名前も知らない【最終章】

古瀬

名前も知らない【最終章】
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19-1

19-1

 すっかり歩き慣れた路地裏の端に、白い猫が座っていた。
 雨宿りのつもりだろうか、古い民家の軒下で気まぐれに毛づくろいをしている。

 茶葉を発酵させたような匂いが、今日も薄く漂っている。
 そこにあった簡易郵便局は、少し先にある大通りに新設された大型郵便局と統合されるという体で一年前に廃止になった。煙草屋をやっていた、妙にウィットに富んだ物言いをする老婦人は今は介護施設にいるらしい。対面販売を終了した建物の前に、今は煙草と飲み物の自販機が並んでいる。

 その一画は、数年前と比べてずいぶんと賑やかになっていた。
 裕道の店が呼び水になったのか、斜め向かいの空き家に買い手がついた。かつてはピアノ教室だったというその建物は落ち着いた雰囲気のカフェになり、それにさらに続くようにして近所に住む主婦が自宅を改装して酵母パンの小さな店をひらいた。
 裕道の店の隣の空き家は、IT関連の会社が買い取ったらしい。小洒落た雰囲気に改装されて、ウェブ関連の事業を行っていると聞いていた。空き家の並んでいた町の一画は今、小さな商店街のようになりつつある。
 
 糠雨の降るその路地裏を、透明な傘をさして歩いていた。近くから飛んできたらしい、桜の花びらが傘に何枚も貼りついている。気温は高く、生ぬるい霧が立ち上るような四月の雨の日だ。

 脇にある通用口のような小さな扉に手をかけて、音を立てないようにそれをひらいた。今日は造花だかのワークショップに貸しているとかで、店主に横から入って来てくれと言われていたのだ。細く急な階段は漆喰で上塗りされて、街灯風のランプが三つ、等間隔で設置されている。
 階段を上って左に、墨黒の塗料を塗られた木の扉がある。
 ノックをして窓から中を覗き込むと、白のロングTシャツに黒いエプロンとアームカバーをつけた従兄が作業台の上で何かを作っていた。
 アイアンの傘立てに黒の傘を差し込んで、僕は扉をひらいた。

「裕道」
「ちょっと待って、あと二秒」
 僕のほうに顔も向けず、彼はのんびりと答えた。
「あと二秒って、つまり五分だろ」
「俺に限ってはそうだけど、おまえそれだと計算弱いみたいに聞こえるよ」
 眼鏡をかけた裕道は、クリップライトに照らされた機械の細部をじっと覗き込んでいる。
 部屋の中には、ごく小さな音でラジオが流れていた。

 ちょっとそこ座ってて、と指さされたスツールに腰かける。外は湿度も温度も高かったけれど、室内はほど良く温かく乾いていた。紙相手だからと、従兄が少し上等な空調を新調したのだ。
「外、すごい降ってた?」
 裕道が印刷機の細かなところを調整しながら僕に尋ねる。
「そうでもない。もう少ししたらあがるんじゃない?」
 答えながら、僕はティッシュを一枚取り出して濡れた頬と首の周りを拭う。
「それなら、お迎えチャリでもいけるかな」
「いや、また降り出したら(りん)ちゃん濡れるよ。やむかもわかんないし」
 少し慌てて答えながら、僕は一歳になる従兄の娘の顔を思い出してみる。

 裕道が活版印刷を使ったペーパーアイテムの店をネット上でひらいたのは、一年ほど前のことだ。階下でギャラリーとフリースペースをオープンした後、彼は二階の改装にとりかかりながら活版印刷の勉強にとしばらく奔走していた。機械の修理や手入れ、全くの素人だった用紙に関する勉強などもしていたらしい。彼自身の修行期間が終わって自らの製作した印刷物を販売するまでには、やはり少しばかりの時間が必要だった。
 アプリを同時にリリースしているというハンドメイド系のウェブサイトに登録し、彼のもうひとつの店である『Anachronism.』の運営は始まった。店名ロゴや制作物の画像を揃えて彼が実際にそれを使いこなせるようになるまでフォローしたのが、彼女がここでした最後の仕事になった。

「――凛、最近亮太に懐いてるよな」
「パパより若くて素敵だからじゃない?」
 とぼけて言い返すと、裕道は小さく噴きだしてずれるからやめろ、と言った。
「言ったっておまえも今年で三十路だろ」
「釈然としない」
 作業の邪魔をするわけにもいかない。軽く言い返す。
 二十代はあっという間だとその年齢を通り過ぎた誰もが言うけれど、僕もまたそれを強く実感するひとりになりつつある。約半年後の誕生日で、僕も三十だ。これも誰もが言うけれど、中身は全然その年齢になっていない気がするけれど。
 僕のした返答に、裕道は皆そうだよと笑っている。
 
 旅行会社に派遣社員として就業すると、日々は一変して忙しくなった。単純に起床時間が早まったことも大きかったが、身なりから拘束時間、守るべきあらゆる規則にぐるりと取り囲まれて短期間で別人になった気分になった。
 社会人としてのあらゆる縛りを恐れて極めてゆるい場所でアルバイトを続けていた僕にとって、それは別世界の入口だった。あの環境で許されていたことの多さに改めて気づかされながら、仕事を覚えるのに精一杯の毎日だった。
 研修期間が終わってすぐに、年配の上司の下で添乗員としての業務についた。大手のように修学旅行規模の団体旅行を請け負うことはなかったけれど、企業の慰安旅行や地域のコミュニティが主催する日帰り観光、地元の企業が懸賞として企画したバスツアーなんかは頻繁にある会社だ。添乗員の仕事は、とにかく一日中人とやりとりをする必要があるサービス業だった。
 外国人観光客がターゲットのツアー添乗が好評だったのもきっかけになったのかもしれない。元々が人員不足だったことから、半年後にはあっさり正社員の話が降ってきた。
 内心では躊躇もあったけれど、いざ落ち着くところに腰を下ろすとそんな迷いは吹き飛んだ。目の前にある膨大な現実の処理に追われ続けて、それどころではなくなったからだ。休みも不規則な毎日で、帰宅して上着を脱ぎ、そのままベッドに倒れこんでしまう日も少なくなかった。夜半に目覚めて何とか着替え、顔を洗うことすらできずにそのまま朝まで眠ってしまう日も。
 
 ようやく印刷機から顔を上げて、裕道は僕のほうを見た。太い黒縁の眼鏡をかけるようになってから、少し印象が変わった。店名の入ったエプロンと事務用のグレーのアームカバーをつけている姿は、工房の職人という感じだ。
「ああ、目、しんどいわ。休憩」
 そう言いながら、時計を見上げている。一杯コーヒー飲んでから凛を保育園に迎えに行くから、そのあいだ店にいて、と言う。週末が凛ちゃんの誕生日で、その日は金沢で仕事の僕のためにと今夜前倒しでお祝いをすることになったのだ。
 裕道はひとつ溜息をついてから、右肩に手を添えてぐるぐると腕を回した。コーヒーとケトルが設置してあるコンソールテーブルの前まで、ストレッチを繰り返しながら歩いていく。いつも通りでいい? と尋ねられて頷く。

「今回のお客さん、こだわり派でね」
 ケトルの中にミネラルウォーターを注ぎ入れながら従兄が言う。
「フォントのマニアみたいな人って、いるんだってな。何とかいう昔の作家の本に近い書体で刷ってくれる業者を探してたって言って。自作詩集の表紙を作ってくれないかって」
「へえ」
「何ていうか、意外な需要が多いんだよ。カフェのメニュー表なんかは、もう何度も注文あったけど」
 出来は良かったけどな、と笑っている。
「案外、うまくいくもんだね」
「人の多様性に感謝だわ」
 湯気のあがるケトルの取っ手に手を伸ばしながら、しみじみと裕道は言った。

「おまえは、最近どうなの」
 ふたつのマグカップに湯を注ぎ入れながら、裕道が尋ねた。
「まあ、変わんない」
 最近繰り返している返事を同じように口にした。
 仕事にも慣れて、経済的には少しの安定を得た。あの古いアパートを引き払って、今は会社の近くに部屋を借りている。小ぎれいな1Kのマンションだ。

19-2

 悪運とでも言うのだろうか、あれからの父の回復は早かった。再発を恐れつつも取り戻した日常にはしゃいでいて、母を連れての週末旅行に忙しいらしい。妹の結婚が決まったのも、良いほうに影響したのかもしれない。
 絢乃が一度別れた地元の同級生と父の入院していた病院で再会し、婚約するまでは三か月もなかったはずだ。自分が繋いだ縁だと言って、今は式と披露宴の準備にはりきっていると聞いている。
 宮津さんと別れた櫂谷は、ひょんなことをきっかけに写真を撮るようになった。今は休日になればカメラをぶら下げて近所を歩き回っているらしい。
 印象的な街並の写真は元々得意そうだったけれど、意外にも櫂谷は人物を撮るのが上手かった。さりげない視点で、それでいてその人らしい写真を撮影する何かが彼には備わっていた。ひとりになって気持ちも切り替わったのか、以前よりも生き生きとしている。
 小森はあれからも何度か転職を繰り返し、今は調理師として給食センターで働いている。嶋岡は以前よりも少し責任のある立場を任されたと言うし、麻子のところも変わらずに賑わっている。
 あらゆることが、少しずつ前に進んだような気がする。それぞれ変化しながらも、周囲は同じ場所で暮らしを続けている。
 僕の近くからいなくなったのは、中上千紘、彼女だけだった。


 僕が就職した後も、僕達の交際は順調に続いていた。
 千紘は変わらず在宅でDTP関連の仕事を続けていた。マグノリアハイツの二階に住み、訪れる僕を受け容れ、変わらず僕達はあの部屋でじゃれあい続けていた。時には僕があまりの疲労に到着してすぐに寝込んでしまうこともあったけれど、すれ違いかけた日も何とかそれを修正し、互いに平穏を保ち続けた。
 仕事で日本中を飛び回ることになった僕は、よく現地から寝る前に彼女に電話を入れた。起きてた? 今、どうしてた? と。日付が変わるまでの十五分の通話が、僕達の習慣になった。千紘の声を聞いてから眠りに就くことは、僕を仕事の疲労から何度も救った。

 故郷の友人のひとりである原の結婚式で川越まで出向いた日も、僕達は一緒だった。千紘はそこの近所にある店に行きたいと僕と共に現地まで向かい、夕方に駅から少し離れた場所にあるカフェの前で待ち合わせることにした。
 原の結婚式は彼らしい堅実なムードで、両家の雰囲気もどこかで似ている感じがした。生真面目な青年であることを繰り返された原は、凛々しい表情でそこに立っていた。
 僕達は地元の若い友人達として披露宴を盛り上げ、ほろ酔いの状態で式場を出た。それぞれが陽気な、あるいは感慨深い気分だった。二次会まではいかないけれど、この後でまた少し同窓会のような宴をすることが決まっていた。
 あまりこの手のことが得意ではない櫂谷は、どこか無口で僕の左側を歩いていた。右側では、嶋岡はいつもと同じようにすっきりとした顔で式の感想を話していた。

 式場から小江戸横丁に向かう途中の道で、嶋岡が言った。次は堀井かな。
 その言葉が、僕の心の中で小さな閃光になって何かを照らした。

 返事ができずに、そこで瞬きを繰り返していた。
 僕の反応がなかったことに気づいた櫂谷が、黙ってこちらに顔を向けた。どうした、と言いたそうな表情を浮かべているのが視界の隅におぼろげに映った。
 真っ白になってしまった気持ちを悟られる前に、僕は「うわ、プレッシャー」と告げていた。
 嶋岡は少し笑いながら、あかるい声でごめんと言った。
 
 その日の夕方、待ち合わせの場所に先に辿りついていたのは千紘のほうだった。
 約束したカフェの前にあるスペースに佇んでいた彼女は、反対の方角から来た僕に気づいていなかった。僕達のあいだには信号とひとつの車道が横たわっていて、僕は横断歩道の前で千紘の姿をぼんやりとした気持ちで眺めていた。
 髪が伸びたな、と思った。
 落ち着いたアッシュカラーの髪はもう肩についていて、最近気に入りの伊達眼鏡をかけていた。

 千紘の姿が見れると、嬉しいと思う。
 このやわらかな存在が、手の届くところにいるのが単純に嬉しい。
 近づいて、触れたい、と思う。風に乱れてしまった彼女の髪を抑えてあげたいし、ごめん待たせて、疲れただろ、と労わりたい。夕食をどこでとるか相談したいし、並んで電車に乗って同じ町に帰りたい、と。
 景色を眺めていた千紘が、やがて僕が通りを挟んだ向こうで自分を見つめていたことに気が付く。優しげにそっと微笑み、そして彼女は、少しだけ驚いた顔をした。
 そこを行き交う車の影に度々相手の姿を遮られながら、きっとあの時の僕達は自分達の未来に対する決定的な瞬間を迎えていた。
 彼女が、一度だけとても切なそうな顔をした。

 嶋岡は別に酔っていたというわけではなかったし、悪気があったわけでもなかった。子供の頃から思慮に長けた人物だったし、そういうことで僕をからかうような性格でもない。だからその一言は、本当に地元の友人の幸せを願って発したものだったはずだ。
 あの日僕達に訪れた予感から、それからの僕は逃げられるだけ逃げようとした。あの一言によってわずかに見えてしまったものに、もう一度、今度は厳重に蓋をした。あれは酔っていただけ、感傷的になっただけと理由をつけて、そのまぼろしをなかったことにしようとした。仕事に精を出し、時には上司に冷や汗をかかせるような失敗もしながら、日々を走り抜けるように忙しさで埋めていった。目の前の現実を確かなものにしていくことで、不確かで不穏なイメージを払ってしまいたかった。
 そうやって自分自身から逃げようとした僕に、彼女は何度か寂しそうな眼差しを向けた。僕が自然体ではなくなっていること、自らを無理に高揚させようとしている姿に疎外感のようなものを感じたのかもしれない。
 一見変わらない付き合いを続けながらも、彼女は何かに悩んでいるような寂しげな表情を見せるようになった。


 結局、逃げ続けた僕の代わりに結論を出したのは彼女のほうだった。
 原の結婚式から約半年、半月ぶりに彼女に会いに行った僕に対して千紘は言った。やりたいことができたの。

 ――やりたいこと?
 ――うん。だいぶ体力も戻ったし、そろそろ再就職しようと思って。

 そう言った千紘に対して、僕は内心大いに動揺していた。変化の兆しを感じたのだ。
 新年が開けて正月ムードが落ち着いたばかりの、一月半ばだった。冬休みの団体旅行から初詣ツアーで息つく暇もなかった僕が、やっと数日間の冬休みをもらえた初日のことだった。
 体調は平気なの、と尋ねた自分の声は、心配よりも不安を多く含んでいた。
 彼女は僕のほうをどこか緊張した目で見ながらも、頷いた。

 ――焦ることないんだよ。俺、賞与も入るようになったし、このままなら春には少し昇給するから。

 必要なら支援もする、という意味のつもりだった。自分でも不自然な声になっていることを理解しながらも、そう口にしていた。
 僕の返事に、千紘は少し傷ついたような表情になって一度まぶたを伏せた。
 そして、違うの、お金のことで焦ってるわけじゃない、と僕に向かって訴えた。

 ――ずっとフォローしてたNPO法人で、デザイナーも兼ねた事務員を募集しててね。DVや性暴力の被害にあった女性を支援してるところなんだけど、そこで働きたいって思ってるの。

 僕のほうをまっすぐに見て、彼女は言った。
 
 その場に鳴っていたあらゆる音が、途切れたように感じた。彼女の口にした言葉に、意識のすべてが奪われてしまった。
 自らの経験から、そういう仕事をしたいと思うようになったのだろうか。そんなことを考えていたなんて、知らなかった。
 驚きは感じたものの、僕の中にはすぐに納得が生まれた。彼女らしい選択にも思えたからだ。僕達に関する何かが大きく変わってしまうかもしれないと身構えていたけれど、そういうことなら応援できると思った。
 仕事の詳細を聞き出そうとした僕に向かって、彼女は続けた。

 ――所在地が、長崎なの。

 は、という声を彼女に向かって出してしまったのは、三年の交際の中でも初めてのことだった。

 ――長崎?
 ――うん。

 千紘は静かに頷いた。
 僕の目の前にぺたんと腰を下ろして、それでいて、まっすぐに背筋を伸ばして。

 どういうこと、という返答は、無意識に出たものだった。長崎? それ、どういうこと。
 彼女は僕の初めて出した荒っぽい返事にわずかに顔をしかめた。傷ついたような、あるいはそうならないように身構えるような表情だった。
 彼女は続けた。
 その支援グループの主催である女性のブログが昔から好きだったこと。数年前にあった求人も、気になっていたけれど遠方を理由に応募できなかったこと。その後もどこかで心の中に残り続けて、今回の募集を見て真剣に応募を考えるようになった、と。
 そのブログに千紘は何度かコメントをしたこともあって、相手も彼女を覚えていたらしい。メールでの問い合わせに対して、それなら一度見学に来ませんかと言ってくれた。
 非公開のシェルターの他に、近くにある教会と共同事業として女性の自立のためのシェアハウスも運営しているらしい。そちらも人不足だからと、両方の施設を兼ねたスタッフとしての求人だと聞いた、と。
 まさかもう行ってきたのと尋ねると、彼女は頷いた。僕が仕事で広島に行っていた日、成田から国内線で二時間半かからなかった、と。
 素敵な場所だった、と彼女は言った。シェアハウスは聞いていたよりもずっと大きくて、シスター達も出入りする穏やかな施設だったらしい。母親ほどに年の離れた主催者ともゆっくり話す時間があって、それぞれの境遇が似ていたことで打ち解けるのも早かった、と。
 
 いくら仕事で九州方面に行くことがあっても、それでは遠距離になってしまう。仕事に少しずつ慣れてきたとはいえ、僕はまだまだ余裕がなかった。彼女が遠くに行ってしまったら、もちろん会う回数は激減するだろう。自分の近くから彼女が離れてしまうなんて、僕はまったく考えてもいなかったのだ。

 ――千紘が本当にやりたいことなら、俺、反対しないけど。

 でも、遠距離になる。
 続けて出した言葉は、もしかしたら彼女には聞こえなかったかもしれない。
 彼女は一度頷いて、伺うような目で僕を見た。
 そして言ったのだ。ねえ亮太、わたし達、ここからは友達として付き合ったほうがいいと思わない?

 ガラスがどこかで割れたような、そんな衝撃を感じた。
 心の表面に、ぴしり、と音を立ててひびがはいった。

 いいって何だよ、と言い返していた。
 そんなこと軽々しく言わないでよ、とも。

 感情的にそう口にしながらも、ああ、逃げ切れなかった、という声が頭の中で小さく響いた。
 千紘はあの川越での予感よりずっと前に、僕の中に眠っていたひとつの願望に気が付いていたのかもしれない。そう思った。自分が相手ではそれが実現できないことも、それに気づきながらも彼女から離れたくなくて、その願望のほうをなかったことにしようとした僕の弱さにも。
 あぐらをかいたままそこで俯いた僕に、彼女は優しい声で言った。わたしの身体じゃ、亮太の欲しいものあげられないでしょ。真実だけをことんとそこに置くような、それはひどく静かな口調だった。
 いいんだ、と答えていた。そんなこといい、千紘がいたらいい。他のものなんて要らないって、何度も何度も言ってきただろ、と。
 実際に、それも僕の本音のひとつだった。千紘がいればいい、彼女がいれば生きていける。
 この人が、いつも隣で笑っていてくれたら。この人が、僕の中のやわらかな部分を常に預かり続けてくれたら。僕の中にある良心とか、温かさや弱さを彼女とのあいだに置いて出かけ、再びそこに帰って来られたなら、それでいいと。
 
 うなだれた僕の身体に、彼女は膝立ちになって両腕をまわした。
 もうすっかり形を覚えた、彼女の手から腕へのやわらかな線が僕のこわばった背中に沿う。

 ――好きになった時は、そんなこと全然思ってなかったんだよ。

 彼女の腕の中で僕が吐いた泣き言に、千紘は優しく頷いた。うん、わたしも。

 ――今だって、自分で信じられないよ。絶対に千紘じゃなきゃって、ずっと一緒にいたいって思ってるよ。

 そう、あの日の僕も、友人の一言に確かにそれを思い描いたのだ。
 正装で彼女と並び、永遠を約束して、やがては同じ家に帰るようになり、そして――。

 ごめん。
 そう言った僕に対して、彼女がそれはかえって失礼だよ、と言った。いつもの、静かに僕を叱る声。
 それでも、謝りたい気持ちがあふれて止まらなかった。ごめん、ごめん。この結論にしか行き着かなかった、俺が全部悪い、と。
 父とのあいだにあったことから、自由になんてならなければよかった。吹っ切らなければよかった。あのまま故郷に背を向け、ダンススクールで働き続けて、就職なんかしないで千紘と一緒にいればよかった。根無し草みたいなまま、家出した未成年みたいなふたりのまま。たとえつぎはぎだらけの、ままごとみたいな生活しかできなかったとしても。
 そうしたらもっと、彼女と一緒にいられた。

 ――亮太に本当に欲しいと思うものができたなら、わたしは絶対それを手にして欲しいって思う。

 絶対、と彼女は言った。千紘がそういう言葉を選ぶのは、すごく珍しいことだ。
 彼女ならそう思うに決まっていると思ったから、口を閉ざしていたのだ。この人は、繋いでいた手を相手のために離せる人だから。本当は別の何かを思い描いている人の手を、気づかないふりをして握り続けたりできない人だから。
 
 手にできる保証なんてない、と往生際悪く言った僕に、できるよ、と彼女は笑った。できるよ、できないなんてことない、と。怖くっても、挑んでみなくちゃ。
 それは、彼女を初めて自宅に送った日の会話みたいだった。
 本当は、何をするにも怖いと引き換え。それでも、何かが止まったままの場所に居続けるのも耐えられないから、騙し騙しに立ち上がるしかない。
 僕達ふたりに、その時が訪れていた。彼女は彼女の、僕には僕の次の行き先が。
 僕達はどうして、自分の奥にいる何かにこんなに突き動かされてしまうのだろう。なぜ、そこが頷かないことはどんなに願っても叶わないんだ。こんなにも自分に近い存在と出会えたのに、これから別の場所に向かわなければいけないなんて。
 互いにとって、相手が最後のひとりじゃないなんて。

 何日か歯切れの悪い言い合いを続けたけれど、動き出してしまったものを止めることはできなかった。
 結局、絞り出すみたいに僕はそれを承諾した。

19-3

 その後の彼女は、旅立ちの準備のためにひどく忙しい日々を過ごした。見送る日までは一緒にいたいと言った僕を受け容れてはくれたものの、実際は僕の仕事が忙しくて会える回数はそう多くなかった。
 使っていた家具はすべて磨いてリサイクルショップに持って行った。愛用していたMacも、私生活ではここまでのものは必要ないからと買取りに出した。しばらくはタブレットだけでいいかな、と、専用のキーボードを買い足していた。
 乗っていた車も売りたいの、男性が一緒だと安心だから同行してくれる? と尋ねられて、それなら俺に譲ってと言った。彼女は少しためらったみたいだったけれど、最終的には僕にそのココアブラウンの軽を譲ってくれた。
 千紘がここで作り上げていた生活は、そうやってあっという間に解体されていった。あっけないくらいに、彼女は暮らしをきれいに片づけていった。
 衣服とアクセサリー、少しの雑貨をまとめると、彼女の荷物は衣装ケース四つまでになってしまった。越した先で、海の見える街でまた彼女は彼女の暮らしを作っていくのだろう。習慣、行きつけの店、彼女の目を通して選ばれた、新しい住居のカーテンや寝具なんかで。
 
 静かに迷いなくそれを進めていく彼女に手を貸しながら、僕のほうが引き裂かれそうだった。互いの道が分かれてしまったことを理解していたものの、実際にそれが目に見える形で進んでいくたびに僕は何度も何度もそれを撤回したくなった。
 寄り添って座っていたソファーがなくなり、何度も彼女と食事をした小さなダイニングセットが姿を消した。次第に広くなっていく部屋の中で、思い出が駆け巡って死にそうな気分になった。
 あげたアクセサリーも手放してしまうのかとつい尋ねてしまった僕に、千紘は小さく笑ってそれを否定した。捨てないよ、お守りだもん、と。

 マグノリアハイツを彼女が退去したのは三月の終わりで、その日何とか休みをもらった僕は、十三時に約束していた業者の立ち合いまで彼女と一緒に部屋にいた。二日前に寝具も処分してしまった千紘は、一昨日から僕の職場の近くにあるビジネスホテルに泊まっていた。
 午前中に車で彼女を迎えに行って、そのままマグノリアハイツに車を走らせた。この三年間何度も繰り返した、彼女の車を交代で運転して出かけた帰り道みたいに。

 建物の下のハクモクレンは、もう満開の時期を過ぎていた。車を降りて、あいている建物の玄関をふたりでくぐる。
 共用廊下を歩いているあいだにたまらなくなって、僕は彼女の手を取った。彼女もそれを拒絶せず、いつかのように僕の手をやさしく握り返した。

 からっぽになった部屋の鍵をあける。
 ドアをひらくと、カーテンを取り外された部屋は春の日差しに満ちていた。
 
 部屋の中に私物が何も残っていないこと、掃除が済んでいることを確認して、僕たちはリビングの床に腰を下ろした。敷くものがないから冷たいかも、と彼女が言い、日向に座ったら、と答えた。日焼けしてしまうかもしれないけれど、彼女の髪が日差しに透けるのが見たかった。
 互いに、ペットボトルの飲み物を手に向かい合わせに座った。彼女はベランダに続く吐き出し窓の広く取られた桟に、僕は室内から彼女にむかう形で。暖かい日で、窓を大きく開けて風を通してしても全然寒くなかった。
 思い出話をしたくなかったのは、気持ちがあふれてしまうからだ。初めてこの部屋を訪れた日から今日まで、多くの思い出が僕達のあいだに積み上げられていた。入り浸るみたいになるのはいけないと思いながらも、彼女と静かにこの部屋で過ごすのが僕は好きだった。

 ここもすっかりきれいになった、仕事が忙しいのに色々手伝ってくれてありがとう、と彼女が言った。
 なんてことないよ、ちいちゃん持ち物少ないから、と答えて、引っ越し作業の小さなエピソードをぼそぼそと話した。リサイクルショップの店員のはきはきとした物腰や、手続きに行った市役所の前で何かのキャラクターの真似をして騒いでいた子供のこと、それから僕達を引き合わせた裕道に、ふたりで話をしに行った日のことも。
 裕道は僕達の別れを全然信じなかった。俺を騙そうとしたってそうはいかないよ、とまるで取り合ってくれなかった。冗談ではないことを繰り返し、経緯を話し、彼女の再就職までの事情を説明して、その日は家に帰った。
 彼の中で話が事実になると同時に、裕道はひどく気落ちした。おまえ達ほど仲の良いふたりも珍しいと思っていたのに、と。
 彼から千紘の送別会をしようと連絡が来たのは、それから数日後のことだった。

 管理会社の人間が立ち合いにやってくるまで、あと三十分という頃だっただろうか。
 千紘がふと、あ、桜、と呟いた。
 ベランダに、風に運ばれた桜の花びらがひらひらと数枚舞い降りた。

 ――この辺、桜なんて咲いてたっけ?
 ――下のほうから上がってきたのかも。
 
 そんなことを言い合いながら、互いに何となく立ち上がっていた。
 開けた窓のむこうに、あかるい日差しに照らされた駐車場が見える。トチと白樺の木が並んでいる。
 
 ――ここ、いつ入居したんだっけ?
 ――手術する前だったかな。けっこう経ったね。

 あの頃は本当にふらふらだった、寝てばっかりいた、と千紘は笑った。まだ僕と出会っていない、ひとりでこの部屋で丸まって眠っていた頃。
 この、ほんのちょっと困ったような笑顔に惹かれた。外側に、相手へと向かわない、控えめな笑い方に。あれから数えきれないくらいにこの表情を見てきたのに、僕はいまだにこの笑顔に返事の一音を奪われてしまう。

 千紘のほうに身体を向けて、僕は彼女をじっと見つめた。
 彼女も何かに気づいて、笑うのを止めてゆっくりと僕を見上げた。

 窓辺で向かい合って、僕達は外からの風を受け止めて立っていた。
 
 その瞬間、窓の外で何かが鳴り始めた。
 イクイネンで挙式があったのだろう、そこにある小さなチャペルのベルだった。それまでも何度か耳にしたことがある、挙式の始まりを告げるウェディングベルだ。
 千紘も、あ、という声を小さく出してから僕のほうを見た。
 目が合った瞬間に、僕達の中で何かが弾けた気がした。こぼれないように、あふれださないようにと抑えていた、押しとどめていた何かが。

 ベルが遠くで鳴り響いているのに、時間が止まった、と思った。
 午後の穏やかな日差しの中に吹き込んだやわらかい風が、僕たちの気持ちを違う場所に連れて行ったようだった。これは僕達のためのベルじゃないのに、これから僕達は、別の道に進んでいくしかないのに。
 向かい合って窓辺の光を受け、そこで目を合わせている僕達は叶わなかったひとつの夢の中に迷い込んでいた。

 心が、身体を超えて高く舞い上がった気がした。
 はるか高いその場所で、僕達が誓えたのは今の気持ちだけだった。
 誰よりも今強く思うのは、大切だと思うのはこの人だけだ。今この瞬間の自分のすべてを捧げられると思うのは、どうやったってこの人だけ。強い気持ちで、そう思った。
 その愛しさの中で、僕達は互いが一番近くにいる日々の終わりに対して納得していた。深いところで、これでいい、と頷いていた。
 そのくせ、はっきりと胸がつぶれた。
 こんな時にウェディングベルなんて鳴ってくれるなよ。俺はこの人にこれ以上の未来を誓えなかったんだから。
 僕の泣きそうな顔につられたように、彼女も目に涙を浮かばせた。
 出会った日とは違う髪型、あの頃よりも千紘の顔色はずっとあかるい。頼りなく心細い時代がまた少し遠ざかって、何か新しく確かなものを胸に宿して立っていた。
 これから、いつかの自分がいた場所でうずくまる人を助けに行く人。
 この人の手を、僕は本当に離してしまうのか。

 納得していたはずなのに、行かないでくれ、という言葉が喉元まであがってきた。
 けれどそれを僕に言わせない笑顔で、彼女は僕に手を伸ばした。静かな抱擁。
 互いの片耳を合わせて、やわらかくそっと擦り合わせる。こうやって、よく耳朶の擦れる繊細でくすぐったい音と感触を分かち合った。彼女の好きなこと。
 体をゆっくりと離して、千紘は僕を見上げた。 

 ――わたしは、男の人の本気の愛情をちょっとなめてた。

 わずかに冗談の響きを含ませて、彼女は言った。

 ――生きていく力をこんなにくれるものなんだって、亮太から教えてもらった。
 
 彼女の放った一言に、勝手に涙が湧き出していた。
 この人に注いだ不格好な思いが、痛いくらい好きだったあの気持ちが、彼女の中でそんなふうに形を変えていたなんて思いもしなかった。
 
 ――ずっと優しくしてくれてありがとう。本当にかっこいいのはあなたみたいな人なんだって、わたし今も思ってる。

 春の窓辺で、彼女は言った。
 そして僕に向かって、楽しかったね、と微笑んだ。  



「おまえは昔から、意外に欲しいもの欲しいって言わなかったよな」
 カップを手に、裕道はちょっとあきれるような声で言った。先週家族で行ってきたという、凛ちゃんの初ディズニー土産の焼き菓子を僕に向かってひとつ投げる。
「ばあちゃんちで何か配るときも、喜ぶ割にいつも一番最後で。数足りなさそうだと思ったら適当な理由つけてさっと引っ込んじまうし」
 そうだったっけ、と答えたが、同時になんだ見てたのか、とも思う。
「堀井の親戚のほうで、いろいろ気い遣ってるからだろうなって思ってたよ。うちのほうは全然、庶民の一族だから」
 そんな大したもんじゃないよ、と告げた。
 言えた立場でもないけれど、祖父の会社は絵に描いたような地方の中小企業だ。幹部はほとんどが親戚だからとなあなあにしたままのことも少なくないし、実際求人サイトが匿名で集めている従業員の評価だってそう高くない。これからの世の中で同じ業績を残し続けたいなら、どこかで方向転換や見直しを迫られるだろう。
 裕道はカップを持ちながら、作業台と窓辺のあいだをゆっくりと往復している。
 階下で誰かが冗談でも言ったのか、起きた笑いが小さくここまで届く。

「おじさん、昔からおまえにだけすごい厳しかっただろ? こっち側の親戚で集まってたときも、おまえがちょっと嫌そうな返事しただけで怒鳴りつけたりして」
 少しためらった後に、裕道はそう言った。
「子供なんてあんなもんだし、あそこまですることないのにってうちなんか思ってたんだ。わざとおまえに恥かかせてるみたいな感じがして」
 昔の嫌な感触が、腹のあたりにわずかに蘇った気がした。父の悪癖を思い出してしまった。
 場を持たせようとするために、若かった彼はよく自分の子供を笑い者にした。父からの揶揄や不自然な命令を僕が拒むと、その場で大きな声を出した。本人は冗談のつもりだったが、そこにいた人たちの表情はどこか引きつっていた。逃げ出したいほどに気まずかった、あの頃の記憶。
 同時に、だから裕道の両親は僕にずっと甘かったのか、と腑に落ちた。

「そんなお前が目の色変えたの、俺初めて見たんだよ。ああ、こいつもこんな顔するんだって」
 そう、初めてのことだった。あんなに強い思いも、恰好のつかない振る舞いも。
 彼女に向かって勝手に飛んで行ってしまう気持ちを追いかけるように、自分の元に連れ戻すように、千紘、千紘と彼女を求めた。
「今も、元気っぽい?」
「元気だってよ。むこうの環境にもすっかり慣れたって」
「そっか」
「仕事が充実しすぎて、誰とも付き合うつもりないって笑ってた。しばらくは、上書きしないつもりだって」
 
 彼女が無事に引っ越しを済ませたこと、問題なく新生活が始められたことを確認したのが、僕達の最後の連絡になった。
 彼女が新たに所属したNPOの事務局はブログで情報公開をしていて、四月の終わり頃からデザインが少しずつ見知ったものに変わっていた。写真の切り抜き方、色合い、文字の色を見て、千紘だ、と思った。
 仕事でも何度か彼女の住む街に行った。視界の中に常に彼女のことを探している自分を持て余しながら、もう身軽なバックパッカーじゃない立場で雨と坂の多いあの街を歩いた。
 少し気を抜いたら気持ちだけが彼女を探してさまよってしまいそうな、あやうい自分を何とか胸の中におさめて。

「――おまえのこと、本当に好きだったんだと思うよ」
 裕道は僕に背を向けて、雨の量を確認するように窓辺で空を見上げている。
 ああ、と頷いていた。充分にわかっていた。だからこそ、千紘は僕が自分の本心を隠して彼女と生きるのを許してくれなかった。
「あんなに優しかったら幸せ掴み続けるのも難しいだろうから、よく見ててあげてって」
「人のこと――」
「言えないよなあ」
 はは、と裕道は笑った。結局似た者同士だったね、おまえたちは。
「連絡先、消したの」
「消すつもりない」
 でも、きっとただそこに残り続けるだけだろう。そんな気がする。
「まあ、俺とは仕事で繋がってるから、何かあったら教えてやるよ。困るようなことあったら、おまえも何かしてやりたいだろ」
 再び、僕は頷いた。

 やっぱり、今日は車じゃないとだめか。
 裕道はそうぼやきながらアームカバーを外した。黒いエプロンの上から大きなウィンドブレーカーを羽織って、ポケットの中に手を入れ鍵があるか確認している。
 二十分以内に戻るから留守番してて。下の団体は五時までだから何もしなくていい。
 そう告げて、彼は娘を迎えに行った。

 ばたばたと従兄が出て行くと、空間はとたんに静かになった。
 つけっぱなしのラジオは、注意して聴けばAFNだった。サム・スミスの新曲だとパーソナリティが説明している。
 さっきまで裕道が立っていた場所に移動して、窓の外に視線をやってみる。
 少し前に芝生が敷かれた小さな中庭、いつか彼女が「熱いから気を付けてね」とポップコーンを子供に手渡していた庭で、廃材で作ったらしい木製のシーソーが雨に濡れている。


 彼女のように明確な目標を持ってそれからの日々を動くことができなかった僕は、別れてからの時間と体力のほとんどを仕事に費やして過ごした。
 重い気持ちを振り払うように仕事に没頭する僕に、思うところがあったのかもしれない。上司に居酒屋に誘われて「堀井、仕事って続いていくことなんだから、そんなに気を張り続けちゃだめだ」とたしなめられてしまうこともあったけれど、多忙にしていることで何とか彼女との別れから気持ちを遠ざけようとした。
 ぼろぼろになるまで疲れても、抱きしめて眠る身体がないことに僕はなかなか慣れなかった。ひとつの球体みたいになれた、圧倒的な安らぎのあった彼女との時間を失って、日々はばらばらになった欠片の上を裸足で歩いているようだった。
 現実なんてこんなものだ、と自分に対して繰り返しながら、一度彼女にひらかれてしまった気持ちを器用に閉じてしまうこともできず、今もそこは無防備にひらいている。

 温かく乾いた従兄の工房で、スツールに座って目を閉じてみる。
 あれから季節が一巡しても、地面の上で濡れる落花で思い出すのはあの人のことだ。

 参るよなあ、と口に出していた。
 もうどうにもならないことがわかっているのに、彼女は僕の中に居座ったまま立ち去る気配がない。出会いには困らないはずの仕事をしているのに、あのインパクトを超える人が現れない。簡単に現れて欲しくない。ぽっかりとあいたところに映るあの頃のまぼろしを、ぼんやりと眺めながら生きている。
 数年前とはまったく違う世界で、もう逃亡者みたいな気持ちで暮らしているわけでもないのに。

 あの頃は何にも持ってなかったな、と頭の中で呟いていた。
 怖いものだらけ、逃げ出したい思い出だらけで、外れ者だった。心の中で、世の中から孤立していた。留まることができそうなどこかを見つけられず、旅ばかりしていた。
 今よりもずっと、夜の色が濃かった。暗闇が、さまざまな色が幾重にも重なって分厚くのしかかってきた。暗い色が混ざり合ったマーブルの中に身を置いて、肌に触れてくるその色合いに気持ちを揺すられて生きていた。
 僕自身の痛み、友達の痛み、家族の痛み。
 そういうもののにじんだ世界で、あかるく振舞いながらも僕は途方に暮れていた。
 あの世界の出口は、確かに彼女との時間の中にあった。

 きっと、あの時代のあんな僕だからこそ、そう見えたのだろう。
 引きずっていた暗がりを、有りあまっていた体力とまだそこまで硬くない心でどうにか振り切ろうとしていた、あの頃だからそれが見えた。
 紫や濃紺や銀色がところどころににじむ夜の暗闇に、少しずつ透明な光が混ざっていく、あの静謐な夜明けみたいな色合い。
 僕の中に射し込んだ夜明けの一番最初の光と、闇の薄れるさなかの色。
 心を許したものたちが次々と深く傷ついていく、その姿ひとつひとつが耐えられなかった僕に彼女がもたらしたもの。

 大丈夫、この世界はただ損なわれ続けていくだけじゃない。
 傷ついて崩れていく何かがある裏側で、静かに回復され、取り戻され、再びやわらかく潤っていくものもある。
 そんな眼差しを、僕の中に作ってくれた人。

 あの頃の千紘の中から湧き出していた色が、あれからいつも胸の奥にある。日々の忙しなさのあわいに、それが顔を出すのをいつも待ち続けている。雲間から光がこぼれ、あたりをそっと照らすみたいに訪れるその瞬間だけは、あの人といた場所に戻ることができるから。
 彼女が僕の中にもたらしたやわらかく切ないあの色、名前も知らないあの色を、僕はこれから誰の中にも探しながら、発見しながら生きていくのだろう。
 愛しいものが今もどこかに存在する、いつかの彼女に許された、もう僕を拒むことのない世界で。

 目をひらいた瞬間、外の景色の中に斜めに光が差し込んだ。
 部屋を出て、中庭のすぐ上にあたる廊下の窓を開ける。

 天気雨。

 芝生の敷かれた小さな中庭に、生まれたてみたいな光がさしていた。
 細く撫でるような雨に洗われていく空気を、そっとあかるく照らしている。

『ここ、只野さんのお店ですよね。今度新しく始める――』

 最初に僕を見上げたあの日の、彼女の表情を鮮明に思い出した。
 赤い傘。あかるいベージュのショートヘア。わずかに怯えたような、緊張した目の動き。
 きっと僕は、彼女ほどまっすぐ前に進めない。
 それでもいつか、僕は彼女に報せるだろう。新しい居場所を築き始めた、と。
  
 あの日僕の心の鍵を持って目の前に現れた、中上千紘。
 今でも毎日、僕は彼女のことを思い出す。
 朝の街中、天気雨の午後、ふと目覚めた静かな夜の毛布の中でも。


 実際に口にしたら、柄じゃないよと君は笑うかもしれないけれど。
 愛する人、どうか僕の心配や嫌な予感がまるで届かない場所で、今日も拍子抜けするくらい幸せで居てほしい。


(了)

名前も知らない【最終章】

名前も知らない【最終章】

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更新日
登録日 2021-07-11

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