては作業がしにくくなる。
 取り敢えずは屋根だけでもだが、幸い此の時期は夜風に当たっても寒くはなく、布袋に包まり一夜を明かした。
 次の日から、其処ら辺りに有る木々を伐採し、二日掛りで野営をする仮小屋が完成した。
 然し、此方へ出っ張って来てからというもの曇りか雨模様で全く日和が悪いのだ。
 これではどうにも作戦の取りようもない。そして四日目の朝は久しぶりに日差しが眩しい程の天候回復である。
 天守で国久公、城主、参謀との早朝戦略謀議を始めていた。
 ラー助は、お師匠さんが八幡山城に赴いてからは毎日のように顔を覗かせてくれたが、どうにも雨には弱い様でご馳走を頂くと早々に引き上げてしまった。
 然し、今朝はご機嫌で窓枠に顔を覗かせた。
「オシシヨウサン、テキテキギョウサン」
「オオゥ、ラーちゃん今日は早ようからご苦労じゃな。して何を見て来たんじゃ」
「コウリコウリボ、ウマウマ」
「何じゃ、そりゃ。ラーちゃんよう分からんよ」
「コウリ、ウマウマ?」
「さっぱり分からんが」
「誰か理解出来るか」 
 作戦会議に出た全員が首を捻っている。
 するとラー助はジィーとお師匠さんの眼を見つめている。此れが心の奥底まで見透かす様な眼力があるのだ。
「待てよ、確かあれはワシが春先じゃったか明光山に登った時、ラーちゃんが宍戸の五龍に飛んでいってくれた事があったな」
「分かった!大殿、分かりました!それですよ」
 と城主が叫んだ。
「此れは忽ち大事ですよ!」
「オイッ!なんちゅうことなら」
「奴等、絶対に奇襲を掛けて来ますよ」
「其れこそ、どういう事なら!」
 急な此の一声に場に緊張が走った。
「つまりですね、ラー助の見て来た事は、多分、こういう事でしょう」
「宍戸の少数精鋭隊が、五龍の城の川向こうの高林坊前を通り馬通峠を越えると、板木村に入り板木川を下って鬼が城に入るのです。   
 其処からは下道を通らず尾根伝いに此の城の裏山に来る腹づもりです。そして夜陰に乗じて此の上に、二つ三つ有る小屋に火を放つ段取りでしょう。すると犬飼平の見張り所から、此方の慌てふためく様子が手に取る様に分かりますから。そして警備が手薄になった処で可愛川を渡り切り、こっちの陣地に潜伏する段取りでしょう」
「ラーちゃん、でかした!凄い、感謝!感謝!」
「ナンノナンノ。ホオベ、ホウベ」 
「ハハハ、そうじゃった。そうじゃった。褒美を今、即ぐやるぞ」
「処でこっちの段取りじゃがな、今、言った事にまず間違いはないだろう。先ずは奴等の機先を逆に制せにゃいけん」
「此奴等を何処でやっつけりゃ」
「其れは鬼が城が最適地でしょう」
「そうか。其処がええか。どんな地形じゃ」
「其処はですね、板木川が流れ両側が急峻な絶壁で川に沿って小さな道が有ります。奴等は此処を通るしか方法が有りません。
「其れなら待ち伏せし挟み討ちに出来るという事か」
「その通りで」
「こっちも今から行けば十分準備体制が取れるのう。ヨシャ!誰が行ってくれりゃ」
「私がいきます!」
「して手下はなんぼうおるんじゃ」
「五十はおりますが」
「ウン、其れでよかろう。其れなら今からラー助に褒美をやって懐いておけ。そしたら必ず、奴等の頭目の動きを空から見張っておって知らせてくれるから」
「エェ〜、そんな事が出来るんですか」
「ラー助はな、今朝、早くに五龍に飛んで行き、広場で大声で此の作戦を話している様子を木の上からジッと見聞きしとった筈じゃ。必ず頭目の顔を覚えとる」
「然し、信じられませんが」
「じゃがのう、其れを今迄に何遍もやってくれとる」
 その話しの最中もラー助はお師匠さんの近くで毛繕いをしている。
「ラーちゃん、ワシは上山田進次郎じゃ、宜しく頼むよ」
 と言いながら朝飯の残りを目の前に出してくれた。其れをパクつきながら
「マウマウカセトケ」
「ウァ〜、此れは頼もしい!」
 するとお師匠さんが「ラーちゃん、ゆっくり食えや」
 と声を掛けるとその場が一気に和んだのである。
 食べ終えると「イクゾ!」
 途端に南西の方角に飛び立った。
「飛んで行く方角に間違いはないで」

 進次郎一行が取り急ぎ武器を揃えると、馬ではなく全員が速足で鬼が城を目指した。此処からそう遠くないからだ。 
 南に延びる一本道の両側は田植えを終えたばかりの長閑な風景である。 
 そして鬼が城に差し掛かる少し手前の辺りに小さな神社があった。日和も良く、其処の境内で村の世話役ニ、三人が、太鼓や神楽衣装の虫干しをしているではないか。進次郎は急遽、閃いた。
「オイ、誰か太鼓を二つ借りて来てくれんか」
「何に使うんですか」
「今に分かるさ」
「礼は後からすると言うとけ」
 大太鼓は結構重く二人で担ぎ棒に吊って前後で担いでいく。
 現場近くに到着すると各自段取り通りに配置についた。
 とに角、奴等が通るにはこの道しかない。此処へ来る迄に、通行人に誰一人として出合わなかったが其れ程までに寂しい道だ。
 四〜五人、まとまって歩いて来るとどんなに百姓、町人に変装していても宍戸の野郎と即座に判断しうるのだ。
 鬼が城に来ると作戦通り各所に散らばり、待機してから一刻くらい経ったであろうか。
「えらい遅いのう。もうええ加減、現れてもよさそうなもんじゃが」
「そうですね。普通に歩いたら、とっくに下を通過しそうなもんですが」
「うちの殿さんも、国久公の言われる、つまらん事を信用して読みを誤られたかのう」
「オイッ、言葉が過ぎるど!」
「じゃが、カラスのする事などあてにはならんじゃろうが」
「こりゃ完全に無駄足に終わるで」
「だけど途中で休憩がてら飯を食うとも限らんからな、其れとも日暮れに掛けて入ってくるかもしれんで」
「まぁ、もう暫くは様子を見ようや」
「ワシはカラスはどうも好かん!縁起がようないと昔から爺さん、婆さんから何時も言われとったからな」
 夫々の配置場所では、到底、普通には考えられない様な指示命令に「かんかんがくがく」国久公や城主、其れにカラスの悪口を言いたい放題であった。
 だがその時だ。
 谷間の高い上空を一羽のカラスが飛んで来た。
「オイ、嘘や冗談じゃありゃせんど。ありゃラー助で!」
 皆んなの視線が一点に集中した。
「ほんまじゃ!」「ラー助じゃ」
 進次郎は喜び勇んで、お師匠さんから預かった笛を一吹した。スゥーと舞い降りて来ると肩に止まったではないか。
「オオゥ、来てくれたか」
「テキテキ!」
「有難うな、やっぱりじゃな。ラーちゃん、凄い!凄い!」
「カッ、カッ、カッ、カッ、カァ」
「何じゃ」
「今、五回鳴きましたよ」
「ラーちゃん、五人か」
「ホウジャ、モットモジャ」
「こりゃ間違いないぞ」
「有り難うな、ほんま凄いよ。ホラ、褒美だよ」
 と干し肉を口にほうばると、爪に小袋を引っ掛けてその場を飛び去った。
「ええか、ラー助の知らせ通りやって来るぞ、段取り通りに配置につけ!」
「オオゥ!」
 甲立を出てから五人の密偵共は、城主の読み通り、馬通峠を越えて板木に入り川沿いを下ってきた。互いが付かず離れずさり気なく歩き、全く町人、百姓風情である。
 然し、上空を飛ぶラー助にしてみれば何もかもお見通しなのだ。
「へへへ、ボクノメカラニゲラレマセンヨ」
 と言わんばかりある。
 やがて五人は緊張感も無く、人家が全く無いなだらかな下り坂を談笑しながらやって来た。
 二人が稲藁を「おいこ」に背負いながら歩いて来る。其の中には刀を隠しているのだろう。
「オイ、奴等、全く油断しとるで」
 道より一段高い木立の中で、待ち伏せしていた先陣隊の目の下を通過して行く。そして、その先で待ち構えている仲間に挟まれた。
「それぇ、打てえ!」
 突如としてドドドドーン!ドドドドド〜ンと谷間に木霊した。
「オイッ!なんなら?」
 前方から太鼓の音だ。更に一際大きくドドドーン、ドドドド〜ンと続けて鳴り響いた。
「こんな処に神社はなかろうが!」
「こりゃ大変じゃ!引き返せ!」
 と駆けだした。
 すると又、向き直り引き返す方からド、ド、ドドーン!ドドドドーン!
「オイッ、挟まれとるぞ!」
 たちまち、狭い道の両側の方角から、弓矢を持った大勢の武装集団が一気に駆け降りて来て取り囲まれた。
 多勢に無勢、もうなす術もない。
「オイッ!もう逃がれられんぞ、我らが五龍から来た事は分かっとるんど!命は奪らんから武器を捨てて降参せえ!」
「何を言うとるんなら。ワシ等は唯の通行人じゃ」
「オウ、その物言いが百姓、町人の言い種か!」
「志和地に用があって通るのに何が悪いんじゃ」
「屁理屈は抜かすな!お前等、朝早ように出発するのを見られとるんでぇ」
 と押し問答をしている時、上空からカラスが奴等の直ぐ上に飛んで来た。
「テキテキ、ゴリゴリ」
「其れみい!ラー助が全部、見とったのよ」
 此れには相手も、訳くそ分からなくなり完全に動揺し
「駄目じゃ!」
 と叫ぶと、頭目らしき奴が短刀を抜き、自らの首筋に当てかき切った。そして次々と同様に他の奴も、稲藁に挟んで隠していた刀を使い命果ててしまったではないか。
 其れも、あっという間の出来事だ。
 其れを目前で見ていた者達も唯々、呆然と見詰めるのみで、何人も腰砕けになりへたり込んでしまった。
 自分達も何時こういう運命になるとも限らない。これが戦国の乱世に生まれた侍の境涯かと思うと同情せざるを得なかったのだ。
 進次郎は、その呆気ない最期の姿に哀悼の意を表し、全員に深々と黙礼を促した。
「懇ろに弔っちゃれい」
 其の様子を松の木の上から凝視めていたラー助が
「ナマンダブ、ナンマイダ・・」
「何ちゅう事だ!」

 鬼が城の奇襲を防御した国久公は、相変らずの雨空に作戦も立てられず対策に苦慮していた。
「毎日毎日此れでは手の打ちようがないのう」
「今年は例年より長雨の影響で水嵩が全然下がらんのですよ。普段この時期になると浅瀬は楽に歩いて渡られるんです。じゃが今もって此れですから。可愛川のどの辺りでも腰より大分上辺りですからね。其れに流れが速いときております」
「舟で渡ろうにも忽ちなんぼも調達出来んじゃろう。せいぜい三つぐらいのもんじゃろう」
 かなりの軍勢を向こう岸に渡らせるのには、ずぶ濡れになりながら歩いて超えにゃならんで」
「奴等は、水の中の動きの取れないこっちの者達を、高い岸から弓矢で狙い撃ちが出来るぞ」
「岩屋の城の前の川を渡るのはまず無理で。其れから上流岸へは五龍の宍戸が、仰山、こびり付いとるじゃろうから無理じゃ。其処から下は犬飼平の絶壁が邪魔しとるしのう。まさに天然の要塞じゃ」
「秋町から抜けるのは人一人しか通れん険しい道じゃろう」
「そうなんですよ。とに角、この水の流れで向こう岸に行ける箇所が限りられております。甲立から深瀬を下り犬飼平にかけて可愛川が右曲がりに流れており、今おるワシ等側の岸が砂浜の浅瀬で深瀬側が十尺以上の深みになっとります」
「そして、こうして思案しとる間に郡山城から続々と援軍が馳せ参じ五龍城の周りに集結しとると、明光山の見張り所から報告が入っております」
「ウ〜ン、これじゃこっちの軍勢が宝の持ち腐れじゃないか」
「然し、何れにしても向こう側に攻めて行かん限りは話しにならん」
「どう考えても秋町へ渡って其処から犬飼平下の細い道を行くか、其れとも遠回りして犬飼平の北裏手から攻めるしかないだろう」
「然し、此処は全く道は無く急坂の登りで雑木林が生い茂り歩くのもままなりません」
「ウ〜ン、下しかないか」
 「ただ、山田辺りには深瀬が大分集結しとりゃせんか」
「いえ、まだ此処へはまだ来とる様子はないと見張り所から報告が来とります」
「やむを得ん、まず、向こうへ渡らん事にゃ話しにならん」
「舟は何処らへ調達できりゃ」
「今は岩屋城の対面辺りに隠して有ります」
「そうか、それじゃ先ず手始めに其れを使うか。闇夜に乗じて可愛川を横ぎり更に城の下の小さな川を遡り行ける所まで上って舟を隠しておくか」
「危険な手ですが其れでいきますか」
「まさかまさかの喉元攻めで油断しとるじゃろう」
 この作戦には出雲玉造の出で、普段は宍道湖で漁業に携わっている郷士の三人が小舟に乗り込んだ。
 草木も眠る丑三つ刻、長い竹竿を操って静かに漕ぎ出した。少し上流から出たので難なく対岸の岸下に寄せる事が出来、そして上を見上げながら宍戸の警備具合を探っていた。
 とに角、静かで暗い。
 まさか、こんな真夜中に岩屋城の全く喉元に舟で乗り付けるなど予測もしていなかったのであろう。
 一人が崖をよじ登ると草叢の中から道の向こう側を見た。城に通じる階段の下で、かがり火を焚いた側に二人の夜警が居眠りをしながら番をしている。
「オイッ、上にゃ警備が手薄じゃ。番兵の奴は寝とるど。小川の上の方へ着けられそうじゃ」
「よしゃ、分かった」
 その場所から少し左上へ緩やかな水の流れに竿差しながら一人が小声で囁いた。
「然し、ワシ等は何時も合戦になると先陣を切らされるよな。下級武士と舐めくさしゃがってからに、此れじゃ命がなんぼ有っても足りゃせんぞ。どうせこっちで見つかってみぃ、なぶり殺しの目に遭うだけじゃ」
「ほんま、情けない話よ。合戦の度に、いの一番に危ない処へ突撃じゃ。ワシゃもう此れで三度目でぇ。知った者が目の前で何人も死んどる」
「ワシはもう向こう岸には絶対に帰らんからな」
「彼奴は敵前逃亡したと報告してくれてもええから。とに角、この足で田舎へ帰り夜逃げじゃ。どっかの山ん中で女房子供と一緒に自給自足で暮らす事にする。平家の落人と一緒じゃ」
 と小声で言いながら、竿で浅い水の中を漕いでいると舟底が当たり出した。
「オイ、此処らで隠す所がないかのう」
「其の先の柳の下なら何とかなりそうじゃが」
 舟を降りて其処へ押し寄せた。
 城山下の東奥にあたる谷間の小川の側に、農家であろう藁葺き屋根が二、三軒が見える。
 丁度、その時刻である。一軒の玄関戸が開き親子が出て来た。
「お父ちゃん、しっこ!」
 小さな子供が親を起こし外に有る厠へ連れて出た。親子で用足しを済ませていると暗闇の中で光るものが見える。
「お父ちゃん、ホタル」
「オオゥ、今年初めて見るのう」
 親子は暫く小高い中庭から小川に近付き眺めていた。
 其処へ「パシャ、パシャ」と水に棹差す小舟が目の前を通過したではないか。父親は慌てて子供の口に手を当て塞ぎ、其の場でしゃがんでジッとしていた。通り過ぎると慌てて母屋に走り込んだ。
「今時、何事か知らんが舟が上がって来たで。こりゃ大変な事じゃ知らせにゃいけん」
「オイッ、母さんよ、今から城へ行ってくるからな」
 父親はすぐに駆け出した。暗闇の中、提灯も持たず城下の門番の処へ駆け付けた。
「こんばんは」
「オイ、この夜中に何用じゃ」
「大変です!何か分かりませんが先ほど、小舟がうちの前を上がって行きました」
「何!此処の城にゃ舟は有りゃせんぞ」
「一寸、待っとってくれるか」
 と言って石段を一気に駆け上がって行った。
 暫くすると二、三十人が駆け下りて来た。
「そちか、小舟を見たというのは」
「左様で御座います」
「何人おった」
「暗闇ではっきりとは分かりませんが確か三人だと思います」
「そうか、有難う、有難う。すまんが其処へ案内してくれるか」
「承知致しました」
「其れとな、お前等、暗闇で走って逃げられる可能性があるから弓矢を多めに用意しとけよ」
 追手侍等は百姓の後を何も灯りを持たず従って行く。相手に気付かれないように音も立てずにだ。
 そして百姓家の前に来ると
「お侍様、これより上は舟はいけません。その先の柳の下に舟を隠していると思われます」
「こっから上は小川の側を小さな道が続いておりますから」
「オゥ、有難うよ、ようやってくれた。後は危ないから家の中に入っとってくれるか」
 と言いながら、竹の皮に包んだ握り飯を五、六個差し出してくれた。  
 昨夜の晩飯の残り物であろうか。
 でも貰った百姓にしてみれば大変嬉しかったのだ。何しろ米を作る農家にして、白飯を食う事が殆ど出来なかったのだ。何時も粟、稗、良くて麦飯であったから米のむすびに大喜びであった。
 其れから農家から先は音も立てずそろりそろりと川岸に下りて行った。
 三日月の月明かりの中に舟が見えてきた。川面に入って草を被せているではないか。二人いる。もう一人は上で見張りをしているのであろうか。深瀬勢の四、五人が水の中に入って音も立てずに近付いて行く。
 その時だ。一人が水の中の石苔に足を滑らせ「バシャ!」とひっくり返ってしまった。その音を聞いた二人は驚き、急いて水の中から駆け上がり山の中に走り込んでしまった。
「馬鹿野郎!」
 他の追手もまだ先の方へは回り込んでおらず、挟み討ちが出来ず、山の中に逃げられてしまった。
 まず見つけだす事は不可能だ。明かりを一切持ち合わせていないのだ。
 其れから暫くは辺りを見回したが何せ回りは雑木林だ。何の手掛かりを得る事も出来ず、やむ無く退散してしまった。
 翌朝、尼子勢の参謀達が昨夜の舟の一件について吟味しだした。
「オイ、岩屋の下へ付けた舟はどうなっとりゃ」
「ハァ、今のところは何の様子も知らせが無いんですが」
「まさか、とっ捕まったんじゃ有るまいのう」
「其れにしても舟の姿、形が見えんのう。下の方へ流されちゃおらんのか」
「いや、其れならすぐ分かりますから」
「とに角、奴等の知らせを待つ以外に方法がないのです」
「フゥン〜」
 山の中で煙りを上げる段取りではあったのだ。然し、その日は何の知らせも無かった。其れからニ日後の事で有る。岩屋城の前の道を隔てた可愛川の川岸に舟が繋がれていた。
「オイッ、あの舟は三人で乗って渡ったやつじゃろうが」
「確かに、間違い有りません」
「深瀬の野郎等、此れみよがしに見せつけとりゃがる」
「すると皆、遣られたんかのう。道理で何の音沙汰がない筈じゃ」
 然し、実際のところは、どちらの陣営にも生死が分からず、ようとして行方が知れなかった。
 其れが実を言うと、三人のうち、最初に逃げると言ったこの郷士は、舟の現場から追っ手の目を逃がれる為に必死で山中に走り込み、他の二人を構う事なく命からがら抜け出した。暗闇の中、何処の山道をどう逃げ惑っていたのかさっぱり分からなかった。ただ女房、子供に会いたい一心であった。
 其れから何日も何日もかけ人目を避けて宍道湖を目指して山道を奔走したのだ。道中、食べる物とて無く山芋を掘ったり、野苺や農家の軒先きに有った大根、野菜を失敬したり「すまんな」と自責の念にかられながら、洗濯物の着物を盗んだりと懸命であった。山脈を越えてからは戦の事とは一切関係が無くなり.甲冑、刀は放り投げ、今迄の郷士ではなく百姓の田舎歩きの格好になっていた。髭ぼうぼうとなり自分が誰か分からないほどであった。
 そうして逃げ出してから、どれほど経ったかさっぱり分からなかった。とに角、人目を避けながら野宿を続け、道なき道を彷徨った挙句、回り道をしたので有ろう。
 険しい山中の峠に差し掛かった時に眼下に大きな川が流れている。
「おおう、江の川じゃ!」
 そして連なる山並みの先に一段と高い、あの懐かしい三瓶の山が見えてきた。
「オウ!近づいたぞ」
 此処から先は勝手知ったるわが庭の様なものだ。だがまだ距離はある。
 山麓を周って歩いている時に、自分が何で逃げ帰って来たのか、やっと正気を取り戻した。毎度の如く先陣を切らされて突撃命令を受け、カッとなり頭に来ていた自分が敵前逃亡など如何にもまずい。
「こうなりゃ、ほんまにワシの存在を隠して山ん中に逃げ込むか」
 三刀屋の集落まで帰った来た。ここら辺りではまず顔を知った人間に出合う事もないだろう。然し、この近辺には親戚もある。日が暮れかかった頃からぼつぼつ歩きだした。峠から暗闇先に宍道湖が見えてきた。
「いよいよ辿りついたな」
 そして夜半にオンボロ家の玄関戸をドンドンと叩いた。
 女房が眠そうにしながら出て来ると
「どちら様でしょうか」
「オイッ、ワシじゃ。亭主が分からんのか」
「えぇ~、だってぇ」
 大髭面でざんばら髪の百姓姿で誰にも分からないほど変貌していたのだ。
 その声に気付いて子供が出て来ると
「お父ちゃん!」
「おおう、元気にしとったか」
「その顔は、へへへ」
「そりゃええがな、ワシは戰から逃げてきたんじゃ。どうせおっても殺されるだけじゃ.じゃから此処へはおらりゃへんのじゃ」
「そうよね。ウチらが淋しゅうなるだけよね」
「今から百姓になるけぇ皆んなで山ん中へ逃げ隠れじゃ、用意をしてくれるか」
「分かりました。命あっての物種よ、何処へ住んでも飯は食べれるよ」
「然し、お前は度胸が座っとるのう」

 一方、喉元奇襲の作戦が、三日経つても失敗か成功に終わったのか分からず、次の一手を国久公は考えていた。
「仰山、向こうに渡らせるには大分、下からになるな」
「青河峠の手前の瀬谷の辺りからになりますかね」
「川幅は狭いですが流れが急ですから両側から麻縄を渡させて、舟を手繰り寄せんといけんです」
「舟はなんぼ、調達出来りゃ」
「今のところ、二つしか有りません。一つは奴等に取られとりますので」
「よしゃ、其れでいくか。深瀬の野郎等、まだ此処迄は来とらんからな。夜陰に乗じて一気に渡れ!」
 夜も開けきらぬ早朝から、何度も舟の往復を繰りし百人近くを渡すにはかなりの時を要した。
 渡りきると二手に分かれて犬飼平の麓を目指した。可愛川沿いを行く者と、一方は山の麓を駆け上がる道へと進んで行った。
 川沿いを中祖辺りに来た時はもう辺りは明るくなっていた。川岸の土手の上から志和地側を見張りをしている奴等が見えて来た。
 昨夜来、寝ずの番をしていたのであろうか、眼を擦りながら大欠伸を繰り返している。
 かなり近づいて来たがこちらに気付いて居ない。
 二〜三人であろうか。
「ヨッシ、後ろの田ん中から迫れ」
 だが軟らかい田の中を歩く土音に、その中の一人が気付き
「オイッ、尼子じゃ!」
 振り向くと、抜刀し抵抗して来たが取り囲まれてしまい、あっと言う間に討ち取られてしまった。
 あとの二人は土手の上を下の方へ走って逃げた。然し、飛び道具の弓矢には勝てない。此れも一度に四〜五本の矢を浴びてひっくり返り絶命してしまった。
 もう一方は山廻りから山田辺りに入って来た。近辺に藁葺き屋根の農家があっちこっちにある。深瀬の野郎等が見張り番所に使っていたのが土手が見渡せる少し高台にあった。
 まさかこちら側に尼子勢がこの時間に来ているとは思っても見なかったのであろう。刀も差さず全く無防備で談笑しているではないか。 十人もいないであろう。一気に小屋を取り囲まれた。
「コリャ、宍戸の野郎!出て来んかい」
「オオゥ、何事なら」
 開戸を開けて見ると二重にも三重にも武装した尼子勢がいるではないか。
「なんじゃ!此奴等、何時の間に来ゃがった」
「オゥ、とに角、切り開いて突破せい!」
 掛け声だけは勇ましかったが、如何せん敵の数が多すぎる。
 其れこそ瞬く間に斬り殺されてしまった。
 問題はこれからだ。断崖絶壁の難関が待ち構えている。
 何せ、細い道を一人一人しか前に進めない。
 尼子勢の若侍が先陣を切って難所に挑み、ゆっくりと岩肌にしがみつく様にしながら進んで行く。其の様子が対岸の尼子陣営から丸見えなのだ。
 口にこそ出して言わないが全員が「頑張れ!もう少しだぞ」
 間をおいて後を追うように次が挑んで行く。五人くらいであろうか中程迄進んで来た時だ。
 突如、カラスが上空から急降下して来た。そして
「ギヤァ、アブナイ!アブナイ!」
 何とラー助ではないか。
 間も無くして細い道の上から「ガラガラ、ゴロゴロ」と異様な地響きがした途端、無数の岩石が落下して来た。
 深瀬の野郎供が事前に、山肌を削り岩石を集め板囲いをして麻縄で括り、其れを叩っ切り落とす仕組みにしていたのだ。交代で不寝の番をして待ち構えていたのだ。
 此処は花崗岩の硬く脆い地盤で大きな岩石がゴロゴロしている。
 尼子勢は逃げ隠れする所が無く、もろに身体に直撃されてしまった。先頭を行っていた若侍も頭上から直撃され高い所から崖下に落とされ河原の岩に激突し、他の者達も次々と下に叩き落とされてしまった。中には川面に落ちて流される者もいる。
 殆ど全滅の状態であった。
 其の中に怪我はしていたが水の中に直接落ちて流されている若侍がいるではないか。だが重い甲冑を着けているので水に濡れてどうにもならない。
 流れの速い中で両手を上げてもがいている。対岸の河原で見ていた者達も、どうすることも出来ない。
 その時である、竹藪の中から大きな黒い犬か狼か飛び出して来たではないか。暫く河原を走った後、水の中に飛び込んだ。川幅はそう広くない為にあっという間に追い付いた。犬に気づいたその男は無我夢中で近寄り太い尻尾を握りしめた。すると、犬かき泳ぎで力強くグイグイ浅瀬の方に引き寄せていく。犬も若侍も浮き沈みしていたが間もなくして足が川底に着き、水の中で立ち上がったではないか。
 其れを見ていた尼子の軍勢達は、歓声をあげて涙を流しながら駆け寄っていく。
 そして、かなり離れた竹藪の陰から、戦況を見守っていた総大将の国久公が、其れが鉄だと分かると河原に駆け下り砂浜を駆け出した。
「鉄!鉄!」
 泣き叫びながら犬に駆け寄った。
「ウォーン、ウォ〜ン」
「鉄ちゃんも来とってくれたんか。有難うな。よう助けてくれたな」
 びしょ濡れになったのは御構い無しに鉄と一緒に抱きあって泣いている。

 暫くすると、どうに可愛川を渡り切る事がならない状況と判断した国久公は
「オイ!今日はこれ以上は何も出来ん。残念だが引き揚げじゃ」
「後の始末は宜しく頼む」
「分かりました。救護班を残し後の処置は致します」
「陣営は後方に下がります」
  帰ると早速、城主と参謀達を集め
「完全に岩屋攻めの道を塞がれてしもうたで」
「犬飼平を越えきった奴等と、こっち岸から川越した者とで合流して深瀬を攻め込む段取りが完全に狂うてしもうた、二度とこのやり方は通用せんじゃろう」
 翌朝、ラー助がお師匠さんが寝ている枕元の直ぐ上の窓枠に来て
「オシショサン、オハヨ」
「オゥ、ラーちゃんか。昨日は有難うよ」
「ナンノナンノ」
「今日はえらい早いのう」
「テキテキ、ギョウサン」
「何!そりゃ何処じゃ」
 然し、ラー助はその場で何も返事が返ってこなかった。
「フ〜ン、何処かのう」
 何はともあれ、ラー助が見てきたのは間違いなく今朝の事であろう。ラー助の朝は早く、まだ夜が明け切らぬうちから外へ飛び立って行く。
「まぁええ、ラーちゃんよ、朝飯を食っていくか」
「クェクェ、アリガトサン」
 一緒に食べている時だ。階下から城主と韋駄天の政が駆け上がって来た。
「大殿、明光山の見張り場より此奴が報告に来ました」
 この男は心肺機能が非常に強く、城から一里程はある明光山の岩場まで休まず駆け上がって行けるのだ。其の政が大殿の前に来て一言喋ろうとすると、
「仰山、秋町に宍戸勢が集結しとる言うんじゃろうが」
「えっ!何で分かったんですか」
「仰せの通り、昨夜から今朝にかけて、いつの間にか三百人以上が集結致しております」
「してどこをどう通ったか見えたか」
「其れが全く分かりませんでした。昨夜は曇り模様の天気で夜陰に紛れて尾根伝いに犬飼平の見張り所に上がり、其処から奴等だけがが知っている獣道を一気に山田へ駆け下りたもの思われます」
「其れからですね、可愛川を下り瀬谷の川岸に掛けてぎっしり固めております」
「そうか、朝早ようから報告ご苦労じゃたのう。暫く休んでから、又、様子を知らせてくれや」
「有難う御座います」
「宍戸の奴等、向こう岸へは絶対に渡らさん腹積りの様じゃのう」
「どんどん援軍が増えようる」
「然し、其れ以上に難儀なのは水嵩が一向に減らん事じゃ」
「此ればかりどうにもなりません」
 其れから暫くの間、膠着状態であったが如何せん長い梅雨空が続いている。
 更に志和地八幡山城に陣を張って半ばの頃、尼子軍勢はとんでもないものに襲われた。
 毛利軍の奇襲でも何でもない。ひと足早い野分き(台風)に襲撃されたのだ。その日は夕方ぐらいから徐々に風の勢いが増し、夜中にかけて猛烈な暴風雨に見舞われだした。仮の掘っ立て小屋を建て、何千人が野宿の様に起居していたのだが、屋根は吹き飛ばされ柱もズタズタに壊されてしまった。
 朝見ると殆ど吹き飛ばされているではないか。基礎がない為にグチャグチャに建物が壊され其処ら中に散らばっている。それこそ修復するどころではない。
 その光景を天守から見た時、あまりもの惨状に戦さに負けた以上の衝撃であった。風雨にさらされ誰も一睡もしていない。皆びしょ濡れのままで大勢の風邪引きが発生していた。
 この状態であれば即座に復旧はままならない。
 急遽、 城主以下、忽ちの雨宿りを確保する為に近在の民百姓の家へお願いに走った。庄屋からお寺さん、大地主の大きな家へ兵糧米と味噌と醤油を持参して交渉にあたったのである。お寺さんになると一畳に四人ざこ寝状態で何百人も詰め込み、幸いな事は、この時期は布団もいらないので大いに助かった。他にも民家や納屋の中へ殆ど収容することが出来た。
 然し、此れとて、毛利軍としても同様であった。最前線基地の深瀬岩屋城辺りも援軍が到着しており同じ目に遭っているのだ。
 だが野分きに不平不満を言った処で詮無い事であり、晴れの日に集中して復旧に取り組んだ。
 そして三日目にどうにか壁の無い屋根だけの小屋が出来上がったのである。
 処が、其れからも降ったりやんだりの天候が何日も続いた。
 もう此れだけでも戦意喪失状態であった。その後も膠着が続き両軍が睨みあったままであった。
 如何せん可愛川の水位が下がらない。
 此れでは何時まで経っても作戦の立てようも無い。気分が滅入るばかりでとうとう戦闘意欲も萎えてしまった。
 悪天候にはどんな手も打ちようが無く、それに肝心の兵糧米も尽き掛けている。
 人の数だけではどうにも勝てない。睨みあいの持久戦、それに長雨と暴風雨に萎えた気持ちと、如何ともし難い可愛川の大きな弊害に国久公は全く弱気になってしまった。
 吉田郡山城を攻略するどころか、川一つ隔てた五龍城へも届かない。
 国久公はとうとうワシの判断では如何ともし難いと、戦さや侍のする事には関係のない町人の与作に最後の決断を仰いだのである。

 〜 与作殿、ワシのする事、為す事、決断に万策尽きてしもうた。関係のない事に引き込み申し訳ないが最後に一つだけ与作殿の教えを乞いたいのじゃ 〜

「オトウサンガミガミ」

 〜 心中、お察し申し上げます。この天候ゆえ如何ともし難いと存じます。
 其処で米俵十俵を試しに上流から流してみて下さい。詳細は後にラーちゃんが又、知らせます。其れで最終判断を下されては如何でしょうか 〜

 こんな短い短文も、ラー助は喜んでお師匠さんの元へ一気に届けてくれる。
「何かいのう、ワシにはさっぱり見当がつかんで。まぁ言われた通りにやってみるよ」
 お師匠さんは与作の指示通り、家来に命じ次の日、川立部落の庄屋に頼み込みに走った。
 早朝、小雨の中、蓑を着け二人連れで来た侍がいきなり切り出した。
「朝早ようからすまんのう」
「何と、雨の中、ご苦労様で御座います」
「ちょっとした作戦があってのう。協力してくれんか」
「お安い御用で御座います」
「すまんすまん」
「してどうすれば」
「米俵十俵を調達してくれんか」
「其れは宜しゅう御座います。じゃが今此処でいきなり急に言われましても」
「実はな、其れを即ぐに可愛川に流してもらいたいんじゃ」
 庄屋は、たまげて聞き返した。
「何ですか!米俵を十俵も川に流すなど気狂い沙汰ですか。この時期そんな余裕は全く有りませんよ。いくら何でも其ればかりは協力出来ません」
「心配すな、大丈夫じゃ迷惑は掛けん」
 一人が庄屋にヒソヒソと耳打ちをした。すると途端にニコッと笑みを浮かべ
「そうですか、早速始めます。昼迄には詰め込めるでしょう」
 庄屋はすぐに近くの百姓を呼び集め段取りをつけ出した。
 この時間には雨も上がっている。
 詰め終えた米俵を肩に担いで、可愛川の支流で川立から流れ込む小川まで持って来た。
「いやぁ、朝からご苦労さんじゃったのう」
「えらい軽い俵ですが何の為に使われるんですかね」
「ハハハ、ワシ等もとんと分からん」
「まぁ、とに角やってみてくれるか」
「承知しました」
 向こう岸の宍戸勢に見られない様に、竹藪の陰から米俵を一つ一つ間隔をあけながら百姓達が順に流したのである。米俵といっても実は中身は米ではなく、籾殻が詰めて有りプカプカ浮く様になっていた。
 甲立五龍城と岩屋城の中間辺りである。本流に合流してゆっくりと流れ出した。
 暫くすると、列をなして浮いているのを、向う岸から見張りをしていた毛利の番兵が見つけ、大声で叫び他の奴を呼んだのだ。
「オ〜イ、一寸、来い! 米俵が仰山流れとるぞ」
 その声を聞いた途端にぞろぞろと他の者が出て来るではないか。
「勿体ない、早う岸に寄せて拾えや」
「誰か、竿を持って来い!」
 流れて行くうちの一俵を漸く手繰り寄せた。後は下流に流れてしまった。其れを追っかけながら
「お〜い、大事じゃ出て来い!」
 其の声に何事かと土手の上に続々と出て来るではないか。
 対岸の尼子側からは全然見えなかったが、宍戸勢は岸の直ぐ傍に塹壕(ざんごう)を掘り隠れていたのだ。
 偵察に来ていた尼子の家来はたまげまくった。
「何と、凄い人数が隠れとりゃがる」
 米俵が流されるに従って一俵、二俵と引き上げられていく。其れに従って人の波が出入りするのだ。其れを上流から下流に掛けて散らばって見ていた尼子の参謀達は、総大将の国久公に八幡山城へ早馬で報告に走った。
「大殿様、可愛川を向こう岸に渡るのは先ず無理で御座います」
「どうしてじゃ!」
「凄い人数が土手や岸の下の塹壕に隠れて居ります」
「ウ〜ン、そういう事か」
「分かった。これ以上、犠牲者を増やす訳にはいかん」
 国久公はその場で即座に決断をした。
「ラーちゃんはおらんかいのう」
 窓の外を見てもこの近くにはいない様だ。
「何処へ飛んで行ったか、一寸、呼んで見るか」
 久し振りにカラス笛を懐から取り出してひと吹きすると、早い事速い事
「オシショウサン、ナニヨウジヤ」
「今即ぐに大将に届けてくれんか」
「マカセトケ」
 〜 大将よ、有難うな。米俵の意味がよう分かったよ。此れじゃとてもじゃないが向こう岸すら渡れんよ。然し、ワシらの頭で以っては到底浮かばん発想じゃ。貴重な扶持米を流すなど及びも付かん考えじゃ 〜

「ラーちゃんよ、此れを宜しく頼む」
「アイヨ」

「此れじゃ何時まで経っても決着はつかん」
 と判断した国久公は意を決したのである。
 急遽、八幡山城の天守閣に城主を始め参謀達を集めた。
「中村氏、其れに皆の者、ワシはこの戦さから撤退する事を決心した。この天候故に何時までも待ってはおられん。野分きにも遭い村の皆の者達へも大変迷惑をお掛けした。兎にも角にも、可愛川を超える手段がないのじゃ。この通りお詫びし、又、礼を述べさせてもらう」
 と言い深々と全員の前で頭を下げた。そして一言発し
「引き揚げじゃ」
 国久公は与作に其れこそ最後の書簡をラー助に託したのである。

 与作殿へ

 ワシは己れの運命を恨んでおるよ。
 もう大将達とは二度と、この世では会えんかも知れません。
 ワシの人生の中で大将、鉄、玉、ラー助との触れ合いが走馬灯の様に蘇ってくるのです。
 とに角、充実して一番人間らしく素直な自分である事が出来ました。
 産まれて此の方五十前のどっちが師か分からん様なワシを、自分の危険を顧みず、何度も命を救って貰い、ほんまにほんまに感謝の念で一杯です。
 まだまだ若い与作殿には此れからの世の中に貢献して頂きたく、幸多からん事を願い筆を置きます。
  有り難う御座いました

 尼子軍勢が三次の地を離れたのは暑い盛りであった。帰りの行軍は疲れ果て、何をしに遠く安芸、備後の山奥まで行ったのか、成果も無く帰る程辛い事は無い。おまけに酷い野分に遭い、風邪の為に体調不良者が多くおり、帰りの赤穴、頓原の峠越えの山坂道を難渋していた。とに角、出雲地方の自分の故郷に帰りたい一心であった。
 三刀屋、木次辺り迄帰って来ると行軍がバラバラになり出した。
 古くから存在している出雲風土記にも出て来る、近在各地からの兵士がかき集められた為である。新宮党は此の西出雲に所領を有し、尼子陣営の中でも大きな発言権と戦力を持っていたのである。
 そして、宍道湖が正面に見える位置迄帰って来ると
 戦地に赴いた皆んなが一様に安堵の表情を浮かべている。
 何時も見慣れた波穏やかな風景だ。沖には何隻もの小舟が浮かんでいる。
 此の湖は水深が浅く、シジミや小魚を獲る漁業を生業としているのだ。
 可愛川で小舟に乗って、真っ先に戦死したと思われた行方不明者三人のうちの一人の住まいも湖岸の近くにある。
 真っ先に逃亡を図った郷士と、同じ戦場に出向いたこの地区の知り合いの侍が、名誉の戦死の報告にその家を訪ねた。
 ところが此れと相前後してこの郷士は、前日にこっそりと逃げ隠れしながら帰宅していたのだ。
 突然の来訪者には家族が驚いた。まさか旦那が真夜中に逃げ帰った次の日の朝、家に戦死の報告に来るとは思いもしなかったのだ。
 一番たまげたのは逃げ伸びてきた本人で、慌てて押し入れに隠れて報告を聞いていた。応対に出ていた妻は
「エェ〜、勝利の凱旋ではなくて、うちの旦那は亡くなったんですか」
「うん、先陣を切っての天晴れな大活躍で、大殿も誉めておられたが残念な事であったよ」
 話しを聞きながら、オイオイ泣き叫び、取り乱した素ぶりをするではないか。
 女房も上手いものである。
 こっそり帰って来た本人が、家の中に居るとは知る由も無く、慰みの声を掛けると、小包らしきものを置いて早々に帰って行った。なにがしかの金子が入っていたのであろう。
 使者が帰った後に
「お父さん、あれでえかった?」
「オオゥ、上等じゃ、何が天晴れじゃ!殿が褒めたじゃとぅ!大嘘を抜かしゃがってからに」
「ワシャこの藩に何の未練もありゃへんわい」
「どうせ死んでも死に損じゃ、何もくりゃせん」
「後はワシの存在さえ隠しときゃ、名誉の戦死のままじゃ。女房子供と何処へ逃げても何のわだかまりもありゃせん」
 実際に其れから二日後、女房子供達家族が夜逃げの如く全員居なくなった。
 その後の親子の存在は、何処にも誰にも確認される事が無かったのである。
 おそらく、山深い所に目立たないように隠れ住む為に、郷士の立場を棄てたものであろう。
 この戦国乱世の時代には往々にしてよくある事であった。源平合戦に敗れた、平家の敗残兵達は落人として全国に散らばったが、以降も合戦の度に、同じ様な境遇の人間同志が、山深い場所に目立たないように隠れ住み、集落を形成し、先祖代々累ねる事に、何時の間にか小さな村となったのであろう。
 とに角、何処でも住めば都である。
 他の逃げた二人も、とっ捕まったか、あるいは雲隠れしたか行方が誰にも分からず、多分、同じ事をしたのであろう。

 この犬飼平の合戦は天の采配にも恵まれず、止む無く引き揚げる事となった。だが決着が付いた訳でも無い。其れから又、間も無くして尼子晴久当主自ら三万の大軍を率いて、直接、吉田郡山城を北部から攻撃する事になるのである。
 とに角、三次藩としてはホッとしていた。三次の町も八幡山城にしても何の被害も無く、ましてや、藩士に誰一人として犠牲者がいなかった。心優しき三吉のお殿様にしてみれば、此れが一番の喜びである。
 難儀な事が過ぎ去ってからは、三次の町に平穏な日々が戻り、合戦での狼犬の鉄やカラスのラー助の活躍が巷の話題で持ちきりであった。
 三吉のお殿様が面白半分で命名した、三次藩お抱え忍者第一号は、当時、世間からかなりの批判を浴びたが、今回の活躍で一遍に評価を高めたのである。
 早速、町の噂話を聞き付けた家来供から、この情報を知った家老が城中で
「お殿様、この度の鉄やラー助の活躍で、三次藩の評判がグンと高まりましたね」
「ほう、そりゃどうした事なら、とんと分からんがのう。何しろ家老同様にワシは籠の中の鳥じゃからのう。ハハハ」
「皮肉は言わんといて下さいよ」
「其れはですね、犬飼平での事です」
「其れでどうした、早う言えや」
 お殿様は膝を乗り出して興味津々
「尼子の若い衆たちがですね、岩屋城攻めの為、犬飼平の断崖絶壁の細い道を進んどる時、深瀬の野郎等の仕組んだ岩石落としの罠にはまり、数名が可愛川に叩き落とされたようです。下は岩だらけで殆ど絶命したらしいんですが、一人が川に直接落ちて流されたようです。足を岩石に直撃され負傷し、其れに水の中で重い甲冑をつけており、両手をバタつかせながら溺れて流されていたそうです。こちら側で見ていた者等も、眺めるだけで手助けする事も出来ませんでした。
 其れを何処からともなくですね、大きな犬か狼かが出て来て河原を走り乍ら追い付くと、水の中に飛び込んだそうです。即ぐに其奴の側に泳ぎ着くと大きな尻尾を捕まえさせ、浅瀬の岸に得意の犬かきで引き寄せたようです。とに角、両方とも必死です」
「溺れるものは藁をもでなく尻尾ですわ」
「そんなこたぁどうでもえぇ」
「そしてかなり下の方で水中で其奴が水底に足が着きスクッと立った時、オウ〜、やった〜やったぞ!其れを見ていた者達が口々に大声を出し、涙を流しながら感激したそうです」 
「そこへ竹藪の直ぐ横に陣幕を張り、中にいた総大将の国久公が歓声に気付き、何事なら!と飛び出し、離れた場所から見ていて、それが鉄だと気付くと、一気に川岸を走りながら近付いたそうです。そして
「鉄!鉄!」「ウォ〜ン、ウォ〜ン」
 と呼びながら駆け寄り、互いに抱き合って泣き叫んでいた様で御座います。此れを見ていた全員が感激しない訳が有りません」
「ウ〜ン、ワシも泣けてくるわ」
 と叫びながらお殿様の目から大粒の涙が溢れ出てきた。
「 鉄ちゃん 、ようやった!」
「そうか、そうか。そうじゃったか。ワシもその場で見てみたかったのう」
「ウン!家老の講釈師、話しが上手いのう!」
「何をご冗談を、ほんまの事を言うたまでですわ。其れにラー助はですね、国久公の処へ毎日の様に姿を現しては、敵の空からの偵察に大活躍をしてくれとる様です」
「なんちゅうてもラーちゃんは空飛ぶ忍者じゃからのう」
「それみいや、家老よ、ワシのした事が間違ってはおらなんだろうが」
「左様でございます。恐れ入りました」
「然し、出来るだけ早ように与作殿には出仕してもらいたいもんじゃで。ワシャ楽しみにしとるんじゃ。鉄とラー助に尻を突いて貰わんとな」
「ラーちゃんに督促状を持たせいや」
「そんな無茶を言われても」
「それにな、ワシは・・」
「殿様、分かっております。又、一人で出掛け様と思っておられるんでしょう。其れは駄目ですよ」
「分かったよ、其れなら前と同じ様に離れてから来てくれるか」
「殿様の楽しみを奪ってはいけませんから宜しゅう御座います」
「然しな、ほんま鉄、ラー助は凄いで」
 お殿様は家老と籠の鳥同士の城中での会話が楽しくて仕方なかった。
 だが此れらの狼犬やカラスを飼い慣らしている与作が世間に知られる事は殆ど無かった。合戦での活躍で、一躍、世間に知れ渡ったがその時でも飼い主の与作の存在を知る人はほんの一握りの人達で、国久公と三吉のお殿様と家老、其れと「おっちゃん」の代官所の次席だけであった。
 然し、此れだけ騒がれても与作は決して表に出る事はなく、正しく忍者一家たる所以である。

第12話 新たなる旅立

「オイッ、母さん、美和よ、浅田屋も大変な事になったでぇ」
「何でですか」
「うちがなぁ、この間、御家老様から内示を貰っとったんじゃが、三吉の殿様から終身藩御用達の金看板を頂戴したでぇ」
「ええ〜、そりゃほんまですか」
「其れもお殿様の直筆じゃ」
「嘘でしょう」
「何を言うとる。嘘や冗談でこんな事が言えるか」
「でもつい最近迄は闕所扱いされとったのにね」
「ほいでな、国久公とお殿様より超過分な礼金と見舞金を仏壇に供えてあるで」
「早速にも掲げるか」 
「母さん、美和よ・・・」
 主人は感極まって声に詰まった。
「どしたん、お父さん」
 美和の一声に、皆んなが顔をぐちゃぐちゃにしながら一斉に泣き出した。
「お父さん!美和ちゃん!」「お母さん!」
 暫く間をおいてから母親が
「今日は仕事を早めに切り上げて、内々だけのお祝いを奉公人達と一緒にしましょうよ」
「分かった。是非お前さん達で段取りを頼むよ」
「任しといてよ。ねぇ美和ちゃん」
「腕によりをかけて作るぞ、イェィ〜」

 翌朝、与作は何時もの様に店に入ると、掃除道具を持って出て前の道を掃きだすと、例の如く隣り近所の丁稚共が箒を持って近づき雑談を始め出した。
 其処へ主人がガラガラと玄関戸を開けだすと、蜘蛛の子を散らす様に各店に走りこんだ。
「おはようございます」
「やぁ、おはよう」
「与作よ、今から看板を取り付けようと思うんじゃが手伝ってくれるか」
 其処へ奥様と美和が細長い看板を抱えて出て来た。
 昨日のお祝いの席で、浅田屋主人は奉公人達の前で金看板をお殿様より頂戴した事を披露した。
 そして此れは、各自一人一人の努力の賜物ですとお礼の一時金を配ったのである。
 此れには季節外れの臨時報奨金に皆大喜びであった。
「与作さん、おはよう」
「奥様、昨日はご馳走になりました。礼金までも頂き有り難う御座います」
 脚立を掛けて浅田屋薬種問屋の看板の横に取り付け終わると、浅田屋親子は其れに手を合わせ
「有り難い事で」
「ほんに感謝致しております」
 誰に言うともなく長く頭を垂れていた。
 其処へ先般、脅迫状の紙を拾って届けた呉服屋の店主が目ざとく見つけると近寄って来た。
「おはよう御座います。お揃いで早ようから何事で」
 まさかこんなに早くに店先に出て来るとは思わず、躊躇っていると
「おやまぁ、何の金看板で」
「はぁ、一寸した事で」
「何々、終身御用達!こりゃ凄い看板じゃないですか」
 そして、呉服屋は羨ましさもあって皮肉混じりに
「然し、なしてこんな事に。其れにしても浅田屋さんは色々あって忙しい事ですな」
「はぁ、皆さんのお陰を持ってこう云う事になりました」
 そして主人は店の中に入ると
「与作よ、本日は一日休みがてら、志和地の庄屋さんとお寺さんへ使いを頼まれてはくれんかのう。今日は店に戻って来んでもええからな」
「有り難う御座います。其れでは早速にも出立させて頂きます」
 既に店内には書簡と小包を揃えて準備を整えてくれていた。他の奉公人が出て来る迄に顔を合わせ無い様に気を使ってくれていたのだ。そして夫婦で見送りをしながら奥様は手を振ってくれ頭を下げている。
 店を出ると与作は、今日の仕事予定が変わった為、連れて来た忍者一家をそのまま放っておくのは可哀想だと思い、幸い主人が休みをくれた様なものだから
「一緒に連れてってそのまま奥屋へ帰えろう」
 と結構重い荷物を背負い、今日はどの道を行くかなぁと考えながら田んぼ道を別荘へ駆けていた。
 犬笛も吹かずに近場に帰って来ると、流石に忍者一家だ。まだ距離が有るにも関わらず鉄と玉は競争する様に駆け寄って来た。
「何で分かったんだ。さてはラーちゃんが知らせたな」
「へへへ」と頭の上で声がする。
「でもお前さん達は凄いなあ」
 今日はどしたん早いね、という様な顔をしながらも鳴き声を出さずに大喜びをしている。
 すると鉄はいきなりその場に座った。与作の荷物を別けてもらって背中にくくってもらう為だ。
「鉄ちゃん、何時も何時も有り難うさん」
「よっしゃ、出発じゃ。今日一日宜しく頼むでぇ」
「エイエイオー、エッチラ、オッチラ、ホイサッサ」
「ラーちゃん、何ちゅう掛け声じゃ」 
 これは野良で仕事や遊ぶ大人や子供達の掛け声を、空から聞きながら覚えて来るのであろう。
 間道を駆け上がり途中から右手に曲がって青河神社の側に出た。後はもう少しで志和地である。
 青河峠のてっぺんに座り込みながら暫く佇んだ。目の下に可愛川が見える何時もの見慣れた風景だ。然し、今は懐かしい子供時代からの足跡が去来し、更に、これからの新たなる人生の旅立ちになると思うと感無量な気持ちになるので有った。七曲りの坂を下ると一面平野が広がり多くの人家が有る。その田んぼ道のその先に、高い大きな木が見える。庄屋の庭先に有る榧(がや)の大木だ。子供の頃、実が落ちる頃には塀の外に拾いに行ったものだ。苦味があり美味しいものではなかった。
 道に面した生け垣の東側の正面門に来ると扉が開いている。広い庭先には所狭しと筵が敷いてあり、その上には茶葉なのであろうか干してある。中に入り
「御免ください」
 玄関先から声を掛けると、暫くしてから奥様が出て来た。昼飯の用意をしていたのであろうか、前掛けを着けている。
「アラァ、与作さん、いらっしゃ・・ウワ〜!狼がいる!」
 とたまげて戸の向こうに走り込んだ。
「奥様、大丈夫ですよ。鉄は優しいですから何もしませんよ」
 案の定、奥様の心配をよそに尻尾を振り振り近づいて来た。
「ごめんね、びっくりさせて。鉄ちゃんよく来たね」と頭を撫でられると大喜びをしている。
 そして猫の玉も足元に擦り寄って甘えている。
「何と可愛らしい事ね」
「今日は浅田屋の主人より書き付けを預かって来ました」
「今、主人は村の寄り合いで出掛けておりますが追っ付け帰って来ますよ。ハナちゃんと一緒ですよ」
「そうですか、其れでは一寸と待たせて下さい」
「どうぞ、どうぞ。それはそうと与作さん、昼飯はまだでしょう」
「ハァ」
「丁度よかった、一緒に食べましょうよ。お粗末なもんだけど」
「有り難うございます」
 奥様が食事の準備している間、与作は広い前庭に出て子供の頃の昔を思い出し懐かしんでいた。
 志賀神社の神無月(かんなづき)の秋祭りの時、どう打ちが神社から天狗を先頭に神主、巫女、稚児、獅子舞と行列で出発し鐘、笛、太鼓で賑やかに庄屋の庭で舞うのである。
 其れを追っかけて来て、柿の木に登り柿を食べながら近所の子達と其れを眺めていたのである。
 そうした時、主人とハナが帰って来た。
 鉄と玉が入り口に駆け出した。そしてハナに飛び付いた。
 一瞬、ハナはびっくり仰天だ。与作に狼犬を飼っているのは聞いていたが実際に見るのは初めてなのだ。
 其れにしても尻尾を振って甘えた顔で大喜びをしているではないか。やはりこれも与作と同じ臭いがするのであろうか。玉も同様に足元に擦り寄ってきた。
「鉄ちゃんよね。有り難うさん、よう来たね」
「この猫は」
「あぁ玉よ」  
 鉄と玉を撫でていると
「ハナチャン、ココ」
「えっ、誰か呼んだ?」
「ハハハ、ラー助だよ」
 見上げると松の枝に止まりこっちを眺めている。
「自分も仲間に入れて欲しいんだよ」
「そうね。ラーちゃんいらっしゃい」 
「アイヨ」
 ハナは与作が犬、猫、カラスを拾って来て育てているのを知ってはいた。だがこんなに賢くて賑やかで楽しいとは想像もしていなかったのだ。
 此れには側で見ていた庄屋さんもたまげまくった。
「何ちゅうこった。カラスが話しをしとる。与作よ、こりゃおまえが皆んな飼っとるんか」
「そうです。奥屋の山の中で一緒に暮らしております」
「まだ其処から通うとるんかいな。ワシはとうの昔に三次の町に住んどると思うとったよ」
「ご無沙汰しております」
「あぁ、とに角、上がってくれえや」
 座敷に上がると昼飯の支度がしてあった。
「まぁ、ゆっくり飯でも食うて話そうや」
「有り難うございます」
「然し、暫く見ん間に立派になったのう」
「とんでもない、私はいつまで経っても丁稚のままですよ」
「いや、違うで。ワシが見るにお前さんは桁が違うた人間になっとる様な気がするんじゃ」
「旦那さん、買い被らんといて下さい」
「そうかのう。まぁええ、処で今日は何用かのう」
「大した用件ではないと思いますが浅田屋から預かりものを届けに来ました」
 と云うと与作は書簡二通を主人に手渡した。
 そのうちの一通は家老から浅田屋主人に宛てたものと思われた。無論、与作には内容が分かる訳がない。
 主人はおもむろに封を切ると其れを読み出した。   
 最初は気軽な姿勢だったが段々と顔色が真顔になり背筋を伸ばしているではないか。
 そして読み終えると
「母さん、手を休めて一寸、こっちへ来いや。ハナちゃんもな」
「愈々ですな、与作と呼べるのも今日の今迄か」
 突然の庄屋の様変わりな態度に奥様が
「何ですか。それは」
「大変な書状じゃ」
「三吉のお殿様、直々の与作殿への藩士要請が記されておる。こりゃ大事でぇ、こんな話など聞いた事がない事態じゃ」
「ちゃんとお殿様の花押もある」
「えぇ〜、其れは如何言う事ですか」
「まぁ、お前も読んでみいや。ハナちゃんもな」
 その文面を読んでいる時、奥様は
「ひぇ〜、大変じゃ!」
 更に別の書簡にはこの度、苗字帯刀を許すという仰付状もあった。
「お兄ちゃん、此れはほんまね、どしたんよ。百姓の倅で丁稚には似合わんよ」
「そりゃそうじゃ、でもほんまじゃ」
「然しなぁ、為してこういう事になっんじゃ。ワシ等凡人には全く見当も付かん」
「何はともあれ目出度い事じゃ。とにかく、詮索は抜きに早々にも祝いの段取りじゃ。なぁ母さんよ」
「分かりました。ほんにお目出度う御座います」
「とんでも御座いません、庄屋さん、奥様、与作は与作です。此れから何時迄もずっと変わるものでは有りません」
「有難うよ、その気持ちが嬉しゅうてならん」
 と言いながら溢れる涙を手で拭った。
「ワシの家も何代目になるかよう知らんが、こんな嬉しい事は初めてじゃないかのう。なぁ母さんよ」
「そうですよ」
「昔から村の世話役をしとったらしんじゃ。荘園時代からの古い古文書には荘屋とあるよ。
 まぁ、庄屋、名主と云えば聞こえはいいが、所詮は侍供の為の体のいい使い走りじゃ。武家社会の世の中では如何ともし難い事じゃ」
「それから、手紙をよこしてくれた浅田屋もよっぽど嬉しかったんじゃろうな。此奴は元々、昔からうちの小作人でな。子沢山の貧乏世帯じゃったよ。秋町に家が有ったんじゃが、小さな小屋に六〜七人が住んどって筵(むしろ)の上で寝泊まりよ。前後ろの障子は破けて風通しがえかったろうよ。ほんま冬は寒かっただろうて。然し、子供は皆、ええ子だったぞ。此奴は四男くらいじゃったか、特にしっかりしとったな。
 こいつの出世のお陰でもって、今は小さいがええ住まいを建てとるよ。親孝行をしたで。特に母親にはな。どんなに貧しゅうても何時もニコニコし働きもんじゃったな。親父も酒癖が悪かったが終いには丸うなって、ワシも奴を浅田屋に送り出して心から喜んどるよ」
「然し、与作には敵わんかったな。おっと失礼、与作殿じゃった。何せ、三吉の殿様直々の藩士要請じゃからのう」
「思い出話になるが最初の頃、うちの前をビクを背負うて三次の町へ買い物の手伝いで一緒に通うとったがたまげたで」
「私もおっちやんがそれ程のお侍様とは全然知らず甘えていたんですね」
「然し、それがよかったんじゃろう」
「お陰で二人のとんでもない兄妹を育ててくれたよ」
「終い頃には馬に乗って駆けとったよな。百姓の小倅が武士と並んで行くなんぞ考えられ時代じゃぞ。
 まぁ、これも城主の弟の連れじゃという事で、大目に見てくれたんじゃろうがのう」
 食事をしながらの話に互いが終始ご機嫌で有った。
 然し、普段の日の昼飯時に与作が立ち寄ってご馳走になったが、庄屋といえどもお粗末なものであった。
 麦飯に野菜の煮付けに漬物と丸干しである。此れであるならば、余程、商人の丁稚暮らしでの食事の方がましである。
「ご馳走になりました」
「今日は急な事で祝膳も用意も出来ず申し訳ありませんでした」
「奥様、何を仰います、有難う御座いました」
「庄屋さん、子供の頃から今迄本当にお世話になりました」
「何のワシはさして貢献はしとらんよ」
「然し、此れからも何かとご迷惑をお掛けし、厄介な事も生じる事が有るやもしれません。何卒、宜しくお願いします」
「とんでもない、其れはこちらからお頼みする事で何卒、村の為に末長くお付き合い下さい」
「ハナの事も宜しくお願い致します」
「アァ、そりゃ母さんに任せときゃ大丈夫じゃ」
「ハナちゃんよ、今日の仕事はもうええから与作殿と一緒にお寺さんへ付いて行ってあげんか」
「有り難うございます」
 夫婦揃って玄関先に見送りに出てくれた。すると土間の上に何と鉄、玉、ラー助が一列に行儀良く座っているではないか。
「何ちゅう躾じゃ」
「へへへ、お話しはしとりませんでしたが、実は鉄とラー助は三吉のお殿様が認められた藩公認の忍者一号、二号なんです」
「何と茶目っ気の有るお殿様じゃのう」
「然し、実力はもの凄いですよ」
「そうじゃろうて、与作殿じゃったら何でも出来るよ」
「近々、又、お呼びします。その時は両親も一緒に来て下さいね」
「有り難うございます」
 庄屋さん宅を出ると板木川沿いを上がって赤い屋根のお寺に向かった。
 子供の頃にお婆さんやハナと一緒に何度も歩いたが、それ以来の二人の道行だ。
「オイッ、ハナちゃんよ」
「何よ」
「さっき鉄ちゃんはどうしたんじゃ。庄屋さんに来た時、ハナちゃんを百年来の知己(ちき)を得た様な顔をして迎えとったな」
「へへへ、そりゃそうよ。うちの念力が通じとったのよ」
「どう云う事じゃ」
「其れはね、鉄が小さな頃に行方不明になったでしょう。その時、うちはいずれ又帰って来ると言ったよね」
「確かにそうじゃたな」
「その時に、うちは一生懸命に念力を掛けていたのよ。そして何時も仏様にお願いしていたんだよ」
「そうか、其れが鉄に通じたのか。有り難うよ」
「げに、実際のところ、いきなり戯れ付いたのはお兄ちゃんとうちは兄妹で同じ臭いがするのよ」
「然し、ハナちゃんはどして念力じゃの言葉を使うたんじゃ。ワシは和尚さんから直接習ろうとらんから、ハナちゃんには教えとらんがな」
「其れはね、お兄ちゃんが時たま借りて来る仏典を盗み読みしたんよ。そしたらその言葉があったんよ。他に信力とか五つ教えがあったよ」
「ウ〜ン、わしゃ何とも云われん。参った!」
「超能力いうたら玉ちゃんも凄いんで。今迄に何度も霊感を発揮してくれてどれだけ助けてもろうた事か。人間に見えんものが見通せるんじゃ」
「なぁ、玉ちゃん」
「ニャ、ニャ〜ン」
「ほれみぃ、ちゃんと応えてくれとる」
「ほんまじゃね」
 話しながら歩いている時、鉄と玉はハナにぴったりくっ付く様に嬉しそうにしているではないか。
「お兄ちゃんとはお使いや買い物に、あっちゃこっちゃよう行ったよね」
「そうじゃ、お経を唱えたり、暗算のやり合いをようしとったよな」
 土手を並んでお寺さんに向かっている時、橋の上に差し掛かった。
「こんにちは」
「何時もお世話になります」
「あれ、ハナちゃん旦那さんをもろうたんね。ようお似合いで」
 と村人から声を掛けられた。
「違う、違う、与作お兄ちゃんだよ」
「あれまぁ、立派になられてからに、見違えましたよ」
 板木川に架かるこの橋は、与作が子供の頃の思い出がある。親父は大工で人夫としてこの橋の架け替えに従事していた。この日はあいにくの雨模様であったが、足場を丸太で組んでいる時に足を滑らせ下へ転落したのだ。
「ワア〜」皆が叫んだ。 
 処が、たまたま運良く稲藁を積んだ筏が丁度下を通っていた。其処へ頭から突込んだのだ。
「オイッ、大丈夫か!」
 人夫達が皆、一斉に上から覗き込んでいる。
 暫くすると藁の中からゆっくり頭を持ち上げ首を振っている。筏の人が心配そうに「大丈夫か!」声を掛けると
「エへへへ、何ともなさそうじゃ」 
 この橋の建設現場をたまたま近所の子と与作は見ていた。子供の頃の強烈な印象として残っている。 
 間もなくして、専正寺さんの正門前に到着した。
「ハナちゃんは、小さい頃から絶対にお婆さんと一緒に寺に来んかったよな」
「うちはお寺さんが怖かったんよ。でも今はお寺さんが大好きだよ」
「此の鐘もよう撞いたなぁ」
 小さな子供時代から、数え切れないほど出入りした多くの思いが去来し懐かしさがこみあげてくる。
 二人は手を合わせると、お祈りをしながら懐かしい庭先に入って行った。丁度、その時に和尚さんが水桶を持って出て来た。
「おやまぁ、与作か、よう来てくれたのう。ハナちゃんも一緒か。こりゃ珍しい、嬉しいのう」
「和尚様、お久しぶりでございます」
「お互いにご無沙汰じゃったな。まぁ上がれや」
「有り難う御座います」
「ハナちゃんはな、今じゃ村ではなくてはならない人なんじゃ」
「和尚様、大袈裟な。やめて下さい」
「いや、ほんまの事じゃ」
「此れもみんなお寺さんのお陰で御座います」
「其れこそ面映いのう」
「そりゃええが今日は二人連れで何用かいのう」
「はい、今朝ほどは庄屋さんに寄ってきたところです。ハナは付録で付いて来ました」
「ハハハ、何を言うとる。ハナちゃんはな、志和地じゃ重要人物なんじゃで」
「ワシの処もしょっちゅうお世話になっとるんじゃ」
 庭先で話しをしている時
「今、鉢植えに水を差しよったとこじゃが与作よ、ええ庭になっとろうが」
「随分と綺麗になっていますね」
「お陰で与作が始めてくれた伝統をな、皆んなが継続して守ってくれとるよ」
 庭先で大声で話しているのに気付いて奥様が顔を出してきた。
「与作さん、いらっしゃい。久しぶりですね。元気?」
「有り難う御座います。お陰さんで何やかや忙しく動き回っております」
「よかった。うちも元気にしておりますよ」
「でも随分と歳をとりましたよ」
「今はね、親父様にはしょっちゅう手助け頂いてほんに助かっております」
「そうよ、今はな、大工仕事は全部、やってもろうとるんじゃ。ほんに有り難い事で、よう礼を言うとって下さいや」
「分かりました」
「今日来たのは二つの書簡、其れと尼子国久公の言付けのものを持参致しました」
「国久公よりとは何の書簡じゃ。天下の大殿様とワシとは直接何の縁もないんじゃがのう」
「まあ、とに角上がってくれえや」
「有り難う御座います」
「犬と猫がおるようじゃがどうすりゃ」
「土間で待たせてやって下さい」
 座敷に上がると奥様がお茶を出してくれた。
「然し、いきなり緊張するのう」
 という和尚さんに、三吉の殿様の書状の他に密封した国久公からの添え状を手渡すと、恭しく(うやうやしく)姿勢を正して開封し目を通し始めた。
 無論、与作が内容を知るわけもない。

  〜この度は、専正寺殿とは何の所縁も無い尼子国久から一筆啓上仕り候。 
 ワシはこの志和地の八幡山城には一昨年来、何度も遠征し時には長期滞在をしておる。城とお寺さんとは近接しておるが一度も面識が無いのう。然しながら、ワシはほんに未熟ではあるが写経や念仏を唱える事を日課としており、仏道を通じ繋がっていると思っている。
 この戦国の世に於いて、ほんにあってはならない事ではあるが常に殺生が伴っておる。
 武将として避けて通れない宿命を背負わされてるのだ。
 やはり今も大内、毛利と尼子は対峙しており毎度の
 如く三次藩比叡尾山城や八幡山城に出向いて来ておる。
 ワシはそうした時に偶然、与作殿と知己を得たのだ。夕方の暗い山中の間道でマムシ禍に遭い、その時に与作殿と忍者一家に命を救われたのだ。
 意識が無くなったワシを、炭焼き小屋で三日三晩の看病をしてもらい寝食を共にした。爾来、夫々の身分格差や年齢差の垣根を取っ払い、師匠と大将と呼びあいながらの付き合いじゃ。
 此れは二人だけの内密の関係じゃ。
 然し、実の処はどっちが師匠で弟子か分からん様な馬鹿殿じゃ。寧ろ年上のワシが弟子の方よ。
 ワシが炭焼き小屋で、具合が大分良くなった頃、与作殿の勉学する机上を盗み見した時、物凄い実力を知ったよ。
 ワシも少なからずとも、お経を唱え写経もやっている男じゃが、与作殿には到底足元にも及ばぬと思ったよ。
 其れとな、更に凄いのは小刀使いの達人よ。何処でどう鍛えたか、教えたのはまさか和尚ではあるまいな。ワシが奥出雲からこっちへ出向いた時は何時も立ち合い稽古じゃ。居合いが凄いのよ。
 とに角、与作殿のお陰で宍戸の間者十人に間道で襲撃されたが撃退してくれ命を救われたんじゃ。ワシは其の頃、暗い夜中でその上に鳥目でよう見えん。与作殿と鉄と玉も大活躍してくれたよ。
 其れ以降も、敵の間者に付け狙われ襲撃されたがその度に命を救われたのよ。余談じゃが鉄、玉、ラー助も物凄いのよ。今では藩公認の忍者に認定されとるよ。動物の狼犬、猫、カラスの忍者など日本國中何処にもおりゃせん。まあ茶目っ気の有る殿さんよ。
 ワシはそんな事もあり、与作殿に苗字帯刀を許し、三次藩士として取り立てる事を三吉殿にお願いし承諾してもろうたよ。
 何せ、文武両道に優れとる。こうした立派な人間を育てたのも専正寺さんときいている。
 持って生まれた与作殿の才能もある。然し、其の潜在能力を引き出したのは和尚である。
 夫々の立場こそ違えども人間として如何有るべきかも与作殿から学んだ次第じゃ。
 戦国時代といえども将来の日本の事を考えると、町人、百姓、武士と身分に関係無く、人間の潜在能力を引き出すのに如何に教育が大切じゃという事が与作殿を通じて非常によう分かった。和尚も此れからもより精進をして立派な人材を育成して頂きたい。付いては些少ではあるが寺子屋での育成資金に活用してもらいたい。     
          健闘を祈る 〜 

「オイ、お母さん、国久公よりの書状に大変な事が書いて有るで」
「おまえもよう読んでみいや」
 和尚さんは興奮冷めやらぬ表情で手渡した。
「はい、でもまともに読めるでしょうか」
 目を通して半ばの頃、奥様は涙を流しながら文を持つ手が震えている。読み終えると
「与作様、国久公の心のこもった礼状と超過分な御寄進を頂きました。何とお礼を申し上げれば、此れひとえに与作様のお陰で御座います」
 和尚さんと奥様は揃って両手を付いて頭を下げられた。
「ちょ、一寸、やめてくださいよ」
「ほんまに与作殿有難う御座います。然し、わしらには与作殿や国久公、三吉のお殿様へ何もお返しするものがないのです。特に与作殿の新たなる旅立ちに、何のお役にも立てなくて悔しいのです」
「何を仰います。お寺様は今のままでいいのです。常に人々を見守り続け、仏の道へ導いて頂けるだけでいいのです」
「有り難う御座います」
「でも、和尚様、与作が一つだけ頂きたいものがあるのです」
「其れは何なりとおっしゃって下さい」
「一枚の紙を頂けますか」
[ウン?」
「御朱印で御座います」
「エッ、其れだけですか」
「はい。此れだけ頂ければ結構で御座います」
「しかし・・・」
「私にとっては、和尚様の仏心の導きや学問の教えと奥様の優しさに思い出が一杯詰まった、何よりも大切なものなのです」
「・・・・・」
 和尚さんは、暫くの間、無言で俯いたまま涙ぐんでいた。そして奥様は、与作が子供の頃から寺に尽くしてくれた事を思い出し、声をあげて泣きじゃくっている。
「私はまだまだ修行が足りんな。より精進を重ねて世の為、人の為に尽くす覚悟です」
「和尚様、覚悟などとんでもない。何も気張らずほんに何時もの姿であって下さい。自然体でおられるからこそ皆から信頼されるのです」
「ワッ、分かった。与作殿の言われる通りじゃ」
「偉そうな事を言ってすみません」
「何の何の。でも、与作殿が欲しいものは、ワシにとっては何時も何の価値の無いものばかりですね。だが其れが何時の間にか大変な事に変化していくんですよ」
「エッ、エ〜、何の事ですか」
「私が与作殿に学問を教え始める時にあげた蝋燭のカスといい、今回のたった一枚の紙の事にしても無限の可能性に発展していくのです」
「でも其れはお寺様の導きがあっての事で御座います」
「有り難う御座います」
「まだ私は世間知らずの未熟者で御座います。まだまだこれからも人生の大先輩として、そして仏に仕える身として和尚様これからも見守って頂きたいのです」
「いや、与作殿、歳には関係ないよ。どちらが師か分からんと国久公も言っておられる、ワシも国久公と一緒よ。
「もはやワシも与作殿に教える学力も知識ものうなっと思うとったが、まだまだ人間として坊主として、生ある限りは修行を続けにゃならんと痛切に感じたよ」
「正に''青は藍より出でて藍より青し,,の諺の通りじゃ」
 座敷から土間に下りると忍者一家の鉄と玉がきちんとお座りをしている。和尚さんと奥様は
「これが忍者一家の犬と猫なのね」
「鉄ちゃん、玉ちゃんよう来たな」
「ウゥ~ワン」「ニャ~ン」
「あらぁ、返事をしてくれている」
 と云うと近づき頭を撫でてやると大喜びをしている。
「何と素直でいい子達ね」
「でももう一羽カラスがいるんでしよう」
 玄関を出て、庭先に揃って見送りの挨拶をしている時
「ツルッパゲ、ヨワラースケジャ」
「ウン?」「エッ?」
「今、誰が言うたんじゃ」
「ホホホ、お父さん上、上!」
 見上げると松の木の枝からこちらをみつめているではないか。
「コリャ、ワシはハゲじゃないぞ。剃っとるんじゃ」
「スマンスマン、ヨヨガワルカッタ」
「ハハハ、然し、愉快じゃな」
「与作さん、こりゃまた凄い事ね。是非また皆んな連れて来てね」
「奥様、ラー助だったら何時でも此処へ来れますよ」
「ほんと、嬉しい」
「何時も、比叡尾山城から八幡山城まで往復の定期便の様に、お師匠さんや三吉のお殿様の使いで飛んでいます。書簡や小さな荷物などあっと思う間に簡単に届けてくれます」
「去年は尾道の千光寺さんから三次代官所迄書簡を届けてくれました。其れもほんの一刻ですよ。此れには私もびっくりしました」
「そうだ奥様、三次へ薬の用やら他のお寺さんに連絡事項でも有れば何時でも呼んでください。来るのは早いですよ。朝は奥屋にいますから一山越えるだけですから。軒下か何処かに目印を置いて有れば大丈夫です。その時は何か褒美をやってくだされば。食べ物であれば何でもいいです、後は私が中継します」
「ほんと、その時はラーちゃん頼むね」
「ワシニマカセトケ」
「まぁ、凄い凄い!」
「此れはね、国久公が此方に来られる度に言葉を仕込まれるんです」
「与作殿、国久公に又、会われる時は心から御礼申し上げていると伝えて下さらんか」
「分かりました。間違いなくお伝え致します」
「与作様、本日は有意義な日で御座いました。本当に有り難う御座いました」
 寺を出ると真っ暗闇の夜道をハナと忍者一家が仲良く歩いて帰って行った。
「お兄ちゃん、今晩はどうするんね」
「あぁ、家へ寄らずに奥屋へ帰るよ」
「分かったよ。そりゃええが、此れからうちらはどうすりゃええんね」
「何がじゃ」
「三次藩士の事よ」
「別に今迄と一緒よ。何も変わりゃへん。ワシは何時迄も与作のままよ」
「そうは言っても。苗字が貰えるんでしょう。浅田屋与作平衛門とか」
「ハハハ、何を冗談いうとる」
「親には何と言えばええんね」
「そうよな、内緒、秘密事は何時もワシとハナちゃんだけとしとったからな」
「そうよ」
「まぁ、適当に言うとってくれえや」
「分かった」
「然し、面白い兄妹じゃな。ハハハ」
「へへへ」

第13話 伝家の宝刀盗難事件

 迷宮入り事件解決依頼
       
「上里様、志和地でお別れして以来、この何年の間、全くお会いすることは有りませんでした」
「そうよなあ、何故か互いが疎遠になってしもうたからなあ」
「本当に懐かしゅう御座います」
「そりゃワシもじゃ。与作と別れて間もなくかなぁ、八幡山の城を離れてこっちに来てしもうた」
「爾来、こんなにも近くに職住接近しとったとは夢にも思わんかったよ」
「然しな、ワシが此処の次席になってから嫁を貰うたんじゃ。其れからは、ちょくちょく与作を目にしたり、噂を見聞きする様になり出してな」
「本当ですか。私には全然分かりませんでした」
「昔からそうですが、上里様とはあまりにも身分格差が御座います」
「そういう事たぁないよ。気にしとったのはお主と家族だけよ。ワシは何とも無かったよ。其れが証拠に、何度も志和地から三次へ一緒に歩いて通うたよな。時には馬でもな。然し、懐かしいのう」
「そうですね、あんときは上里様の手足となって動けるのが嬉しかったなあ。あっちこっち走り回って用足しをし、昼飯を食べるのが楽しくて美味しくて。其れに、駄賃を貰って土産を買って来て、ハナや家族が喜ぶのがほんま嬉しゅうて感謝しておりました」
 然し、与作殿は互いが惜別以来、様変わりした人間になったんじゃのう。考えてみりゃ小さな頃から何事にも真剣に勉強しとったよな」
「とんでもない。私はいつまで経っても浅田屋の丁稚奉公人ですよ」
「うんにゃ、与作殿は其れを隠れ蓑にしとるんじゃ」
「そんなぁ、与作はいつ迄も変わるものではないですよ」
「ワシが志和地におる時、一度だけ専正寺さんに与作殿の物凄い実力というか潜在能力の高さの事を聞いたよ」
「尤もその時にな、ハナちゃんも凄いと聞いたよ」
「何せ暗算なんざ、日本國中に数おらん程の実力じゃ」
「これはおっちゃんに兄妹で可愛いがって貰ったお陰で御座います」
「そんなぁこたぁないが、とに角ワシも嬉しいよ」
「其れがいつの間にかワシの知らん間に三吉のお殿様から認められる人間になっとる」
「家老が言われるのには与作殿は文武両道において傑出した実力を有しておるとな」
「其れとな、先般、ワシは竹澤屋と備前長船の件で、お城に上がったよ。その際にお殿様より見せて頂いたよ」
「其れは何でしょうか」
「与作殿の苗字帯刀のお墨付きよ」
「其れに、その時にお殿様も羨ましがっておられたよ。ワシより先に備前長船兼光の名刀を国久公より授けられ、手にしておるとるとおっしゃってな」
「・・・」
「まぁ、とに角、与作殿は、もう暫くは浅田屋に籍があると云うとったよな。ほんじゃ代官所へ直接来るのはまだ遠慮があろうけ今度から拙宅に来てくれんかのう」
「其れこそ畏れ多い事です」
「何を云うとる、嫁にも是非、会ってくれんか。此れからも末長う付き合うて貰わにゃならん事になるからな」
「有り難う御座います」
「色々と積もる話しが有るからな。与作、おっちゃん時代の懐かしい思い出が仰山有るでのう」
「其れとじゃな、家老が言われるのには、いずれにしても与作殿、このまま何時迄も放っておく事は出来んじゃろう、決断を早ように宜しくとな。何せ、国久公とお殿様のお墨付きがあるからな。多方面で活躍して貰わにゃならんとの仰せじゃ」

 与作は日を改めて浅田屋が非番の前日に次席宅を訪れた。日が暮れた暗闇の中、裏木戸を叩いた。今日来る事は事前に報告はしていなかったが取敢えずはご挨拶だけはと思い顔を覗かせたのである。
「御免ください、上里様、与作です」
 暫くすると下駄の音がして
「与作さんですか。どうぞお入り下さい」
 引き戸を開けると奥様が
「アッ」と驚きの声をあげた。
 其処には腰まではあろうか大きな狼犬が此方を見つめているではないか。
「びっくりした。忍者犬の鉄ちゃん?」
「そうです。其れに玉とラー助です。ありゃ何処へ隠れた、恥ずかしがる柄じゃなかろうが」
「ココジャ、ココジャ」
 すると塀の屋根の上から声がした。
 此れには若奥様も初対面ながら、嬉しいやら楽しいやら
「ラーちゃん、いらっしゃい」
「へへへへ」
「奥様、今日はさしたる要件はないのですがご挨拶だけでもと寄せて頂きました」
「皆んな、中へ入ってね」
「有難う御座います」
「主人は風呂に入ってます。おっつけ此処へ来ますからゆっくりしていてね」
「皆んな、座敷に上がっていらしゃい」
「でも汚れますから」
「いいからいいから」
 与作は夫々の足を拭いてやると走り回わりだした。
「こりゃ、静かにしとれやぁ!」
 途端に片隅に一列に並んでいる。
「オオゥ、忍者一家が来てくれたか」
「お邪魔致しております」
「何の何のゆっくりしていってくれるか」
 その上里様の声に、鉄は嬉しそうに尻尾を振って近付き、手を舐めながら大喜びをしている。
「あれぇ、何で鉄を知っておられるんですか」
「知っとるも何も、奥村等が襲われた時、ワシが代官所から医者の順庵先生に駆け込む時に後を付けとったよな。全く殺気のしない寧ろ心地良い追跡者だったよ」
「帰る時、何者か確かめようと思って詰所の小窓から見とったのよ」
「あの時、代官所の物陰で見かけたのが最初よ。なぁ鉄ちゃん」
「あれぇ、見られとったんですか」
「あたぼうよ。へへへ」
「その時、側におった犬と猫な、何処で飼っとるんじゃ」
「あれはですね、最初、私が浅田屋勤めを始めて志和地から走って通っておりました。暫くはそうしておりましたが如何にもキツそうだと思ってか、親父が、もう一寸近くから通えやと、奥屋に有った炭焼き小屋を改造してくれて住める様にしてくれました」
「お陰で山道を抜けると一里も近くなりました。其れから、勤め途中の道端で犬、猫を拾ってきては飼ってやりました。カラスは猫の玉が見つけてきて育てました。それ以来、奥屋と町の近くの別荘に住まわせております。此処は町中の何処からでも犬笛、カラス笛を吹くと即ぐに馳せ参じてくれます。
「道理でな。其れでワシを陰ながら見とってくれたんじゃな、有難うよ」
「然し、ラーちゃんはあんときは空から見張っとったんじゃろ、全く気が付かなんだよ。流石は忍者カラス様じゃのう」
「ヨイヨイ」
「ハハハ、こりゃ愉快じゃ」
「此れはね、皆んな国久公の真似なんですよ」
「お前さん達、其処へ暫くジッとしとれな」
 聞き分けもよく部屋の片隅に並んで座っている。
「然し、与作殿は’‘浅田屋事件,,や''代官所身内の不祥事事件,,にしても、ワシの知らん間に動いてくれていたんじゃのう。ほんま、心から感謝しとるよ」
「とんでもない。何のお手伝いも出来なくて。其れはそうと殿付けは辞めて頂けないでしょうか。今迄通りに与作にして下さい」
「じゃがこれだけはな、今から後、互いが長い付き合いになる事じゃ、藩内の皆んなの手前もある、こう呼ばせて頂くよ」
「そりゃええがな、奥村、上川がしでかした事件は危うく迷宮入りするとこじゃたよ。忍者一家がおらんかったら、代官もワシも処分され、次席になりたてから逆戻りで、志和地送りになる程追い込まれとったんじゃ」
「でも此れは上里様の努力と実力のせいでしょう」
「またまた、与作殿という奴は。まぁええ、ほんに有り難うよ」
 すると奥様が座敷に入って来て
「皆さん、晩飯はまだなんでしょう。よかったら食べてって下さいな」
「とんでもない。即ぐにお暇しますから」
「美味しいものは無いけどゆっくりしていって」
「オォ、与作殿、是非そうしてくれるか」
「有り難う御座います」
 先程の話しを食事の準備しながら台所で聞いていた奥様が
「あの節は大変、お世話になり有難う御座いました」
「そんな奥様までも」
「いえいえ、主人は何も一切、口にしていなかったのですが、痛切に責任を感じているのが私にも分かりましたから」
「そりゃそうと、さっきはラーちゃんが国久公の物真似をする云うとったが如何いうこっちゃ」
「ウ~ン、其れはですね。本当は国久公と私の秘めた内緒事なんですが上里様ですからいいでしょう」
「あれは国久公が夜中に間道を抜けられていた時、マムシ禍に遭われまして難渋されていました。帰宅中にたまたま、私と鉄と玉がその場に出会しお助けしたのです。其れ以来、八幡山城に来られたら、毎度の如く私が住んでいるお粗末な炭焼き小屋に立ち寄られました。其れで皆んな国久公に懐きました。
 特に玉はお殿様が苦しんでいる時、猫ながらも側に
 寄り添い三日三晩看病し続けたのです。其のために国久公を子供の様に思っているのです」
「そしてラー助は雛の頃から可愛がられ言葉を教えてもらったんです」
「其れでか。いつぞや比叡尾山の城中で国久公と与作殿が並んで歩いて来たよな。其れもお互いがニコニコ談笑しながらじゃ。あんとき程、たまげた事たぁないで」
「ワシは危うく声を出すとこじゃたよ」
「其れこそ、こっちも一緒でしたよ」
「大殿様の懐の中から玉ちゃんが顔を出し、側には大きな狼犬の鉄ちゃんじゃ。其れに町人姿の与作殿とくりゃ、ほんま皆んなたまげとったよ」
「其れとなもう一つ、剣術は何処で習得したんじゃ。まさか国久公じゃあるまいな」
「三吉のお殿様が言われるのには相当強いと聞いとるぞ。其れでなければ苗字帯刀を許される訳も名刀兼光を授かる事もなかろう」
 然し、この事には一切触れず、ただニコニコ笑みを浮かべるだけてあった。
「其れとな、三次藩には今迄にも迷宮入りしとる事件
 が、なんぼうもあるのよ。ワシ等みたいな田舎のへなちょこ役人ではドジの踏み通しじゃ」
「中には、今でも絶対に解決せにゃならん事件もあるんじゃ。是非、与作殿、忍者一家と探索や再吟味に手を貸して貰えんかのう」
「其れは、喜んで。おっと言いそこ間違いました」
「ハハハ、ええよ、ええよ」
 そこへ座って毛繕いをしていたラー助が
「ヤルヤル」と叫んだ。
「何ちゅうことじゃ。ほんま頼もしいのう」

「早速じゃがな、誰にも言えん様な三次藩の恥になる様な事件なんじゃ。それ故、ほんの上層部の方しか知らず、内容は固く口を閉ざされておるんじゃ」
「其れでは、到底、私等には無理ではないですか」
「じゃが、其処は与作殿に無理は承知でお願いしたいのよ」 
「分かりました。どこまで出来るか、後は神のみぞ知る、是非やらせて下さい」
「オオウ、引き受けてくれるか。ほんにすまんな」
「然し、ワシの手下役人を動かす事は出来んぞ」
「無論のこと、結構で御座います。じゃが上里様、お知恵を借りるかも知れませんよ」
「そんな事は言うまでもないよ」
「其れでは今度、内密に探索資料を持って来るから」
「分かりました。是非とも宜しく」
「忽ち概略を言うとくとな、実は三吉の殿様の先祖伝来の刀を盗まれてな。何代、続いとったかワシ等には分からんが何せ家宝じゃ。今でもこの件に関しては意気消沈されておられるのよ」
「然し、お殿様の人柄じゃ。厳命で、世間一般には絶対知らすな、そして誰にも責任を取らせるな、とのお達しなのじゃ。有り難いことよ」
「こんなお殿様の気持ちに報いる為に、藩を挙げて内密に探索したよ。町人、百姓、或いは他藩にも知られんように必死じゃ。然し、なんぼうやっても誰が犯人か分からず、結局は何の痕跡を掴む事が出来ず、刀は出ずじまいで迷宮入り状態じゃ」
「じゃが何時かは何としても解決せにゃならんのよ」
「お殿様は、形有るものは、いずれ壊れるか消えて無くなると仰るがな。心寂しいんだろうよ。現在、此の事件があってから代わりに名刀を所望されておってな。其処へたまたま与作殿が、上川が落とした小柄の紛失の件で、竹澤屋の主人とワシが知り合うきっかけをつくってくれたよな。此の男は備前長船の出であることが分かり、其れも兼光の何番目かの息子である事が知れてな。全く渡りに船よ。ワシは竹澤屋の主人を伴って城中に謁見したよ。とに角、大変にお慶びになられたよ」
「与作殿よ、資料は何時、渡しゃええかのう」
「何時でもどうぞ。何の理由付けでもいいですから浅田屋に届けて頂けますか」
「よし、分かった。早急に手配するから」
「其れとですね、今は上里様に分かってしまわれましたが連絡はラー助をお使い頂けないでしょうか。お互いが何処にいようと見つけ出してくれますから。今度、カラス笛をお渡ししますから」
「おおそうか、其れは有難いのう。楽しみじゃ。与作殿よ、いきなり、大変な未解決迷宮入り事件を押し付けてしもうたが、ほんま相済まん事じゃ」
「何を仰います。私と忍者一家がどれだけ出来るか分かりませんが、とに角、頑張ってみますから」
 帰り際に
「おやまぁ、遅ぅ迄も引っ張ってしもうたな。泊まっていくか」
「とんでもない。私等は此れから帰りますから」
「然し、此れから帰りゃ遅うなろうが」
「いえいえ、今夜は近くの大きな別荘に泊まりますから」
「ほんのアッという間に着きますから」
「そんなにええ住まいがあるんかい」
「コマコマ」
「コリャ、ラー助、いらん事を言うな!」
「ハハハ、ほんまラーちゃんは愉快じゃのう」
 然し、与作殿よ、今夜はほんま愉快で痛快で楽しい思いをさせてもろうたよ」
「そうですよ、私も本当に話しを聞いていて楽しくて嬉しくて感激しました。今後共宜しくお願いします」
「此方こそ宜しくお願い致します」

     事件の概略
  
 此れは去る桜の舞い散る季節、尾関山は花見客で賑わっていた。
 比叡尾山城中では、相変わらずに籠の鳥のお殿様と家老は
「オイ、家老よ。ええ日和じゃのう。こっから外を見いや、春の息吹がみなぎり出したでぇ」
「左様で御座います」
「ワシも一句、詠むかのう」
「へぇ〜、そんな趣味が何時からお有りで」
「コリャ、茶化すなや。手討ちにしてくれるぞ」
「げに冗談、冗談じゃ。然し、毎日毎日、薄暗いとこへ閉じ込められた様でくさくさするのう」
「何か、パーと気が晴れる事はないんかい。なんとかせぇよ」
「はぁ、そうは申されても忽ち・・」
 そんな処へ代官所より使いの者が早馬で城へやって来た。階段を駆け上がって来ると
「何用じゃ」
「ハハァ、実は国久公から一席設けるから出てこんかと仰せで御座います。丁度、桜が満開じゃとの事で」
「ナヌ、そりゃ誠か。ワシ等も今、其れを話しとった処よ。何とええ絶好の機会じゃのう」
「じゃが今から出掛けると夜桜になるかのう」
「それも風情が有っていいでしょう」
「よしゃ、即ぐに出立すると言うとってくれ」
「そりゃええが何処へ行くんなら、まさか志和地の城じゃあるまいのう」
「確かに今日も国久公は、其処へ出立すると仰っていましたからね」
「いえいえ、違います。場所は尾関山のそばで御座います」
「何とまぁ、たまげたわい。えらい心変わりじゃのう」
「其れなら早う出掛けるとするか。其れで何で行くんなら」
「それならば、下の船着場に屋形舟が待たせて御座います」
「何と手回しがええのう」
「然し、国久公はどうされたんじゃ。志和地へ行くと仰っておったのにな。いつもは硬い話しばかりじゃからのう。何で急に気が変わられたのか」
「まぁええ、ワシ等も気晴らしになるから出掛けるとするか」
 其れから急遽、支度を整えて城内から徒歩で急坂をを下りだした。殿様も城からは息切れもせず苦にならない。家老、其れにお付きの家来三人で屋形舟の処へやって来た。
 外は薄暗く舟先の明かり提灯に水面が照らされている。
「お疲れ様で御座います。ささぁ、足元に気を付けてお乗り下さいませ。中が少々狭う御座いますので大のお腰のものは外へお立て掛け願います」
 穏やかで静かな流れに、開けた障子戸から川風があたりほんに心地よい。畠敷から馬洗川をスイスイ下って行く。町中で三本の川が合流し巴橋の下を通り其れが江ノ川となる。船はやがて尾関山の麓の船着場に到着。関翠楼の女将達が出迎いに来ている。
「お疲れ様で御座いました」
「よしゃ、降りるか。家老よ、ワシは初めて舟に乗ったが仲々快適じゃな。程良う揺れて気持ちがええのう。城から此処まで馬に乗って来てみぃ、尻は痛いし、いつ振り落とされんともな。其れに駕篭は窮屈で全く退屈じゃしな」
「今度から城下の河原に何時も舟を置いておくかのう」
「そうですね、駕籠や歩いて行くよりよっぽど楽ですわ。其れに下りですから随分と速いです。ただ、年中という事になれば増水、渇水期の問題も有りますからね、ええ方法を考えておきます」
 舟談義をしながら下船している時、事件が発生したのである。
 其れも全く及びも付かぬ出来事であった。舟から下りるのに家来、家老、お殿様の順に外にすげ掛けであった刀を手に、跨いで降りようとした。
 然し、殿様が手にしょうとした刀が無いではないか。
「オイッ、船頭、ワシのはどうした」
「ええ、何がでしょか」
「刀はどうした」
 慌てて舟に飛び乗り、刀掛けを見ている。然し、無い?無い!
「どしてワシのだけ消えたんじゃ!」
「船頭!川へ投げ捨てたか」
「とんでも御座いません、何故に私がそういう事を致しましょうや。お殿様、私は畏れ多くもお刀には一切、手を触れておりません」
「じゃ何で無くなったんじゃ、カッパでも現れて奪った云うんか」
「私は、ただ夢中で安全運航に努め舵を握っおりました。絶対に絶対に私は何もしておりません」
 とその場に平伏した。
「そうか、そうじゃろうのう。お主の言葉に嘘は無さそうじゃ」
「オイッ、家老よ」
「何でしょうか」 
「ここは忽ち穏便にすませ。其れに一切、騒ぎ立てるな。これから国久公との宴席でもあるからな。大殿には知らん顔をしとけ。女将にもよう言うとけ」

「と云う様な事が事件の発端で、事件の大凡の概略じゃ」
「其れからは緘口令(かんこうれい)が敷かれ、外部には知られない様に全て内密に探索じゃ。代官所総掛りで関翠楼から船頭、其れに関係しとりそうなものを片っ端から徹底的に調べたよ」
「現場から川下までも、大勢が水に浸かって洗いざらい探したが結局、何も出てこんかったよ。全く不思議な事件じゃ、然し、現実にお殿様の刀が消えておる。与作殿、どう思やぁ」
「フゥ〜ン」
 翌日、夕方に手渡された資料に目を通すと非常に厄介な事件と知れた。代官所は何んにも手掛かりを掴んでいないのだ。
 此れでは全く埒が開かないと思った与作は一家の前で
「明日は別荘で寝るで。そして次の日は三次の川の側を歩くからな」
 もう此れだけ言うと鉄も玉もラー助も大騒ぎである。部屋中を動き回っている。
「すなやぁ、埃がたたぁ」
 
 今朝は早くからからの出立だが、何時ものように鉄、玉ラー助は弾んだように楽しい道行だ。
 現場近くに到着すると、勘のいいラー助は、今日のする事が分かった様に馬洗川上空を上から下まで飛んでいる。
 そして皆んなは畠敷の河原に下りた。
「オイ、此処から川下りを始めるでぇ。じゃがなぁ、何時もの様な宝探し遊びをする材料が何も無いんじゃ」
 こういうと途端に「何で、どうして此処へ来たの」と言う顔をするではないか。
 然し、皆んな動物的な感覚が超一流だ。
 与作は一家が残念がると思ったが、さにあらず
「ワシラニマカセテチョ」
「ハハハ、凄い、凄い、よしゃやるぞ」
 一斉に「ワン、ワン」「ニャン、ニャン」「イクゾ、ラーチャン」
 賑やかな事、賑やかな事。河原では大声を発しても他所の誰にも迷惑がかからない。
「よし、出発じゃ」
「エイエイオー」ラー助の一声に
「何と勇ましいのう」
 そもそも事件の発端となった三吉のお殿様が住まいし比叡尾山城は此の場所から北の険しい城山を上がった頂上にある。
 中国山地の山深い地の利の悪さ故なのか、特別鉱物資源もあるではなし、利権絡みの近隣紛争を生じる事も無く、此れが十五代、約四百年も続いたのである。
 長く続いた戦国の世に、ただ防御の為だけに、敵が踏み込め無い様な険しい山中に築城したものであろうか。
 知る人ぞ知る、神のみぞ知る
 麓の狭い平地には、城下町を形成する物は何も無く、家屋がポツンポツンと田んぼの中に有り百姓家が点在していた。多くの住民が暮らす町中は一里も川を下った広い盆地に有った。此処に行政、経済を司る主なものが有り、陰陽交流の重要拠点として発展していた。
 余談だが、馬洗川なる変わった名の由来だが、此れは三次の南にある世羅台地の馬洗池が源とある。遥か昔と思われるが、馬を使い乗りこなす武家や侍が辺りにいたのであろうか。
 此処、世羅の地には平安時代に大田庄と云われる荘園が有り其れを管理していたのが今高野山であった。
 馬と云えば牛、因みに奥州遠野には牛洗川なる川が存在する。此の川は三吉のお殿様が太刀を盗まれた時に言ったカッパが現れる伝説の故郷であり、つとに有名で日本国中に知れ渡っていた。
 然し、此処こそ遠い昔からの南部馬の発祥地であった。馬と人間が一つ屋根の下に同居する、曲り家なる独特な住まいが多く現存していた。
 此の馬は西日本産の其れより、馬格が大きく、姿、形が美しく、気性も穏やかで奈良、平安時代から貴族の間で憧れの馬だったのである。
 此の馬洗川は可愛川,西城川他が三次で合流し江の川となり遥か日本海へと流れていく。
 川傍の小さな道をのどかな日和の川面を見ながらゆっくりと下って行った。あっちこっち振り向いては何かを嗅ぎ取ろうとするのだが、鉄も玉も何の反応も示さない。宝探しをする材料が始めから何も無いのに皆んなで見つけなければならない。皆んなも焦りを感じているのであろうか。
 其れを読んだ与作は、昼飯には早いかな思ったが
「オイ、此処等で飯にするか」
 川が蛇行している処に広い河原があった。途端に大喜びで水辺に駆けていく。
 お粗末な物だが皆んなで一緒に食べれる事が一番のご馳走なのだ。
 実はこの時も与作にも同様に焦りがあった。
「何から手を付けりゃええかのう」
 だが、其れをおくびにも出さない。然し、此処まで下って来て期するものがあった。
 飯を済ませると、相も変らず辺りをキョロキョロしながら目を光らせていた。川面は殆ど見ることは無かった。此れは意味がないのだ。事件から何年も経過しており、毎年、必ず水害が有り刀などあろうはすがない。
 尾関山の麓の船着場に着いた。此処は下船する時、お殿様の刀が盗まれたのを気付いた処だ。
 畠敷から下ってきて途中に何の成果も無い様に思われた。
 其処から折り返して遡り可愛川と合流、大きく蛇行すると幅が狭く細長い丸太木組みの巴橋がある。その橋の真ん中辺りで与作は佇み、上下を冷静に見つめていた。
 然し、玉は上流を見つめたまま他を一切振り向かなかった。其処を通過してだいぶ上がって来ると、北側は川傍迄柳の木々が生い茂っている。そして此方側にはそう高くない何本かの松の木が有る。
 案の定、玉は立ち止まった。
「どうした玉ちゃん」
 其処は馬洗川が首の様に狭くなり流れが速くなっている。
 此の場所は下って来る時、玉の素振りと眼の色が違った処なのだ。強烈な第六感の働く玉の読みを与作はその時、感づいていたのだ。
「うん、此処か」
「ニャ〜ン」
 此の一鳴きに、鉄もラー助も反応したではないか。動物同志の霊感、第六感の相乗効果であろうか。
 今いる場所に二、三本の松の木がある。そう高くはない。その木の根元に鉄が駆け寄った。鼻を擦り付けながら前脚で引っ掻いている。そして玉はその木によじ登った。でも高くはなく与作の目の辺りくらいだ。
 一方、ラー助といえば狭い川向こうに飛んでいった。そして柳の木に止ったではないか。
「ウ〜ン、こっちと同じ高さじゃないか」
 与作は玉がしがみついている処に目をやった。其処には、何か細い紐を括りつけ木の皮が剥けた跡がある。  
 そして玉の口の周りには茶色の毛をつけている。
 鉄はというと、其処らをうろついて麻紐の切れ端を咥えてきた。
 ラー助も向こう岸から、ごそっと抜けた毛を喰えてきたではないか。
 此の場所に与作は佇み暫く思案をしていた。麻紐や毛を手にしながら、其処へ一緒に車座になり
「此れはどう云う事なら、さっぱり分からんで。ほんで此の茶色い毛は何の動物じゃ」
 鉄、玉、ラー助が頭を寄せ合いクンクンと臭いを嗅いでいる。
「ウ〜ン」
 すると突然、ラー助が頭をあげて叫んだ。
「キャッ、キャッ、キィ〜」
「オイッ、ラーちゃん、そりゃもしかして猿か」
 与作が身振り手振りで顔も猿真似をすると
「ホウジャ、ホイホイ、エッサッサ」
「何と云う奴じゃ」
「然し、何で此処で猿が出てくる」
 与作はじっくり思案を巡らせていた。此の山には野生の猿が仰山おるじゃろう。以前にも山中で、数匹の猿が柿の実がついた枝を担いで走っているのを目にした事がある。だが、なんぼう頭がええ云うても、麻紐を使う知恵はなかろうしな。然し、此処で誰が何に使うたのか見当も付かなかった。 
 其れに切れ端は刃物で切ったものだ。
「こりゃ、動物をなつけとるワシと一緒で、猿を飼い慣らしとる奴のした事で」
 与作は一瞬、閃いた。
「そういゃ、何時ぞやに馬洗川の広い河原で猿回し演芸一座の興行が有ったよな。ワシは見物したことはないが他の丁稚の話しを聞いた時、一本縄の綱渡りやら輪投げの芸を上手にやると喜んで云うとったな」
 与作はその場で麻紐を手に取ってみると、麻とシュロの赤い筋で綯(なっ)てあるではないか。
「こりゃ、そんじょ其処らの大工、左官や百姓の使うもんじゃないぞ、細くても引っ張り強ようて毛羽立っとるし、猿も滑り落ちにくいぞ。此れは一座専用の物に違いないど」
 と確信を持った。
 其処で与作は推理がてらラー助を向こう岸に飛びたたせた。
「ラーちゃん、もう一回見て来てくれるか」
 言う事が即ぐに分かる。
 木に縄をくくったへんを嘴(くちばし)で突いた。丁度、水平になる位置だ。
 なるほど、此れならいつもの綱渡りの芸の様に移動が出来る。後は舟が下を通過する時、輪投げの要領で刀の鍔に引っ掛け持ち上げるのはお手の物だ。外は真っ暗で船頭にも全く気付かれることも無かったのだ。  
 ただ猿には誰の太刀を取るなど目的はなく、たまたまお殿様の物を吊り上げただけの事であった。 
「オイッ、皆んなようやってくれたな。ほんまありがとうよ」
 この一声に、皆んなは意気揚々と嬉しそうに引き上げていった。

    備後尾道道中記

「上里様、今度ばかりは四、五日の猶予を頂けますか」
「オオゥ、なんぼでもええよ。旅にでも出るんか。して何方かのう」
「はい、吉舎から甲山へ抜け備後路辺りかと思います」
「そうか、そうか。すると忽ち路銀が要るのう。不自由のない様に出しとくからな。何せ、鉄もラー助も藩公認の忍者様じゃからな。玉も含めて日当を出しとくよ」
「えぇ、そりゃ又、凄い事で畏れ入ります」
「其れとじゃ、大事な通行手形は三次藩、代官所で作っとくから安心して行ってきてくれるか。まぁ犬、猫のは要らんじゃろうがのう。ハハハ」
「其れと、役人になりすます為の旅装束も揃えておくから」
「重ね重ね有り難う御座います」
 与作は次席より便宜を図ってもらい探索に精を出すことが出来、確実に成果を得ると希望を膨らませたのである。然し、実の処は他にも目的があった。
 それは生まれて初めての海を見る事だ。井の中の蛙大海を知らず、の世間知らずでは話しにならない。
 其れと、専正寺時代に和尚さんからよく聞かされていた、多く有る尾道の神社仏閣の事に興味が有り、是非共に見聞したかったのである。
 与作は鉄、玉、ラー助との旅支度を整える為、必要最低限の物を三次の町で購入した。そして奥屋の小屋へ一目散に駆け上がって行った。
 皆、明日からの長旅の目的が分かり高揚した気分なのであろう。
 幸い、この度の長旅には過分の路銀を頂戴している。皆んなにも、ひもじい思いをさせなくて過ごせるのだ。
「絶対に吉報を持って帰るぞ」

 早朝、薄暗いうちに出立する為に一家の昼、晩飯の弁当準備を整えた。皆んなは朝飯はそこそこに外に出て、とに角、興奮しまくっている。
「オイッ、まぁ落ち着けや。置いて行きゃせんから」
 其れから鉄の背中に荷物を括りつけると
「さぁ、海を見に行くぞ」
「?・・・」「ウミ、エイエイオー」
 往きは板木を通って世羅に抜け、今高野山を目指すことにした。板木川を遡ると鬼ヶ城がある。
 子供の頃におっちゃんとヤマメ釣りに度々出掛けた処だ。
 この道はさほど整備はされてはいなかった。だか世羅に抜ける山並みは中国山脈の赤名や頓原峠の比ではない。
 与作や一家にとっては、とんと苦にならない。何せ、いつも険しい山中で暮らしているのだからだ。
 世羅台地は、なだらかな山が続く。道は農道だが其れなりによい。道の両脇は田んぼで何処までも続く。
 小高い峠道に差し掛かった時、此処が分水嶺との表示された木柱がある。其処から遠景色を眺めると左右に流れる小さな小川というより溝が見える。
 瀬戸内海に流れる芦田川水系と日本海に流れていく江の川水系だ。
 間も無くして夕暮れとなりだした。人家も少なく、うら寂しい一本道を駆けて行く。
「ぼつぼつ、ラーちゃんよ、休んじゃらにゃいけんな」
 段々、上空を飛ばなくなったからだ。
 無論、此処らに宿屋などあるわけもない。農家所有の山小屋を一夜借りて野宿をすることにした。
 仮にあったとしても宿に泊まる事は出来ない。 
 元々、与作は多くの動物と暮らしており、お粗末な炭焼き小屋をねじろとしている。
「何処へ寝ようと、どうちゅう事はありゃへん。へへ、其れに宿賃を浮かせるからな」
 幸い辺りに民家は見当たらない。皆んなは小さな藁小屋の中で柳行李に詰めた弁当を広げると大喜びだ。あっという間に平らげてしまった。
「オイッ、皆んなゆっくり食えや。ワシのにもたかるつもりか」
 晩飯が終わると、稲藁の中で一緒に寝られると其れこそ大騒ぎだ。
「コリャ、あんまりギャァギャァ言うなや。外へ聞こえるでぇ、此処は他所の小屋だぞ」
 仲良くくっ付きあって一夜を明かした。とに角、全く違った動物同志だが親密で仲良し一家なのである。
 早朝、夜も開け切らぬうちから出立だ。とに角、皆んな寝覚めが早く叩き起こされるのだ。
「しゃない奴達だな。ゆんべの残り飯でも食うて行くぞ」
 小高い垰を越えると目の下先にかなり開けた盆地が有る。今高野山がある甲山だ。芦田川側を下ると其処は田んぼは綺麗に整備されている。右手には小高い山が有り龍華寺がみえる。
「此処は帰りにゆっくりお参りする事にしよう」
 下の門前町は参拝客が多いのであろう、かなりの賑わいの様子が伺えた。
 此処から尾道へ通ずる道は大田の庄から尾道港への農産物運搬や参拝客の為に其れなりに整備されており歩き易い。
 其れにしても忍者一家は健脚だ。行き交う旅人の足並みの倍は早い。鉄に引っ張られる様にあっという間に追い越して行く。
 千光寺山が見える処迄やって来た。この辺りからボツボツ人家が増えだした。心なしか潮の香りが漂って来る。
 すると南に有る二つの山陰げの谷間から、目の下先に瀬戸内の青い海が目に入りだした。
「オイッ!海が見えるぞ」
 与作にとっては生まれて初めて目にする海だ。天気が良くて遥か彼方迄見渡せる。此処から見ると地平線の方の海が盛り上がった様に見えるではないか。地球が丸い証拠であろう。其れに聞いた事がある弘法大師の生誕された四国の山々までもはっきり見通せるのだ。 
 与作は、暫くその場で懐の玉の頭を撫でながら
「玉ちゃんよ、今日、此処へこうして来させて貰うたのは、おまえさんの素晴らしい第六感のお陰じゃ、有り難うな」
 と感慨に浸っていた。
「よかったなぁ、皆んなもよくやってくれたよ。ほんま来た甲斐があったよ。なぁ、鉄ちゃん、玉ちゃん、ラーちゃん」
 と連呼した。然し、動物の目にはキョトンとしていて何の反応も感慨もありはしない。
「へへへ、興奮しとるのはワシだけか」
 そして千光寺山を北側から登って来て頂上に達し景色を見渡すと
「オォ〜、大きな川が有るでぇ、ワシらんとことは比べもんにならんな。何と見晴らしがええ処じゃ」
 これにはラー助が反応していきなり飛び立った。海を眼下に見ながら向かいの島へ悠々と飛んで行く。
「何とラーちゃんはええのう。ワシも羽が欲しいよ」
 与作の大きな声に、千光寺参道を掃除していた作務衣(さむえ)を着た寺の関係者らしき人が側に近づき
「お役人さん、あれは海ですよ。瀬戸内の尾道水道と云いましてね。何処から来なさった」
「此処から北の三次からじゃ。山ん中育ちでこれが生まれて初めて見る海で感激しとるで」
「私は毎日見とる光景で変わり映えしませんが、朝な夕なに感謝の念で手を合わせておりますよ」
「それはそれは」
「処で何故にお役人さんが尾道に」
「今は事情が有ってこういう身なりをしとります。ある探索の為、三次代官所のお手伝いで今日此処へ着いたところです」
「其れは遠路、お疲れ様です。然し、其れにしても凄い犬と道連れで、懐には何と可愛い猫さんで」
 初めての他所者の与作に色々と労いの言葉をかけてくれた。
「実は私、近年迄は浄土真宗のお寺の伴僧を勤めておりました。事情があって、今はそこを離れましたが仏様に仕える心はいつまでも変わりません」
「道理で。お姿を見た時に直感で分かりましたよ」
「有り難うございます」
「処で探索と言われましたが、宜しかったら何ぞお力添え出来る事は御座いませんか」
「其れは、其れは。では一つだけ教えて頂けませんか」
「聞くところに拠れば、各地を巡業する猿回し一座が尾道が拠点という事ですが住まいは何処でしようか」
「何とそれだけでええんで。ハハハ、近くも近く、此処より直ぐの真下ですよ」
「何とまぁ、えらく簡単で」
「奴が三次で悪さをしましたか」
「いやいや、本人は何もしておりません。ただ、興行先での香具師(やし)の元締の人となりを知り度く、協力を仰ぎに来たのです」
「よかった。見かけは悪に見えますが、あれでもって実に親孝行な奴なんですよ。其れに女房子供にも尽くしますしね」
「寝込んどる母親思いの優しさに溢れていますよ。其れに動物を飼っている人間は心優しいでしょう」
「貴方もきっとそうでしょう」
「有り難うございます。そうだ。褒められついでに、もう一つだけ面白いものをお見せしましょう。お時間はよろしいですか」
「どうぞ。いつ迄も」
「実はも一つ動物がいるんですよ」
「ええ、他にはいないじゃないですか」
 其処で与作は懐からカラス笛を取り出し一吹した。  
 すると、忽ち羽ばたく音がして頭上目掛けて黒いものが降りて来た。
「危ない!」
「ヨサクサン、ナニヨウジャ」
 と声を発しながら肩の上に止まったではないか。
「何じゃこりゃ!カラスが話しをしとる!」
「コンチワ、ラースケジャ」おもわずつられて
「こんにちは。ようこそ」
「ヨイヨイ、ヨイヨヨイノヨイ」 
「何と此れは!実に楽しい。然し、ほんま凄いですな」
「此れはある大殿様の口調を真似ているんですよ」
「ほんま頭がええですな」
「其れに事の目処が立ちましたら、こっから三次迄書状を届けさせるつもりです」
「そんな馬鹿な!」
「いや、ほんまですよ」
「ダイジヨビダ」
「・・・・凄い!」
「あなたは千光寺さんですよね」
「そうです」
「其れでは、お猿さんのとこへ行くのはまだ早いですので、お寺さんへお参りさせて頂いて宜しいでしょうか」
「どうぞ、どうぞ」
「本日は一日掛けて探索する予定にしておりましたものでしたから。早速にも千光寺様の御利益が御座いまして感謝致しております」
「其れは其れは有り難う御座います。何とか四方八方が円満に解決できる様に祈っております」
「ではご案内致しましょう」
「話しは違いますが、何とでかい岩が仰山有りますね」
「遠いご先祖様からの言い伝えで、此れ等は全て神仏として崇められ、尾道の皆様が大切にして敬っておられます」
「其れにしても不思議な事で」
「此の千光寺は大同元年弘法大師様が開基されたと云われております。此の大きな岩は玉の岩といわれ遠い昔から岩の頂に光を放つ玉が有り一帯を照らしたと云う伝説が御座います。その為、此の下の尾道水道は玉の浦と呼ばれております。当時は此処の地は人口も少なく全くの寒村でした。
 更に東に見えるあの山は浄土寺山と云って此処より更に古く聖徳太子様が創建したと伝えられる浄土寺が御座います。是非、帰りにお立ち寄りになられたら如何でしょうか」
「有り難う御座います」
 与作は案内され、本堂に有る千手観世音菩薩像を拝見し拝まさせて頂くと御礼のものを急遽、懐紙に包み御供えをした。
 丁寧にお礼を述べると、住まいを教えて貰った急傾斜な坂道を下って行った。
「オイッ、鉄ちゃん、玉ちゃん気をつけて下りぃよ。滑りこけるで。然し、ラーちゃんはええなあ、何んにも関係ありゃせん」
 辺りには巨岩がゴロゴロしている。尾道では此れが全て昔から巨岩信仰の神仏と崇められていた聞く。
 とに角、見晴らしが素晴らしいのだ。
 海辺に下だり半ばの時、鉄、玉が小さく鳴き出した。
「どした、何があるんじゃ」
 不思議に思いキョロキョロしながら歩いていると玉が駆け出した。そして鉄も続く。
 そして小さな建物のお粗末な玄関戸の前に佇んだ。
「オイッ、もしや此処では」
 表札や看板らしき物は何も無い。
「御免!誰かおるか」
 がたぴし戸をを引き開けた。
 すると、破れ障子戸の隙間から猿が覗いたではないか。
「キャッ、キャ、キャッー」
 更に奥からむさ苦しい男が顔を出して来た。
「オウッ、たまげた!何用で。何ちゅう大きな犬じゃ」
 与作の姿を見るなり
「もしや、お役人さんで」
「そうじゃ、今しがた尾道へ着いたとこじゃ」
「あっしに何用で」
「ワシは三次から出て来たんだが、聞きたい事があってな」
「大凡の察しはつきやす。此処ではなんですから、外で話しませんか。此処は狭いし病人が寝とりやすから」
「分かった。そうしょう、そうだ、猿も一緒に来んか。名は何んちゅうんじゃ」
「小太郎でやす」
「小太郎も一緒に来いや」と声を掛けるとキョトンとしている。
「大丈夫ですかね、犬猿の仲ちゅう言いますが」
「ハハハ、鉄はじゃな、人間も動物をも見る目は確かだぞ」
「そうですか。ほんなら母ちゃん、其処まで行って来るからな」
「気いつけてな。喧嘩さすなよ」
「あぁ、分かったよ」
 案の定、小太郎が男と出て来ると鉄は尻尾を振って近付いた。そして互いに並んで歩き出したではないか。動物同志、相通じあうものがあるのであろうか。
「どうした事じゃ。普段なら絶対にこんなこたぁせんぞ」
「そりゃな、お前さんらを信頼しとるという事じゃ」
「有りがとな鉄ちゃん」
「其れとな、あっしの名は弥太いいやすのでよろしく」
 先程、下りてきた路地を又、何段も有る階段を上に登っていく。大きな岩の直ぐ先に小さな広場がある。
「お役人さん、此処で話しをしまひょうか」
「何と景色のええとこで話しをさしてもらうのう」
 二人は座椅子の様な小岩の上に座り、暫く目の下の綺麗な海を眺めていた。
 すると小太郎が広場を走り回っている。何時も訓練がてらやっているのであろうか。其れを見た、鉄、玉も同様に追っかける様にやりだした。此れも奥屋でやる鬼ごっこ遊びのつもりなのである。何周も走って、そのうちくたびれた玉が鉄の背中に飛び乗った。
 すると小太郎も其れを真似て一緒に上がったではないか。其れを見ていた弥太は
「オイッ、やめとけ!鉄ちゃんが重たいじゃないか」
「ええで、鉄はこたえんよ」
 その様子を上空から見ていたラー助はどうにも仲に入りたくなったのか
「コタロ、コタロ」と叫んで下りて来た。
「ウン、カラスが来たで」
「アソボ、コタロ、ラーチャンアソボ」
「何じゃありゃ!」
 此れには弥太も腰を抜かす程たまげまくった。
「お役人さん、ありゃ皆一緒で」
「そうじゃ」
「凄いなんてぇもんじゃない!」
「あっしらの猿廻しの演技なんざ足元にも及びませんや。めちゃ凄い!」
「こんなのを見せられちゃ人間正直にならざるを得ませんや。何なりとお聞きやせぇ」
「オォ、本題を云うのを忘れるとこじゃった」
「実はな、此処におる玉がな、お主が三次で小太郎にさせた事を、先般、現場検証に連れてって全て見抜いてくれたのよ」
「そんな馬鹿な。何の証拠もないでしょう」
「三次の役人等は長い間、探索したが一切、何も分からずにとうとう迷宮入りさせてしてしもうた」
「其れならええじゃないですか」
「じゃから、お主の罪の事はもうええ」
「だったらをワシをどおしたいんで」
「其れはじゃな、この件でどうしてこうなったか経緯を教えて欲しいのよ」
「其れだけでわざわざ此処まで来たんで」
「そうじゃ」
「分かりやした。何もかも正直にお話し致しやす」
「そうか、すまんのう。何で関係もないお主が加担し利用されたんじゃ」
 其れから、弥太は海を見つめながら、何かを思い出す様にとつとつと語り始めた。
「あれは、三次での興行の千秋楽、打ち上げを関翠楼でやっとったんじゃ。どちらもご機嫌で楽しい慰労会じゃったよ。処が其処へ尼子国久公が突如来られてな。予約無しにじゃ。そしたら店は慌てて、てんやわんやの大騒動じゃ。急遽、座敷替えよ。元締は腹を立てとったが如何せん天下の大殿様じゃ。相手が相手じゃ。其れで渋々、変わりょうる時に外から
「三吉の殿さんを呼べ!」
 と言う声が聞こえてな、元締の顔色が急に変わったんじゃ。ほいでもってワシに耳打ちしてきて、今から即ぐに付き合えとな」
「ワシは弱い立場じゃ。三次での興行権を奴が握っとるからしゃないんじゃ。後は従わさせられたよ」
「大した事じゃない。猿の知恵を貸せと抜かしおる。ほんでもって即ぐに手を貸せ、給金は弾むとな」
「ワシには何が何やら訳くそ分からんかったが「うん」と返事をしたよ」
「そうした時に女将の声で「舟で城下までお迎えに上がります」という声が聞こえてな」
「其れで、宴会の席の途中で元締とワシだけ抜け出し、猿も連れて来い、ほいで綱渡り道具も用意せい
 とな」
「後はこっちが先回りして帰りの舟をあそこで待っていたのよ」
「其れで云われるままに段取りをつけて、刀を盗ませたんじゃ」
「そん時はな、あの場所で仕掛けをするのが大ごとじゃったんじゃ。何せ、向こう岸に綱を張る為に、ワシは寒いのに腰迄浸かって渡らせられたよ。今考えても胸くそ悪いわ」
「じゃが何の因縁、恨みがあったか知らんが直接危害を加える気持ちは無かったろうよ」
「其れであの仕掛けを嫌がらせの為に使ったのよ」
「そうか、そういう事じゃったか」
「其れは盗った事は悪い事じゃ。然し、ワシは人を傷つけたり、騙した訳では無いじゃろう。だいいち刀が無くなっても世間が何も騒いでおらんし、手配もされとらんぞ。ましてや雇われて猿がした事で、どれ程の罪になるんじゃ」
 開き直りとも取れる返答に、与作は呆れるやら感心するやら、何とも不可思議な猿まわし野郎に出会したものだ。
「其れにな、ワシに命令した元締な、今はこの世にゃおりゃせんぞ」
「何ぃ!どう云う事じゃ」
「事件後から間もなくして死んでしもうた。病死だったのよ」
「そうか。そうじゃったか」
「聞くところによると奴も気の毒な身の上じゃたらしいで。さる藩の城が取り潰されて幼少の頃から浪々の身となり、終いには香具師(やし)の元締になり帰って来たとの話しじゃったよ。まぁ其れ以上は詳しくは知らんがな」
「その後、盗んだ太刀はどうした」
「元締に渡したよ」
「舟が通過して暫くの後、元締はその場で太刀を見つめながら気付いたんじゃろう。其れは家紋じゃ。
 奪る刀は誰の物でもよかったんじゃが大当たりよ。小太郎がたまたま殿様の物を吊り上げたのよ」
「暫くは其処で嗚咽(おえつ)していたよ。其れで一寸、待っとれと言って茂みの中に入っていったんじゃ。静まりかえった暗闇の中で、わんわん大声で泣いていたよ。其れから一刻してから、ガンガンと大きな音が響いてきてな、小岩を投げつけ、刀を叩き折る必死な形相が見えたよ」
「後はスッキリ、サッパリした表情でワシに穴を掘って埋めてくれといってな、一緒にしたよ」
「そうか、そうか、よう言うてくれたな。有り難うよ」
「オイオイ、ワシをとっ捕まえに遠くからわざわざ此処まで来たんじゃないんかいな。処分は覚悟しとるよ」
「ほんま言うたらな、性悪るな殿さんじゃったらお主は主犯と一蓮托生で処刑もんで」
「そうじゃろうて」
「じゃがそんな事はしゃせんよ。ただ、さる御方の為に事情が知りたかっただけよ。後はワシが黙っとけば此の事件は迷宮入りのままじゃ」
「そんな事が本当に出来るんで」
「ああ、ほんまじゃ。何も罪人ばかりをつくるのが能じゃないよ」 
「然し、貴方と言う方は•••」
 後は声にならず両手をついて頭を下げた。涙が頬を伝って膝の上に溢れた。
「本当に感謝申し上げます」
 すると傍にいた小太郎が駆け付けて、並んで頭を地面に擦りつけるではないか。
「何とまぁ・・・・」
 動物達に嘘偽りの心は無い。真の姿に後は与作も言葉にならなかった。
 暫く沈黙の後
「処で何でワシと小太郎で仕出かした事がその場で見ていたかのように分かったんでしょうか」
「其れも昨今じゃのうて、何年も前にやらかした事ですよ」
「其れはな、最初に玉の第六感、そして後は鉄とラー助の活躍じゃ」
「お主らが仕掛けた、両岸に縄を張って小太郎に一本綱渡りをさせるが、正確には二本の縄じゃな、一本では小太郎の足場が安定せんからな。後は投げ輪の要領で太刀を吊り上げ持ち逃げした事、見事検証してくれたよ」
 与作は馬洗川での探索方法と結果を事細やかに説明をした。
「フゥーン、参りました。其処まで見抜かれていたとは、小太郎にはとてもじゃないがそんな猿知恵は働きません」 
「実はワシは本当の役人じゃないのよ」
「分かってますよ。初めから。役人の其れとは全く人間味が違っていましたから」
「ハハハ、ワシもお粗末な奴よのう」
「とんでもない。貴方は三次の物の怪様ですよ」
 弥太は暫く絶句しその場で嗚咽していた。そして
「こんなええ処の尾道とはお別れじゃのう。名残り惜しいが山奥へ帰らにゃならんでのう。でも一家にとってはあんなとこでも一番の天国なのよ」 
 広場で駆けまわって遊んでいた小太郎と忍者一家は折角仲良くなれたのに別れなければならない。寂しそうに鉄の尻尾を掴んで離さない。
「小太郎、又、今度三次へ行った時には会ってもらえるよ。今日はさよならしような」
「そうじゃ、その時は是非とも呼んでくれるか」
 鉄、玉、ラー助は名残り惜しそうに後を振り返り乍ら坂道を駆け上がっていく。
「オイ、皆んな、よう遠く迄付き合うてくれたな。有り難うよ」
「ナンノナンノ」
「ハハハ、ラーちゃんほんま分かっとるんかいな」
「ラーちゃんよ、一足先に三次に飛んで代官所の上里様に手紙を届けてくれんかのう。じゃが此処からじゃつたら遠すぎて方向が分からんから無理よのう」
「ダイジョビ、シンヨセ」
「ほんまかいな」
「ハネアル、ホウべ」
「ほうかほうか、褒美はなんぼでもやるぞ」
 与作は急遽その場で簡単に報告書を書き上げた。其れに今の時刻を書き加え小さくたたんでラー助の足に紐で括り付けた。
「よしゃ、今からひとっ飛びしてくれるか」
「マカセトケ、バイバイ」
 千光寺山のてっぺんから北へ飛んで行くのを皆んなで見送った。
「見てみぃ、ラーちゃん凄いど。ありゃ絶対に届けるぞ」

 一方、三次代官所では朝から上里様と代官がお白洲の横の部屋に詰めていた。退屈そうに何をするともなく暇を持て余していた。昨今は代官所を煩わせるほどの事件、揉め事も無かったのだ。
 今度、与作が尾道に出向いてくれた未解決事件にしても、前任者当時のもので解決にとんと身が入らないのだ。ましてや一旦は迷宮入りしている事案である。 
 然しながら、藩を挙げて解決に奔走した事で有り絶対に未解決に終わらせてはならない。
 そうした時、 
「ガリサマ、ガミガミ」と外で声がする。
「うん、ラーちゃんが来たぞ、何用かのう」
 次席が戸を開けると部屋に飛び込んできた。
「いらっしゃい。おやぁ、足に何か括り付けてあるぞ。何なら、もらうぞ」
 と言いながらいきなり奇声を発したではないか。
「代官様!、ちょ、一寸、此れを見て下さい。時間ですよ」
「何の事じゃ」
「今、ラーちゃんが尾道から飛んで帰ってきたんですよ」
「嘘じゃろうが。あんな遠くからで。ラーちゃんも行っとったんか」
 小さな紙切れに時間が書いてある。
「何じゃこりゃ!向こうを丁度、正午に飛び立ったとあるから一刻も掛かっとらんで。まだ未の刻になっとらんで。こりゃまた大嘘じゃろうが」
「ホウベ、ホウべ!」
「よしゃ、分かった、分かった。今やるぞ」
「凄い!ラーちゃん物凄いのう!」
「エッヘン」
「こりゃ、傑作じゃ!」
 
 代官は、事件当時はまだ次席でもなく、記憶が薄れる程の前の事件であったが、大凡の概要は知っていた。だが、与作が何で尾道迄わざわざ出向いたのかは全く分からない。
「上里、与作殿は為してあんな処迄行ったんじゃ」
「さあ、其れは私にも分からんのですよ」
「そうじゃろうのう。まぁ、詳細は帰って書状を提出すると有るから其れを楽しみに待っとろうや」
「其れにしても、お殿様が任じられた忍者一家は物凄い事をやるのう」
「仰せのとうりで」
 この迷宮入り事件の解決依頼については最初、有る程度次席の単独判断で、いわば代官所への事後承諾みたいなものであった。其れを代官に詫びた。
「何の、何の。なにせ、お殿様公認の忍者一家のする事じゃ。異議を差し挟む余地は一切なしじゃ」
「人間技では到底及びもつかぬ霊感、超能力を持つ一家に潜在能力を大いに発揮してもらわにやならんて。今後も大いに活躍を期待しとるよ」

 三次に向けて飛び立ったラー助を見送ると
「尾道へ来た甲斐が有ったな。こりゃ是非ともお寺さんにお参りしてお礼を言わにゃならんな。然し、其れにしても寺の数が多いな。とてもじゃないが皆、廻らりゃへんぞ。すまん事ですが絞らせて下さい」
 やはり与作は仏様に仕える身であり世の為に尽くしたいと何時までも思っている。信心深く宗派は関係ない。
 尾道の町は尾道水道に面しており、背後の急峻な岩山は昔から海の守り神として崇められていた。
 そして天然の良港に恵まれ、貿易船や百石船の寄港地として繁栄し、それに関わる多くの商人が財を成した。更に北の世羅台地には西の今高野山が有る大田の庄からの農産物積み出し、其れと大勢の参拝客の起点として賑わっていた。その為、其れに関わる多くの商人が数多くの神社仏閣を寄進建立したのである。
 与作は偽役人風情の身なりを解いた。
「鉄ちゃん、玉ちゃんよ、来る時は急ぎ旅じゃったが、事の解決の目処が着いたし、のんびり帰ろうか」
 与作は折角、尾道に来たんだから海辺におりて潮でも舐めてみるかと子供の様に駆けていく。 
 尾道水道は幅は狭いが長い砂浜が続く。鉄が走り玉も後を追う。だが玉は持久力がなく即ぐに息切れだ。
 止まると臭いを嗅ぎ出した。何と其処らじゅうに波に打ち上げられた小魚が転がっているのだ。走るどころではない。其れに、この浜では商売用の瀬戸内のいりこの材料の小魚や、でべらカレイの干物が処狭しと干してあるのだ。
 山奥住まいの与作にしてみれば初めて目にする光景だ。
 ラー助も嬉しいのであろう。三次の川でも目にするカワセミの如く、空から海中に頭から突っ込んでは飛び上がっていた。然し、三度目の時には羽に水が染み込み過ぎたのか、海上でバタバタしているではないか。
「テツチヤン!テツチヤン!」
 この声に鉄は気づいて走って行き飛び込んだ。後は羽を咥えて犬かきで泳ぎながら簡単に引き上げた。
「さすがじゃな、鉄ちゃん。なんと呼吸が合うことよ」 
 与作は此の瀬戸内の海産物を収獲するのを目の当たりにして、何とも羨ましい限りであった。川と違って魚の種類が多く、どれも美味しいからだ。こうした干物は、行商人が何日もかけて運んできてくれるが生物は日持ちも悪くそうはいかない。三次で食べれる海の生魚といえば、祭りや正月に食べれる唯一ワニであろうか。日本海で獲れるワニ鮫の事だ。他の鮮魚はまず不可能だ。
 海辺の通りには商店が多く並んでいる。
「オイッ、皆んな、初めて見る魚が仰山並んどるで。尾道名物のデベラの干物なんぞ生まれてこのかた食った事がないし、上里様もきっと喜ぶぞ。土産に買って帰ろう。鉄ちゃん、宜しくな」
 鉄を見つめると少々の荷物はマカセトケという顔をしている。
「そりゃええがいつ迄も遊んじゃおられんで、ボチボチ帰るとするか」
 与作は最後に此処より東に有る浄土寺に立ち寄りたいと思った。このお寺さんは弘法大師の千光寺さんよりも更に古く、飛鳥時代の聖徳太子が開創されたと有り由緒有る古刹なのだ。
 其処へお参りすると踵を北に向けてなだらかな坂を駆け上がっていく。左手には大きくて立派な西国寺が見える。道側の間近に仁王門が有る。其処には巨大な藁草履が奉納してあり、旅の安全をお守り下さる事に感謝しながら手を合わせ薄謝を奉納し尾道を後にした。
「また今夜も昨日の小屋へ泊まって帰るか。飯屋で味付けの薄い弁当を作って貰ろうて皆んなで食べような」
 其処からは急ぎ足で鉄に合わせて駆けていく。
 翌朝、陽が差し込む頃、鉄と玉の「ワンワン「ニャン、ニャン」と「カァ、カァ」と小さく鳴く合唱の声がするではないか。与作はそれに目が覚めた。
 何とラー助が迎えに来ていたのだ。
「ラーちゃん、もう来てくれたんか。早いのう。然し、なしてワシらがおる処が分かるんじゃ」
「へへへ」
「さぁ、一緒に朝飯を食べような」
「メシメシ、シヌシヌ」
「分かったよ。ご苦労さん!」
 然し、其れにしてもラー助は頭がいい。自分の事はカラスとは一切思っておらず、人間と勘違いする程の知能の高さだ。
 早々にも犬、猫、カラスの訓練所をお殿様から依頼されているが、特にラー助に於いては動物達の模範の教師役をしてもらわねばならないほど与作は期待していた。
 朝飯を終えると木小屋を離れて後は三次を目指して足早に駆けていく。結構広い盆地の中を芦田川が流れている。今朝は霧の海だ。左手山の上に龍華寺さんが有るのだがまるで見えない。
「オウッ、こりゃどうしょうもないな。ラーちゃんよ代わりにお参りして来てくれるか」
「アイヨ」
「ほんまかいな。でも頼むな」
 与作はお布施を懐紙に包みラー助の足に掴ませた。
 すると間違いなく霧の中を上に飛んで行く。
 此れを見ていた鉄がいきなり駆け出した。
「オイ、鉄ちゃんどぉするんなら!」
 だがお構いなしに参道を凄い速さで上がって行くではないか。
 龍華寺の境内は早朝の為、参拝客は誰もいない。お寺さんの方が二人掃き掃除をしていた。そんな処へ
「ヨサク、オフセ」という声がした。
「オイ、今の声は誰なら?」
「誰もおらんがなぁ」
「ありゃ、賽銭箱の上にカラスがおるで。もしや」
 するとジッとこちらを見つめているではないか。近寄ってみると爪に懐紙を握っている。
 其処へ息を弾ませながら大きな狼犬が階段を駆け上がり此方へ向かって来た。
 これには二人共度肝を抜かれた。だが逃げ場がない。
「オイッ、どうすりゃ!」
 そこへ「テツチャンマケェ」とラー助が叫んだ。
「ウワン」と一声鳴くと尻尾を振りまくっているではないか。
「この犬は何もせん。優しいぞ」
「其れにしても此の犬とカラスはなんなら」
 二人は手を差し伸べて頭を撫でてやると大喜びをしているではないか。
「ヨハラースケジャ」
「ははあ、ラーちゃんじゃな。ありがとうさん」懐紙の面に''三次の与作,,と書いてある。
「有り難う御座います」というと
「ヨイヨイサラバジャ」 
 狼犬とカラスは一気に立ち去った。
「然し、今のは何ならたまげた!たまげた!」 

    次席への報告

「遠くへの遠征ご苦労じゃったのう。してどうじゃった、まあゆっくり旅の土産話しでも聞かせて貰おうかのう」
「お陰さまで、私も命の洗濯をさせてもらえましたし、有り難う御座いました」
「何の何の」
「そりゃそうと上里様、香具師(やし)の元締の身の上を知っておられますか」
「いや、ワシは全く分からんよ。何せ、犯行は志和地時代に起きた事でな」
「その時分の事だったんですか」
「そうじゃ。犯科帳やら過去帳でも見てみんとな。奴等は、ワシが此処へ来てから、社会的に迷惑をかけとらんし、取り立てて悪さもしとらん様じゃ。其れなりにネジの引き締め役をしとるしのう。考え様では代官所の協力者かもしれんしな」
「処で、今は元締の代が変わってはいないですか」
「そういゃ確かに聞いた様な気がするな。資料を持ってこうか」
「その必要はないでしょう」
「為してじゃ。この件に関係しとるんじゃないのか」
「其れでは何で私が尾道に行ったかお話を致しましょう。
 与作は今回の遠出の遠征について報告書を交えて事細かに次席に伝えた。
  一、盗難に遭った馬洗川での全域探索
  二、香具師の元締の行動
  三、猿回しの犯行手助け
  四、元締の病死
  五、宝刀の永久埋没

「以上の事を箇条書きに記しております。後は御家老様とご相談の上、善処をお願い致します」
「分かった」
「其れから、私からたった一つお願いが御座います。宜しいでしょうか」
「ああ、何なりと要望が有れば」 
「有り難う御座います。其れはですね、犯行を手助けした猿回しの弥太の処分の事で御座います」
「其れの事で私は尾道迄出向きました。奴は忍者一家が炙り出したこの手口を素直に認め全てを白状してくれました。お陰で事件の全貌が見えたのです。付きましては、私は約束致しました。お前の犯した罪は
 一切、問わんと」
「主犯は病死しとるし、この元締の境涯の心情を察するに余りあると。其れにこの件に関しては、既に迷宮入りしとると伝えてやりました。何卒、宜しくお願いします」
「分かった。刀を取ったのが猿じゃしな。とんと関わりのないことよ、ハハハ」
「有り難う御座いました」
「しかし、全く凄い事をするなあ。鉄ちゃん、玉ちゃん、ラーちゃんよ。あんたらは偉い!その上の親分は更に凄い、まるで生きとる物の怪じゃ!

 やはり此の亊件も、廃城絡みの恨みが引き起こした一件で、戦国の世の時代、全国各地で往々にしてよく有った事である。
 然し、他愛(たわい)も無い結末であった。
 主犯の男は事件後から程なくして病死している。余命、いくばくもないのが分かっていて、この世で最期の一矢を報いる気持ちになっていたのではなかろうか。
 恨み骨髄の伝家の宝刀は永久に日の目を見る事はなかった。
 ー合掌ー    
 
 与作から細やかな報告を聞いた次席は、代官との打ち合わせで
「こりゃ、絶対にお殿様に報告してはならんのう。家老様の胸の内に、永久にしまって貰わにゃならん事だぞ。まぁ、幸いな事と言うちゃ語弊があるが近々、竹澤屋の世話で、備前長船兼光の名刀が手に入りそうじゃから一応は一安心じゃのう」
 結果的に、藩を挙げての大騒動の割には、全く拍子抜けする程の、迷宮入りの解決事件であった。

第14話 布野村の猿猴による行方不明事件

 布野村は妖怪伝説の数、日本一

 この頃になると浅田屋主人の与作に対する処遇につ
 いて、奉公人達が薄々と分かり出した様である。とに角、丁稚奉公人では有り得ない様な出退時間が不規則になったり、度々、休みも取るからだ。特に尾道に連休で出向いた時、とうとうバレてしまった。苗字帯刀の事だ。最近になって特に代官所から頻繁に浅田屋に使いがやって来ており、主人も隠しきれなくなったのだ。
 与作もそろそろ決断せねばと自覚をしていた。其れこそ色々な処にかえって迷惑をかけるからだ。
 特に他の奉公人達へもだ。店内に於いて、二番番頭には八幡山城に薬を大量に運んだ時、与作がお侍様から大将と呼ばれ、深々と頭を下げられ、礼を尽くされているのを知っていた。  
 此れは大変な事になったと自ら戦々恐々としていた。自分が今迄に与作に対して、散々、嫌がらせやいじめをしたと思ったからだ。更に浅田屋が永代三次藩御用達のお墨付きを頂いたのは、与作の貢献によるものだと聞き及んでいる。
 尤も、此の気持ちは他の番頭、手代や丁稚に至る迄が同様であった。処が与作本人は全く気にも留めていなかったのだ。やはり器が端から違っているのであろう。
 今夜も与作は浅田屋での仕事を終えると、何時もの様に鉄を呼び寄せる為に犬笛を吹いた。朝出掛ける時に玉も連れて来ており一緒に駆けつけた。するとラー助も鉄の背中に乗っかって来たではないか。今夜は上里様のお呼び出しで時間が掛かるであろうから多分、
 別荘に泊まるかもしれないのだ。勘のいいラー助は自分だけで奥屋で留守番をするのは寂しかったのだ。
「おやまぁ、ラーちゃんも来たか。よしゃ別荘で皆んなで一緒に寝ようか」
 この一声に大喜ぴだ。
 次席邸に着くと奥様が出迎えてくれた。
「おやまぁ、皆さんいらっしゃい。さぁ、中に入ってね」
 この奥様の優しい声には忍者一家はもうデレデレ状態だ。今迄は声を掛けて可愛がってくれるのは男ばかりだったので全く感覚が違うので有ろう。特に鉄は今迄に見た事のない様な優しい顔になっているではないか。
「与作さん、このあいだは有り難う御座いました」
「え、えぇ何の事でしょうか」
「尾道名産のデベラ、主人も私も生まれて初めて食べました。木槌で叩いて醤油で炙って焼いて本当に美味しかったですよ」
「あぁ、其れは確かに。私も初めてでしたから」
 そうして座敷で世間話しをしている時にご主人様が帰って来た。忍者一家は玄関に駆けつけ大騒ぎをしているではないか。
 早速にも鉄は小脇に抱えた風呂敷包みを降ろせと催促し、其れを口に咥えて上がってきた。
「こりゃ、ええかげんにせんか。うるさいぞ」
「ええから、ええから。よう来たのう」
「其れにしても鉄ちゃんは凄いなぁ」
 座敷に入ってくるといきなり切り出した。

「先般の尾道への長距離遠征、忍者一家共々、大変ご苦労じゃったのう。お陰さんで長年の懸案であった事が日の目を見る事が叶い、代官所一同ほんま感謝しております」
 と深々と頭を下げた。
「此の度の宝刀盗難事件での忍者一家の活躍、見事であったと御家老様よりお褒めの言葉があったよ」
「ついては、御家老様より報奨金を取らすとの事であったよ。今回の件は、お殿様への報告は内密の事じゃたから、ワシからも、宜しゅうに云うとってくれるかとの言付けじゃったよ」
「其れは上里様、とんでもない事で、私は今も丁稚奉公の身分で御座います故にお断り願います。お気持ちだけは有り難く頂戴致します」
「然しじゃな、与作殿は既に苗字帯刀を許されとる身分じゃでぇ、よう考えとって貰えんかのう」
「分かりました」
「そりゃええがのう、又々頼みたい儀があってな」
「どうぞどうぞ何なりと仰って下さい。及ばずながら少しでも上里様のお手伝いが出来れば」
「有難うな、何時もながら感謝しとるよ」
「本題に入るが前にも云うた様に、ワシ等、ていたらく役人の能無し捜査の所為で、迷宮お蔵入りしとる事件がゴロゴロあるんじゃ。今回お願いしょうとする件は布野村て起きた行方不明事件なんじゃ」
「其れは如何様な内容で」
「ほんにすまんのう」
「本来ならば、此れも公表出来る様な代物じゃないが、この件はな、何せ行き方知れずが三人も出とるで三次代官所の大恥を藩内だけならず、広う世間に晒したまんまよ」
「お陰で隣りの毛利野郎等の恰好のお笑い種よ」
「経緯を云うとな、石見銀山より産出した石州丁銀やらを秘密裡に出雲街道を三次迄運ばれとったんじゃ。赤穴の関所からこっちは、布野番所の役人が引き継いでから、百姓人夫達と警護の者と大八車三台で峠を下って来てな。暫く休憩の後、交代の奴等が番屋を出発し、真光寺前から山家回りで峠を登っとったんじゃ。
 処が、坂道が急な為に夫々の車列が見えない程離れてしもうた。まぁ、山家の峠のてっぺんの一里塚で合流すればええじゃろうと、荷番の見張り野郎等は軽うに思うたんじゃろうて」
「何せ、何時も通うとる勝手知ったる我が道じゃ」
「処じゃがだ、真ん中を進んどった荷車が何時迄経っても来んのじゃ。一里松の袂で待っていた他の二台は、おかしいな、奴らどうした、と訝ってな。
 居なくなった二番目の後を行っていた者が大声で叫んだのよ」
「ワシらは追い越して来とらんし、何処で消えたんじゃ!」
 前日の悪天候で大雨に見舞われ、神之瀬川もかなり増水していた。然し、荷車が通れない程の状況では無く、現に他の二台も何事も無く橋の上を通過しているのだ。
 他の六人も一向にやって来ないのにイライラが募り、其れが不安、焦燥感に襲われだした。
「こりゃ,猿猴に引っ張り込まれたんでぇ」
 一人の百姓人夫がこう叫んだ。
「馬鹿を抜かせ!。そんなもんがおる訳きゃ無かろうが」
「ほいでも姿、形が見えんじゃないですか」
「ウ〜ン、然し、ワシ等じゃどうしようもないで。とに角,大切な荷じゃけ、忽ち三次代官所へ急ごうや。其処で緊急の対策を講じてもらわにゃならんぞ」
 二台の荷車は一里塚から緩やかな下り坂を一気に西城川合流地点へ転がり落ちる様に駆けだした。途中に人家は無く誰と出会うではなし、自分等で通報に走るしかなかった。やがて前方に広い西城川が見えてくると
「オイッ、此処までくりゃもう一寸じゃ。ワシは今から駆けって通報に行くから後は宜しく頼むでぇ」
「分かりました」
 布野番屋の若い役人は川沿いのなだらかな道を一気に駆け出した。
 然し、三次代官所に到着した頃には日が暮れかかっていた。
 門番に緊急事態を伝えると、代官と他の役人も数人が出て来た。
「実は銀山送りからの内密の荷車が一台途中でおらん様になったんです」
「何ぃ!、どういう事なら」
「ハイ、赤穴峠から引き継いだ荷車三台を九人で比叡尾山城へ送っていたのです。処が山家の一里塚の手前で真ん中を運んどった荷車がそっくり消えたんです」
「お前な,何を馬鹿な事をぬかしょうるんなら!」
「でも本当の事なんです。其れも私と同僚の一人と百姓人夫の二人が姿が見えんのです」
「お前等は見張りに付いとったんじゃないんか」 
「其れはそうなんですが、山家の九十九折りの急坂で互いの間隔が空いてしまい、一里松の下で待ち合わせりゃええ思うたんです」
「そしたら中の奴等が消えたというんか」
「そうです」
「分かった。事情は今から行く道すがら聞くから即ぐに案内せぇ」
「然し、今から駆け付けてもとんと何も見えんぞ」
「そうなんです」
「コラァ! 他人事みたいな事を抜かすな」
「すいません」
「とに角な、大掛かりな捜査は明日になるで。なんぼ初動捜査が大切じゃ云うてもこれじゃぁな。取敢えず、今から先発隊を出して現地で野営をするつもりで当たってくれぇや」
「後から駆け付ける奴に明日早朝に一緒に現地を案内してくれるか」
「忽ち、お前等の荷は一晩此処へ置いとけ」

 次の日は早朝からの捜索活動を開始した。前日に現地入りした班が布野番屋を出立し、一方の三次代官所からは反対方向から山家を目指して駆け上がって行く。
 処が三次地方独特の自然現象である深く濃い霧の海だ。西城川を遡る時はまるで一寸先も見通せない。
 道を対向して来る山仕事に出かける馬と出合うと近づく姿が見えず、いきなり大きな図体が現れるのだ。蹄の音や山師の声で気付くが、皆が一様にたまげる事となる。
 此れが山間部に上がって行くと霧の晴れ間が見えてホッとする瞬間なのである。
「然し、こりゃ又凄い事になっとるな。何時頃晴れりゃ」
「下手をすると昼あたりかと」
「やむを得ん、暫く一里塚で待機じゃ」
 代官だけが馬で他の役人は全員歩きだ。
 旅人通行人が、街道を通行する時の為の距離の目安で有る、五、六本有る松の一里塚の下まで到着した。
「この辺りかい、よう猿猴が出るじゃの山賊が現れるじゃのいう所は」
「はぁ、山賊じゃいうてもコソ泥程度の奴等の様で」
「然し、お前等は其の程度の奴でも今までにとっ捕まえたこたぁないじゃろうが」
「・・・」 
「つまらん噂を立てられん様にしっかりやれえゃ」
「分かりました」
 このてっぺん辺りは霧も無く、代官からごちゃごちゃ叱言をくらいながら、比較的なだらかな坂を下って行くと神之瀬川に突き当たった。
「オイッ、今迄に来た処で別に怪しげな箇所は一つも無いで」
「此処までの来る間に居なくなったんですかね」
「まあ、あっちから来る奴等によう聞いてみるか」
 三次から来た班は大八車がやっと通れる程の橋の真ん中に座って布野から上がって来るのを待っていた。
 此の橋は欄干が無く足元から水面が見えるちゃちな作りであった。だが今日の水嵩でも流れずもっている。
 一方、布野側から上がって来た班は九人程であった。
 何とこの時に、気を利かせたつもりなのか、昨日と同様に、模擬的にかます袋に砂を詰め同じ条件で三台の大八車を引いて来たのだ。然し、結果的には此れが仇となる。
 真光寺から一里塚を目指して急坂に掛かりだすと、一列に上っていたのが段々と車列が乱れだした。夫々の体力の個人差が出てきだしたのだ。ましてや重い大八車を引いているとなると尚更だ。
 橋の袂に降り着いた時はバラバラの状態であった。
「オウ、ご苦労じゃったのう。来たのはお前等一台だけか」
「いいえ、もう二台やっで来ますが」
「出る時は一緒に並んで出発したんじゃないんかい」
「はい。でも九十九折りで差が付きました」
「なるほど、そういう事か」
「して通うた道すがら怪しげな不審な処は無かった か」
「いえ、道中にこの大八車が引き込まれる様なとこは何処も無かったです」
 そうした時、漸く二台目が到着、更に三台目も間隔を於いて橋の上にやって来た。
「フ〜ン、そうじゃったか」
 居なくなった区間の距離は結構ある。その途中には脇道に逸れる何本も道があった。ただ、草叢になっており、轍の跡とて無くあまり踏み締めた形跡が無かった。
「奴等、大八車ごと此の橋の上から落ちて流されてしもうたか。これしか考えられんで」
「今から、橋から下を探索じゃ。始め!」
 然し、命令した代官も半信半疑であった。
「こんな低い橋から落ちて全員溺れ死ぬかのう。積荷は重とうて沈むじゃろうし、とてもじゃないが考えられんがのう」
 川岸の両端から二手に分かれて探索にかかった。歩ける道も無く、草叢の中や場所によって腰まで水に浸かりながら進む。
 やがて布野川と合流地点までやって来た。
 然し、何の痕跡も見当たらない。
 以降も一本道に限らず他の細い道の草叢をチョロチョロと見回るだけで、周りの道より高い場所などへ駆け上がり調べる事など一切しなかった。馬車が道より高い所を通る筈もないと考え違いをしていたのだ。
 ましてや、行き方知れずの百姓人夫の事など、さして気にもしなかった。
 この戦国の世に国人領主が群雄割拠する時代、まだ法制度というものが確立されておらず、ましてや武家社会に於いて百姓町人の生命など意に介さず、同時に居なくなった見張りも最下級役人で全く軽んじられ、後の捜索などどうでもよく、早々に引き揚げてしまった。
 ただ、藩の内密の重要な公金搬送という事で代官みずからも現地に赴いたのだ。
 大八車もろとも番人と百姓人夫が橋から転落して流され、何もかもが行方不明として処理したものと思われる。
  
 今回の事件の発端も前回同様の河川絡みの事案である。
 三次地方は、中国山地の奥深くにあり、周りを山々に取り囲まれてかなり高い処に盆地を形成している。 
 其れに全国的にも大変珍しく、幾多の大きな川が一点に集中し其れが日本海へと流れていくのだ。その独特の地形の為、霧が発生し正午近く迄霧の海となり幻想的な風景となる。こうした背景の為、昔からの風習や因果応報の習わしが多く言い伝えられてきた。特に布野村はその数たるや恐らく日本一であろう。
 布野川や神之瀬川に大小様々な川が深い山懐に存在し、平家の落人、比熊山系の物の怪、川淵に潜む猿猴(カッパ)、狐火伝説と枚挙にいとまがないほどだ。

「与作殿、これが大凡の今回の依頼事件なんじゃ。この時もワシは全く関わっておらず、探索資料内での推測の域なんじゃ。すまんが山家を越えて布野村辺りに出向いてくれんかのう」
「其れが今回の事件の発端ですか」
「そうなんじゃ。此れも例によって何の確証も掴めとらんのよ。其れにこの時の番所役人と駆り出された百姓等二人が、今以て見つかっておらんで不明のままなんじゃ」
「此の件があってからは猿猴説が広まり出してな。実際は有りもしない事なんじゃが、何しろ人間が三人も消えとるでな。とに角、川ん中に引っ張り込まれて肝を喰われたじゃの、世間はまことしやかに吹聴しおるのよ」
  ''猿猴,,とは、全国的に伝わるカッパの別名で全身毛むくじゃらで猿に似ている広島、中国地方に昔から伝わる伝説上の生き物の事
 
 与作と忍者一家は、尾関山下から江の川を下り暫く行くと右手から神野瀬川と合流地点迄来た。其処を北に上って行くと布野村に続く。
 此の道は布野村に行くのには近道であり与作は度々利用していた。然し、険しい山並みの谷間を流れる神之瀬川は切りたった断崖でその直ぐ横が細い道の為、何時転落するとも限らないのだ。大きな荷物の時は絶対に通らない。
 その布野川に沿って北奥に向けて行くと細長く広い平地が見渡せる。
「オイッ、皆んな、ようよう始めるとこへ来たで」
 此の与作の一声に歓声を上げて走り回っている。
 此処の布野村は三次から出雲へ抜ける街道の赤穴峠の手前の宿場だ。
「おい、皆んな此処はお化けが仰山出て来る処じゃと昔から言い伝えがあるんでぇ。喰われんように気い付けや」
「・・・」「・・・」「ハイハイハイナ〜」
 こんな事を聞かせても分かる訳もない。皆んなキョトンとしている。ラー助は人をおちょくるような返事だ。
「ワシも馬鹿じゃのう」
 処が、ラー助は大真面目だ。上空を旋回していたが突然舞い降り
「カジカジ!」
 と叫ぶではないか。
「ラーちゃん、何の事じゃ!」
 すると鉄と玉が走り出したではないか。
「オイッ、何処へ行くんなら」
 本当に一家の連係がいい。もの凄い嗅覚の鉄と玉は燻る臭いに反応し、ラー助の飛ぶ方に向かって行くではないか。
「火事のことか」
 と与作も気付いて後を追いかける。
 右手の山裾の直ぐ先で、百姓家の納屋から煙が立ち込めているではないか。
 鉄は、いきなり其処の戸へぶち当たりひっくり返して飛び込んだ。そして燻っているボロ布団を口に咥えて外へ引っ張り出してきた。
 丁度、其処へ与作が駆けつけた。鉄がワンワン吠え立てる。
「鉄ちゃん、中へ誰かおるんか。よしゃ任しとけ!」
 幸い火は部屋中に移っておらず、コタツの先の積んであった物が燃え、布団に広がりつつあった。でも其のコタツには''中気(ちゅうき),,の母親が寝ていたのだ。  
 煙の中、与作は咄嗟に抱え上げ外へ連れ出した。そして又、布団を水に浸けて持って入るとバタバタと火を叩き消し始めた。
 そうした頃、鳴き叫ぶ鉄の大声に漸く周りの住人達が駆け付けだした。
 幸いラー助のお陰で、燃え広がる手前でくい止める事が出来たのだ。
 ボヤが終わった後、大勢が駆けつけ、現場は村の集会の様な火事場の馬鹿騒動になっている。何せ普段は皆んなが一同に集まる機会が無いのだ。 
 其処に庄屋さんが立ち合いに駆けつけて来た。
 救出された母親はその時もまだ、庭先の地べたに布団を敷いた上に背中を丸めて座っていた。
「婆さんよ、大きな火事にならんで済んだのう。助かってよかった、よかった」
「皆さんにはお世話になり有り難う御座いました。誠に相すまない事で。庄屋様、本当にご迷惑をお掛け致しました」
「どして火が出たんなら」
「多分、息子の煙草の不始末でしょうよ。本人はまだ戻って来とらんのですが」
「そうか、そりゃええが最初見つけて助けてくれた人はどうした」
「他所の全く知らん方じゃたですよ」
「火が布団に移って燻り出した時に、大きな犬が現れて、其れを外へ引っ張り出していったんじゃ。ほいから煙の中に男の人が飛び込んで来て、抱きかかえて連れて逃げてくれましてね」
「ほいじゃ、その人と犬に礼を言わにゃいけんのう」
 其処へ隣りの百姓が一口挟んできた。
「ほんなら、更にカラスにもでぇ」
「どういう事なら」
「あゝ、最初な、煙が出だした時にワシの家の空から、ぎこちのうて''カジカジ,,云う声が聞こえたんじゃ。何事かいな思うて外へ出てみたら吾作の納屋からよ。其の声はどうもカラスのようじゃたよ」
「ありゃ、どしたんじゃ。さっきまで居られたのに」
「ほんまじゃ、何処へ行かれたんかのう」
「その人も大けな犬も姿が見えんぞ」
「まるで忍者みたいな人じゃのう」
 与作は現場がひと段落付いたと確認すると、そっと裏山に立ち去ったのだ。
「早うに此処を逃げんとな。庄屋さんと逢うてみぃ、今迄に何度も使いに来とるワシが浅田屋の丁稚じゃ云う事が即ぐバレるからな」
「えらい手間どったが皆んな大丈夫か。もうくたぴれたんじゃなかろうのう」
「何を言ってるの、褒美を貰える遊びはまだ此れからだよ」という顔をして与作を見上げている。空からは「ホウベ、ホウベ」とラー助が叫んでいる。
 何とも頼もしい忍者一家である。 
 布野の番屋から君田街道へ進んで行くと高台に真光寺さんがみえる。街道とは名ばかりで三尺あるかそこらの道幅である。此処へは浅田屋から何度も訪れていた。
「此処から出発じゃから縁起を担いでお参りしてくるか」
 寺の直ぐ下から人家も少ない山道を山家を目指して駆け出していく。何と元気なものだ。いきなり峠に差し掛かった。
「オイ、慌てるなよ。此れからなんぼうも急坂があるけぇな」
 体力の個人差が如実に現れる険しくガタガタの細い坂道だ。与作でも息が切れる程なのだ。然し、鉄は全くへっちゃらである。これならば夫々の荷車が当然、差がつき間隔が開くはずだ。其れも何度も繰り返して有るのだ。
 やがて峠を下った先に岩だらけの小さな川が見えだした。  
 短く小さな橋がある。何とか荷車が渡られるだろうか。鉄が先に渡りきり、与作も其れに続いて渡りだした。坂を下る途中から与作の懐から飛び降りて歩いていた玉が、橋の手前で躊躇する様に止まってしまった。
「オイッ、玉ちゃんこっちで」
 と呼んでも動かない。
「恐ろしいんか」
 確かに橋板に隙間があり猫の小さな足がはまりそうなのだ。だが玉は、そんな事は関係無さそうに、右手の笹の被さった小道に入って行くではないか。
「ウ~ン、こりゃ神業が出たな」
 此れを見ていた鉄も、渡っていた橋を一気に引き返し、玉に続いたではないか。其れもあろうことかラー助も真上に飛んで来て
「ココ、ココ」
 と叫ぶではないか。
 途端に与作も直感的に閃いた。その場所は神之瀬川が大きく蛇行し深そうな青黒い水面に草木が覆い被さる様になっており、正しく猿猴が出て来て引っ張りこまれそうな川淵である。
「ウ~ン、何か漂うとるな」
 流石に与作も元坊主くずれの事だけはある。
 道を進むにつれて其れが増しだした。
 するとラー助は即ぐに看板らしき物を与作の目の前に落としたではないか。
「オモイ、オモイ」
「そりゃ重たいよ。なんぼうラーちゃんが爪が強いゆうてもな」
 其れには''此の先、崖崩れで通行止め、此方から回れ,,と記されている。
「何じゃ、奴等、此れにまんまと引っかかったな」
 其れにしても犯人は大胆な作戦に出たものである。
「ラーちゃん、何処にあったんかいな」
 ラーちゃんの目を見ると、直ぐ其処よと知らせている。
 何と道から十尺ほど高い草叢の中に無造作に放り投げられていたのだ。
 とに角、此れはラーちゃんの得意中の得意とするところである。小さな頃から忍者一家が、山中で宝探し遊びでやっている事で、造作もないことなのだ。
 狭い道の直ぐ上の草叢の中に玉が駆け上がって行く。
「どした、玉ちゃん」
 其処には人間の頭程の石が三つあるではないか。
 鉄と玉が其れに近づくと前足でガサゴソと土を掘り返しだした。
 少し掘っただけだが着物らしき布切れと白い物が見えた。
「待て,待て!そっから先はワシがするよ」
 然し、こんな卑劣な事をする犯人にも少しでもの呵責に苛まれる程、武士の魂が残っていたのであろうか。
 だが、その他の荷車、かます袋,縄などは一切無かった。
 此れ等は現場より神之瀬川を下り布野川と合流する迄の間に処分したと思われる。
 増水中の猿猴の淵から、荷車は叩き壊し、さでくり落とした事であろう。其処から更に江の川迄行ってしまえば銀のありかが誰にも掴めず手の施しようが一切ないのだ。
 犯行後は三次の地に未練など一切なく、お宝と共に早急に姿を消している。到底、犯人の足取りを追うなど絶対に不可能だ。
 与作が推測するには、先発隊と二番目との荷車が間隔が空いている時に犯人等は橋を渡る手前に
 ''崖崩れでこの先通行止め、此方から回れ,,
 の立て看板を急遽設置し、二番隊のみを誘導したのだ。この二、三日は雨続きであった為に何の疑いも持たず指示通りに進んだものと思われる。作戦に乗った後は直ぐに看板は外したのだ。
 此処の山家の峠では度々山賊が出没すると云われていた。
 実際に与作も何年か前に一里塚の袂で「有り金、なんぼか置いていけや」
 と云う様なケチな山賊に出くわしている。
 だが此の事件の犯人は明らかに元武士の其れも落武者の仕業と思われた。
 如何なる方法で襲撃殺害したかは分からない。埋められた白骨遺体全てを掘り返した訳ではなく判別不能だからだ。
 だが犯人の中に、一撃必殺の弓の名手が居たとおもわれる。現場の状況からして、瞬時的に犯行に及んだ事であろう。そうでなければ必ず前後を通過している他の仲間に大声で叫ばれ知られてしまう。この男は、何処ぞの負け戦から逃亡し、この地に隠れ住んでいた落武者であろう。
 橋の手前から右の細い小道に誘導された荷車は、何の疑いも持たず入ったのだ。処がニ、三十間進んだが
 他の荷車の轍の跡も草を踏み締めた形跡もない。
「おい、この道は先に行かりゃせんぞ」
 急遽、その場で方向転換しようとしたのだ。其処へ道上で待ち構えていた犯人等に狙い撃ちされ、大声を発する間も無かったのだ。
 後は何人いたか知らないが手際よく処置したものとおもわれる。
 八尺の大八車は叩き壊しバラバラにして目の下の川に投げ捨てた。然し、三人の遺体はさすがに流すわけにはいかず少し道上に運び埋めたものだ。
 そして盗んだかます袋も近くに埋めた。
 其の後は川を下って行き浅瀬を歩いて渡る。後は勝手知ったる山の尾根を自分等の隠れ家に帰ったのだ。
 かます袋は一袋だけ持ち帰った。中身の一応の確認をとる為に。
 其れから、日にちを変えて自分等も逃げる算段で山をおり、お宝を掘り起こすと後は川を下り江の川へ出たのである。
 此れだけの大胆な犯行を瞬時にしてなし得るはに一人や二人ではない。其れも並の人間に出来得るものではなく、確実に策士がいたものと察しがついた。
 其れは偽看板書きに見てとれた。 
 文字が書かれていた板は、事前に用意した穴掘り用の道具で、急遽、その上に矢立から筆を取り出し、走り書きしたものと思われる。
 やはり、武家崩れか落武者の仕業と考えられる。其れも部外者が急にここに来て犯行を仕出かしたのではなく、必ず近辺に住んでいて地の利を得ていた者のした事としか考えられない。
 与作は、犯行現場の立ち合いを終えると暫く其の場に佇んだ。如何にも無念な犠牲者の霊を放ってはいられない。
「オイッ、一寸待っとれな。何時もの様に供養をして上げるからな」
 鉄、玉、ラー助も心得ている。
 内懐に常に身につけているお数珠をとり出した。
 そして静かな川面に向かい読経を始めた。
「ナマンダブ、ナマンダブ・・・」
 すると何時ものラー助の伴奏である。
「ナンマイダ〜」
 然し、このカラスは本当に頭が良く、言葉と相手 心を理解出来る。完全に自分が人間で与作の子供だと思っているのだ。
 何はともあれ後の始末は代官所に任せ、本格的な供養はお寺さんにお願いするしかないだろう。

「さあ、此れからどっちに行くかな」
 と声を掛けた。
 鉄と玉の顔色を伺うと、当然よとばかりに互いが一緒に現場から道無き道を南に向かい歩き出した。
 比熊山系に続く雑木林で誰も立ち入らない険しい山中だ。
 処が狼系の鉄にとっては何の苦にもならない。
 獣道など得意中の得意とする処だ。倒木が有ったり背丈ほどの草木が行く手を遮る。こんな処を犯人等が通過したのも何年も前の事だ。
「鉄ちゃんよ、ほんま此処を通たんかい」
 だが此れ等の足跡でも確実に察知するのだ。恐るべし狼犬の嗅覚だ。
「オ〜イ、鉄ちゃんよ、ゆっくり行ってくれぇや。ワシも玉ちゃんも付いて行かれんよ」
 処がいたずら半分なのかますます調子に乗って先に駆け上がっていく。
「こんにゃろう。よしゃ、玉ちゃん飯にしょうや。 腹が減っては戦にならんからな」
 小さな声で話したのだが聞こえたのか、途端に鉄が踵を返して駆け下りてきた。
「コリャ、お前は現金な奴じゃな。まあええか。先はまだまだよう見えんから腹ごしらえでもしょうや」
 今日は一家の為の昼飯を作る必要がなかった。出かける時、上里様の奥様から作ってもらった弁当が有るからだ。
「オイッ、皆んなの口に合うかな。ご馳走が仰山有るでえ。何時も粗末なもんばっかし食わしとるからな。ごめんよ」
 その場に頂いた昼弁当を広げているとラー助がいないではないか
「あれぇ、ラーちゃんはどうした。メシ云うたらいの一番にくる奴が」
 呼んでやるかとカラス笛を取り出して一吹した。然し、何時もなら即ぐに舞い降りるのだがなかなか来ない。
「どしたんかいな。何処かへ雲隠れしょったんか」
 すると鉄、玉が鳴き出した。どうやら南の空から帰って来た様だ。
 やがて何やら爪に引っ掛けているのが与作にも見えた。
「ラーちゃん、何処へ行っとったんかいな」
 すると何と分けてあるラー助のメシの上に被さる様に落したではないか。
「ワシメシワシメシ」
「こりゃ、何をするんなら、隠さんでもええのに」「おぉ、そりゃええがこりゃ何なら」
「かます袋の端切れじゃないか。中に入っとった布袋で、確か荷車で運んどったやつじゃろう。然し、何処で見付けて来たんじゃ」
「まあ、取り敢えずは飯でぇ、ラーちゃんが好きな物が有るぞ」
「カァ、カァ~、ウマウマ」
 然し、鉄や玉、ラー助にしても与作にとってはほんとに助かるのだ。食べる物と優しい褒め言葉だけで、夫々が超能力を発揮してくれる。
 特にラー助は国久公やお殿様の''ホウベ''と優しい言葉に、上空からの見張り役や、離れた場所への伝達事項を一っ飛びし簡単にこなしてくれる。
 此れは、全国的にも珍しく、全く他藩には存在しない。狼犬の鉄と共にカラスのラー助は三吉の殿様認定の忍者一家なのだ。
 飯が済んでひと休憩を終えると又々道なき道の険しい雑木林だ。先程からかなり歩いて来たが、全く人の歩いて踏み締めた痕跡が無い。
「鉄ちゃんよ、ほんまに犯人は此処を通ったんかい」
 空身柄でも難儀なのに、奴等はなんぼか分からんが袋を担いで上がった筈じゃで」
 玉の足では歩くのは難しく与作の懐の中だ。
「お前はええな、楽ちんで」
 そうしてゆっくりと登っている時、玉が飛び降りた。
 何間か先に行った時に止まって振り向くと
「ニャ〜ン」
 その時、上空から「ココ、ココ」とラー助が叫んだ。
 可愛いものだ、見つけたのは自分だよ、とばかりに与作に知らせたつもりなのだ。
「オオゥ、お前さん達凄いな」
 玉もラー助も嬉しくて堪らない。
 処が鉄ちゃんは知らんぷり、優しく、気ままでやんちゃな両方を見守っている。全く包容力が溢れているのだ。本当に仲のいい忍者一家なのである。
 案の定、与作が思った通りになった。
 犯人は中身を確かめる為に持ち帰ったが、かます袋があまりにも重く袋をばらして少量ずつ各自が運ぼうとしたのであろう。その為に、切り捨てた端キレが其処らじゅうに散らばっていたのだ。
「いよいよ、近うなったで。奴等はこの辺りに隠れ住んどったんじゃな」
 此処からは鉄、玉の動きが速くなりだした。ラー助は上空を旋回している。どんなに偽装していても、人間が通った後の折れた枝や踏み締めた草木を完全に見透すのだ。恐るべしラー助の眼力!正に千里眼だ。
 その上に更に凄いのが狼犬の鉄である。何年も前に通った道なき道を、其れも初めて嗅ぐ人間の臭いを、何処までも察知し追いかけていく事が出來るのだ。
 然し、こうした超能力を引き出せるのも、互いが一つ屋根の下で暮らし、宝探しや隠れんぼ遊びをやり、日頃から動物用語で話をして生活しているからこそ実現する事なのだ。
 特に其れらの能力を切磋琢磨し、最大限引き出せる様にする与作も並大抵の人間ではない。
 
 平家の落人が隠れ住んでいると云われる、比熊山に連なる険しい北側山中に、お粗末な掘っ建て小屋が其処にあった。
 随分前、明光山に登った時にも同じ様な物があったが、此処も一時的に山に立ち入った人間が見つけるのはまず不可能であろう。その小屋に近付く道が何処にも見当たらない。同じ箇所を絶対に踏み締めないのだ。
 与作はその建物を見て、此れは地元の人間が建てた物では無いと直ぐに判断出来た。何せ、親父は大工仕事を生業としている。常に作業を子供の頃から見ているからだ。
 この小屋は小さくて、中心になる大黒柱は要らないが梁の木組みのやり方が根本的に全く違い、其れに屋根の形も構造もだ。木の材質もそうだが天候の違いの影響であろう。何処の地方の建築方法かは分からなかったが、明らかに西日本のものではなかった。
 此処の比熊山は昔から妖怪が現れるという伝説があった。然し、何時の世もお化けなど居よう筈がない。此れは世を忍ぶ為の落ち延びた人間が自分達の身を隠し、世間を欺く一つの手段だったのだ。その為に、神楽面、かつら、衣装や狐火のお化け小道具を各地の神社から盗み集めては、世間一般人を近付けさせないよう変装して仕掛け、脅しがてらに使用し、町中に下りてはまことしやかに吹聴したのである。
 特に、其れが顕著に現れ出したのは壇ノ浦の合戦で敗れ、全国各地に散らばった平家の落武者の影響が多いなるものがあった。
 此の三次の地に於いてもそれが云われていたのであった。
 隠れ住人が普段街中に現れる時は、木こりや百姓風の出立ちでまず疑われることは無かった。
 三次の町にはそれなりの人口がおり、其れこそ士農工商様々な人間が去来している。
 其れがこんなにも悪質な悪知恵を働かせて地元の人間を三人迄も殺害している。
 犯行は絶対に許せるものではない。
 だがそれに対して、一矢でも報いてやりたくても時が経ち過ぎており、追跡とて到底叶わぬ事なのだ。
 与作は残念でならなかった。 

 比熊山の南側の西城川に面した麓に太歳神社が有る。創建も古く平家落人が逃げ隠れたといわれる時代よりも約四百年も前の事である。其の間は、おそらく此の三次の地も比較的平穏無事で物の怪伝説等存在しなかった事であろう。この太歳神社は古く、神話伝説の出雲大社の近くから勧進され、八百万の神の木花佐久夜毘売命が主祭神として祀られている。
 この三次の地は古墳時代の遺跡が多くあり川が人間が生きていく上で重要な役目を為していたのであろう。
 この地を治めた三吉藩主が代々、十五代に渡り戦国時代、約四百年を生き延びたという事は驚異的な事である。
 鉄砲等の飛び道具のない時代、刀と弓矢と人海戦術で合戦をする為に、堅固な城郭が一番の防御法であった。
 然し、其れも時代とともに変わっていき人民と隔離した高く険しい城山は廃り、住みやすく全てに便利な平地に変わっていったのである。
 各地で戦力闘争に明け暮れる国人領主ばかりで全国制覇をする程の権力者未だ現れなかった。

「御家再興などとは程のいい名目なのです。確かに主犯は位の高い武家の出の者でしょう。付いていた奴もかなりの策士の様です。然し、此の時代、所詮は悪あがきに過ぎず、山賊の類でしょう。
 残念ながら盗られた物は返って来ません。バレずに両替えが簡単に出来る京、大坂に持ち逃げしている事でしょう」
「今回の件ですが如何せん時が経ち過ぎております。其れに犯人等はとっくにこの地を離れております。どうにも京、大坂まで追跡する事は到底私達では不可能です。悪しからず」
「何を言うとる。ワシ等の読みの浅さと筋違いの探索方法を痛感させられたよ」
「ご苦労じゃったのう。所詮、盗まれた物は返っては来んが、ほんま犠牲者の方々に、ええ供養をさせてあげる事が出来るよ。ワシからも感謝申し上げる」
「其れとな、今回の未解決事件に関してはお殿様も満足じゃないかのう。そりゃなんぼか銀が取られたのは残念じゃが、毎度の様な忍者一家の目覚ましい活躍ぶりじゃ。何せ、直々の認定忍者じゃからのう。人間じゃ到底成し得ん離れ業は日本国中何処の藩にもおらんぞと鼻高々じゃないかのう」
「こっち迄嬉しゅうなるよ」
 と次席は深々と頭を下げた。

第15話 昨日の友は今日の敵

 天文九年六月、尼子軍は三次路を通り志和地八幡山城に陣を敷いた。尼子国久公の軍勢は此処から二里程先の吉田郡山城を侵攻する為だ。
 然し、犬飼平で可愛川の長雨による河川増水や野分き(台風)の為、渡川する事すら出来ず攻略作戦が失敗し、敢えなく撤退する事となる。其れから尼子軍は此の二ヶ月後に第二次侵攻として石見路から三万の大軍を率いて郡山城の北西一里の風越山に本陣をおいた。尼子晴久公が総大将として吉田郡山城攻めを敢行したのである。
 此れに対して、一方の毛利元就は三千の精鋭と農民や工商の住民の殆ど一族郎党、約八千人を引き連れて籠城をしたのである。
 此処が元就の賢いところであろう。
 其れに呼応した近在の多くの領主も一斉蜂起し援軍に加わった。何箇所での撹乱戦法で尼子勢を分散させ地の利を活かしては尼子軍勢を翻弄した。
 奇襲戦法で仕掛けると見せては逃げ籠城をするの繰り返しだ。
 本丸の郡山城を攻め落とすどころではない。三万の大軍は分散されられ、小競り合いの紛争を余儀なくさせられた。その為に尼子の風越山の本陣が手薄になった隙を突かれ焼き払われてしまったのだ。ますます晴久は攻めあぐね処置なしであった。
 そうした処へ元就より援軍を求めてられていた大内義隆は十一月末頃に漸く参戦したのである。
 正に鬼に金棒だ。
 晴久は其れこそ成果を上げられず、段々と戦況不利となって来た。 
 そうした処に、尼子勢に従軍していた国人衆は叛旗を翻し出したのである。何の為、誰の為に遠くまで遠征し生死を懸けて戦わなければならないのか。現にかき集められた領主も何名か討死しており、更に多くの戦死者が出ている。
 毛利の加勢に多くの援軍がドンドン駆け付けだすと、更に形勢不利となりだした。
 其れに季節柄寒さが増してきだしたのだ。多くの軍勢は寒空の下で野ざらし状態だ。其れに対して毛利勢は都合が悪くなると直ぐに籠城してくる。屋根も有るし食料にも不自由しない。
 此れには尼子軍勢も戦闘意欲が全く萎えてしまった。
 不利なる状況を察した晴久は、翌年一月早々に雪の中を退却したのである。
 何度もの毛利攻めに失敗した尼子晴久は、これを機に尼子陣営を離れる各地の国人領主がどんどん増えていき衰退への道を辿っていったのである。
 一方、郡山城の毛利元就は、この合戦に勝利して以降、安芸、備後の國に勢力を拡大していく。近隣の国人領主の三吉広隆は其れまでに何度も尼子勢に手を貸した事により目の敵にされ、元就の侵攻の脅威に晒され、抗しきれず万止むを得ず、与(くみ)することとなってしまった。其れと前当主の尼子経久がこの頃亡くなった事により、尼子とは何の確執も無くなっていた事にもよる。   
 其れで大内勢の毛利元就に寝返った三次藩を憎しと思った尼子晴久は、叔父にあたる新宮党の国久公に三次藩の掃討を命じたのである。
 然し、国久公も辛かったであろう。今迄は何度も三次の地を訪れ、ありとあらゆる面で親交があった為に、急に転換し刃を向けられるものではない。
 ましてや、若いのに師と仰ぐ与作殿や忍者一家と事を構えるなど到底想像もつかなかったのだ。本当に戦国の世を恨まざるを得かった。

 時に天文十三年七月
 尼子国久公は、出雲国から国境の赤名峠を越え、七千の大軍を率いて比叡尾山城攻略を論んで布野迄来ていた。毛利が其の情報を知ったのは三刀屋を通っていた頃であった。
 毛利元就は急遽、援軍として安芸国の福原、児玉、井上の各氏を呼び寄せた。いわば寄り合い所帯みたいなもので作戦指揮も何もなく''てんでんばらばら,,の状態であった。
 千人そこそこの軍勢で夫々が時差を置いて布野に入った。其の為、戦闘態勢を整え待ち構えていた多勢の尼子軍に、布野川沿いに取り囲まれて逃げ場も断たれ、難なく壊滅されてしまったのである。
 尼子軍勢は圧勝し、それに乗じて更に山家から三次へ進軍する勢いであった。
 後日談として、毛利元就陣営は、各地の戦さにおいて過去に一度として負けた事がなかったが、この山﨑の戦いは何の策を講ずる間もなく完敗した為、布野崩れと称し以降の戦の戒めとしたのであった。
 其の戦況が時々刻々と早馬で城まで知らされる。
「オイッ、家老、ワシャどうすりゃええんじゃ。毛利の援軍の福原、児玉、井上各氏の軍勢か無茶苦茶やられて敗走しとるらしいじゃないか」
「こちら側は千人そこそこのようです。其れに先程の情報では井上氏が討死されたと報告がありました」
「ウ〜ン・・」
「何れ、明日中にも勢い付いとる奴等が此処の城下まで来るで!」
「今迄に三吉家が十何代も続いとるが、此処の天守が攻められたのじゃの古文書にも無い筈じゃ。ワシ等は籠城せにゃいけんのか。その備えが出来とるんか家老よ」
「・・・えぇ~、何とも」
「相手は七、八千も来とるらしいで」
「ほんま、頼りないのう」
「・・・」
「こっちゃ、なんぼもおらんじゃろうが」
「・・・」
「コリャア!家老、何とか返事をせえや!」
「頭のええ奴はおらんのか、頭のええ奴は!こんな時の名参謀はどうした!代官じゃ役にゃ立ちゃへんし、糞ったれが!」
「然し、・・・」
「ワレが先に立って陣頭指揮を取れや」
「そんな無茶な、こんな爺では何の役にも立ちませんよ」
「そりゃそうじゃのう」
「ウ~ン、頭が痛いのう.・・・・・」
「・・・」
 お殿様と家老は何の名案も浮かばず暫く黙り込んでしまった。額には脂汗を垂らしている。
 突如、殿様が大声を張り上げた。
「そうじゃ!こうなりゃ一か八か、戦さの素人でも構わん、忍者一家に頼んでみるか。前に国久公と話しとった時、奴は名参謀になれる男じゃと云われとったぞ。そうじゃ!そうじゃ、与作殿に相談せぇ!」
「ワッ、分かりました、其れはええ考えで。早速呼んで手を打つ様にしましょう」
 其処で殿様は犬笛を取り出し
「南無八幡!この近くにおってくれぇ、頼む!!」
 と念じながら一吹きしたのである。
 丁度、其の頃、与作は城の家老に呼び出しを受け、訓練施設の設立の相談の為、坂道を登城途中であった。
「然し、毎度の事ながら此処の急坂は堪えるなぁ、鉄ちゃん!」
「玉ちゃんは懐じゃし、ラーちゃんは空飛び忍者じゃし、ええなぁ」
 だがこの声に互いがウンもスンもない。
 荒い呼吸をしながら階段を踏みしめている時、先を行く鉄の耳がピンと立ったではないか。そして
「ウゥ~、ワン、ワン」
 と大声で叫んだ。
「ありゃ、お殿様がお呼びでぇ、何かいな。鉄、行け!」 
 反応の早い事、早い事、坂道を駆け上がりあっと思う間に開いている門番の前を通過した。
「コリャ、コリャ!何処へ入るんじゃ」
 制止をものともせず城内に侵入した。静けさの中、沈黙していた屋敷内の階段を駆け上がる大きな足音がするではないか。
「コリャ、待て!何処へ行くんなら!」
「ウヌッ、まさか、もう来たんか!」
「ウゥ、ワンワン」
「オイ、門番!もう良い良いワシが呼んだんじゃ!」
 此れにはお殿様も家老もびっくり仰天の笑顔であった。
「なんちゅうこったぁ!」
「鉄ちゃん物凄いな!」
 頭を撫でられ大喜びをしているではないか。そうして戯れあっている時に与作が駆けつけた。
「オオゥ、与作殿、いや、大将!」
「よう来てくれた早いのう。ほんま、頼りになる奴じゃのう」
 と言いながら立ち上がり、お殿様自ら駆け寄り手を差し伸べられた。
「お殿様、其れは・・」
「よいよい。まぁ座ってくれぇや」
「火急の呼び出し、何事で御座いましょうか」
「実はな、今、三次藩が大変な危機に瀕しておるんじゃ」
「其れは下々には分からない事で御座います」
「そりゃそうじゃ。そこでじゃ。大将の頭と知恵を早急に活用してもらいたいのよ。是非助けてくれんか、頼む!」
 と言いながら頭を下げられた。此れには与作も大変な事だと緊張が走った。だが
「分かりました。中身は不明ですが、私に出来得る限りの努力を致します」
「そうか引き受けてくれるか、有り難う、有り難う」
「詳細は家老と相談して詰めてもらえんか」
「大将、宜しく頼む!」
 何度も念を押され、殿様が席を立たれる時、
「鉄ちゃん、玉ちゃんはワシがその間、守りをしとくからな」
「ラーちゃんも多分天守の上におるじゃろう。呼んでホウベをやるからな」
「有り難う御座います」
 そういうと鉄、玉も嬉しそうにお殿様に寄り添って出て行った。
 後、家老と二人になると
「与作殿よ、殿から緊急の依頼を頼まれたが是非、助けて貰いたいんじゃ」
「其れは如何なる事案で御座いましょうか」
「与作殿も薄々は知っていると思うが、実は尼子軍が現在、出雲街道を布野迄来とるんじゃ。前の犬飼平遠征とは違うて、今度は晴久は国久公に命じて、ワシ等の比叡尾山城攻めを目論んどるらしいんじゃ」
「昨日の友は今日の敵の状況じゃ」
「やむを得ない事の様で」
「ワシもこんな事を与作殿や忍者一家に頼むのはほんまに辛いんじゃ。今迄は国久公とは特に仲が良うて互いの架け橋役を果たしてくれたからな」
「じゃが今度ばかりは三次藩の存亡がこの一戦に掛かっとるのよ」
「与作殿には、今度ばかりは全くの専門外じゃがええ知恵を出して貰えんかのう。是非、ワシからも頼む!」
「分かりました。お殿様や御家老のお気持ちは十分お察し致します」
「有り難うよ」
「近況報告の戦況によるとな、赤穴を超えてきた尼子勢を、毛利軍の安芸の國の福原、児玉、井上各氏の軍勢が迎え討ったんじゃが多勢に無勢、簡単に蹴散らされてしもうたのよ。完全に勢い付いとる様なんなじゃ」
「こうなりゃ、其の勢いで一気呵成に此処へ押し寄せて来るじゃろう。国久公は、ワシ等の事情を隅から隅まで何もかもよう知っとる」
「何せ、我が軍は五百少々の軍勢じゃ。相手は七千も八千も来ておる。まともにやりゃ到底勝ち目は有りゃせん」
「尼子軍勢は今晩、布野で陣を張っとるが明日の午前中の早い時刻にも攻めて来て、此の城山を取り囲むかもしれん」
「なるほど、分かりました。其れではほんの一時、猶予を下さい。その間に幹部の方々に集まっとって頂ければ」
「分かった。即ぐにそうする」
 与作は急遽、お殿様の心情を察し、必ずや成し遂げてやる、そして今やるべき事は何か頭の中で思い描いていた。
 とに角、早急に布野の地で決着を付けなければならない。
 山家を越えて三次に入って来られて城より一里も離れた町中に、広範に渡って火の手を上げられては、到底我が藩の少ない軍勢では攻めるどころか防御の方法も無いのだ。
  ''今打つべき手は何か,,
 真っ向勝負に挑んでは到底勝ち目は無い。何せ、尼子勢は十倍以上の戦力だ。相手が三次の町に入って来る迄にはケリをつけなければならない。とに角、山家越えを絶対に阻止する。そうしなければ精々、籠城するのがオチだ。
 今から夜半に掛けてが勝負だと咄嗟に踏んだのである。幸いにもこの布野の地には浅田屋の使いで何度も足を運んでいる。
 与作は決断を下すと開けっ広げの広間に入って行った。
 家老は与作の指図通り早速、大広間に幹部連中を五,六十人集め、鎮座させていた。
 此れには実の処、与作も多くの武士を目の当たりにして気が引けた。
 何せ、つい最近迄は丁稚奉公の身の上だ。然し、「ええぃままよ」
 と度胸を決めた。
 そしていきなり御家老が大声で叫んだ。
「ええか、皆の者、今日から与作殿は大将じゃ。お殿様の命令である。指示に従え!」
「オウ〜」
 と鬨の声(ときのこえ)を挙げた。 
 然し、この時、列席した侍達からヒソヒソながら驚きの声が発せられた。
 何せ与作は町人髷である。其れに中には三次の町の商店街を、前垂をした商人の恰好で彷徨いているのを見知っている者もいた。
 其の場の空気を察した家老は
「騒ぐでない!」
 と一喝した。
 早速、緊急謀議に掛かった。
 与作はおもむろに作戦を口にしだした。
「今から私の考えている通りに従って下さい。いいですね」
「オゥ」
「御家老様、今、松明を何本集められますか」
「何に使うんじゃ」
「そんな詮議よりまず集めることです」
「よしゃ分かった。管理しとるのは誰じゃ、すぐ分かるか」
「其れは城攻めの籠城に備えて千本は有ろうかと」
「其れでよかろう、大将、此れでどうじゃ」
「いいでしょう。其れでは、早急に其れを三、四つに叩き割り、尼子軍が陣を張っている布野に運んで下さい。急遽です」
「其れと、あと一つ、布野で尼子の軍勢と対峙する時の方法は一塊になり行動する事です。所詮、こちらの数は五百少々、バラバラに勝手に動くと到底勝ち目は有りません、簡単に蹴散らされてしまいます。今日の毛利の一千の援軍もほぼ壊滅状態です」
「差し詰め此れは''火の玉作戦,,と名付けておきます」
「私からお願いするのは此れだけです」
 此れには居合わせた連中から騒めきが起きた。
「たった其れだけで?」「此れで勝てるとでも思っとるんですか!」
「これじゃ全員早々に討ち死にじゃないですか」
「全く子供騙しの戦さ遊びじゃ。とんと話しにならん!」
「ワシャ、布野には行かん、此処で籠城じや!」
 大勢の不平不満の声に、さすがの家老もあまりにも淡白な作戦指示に心配になったのか
「大将、ほんま此れだけでええんか」
「大丈夫です!」
 此処まではっきりと断言される限り、大将に従わざるを得ない。
「分かった。皆の者、騒つくでない。命運は大将が握っとる。皆の者、ついていくぞ!」
「オウー、エイエイオー!エイエイオー!」
 打ち合わせが終わると、忍者一家がお殿様から離れて階段を降りてきた。
 与作は誰もいなくなった広間に暫く佇み、鉄、玉、ラー助を前に涙ぐみながらお願いをしたのである。
「あのなぁ、お前さん達には分かっていると思うが、実はお師匠さんがこの近くに来ておられるんじゃ」
「そんなの、あたぼうよ」
 ラー助に分からない訳がない。
 だが、皆んなはお師匠さんの物悲しい感情をとっくに理解していたのである。今は、やむを得ぬ事情で大好きなお師匠さんと三吉のお殿様が敵、味方になっておられるが、どうしたら皆んなを助ける事が出来るか、忍者一家は真剣に考えており、与作の気持ちを理解していたのだ。人間と動物ながら、互いに物言わぬが心は通じあっていたのだ。

 大八車何台もで城を下り、足りない分は城下の倉庫から補充し、畠敷から寺戸回りでやって来ると西城川を一気に駆け上がる。後は山家の峠を越えるだけだ。
 明日は晴天なのであろう。霧が立ち込めだした。
 大八車が現場周辺に到着すると与作は作戦の内訳を説明しだした。何時も浅田屋の使いで何度も通っており地形に詳しく
「尼子勢は川を挟んで谷間の低い処に陣を張っております。従って、今やるべきことは高い尾根沿いから谷間にかけて、下から見える様に等間隔に松明を立てて下さい。幸い今は霧が立ち込めて相手に気付かれる心配はありません。其の場所へは夜目が利く私と鉄が案内します。決して明かりは点けないように。万一、途中で相手の見張りが居るようでしたら、物凄い嗅覚の鉄が教えてくれますから其れに従ってください。
 夜半に霧の掛かり具合を見て火を点けて合図を送ります。そしたら一斉に点火して下さい」
 与作と鉄は、陣を取り囲む様に別々に二手に分かれ、おいこに松明を背負った若者達五、六十人を先導していった。
 かなり高い処からは目の下に大軍が野営をしているのがよく分かり、広場には何箇所も松明の明かりが見える。
 本日の圧勝気分に浮かれているのか陽気に談笑する声が聞こえてくる。
 若者は夫々に小分けした松明を命令通りに土の中に立て掛けていく。尾根から谷間にかけて鉄が先導して行く。そうしている時、鉄が立ち止まった。
「とした鉄ちゃん!」耳がピンと立つ。其れに気付いて後続の奴等は音を立てない様にその場に佇んだ。
 すると鉄はゆっくり木々の中を下りて行く。かなり下の辺りに明かりを持った見張り番であろうか二人いるではないか。その時
「ウォーン、ウォ〜ン」
 と鳴く声が山々に木霊した。
「オイッ!、この上に行きゃ狼がおるでぇ。降りろ降りろ!喰い付かれるぞ」
 この見張り番の叫びは上で据え付け作業をしていた者達にはっきりと聞こえた。
 然し、本当に鉄は凄い。正に千両役者だ。この声は谷向こうの与作達の耳にも届いた。以降全く作業がし易くなったのである。
 何千本かを立て終えるのにはかなり手間どった。更に、与作は雲の流れと霧の具合を確かめ頃合いを見計らい、最初の点火は夜半頃となっていた。
「それぇ!」
 何十箇所から一斉に行動に移った。松明には即ぐに点火出来る様にあらかじめ油に浸してある。
 すると徐々に山々に薄ぼんやりと明かりが灯り出すと、霧の中に浮き上がり、幻想的すら有る光景となった。
「何と見事な光景じゃのう」
 点火した本人達も感心していた。
 布野川、神之瀬川にかかる独特の深い霧の中に、狐火や火の玉の様な光が尼子勢を取り囲む様に二重、三重に高い山から見下ろしているようだ。 
 丁度、其の時刻に見張り番に立っていた尼子の兵士は、度肝を抜かれてしまい、浮かれ気分も一度に冷めてしまった。そして、大声が山中に木霊の様に響き渡った。
「オーイ!起きろ!大事じゃ」
「ワシ等は、いつの間にか完全に取り囲まれとるで、上から狙い撃ちされるぞ!」
 他の者は寝入り端に叩き起こされ
「何事じゃ!」「どしたどした!」
 寝ぼけ眼で空を見上げると、物凄い数の敵兵がこっちを取り囲んで睨んでいるではないか。完全に寝ぼけていてそんなふうに見えたのである。
 恐怖の為に戦意喪失してしまい、口々に
「オイ、起きろ!敵じゃ!」
「退散じゃ、退散じゃ、急げ!」
 物凄い数の敵の援軍が駆けつけたと勘違いしたのである。
 与作は退路を遮る事なく開けておいた。
 閉じてしまえば窮鼠猫を噛む場合が生じ、又、嘘の偽軍勢がバレて一気に反逆される可能性があるからだ。
 全く、烏合の衆と化してしまい動揺した尼子軍勢の者達は、野営施設から兵領米まで何もかも打ち捨てて逃走してしまったのだ。
 然し、国久公はこの時、此の光景を目にしていたが何の指示も命令もしなかった。
 この時の総大将が国久公の子、誠久であったが、戦にはまだ未熟であったのであろう。
 冷静さを欠いて「逃げろ!逃げろ!」と勝手に指図し、自らが一目散に逃走してしまうと後は収拾が付かなくなってしまった。
 だが国久公にとっては
「此れでよい、此れでよい」
 と胸の内がさっぱりとした気持ちで引き上げて行ったのである。
 此の奇襲作戦の手口は、相手の心情を慮(おもんばか)り、互いの犠牲者を少しでも出したくない、与作殿の作戦に間違いないと完全に悟っていた。どこまでもお師匠さんと与作は以心伝心深く繋がっていたのだ。
「与作殿、有り難うよ!」
 と心から叫んだのであった。
 翌朝、早くに此の奇襲作戦の情報は、早馬にて比叡尾山城の殿様の元へ火急の知らせが持たされた。
「お殿様、大変な事になりました!」
 この使者の一声に、昨夜から徹夜で、籠城覚悟の段取り謀議を重ねていた殿様、家老と数名の幹部連中に緊張が走った。
「どした!愈々こっちへ来やがるか!」
「いや、そうではありません」
「ほんなら何じゃ」
「はい、尼子の軍勢が一人もおらん様になりました」
「何ぃ!、其れこそどう言う事なら」
「奴等は踵を返して赤名峠を越して行きました」
「コリャ、訳の分からん事を抜かすな!ボケカス!七、八千も来とったんでぇ」
「実は私もよく事情が分かりません。ただ夜中に大声で、退散じゃ退散じゃ急げ!と叫ぶのが聞こえました。其の時分は真っ暗でしたから」
「成程そうか!」
「オイッ、家老、どう思やぁ」
「分かりません。某にはとんと」
「奴等は引き上げたと見せかけといて、半分は別の道から三次へ入ってくるんじゃないんかい。ワシのとこの軍勢が少ないのを国久公はよう知っとるから三千の兵でよかろうとな。昨日みいや、千人の毛利勢が簡単に遣られとるんで」
「別の道と云いますと」
「布野川を下って尾関山下に抜けるとかじゃな」
「其れは先ず無理でしょう。とてもじゃないが道が細うて軍事物資が通れません」
「然し、其れならなんでおらんようになったんなら」
「・・・」
「なんでじゃ、大きな山みたいなお化けでも出たんかいな。まぁそりゃ冗談じゃが」
「待って下さいよ。今、お化けと言われましたが確か布野村には、昔から猿猴伝説やら狐火伝説が御座います。さては、お殿様が言われた事が其れじゃないですか」
「狐火の事か」
「そうです。大将が命じてやった松明(たいまつ)のせいじゃないかと思われます」
「ウ~ン、これかのう。然し、松明をどう使うたんなら」
「分かりません」
「オイッ、われは夜中に起きとったんじゃろうが。何か気が付かんかったか」
「はい、そう云われれば山々の尾根や谷に物凄い数のゆらゆら揺れる明かりが見えました。まるで狐火の様でした」
「そうか、其れじゃ!正しく其れじゃ。奴等はな、ワシ等の援軍に駆け付けた何万の軍勢に取り囲まれたと勘違いしたんじゃ。大将が布野の地形を上手く利用したのよ」
「何という奇襲作戦じゃ。ワシ等の五、六十人の松明軍勢に七、八千の尼子軍は戦わずして退散してしもうたで」
「凄い!凄い、全く感服した!」
「大将は超能力者じゃ。千里眼とはこの事でえ、何もかも先を見通しとる」 
「そうじゃろうが家老!」
「全くで、お殿様の機転のお陰で御座います。恐れ入りました」 
 そうして一時の不安感の払拭に安堵していた半刻経った頃、二番目の早馬が到着した。
 この使者は布野から一段と奥の横谷よりからの知らせに駆け付けた。
「オウ、又、来たか。ご苦労じゃったな。してその後の様子はどうじゃ」
「尼子軍勢は、今頃は頓原辺りかと思われます。布野番屋の奴と一緒に後を付け、私は急遽、横谷から折り返しました。奴等が陣を張っていた場所を通とった時何もかも散らかして立ち去っていました」
「私等は大将の命令通り''火の玉作戦,,で一塊りになり山中で態勢を整えておりました。
 皆んなは夜明け前から霧の中、相手の様子を窺いながら前進しましたが何の気配も有りません。そして敵が陣を張っていた場所に、誰一人としていないのに気付きました。随所に食べ物から寝袋から散らばっておりました。此れには誰もが驚嘆し、間もなく喜びの大歓声が上がりました」
「なしてじゃ!尼子は何処へ逃げたんじゃ」
「物凄い事、奴等はおったんで。わし等に怯えて逃げたんか!」
 と口々に叫んで嬉し涙をこぼしながら誰彼なく抱き合っておりました。
 そして誰一人として犠牲者が無い事で口々に
「大将!」「大将が!」
 と感謝の歓声を上げておりました」 
「そうかそうか、処で大将はどうしとりゃ」
「其れが、さっぱり分かりません。何処で何をしておられるのか、皆んなで大声を掛けながら探しまくりましたが行方が分かりません。とに角、不思議なお方で御座います」
「ハハハ、さすが忍者一家の親分だけの事はあるな」
「然し、肝心の重要な時には、ちゃんとツボを押さえとる」
「そうじゃろうが家老!」
「然し、全く以って凄い大将で」  
 城中で歓喜の声に溢れている時、与作と忍者一家は暗闇の中、街道筋を引き揚げて行く国久公一行の後を追っていた。どうにも此れで二度とお会いする事が出来ないと思うと未練が残り本当に辛かった。これは鉄、玉、ラー助も同様である。
 与作と鉄と玉は赤名峠のてっぺんに到着した。此れ以上は國越えをする事は出来ない。朝焼けの中、遥か先を下って行く行列が見える。その中の馬上の国久公を涙ながらに一緒に見送った。
「ウォーン、ウォ〜ン」
「ニャーン、ニャ〜ン」
 特に玉には辛い別れであろう。あれだけ山中で死にかけたお師匠さんを思いを込めて看病し、心から息子のように愛し続けたのだ。
 又、この鉄の遠吠えは山々に木霊してお師匠さんの耳に届いている事であろう。
 ラー助はもう二度とお師匠さんと会う事は出来ないのを理解していて、更にもう少し見送っていく様だ。
 与作の辛い立場をカラスながら心得ており、目の下を引き上げるお師匠さんの肩に止まる事はなかった。布野から頓原辺り迄ずっと付けてきて上空から見張っていたのである。
 お師匠さんはとっくに忍者一家が峠まで付けていた事に気づいていた。そして、もの悲しく鳴く鉄の遠吠えを耳にし
「鉄!鉄!」
 一人涙したが振りかえることはなかった。さよならを云うのはあまりにも辛い。
 更にラー助は尚も頭上を飛んでいる。然し、お師匠さんはカラス笛を吹く事はなかった。だがこれ以上引っ張っては可哀想だ。
 惜別の念に堪え難かったが馬上より両手を振り振り
「ラーちゃん、もういいよ」
 と小さく叫んだ。
 すると、お師匠さんの頬が濡れたではないか。上からラー助の涙が顔に落ちて来たのだ。此れには、
 国久公も自分の目にも涙が溢れまくり慟哭(どうこく)したのであった。
 ラー助は身体を揺すらせ弧を描きながら南の空に飛んで行ったのである。

「じゃがよ、家老よ、こんな急を要する時には早馬だけじゃ埒が明かんよのう」
「左様で御座います」
「ラーちゃんがおってみいや、山、川、峠も何も関係有りゃへんぞ。互いの緊急連絡があっという間に繋がるで、其れもホウベだけで何遍もな。今は、今迄に仲良かったワシと国久公に挟まれて、どっちにも付かれず大将は自粛させとるようじゃ。じゃが此れが済んだら凄く役に立ってくれるぞ。早うに訓練所の設置をせにゃならんのう。ワシも教師役で一役買うで」
「またまたぁ、例によって忍者一家と一緒に出掛けたいんでしょう」
「へへへ、バレたか」
「実は、その事で与作殿と打ち合わせの為に呼び出し、登城の途中だったのです」
「ほうか、其れで早うに現れたんか」
「仰せの通りで御座います」
「然し、家老も大変な事をしてくれたな」
「えぇ、某が何をしたと・・」
「あん時に大将がおらんかってみぃ、強烈な城攻めをやられて、今頃はワシ等の運命は真っ逆さまになっとったかもしれんのでぇ」
「ほんま、お主にも感謝せにゃならんな」
「そんな、私は全く何の役にも立っておりませんが」
「ワシからも礼を言うよ」
「何度もいう様ですがお殿様の慧眼には恐れ入ります」
「ほうかほうか。嬉しい事を言うてくれるのう」

 この頃から、新宮党の国久公は国人領主の晴久公と尼子藩内で確執が生じ出し、段々と尼子は衰退の一途を辿る事となる。
 何度もの毛利攻めに失敗し中国地方の覇権を握るどころか次第に大内、毛利勢に領地を奪われていった。
 備中、備後、安芸と多くの国人領主が尼子を離れ、更に尼子藩内に於いても家臣の寝返り造反するものが増えていったのである。そして晴久が四十七歳で急死、後を継いだ義久は毛利元就の軍門に降り、降伏を余儀なくされ尼子氏滅亡へと繋がって行ったのである。
 国久公は尼子藩内の当主である甥の晴久に嫁していた娘が亡くなった後、互いが反目し新宮党共々粛清されてしまった。
 時に天文二十三年十一月一日の事である。
               享年六十三歳

 あれだけ尼子国久公本人と親交のあった与作と忍者一家はどうする事も出来ず、本当に痛恨の極みにむせび泣いたのである。 
 戦国の世を恨まざるを得なかった。

第16話 鬼に金棒

 お殿様忍者一家と支城まわり

 比叡尾山城天守では何時もの様に籠の鳥のさえずり
が始まった。
 「オイッ、家老よ、この度の尼子晴久が仕掛けた急襲にはたまげたのう」
 「左様で御座います」
 「ワシとおまえも互いが死に別れになるところじゃったでぇ」
「ワシ等みたいな程度の中途半端な国人領主にしてみりゃ、何れにしても勢いのあるとこに付かにゃ生きていけんわな。其れも多くの領民の生命や生活を守る為にはやむを得ん事なのじゃ」
 「仰せの通りで御座います」
 「其れを根に持ちゃがって晴久め、どれだけワシ等と仲が良かった事かを知っとって、わざと国久公を仕向けおってからに」
 「何れ近いうちに尼子は内紛を起こし滅亡してしまうぞ」
 「そりゃ間違いないでしよう」
 「然しなぁ、あんときにほんまに大将がおらんかってみぃや、天地が逆さまになるどころか、長年続いた叡尾山城もお釈迦になるとこじゃったよ」
 「だが此れも殿様の霊感というか咄嗟の閃きにより窮余の一策となったのです」
 「そうか、そう言うてくれると嬉しいのう」
 「じゃがな、大将はとんでもない才能の持ち主でぇ」
 「前にも国久公が言うとられたが、犬飼平合戦の時に、戦況見極めの為に米俵を仰山も川に流せいじゃとか、今度の布野村では松明(たいまつ)を用意せいじゃの、普通の人間では到底浮かばん発想じゃで」
 「そりゃええがのう、この度の緊急動員に対してな、急遽、応じてくれた支城の者達に礼の挨拶をしちゃらにゃならんよな」
 「そりゃそうですが」
 「其処でじゃ、今回はワシが行くつもりじゃが誰が付いて来りゃ」
 「ええ、殿が行かれるんですか」
 「勿論じゃ」
 「家老は付いて来んよな」
 「ハイハイ、ご尤もで」
 「おいおい、行かんとなると嬉しそうじゃのう」
 「そんなぁ。何れにしても老体なので足手まといになろうかと」
 「じゃったら忍者一家はどうじゃ」
 「それはラー助と云う空からの凄い見張り番が付きますね。其れと他の地上の護衛は如何しましょうか」
 「お主は何と大袈裟な事を言うのう。じゃあ大将はどうじゃ」
 「お殿様、其れは大賛成で御座います。鉄と共に力強いお付きが見守りをしてくれますから」
 「オイオイ、この前とはえらい違いじゃのう」
 「エッ、何のことで」
 「高杉城の時の事よ」
 「そんな事が有りましたっけ」
 「とぼけおってからに。まぁそりゃええがな、どっから行くかなぁ」
 「明日、代官所に用が有るよのう。其れから粟屋、青河を回って志和地へでも行くか。おまえも年貢の談議の件で話しがあったよな」
 「分かりました。皆んなと一緒に回れる様に早速にも段取りを付けましょう」
 翌朝、家老は早くに登城すると一人御用部屋に立ち籠り、礼状書簡と報償金目録を書き記していた。暫く錯誤を繰り返しながら頭を捻っている時
 「ナニヨウジヤ」
 「うんっ?」   
 「ヨジャヨ」
カタンカタンと音がする。ラー助が天窓を嘴で突きながら此方を覗いているではないか。
 「たまげたなぁ!ラーちゃんか。何もまだ呼んどらんのじゃがなぁ。よしゃ、中へ入れや」
 「でも丁度えかった、大将に使いを頼むよ」
 「マカセトケ」
 ラー助は暫く待っていると家老から書簡とホウベを貰った。早速、爪に引っ掛け喜び勇んで飛び立って行く。
 ラー助は今朝も早くから目覚めると一気に飛んで来た。何せ褒美が欲しいばかりで鉄や玉と一緒に食べたいのだ。実に優しいラーちゃん。
 「然し、凄いやっちゃな。ほんま人間の云う事が殆ど理解出来てやる事が速い速い。まるで空飛ぶ忍者じゃ。こりゃ早うにも次の養成を急がにゃならんで」
家老はぶつぶつ喋りながら一人悦に入っていた。

 翌朝、薄い朝霧の立ち込める中、お殿様と家老は城を出ると馬洗川の船着場に下りて行く。
 「オイ、家老よ、今日は舟で行くんかい。お主も横着を考えたな」
 「何をおっしゃる、舟を使えとおっしゃったのは殿ではないですか」
 「そうか、そうじゃったな」
 河原に近づくと忍者一家が待っているではないか。
 「何と早いのう」
 早速、お殿様に駆け寄って来てワンワン、ニャアニャァ大喜びである。
 「オオゥ、大将よ、今日も朝早うから呼び出してすまんな。まぁ宜しく頼むよ」
 「此方こそ、宜しくお願い致します」
 「さあさあ早う乗れや」
 「とんでも御座いません。私と鉄は川に沿って小道を
走って行きます。玉だけ舟に乗せて下さい」
 「何を言うとる、お主等がおらんとワシャ寂しいわい。とに角、早う乗れぇや」  
 お殿様に急かされ乗り込むと鉄が初めての舟に物珍しいのか水面を眺めている。玉は相変わらずに殿様の膝の上だ。
 「大将よ、急な呼び出しですまなんだな。今日はこの間の件で支城回りをしようと思うてな。そいで忍者一家に殿の警護を頼んだんじゃ。宜しく頼むよ」
と家老が声をかけてきた。
 「分かりました。お任せ下さい。なぁ、鉄ちゃん」
 「ウゥ、ワンワン!」
 「然し、凄いな。言う事がみな分かっとる」
 「上からはラーちゃんが見張っとってくれるしな。ほんま心強い限りじゃ」
 今朝も天気が良く水面に霧が薄くかかっている。馬洗川の穏やかな流れで川風が心地よい。
「こりゃ、ほんま快適じゃな。何でこんなええ方法があるのに、今迄に何代にも渡って誰も気が付かんかったかのう」
 「お殿様、宜しいでしょうか」
 「オウ、何じゃ」
 「乗船早々ですが提案が御座います」
 「何かいのう」
 畠敷の船着場から馬洗川を二町程下ってきた辺り、大きく湾曲した箇所がある。丁度その時、
 「今、通っている両岸を見て下さい」
 「何が有るんじゃ。竹藪や草が生え放題じゃがのう」
すると家老が
 「まるで雑木林でぇ。こんな場所なんざ屁の突っ張りにもならんじゃろうが」
 「お殿様、ご家老様、此れは川からすぐに手が届く近さですよ」
 「其れがどうしたんじゃ」
 「何故にこんな良い場所を放置されているんでしょうか。勿体ない限りでは」
 「そうは言うてもな、ワシにはどうしてええんかとんと考えが浮かばんよ」
 「船頭さん、一寸、舟を止めてもらえますか」
 与作は現場の案内の為に下船してもらうと岸辺の上に立った。
 「見て下さい。この広さを。今は其れこそ雑木林ですが全く平地です」
 「オイッ、家老よ、こりゃ何反くらい有りゃ」
 「さぁ忽ちは。でも一町歩は軽く超えるかと思われますが」
 「何ぬぅ、こりゃ凄い事でぇ!」
 「其れで大将よ、此れをどうすりゃええ思う」
と家老が質問を投げかけてきた。
 与作はぐるりと見渡しながら指差した。
 「此処は扇状地の様で開墾してからすぐに稲作の田んぼは難しいでしょう。水源確保の為には、先ず、上流から水路が要りますが此れは結構手間がかかります。ですから其れよりは手っ取り早く桑畑にしてはどうかと」
 「そして養蚕を始めればいいかと思います。これならば桑の成長は早く、蚕を取り寄せれるのも簡単な事です」
 「成る程な」
 「繭棚を作り、此処から繭を下流に持って行き、糸を紡ぐ作業場へ持ち込むのです」
 「三次盆地の他の農家にも奨励して生産をし、其れに昔からある、麻の栽培と合わせると何れ三次は絹と麻の繊維織物の名産地になろうかと」
 「オイ、家老よ、こりゃ凄い事になるで」
 「是非、大将を中心に早急に段取りを付けてくれんかのう」 
 「承知致しました」
 「然しよ、大将は目の付け所がワシ等ととんと違うとるな。今迄はなして放ったらかしにしとったんかのう」
 「比叡尾山城も何百年も続いとるが、誰も川を有効利用する事を考えつかなんだかじゃ」
 「三次の地は元来、天候にも恵まれ、水が豊富で干ばつで飢饉になった記録が有りません。ただ、今迄は此れを利用する程の人口が居なかった事もあります。でも三次盆地には何万年も前からご先祖さんが暮していました。然し、殆ど山手の丘陵地で居住しており、川は主に魚を取って食糧にしていた程度なのです。でも現在は陰陽交通の結節点として、盆地の中の広々とした町中も人口が増え繁栄しつつ有りますから、夫々の川を有効活用をすれば大いに役立ってくるのではないでしょうか。
 「飢饉と云やぁ一昨年は大変じゃったよ。ワシのよう知っとる所の殿さんもな、米の不作で食糧不足になり一揆らしき騒ぎになって困っとったよ。だから、ワシも少しじゃが援助してやったからな。何せ奴等の所ゆうたら険しい山ばっかりで平地が有りゃせん.材木を切り出して何処かへ売ろうにもとんとかなわんのよ。他に何の実入もありゃせんしな」 
 「とに角なぁ、大将の言う様に早急に段取りを付けようじゃないか」
 「お殿様、私は浅田屋へ奉公の頃、三次盆地の隅から隅まで歩き回りました。その時、可愛川、西城川、馬洗川の側を通って上流まで行きました。巴橋を中心に上流に向けて二、三里は川幅も広く水の流れが穏やかで全く天然の水路そのものなのです」
 「その川のすぐ側には凄く開墾用地が有るのです。其処へ稲作、麦畑、それ以外に養蚕の桑、麻、野菜、果樹園と植え付ければ三次全体が豊かになり活気が出て来て、正に鬼に金棒の様な状態ではないでしょうか」
 「ハハハ、鬼に金棒とはよかったな。嬉しい事を言うてくれるのう」
 「こんなに利用価値があるという事を思い付かんとは、全く情けない次第じゃ。''百聞は一見に如かず,,じゃないが先ず、ワシも家老もこの目で確かめる事から始めにゃならんな」
 「全く仰せの通りで御座います」
 「とに角、ええ事に気付いてくれたな。家老よ、各地の庄屋達と相談しながら力添えをしてやってくれんかのう」
 「勿論で御座います。大将、宜しく頼むよ」
 「有り難う御座います」
 「よしゃ、次に行くか」
 又、舟に乗り込むと殿様は目を輝かせながら興味津々で両岸を見つめている。
 「然し、家老よ、この川の流れはほんま穏やかなで。農産物の運搬や木材の筏流しにゃええし、上りにかけても少々の荷は水に竿差しゃ楽に上がるで」
 「右手を見てみいや、人家が無いけぇ余った土地がなんぼでも有るぞ」
 「此れもお殿様が川を使えやと言われた事がピタリ当たりましたね」 
 「ほうかほうか、当てずっぽうで話した事も満更でもなかったな」
 すると与作は
 「とんでもない。全く的確な状況判断で御座います」
 やがて舟の土手っ腹にガリガリと音がすると船着場に到着
 「オオゥ、もう着いたんかい」
 「ええ話しをしとったのにのう」
すると舟から鉄が飛び降りると一目散に草叢に駆け込んだ。
 「ゲェー、ゲエー」
 「おやまぁ、鉄ちゃんでも船酔いをするんかい」
与作が振り返るとすぐに何事もないような顔をして帰って来た。
 「普段は水の中へは寒かろうとへっちゃらで飛び込むんですがねえ」
 「ハハハ、鉄ちゃんは強いようでも弱みが有るんじゃのう」
 舟を降りると其処には馬二頭が用意してある。

 「オイッ、家老よ、今日はワシが代官所へ立ち寄る程でもなかろうが。普段から皆んなに好かれとるお主が話しをまとめとってくれんか」
 「冗談ばっかり言われてからに。私が一番煙たがれとるというのに」
 「へへへ、すまんのう。其れとな玉ちゃんの事じゃが、此れから志和地まで行くから長旅になるでな。帰りゃ暗うなるかも分からんけ預かっといてくれるか」
 「承知致しました。玉ちゃん一緒に居ろうな」
 「ニヤァ~ン」 
 「オゥオゥ、何と賢い猫様じゃのう」
 「ご家老様、宜しくお願いします」
 お殿様と与作は代官所の前を通過するとそのまま商店街の方に向かって駒を進めだした。
 「大将よ、今から一寸な、浅田屋へ顔を覗かせに行くか」
 「ええ、其れは結構ですが何用で」
 「この前のな、闕所(けっしょ)の事もあろうが。詫びを云うといてやらんとな」
 「分かりました。でも私が行くのはちょっと」
 「ええからええから、黙って付いて来いや」
 「分かりました」
 蹄の音を響かせながら武家屋敷を曲がるとすぐの商店街に入って来た。各店先では開店準備の為に忙しく動き回っている。
 そこへ馬二頭と狼犬が駆け抜ける。響く蹄の大きな音に多くの人々が飛び出してきた。
 「何事なら!」
 「おっ、お殿様じゃ」
 「皆んな控えろ!」
 段々と此方に近付いて来ると更に驚いた。お殿様の連れでいる馬上には、
 「何と云う事じゃ、与作じゃないか」
何時も見慣れた浅田屋の与作である。
 「ワオゥ、凄い!」
と感嘆の叫び声が路地に響いた。
 与作は浅田屋の丁稚も丁稚、下っ端で最低地位の人間である。それが武士でも上流階級しか乗る事が出来ない馬に跨がりやって来た。
 「どうしてお殿様と一緒に並んで来たんじゃ!」
商店街の人達は只々呆気(あっけ)に取られている。
 「御免!浅田屋はおるか」
 店先は既に箒の跡も爽やかに清掃を済ませておりそこへ番頭が飛び出して来た。
 「此れはお殿様、ようこそおいで下さいました。すぐに呼んで参ります」
 殿様は店先に暫し佇んでいると丁度その時、目の前に先般授けた金看板が掲げてあるのに気が付いた。
 「何とまぁ、ワシの書いた文字は下手っちいのう」
と一人ぼそっと呟いた。
 其処へ夫婦が慌てて店先に飛び出して来ると
 「此れは此れはお殿様、わざわざのお越し有り難う御座います。此方からお伺い致しますものを。どうぞ中にお入り下さいませ」
 「あゝ、よいよい。今日は他に志和地に用があってな、一寸、寄せてもろうたよ。この前の詫びを直接言おうと思うてな」
 「其れは誠に有難う御座います。でも前にもご丁寧なる事をして頂いております」
 お殿様と与作は馬から降りると一歩前に進み一礼をされた。
 「先般は悪い事をしたな、この通りじゃ」
 「勿体ない事で御座います」
 「お殿様、頭をお上げ下さいませ。バチが当たります」
と奥方が御礼を述べた。その時だ。
 「ワワン、ワン、ウゥ~」
と鳴きながら鉄が主人の前に来てじゃれつきだしたではないか。
 「アレッ、もしかしてこの犬は」
 「お殿様お付きの犬で御座いますか」
 「いいや、ワシのじゃないよ。大将の飼い犬で鉄と云うのよ」
 「やっぱり!」
 「道理でぇ。先般の件で、監禁されたり牢に閉じ込められたりと窮地に陥っていた時、娘の美和と私は互いに犬と猫に助けられました」
 「ハハハ、新手の牢破りの件の事じゃな」
 「誠に申し訳け御座いませんでした」
 「何の何の、ほんまありゃ痛快な事じゃったな。あれを仕掛けた国久公とは大笑いをしたものよ」
 「ほいで、その猫というのは玉の事じゃな。玉はさっき代官所へ預けといたよ。長旅じゃからな」
 「オイ、母さんよ、美和を呼んで来いや」
その間にも鉄は浅田屋に甘えて離れない。そして店の奥から下駄の足音が聞こえてくると、鉄がいきなり振り返り暖簾の下をくぐり中に走り込んだ。
 「ワンワン、ウォ~ン」
 「ウヮ~、あの時の犬だぁ!」
大きな鉄が立ち上がる様に抱きついた。
 「オオゥ、娘さんよ、この間は心配を掛けてすまなんだのう」
と言いながらお殿様は美和に頭を下げられた。  
 「此れはお殿様、びっくり致しました。おやめ下さい。勿体ない事で御座います」
 「然し、鉄は娘さんを助け出す事が出来たのが余程嬉しいんだな。まるで鳴き声が違うとるぞ」
 「鉄ちゃん助けてくれて有り難うね」
 「こりゃ玉も連れて来りゃよかったなぁ」
 「然し、動物には正直者はよう分かるんじゃのう」
 「前に家老が言うとったがな、娘さんは監禁されていた時の事を、犬や猫に助けられたと代官所で証言したようじゃが、取り調べした奴等は阿保か気違い扱いにし却下したらしいな。ほんま悪い事をしたな、ワシからもお詫びを言うよ」
 「重ね重ね勿体無いお言葉を頂き、誠に有難う御座います」
 「然し、ほんまの事じゃったんじゃのう。鉄ちゃん、玉ちゃん有り難うよ」
 「あゝ、玉は置いて来たか。ハハハ」
 暫く、互いが感激の再会を楽しんでいたがお殿様は
 「浅田屋よ、ワシたちは次に行かにゃならんでな。今日はこれでお別れじゃ」
 「ええ、もうお行きになられますか。折角お越しになられましたのに」
 「今度はゆっくり寄せてもらうよ」
 「是非共にお待ち申しております」
お殿様と与作は馬に跨がると    
 「大将よ、次へ行くか」
 「分かりました。其れでは失礼します」
と馬上から与作が一声かけ軽く頭を下げた。
 浅田屋親子は、与作にお礼の声を掛ける間もなく急な出立に、ただひたすらに腰を折り深く頭を下げ黙礼をするのみであった。
 「さらばじゃ」
 浅田屋はお殿様から大将と呼ばれる与作の立派な後姿を見て、感涙に咽びながら親子で見送ったのであった。
 
 三次の町から一路、可愛川に沿いながら志和地を
目指す。右手には高谷山が見える。この山は標高はそんなに高くはないが三次盆地を見下ろし東には比叡尾山城が目の高さだ。名物の霧がかかると全く幻想的絶景となるのだ。
 「此処からとんと家がないなぁ。寂しゅうなるな」
 「いえいえ、此処だけで其れなりに神社や寺、人家がポツポツ続きますよ」
 「そうか。この道は通る度に毎度の様に駕籠の中で寝とったからな、外の景色がよう見えとらんかったよ」
 「じゃが今、ワシは大将と忍者達とでこうして並んで馬で道中しておるとな、世の中が一気に晴れた様でスッキリとした気分じゃ」
 なだらかな川沿いの道を行くと、大きく蛇行した辺りに茶店らしきものがあった。その暖簾には「船所」とある。
 「おやまぁ、なしてこんな山ん中に船と名の付く場所があるんかいな」
 「其れはお寺さんから聞いた話しですが、此処からすぐ上の西酒屋は約二万年前の古代から多くの人が住んでいたようです。その当時、すぐ近くにこの可愛川が有った為、川魚漁をしていたのだそうです。大きく蛇行して水が深く澱んでおり、丁度よかったのでしょう。大きな丸太をくり抜いて小さな舟を作り、網による川魚漁をしていたのです。その為、大昔から船所(ふねぞ)と呼ばれていたのだと言われておられました」
 「其れはとんと知らなんだなぁ」
 「私は子供の頃、友達と志和地からここまで歩いて来ては、道の側に山を削った箇所に重なって多く有る貝殻の層を見に来ておりました。尤も此れは凡そ想像もつかない時代の頃、日本が海の底から隆起して誕生した時のものと思われます。更に近くには遺跡があってそこでは火を焚いて暮らしていた跡が何箇所も有り興味本意で見学しておりました」
 やがて左手の神社を通り越して青河峠のてっぺん迄やって来た。
 「オオゥ、何と見晴らしのええとこじゃのう!」
 「私はこの下の八幡山城の近くの百姓家の倅で御座います」
 「そうか、大将は此処の生まれか。道理で見通しがようて頭がええはずじゃ」
 「冗談ばかりおっしやってからに」
 「ハハハ」
 「そりゃええが志和地は昔はええ時代じゃったろうにのう。然し、今は戦国の世になってしもうて、可愛川を挟んで安芸と備後に別れ、更にはワシのとこと毛利のとこで歪み合うとる。民百姓に迷惑をかけて誠にすまんのう」
 「昔から両方の地に田地や山林を所有している者が多くいます。其れに互いが嫁入りしあっており、歪みあってるのはどうかと。然し、仕方のない時代ではと思います」
 「何事も無ければ平和なええとこなんじゃがなぁ」
 話しながら七曲りの急坂を平地に下りて来ると可愛川へ左手から板木川が合流してくる。城山の頂上には小さな八幡山城がみえる。
 「此処も犬飼平の合戦の時には尼子国久公と宍戸勢が睨み合うたんよのう」 
 「ワシはその時は此処へ来とらんからな、よう知らんのじゃが鉄やラーちゃんが活躍してくれたらしいのう」
 「いえいえ其れ程でも」
 「国久公も喜んでおられたでぇ」
川沿いを上がって行くと
 「ありゃ何じゃ。焼けただれとるようじゃが社跡か」
 「そうです。祭礼原といいまして、丁度、合戦の頃に燃え落ちたのです」
 「そうか。志和地の不審火の件は聞いとったがこの事じゃったか」
 「あの田んぼの中の大きな屋根は専正寺さんか」
 「そうです。子供の頃からずっとお世話になっておりました」
 「そうか、此処が大将の原点なんじゃな。ワシもこっから拝ましてもらうよ」
 それからまもなくして八幡山城への上り口に差し掛かる辺り、板木川に沿って急斜面の谷間に二つの穴がみえる。
 「大将、ありゃ何なら」
 「よくは分かりませんが、何かを掘り出そうとした様です。村人は間歩と呼んでおりました」
 「ハハハ、さては金か銀が出るのを志和地殿は狙ろうたかな」
 「そういえば子供の頃にこの下辺りの小川で魚を捕っていた時、川底にキラキラ光る砂のような物が多く有りました」
 丁度、この時代は石見銀山が発掘された頃である。

  志和地八幡山城

 時は永正十三年(1516年)頃、この城は三吉致高によって築かれた。
 中国地には周防大内と出雲尼子が台頭して来ていた。そうした中、可愛川を挟んで安芸と備後に接する毛利と三吉の互いの国人領主は夫々が従属する相手が違ってきた為、過去、長年に渡り平穏無事であったものが風雲急を告げる時代になって来たのである。
 小さな国人領主達はその時の戦局次第により、あっちに付いたり、こっちに付いたり右往左往させられていた。
 志和地八幡山城を築城したのもこうした世の流れの時である。その頃は尼子経久がこの備後の地を差配している。
 可愛川を挟んだ向かいの安芸国は大内に属する毛利が領地であり、その為、いつ戦さが起きてもいい様に比叡尾山城の支城として防御の為の最前線基地としての体勢を整えていたのである。
 互いの合戦になるまでには其れから何十年も時を要している。然し,考えてみれば急を要する紛争にしても悠長な時代だったものだ。 
 元々、閑散としてのんびりした志和地の村には土居、市場部落が有った。其れが明光山の尾根続きの麓に小さくても急峻な小山が有り其処に城が築かれた。
 その城下には段々と大工、左官、建具,鍛冶屋と専門職が集まりだし居住するとそれなりに人口が増えだした。
 この時代は各地に山の頂に小さな居館の様な城が多く存在していた。その地の支配者の身内,親戚か名主程度の城主でその城下には集落らしきのは無く、何の目的かははっきりとは分からなかった。他所からの侵攻を防御する目的か、或いはその地でただ存在感を示す為だけのものなのか、さしたる紛争地とは関わりも無さそうなまさにポツンと一軒家であった。

 城に上がる急坂を喘ぎながら登っていると、毎度の如く鉄が身体ごとくっ付けながら押してくれる。
 「鉄ちゃんよ、何時もすまんな。ほんま助かるよ」
 「ワン,ワン」
 上に登り詰めると先に駆け上がった門番の知らせに志和地殿が急遽駆け寄って来た。
「お殿様、今日は急なお越し,又、何用で御座いましょうか」
 「いやぁ、すまんすまん。思いついたが吉日でな」
 「其れこそラー助に頼めば一刻で済みますものを」
 「オオゥ、それを忘れとった。へへへ」
 『何はともあれ此処では。城中にお上り下さい」
 「そうか、すまんのう」
そこへ与作が一声
 「お殿様、私は此処で、ちょっと下の旧道場に寄ってみたいものですから」
 「よしゃ、ゆっくりしてこいや」
と鉄と一緒に下りて行った。ラー助も与作の肩に止まっている。
 「じゃが今日来たの他でもない、この前の布野の件では出陣要請をして誠に相すまなんだな」
 「何を仰っしゃいます。家臣としては当然であり、やむを得ぬ事で御座います」
 「そこでじゃ、些少ではあるが御礼としてワシの気持ちと思うて受け取ってくれるか」
 「此処に御礼としての報奨金目録を記しておるでな」
 「それはそれは有り難う御座います。皆の者も喜ぶと思います、重ね重ね御礼申し上げます」
 「話しゃ変わるが、ほんのつい最近迄はあれ程仲良く交流があったというのに、如何に互いが辛い思いか戦国の世を恨まざるを得んよ」
 「左様で御座います」
 「然し,大将と忍者一家のお陰で痛み分けの状況にしてくれ,国久公にしてもワシ等にしても無事に命を存(ながら)えさせてもらったよ。ほんまに互いの心情を察した見事な手口に感服せざるを得んよ」
 「ほんま、志和地からとんでもない才能のある大将と忍者一家を輩出してくれたよな。有難うよ」
 「その事なんですが私はとんと深い事情を知らんのですよ」
 「そりゃ又、何でかいな」
 「此れはお寺さんと弟が関わっておった様です」
 「弟は住まいが隣り近所のよしみで農作業は殆どやってもらう程仲が良く、兄妹を可愛がっていた様です」
 「与作殿が小さな子供の頃より、弟と一緒に何度も三次までビクを背負いながら使いに行ってくれていたとは配下の者より耳にしておりました。然し,城内には一度たりとて来た事は無く本人を直に見た事がないのです」
 「ですから,人間性にしても物凄い才能にしても一切判別不能でした」
 「こりゃ正しく忍者一家たる所以じゃな」
 「ただ国久公が此方にしょっちゅう来られる様になってからは薄々は感じておりました」
 「国久公が与作と忍者一家がこの上の旧道場に入って行くのを天守から何度も目撃しております」
 「たまに国久公と世間話をしている時に、ワシは大将には一目も二目も置いとるよ。奴の剣の腕はワシより遥かに上じゃ。其れに頭の中身いうたらとんと付いて行かれん、と笑っておられました」
 「そうか。これからは一番大事な家臣で名参謀と足りうる人間じゃ。大いに貢献してくれるじゃろう」
 「仰せの通りです」
 「今も昔の様に遠慮して此処には上がらず、忍者一家と裏の旧道場へ降りて行きました。国久公との懐かしい思い出を偲んでいるのでしよう」
 「そうか、ワシが帰る迄はそのままじっとしといてやるか」
 「話しは変わるがな、今日、畠敷から馬洗川を舟で下って来る時にな大変な事を思い付いてな」
 「そりゃ又、急な事で。其れに一艘(いっそう)で何人も乗って下るなど今迄に聞いた事が有りませんが」
 「そうよ其れよ。この船便が全く快適でな。癖になりそうじゃ。其れでな、今思えば何で早うに気が付かんかったという事じゃ。三次には大きな川が何本もあるが全く活用しとらんよのう」
 「又、船便の他に大将が物凄い事を指摘してくれたのよ」
 「そりゃ又、どんなええ事を見つけたんでしょうか」
 「其れはな、遡っていく川沿いには凄い未開墾の空き地があることよ。米作には適しとらんでも他の作物は幾らでも出来得るとな」
 「そりゃそうでしよう。例えば比較的早くに収穫出来て、収益が上がる桑畑などを作付けされては良えかと」
 「お主もそう思うか」
 「昔から木綿や麻を使って着用する衣類は家内仕事でやっておりますが、ほんに自給自足程度みたいなものでとんとしれています」
 「ですから、各家をまとめて養蚕を奨励し絹製品を大量に作れば皆んなが潤うのではないでしようか」
 「他に比べて銭目がとんと違いますから」
 「そうかぁ、知らなんだのは籠の鳥のワシ等だけじゃったか」
 「えぇ、籠の鳥とは何の事で」
 「ハハハ、何時も城に閉じ込められとるワシと家老の事じゃ」
 「へへへ、左様で御座いましたか」
 「処で誰でもそう思うか。そこでじゃな織物の生産を勧めてはどうかとな」
 「夫々の農家が養蚕から機織り迄こなすのでしょうか」
 「いやいや、繭を一箇所に集めて全てを作業をする工場を作るのよ」
 「そうせんと自分とこで勝手にやってみぃ,均一した商品が出来んからな」
 「尤もで。其れは何処へ作られる予定ですか」
 「川が合流した巴橋辺りがええんじゃないかと思うがどうかのう」
 「お殿様、そりゃもの凄くええ案で御座います。多くの繭が集まりますよ。何せ可愛川,馬洗川、西城川、江の川の流域二、三里だったら桑畑が何某でも出来ますから。それに繭は米と違って生産にそれ程手間が掛からず、何せ軽いですから。川舟に仰山積み込み一気に下って行けて運搬がとても楽です」
 「こりゃ藩としても農家としても米以外の収入が増える事になるよな」
 「早速、志和地でも庄屋達を集めて段取りを行いましょう」
 「宜しく頼むよ」
 「承知致しました。三次盆地は一大織物名産地になり得ますね」
 「有り難うよ。いの一番にお主のとこへ来て良かったよ」
 お殿様は幸先の良い見通しに大満足の様子である。
 「そりゃそうと長居をしたな。何はともあれ次に行かにゃならんでな。大将達を呼んでくれるか」
 お殿様と城主、其れに忍者一家がご機嫌で下り坂を板木川の側まで談笑しながら降りて来た。
 鉄はホウベを背中に括ってもらい嬉しくてたまらない。
 「さらばじゃ」
 お殿様と与作は馬に跨ると川沿の道を駆けて行く。
 右手の明光山の麓には大きな鳥居口がみえる。志賀神社だ。この神社は元々大嶽山と云われる山中にあった様だ。其れが志和地八幡山城が築かれる頃に現在の場所に移築される。以来、災厄を避ける厄除、武運長久、五穀豊穣を祈願するとして,城主の中村、上里氏や武士、百姓町民の信仰を集めて大切にされていた。その為、段々と境内の下あたりには仲の村という集落が出来つつ、娯楽のない時代、唯一、神社で村祭りが行われて大勢の住民がそれを楽しんだものである。
 其処を通り過ぎると、一面に広い田んぼが見渡せる。その中にポツンと門構えの有る大きな屋敷が見えた。
 垣根の側で野良仕事をしているのか婦人が二人鍬を持って畑を耕しており、遠目に此方の蹄の音に気付いたのか深く頭を垂れている。
 お殿様は軽く手を振った。
 「庄屋の奥さんともう一人は大将の妹さんか」
 「ええ、どうして分かったんですか」
 「そりゃ、地獄耳よ。げに冗談じゃ。家老から話しを聞いとるのよ」    
 「妹さんは志和地の村民の為に貢献しとるらしのう」
 「そんな、全く大した事ではないですよ」
 「でもな、家老が言うのにゃ算盤は暗算の腕前じゃし、読み書きは超一流で、そのまま志和地に埋もれておるのは勿体ないほどじゃというとったぞ」
 「そんなぁ、ご家老様は大袈裟なんですよ」
 「然し、日本國中で暗算が出来る人間は殆どおらんじゃろうてぇ」
 「それがワシの側には二人もおってくれるんじゃ。鼻が高いよ」
 「・・・」
 青河峠に差し掛かって来た。下から見上げるとグネグネと曲がった急坂が丸見えだ。
 「大将よ、こりゃ馬がかわいそうじゃ。歩いて上がっちゃろうや」
 「承知しました」
峠の頂上迄来ると、流石にお殿様はヘトヘトだ。
 「こりゃ、しんどかったな。休んで行くか」
其処には通行人の為に雨露をしのげる小屋が有る。
 「一寸、お待ち下さい」
 与作はすぐ下に有る茶店に駆け込み茶を一杯所望すると
 「お殿様で御座いますね。先刻、お見掛け致しました」
 「すまんなぁ、丁度喉が渇いたと言われてな」
 縁台で茶をのんびり呑んでいると、其処へ店主が何やら提げて上がって来た。
 「お殿様、どうぞ腹ごなしに召し上がり下さいませ」
 「おいおい、他は何も頼んではおらんぞ」
 「いえいえ、此れはほんの店からの気持ちで御座います」
 「そうか、すまんのう」
 「私等がこうして安心して商いをやっていけるのも、お殿様が治安をお守り下さるお陰で御座います」
 「嬉しい事を言うてくれるのう。有り難うよ。其れにこの草団子の美味い事。なぁ鉄ちゃん」
鉄も一串ペロッと頬張った。
 その時だ!上空から何やら真っ黒い物が落ちて来た。そして
 「ヨニモヨコセヨ」
 「ワァ~、カラスじゃ!」
 「ハハハ、大丈夫じゃよ。気にすな、気にすな」
ラー助はお殿様の肩に止まった。
 「たまげたぁ!このカラスは喋るんですね。よしゃ待っとれよ、飯を持って来るからな」
 「アリガトサン」
 「何とまぁ礼まで言うとる!」
 「ほんますまんな」
店主は更に店から鉄やラーちゃんの為に多くのお土産を持参して来た。
 与作は飯屋との会話に真のお殿様の姿を見た様で、つくづくお仕えしなければと心の中で誓ったのである。
 「大将よ、この度は忍者一家に付きおうて貰うたがほんま楽しうてええ道中じゃのう」
 「其れはよう御座いました」
 「ワシとか家老はな、籠の中の鳥で世間知らずで何にもよう見えとらんのじゃ」
 「じゃから世の中がよう見えて、見識が広い大将や他の人間からもっと意見を吸収しようと思うとるよ。領民の為になる事じゃったらどんな事でも厭わんよ。どんどん何でも要望が有りゃ言うてくれんかのう」
 「有り難う御座います」
 「そりゃええが今朝は凄いもの見せてくれたが、他にも大将の頭の中にゃ何某でも有りそうなが、忽ちええ話しはないかのう」
 急な思い付きに与作はちょっと思案しながら
 「お殿様、今、青河峠のてっぺんから結構広い平地の志和地を見渡しておりますが何か感じられる事は有りますか」
 「ウ~ン、さて急に言われてもな。ワシは何も思い浮かばんよ」
 「先程、八幡山城からほぼ田んぼの中を来ましたよね」
 「おおそうじゃ。庄屋の辺りは広うて長いこと真っ直ぐじゃたよな」
 「でも実際は田んぼに沿ったあぜ道でぐにゃぐにゃでしたよね。此れを庄屋さんや農家に協力してもらい出来るだけ真っ直ぐにするのです。その時、大八車が通れる様に拡幅し、併せて水路も整備するのです」
「なるほどな。こりゃ全く効率が良くなるよな」      
 「此れは志和地に限った事では有りません。発展拡張しつつある三次の町にしても同じ事が云えるのです。
やみくもに建物を建てるのでは無く計画的に区画整理をするのです」
 「私は実際に見た事は有りませんが京都の街中は碁盤の目の様になっているそうですね。三次の町は小さいですからとても真似は出来ないけれど、せめて小京都と呼ばれる様になると大変嬉しいですね」
 「大将よ、夢の有る事を言うてくれるな」
 「夢ではありません」
 「そうじゃ、実現可能な事ばかりじゃ。今朝の養蚕による絹織物の産地にしても早速にも取り掛からにゃならんからな」
 「そりゃそうと大将よ」  
 「何で御座いましようか」
 「最近な、大将の書き物を目にする様になったが、なしてあんなに綺麗な字が書けるんじゃ。今朝な、ワシが書いて浅田屋に与えた金看板を見とったらほんま恥ずかしゅうなったでぇ」
 「とんでもない。まだまだ未熟者で御座います」
 「然しなぁ、何で百姓の倅が読み書きが出来て、知恵が回るんじゃ。是非共にその方法を教えてくれんか」
 「其れこそ、畏れ多くもお殿様に物申すなどバチが当たります」
 「オイッ、大将よ。今はな、ワシを殿とは思わず一人の年上親父と思うて気軽に話してくれんかのう」
 「有り難う御座います。私は子供の頃からお婆ちゃんが好きで、何時もくっ付いて遊んでおりました。其れで時たまお寺さんである法話を一緒に聞きに行のです。尤も内容は全く分かりません。法話の最中にもじっとはしておらず、天井に書いてある多くの絵を見ておりました。そして其れを指で絵取りながら頭の中に入れておりました」
 「なしてそんな事をしとったんじゃ」
 「さぁ其れは自分でも分かりません。でも、うろちょろうろちょろする子供にも優しく見守って頂いておりました」
 「法話が終わると奥様が今日来てくれた子供さんの為にお菓子を配られ一人一人の頭を撫でて頂き、其れが嬉しくてお寺さんが大好きになりました。でも妹だけは寺の建物や袈裟掛けの衣装が怖かったのか一度も一緒に付いて来ることは有りませんでした。でも大きくなった今はお寺さんがどんどん好きになり何かに付け手伝いをする様になっております」
 「其れから私しは何も無い日にも、毎日顔を覗かせては庭掃除をする様になり、百姓仕事の手伝いを始める前の朝早くに必ず出掛けておりました」
 「全く無料奉仕を何年も続けました。そのうち、和尚さんや奥様が与作を何時迄もこのままの状態で何もせず大人にしてはいけないと思われたのです。其れからは徐々に学問を習得させてくれました。そして世の中の動きを常に教えてくれました。
 「それでか、国久公が山中で蝮に咬まれて大将の家で看病して貰っていた頃、お粗末な机の上にあった書物や書き物を盗み見した時、此れが丁稚奉公人のする事かとたまげておられたが、なして京の都の話がすらすらと出て来るかと不思議に思ったがこう云う事じゃったか」
 「ワシ等みたいな山ん中の田舎に住んどりゃ何年、いや何十年せにゃ情報が入って来んのじゃ」
 「確かに。仰る通り國中の全ての動きが早く掴む事が出来るのはお寺さんがあるからだと思います」
 「京都の本願寺から発せられる色々な情報は、全国各地に網の目のように点在する寺院へ次から次へ書物と口伝えによって早々に伝達されて行くのです。其れに、その時の世の中の動き、例えば天地異変等の知らせは瓦版と呼ばれるものが京の街では普及しつつあり、早急に庶民も読むことが出来るのです」
 「まだ日本國中には普及していませんが、京の都から其れ等を遅ればせながら地方に回してくれるのです。更に、さまざまな情報の新刊を配ってくれるのです」
 「今の世の戦国の武家社会では隣り同士が互いに歪みおうており、情報が伝達する術(すべ)が閉ざされておるのじゃ。何はともあれ大将よ、世の中の動きがよう分かるお寺さん情報を常に知らせてくれんかのう。ワシも勉強しようと思うとる」
 「分かりました。少しでもお殿様のお手伝いでも出来ますれば」

 「然しよ、大将は三次から大変な事を世に送り出してれたな」
 「えっ。そりゃ何の話しで」
 「そりゃな、第一にお寺さんによる学問制度じゃ。専正寺さんが始めた一般人への教育制度は初めてじゃないか。そりゃ京の都では坊主教育の為に本願寺さんでも寺で教えるじゃろう。然しな、武士や町人百姓の子達にはやっとらんぞ。お寺さんと与作殿が始めた事は日本の教育制度のはしりかもしれん。何れにしても京から西では備後の地が初めてじゃろう」 
 「確かにそうかも知れません。お寺さんでは私以降に武士、百姓、町人と様々な身分に関係なく一緒に机を並べ勉学に励み、後輩達が巣立って行っております」
 「第二はなんじゃ思ゃあ」
 「分かりません」
 「其れはなぁ、ラーちゃんよ。もの凄く早くて正確な伝達方法よ」
 「今の世で一番速いのは早馬じゃろう。其れと鳩かのう」 
 「ワシが聞いた話しじゃが、伝書鳩は何千年前もの遠い古代エジプトの方で、はなえた(はじめた)らしいがな。沖へ出た漁船から海の状態や魚況を知らせるのに帰巣本能を利用したもんで。然し、ありゃ鳩さんの一方通行のみでぇ。其れに時にゃ何処へ飛んでいったのか行方不明じゃ。じゃがな、ラーちゃんを見てみぃ、頭がええから何処へでも飛んで行ってくれるじゃろう」
 「以前、尾道千光寺からあっという間に書簡を三次まで届けたらしいな」
 「確かに其れは物凄く早く往復してくれました」
 「それに賃金ゆうてみぃ、人間と違うてホウベだけでええんだぞ」

 「もう一つ聞いてもええか」
 「何でしょうか」
 「国久公が前にも言うとられたが、大将はなして居合いの遣い手と云われる程の腕前なんじゃ」
 「いえいえ、とんでも御座いません」
 「国久公はな、若い頃は出雲一の剣豪と謳われる程の腕前じゃったんで。其れが大将と対戦してワシの方が分が悪いんじゃ、其れに奴は小刀じゃでぇ、到底敵わんわ。と言われとったがなしてそこまでの腕前があるんじゃ」
 「とんでもない。国久公は手加減して下さっているのです」
 「そうかのう。然しよ、どうして志和地の道場も何も無いとこで其れ程までに鍛錬したんじゃ」 
 「其れは・・・」 
 「こりゃ、一人鍛えられるもんじゃないで」
 「必ず、師匠がおる筈で。是非、教えてくれんかのう。まさかお寺さんじゃあるまいしな」
 「いえ、其れは・・」
 「他に誰じゃ」
 「お殿様・・・」
 「何じゃ!」
 「私が白状すればそのお方は処罰されないでしょうか」
 「なしてなら」
 「其れは、刀も持てない百姓の倅が、身の程知らずにもお侍様から懇意におつき合い頂くなど、到底有り得ない事で御座います」
 「何を馬鹿な事を言うとる。ワシがそんな事をすると思うか」
 「国久公も云われとったが身分に上下は有りゃせん。ワシの考えも一緒じゃ」
 「有り難う御座います」
 「そのお方は現在、三次代官所で次席を務めていらっしゃる上里様で御座います」
 「やっぱりな。薄々は分かっておった事じゃが、居合いにかけては他に奴の右に出る者はおらんぞ」
 「でも、お殿様、私は直接手取り指南は受けてはおりません」
 「ウンッ、なしてなら」
 「其れは私が子供の頃、八幡山城の下に家が有り、田んぼを挟んで直ぐ横に城勤めのお侍様の住まいが有りました。本当に小さい時から私と妹は何時も遊びに家の中に入り込んではいたずらをしておりました。お侍様は、何の文句も言われず、自分の子供の様に可愛がって頂きました。其れに独身でしたから田畑の面倒は殆どうちの家族で面倒をみてあげていました。そういった事から、私は上里様が朝晩庭先で居合いの鍛錬をされるのを縁側に座ってじっと見つめておりました。何年も見ているうちに段々と興味を引かれて、自分がやっている様に合わせ手足を動かしておりました。元々、熱中癖があるものですから。自分もやってみようと思い山の中に城を作ってそっくり真似事をしておりました。其れで木の葉の葉擦れの音や鳥の鳴き声に反応しながら抜刀しておりました。刀といっても百姓が持てる訳もなく、山で樫の木を削り小さな小刀擬きにして振っておりました。呼吸法や間合いをはかりながら千回は振っておりました。何れ護身の為に役に立つ事があるかなと」
 「ふぅ~ん、千回もな。剣豪でもそこまでようせんぞ」
 「然しな、いくらじっくり見て鍛錬しとったいうても手合わせはしたんじゃろう」
 「いえ、上里様からは一切、立ち合い稽古指導は頂いてはおりません」
「其れでそんだけ強いんか」
「相手がいて手合わせしたのは国久公が初めてで御座います」
 「何というこっちゃ!大将は小刀じゃろうが。こりゃ山ん中の天狗から力を授かったんでぇ」
 「そんなぁ」
 「師匠がこちらにお越しになる度、呼び出されては手合わせ致しておりました」
 「それよ、まさしく国久公は天狗様よ」
 「いやぁ、ええ話しを聞かせてくれたな」
 「この道は今お殿様とご一緒させて頂いて大変嬉しいのですが、私にとっては、子供の頃の思い出深い大切な道で御座います」
 「上里様とはこの道を一緒に三次迄、何十遍と歩いて通った事でしょうか」
 「そりゃ何の為じゃ」
 「其れはお城の人員不足なのでしようか、買い出しの手伝いの為にビクを背負って行くのです。上里様が代官所や時には城に行かれる事も有りましたが、その間に書き付けを持って店に行っては必要な物を購入して回るのです」 
 「そんな事までやっとってくれたんか。こまいのに大変じゃったろうのう」
 「とんでもない。私は上里様と一緒に三次に出掛けるのが嬉しいばかりでした」
 「そうかそうか、有り難うよ」
 「そのうち時には牛馬の競り市に行く様になり、お陰で馬を乗りこなせる様になりました」 
 「そりゃええんじゃがな。も一つ聞いてもえか」
 「ええ何でも」
 「大将が城に出入りする様になってから書き物をよう見るんじゃがな、なしてあんなにも達筆なんじゃ」
 「とんでもない。まだまだ未熟者で御座います」
 「然し、どうしてあんなに上手に書ける。誰かの字を真似とるんか」
 「其れはお寺さんからこの手本を使えと頂いたのです」
 「ほうか」 
 「誰だと思われますか」
 「つまらん事を聞くなや。ワシに分かる訳がなかろうが」
 「いえいえ、ご存知の方ですよ」
 「フン!どうせ田舎者と思うて馬鹿にしおってからに。兎に角じゃな、ワシャそんな高尚な事なんざとんと知らん!」
 「其れはですね、平安時代、京の都で能書家で三蹟と謳われた藤原行成公が書かれた物で御座います」
 「何、何にぃ!」
お殿様は暫く溜め息をつきながら絶句、そして遠くを見つめる様に
 「何某、ワシの記憶力が乏しゅうなった云うてもな、こりゃ分かるでぇ」
 「行成公と云えば三吉家発祥の兼範の父親ではないか。何という奇遇じゃ」
 「参った!大将凄い!凄い!ご先祖さんの藤原一族をこの世に蘇らせてくれたか」
 「行成公は気高く、且つ、誰からも親しみ敬われ学の有る御方とお寺さんより教わりました」
 「そうかそうか」
 「枕草子で有名な清少納言が記した中には行成公とは何かと親密であった事がよく知られています」
 「兎に角、百人一首の和歌の中にも謳われている程の凄い御方で御座います」
 「そうか、そんな事まで京から全国つづ浦々迄言い伝わっておったか。有難い事よのう」
 「行成公から兼範公、そして現在のお殿様へと長年に渡って、真面目で衆人を思いやる心が今も脈々と息づいているのです」
 「おいおい、そんなに褒められるとどっかこそばゆいよのう」
 「其れでは掻きましょうか」
 「ハハハ、お主も冗談が上手いのう」
 「古文書によるとな、三吉家代々に渡っての系図は記されておるが世に貢献した為人(ひととなり)は全く分かってはおらんのじゃ」
 「世間をよう知らんかったのはワシ等ばっかしだったか」
 「ほんま,有り難うよ」
 「因みにもう一人の小野道風は厳島神社の大鳥居の扁額に掲げて有ります」
 「そうか。能書家で三蹟と謳われたのが安芸と備後の地に名を馳せておるか。嬉しい限りじゃ」
 「左様でございます」
 「しかしよう、わしゃ情けないのう」
 「何でですか」
 「わしが書いて掲げてある浅田屋の金看板の事よ。下手くそで恥ずかしゅうなるで。ご先祖様にゃほんま申し訳けないことよ」
 「とんでもない。お殿様、あれは私も頂戴したいほど素晴らしいもので御座います」 
 「お殿様しか書けない個性豊かな書で御座います」
 「ほんまかいな。でも大将が褒めてくれると凄く嬉しいよ」
 「有り難うよ」
 鉄が先導する後を駒を並べてお殿様と与作は可愛川と並行する様に三次の町なかを目指して突き進む。
 ラー助はあいも変わらず上空を旋回し警戒を怠らない様に飛んでいる。然し、道行く人とて少なく時たま野良仕事の百姓と出会わす程度であった。やがて前方に今朝ほどの「船所」の茶店が見えて来た。
 「大将よ、この上の西酒屋を回って帰ろうや」
 「其れは宜しいですが、又、急にどうしてでしょうか」   
 「そりゃな、さっき話してくれた事で若宮さんの様子を見ておこうと思うてな」
 「大将を知るかなり以前にな、若宮八幡神社は焼失しとってな、千五百二十四年頃に又、厄除け、武運長久,五穀豊穣の願いを込めてワシが改築普請をしたんじゃ」
 「若宮さんは古い由緒ある神社と聞いておりますが」
 「それよ。約四百年前に近江国から下向し、初っ端にこの地で三吉姓を名のった藤原兼範が建立したもんな
んじゃ。先ほどの道中での貴重な話しを聞いとってからな、ご先祖さんに感謝の気持ちを述べたいと思うのよ」
 「私は浅田屋勤めの時は、朝な夕なに側を通っておりました。そして何時も手を合わせておりました」
 「そうか。やっぱり大将とは何か縁があったんじゃな。平安の世に、三蹟と謳われた行成公にしても、兼範にしても皆んな大将の話の中で何故か繋がっておる」
 「兎にも角にもじゃな、大将は皆んな立派なご先祖さんを引っ張り出してくれたよ。三蹟と云われた行成公にしても我等の初代兼範にしても、お寺さんが褒め称えてくれた様な人物じゃ。それ故か、諍いを好まず、少しでも領民の為に尽くそうとする心持ちがあったらこそ、三吉家代々に渡り十五代,四百年も継続してお
る」
 「大将よ、ワシャ嬉しゅうてご先祖様に報告せにゃおれんのじゃ」
 「それは宜しゅう御座いました。是非、お参りさせて頂きます」
 茶屋から小さな峠を越すと酒屋にはいる。この辺りは遥か昔の約二万年も前からご先祖さんが居住しており多くの遺跡が眠る。
 お殿様は鳥居口をくぐると本殿に向かわれる。そして与作は拝殿に留まり柏手を打っていた。
 「大将、こっちへ上がってくれよ。ワシと一緒に参拝してくれんか。ご先祖様も喜んでおられるよ」
 「ワシは、初代兼範公が建立した此処を改築したまではよかったがな、その後はほったらかしで粗末にしていたよ。庶民はいつも大切にしてくれていたが肝心要(かんじんかなめ)のワシがこれじゃな」
 「でもこれからはもっと大切にして世間に貢献したいと思うよ」
 「お殿様、本当に有り難う御座います」
 参拝を終えて若宮さんの参道を下って行くと対面に比叡尾山城がみえる。
 「今日はほんまにええ道中じゃったよ。かなりの強行軍じゃったがワシゃ心地よい疲れじゃ。嬉しゅうて堪らんのよ」
 「其れはよう御座いました」
 「ところでな、又、近いうちに出掛けようと思うとるが付き合うてくれんかのう。お陰でワシの仕事が増えて楽しゅうてほんま気分がええよ。又、少々家老には煙たがれるがな、ハハハ」
 「いつでもお気軽にお声掛け下さい。忍者一家がお供を致します」

   前代未聞!比叡尾山城内での猿回し演芸

 「オイッ、大将よ。この前の時にな殿に何を吹き込んだんじゃ」
 「えぇ、何の事で」 
 「最近はいつもご機嫌な様子で色々な事に興味を示されておってな」
 「それは大いに良い事ではないですか」
 「殿がな、特に織物の件ではワシも大変に急かされておってな。早急にも目処を付けようと張り切っておられるのよ」
 「殿様自ら先頭に立たれるという事はそれは非常に喜ばしいのでないでしょうか」
 「そりゃそうじゃが、大将よ、確実に具体化しそうなんか」
 「そりゃ一朝一夕とはいかないでしょう。だが家老様も腰を上げられますと、より一層ことが現実なものとなるでしょう」
 「そうかそうか」 
 「ところで御家老様」
 「何じゃ」
 「一刻も早く実現した暁には、仕上がった絹織物のお召し物は''いの一番,,にお殿様と奥方様に献上致しましょうよ」
 「何ぃ!そりゃええことじゃ。物凄く喜ばれるぞ!」
 「その時、御家老様にも是非共に」
 「オイオイ、泣けてくる程喜ばせてくれるな」
溢れる涙を拭いながら
 「ヨシャ、ワシもやるでぇ!」

 「同じ備後と云えば瀬戸内側の福山辺りは盛んにい草が生産され品質が良く、其れこそ大昔から宮中や幕府に献上畳、御用畳として重宝されております。此れから始める三次からの織物では上方への納品は遅いかもしれません。何せ京の都には西陣織りが有り、更に直ぐ側の近江では、平安時代の前より大陸から伝わった繭から糸をとる絹織物技術の伝統があります。其れに人口も多く需要があります」
 「然し、この備後の地であっても世の中に当然必要なものは必要なのです。良いものを作っていけば必ずや名産地になり得るのです」
 「然し、なして大将はそんなに次から次に発想が浮かぶんじゃ。とに角、ワシ等は付いていくから宜しく頼むよ」
 「とんでもない、お殿様やご家老様あっての物種で御座います。此方こそ一生懸命努めさせて頂きます」
 「其れと又、殿様と明後日に天気次第で御座いますが現地回りをして検分して来ます。その上で後は御家老様の腕次第で御座います」
 「そうか。腕がなるのう」
 「そりゃええが忽ちワシゃ何をすりゃあええんかのう」
 「家老様忙しいですよ」
 「ええからええから。なんぼうでも言うてくれや」
 「忽ち、各河川の荷役運搬に都合のいい舟着き場の整備です。其れと、此れから始める為にはお手本になる管理しやすい耕作地の整備、例えば引水の為の溝や側道整備、作業場箇所の選定と色々御座います」
 「やるやる!ワシが各地の現場を見て回ってから図面を引いてみよう」
 「お殿様とご家老様が先陣を切って進まれると領民は皆喜んで付いてきます。早い時期にも現実味を帯びて来ますね」
 「そうじゃろう,そうじゃろう」
 
 今日も朝から日和が良いようだ。一家は全くご機嫌である。何より舟の乗り心地が気に入り玉は早く早くとニヤァニヤァ喚きたてている。鉄も慣れたのかすぐに飛び乗って来た。
 「こりゃ、静かに乗っとれや」
 穏やかに流れる馬洗川は船頭さんの巧みな櫓捌きで実に気持ちがいい。
 早速、お殿様から大切な城に関する大事な相談が持ちかけられる。
 「実はな、大将よ。今は身内みとうになってくれたから言うんじゃがな、室町幕府へは認知された所領の表面上の石高というものあってな、夫々の規模というものが大体判断されて通常此れが表石高されておるのよ。然し、表もありゃ裏もあるのよ。じゃがなぁ、ワシの所みとうに山ん中じゃったら見栄を張ろうにもとんと何も有りゃせんわ」
 「今の処な、米以外はさしたる産業や鉱物資源もないのよ。じゃからな、如何に他のもんで自分とこの財政を豊かにするに掛かっとるのよ。田んぼからあがる年貢米の石高は限られておる。その為、何処の殿さんも出来もせん新田開拓やら産業育成を考えとるのよ。然し、出来んもんはなんぼうやってもかなゃせん」
 「財政が豊かなとこなんざ、額面上の米の石高以上に他の事で多くの実入が有るのよ。例えば中國路を見てみい。周防大内などは海の向こうの朝鮮、明の國との交易で莫大な富を築いとる。其れに海の幸に恵まれ魚介類は獲れ放題じゃ。米の石高なんざ、とんとしれたもんよ」
 「そうですね」
 「ワシや家老もずっと前から慢性的に諦めの気持ちでそう思うとったよ。その点,ワシのとこはな、頭がええ大将が提案してくれた事で実を結びそうな事が一杯有るようじゃ。例えば農家が米作だけの百姓仕事じゃったら所得はしれとるし、''貧乏人の子沢山,,いうように家族が仰山おってみぃ,それこそおまんまの食い上げよ」
 「確かに」
 「そこで大将が提案してくれた養蚕だったら、忽ちお女中さん達でも楽に仕事をこなせるぞ」
 「そうですね。蚕が食べてくれる桑の葉っぱは取り扱いし易く、出来た繭も軽いしと仰る通りです」
 「其れに桑は果樹として、それに漢方薬にと重宝されております」
 「こりゃ、いい事ずくめじゃな」
 今日も先般見学した箇所に舟を横着けすると皆んな駆け上がっていく。
 早速、忍者一家は走り回っている。
そしてお殿様はぐるり辺りを見渡すと
 「大将よ、ワシャ気が触れたんかのう」
 「何でですか」
 「此処が宝の山に見えて来たよ」
 「面白い事を言われますね」
 「此処に何列にも何百本もの桑の木畑が目に浮かぶんじゃ」
 「そりゃ私も同感です」
 「其れにじゃな、その山の麓のなだらか斜面には植え付けた果樹がたわわに実っとるのよ」
 「この景色が此処だけではなく、三次盆地の各河川近くに多く及ぶとなるとこりゃ確実に正夢となるかもしれんな」
 又、舟に乗り込んだ。
 「大将よ、忽ち、さっきのとこで生産したもんは何処へ集めて作業場を造りゃええんじゃ」
 「其れは若宮さん側が宜しいかと。丁度この場所に夫々の川が巴状に集まるのです」
 「成程な。言われてみりゃこの場所は荷揚げの都合が良さそうな天然の良港だぞ」
 「そこで並んで繭から糸を作るもんはあれは何んちゅんかいな」
 「あゝそれは座繰りと云います」
 「それを多く並んでお女中が糸を紡いで、更に隣りの作業場の機織り機で反物が出来上がると思うとこりゃたまらんぞ」
 「それでワシ等の着るもんが出来る思うと嬉しゅうなるなぁ」
 「大将よ、此れを真っ先に具体化しょうじゃないか」
 「幸い、家老も年甲斐もなく張り切っておってな、しょっちゅうワシにはっぱをかけおるんじゃ」
 「お殿様、そりゃ凄い事になりますよ。領民もこりゃ大いに舞い上がります」
 「兎に角、陰陽交通の結節点の利便性を活用し、産業を活性化すれば人の流れや物の流れがよくなって三次は賑わいを増すじゃろう」
 「仰せの通りで御座います」
 「何かにつけ潤いを増していけばワシとしても領民にしても喜ばしい事になるよ」
 いつにもまして本日はお殿様の饒舌な事この上無し。
 「今日はその先の良港予定の松原で下りて歩くか」
 「船頭さん、その先に着けてもらえませんか」
 「承知致しました」
 浅瀬に乗り上げるといきなり鉄、玉が跳び下りて走り出した
 「オイオイ、どしたんなら!」
制止をものともせず松原の広場に向かって行く。上空からもラー助がその先に飛んでいる。
 お殿様は
 「忍者一家が何事なら。へへへ、今度は鉄も船酔いがないようじゃな」
 土手の下の河原には何か見世物小屋が立っている。何の興行であろうか。その直ぐ側を一人の男が動物を連れて歩いている。
其処へ皆一目散に駆け寄って行く。
 「ワンワン!」「ニャーン、ニヤ~ン」
この大声に相手も気付いた。小太郎なのだ。
 「キャッ、キャッ、ギャァ!」
そして駆け寄ると、鉄の背中に玉と小太郎が飛び乗り其処らを走り回りだした。ラー助もすぐ近くを旋回している。
 「なした事なら!こりゃほんま面白いこっちゃ」
お殿様と与作はその場に近づいていく。
 「やっぱり!」
 「その節はお世話になり有り難う御座いました」
 「なんのなんの、こちらこそ」
 「三次に興行に来ておりました。でも本当にたまげましたよ。又、お会いするとは。小太郎もこの喜び様で」
暫く感激に浸っている時、じっとニコニコしながら眺めているお殿様に気付いた。
 「其れはそうと此方にいらしゃる恰幅の良い立派な御方様はどなたで御座いましようか」
 「三吉のお殿様じゃ」
 「え~ぇ!此れは大変失礼致しました。平に御容赦を!」
弥太はその場に跪き平伏したのである。すると小太郎も駆け寄り同じ姿勢になった。
そして何と忍者一家も横一列に並んだではないか。
「オイッ、なんちゅうこったこの有様は!」
 「お前さん等は凄い!」
 「お殿様」
 「何じゃ」
 「私は此方で興行をさせて頂くのに、お殿様に許可もなくやっておりました」
 「あゝ、その事か。よいよい.庶民を楽しませてくれるだけでええから」
 「有り難う御座います」
 「そりゃええがな、ワシも見たいもんじゃな」
 「とんでも御座いません!其れこそバチが当たります」
 「そうかのう」
 「其れでは何時の日か又の会う日を楽しみにしとるぞ」
 お殿様と与作は松原の石段を駆け上がり代官所に向かった。
 「大将よ、昼までには用を済ませるでな、待っとってくれるか」
 「分かりました。鉄ちゃん、玉ちゃん、おとなしゅうしとろうな」
詰所に駆け込むと軽く昼飯の用意がしてあった。
 それから一刻くらい経った頃である。代官所前が騒々しい。
 「こりゃ!猿連れのお前、何を玄関先をうろちょろしとるんなら、帰れ!かえれ!」
 「門番様、与作さんに合わせてもらえませんか」
 「何じゃと。与作とは何者じゃ」
 「今朝程お殿様と此方に来られた筈ですが」
 「何!バカタレが、その方は大将様ではないか」
 「帰れ帰れ!猿連れに用はない」
 「ふえぇ~!、全く申し訳け御座いません」
押問答している時、騒動に鉄と玉が気付いて奥から走り出て来た。
する小太郎が門内に走り込む。
 「こりゃこりゃ!」
と叫んだ時
 「弥太さんよ、どうしたんじゃ」
奥から与作が駆け付けた。
 「大将様、小太郎がとんと言うことを聞いてくれんのですよ」
 「ハハハ,そりゃどうしてなら」
 「忍者一家と離れるのが嫌じゃと駄々をこねるんです」
 「やむ無く、本日の興行を小太郎の体調不良という事で中止に致しました」
 「そうかそりゃ尤もじゃ。仲がええからな」
 「私しゃ、どうすればええですかね」
 「よし、今日は一日ゆっくりしていくか。今晩、ワシんとこへ泊まっていけや」
 そして与作は詰所に皆んな連れ込み、お殿様の帰りを待っていた。そこへ気を利かせた代官所は腹の足しになる昼飯を弥太と小太郎の為に運んでくれたのだ。此れには小太郎と忍者一家は大声をあげながら走り回っている。
 「こりゃこりゃ、あまり騒ぐな埃がたたぁ」
多分、次席が皆んなが来ている事に気付いたのであろう。
 そして、お殿様が帰る気配を感じた時、一斉にお殿様の方にかけて行く。鉄、玉の後に小太郎が続く。
 「おぅ、どしたんなら小太郎まで来たんかい」
 「はい、今日は一日一緒におらして泊めてやろうかと」
 するとお殿様は
 「オイオイ、ワシ一人で帰れちゅうんかい」
 「違います」
 「よいよい、皆んなで一緒に帰ろうや」
 代官所を出て来ると
 「おいおい、こりゃ賑やかすぎて目立ちすぎるぞ」
早速、何時もの様に変装気分の頬被りをすると各自が離れて歩きだす。
 巴橋を渡り若宮さん側を少しくらい来た時、与作はお殿様に近づき
 「此処の近辺が作業場を作るのに適しているのではと思われます。船着場から今歩いている道が運搬にも丁度都合がいいかと」
 「そうよな。此処なら場所が広おうて何棟も作業場が建つのう」
 「それでは早速にも家老に検分させて取り決めるか」
 其れから細い田んぼ道を一家と小太郎は先に駆けて行く。暫く行くとこんもりとした木立が馬洗川のそばにある。その草叢(くさむら)の中を進んでいると玉が急に駆け出したではないか。更に小太郎が追いかける。そして道の側の柳の木の下に座り込んだ。すると小太郎も並んでジイッと河面を見詰めている。
「オイッ、ありゃ何をしょうるんなら」
お殿様の一声に与作はハッと気付いた。
 此処は弥太が小太郎に伝家の宝刀を盗ませた場所だぞと。
 その時にはまだ弥太は気付いてはいなかった。だが小太郎の背中に 
 「帰るぞ」
と手をかけた時、以前、目の前の木に暗闇の中で盗難の為に工作した跡が見えてハッと気付いたのだ。
 「此処は!」
 すると弥太は其処へ座り込み涙目になりながら声を殺して泣いている。
 其れを離れて見ていたお殿様が
 「弥太よ、どうしたんじゃ」
 「いえ、何でも御座いません。一寸だけ悲しくて・・」
 後は何事もなかった様にその場を離れ城下の登り口迄帰って来た。この先からは庶民立ち入り禁止の比叡尾山城域だ。
 「お殿様、本日は長い間ご一緒させて頂き誠に有難う御座いました。私は此処で失礼させて頂きます」
 「オイオイ、何を言うとる、折角、小太郎が忍者一家と仲ようなった事じゃし上迄来いや」
 「そんな、其れこそバチが当たります」
 「ええから付いて来いや」
 「でも」
 「弥太さんよ、折角のお殿様のお招きじゃ。お受けせんか」
 「有り難う御座います」
 「よしゃ、決まった。張り切って上がるか・・然し、きついのう」
 そこへ与作の一声
 「頼むぞ」
鉄の首輪の紐を伸ばしてお殿様に握らせた。すぐに力強くグイグイと引っ張って行く。
 「有難うよ」
すると其れを見ていた小太郎はお殿様の左手を握ったではないか。
 「おやまぁ、小太郎まで助けてくれるんかい」
 「然しなぁ、大将も弥太もなんちゅう躾をしとるんじゃ」
 長い急坂を中程まで登った時、目の前の石垣の上に家老が立ち何やら見ているではないか。
 「オイッ、何をしとるなら」
 「アッ、これは殿、お帰りなさいませ」
 「実は先日来の雨で石垣が崩れかかっておりますもんで様子を見ておりました」
 「そうか」
 「そりゃそうと殿こそ何をしておられるですか」
 「何のこっちゃ」
 「鉄はとも角、左手の猿は何ですか。其れに頬かむり姿までされてからに」
 「ハハハ、悪いか」
 「悪いどころでは有りません。此処は庶民立ち入り禁止ですぞ」 
 「じゃがな、此処におる小太郎は忍者一家の教師役なんじゃ。えかろうが」
 「分かりました。そう云う事じゃつたらええでしよう」
 「こりゃこんな恰好じゃ不細工じゃな、門番に見えん様に裏口から入いるか」
 「そうしましょう」
 本当におかしな組み合わせの城内侵入である。
 中に入るとお殿様が足を濯がれながら
 「お前さん達もまぁ上がれや」
すると突然、弥太が叫んだ。
 「お殿様、実は重大なお話しが御座います」
 「オオゥ、何の事かのう聞いてやるぞ」
 「今、此処へ来るまでに、何時言おうか何時言おうかともの凄く悩んでおりました。どうにも大変立派なお殿様を騙す事は出来ません」
 「其れはどう云う事なら」
 「実はお殿様の大切な伝家の宝刀を盗んだのは私で御座います」
 「何!、弥太が取っただと!」
 「左様で御座います」
 「なしてそんな事をしたんなら」
 「・・・」
 「どうしてなら!はっきりと申せ!」
 「其れはある方に頼まれました」
 「してそいつの名は」
 「それはお答え出来ません」
 「なしてなら!どうして言えんのじゃ」
 「死んでも言えません」
 「分かった。今、そいつの代わりに此処で首を刎ねちゃる!其処へ直れ!」
 弥太は神妙に土間に跪き頭を垂れた。すると何という事か小太郎も横に並んで同じ姿勢になったではないか。これにはお殿様も
 「ウゥ~ン・・・」
然し、太刀を抜き払うと素っ首目掛けて
 「覚悟!エイャ~」
続いて小太郎にも一振り打ち下ろした。
その場には暫しの間、重く沈黙の時が流れた。
 「よしゃ!済んだ」
 「お殿様!これは・・・」
 「お前の人間性をみりゃよう分かる。何も悪うない。小太郎がした事じゃろうが」
「見てみい、猿が泣いて反省しとるでぇ」
 「お殿様ぁ~」
 弥太はその場で小太郎を抱きしめながら大号泣したのであった。
 振り下ろした一太刀は首に触れる前に寸止めされていたのだ。
 「此れでよい、此れでよい」
ところが其処へ家老が飛び出してくると殿の面前で平伏したではないか。
 「お殿様!実は一番悪いのは私で御座います。お手討ちに合うのは弥太や小太郎では有りません」
 「ウヌッ!?なしてなら」
 「この事を知り全て隠していたのは私で御座います」
 「どう言う理由があったんじゃ」
 「其れは・・」
 「ええから言うてみぃや」
 「此れは三次での猿回し一座を興行していた香具師の元締めが関係しております」
 「そりゃ又、どう云う事じゃ」
 ご家老は姿勢を正した。そして
 「一寸お待ち下さい。今、この家宝盗難の経緯を綴った事件簿をお持ち致します」
 此れは大将が調べあげてくれたお陰で、迷宮入りしかかった様な大変難しい事件の経緯を掻い摘んで読みながら話し出した。
 其れで、香具師の元締の長く辛かったであろう人生模様を知り、殿様は涙を流しながら聴き入っていたのである。
 「今,ここにいる弥太と小太郎はお殿様の生命を狙う気持ちなど更々無く、ましてや香具師の元締もただ気晴らしにイタズラする程の気持ちしか有りませんでした。だから、すげ掛けてあったどの刀でもよかったのです。其れが小太郎がたまたまお殿様のお刀を引っ掛けてしまったのです」
 「そうかぁ、そう云う事情があったか。そりゃワシが小さかった頃の事のようじゃな」
 「家老よ、今からじゃ遅いかもしれんがその一族を懇ろに弔うちゃてはくれんかな」
 「分かりました」
 「然し、悪い事をしたなぁ」  
お殿様は目を閉じながら暫く瞑想した後に
 「オイッ、弥太よ。もう泣くな」
 「でもお殿様、私は・・」
 「もうよいよい、とうに済んだ事じゃ。たかが刀じゃ、打ちゃあなんぼでも出来る。気にすな気にすな」
 「有り難う御座います」
 弥太と小太郎はいつまでもその場に平伏していたのであった。
 「弥太よ、もうよいよい。其れよりかな、お前たちの楽しげな芸を見せてくれんかのう」
 重苦しい空気の中、殿様のいきなりの声掛けにその場にいた皆んなはたまげまくった。
 「然し・・・」
 「弥太よ、こりゃ罪滅ぼしじゃ思うて絶対やれぇよ」
 「本当に宜しいんでしょうか」
 「そうじゃ。是非共じゃ」
 「分かりました。私は旅芸人でお殿様に何も御礼する方法が御座いません。それでは不束(ふつつか)では御座いますが猿回しの一芸を披露させて頂ければ幸いと存じます」
 「そうかそうか、頼むよ。ワシも楽しみにしとるんじゃ」
 「なぁ家老よ、よかろうが」
 「それはお殿様がご所望ならば」
 「決まった!是非此処でやってくれるか」
 突然の突拍子のないお殿様の提案に家老はたまげまくった。
 「ええ!城内で行なうのですか」  
 「そうじゃ。ここでやろう」    
 「う~ん、然しながら比叡尾山城、過去約四百年に渡り前例が御座いません」
 「じゃったら、今つくればええことよ」
 「大将よ、後は家老と取り決めして上手く段取りしてくれんかのう」 
 「分かりました」
 「宜しく頼むよ」 
お殿様は簡単に請け負うと後は何せ比叡尾山城始まって以来、城内での演芸大会である。とに角、前代未聞の事なのだ。
 「オイ、大将よ、ワシゃどうすりゃあええんじゃ」
 「ご家老様、私と弥太さんにお任せください」
 「そうか。宜しく頼むよ」
 「人手が足りない時は手配の程を」
 「そっちの方は任せとけ」
 「そりゃそうとな、大将よ」
 「何でしょうか」
 「明日やるとなると何かと準備が大事じゃろうが。其れに弥太や小太郎はどうする」
 「そいでな、今晩は何れ大将の為にと用意してある畠敷の屋敷を使えや。賄い方を付けちゃっとくからな」
 「其れは其れは助かります」
「何度も荷物の持ち運びが有りますから近場で都合がいいです」
 「其れに互いの共演の為に打ち合わせが出来るかと」
 「そうかそうか,楽しみにしとるでぇ」
 翌朝、ご家老は舞台設営の為に若い城士を急遽五人呼び集めて弥太の指示に従って協力する様に命じた。
 「オイ、今日は早ようから大広間に舞台設営をせいと云うこっちゃが何事があるんじゃ」
 「さぁワシにはとんと」
 「こりゃな,多分、猿回し演芸をするんと違うか。昨日の茶飯頃にな、裏口から殿様と猿と忍者一家がこそっと入っているのを2階から見とったんじゃ、それにご家老も後をつけとったでぇ」
 「ハハハ、そりゃ傑作な出来事じゃ」
 「オイ,笑うなや」
 「然し、ありゃ猿回し芸をやるつもりで」
 「まさか,城内でそりゃなかろうが」
 「そりゃ分からんぞ.今朝な城の裏口階段を幕を担い けで上がっとったぞ」
 大広間に一段と高い舞台設営が終わるといよいよ最後の幔幕張りだ。
 「ほれみぃや、松原に張ってあったもんと同じじゃ」
作業を終えると家老から労いの言葉をかけられる。
 「おおぅ、皆の者、ご苦労であったなぁ。そりゃええがな、此れから何をするか内緒にしといてくれるか。殿様の達しじゃからのう」
 「分かりました」
其れから暫く時をおいて家老から城内の皆に通達が回された。

 ~本日、城内の大広間において伝統芸能の演舞を行うものなり。飲食付きである、各人揃って参列の事~
家老より

 突然の回し物に各人とも一様にたまげまくった。後の仕事が手に付かなくなってしまったのである。
 「おい、仰々しい催しが仕事を休んでまであるとはな。其れに飲食付きとは何事かいな」
 「休ましてご馳走まで食わしてもらえるのは嬉しいがバチか当たらにゃええがのう」
 代官所からも当番を残して急遽登城することとなった。
 「オイ、次席よ、こんな話しを聞いとったか」
 「いえとんと。能舞でもあるんですかね」
 「この前の国久公との絡みが解決した事でホッとしとられるんじゃないのか」
 「兎に角、早速出かけてみるか。皆んなに声を掛けちゃってくれるか」
 「然し、誰が舞うんかしらんがこりゃ退屈な事じゃぞ」

 其れが、まさかまさかの町人による前代未聞の猿回し芸という催し物が藩士慰労のため執り行われる事となった。
 猿回しの歴史は非常に古く、古来より猿は神様の遣いとされ牛や馬を守る御呪い(おまじない)として猿の舞が生じた。
 災いがサル、病気がサルなど猿には厄除けの力があると信じられてきた。
 其れが時代と共に宗教化したものが薄れていき、大道芸として一般庶民向けに滑稽(こっけい)なお笑いの娯楽として親しまれる様になっていったのである。
其れが御触れ(おふれ)には伝統芸能の演舞とある。ご家老の真面目と云おうか、剽軽(ひょうきん)さ加減に与作は吹き出しそうになった。確かにそうだが、然し、笑ってはいられない。何せ奇想天外な演舞に取り組まなければいけない伝統芸能であるからだ。

 いよいよ開演の時がきた。
大道芸人の弥太は何せ初めての城でお侍様相手の猿回し披露である。緊張しまくっていた。
 それを舞台裏から見ていた与作は
 「大丈夫じゃ、大丈夫じゃ!」
と口だけパクパクと動かせ激励する。
 本当は最初与作の方がもっとあがっていた。然し、小太郎と忍者一家を見ていると一気に興奮度が解れてきたのだ。 
 何せ此奴達は人間ではない。とんと緊張感が無いのだ。早く宝探しをやろうやろうと急かせてくる。
 「もうちょい待っとれな、上手くやったら褒美が待っているからな」
 此れには小太郎、鉄、玉、ラー助も大喜びで駆けずり回っている。
 「おいおい、静かにしとれや。今に始まるからな」
 鉄の背中にラー助、玉を乗っけた。そして与作が拍子木を打ち鳴らす。
 「カチカチカチカチ」
 「さぁ行け!頼むぞ」
 小太郎が幕を小走りに引いて開くと場内が一瞬どよめいた。
 「おい、ありゃ何なら!」
 「こりゃ、楽しいのう傑作じゃ」
 舞台を二、三周ゆっくり回りながら小太郎は手を振っている。
 「ハハハ、愉快な能舞じゃのう!」
そして弥太の声
「ハイハイッ、こりゃうろちょろすな。止めぇ、
整列!!」
すると忽ち小太郎を先頭に横一列に並んだではないか。
 「なんちゅう躾をしとるんじゃ。人間でもここまでは出来んぞ」
此れには弥太も与作も大いに救われた。
 「おまえさん達は凄いな」
 緊張が解れるといつもの弥太の猿回し演芸の軽妙な語り口を取り戻してきた。
 忍者一家が舞台から立ち去るといよいよ小太郎の一人舞台だ。
 竹馬乗りで登場すると場内からはやんやの大喝采だ。
 何せここにいる藩士の殆どが猿回し演芸を見た事が無い者達ばかりだからだ。侍として庶民の大道芸など見るに値しないとばかり、おかしな自尊心と誇りが邪魔させていたのであろう。その点、此れを催したお殿様は、所得、資産や士農工商の身分の差別のない人間性を重んじる方で尊敬せざるを得ないと与作はしみじみ感じ入ったのである。
 何はともあれ次から次へと軽快な小太郎の演技に酒の勢いもあり酔いしれている。
 然し、小太郎は芸が上手い事この上無しだ。人間では到底出来そうも無い事を簡単にこなしてしまう。
 笑いっぱなしの小太郎の演技が終了すると一旦幕が閉じられた。
 場内は武家社会では到底あり得ない催し物に大喜びであった。
 「お殿様、有り難う御座います!」
この声にお殿様は立ち上がると両手を振られ満面の笑みで応えられている。此れには大喝采の声援に大盛り上がり状態であった。
 「皆の者、本日は無礼講じゃ。大ご馳走を食べて心行くまで楽しんでくれるように、以上じゃ」
 暫く食事休憩の後
 「それではいよいよ本日の最後の出し物、借り物競走で御座います。場内の皆様からお借りした物を猿、犬、猫、カラスが夫々持ち主の方へお返しに参ります」
 「そんなこたぁ出来る訳はなかろうが」
 「こりゃ絶対無理でぇ」
 「それは分かりません。やって見なければ」
 「そりゃそうだ」
 「やれやれ!」
そうした声に弥太はニコニコしながら、何列にも重なって座っているお客様の場所に回っては借り物を集めている。それを小太郎と忍者一家はジイ~と目を凝らして見つめている。
 「オイオイッ、こんな事たぁ猿芝居じゃないけぇな、いきなりやるなぁ実際、絶対無理でぇ.持ち物が返って来んぞ」
 「そりゃ分かるかい」
 「さぁ、やれやれ!」
 「何奴(どいつ)がワシの物を持ってきてくれるんじゃ」
 「さぁそれは分かりません」
と弥太の声に
「オ~イ、ワシの処へはええ物を頼むぞ玉ちゃん!」
喧々諤々(けんけんがくがく)の大騒ぎである。
 然しながら、演者はこんな事など簡単よ、と云うような顔をしているではないか。それもそうだ。山中では何時も宝探し、鬼ごっこ遊びをしており、視覚、臭覚が研ぎ澄まされている。忍者一家にとってはごく簡単なのだ。だが小太郎には果たして出来るかなぁ、
と与作は舞台の袖から心配そうに覗きながら拍子木をカチカチと打ち鳴らす。
 「さぁ始めるぞ」
 弥太の掛け声ととも、それまでは舞台の上を駆けずり回っていたのが一斉に台の下に並んだ。
 「玉ちゃん、いくぞ」
 「ニャーン」
 「声が小さいど」
 「ニヤーン!」
 先ず玉が進み出て来る。
 そして弥太がその物を口に咥えさせた。ゆっくりと各自の座っている場所に進みだす。そして前列の若侍の前に来てボロっと落としたではないか。
 「ニャ~ン」
 「何とえらい早いじゃないかい」
 「オウ~、やっぱりお前のかぁ.オンボロ財布が一番じゃ」
 「そんなあ」 
 「玉ちゃんようった!」
 「然し、凄い記憶力じゃな。ワシじゃったら一つもよう覚えんでぇ」
 「ハハハ、無理無理、おまえじゃったら無理が百個もつくじゃろう」
 はなからの皆んなの野次と大声援に鉄、ラー助,それに小太郎も大真面目な表情である。
 「ハイハイお次はラーちゃんか」
 弥太の呼び掛け
 「ヨジャヨ」
 「ウン?お殿様か」
 「まさか!?」
此れにはお殿様もビックリしながらゲラゲラ笑っている。
 ラー助は、大きな袋を口に咥えると畳の上を何度も転げながらぴょんぴょんと歩いている。
 「オモイ、オモイ」
この動作が全く滑稽で
 「こりゃ,誰のじゃ、早う受け取っちゃれや」
皆んなの手拍子が響きわたる。
 すると前に二人進み出て来たではないか。
 「こりゃこりゃ山田に佐伯、卑怯なこたぁすなや」
するとラーちゃんが
 「サエキサン」と叫ぶと前にポトリ
 「凄い!有難うな」
 「ナンノナンノ、ホウベジヤヨ」
 よしゃ、すぐにやるぞ」
 まさに僕が一番だよと嘴を上に挙げている。
 「然し、凄いなカラスは全く利口だな」
 次いで鉄の番だ。何せ、この中では一番頭がいい。全くの余裕である。
 「ワウ~ン」と一声叫び、弥太から渡された綺麗な巾着袋の紐を咥えた。
あっと思う間にお女中の処に駆け寄り座り込む。
 「うゎ~凄い!鉄ちゃん凄いね」
 手渡すと頭を撫でられ
 「ワン」
と吠えてお手をしているではないか。此れにはすぐに料理の中の魚を咥えさせてくれた。
 「なんちゅうこったぁ。鉄もお女中が好きだのう」
 そして次に小太郎の出番だ。此れには弥太も内心は心配で堪らなかった。何せ初めてやる演目だからだ。
 与作も舞台の袖から覗き見しながら冷や冷やものであった。
 小太郎は舞台中央に進み出る。そして一礼して座ると礼儀正しい姿勢に拍手喝采だ。
 「うちの嫁にも見せたいくらじゃ。いつも胡座(あぐら)ばっかしこいとるぞ」
 またまた大爆笑につつまれる。
 弥太から煙草入れを手に渡された。
するとキセルを抜いてニヤッとしながら煙草を吸う素振りをしゆっくりとぐるりを見渡した。
 「こりゃこりゃ、人の煙草を吸うんじゃなかろうが」
 「早ように返さんかい」
 「小太郎は禁猿だぞ」
 「??」
 「そりゃ字が違うとろうが」
すると大笑いの中、小太郎はいきなり怒った様に''キィキィ,,と声を発した。そしてキセルを投げつけたではないか。
 「アッ」
 「オッ!」
 「何をしゃあがる、ボケェ~危ないじゃないか」
 然し、然しだ!それを相手が見事掴まえたではないか。
 何と持ち主目掛けてである。         
 「有り難う!小太郎~」
此れには場内が一瞬度肝を抜かれてしまった。
 「凄い!」
 「こいつ等は化け物か。物凄い一家じゃな」
すると家老が
 「お殿様は物凄い眼力をしてらっしゃる。感服致しました」
 「お殿様、凄~い、凄い!」
 此れには''忍者一家,,採用で名付け親の本人も満面の笑みである。
 皆んな夫々の特徴である臭覚,視覚、それに小太郎の人間のような知能と記憶力に感嘆しきりであった。
 「オイ家老よ,こりゃ大変な事になるでぇ。忍者達に小太郎まで加わってみぃ、凄いのなんの大変な忍者一家じゃ」
 「左様で御座います」
 飲食をしながら酒も入っての無礼講にお殿様も大満足のようであった。
 然し、一番驚いたのは誰あろう、弥太であった。ちょっと一緒に暮らす間に、途轍もない潜在能力を引き出してもらった事に感服せざるを得なかったのである。
 やがて弥太が舞台中央に立つと
 「本日の演し物は以上を持ちまして終演で御座います.皆様方、誠に有難う御座いました」
 処が、万来の拍手喝采に包まれていた時、お殿様が突如立ち上がると大声で叫んだ。 
 「オイオイ、待て!待て!ワシの物入れをまだ返してもろうとらんぞ。どうしてくれる!」
 「ワシャシランゾ」
とラー助の声がした。
 これには場内が大爆笑である。
だが弥太が一声
 「えぇ、でもこの借り物台の上にはもう何も御座いませんが」
と台を傾けて皆んなに見せた。
 「嘘をつくな!ワシは確かに預けたぞ。皆んなも見とろうが」
 「そうだそうだ!お殿様の言われるとおりじゃ!」
 「オイ!どこぞへ無くしたか、それともおまえ等が盗んだんか」
 「弥太ぁ~、許さん!」
 「おまえらぁ~公開処刑じゃ!其処へなおれぇ」
 怒った顔とその一声に場内が緊張に包まれた。
 そしてお殿様が再度立ち上がり、懐剣を取りだそうとして懐に手を突っ込んだ。
 一瞬、
 「アレッ、アリャリャァ?」   
すると何とその物を手に掴んでいるではないか。
 「何とした事じゃ」
 「ワシャ知らん!全く知らんぞ!」
 お殿様は照れくさそうな表情たっぷりの迷演技に、場内はやんやの大喝采に包まれたのである。
 「イャァ~、参った参った!」
 
 種明かしをするとこうなのだ。
 小太郎と忍者一家が夫々の持ち物を返しに行き、一番先に玉の演技が終わった後、すぐに弥太が殿様の持ち物をこっそりと台の下から玉に咥えさせて持ち運び、お殿様の懐に飛び込まさせ、その後は何食わぬ顔をして膝の上にじっとして座り込んでいたのだ。城内は薄暗く,弥太の軽妙な語り口と他の小太郎,鉄、ラー助の動きに皆んなが集中しており誰も真っ黒な猫の玉の素振りに一切気付いていなかっのだ。
 比叡尾山城の大広間で一般庶民の猿回し演芸行為を行なうなど、全く前代未聞の事であり驚きを禁じ得なかったのである。

第17話 比叡尾山城一大怪奇事件

 奇想天外な御金蔵破り

 上里次席より久し振りに家に招かれると忍者一家は早朝より浮かれている。優しい奥様に会ってご馳走を頂き、甘えたいばかりなのだ。
 現在、与作は士分に取り立てられ、更に苗字帯刀を許されており、城下の畠敷には住居までも提供されている。
 然しながら、未だに農家育ちで丁稚奉公気分が抜けきらず、広い屋敷は一度だけ弥太と小太郎と一緒に忍者一家が利用しただけであった。どうにもまだ敷居が高すぎるのだ。
 最近は与作もお殿様の随行や代官所の依頼で、あちこちに転々とし、一家も仮住まいが多く落ち着かない。
 やはり鉄、玉、ラー助にとっては生まれ育った炭焼き小屋が何より一番。まさに
 ''忍びの家,,
である。小さな子供の頃から犬、猫、カラスが、互いに山中で宝探しや隠れんぼう遊びを通じて、切磋琢磨しあい、更に国久公には可愛がられて、各自が持った潜在能力をより引き出してくれた。より超能力を発揮する事により、三吉のお殿様からは忍者一家に認定されたのだ。
 今日も早朝、夜が明けきらぬうちからラー助に叩き起こされる。
 「オイッ、皆んな、朝飯は上里様宅で頂くからな。出発進行!」
 「エイエイオー」
 歩き慣れた山道が楽しくて仕方ない。一旦、別荘に寄り荷物を置いて武家屋敷へと一目散に駆けていく。
 次席宅の玄関前に到着すると
 「ヨガキタゾヨ、アケロ」
 「うぬっ、こりゃラー助!そりゃなかろうが」
 「ホホホ、いらっしゃい」
 「お邪魔致します。ほんま、朝早ようから此奴達が急かしまくるもんですから、すみません」
 「いいから、いいから皆んな上がってね。でも面白いラーちゃんね」
 「そうなんですよ。大好きだった国久公が何時迄も忘れられず、もの真似をするんですよ」
 「奥様、毎度、皆んながお騒がせして申し訳けございません」
 「主人はまもなく起きてきますからね。非番の朝は何時もこうですから。その前に朝食を食べましょうね」
 鉄、玉、ラー助もご馳走を前に全くご機嫌だ。
 毎度のことながらお粗末な飯しか与えていないのでよだれを垂れているではないか。
 「頂きます」
 一斉に食べ始めるとアッという間にたいらげてしまった。
 「オイオイ、よう噛まんかいな」
 食事を終えた頃上里様が起きてきた。
 「おおぅ、うちに来るのは久し振りじゃのう。まぁゆっくりしていってくれるか」
 「有り難う御座います。尾道へ行って来て以来ですね。その節は大変お世話になりました」
 「そうよな、あんときゃ初めての遠出で泊まりで出かけたからな。大将は偽役人をやっとったがよう似合うとったよ。ハハハ」
 「へへへ。でも私は初めて瀬戸内の海を見た時は感激しましたよ」
 「そりゃワシも一緒じゃ。宮島へ渡ったくらいしかないからな」
 「そういゃ土産に貰った干物の丸干しとデベラは美味かったな。忘れられんよ」
 「確かにあれは美味かったですね」
 「木槌で叩いて軽く醤油をつけ弱火で炙ったデベラは酒の肴にゃようおうたな」
 「そうだ、上里様、いい事を思い付きました」
 「オゥッ、突然、何事かいな」
 「産地から送ってもらいましょうよ」
 「そりゃ又、どういう事かいな」
 「尾道の弥太さんの家に連絡するんですよ」
 「まさか、ラーちゃんじゃあるまいな」
 「其れですよ」
 「然し、こりゃどうにも二度とあんな距離は無理じゃないかのう」 
 「いえいえ、ラーちゃんなら確実にやってくれます。他のカラスと違って、普段も長距離を飛んでいますから十里や二十里はあっという間ですよ。それに大の仲良しの小太郎がいる所じゃし喜びますよ」
 「然し、忍者一家は凄い事をするな。無茶苦茶に早い伝達をラーちゃんはやってくれるんでぇ。それも正確にな」
 「ただ荷物を運ぶにはラーちゃんでは如何にも重いですから行商人を頼みましょう」
 「今から紙に書いて飛ばして持って行かせましょうか」
 「そうしてくれると嬉しいのう」
 与作は屋根の上にいるラー助に一声かけた。
 「ラーちゃんよ、すまんが小太郎の家まで又行って来てくれるか」
 「ヨイヨイ、マカセトケ」
 「なんちゅう奴じゃラーちゃんは。あんたは偉い!」
 「エッヘン」
早速にも、遠路はるばる飛び立つラーちゃんの為に奥様は小さな弁当を拵えてくれた。其れに代金を包み込んだ。
 「ヨワイクゾヨ」
 「ハハハ、宜しく頼むよ」
 鉄と玉も見送っている。
早々にも南の空に向かって飛び立つ。
 確実に仕事を成し遂げるであろう。其れもホウベだけで。

ラー助は頼まれた書簡を持って飛び立つと尾道を目指す。前の時は与作と忍者一家と一緒に出掛けており、空から道中の道筋をはっきり覚えていて簡単な使いである。然し、其れにしても早い。途中、二、三度羽根休めをし軽く馳走を啄(ついば)みながら飛んでいく。 
 今日も日和が良い。千光寺さんの上空に来ると目の下は尾道水道だ。
 「コタロ、コタロ、ヨガキタゾ」
 「おいっ、今の声はなんなら!」
するとボロ家の中から小太郎がガタピシ戸を開けて外へ飛び出したではないか。
 「もしや、ラーちゃんか」
弥太はただビックラこいている。
 「又、大将が尾道へ来られたんかいな」
すると
「ヤタサン」
と言いながら近づき小さな包みを目の前に落とした。
 「こりゃなんぞ頼みごとかいな」
 「おい、小太郎、ワシャ読み書きがよう出来んけん千光寺さんに代筆をお願いしにいくぞ」 
 急坂道を小太郎とラー助はまとわりつく様に嬉しそうに上がっていく。
 与作からの書簡状を受け取った千光寺さんは前の事を覚えており、 
 「おおう、こりゃ偽役人をやっておられたお方じゃないか」
 「弥太さんよ、一寸待っとってくれるか。すぐに返事を書くからな」
 「色々、三次へ行った時の話しを聞かせてくれるか」
 「分かりました。宜しくお頼みします」

  ~大恩ある大将様へ~
 先般は何かとお世話になり本当に本当に有難う御座いました。
 其れに立派な三吉のお殿様の衆人に対する志に唯々感謝するのみで御座います。感服致しております。
 ご要望のデベラの干物については知り合いを介して早急にもお届け致します。
尾道からは今高野山のある太田の庄へは日に何便も行き交いがありますし、そっから三次までは私の知っている人間を使わせて持って行かせますから楽しみにお待ち下さい。尚、代金に関しては一切お受け致しかねますのでお返します。
 大恩ある御方にほんのささやかなお礼しかできませんがどうぞお受け取り下さい。
又、お会いする日を小太郎共々楽しみに致しております。
                ~弥太より~
 
 「そりゃええがな、今日の本題の件じゃが、又々、迷宮入り事件を持ち出して来てしもうたのよ」
 「何の何の、どんな事でも申し付け下さい」
 「有り難うよ」
 「でもな、たまげるなよ。実はこの事件は一昔前の七、八十年前に城中でおきた盗難事件の事なんじゃ」
 「何ですか、そりゃ又古い話で。証拠が全く消滅しとるんじゃないですか」
 「其れで今更掘り返して解決するなど全く意味はないのよ。其れこそ永久にほったらかしにしておいてええ様なもんよ」
 「それじゃ一家が出る幕がないのでは」
 「然し、今なして蒸し返すかいうとな。実はこの度、事件を発生させた城の中の御金蔵が老朽化して近々ぶち壊されるんじゃ」
 「この蔵は事件が起きた約二年前くらいに建てられたれたらしい。何せ御金蔵ゆえにかなり頑丈に造らせた様なのよ」
 「其れがじゃな、当時、比叡尾山城三百年の歴史上、最大の一大怪奇事件が起こったという次第で、そりゃ皆たまげたまくった事であったろうよ」
 「こりゃ外へ知られて大恥をかきとうは無いわな。当時は箝口令(かんこうれい)が布かれてまぁ大騒動だったらしいよ」
 「そりゃそうでしょう」
 「当時、多額の金、銀財宝が無くなり調べまくったが何一つ手掛かりを見つけきらんかったのよ。こりゃ城の中にある金蔵だぞ。誰がこんな場所から財宝が盗まれると思やぁ」
 「ワシも今更ながら耳を疑ったよ」
 「そんな事件が現実に有ったんですね」
 「そういう事じゃ」
 「代官所役人がやったその時の事件捜索の経緯によると、犯人は正面から侵入したばかりに捜索が集中しとるんじゃ」
 「なるほど」
 「兎に角、犯人は扉を開けて持ち逃げしたとばかりじゃと城に出入りする人間を片っ端から捜索しておるのよ」
 「毎日、城に出入りする賄い業者から庄屋、薬屋等徹底的に捜査に当ったようじゃ」
 「更には、蔵の中を全てさらけ出し空っぽにし、手掛かりを得ようと捜索したようじゃが分からんかったらしいのよ。城内の二の丸、三の丸や関連の建物の部屋、空井戸やらありとあらゆる処を全てとの事じゃ。
 其れこそ、なかなか解決の目処が立たず、イライラしてな、しまいには蔵へ一番出入りしとった家老までもが疑われる程、皆んなが疑心暗鬼に陥ってしまったらしい」
 「其れに、一時は財政破綻迄するんじゃないかと噂を立て捲られる始末だったらしい。とその時の顛末記に記してあっようだ」
 「ヘェ~、そんな事があったんですか。民百姓には全く知る由もなく、然しながら藩財政が逼迫し、更なる年貢取り立てが厳しくなったという事は一切聞いておりませんが」
 「其れは、昔から三吉家代々に渡り領民に対してええお殿様だったということよ」
 「今もそうじゃが蔵の内外には傷一つもない状態じゃ」
 「然し、それにしても凄い知能犯で」 
 「其れよ。どうせ建物が近々無くなるというても此れじゃ癪に触るわな」
 「どういうても大量の金銀財宝が行方不明のままじゃ。神隠しに遭うたなどとんとさまにならん。其処でじゃ。この際、大将と忍者一家で犯人と知恵比べをしてもらってはどうかと思ってな」
 「はぁ」
 「そうはいうても相手はとうの昔に墓の下で苔むしておるがな。ハハハ」
 「興味は無かろうが忍者一家の鼻嗅ぎじゃ思うてやってみてはくれんかのう」
 「なるほど。分かりました。出来るか出来ないか兎に角やってみましょう」
 「オオゥ、やってみてくれるか」
 「其れで何時から取っ掛かればよろしいんですか」
 「そりゃ何時からでもええよ。じゃったら鍵を預けとくよ」

 与作は依頼事項を聞き取るのに昼頃まで次席宅にお邪魔していた。更に昼飯までご馳走になり、おまけに夕食分まで包みを持たせてくれた。
 「有り難う御座います。帰ったらラー助も大喜びすることでしょう」
 
 与作達が帰った後からして暫くして陽が高い時刻に次席の屋敷にラー助が帰って来た。
 そして屋根の上から
 「ヨガカエッタゾ、デベラ、デベラ」
 「あらぁ、ラーちゃんもう帰って来たみたいよ」
 「何ちゅこったぁ!」
 「然し、早いのう」
 次席の前に下りて来るとラーちゃんの足に小さな礼状書簡が括り付けてあった。
 それをはずしてやり、奥様が
 「ラーちゃんご苦労様、はいご褒美よ」
と包みを渡すと嬉しそうに別荘の方に飛び去った。
 代筆にて書かれていた書簡は千光寺さんからのようだ。
 「おい、要らん事を頼んでしもうてかえってお寺さんにまで気を遣わせることになってしもうたな」
 「大将にまでも迷惑を掛けて悪かったな」
  
   事件の経緯

 事件は今から約百年前に遡る。晩秋を迎え木枯らしが吹き荒ぶ真夜中の事である。
 夜警の為、二人の見回り番が定時に鍵の施錠の確認をするのが日常の慣わしだ。昨夜から異常無しの報告を受け次の朝に担当番が引き継いでいた。
 その日の朝早くに家老が重要書類を作成の為に手下と共に中に入った。その時は何時もと変わりなく全く何の異常も無いように思えた。手下が古い書類を取り出そうと積み重なった金庫の横を通った時、着物の袖が木箱の角に少し引っかかったのだ。其れで簡単にガタとずれたではないか。
 「あれっ、えらい簡単に動いたじゃないか。どしたんかいな」
 よく見ると外箱の金具が少しめくれている。
其れを箱ごと手で押してみた。簡単に動くではないか。更に持ち上げると軽いのだ。
 「ご家老様、大事で御座います!」
 「何じゃ、騒々しい奴じゃな」
 「なっ、中が空っぽです!」
 目の前に積んだあった財宝は木箱のまま残されており中はすっからかんであった。其れに全部ではないがかます袋も何故だか全く軽いのだ。
 「どうしたこっちゃ!こりゃ何時無くなったんじゃ」
 「畜生め!犯人は全くワシ等を舐めてけつかりゃがる!」   
 昨日も、見回り番は二人一組で夜中にも巡回し鍵を開けて中を確認し、目視のみでお宝には一切手を触れてはいない。異常は全く感じられなかったのだ。
 然し、不思議な事が生じたものだ。
普通なら城の人間以外には外から絶対に侵入することは考えられない。ましてや御金蔵に来るなど絶対に無理な事である。
 この騒動にお殿様が真っ先に気付かれ緊急指令が下された。
 「此りゃ、財宝は城の外への持ち出しは絶対に不可能じゃ。一つや二つなら兎も角あれだけの量じゃ、城中を隈なく探索せよ」
それからは、門という門は全て閉じられ、蟻も這い出る隙間もない程の厳重警戒に入った。
 城中に出入りが出来る全ての人間にも疑いがかけられた。其れに一人で犯行するにはまず無理だ。必ず複数人が関わったと思われる。
 他の捜査班も鍵、壁、天井、床下、屋根裏等徹底的に捜査するも、ぶち破って外から侵入した形跡が全く無いのだ。後は鍵を開けて正面扉から侵入したとしか考えられない。
 然し、何時に盗難に有ったのかはっきりとは分からなかった。昨日かもしれないし、或いは一カ月前かもしれない。
 此れは何時も出入りしている家老にして此の供述内容で全く曖昧なものであった。
 蔵の中は仕切りは無かったが前にお宝が有り、くてうぉ横奥に棚があり重要書類が積み重ねてある。その都度目視するのみで一切、手に触れてはいないのだ。
一向に埒があかぬ行き詰まった捜査に、皆は疑心暗鬼に陥いってしまい、家老の責任問題にまで発展してしまった。
 「一番の責任は私にあります。常日頃出入りしている私の管理不行き届きで御座います」
 「責任は全て私が負います」 
 「ならぬ!それは絶対にならぬ!」
 「ええか!財宝の姿も見えんが物の怪の姿も見えん」
 「何れにしてもこの人間技とは思われぬ仕業に、こりゃ三次に昔から言い伝えがある物の怪の仕業に違いない。まさにこれじゃ!」
 「無いものは無い!捜索は此れで打ち切りじゃ」
 「わかったか家老よ。お前は消えてはならんぞ。これは厳命じゃ!」
 「お殿様・・・」

 事件が起きた比叡尾山城は三次盆地の北側に位置する。そう高くはないが山の頂上にかけて中腹から建物が三の丸、二の丸、本丸と配置された連郭式の山城だ。
それに付随して離れた箇所に倉庫、武器庫と色々関連の建物がある。
 塀や高い壁に囲まれた中に本丸がある平城とは構造が完全に異なるのだ。この時代は飛び道具の武器弾薬は無い。外敵が攻め入って来た時、登って来れない高い崖や塀の上からの岩石落としや弓矢が城を守る手段であった。(種子島に鉄砲が伝来したのはこの時代より約百年の後のこと)
 下から外敵が攻めて来られない様に急峻な斜面上に造られている。
 然し、のべつくまなく戦時体制にある訳ではなく、日頃、武家屋敷や城下の畠敷から登城する家来衆にしてみれば難儀この上も無い。

 翌朝から、その現場に忍者一家が下検分の為に佇んだ。
 本日は此れだけで、明日からの段取りの為に下見に来たのだ。
 約九十年前に建てられた御金蔵である。なまこ壁はアチコッチと剥げ落ちてかなり老朽化はしていた。
 次席から当時の捜索資料が渡されており、与作は其れに準じて自分と忍者一家の目で確かめるのだ。
 外観、外壁、屋根、内壁、天井、それに床下には厚い石が敷き詰められている。
 堅牢な構造で見た感じはぶち壊した形跡が全くない。
 「然し、中は綺麗じゃな。こりゃ難儀な事になりそうだな」
 与作は一人ブツブツ喋りながら順次、目と手で触わって確認していく。
 鉄と玉は部屋の中央に座り込んで動きをじっと見つめている。
 暫くして外に出ると皆嬉しそうにしている。兎に角、宝探しの本格挑戦気分になっているのだ。
 「よしゃ、今日はこれくらいにしとくか。明日から本気でやるでぇ」
 「エイエイエオウ」
相も変わらずラーちゃんの威勢のいい掛け声が響きわたる。

 次の日に与作は次席に許可をもらう為に代官所を訪れた。
 「オオゥ、そりゃええがな、昨日、大将が帰ってからちょっとしてラーちゃんが帰って来てな。千光寺さんからの書簡を受け取ったよ」
 「其れにしても凄い早いのう」
 「そうですか。千光寺さんとはその節はお世話になったのに又、お手を煩わせましたか」
 「今度、礼状を認めておきます」

 「そりゃそうと、蔵を今から行って詳しく検分しますが、あの建物を少々傷をいかせても宜しいでしょうか」
 「あゝ、すきな様にしてもええよ。どうせ近々ひっくり返すからな」
 「分かりました」
 「そりゃええがあんな物なんぞ、ぶち壊してどうするんじゃ。ついでじゃ、全部ひっくり返してくれるか」
 「そんなぁ、上里様!」
 「ハハ、冗談、冗談じゃ」
 武家屋敷から城までは一里程はあるが与作と忍者一家はとんと苦にならない。
 道すがら鉄、玉ともにさも手柄は自分のもんよ、とばかり自信満々の表情だ。
 然し、此奴等は本当に仲良し忍者一家で、凄い潜在能力を互いに引き出し発揮するなどつくずく感心していた。
 蔵の扉の前に立つと
 「よし、ほいじゃ今から始めるぞ。よう目を凝らして見とけよ」
 然し、鉄も玉も臭いだよ、とばかりに鼻をヒクヒクさせている。
 先ず、床下の空気穴が小さく細長い為に外からは人間が潜り込めない。
 与作は中に入り床に潜り込めるだけ打ち破り這いつくばって潜り込んだ。蝋燭の灯りを照らしながら検分していく。中は綺麗に敷き詰められた石畳だ。それを一枚一枚木槌で叩きながら確認している。分厚い岩をびっしり埋め込んであり不審は無い。
 「こりゃ問題ないな」
すると建物の割に角の四つの柱が異様に大きいのに気付いた。
 「ウンッ、なしてなら、なんぼう蔵じゃいうても高さから考えてこんな大きな柱は要らんぞ。まるで大黒柱じゃ」
 「昨日、部屋の中から見回して調べた時は普通の通し柱だったがな」
 「なして床下にこんな大きな柱が使こうてあるんじゃ」
 こりゃ、初めから御金蔵と知っていて事前に工作したんじゃないかと疑問が湧いて来た。     
 然し、誰が何の為にこんな事を仕掛けたのか、当然、部外者の与作に分かる訳がない。ましてや自分は建築業者ではないからだ。
 だが、これは蔵の鍵を開け外部から侵入し犯行に及んだものではないと与作にはピンときた。
 これは大きな柱に寄木細工を施ししているぞと。
こりゃ、かなりの腕の木組大工のした事に違いない。
 然し、素人目には木目が綺麗に筋が通っており一本の柱に継はぎした傷は全く見当たらない。
与作には分からなかった。
 「うぅ~ん・・・」
 兎に角、分からない。何度も四本の柱に触れてみた。更に壁と柱との隙間も千枚通しを差し込みながら不審箇所を探す。忍者屋敷に仕掛けてある、押すと壁がくるっと回転する壁の事だ。だが外壁があまりにも厚く此れもまず無理だ。
何度もため息をつく程に相当の時間を要した。
 与作は子供の頃、積み木、木駒、組み木細工の玩具で遊んでいた。
 親父が大工で、四角の角材を大小に切り、積み立てたりして遊べる様にしてくれ、いかに早く組み立てるか兄妹で競争しあっていた。
 然し、今は遊びでは全く通用しない。何せ寄木工作に関しては素人だ。此れは凄腕の職人がやった事だから尚更な事。 
素人のワシがやったら一日中かけてやっても見つけきらんかもしれん。段々と焦り具合を募らせていた。
 その間、退屈そうにしていた鉄と玉は寝そべってしまい、そのうちに玉はスースー寝息をたててしまった。
 それを横目にすると更に焦燥感一杯になってくる。
さも早く代わってよとばかりに鉄が欠伸をする。
 「こりゃ敵わん!どうにも手に負えん」
 「鉄ちゃん、玉ちゃん、代わってくれぇ。ワシゃ降参じゃ」
すると
 「よしゃ分った」
とばかりに鉄が立ち上がった。
 まず部屋の床板をトントン音を立て踏み締めながらゆっくりと一周している。そして四本の角柱に近づき、鼻をクンクン鳴らしながら何かを嗅ぎとっている。東南角にある柱の前でじっと見つめていた時、気付いたのであろう。
 ここだ!
とばかり後ろ足脚で立ち上がると、いきなり柱にすがり前足で叩く様に引っ掻きだした。
 「オイッ、鉄ちゃんどうした?!」
すると小さくはあったが、太鼓が響くような音がしたではないか。
 「ウヌッ、もしや、これは中が空洞か」
与作は柱に近づき、拳でこんこん叩いてみた。やはり音が違う。与作は他の三本の柱にも同様にやってみた。
''ゴツン,,''ゴツン,,
他は全く重々しい響きだ。
 「確かにこれは違うぞ。此の柱か」
 すると寝そべっていた玉が立ち上がるとこちらに近づいてきた。そして背伸びしながら鼻で何かを嗅いでいる。
 臭いに敏感な玉は、部屋の中の空気と空洞を通してほんの僅かな隙間から上がってくる外からの空気の違いに気づいたのだ。
そこに近づくと此処だよとばかり爪で引っ掻くではないか。
 「玉ちゃん、何があるんじゃ」
 すると薄皮がポロッとハゲて落ちた。
 「ウヌッ?なんじゃこりゃ」
与作が見た時は全く何も分からなかった。
 だが玉の鋭い爪の先が貼り付けてあった樹皮をえぐったのだ。すると色目の違った小さな木片が現れた。
 そこは柱の外側からは絶対に開かない様に寄木の細工が施してある。
 与作は其処を上から鑿(のみ)で叩き壊す。
 小さな空洞が見えたではないか。
 「何んじゃこりゃ!」  
 「鉄ちゃんも玉ちゃんも凄いなぁ」
 「どうだい!」
とばかりに得意そうな表情だ。
そして玉ちゃんが頭を突っ込んで中の様子を伺っていた時、足が滑って転落してしまったではないか。
 「お~い、玉ちゃん!玉ちゃん!」
 「ウゥ~ワン!」
 然し、何度呼んでも返答がない。
 「鉄ちゃん!こりゃ大ごとでぇ、玉ちゃんがおらんようになったぁ」
鉄も覗いて見るが頭しか入れない。
 救いは下から上がって来る外の空気だ。必ずや小さな玉であれば、隙間を伝ってからどっかに出てくれると一縷の望みを託していた。
 こりゃ助からんかと思い暫く悩んでいたところ、鉄が蔵から飛び出し急に下に向かって走り出した。そして城の外の雑木林の中に駆け込んで行く。
 「鉄、何処へ行くんじゃ!」
 あまりの素早さに与作は鉄を待つ以外になかった。
 そして間も無くするとワンワン吠えながら泥だらけの玉を連れて帰ってきたではないか。
 「玉ちゃん無事だったか。どこも怪我しとらんか」
 「ニャ~ン」
 「よかった、よかった」
与作は薄汚れた体の土埃を拭き取ってやっている時、何やら小さな御守り袋の様なものをポロっと下に落とした。
 「玉ちゃん、そりゃ何んじゃいな」
 すると鉄がワンワン吠えながら急かせる様に駆け出した。
 「分かった、付いて行くぞ」
 城の東側の急斜面で普段は人間は絶対に近付かない場所だった。
 其処を滑らないように下りて行くと笹藪の中に入り口がある。
 人為的に造られたものではなく、大きな岩が重なり合いその下に空洞が出来ていたのだ。
比叡尾山城が出来る遥かに大昔の頃、地球変革により日の本が海の底から隆起し、このあたりに断層が出来た場所で備北層群と云われ丁度、比叡比山の下辺りに横たわっている。
貝殻や動物の骨やらが幾重にも重なった層の断崖絶壁だ。石灰岩層も有り、其れが水に溶けて空洞化し城の下辺りに続いていた。  
 
  日の本一の奇想天外な窃盗愉快犯

 玉が案内した穴の中には愉快犯の様な気分なのであろうか、書き付けがご丁寧にも貼り付けてあった。其処には神棚らしき物が据え付けられており小さな社がある。其処に物怪大明神なる書き付けが貼り付けてあった。
それを玉は爪て剥がして持って来たのだ。

 ~この書き付けが何代先に見つけられるか、或いは穴が崩れて日の目を見ないかもしれん。何れにしても
何年、いや何百年先になるかもしれんがもし読まれる事があれば本望じゃ。
実はここに書き記した書簡は事件の騒動が鎮まった二年後くらいに又、穴蔵に潜り込み物怪大明神として一人合点の英雄きどりで置いたものよ~

更に別の書き物には

 ~この秘密は建物をぶち壊さん限りは絶対に分からんぞ。其れが何十年、或いは百年以上先になるやもしれん。然し、ワシ達の施した木組み工作と穴蔵の仕組みは永久に絶対に分からんじゃろう。
 何処の誰とは言わんがワシ達のご先祖さんはさる藩の流れで一応は格式があるよ。
其れなりに学はあるし、こうして字も書いとるからな。
 ワシのとこでは母親か教育熱心でな、何時も源氏物語や枕草子を読んどったよ。何せ、あるお寺から嫁に来ておったからな。読み書きが出来る筈よ。兄弟は子供の頃から競う様に母親に付いて勉学に励んでおったし、母親は毎日日記を書いていたよ。其れも半端じゃないのよ。まるで清少納言や紫式部の女流作家気分の文章で、其れは綺麗に綴られていたよ。そして何時もワシ等兄弟に読んで聞かせるじゃ。
こんな親じゃったからワシも書き物をするのに何も苦がなかった。
 それにしては親父は武骨人じゃたな。全くの正反対よ。
 ワシ達兄弟は仰山おってな下のほうで要らん子みたいなもんよ。分家する程財産は有りゃせんし、段々と大きくなってくると夫々養子に出されたよ。
 然し、ワシは行き先の家風が全く性に合わず、何年もせんうちに飛び出してしもうた。あとは野となれ山となれよ。
そうかといって飯は食わにゃ生きていけん。
 子供の頃から物作りが好きで特に手の込んだ工作をやるのが上手じゃった。其れで大工をやる様になったのよ。普通の奴よりも高度な組み木、寄木細工をやる事に集中したのよ。じゃから釘は一本も使わず、素人が絶対に開ける事が出来ない戸や柱、壁、の工作物を作る事が出来るのよ。此れだけは一番の自慢じゃ。
 この技術の取得には長年の修行暮らしが続いてな各地を渡り歩いたよ。そして瀬戸内側のある田舎の村に行った時、この名人に出会してから三年に渡り弟子入りし教えを請うたんじゃ。

 (因みに室町時代の識字率であるが、フランシスコザビエルが日本にやって来て都から遠く離れた九州のど田舎の地、肥前国平戸で宣教活動をしていた頃(千五百四十九年)日本人の高い教養に驚いている。
 何故に識字率が高いのか。其れは一般庶民を法話集会を通して教育してくれる寺院、旅僧による「いろは」文字等の伝達がある。
 更に、能や神楽の伝統芸能、琵琶奏者による平家物語、枕草子の清少納言、源氏物語の紫式部による平仮名、片仮名の普及と読み書き以外にも知識、教養、道徳観と男女は問わず、多くを学べる日本独特の風習が有った為であろう)

そうした時にワシが生まれ育った備後三次の地から声が掛かってな。軽い気持ちで子供の頃の懐かしい地じゃ行ってみるかという気になって、同じ様にすぐ下の弟も左官をしておって其れで誘ったのよ。
 そしたらなんという奇遇か、小さい頃、比叡尾山に駆け登り探検遊びをしたその山のてっぺんだったのよ。
其処にはかなり古くからお城があったよ。まぁワシの目から見てもお粗末な城じゃたな。
 其処がこの度の仕事依頼先だ。懐かしさのあまり二人して感激しまくったんじゃ。
 其れがたまたまこの城の御金蔵造りに携わる事となったのよ。
 ワシ達二人の兄弟のしたかった事は折角の三次の地じゃ、人生の集大成として傑作を残したいと思ったのよ。 
 ワシの人生どこから狂ったのか分からんが、こんな事をするくらいじゃから城から遠くない事は事実よ。ワシらがこの建物の工事をはなえるときにたまたま小さな穴を見つけたのよ。大きな岩の下に小さな隙間があってな、幸いにもワシ等だけが気付いたんじゃ。中からは下から空気が上がってきており、こりゃそう遠くない所まで続いてるとすぐ判断出来たのよ。
 「おい、兄貴、もしかしてこりゃ子供の頃、この下の岩穴から上がって来てから上に出で辺りをキョロキョロ見とった所じゃないか」
 「そうよ、ワシもそう思うとったよ」
こりゃひょっとしてひょっとなるかなと悪戯(いたずら)心えが芽生えたのよ。じゃがその時は本当に大それた考えなど微塵も無かったよ。
棟梁にこの建物は何に利用されるのか聞くと御金蔵じゃというじゃないか。
 「頑丈に造らにゃいけん。手を抜かん様にええ仕事をしてくれよ」
 「分かりました」  
 「皆んなして頑張ってくれ。給金は弾むからな」
 其れから蔵の基礎作りをする段階の時、子供の時に顔を覗かせたあの小さな穴だったのよ。其れが四隅の角の柱に当たるとこにあったのよ。
 「おい兄貴、こりゃ!」
 「オオゥ!こりゃ全く一世一代の大仕事になりそうなでぇ」
 後は他の職人に分からない様にさりげなく穴に落ち込まない様に石畳で蓋を被せたのよ。こりゃ丁度えかったよ。蔵の床下は厚い石畳をひくからな。
 「こりゃ後世に残る日の本一の奇想天外な愉快犯になれるかもしれん。ワシ等の腕の見せどころじゃ」
がっしり手を握り合わせたのよ。
要らん子で後は野となれ山となれの人生じゃ、
どうせ家を継いだところで下っ端階級の身の上で普段は百姓仕事の身の上じゃ、其れからは後はお察しの通りよ」  
 何とか取り繕う為に柱を大きゅうせいじゃの外から床下に潜り込めんように通気口を小さく細長くする事とか色々提案したよ。
 この要望が功を奏する事となる。
そのうちの一本は大黒柱と称して十尺の檜の丸太を持ち込んだ。事前に中をくり抜いとって其れに細工をして、それをすっぽり穴の中に立てた。こりゃ全く基礎柱じゃ。後は左官工事で綺麗に周りを取り繕うて外から観て絶対に気付かれんように工夫したよ。弟の左官の腕と組み木大工のワシの腕の見せ処だ。
そして念願の建物が立ち上がると棟上げ式を済ませたよ。
 御金蔵が完成して二年近く経った頃
 「そろそろやるか」
 「よしゃ、分かった。本業を暫く休むとするか…」

 其れから後はお察しの通りよ。
 ワシ達兄弟はこの度の金銀財宝の施しに城に何の所縁や恨みもないがな、此れから悠々と飯を食わしてもらえるよ。ただな、貰っていくのは手加減させてもらうよ。
 此処の殿さんは代々に渡り領民の困窮は自分らの罪じゃと考えられる程の評判の立派な御方じゃ。
そんな比叡尾山城をどん底に叩き込む様な事はしとうない。
 仮に悪代官や性悪家老がおるようじゃたら許さんところじゃ。然し、それもない様だ。
此奴等が悪かったら、此の抜け穴情報をワシは
他所の競りおうとる殿さんへ売り付けるつもりじゃったよ。凄い金になるぞ。然し、そこまではせん。
  ~後は此の書き付けが日の目を見るかは天のみぞ知るじゃ~  

 早速、与作は事の次第を次席に報告する為ラー助に託した。
 「上里様、こんな書き付けが見つかりました。是非一読を」
 「何、何んちゅこった、こりゃまるで物語作家気分の文面じゃないか。自己陶酔も甚だしいにも程があるぞ。然し、ここまで完璧にやられるとワシ等代官所人間としては二の句が告げられんな」
 「然し、こりゃ何処へあったんじゃ。なしてこれを誰もよう見つけきらんかったんじゃ」
 「すぐにでも実況検分させてくれんかのう」
 「今からすぐにそっちに向かう。待っとってくれるか」
 「分かりました。早急にも案内致します」
ラーちゃんの速い事速い事!連絡紙を何度も運ぶのが楽しくて堪らないのだ。

 「其れはええんですが、上里様、これは忽ちご家老様にも立ち会って頂く必要があろうかと」
 「そりゃなしてかいのう」
 「これは比叡尾山城の重大な機密事項に関わる事ですから」
 「分かった。ワシには何の事かさっぱり分からんが緊急に呼び出し来てもらおう」
 丁度その頃、家老は御用部屋におり執務していた。其処に次席がやって来て
 「ご家老様、急用です、ちょっと此方へ」
 「オオゥ、上里か」 
 「見てもらいたい事が有りますもんで」
 旧金蔵の前には既に与作と忍者一家が待ち構えている。
 「おおよう来てくれたのう」
毎度の如くワンワン、ニヤンニヤン大騒ぎである。
 「こりゃ静かにしとれや」
 「大将よ、この建物はな、間もなくでひっくり返すからな」
 「らしいですね」
 建物は堅牢に造作されていた為に百年以上もったのであろう。だがなまこ壁の外壁はあちこち剥げ落ちていた。
 その前に家老と次席、それに忍者一家が佇んでいる。ご家老様はこの御金蔵と長年に渡り携わっており感慨深そうな表情である。
 「中の作りは相変わらずに頑丈そのものじゃな」
 「そうです」
 「然し、なして百年前にこの蔵で盗難事件が発生して未解決のまま終わったんかのう。全く考えられん事じゃ」
 「其れは間も無くで分かります」
 「ほんまかいな」
 「この度の探索というか盗難に関わったこの金蔵に鉄と玉は多大に貢献してくれました」
 「そりゃ又、如何なる事じゃ。褒美を仰山とらせにゃならん事かいな」
 「またまた、冗談を」 
 「ハハハ、真面目に話をしょぅるのにすまんすまん」
 「ご家老様、この事件の経緯を書いた書き付けを先ずは一読していただけませんでしょうか」
 「ほう、そりゃ誰が書いたもんじゃ」
 「それは窃盗犯が書き残していったものです」
 「なんちゅこった。とんとワシには理解出来んがのう」
 其処へ先般、手渡していた巻紙を次席から受け取ると読みだした。
 「こりゃ古いもんじゃな、少々汚れて文字が滲んどるのう」
と不満を言っていたが読むにつれ段々と顔色が変わっていく。
 「オイッ、上里!こりゃ何処へ有ったんじゃ!」
 「この御金蔵から城の隅々まで隈なく探したが、何処
にも見つからなかったんじゃろうが!」
 「其れはこの後、鉄と玉がご案内しますよ」
 「いやいや、すぐにでも案内してくれるか」
 ご家老様にそう言われたのが嬉しくてたまらない。
 鉄は家老の袴の裾を噛んで引っ張っている。
 「オイオイ、鉄ちゃんよ一寸待てや、こっちの方が先じゃ」
 与作は蔵の鍵を開けると皆んなと一緒に中に入った。
 「ご家老様、上里様、今此処に重大事項が隠されいるのですが何かお気付きの事が有りますか」
 「・・・・」
 「ウ~ン、さっぱり分からん!今迄にほぼ毎日此処へ入っとるが何んにも変わっとらんぜよ」
と頭を捻りながらあっちこっちの壁や床を手で触れながら思案していたが
 「こりゃ降参じゃ」
その間、鉄と玉は嬉しそうに座ったまま二人の動きをみつめている。
 「よしゃ、証拠をお見せしろ!」
鉄はおもむろに立ち上がった。そしてゆっくりと一周してから角の大きな柱に近づいた。
 「オイ、ありゃ何をしょうるんなら」
ご家老様は不思議な動きを一瞥(いちべつ)している。
 その時、鉄は後足で立ち上がると大きな柱を前脚で引っ掻くように叩き出した。すると小さくはあったが太鼓の音の様に響いたではないか。
 「もしや中は空洞なんじゃないか!」
と家老が叫んだ。
早速、次席が駆け寄ると自分の刀の錆の部分で叩いてみた。
 「ご家老様、こりゃ正しく中がくり抜いて有りますよ」
 「他の三本も同じかい」
家老の声に次席が近づき確かめる。
 「いえ、此の一本だけの様です」
 「よしゃ、玉ちゃん、行け!」
 与作の掛け声に嬉しくてたまらない。
 そして鉄が叩いた柱に近づき鼻をクンクンしながら伸び上がると、其処をガリガリ爪で引っ掻きだした。
 すると、薄皮の木片がめくれたではないか。
 「ご家老様、此処です」
と与作は指差した。
 然し、二人には何の事やらさっぱり分からない。
 その部分の木目模様の部分をトントンと叩くと薄皮がめくれ小さな木組みが現れた。その中の小さな木片を引くとカポッと外れて穴が出来たのだ。此れを見た途端、ご家老様は腰を抜かさんばかりに驚いた。
 「ウウゥ~ン」
 「こりゃ全く想像がつかなんなだぞ!」
 でも、この細工は与作が前日に金槌で壊し手を加えたものであった。
 然し、此れを作った盗人達は蔵の部屋の中からこの仕掛けを素人には絶対に開ける事が出来ない様にしていたのだ。釘一本使わない恐るべし超優秀な組み木大工である。
 「此れは私も全く気付きませんでした。玉が気付いてくれたおかげで秘密を見つける事が出来たのです」
 「ウ~ン、玉ちゃん凄いなぁ」
 「然し、玉も一度はどじを踏んだのです」
 「そりゃ、なしてかいな。玉でもそんな事があるんかい」
 ご家老様から頭を撫でられながら得意そうな表情だ。
 「其れは穴を見つけて中を覗いている時、足を滑らせ転落したのです」 
 「おやまぁ、玉ちゃん!」
 「上から大声で何度呼んでも返事が有りません。鉄も頭だけ突っ込んで吠えたのですがとんと反応が有りません。こりゃ余程穴が深いか、岩角に頭をぶつけて死んだかと思いました。暫くじっと涙を流しながら其処に鉄と佇んでおりました。そして半刻経った頃でしょうか鉄の耳がピンと立ったのです。其れから一気に城の外へ駆け出して行きました。私を置いてけぼりにしてです。
 「仕方がないので私は其処で待っておりました。すると間も無く鉄の吠える声が外から聞こえて来ました。何と玉と一緒にです。玉は泥だらけでしたが元気なようです。そして口に何やら巻紙を咥えておりました。
「おおう玉ちゃん、無事だったかよかったのう」
「然し、鉄ちゃんは凄いな。何で玉ちゃんが無事なのが分かったんじゃ」
 すると鉄は好きな玉の臭いで何処におってもすぐに分かるよという顔をするではないか。
 ご家老は
 「玉ちゃん、こりゃ全く怪我の功名じゃな。じゃが凄い」
どっから帰って来たか教えてくれるか。皆んな一緒について行くからな」
と一声かけた。
 すると鉄と玉は競争する様に走り出した。
 「こりゃこりゃ、一寸ゆっくり行ってくれぇや」
 鉄は家老の体の横にくっ付いた。
 「お前さん達は優しいのう」
 裏門を出るとすぐ下は崖のように切り立っており笹藪が生い茂っている。
 「然し、玉ちゃんはこんな危なげな所から帰って来たんかい」
 「ちょっとゆっくり行けや。滑り堕ちたらいちころでぇ」
 この山の地下には備北断層が通っており急に切り立っている。そんな地形の上に比叡尾山城は、建てられたのである。無論、此れは初めて此の場所を検分した当時、兼範公には其れが分かる訳がない。
 崩れそうな足場をゆっくり歩いていく。笹藪で覆われた下の大きな岩石の窪みに人が潜って入れる程の小さな穴があった。
 「カロウヨウキタノ」
 「此れは殿、どうして此処へ」
 「うぬ?ぬぬう!おかしな声じゃな」
 「誰じゃ、ワシを呼んどるのは」
 「ハハハ、家老様、上ぇ上ぇ!」
 与作は上里様と一緒に大笑いをしているではないか。
 「何じゃラーちゃんかい。ほんまに、たまがすなや」
 「スマンスマン」
 このやりとりに皆んなの緊張感は一気にほぐれていった。
 そして玉は此処だよとばかりに鉄と一緒に中に入ったではないか。
 「「おぅ、此処から金蔵に続いとったか」
皆んなは背を屈め這いつくばる様にして中に入っていく。すると人の背の高さ程の意外に広い所があった。洞穴の中は見えない事はなく薄日が差し込み反射している。
 握っていた巻紙を玉に見せると、ついて来いと言わんばかりに更に穴の奥に進む。
 四、五間先で此処だよという素ぶりをするではないか。其処には目の高さより少し上に小さな鳥居の神棚らしきものがある。
此処から玉は巻紙を咥えて持つて来たのであろう。
 「玉ちゃん有り難うよ」
 「ニヤーン、ニヤ~ン」
すると家老は大声で叫んだ。
 「然し、こりゃ、今もって大変な事じゃでぇ!
全く比叡尾山城天守閣の喉元に通じとるじゃないか」
 「以前、国久公が奥出雲から此処へ来られる度に城下の畠敷から宍戸の間者が城への出入りを見張っとった事があったが、とんと比べもんにならん程大変な事だぞ」
 「もしもあの頃にな、この抜け穴情報を宍戸側に事前に提供されとってみぃ、ワシ等はいきなりお陀仏じゃったぞ」
 その時だ!穴の奥の方から
  ''バーン、ガァーン、ガラガラ~,,
と大きな音がした。落盤だ。
 ’’ゴロゴロ,,と小石が白い土煙があげながら奥から噴き出て来たではないか。
 家老達の大声が古い古い穴に響いて崩れ落ちたのだ。
 「それ逃げぇ!」
 「オイッ、山の神さんのお怒りじゃ!すぐに出ていけぇという事じゃ。急げ!」
 一旦、皆んなが全員外に退避すると、家老はホッと一息つきながら
 「こりゃ緊急に明日にも穴を塞がにゃいけん思うとったがその必要はないな」
 「こりゃ、また末代に渡って残しておくと三吉藩の恥とはなるが、入り口だけは残しとくか。今後の戒めとして穴蔵は語り継がれる事になるじゃろうてぇ」
 「然し、毎度のことながら大将と忍者一家には御足労をかけるなぁ。有難うよ」
 「そうです、何度も難しい未解決事件を鉄、玉のお陰でけりをつけてもらっております。大将、ほんま有難う」
 「そんなぁ、上里様、たまたままぐれ当りで御座います」
 「ヨモオルゼヨ」
 「うん?」
 「ラーちゃんか、すまんすまん大事なお方を言い忘れておりました」
 「ヨイヨイ」
 「この度の事はな、お殿様にもきちんと見て確かめてもらい説明せにゃならんてぇ。宝刀盗難事件の時には隠しとって懲りたからな」

 後日、ご家老は次席を連れだってお殿様を現場に案内をした。
 「オイッ、家老よ!今日はワシに何をさせようとしとるんなら」
 「へへッ、今に分かります」
 「ちょっと此方へお入り下さい」
と次席が金蔵の鍵を開けて中に案内をする。
 「こりゃ何なら?!まさか昔の御金蔵破りに繋がっとるんじゃあるまいな」
 「正しくその通りです」
 ぽっかりと空いた柱の穴を一目見た殿様は其れこそたまげまくったのであった。
 「オイオイ、此処が城抜けしたお宝の逃げ道じゃったんかい」
 「又々、ご冗談を」
 「でも違い有りません。此処から城の崖外の穴蔵に続いておりました」
 「フゥーン・・」
 「然し、なんで昔も昔、古い盗難事件を今頃になって持ち出したんじゃ」
 「其れはですね、蔵は間も無くぶち壊しますよね」           
 「そうじゃ」
 「そしたら上里次席が一昔前にあった迷宮入り事件を思い出しましてね、それが御金蔵財宝盗難事件です」
 「それで再度、現場検証したのですがどうにも分かりません」
 「そこで何とかならんかと忍者一家に相談したのす。後はご覧の通りで御座います」
 「家老よ、この城を開城した初代兼範公以来、ワシも三吉家を引き継いで十五代目になるが、お古文書には抜け穴を掘ったと云う事は一切書かれとらんぞ。それだけ敵が侵入して来れん程険しく急峻な城じゃったということよ」
 「こりゃ大昔からの断層の真上に比叡尾山城が建っとるとは聞いとったよ」
 「然し、こんな抜け穴が有ったとはな、ワシ等もよっぽど間抜けな話よのう」
 「う~ん。私には何とも申し上げられませんが」
 「考えてもみぃ、万が一、外からの城攻めに備えて空井戸や抜け穴を掘って逃げる話は各地の城でよう聞くがな。然し、こりゃ全く逆の事じゃぞ」
 「何某、自然に出来とった穴じゃいうてもな、実際ワシ等の喉元に繋がっとる」
 「其れで此の穴蔵はどうするつもりじゃ」
 「其れは大丈夫で御座います。先般、偵察に中へ入っていた時、大きな落盤が生じまして穴が塞がってしまいました」
 「ほうか。其れなら後はもうええな」
 「左様で」
 「家老よ、然し、こりゃ比叡尾山城の完全なる盲点じゃったな」
 「なんの事やらさっぱり検討が付きませんが」
 「険しい山岳の急坂の上に城が建っとると皆安心しとった様じゃが、夫々が二の丸、三の丸とかなり離れとるわな。その間には、まるで雑木林じゃ。此れが平城だってみい、広場が塀に囲まれ綺麗に整地されて草も生えとらんぞ。だからワシの処みとうに夜中に忍び込まれては悪い事のされ放題よ。だから結果がこんな無様な有り様になったんじゃろう」
 「私が何と申し上げて良いやら・・・」
 「然し、忍者一家は凄い事をするよな」
 「毎度の事ながら全く見事な手捌きで御座います」
 「ほんまに人間では到底及びも付かん事をいとも簡単にケリをつけおる。とにかく、一家を束ねる大将の能力は計り知れんぞ」
 「此れもお殿様が任じられた忍者一家の認定に尽きるのではないでしようか」
 「ほうかほうか。ワシも先見の明があるんかのう」
 「左様で御座います」
 「人間の何百倍、いや何千倍も嗅覚が優れとるというんじゃがそんな鉄と玉がおってくれるんじゃ」
 「日本国中の何処の城の殿さんもこんな狼犬、猫、カラスの忍者一家を持っとらんぞ」
 「此れが世に知られたくも有り、知られたくもなしじゃな」
 「お殿様、何の事やら」
 「ハハハ、よいよいワシの自己満足じゃよ」
 
 大胆にも組み木大工名人と左官職人の兄弟がしでかした御金蔵破りの金銀財宝盗難事件など、其れこそ前代未聞の事である。
 然も、それが事件経緯の事後報告付きの書簡まで残した完全犯罪ときている。 
 其れが判明したのは七、八十年後に忍者一家の鉄と玉による、凄い霊感というか不思議な力と強烈な臭覚により判明したのだ。
 人間では到底判断出来なかった蔵の中の澱んだ空気、工作した柱の僅かな隙間から空洞を伝わってくる外の空気を瞬時に嗅ぎ分けていたのだ。
 狼犬の嗅覚は凄まじく、人間の数千倍はあるといわれる。猫も近場ではやはり凄いものがある。
 これぞまさに超能力と言わずして何んと言うのか。
 「鉄ちゃん、玉ちゃん、お前さん達は本当に凄い」
鉄も玉もお殿様から頭を撫でられ大喜びだ。
 「ヨモオルゼヨ!」
 「オゥオゥ、すまん、すまん。ラーちゃんも凄いぞ」
 「ホウベ、ホウベ」

丁稚奉公と忍者一家(改訂版)

丁稚奉公と忍者一家(改訂版)

  • 小説
  • 長編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-07-12

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 第1話 与作の生い立ち
  2. 第2話 与作と忍者達との出合い
  3. 第3話 お師匠さんとの出会い
  4. 第4話 総大将襲撃事件と忍者一家
  5. 第5話 美和様の誘拐
  6. 第6話 前代未聞! 丁稚奉公人の苗字帯刀
  7. 第7話 二度目の襲撃事件
  8. 第8話 三次代官所役人襲撃事件
  9. 第9話 頼母子講毒殺事件
  10. 第10話 三次藩お抱え忍者鴉ラー助と狼犬鉄
  11. 第11話 犬飼平の合戦
  12. 第12話 新たなる旅立
  13. 第13話 伝家の宝刀盗難事件
  14. 第14話 布野村の猿猴による行方不明事件
  15. 第15話 昨日の友は今日の敵
  16. 第16話 鬼に金棒
  17. 第17話 比叡尾山城一大怪奇事件