鈴蘭の薫り ~・Everything is you・~

相野井潤也

 鈴蘭の薫り ~・Everything is you・~
  1. 第1話 プロローグ
  2. 第2話 実方の歌
  3. 第3話 サヨナラCOLOR
  4. 第4話 見慣れぬ景色
  5. 第5話 置いてきた時間
  6. 第6話 心の奥
  7. 遠い I LOVE YOU

 気付いてください。あなたのことを、ずっとそばで想っている人が必ずいます。
 
 私立小学校で教師をしている田原史美/25歳は、小学校から付き合いが続いている幼馴染4人がいた。史美には付き合って3年になる恋人がいる。しかし、多忙を極める恋人とはスケジュールが合わず会えない日が続いていた。史美は恋人と会えない寂しさを、幼馴染の篠塚秀輝に埋めてもらっていた。
 史美とは住まいも近所だった秀輝は、幼い頃から史美に思いを寄せていた。史美の為に敢えてピエロの役を買って出て、陰で支え何かと力になる秀輝だった。そんな秀輝を他の仲間たち3人は悲痛な思いで見守っている。秀輝の想いを知らぬまま、史美は恋人からのプロポーズを受ける。ショックを受ける秀輝だが、史美の笑顔のために身を削るように尽くし始める。仲間たちがヤキモキする中、秀輝にも彼を慕う花村沙帆が現れる。彼女は史美たちと知り合う前の秀輝の幼馴染だった。女っ気のない秀輝に寄り添う沙帆に、次第に史美の心にも変化が生まれ始めていた。

第1話 プロローグ

第1話 プロローグ

 僕はいつも太陽が昇る時間よりも早く目覚める。
 夜が明けて空が白み始める光景の美しさが好きだからだ。太陽が昇りカーテンの隙間から黄金色の朝日が射し込んでくる。
 いや、柄にもなく気取った物言いは似合わない。そう本当の理由は他にある。
 可愛い君の寝顔を見ていられることだ。
 うっかり寝過ごして君が先に目覚めた日は、少しだけ損をしたような気分になる。君より先に目を覚まし寝顔を見ながら、隣りにいてくれる幸せをじっくりと感じるのだ。 
 朝のこの僅かな時間は僕一人だけの贅沢だ。
 子供も2人生まれ一緒になってもう直ぐ10年なるけれど、僕はこの贅沢な朝が大好きだ。一緒になって10年も経つのに、世の女性から気持ち悪いと言われるかも知れない。君も同じ気持ちでいてくれたら嬉しいけれど、取り立てて突出したところなどない僕ではそれはないだろう。いつも心の中ので首を振る。
 すぐ隣に寝ていた君のポジションも、今では子供たちに取られてしまった。娘は君の隣で息子が僕の隣という川の字ならぬ四本川だ。
 君の寝顔を見つめながら、一日をどう過ごすか考えることが楽しい。

“ 今日は、どこに行って何をしようか。”

 僕等は文明開化当時の建物が立ち並ぶ港町横浜に住んでいる。地元の人たちは、昔の横浜を懐かしみ近代化した街並みを嘆いていた。
 しかし僕等は、そのバランスがいいと憧れて転入してきたのだ。横浜の街は、行き場所には困らない。ショッピングやレジャー、低コストの美味しい食堂など何でも揃っている街である。

“ 天気がいいから臨港パークにでも行ってみようかなぁ。”

 海からの風が心地よく吹く臨港パークは、休みの日ともなれば沢山の人たちで賑わう憩いの場所である。
 残暑が厳しい初秋ではあるが、肌に感じる陽射しは焼き付けるような痛みはない。柔らかく暖かい陽射しは、海や山そして街へと人を誘い出してくれる。
 いつまででも君の可愛い寝顔を見ていたいけど、眩しい笑顔が見たいから僕は君を眠りから目覚めさせる。
「おはよう。」



 臨港パークは、案の定沢山の人で賑わっていた。
 広々とした芝生の広場が眼前に広がる。小学校の低学年の息子は、恥ずかしさを隠しながら君と手を繫いでいる。僕に抱きかかえられた4歳の娘は、広々とした広場を見渡しはしゃいでいた。
 僕は娘を抱きかかえながら、息子と手を繫いで歩く君の後姿に見とれていた。

“ 君に出会えて良かった。”

 こんな絵に描いたような理想を手にしていることが夢のように思う。目を閉じて海からの潮風を肌で感じ、幸せをしみじみと噛みしめていた。
「パパ!」
 君の声でふと我に返ると、息子と手を繫ぐ君が立ち尽くしていた。
 君は僕の気持ちを見透かしているかのように微笑んでいる。娘も眼下に広がる広大な広場に、ジッとしていられず僕の腕の中でもがき始める。
「降りる~。」
 娘は抱っこされていた僕から離れ、君のところへ駆け寄って行く。その歩く様はサザエさんのタラちゃんが、歩くときに使用される効果音を思い出す。
 君はリュックからネイティブ柄のレジャーシートを取り出して敷き始める。
「この辺にしよう・・・。」
 娘は敷かれたレジャーシートの上で、転がったり飛び跳ねたりと元気一杯だ。息子もキャッチボールをやろうと僕を誘って立ち上がる。
「周りの人に気をつけてやるのよ。」
 周囲に気をつけるように君は息子に声をかけた。
「は~い。」
 声に気を取られ、僕の投げたボールが頭に当たる。
 娘が兄の様子を見て笑い出す。
 野球はまだ覚えたてだ。僕が投げるボールをなかなか捕る事が出来ない。
「ニィニィ、下手だね~。」
「パパも投げるのが御上手じゃないみたいね。」
 君の声が風に乗って、僕の耳に聞こえてくる。

“ そりゃ、そうだよ。”

 僕はスポーツだってそれほど得意じゃない。
 芝生の上に敷いたレジャーシートの上で、大笑いしてこちらを見ている。くどいようだがこの笑顔のためなら、僕は道化にだってなんだってなれる。
 顔をくしゃくしゃにして笑い返してくる夫を、私は胸いっぱいの幸せを感じながら見つめていた。彼はいつも必死だ。私のために、どんなことにも一生懸命だ。
 付き合い始めの頃、彼の思いが理解出来なかった。自分の事は二の次で、何でも私のことが一番だった。本気で私の事を想ってくれているから、時に凄まじい剣幕で怒られたこともあった。不器用で人付き合いも上手に出来ない彼だけど、一緒に居て安心出来る人は彼以外にはいなかった。
 自分で言うのも気が引けるが、昔から男性には良くモテた。しかし、私の事を“ ずっと必要なんだ ”っていう優しい目で見てくれる人は彼一人だけだった。
 私や子供たちのことばかりで必死だから、気付かないと思うけどね。

“ あなたと一緒で本当に幸せだと思っているのよ。”

 この心の声は、いつになったら彼に届くのだろう。
「つまんない。」
 じっと座っていることに飽きたのか、娘が彼と兄を見ながら呟いた。
「ニィニィと一緒にキャッチボールして来る?」
「や~だ。」
「じゃあ気持ちがいいから、ママと一緒にネンネしようか。」
 娘はじっと私の胸元を見つめていた。
「ん?どうしたの?」 
「ママ、ここに付けてるお花のやつ・・・。なに?」
 私は娘が気にしていたことが、付けていたネックレスだと知り嬉しい気持ちになった。小学校低学年の息子は、こういうところに目が行かない。幼くても流石は女の子だと感心してしまう。
「これね、パパから貰ったプレゼントなのよ。」
「プレゼント?」
「そう。ママの誕生日にパパがくれたの。」
「いいなぁ・・・。」
「いいでしょ。」
 娘は目を輝かせながら私の胸元を飾るネックレスを見つめる。
「そのお花は、なんていうお花なの?」
「これ?これはね鈴蘭っていうのよ。」
「スズラン?」
「そう、可愛いお花でしょ。」
「うん。」
「このお花にはね、ちゃんと意味があるのよ。」
 幼児に理解できる訳がないが、私は嬉しさのあまり口走ってしまった。
「知ってる。ママ、教えてくれたよね。」
「覚えているの?」
「うん!」
 目を大きく見開いて自信満々に娘は答えた。
「愛ちゃんも欲しい。」
 大好きなパパがママにあげたと聞いて、幼心にも嫉妬心が芽生えている。
「大きくなったら、愛ちゃんも好きな人からプレゼントしてもらいなさい。」
「やだ~。パパから貰う。」
 駄々をこね始めると、なかなか収まらない娘である。
「じゃあ・・・。」
 ネックレスを外して私は娘の首にかけた。
「パパから貰った大切なママの宝物なの。」
 娘は私の胸元を飾っていたネックレスをかけてもらい上機嫌になっている。
「くれるの?」
「ダメ。でも、少しだけ貸してあげる。それでいい?」
 親指をくわえて考え込んでいる娘の横を、一組のカップルが幸せそうな笑い声と共に通り過ぎていく。
「愛ちゃん、ごめんね。ママのネックレスはね、パパの気持ちも沢山入っているの。だから、ママのものだけどママだけのものでもないんだ。」
 私の言っていることが理解できない娘は、通り過ぎて行ったカップルを見つめていた。そのカップルは溢れ出る幸せのオーラを振りまいていた。
「ねぇ、愛ちゃん。もう赤ちゃんじゃないんだから分かるよね?」
 幼児に理解出来るわけないが、駄々を捏ねる娘につい無理なことを言ってしまう。
 娘は私の話に耳を貸さず、カップルをジッと眺めていた。
「ママ、お姉ちゃんたち何してるの?」
 娘に促されて目をやると、カップルは芝生の上を子供のように転がっていた。
「アッ!あのお姉ちゃん。大人なのに抱っこされてるーっ」
 娘の視線の先にいるカップルに目をやると、彼氏が彼女を抱えてはしゃいでいた。
 その光景に思わず頬を緩めて笑ってしまう。ベタベタしているわけでもなく、なんとも微笑ましい。彼氏から愛されているということが、傍から見ていてもよく分かった。

“ 幸せなのね・・・。”

 その光景に気を取られていると、娘が突然カップルのところへ走り出して行った。
「ちょ、ちょっと愛ちゃん!」
 娘は気になることがあると、臆することなく突っ走ってしまう。
「ちょっと愛ちゃん!どこ、行くの!」
 あのカップルのどこに興味を持ったのか・・・。
 小さな体は、たどたどしい足取りでカップルの許へと走って行った。

第2話 実方の歌

第2話 実方の歌

 麗らかな春の日、桜の花びらがまるで絨毯のように敷き詰められた道を、児童に囲まれながら女性教師が歩いてくる。色白で線の細い華奢な体つきが弱々しさを感じるが、内に秘める芯の強さを眩いばかりに輝く二重瞼の大きな目が物語っていた。 
 赤子のような小さく丸い鼻も、少女のような可憐さを残していて可愛い。
「先生、お早うございまーす。」
 高学年の男子生徒が、道路に落ちている桜の花びらを巻き上げながら、女性教師=田原史美(たはらふみ)の横を駆け抜けていく。
 史美が勤める私立聖応小学校わたくしりつせいおうしょうがっこうは、横浜市内でも高学歴かつ高収入の父兄が多く、エスカレーター式に高校まで進学出来る学校だ。
 教員生活も2年が過ぎ25歳になる今年、漸くクラスの担任を受け持つことになった。新卒でクラス担任を任される場合もあるらしいが、史美の赴任している私立はそうはならなかった。父兄にとっては経験があり、信頼のおける教師が望ましいのである。
 理由は他にもあった。教員1年目にある事件が起こり、学校と父兄の間で騒動になっていたのだ。史美自身が原因ではないが副担任として関わりがあり、学校側が父兄への配慮として担任を持たせることに慎重だったのである。
 ほとぼりが冷めたと判断された史美は、クラス担任を持つ許可を学校長からもらった。学年は1年生を任されることとなった。
 桜舞い散る中、指定のランドセルを背負い生徒たちが歩いている。史美の横を愛らしく手を振りながら、受け持ちクラスの生徒が駆け抜けていく。
「田原先生!おはようございます!」
「おはようございま~す。」
 数日前まで親に付き添われ、学校に通っていた1年生も一人で通学している。小学生といっても一年生は、まだ幼児の域を出ていない。制服もサイズが大きめなのか、袖に手が隠れてしまっている。
 2人の生徒が史美に近寄って手を握ってくる。
「田原先生~。」
 幼稚園でも2人仲良く通っていたのであろう、歩く歩幅もタイミングが見事に揃っている。
「おはよう!」
 小学1年生といっても、3月に幼稚園や保育園を卒園したばかりである。まだ、小学校を幼稚園や保育園の延長としか思っていないかも知れない。1年生の生徒たちにとって史美は、差し当たり幼稚園や保育園の先生といったところである。

“ 可愛い。”

 この年頃の仕草は、何をやってもこの言葉しか出てこない。
「田原先生、一緒に行こう!」
 史美は生徒たちに手を引かれ、一緒に校門に入っていった。


※                


 職員室の戸が開いて、教師たちがいそいそと受け持ちクラスへと向かう。
 始業時間を知らせるチャイムが鳴る中、職員室から出てくる史美たちを見て慌てて階段を駆け上がっていく児童も数名いる。
「コラッ、遅刻だぞ!」
 学年主任の教師が、駆け上がっていく高学年の児童にハッパをかける。教室の前の廊下では、まだ生徒たちが駆けずり回っていた。史美は出席簿を抱え廊下ではしゃいでいる生徒たちに声をかけた。
「チャイム鳴っているよ。教室に入りなさい。」
 学校に慣れていない1年生は、史美の言葉に素直に応じ教室へと入っていく。史美は促されて教室に入る生徒と一緒に教室に入って行く。1年生の生徒たちは、一点の曇りもない清らかな目で教壇に立つ史美を見ている。
「はい、みんな席についてますか~。」
 児童たちが一斉に自席に座り始める。
 起立の掛け声を日直当番の生徒が声を出す。
「せんせ~い、おはようございます。」
「おはようございます。」
「着席!」
 史美は出席簿を広げ、クラスの児童たちの名前を次々に読み上げる。児童たちのはつらつとした可愛い声が、窓をすり抜けていく風と共に教室から廊下へと流れていった。



 4月とはいえ6時を過ぎれば、陽が落ち始め気温も肌寒い。学校敷地内には、生徒たちの姿は当然ない。職員室では史美が、明日の授業に向けて準備をしていた。机の片隅には史美と、幼馴染たちが写っている写真が飾られていた。
 写真の幼馴染は、史美を中心に右隣が篠塚秀輝(しのづかひでき)、左隣に加藤和明(かとうかずあき)、後方左に古谷尊(ふるやたける)、尊の隣に桐原眞江(きりはらさなえ)が笑顔で写っている。
 5人は小学校からの幼馴染である。付き合いは、小学校卒業以来13年になる。高校は学力の違いもあり、互いに違う学校へと進学したが付き合いは継続していた。
 和明は端正な顔立ちでマスクもよく、幼い頃から女の子にモテていた。一見遊び人に見える風貌だが、4人の中では一番堅実な考えを持ち真面目な男だ。
 眞江は所謂いわゆる優等生タイプの女の子で勉強もよく出来て成績優秀、史美たちが住む地域の学校では偏差値の高い高校へ進学していた。真面目で大人しく見えるが、芯は強く物事をハッキリ言えるところがあり史美は眞江を昔から頼りにしていた。
 尊は和明や秀輝に比べると口数も少なく、物腰も静かで目立つような男ではないが常に冷静沈着な男だ。ここぞという時には、周囲を唸うならせる的確な意見を出してくる。
 最後に秀輝だが、とにかく短気で喧嘩っ早く口が悪い。口より先に手が飛んでくるというのは日常茶飯事で、和明などは何度秀輝の餌食になったことか。ガサツで単純を絵にかいたような男だが、自分の事より他人の事を優先させる情に厚い一面もあった。史美は実家が秀輝の実家と近かった事もあり、4人の中では秀輝と一番接する機会が多かった。秀輝は5人の仲間を良くも悪くも統率するリーダーでもあった。暇を見つけては史美達に召集をかけ、行きつけのバーで酒を飲んでいた。
「よし!」
 翌日の授業の準備や事務処理などを終えた史美は、大きく背伸びをしてストレッチをする。
 周囲の雰囲気を気にしながら、携帯電話のLINEのチェックをしている。“ 俊ちゃん ”と表示されているIDを開いてメッセージを確認する。
 史美には、付き合って3年になる3歳年上の佐古さこ俊一しゅんいちという恋人がいた。大手商社に勤める俊一は、海外出張が多くアメリカと日本を行ったり来たりの生活だった。正式なプロポーズはされていないが、俊一とは何れ結婚するのだろうと頭の片隅でなんとなく思っていた。
 LINEのメッセージには、ホテルから見える夜景をバックに自撮りしている俊一の画像が添付されていた。
「彼氏に電話?」
 史美の後ろを同僚教師が茶化して通り過ぎる。 
 残業をしている他の教師たちを気にしながら、史美は電話を掛けにこっそりと職員室を出て行く。
 廊下の壁にもたれて、これから約束のある相手に電話を掛ける。
「あ、篠塚?・・・アタシ。ねぇ、桜木町駅の改札7時でいいんだよね。」
 電話の相手は秀輝だった。
「ん?うん。わかってる。じゃあ、後でね。」
 史美は携帯電話をポケットにしまって職員室に戻っていった。
 教頭の池本義春(いけもとよしはる)が、入って来た史美を横目で見ている。池本の視線を気にかけながら、史美はそそくさと机の上を片付け職員室から出て行った。



 桜木町。みなとみらい21地区が整備され、異国情緒漂う街も未来都市へと変貌を遂げつつあった。数十年前は倉庫だった場所も、今ではお洒落な商業施設に変わっている。
 街のイルミネーションが、帰宅途中のサラリーマンやOLたちを華やかに映し出す。桜木町駅の改札口前には、様々な人間たちが恋人や家族、友人たちを待っていた。しかし、殆どの人間がスマホの画面に気を取られ、出てくる乗客たちに気付かない。
 そんな様子を尻目に、史美は通り過ぎていく人々に目を走らせ、間もなく到着する秀輝を探していた。
 秀輝は人混みの中を、かき分けるように改札を出てくる。身長の高い秀輝は、人混みの中にいても頭一つ分出ているので見つけやすい。
「オッス!ごめん、待ったか?」
「ううん、大丈夫。」
 史美は秀輝がしているネクタイをいぶかしげに見る。
「何、そのネクタイ?」
「いいだろ?」
「えっ・・・。」
 何がいいのか、理解に苦しむ史美は首をかしげている。
「ハードボイルドだから、俺。」
 この言葉に何度となく呆れている史美であった。
 ハードボイルドとは感傷や恐怖などの感情に流されず、冷酷非情で精神的・肉体的に強靭な人間の性格を言うらしい。秀輝の口癖が耳に残った史美は、ウィキペディアで調べたのだ。情に厚く涙脆い秀輝は、ハードボイルドというより浪花節タイプの人間だ。
 オシャレにしても、ハードボイルドとは程遠い。紺のスーツに同系色のシャツ、そして強調するように訴えかけてくる派手な模様の入ったネクタイ。秀輝本人は、それを本気で良いと思っている。モデルかイケメンの俳優がやれば、オシャレに見えるかも知れないが・・・。
 秀輝が着ると、ただのチンピラファッションである。
「聞き飽きたね。」
「何だよ。」
「映画や小説の主人公だか何だか知らないけど、似合っていると思っているの?」
「俺以上に似合っている奴がどこにいんだよ。」
「どこから出てくるの、その自信・・・。」
「ハードボイルドだからな。」
「アンタさ、そんなんだから彼女出来ないんだよ。」
「出来ないんじゃないの!作らねーの!」
“ 作らない ”という言葉に史美は閉口してしまう。
「ほら、俺に彼女出来たら世界中の女が悲しむだろ?」
“ 世界中の女が悲しむ ”
 この聞き飽きたフレーズは、もてない男に限って使う言葉だ。 
 モテない男というものは、そもそも自分を分かっていない。秀輝は、まさにその典型であると史美は思った。
「馬鹿じゃない!誰がこんなオッサン。・・・少しはさぁ・・・面倒クサッ。もう、や~めた。」
 この問答を何年やってきたか、史美は途中まで言いかけるが馬鹿馬鹿しくなってやめる。
「ねぇ、お腹減った!」
「よし!じゃ、肉でも食いに行くか。肉!」
「うん!」
 史美は秀輝を引っ張るように、桜木町の繁華街へと歩き出して行った。



 大岡川に架かる都橋周辺には、数々の居酒屋やバーが軒を連ねている。大岡川に沿うように建っている二階建ての建物/都橋商店街は、バーや居酒屋が犇めき合うように入っていた。
 その中に“ 華 ”という店があり、秀輝はそこの常連客だった。史美と秀輝は酒を飲みながら店のママと談笑していた。
 店内は6~7人程座れば満員になるこぢんまりとした店内である。
 居酒屋のママ・宮島華(みやじまはな)がグラスを2人に渡す。
「あ、すみません。」
 史美は常連の秀輝とは違い、遠慮がちにグラスを受け取る。
「へぇ~。小学校からの幼馴染ねぇ・・・。」
 華は2人の顔を見比べながらしみじみと言う。
「俺が6年生のとき、転校してきたから・・・13年か。」
「もう、そんなに経つんだぁ・・・。」
 史美は、秀輝の横顔を見ながら転校してきた頃を思い出していた。転校生らしくなく最初からクラスで大きな顔をしていた秀輝であった。当時から秀輝は、体も大きく腕っ節もなかなかであった。典型的なガキ大将である。
 2人は席が隣同士になることも多かった。
“ ケシ貸せ!”
“ 消しゴムを貸せ ”という意味を込めて史美に伝えるのだが理解できない史美は、秀輝に何度もその意味を訊ねていた。
“ ケシって言ったら消しゴムに決まってんだろ!”と言われ、その都度頭を小突かれていた。
「2人とも、ずっと一緒だったの?」
 華は煙草に火を点けながら2人を交互に見る。
「ずっと一緒っていうか・・・。気がつくと側にいたって感じ・・・だよね?」
「家も近所だったしな。」
 秀輝は一人暮らしをしているが、実家は史美の住むマンションの隣の棟だった。
「今の時代、なかなかそういうのって続かないから珍しいんじゃない。」
「男と男の友情ってやつですよ。」
 減らず口を叩く秀輝の後頭部を、史美は平手ではたく。まるで漫才コンビのような二人のやり取りに、華は思わず吹き出してしまう。
「アタシは女です!」
「女?」
「はい!」
「女なんてママさんの他にどこにいんだよ?」
「ここにいんじゃん!可愛い女が・・・。」
「どこ?」
「ここです!」
「どこ?」
「ここ!」
「ど・こ・か・な?」
 秀輝が、わざとらしく店内を見渡す。
「バーカ!付き合ってられない。」
 秀輝の冗談は際限がない。付き合えばいつまででも続いて終わりがないのだ。いつも史美の方から相手にするのを止める。
 華は2人の様子を窺い、何か分かったように数回頷いた。
「なるほどね。」
 勝ち誇るように秀輝はウィスキーを一気に飲み干す。やり込めたと思い込んでいる秀輝の横顔に、史美はしかめっ面をしてやり返した。


※   


 春を感じさせない冷たい風が草木を揺らしている。巻き上げられた桜の花びらの中を、史美と秀輝を乗せたタクシー走って来る。タクシーは史美の住むマンションの前に停まった。史美と秀輝が、ほろ酔い気分でタクシーを降りてくる。
「あぁ、もうお腹いっぱい!」
「よく食ったな、お前。」
 史美は小柄で痩せているが、同年代の女性に比べ、よく食べる方であった。酒を飲んだ後には、必ずラーメンを食べるのが日常である。
「だって美味しかったんだもん。最後のラーメンもまた美味しかった。」
「あのラーメンは、メニューにないものだからな。ママさん手製の特別ラーメンだぞ。」
「ホント美味しかった!」
 華が作るラーメンは常連客の間で、かなり人気がありそれだけを食べに来る客もいるのだ。
 史美は満足そうな顔を秀輝に向ける。
「彼女いないくせに、いっぱい知ってるね。そういうお店。」
「彼女いねぇとか関係ねぇだろ。」
「宝の持ち腐れです。」
「うるせぇ!」
 秀輝は、なかなかのグルメで美味しい店を、ジャンルを問わずよく知っている。
「アンタが彼女出来るまで、アタシが有効に活用してあげますから・・・。」
「バ~カ!」
 秀輝は史美の額を指で弾く。
 小突かれた史美は、秀輝に無邪気な笑顔を見せる。
「へへへっ・・・。」
 史美の携帯電話の呼び出し音が鳴る。
「あ、俊ちゃんだ!ちょっとゴメンね。」
 携帯電話を取り出して秀輝から少し離れて話し始める。
「えっ?明後日帰ってくるの?・・・うん、迎えに行こうか。」
 携帯電話で会話中の史美の側で、秀輝は手持ち無沙汰そうに立っている。史美の恋人である俊一とは、もう何度も会ったことがある。史美は恋人のいない秀輝を憐れんでか、俊一とのデートに秀輝を連れて行くことも屡々(しばしば)あった。俊一は、のこのこ付いてくる秀輝に嫌な顔一つ見せず笑顔で接していた。背が高くスッキリした顔の二枚目だが、気取ったところがなく馴染みやすい人柄の男だった。
「じゃあね、おやすみ~。」
 久し振りに俊一の声を聞いた史美は、上機嫌になって鼻歌を口ずさんでいる。一瞬忘れていた秀輝の存在に気付き、慌てて携帯電話をバックにしまう。
「あ、ごめん。」
「いいよ、いいよ。それより、佐古さんからか?」
「うん。俊ちゃん、明後日帰ってくるって。」
「よかったな。」
「うん。」
 嬉しそうな史美の顔を見て、秀輝も微笑む。
「じゃあ、帰るわ。」
「うん、じゃあね、気をつけて帰んなよ・・・。」
「おう、お前も早く寝ろよ。」
「うん。」
 史美は手を振りながらエレベータロビーに歩いていく。3階のフロアに史美が姿を見せるまで、秀輝は部屋を下から見ていた。エレベーターから降りてきた史美が下にいる秀輝に手を振る。
「おやすみーっ。」
「おやすみ。」
 史美は手を大きく振りながら、ドアを開けて部屋に入っていった。
 マンション廊下側にある史美の部屋の灯りが点いた。秀輝は暫く史美の部屋を見つめていた。ザワザワと吹く夜風は、道路に舞い落ちた桜の花びらを一気に巻き上げていた。



 日が暮れて人気が無くなった校舎は、それだけでオカルトチックで身が縮み上がる。児童たちの熱気が冷めた校舎は、静まり返っていて大人でも気持ちのいいものではない。教師たちのいる職員室だけが、その中で煌々と明かりが灯っていた。
 新しい学期が始まり、教員たちは忙しさを増す。新しい出席簿、新しい連絡網、新しい教務ファイル、新しい学年便り、新しい学級通信、家庭訪問の計画という具合にやる事が目白押しだ。史美は凝り固まった体をほぐすように背伸びをする。目をつむると、昨夜に秀輝とスナックで食べたラーメンの味が脳裏に浮かんでくる。

“ 美味しかったなぁ・・・。”
 
 ラーメンの味を思い出しながら一人その余韻に浸っている。史美のそんな様子を、同僚教師が怪訝な顔をして後ろを通り過ぎて行く。
 夢見心地だった史美を、携帯電話の振動が現実へと引き戻す。史美は職員室を出て、廊下の壁にもたれて携帯電話に出る。
「アタシ、どうしたの?」
 電話の相手は、秀輝だった。
「今日、ホワイトデーでみんな集まるの?うん、行く行く。何時?」
「田原先生~。」
 史美を呼ぶ声が職員室から聞こえて来る。
「ごめん、電話切るね。後で、また連絡するから。」
 この時間、これ見よがしに用を言いつけるのは教頭に決まっている。
 史美は大きな溜め息をついて再び職員室に戻って行った。


※ 


 横浜駅西口から路地を抜けた飲み屋街に、史美たちの行きつけのバー「ホワイトデー」がある。周りをビジネスホテルやブティックホテルに囲まれているためか、賑やかな区域とは違い人通りも疎らだ。   
 防音設備が整っていても、ドアを開ければ店内からの音が漏れて周囲に響き渡ってしまう。
 店の隅で秀輝と仲間の和明、そして尊がテーブルを囲んで酒を飲んでいる。携帯電話で史美と話を終えた眞江は、秀輝たちのテーブルに戻ってくる。
「ねぇ、田原怒ってたよ。電話に出ろってさ。」
 秀輝は眞江に言われて、慌てて携帯電話をチェックする。史美から数秒おきに、10回ほど着信があった。
「やべ~。」
「アンタいっつもそうなのよね。何のための携帯なのよ。」
「そんなことより、アイツ何時頃になるって言ってた?」
「今日は残業でこっちに来れないって。」
 眞江の言葉に秀輝はガックリと肩を落としている。
「仕事なんだから・・・。」
 隣に座っている眞江は、秀輝の肩に手を置いて慰めた。
「つまんなそうな顔するなよ。」
 史美が来られなくなって寂しいだけで、つまらないとは思っていない。秀輝は眉間にしわを寄せて和明を睨んだ。
「この間も田原と会っていたんだろ?」
「あぁ・・・。」
 和明と尊はサインでも送るように、一瞬お互いに目を合わせた。
「何だ、悪いか?」
 角のある秀輝の言い方に、和明は呆れた様子で秀輝を睨む。
「悪いなんて一言も言ってねーだろ。」
「じゃあ、何だよ?」
 和明を見る秀輝の目が険しさを増していく。
「何だよって別に・・・。」
「俺が田原と会ってちゃいけないのか?」
「そんなこと言ってないだろ~。」
「奥歯に物が挟まったような言い方するからだろ・・・。」
 吐き捨てるような言い方に、和明の顔色が一瞬で変わる。
 尊が和明の肩を掴んでなだめる。こういう時、秀輝に何か言葉をかけると逆効果になるのは10年来の付き合いで分かっている。
 和明は尊の静止も聞かずに秀輝に言う。
「俺はな・・・。ずっと心配してんだよ。」
 秀輝は和明の言葉に困ったように俯いた。
「そうだよ。和明だけじゃない、アタシたちだって・・・。」
 眞江は秀輝を見つめながら言う。
「田原に彼氏が出来るたびに、アタシ達はいっつもアンタの事を心配しているの。」
 秀輝は俯いたまま何も話さない。
「このまま田原が、今の彼氏と結婚しちゃってもいいの?」
 4人は言葉に出してはいけないキーワードを言ってしまったかのように押し黙ってしまう。賑やかな店内の中で、4人が囲むテーブルだけが異質な空間を作り出していた。
 秀輝は、小学校6年生の時に史美たちのクラスに転校してきた。ガキ大将を絵に描いたような秀輝は、クラスにも直ぐ馴染んでいた。史美への思いは、その頃からであった。
 高校時代に一度、想いを伝えたことはあった。しかし、彼氏がいた史美は秀輝の気持ちには応えられなかった。それから史美のことを忘れようと別の女性と交際したが、何れも長くは続かなかった。

“ 振ったのは私じゃない。あなたの方だから・・・。”
“ あなた、私の事を好きじゃないでしょ?”

 付き合う女性に必ずこの言葉を浴びせられるのだ。最初は彼女たちの言葉の意味が分からなかった。だが、ある時気付いたのだ。何を見ても、どんなことをしていても、史美を基準にしてしまっていた。

“ この景色、アイツに見せてやりたかった。”
“ この場面、アイツならきっと大泣きして見てる。”

 自分の隣にいる史美の姿が、秀輝の脳に映し出されているのだ。そんなこと思ってどうすると、何度も自分を諫める言葉が頭の中を駆け巡る。未練がましくて情けないと、嫌気が差してしまう日々を繰り返していた。
「ねぇ、どうするの?」
 黙ったまま俯いている秀輝に眞江が詰め寄る。
「そ、その時は・・・。 “ おめでとう ”って、言うに決まってんだろ。」
 秀輝が長い沈黙を破って呟いた。
「何言ってんだよ。」
 和明は気持ちを抑えている秀輝が痛々しくて堪らなくなる。
「なぁ・・・もう十分じゃないか。」
 胸が詰まる思いに耐えられなくなった和明が、秀輝の想いを終わらせようと身を乗り出す。
「田原のこと、まだ諦められないのか?」
「諦める?諦めるってどういうことだよ。」
「あ・・・ごめん。」
 和明は秀輝に対する禁句を、再び言ってしまったことに後悔した。
「俺は田原と付き合いたいとか、そういうんじゃねんだよ。」
 眞江は秀輝の膝に手を置いて、“わかってるよ”と宥める。
「俺はな・・・ただ。」
「・・・ただ?」
「俺はあいつが、いつも笑顔でいてくれれば、それでいいんだ。」
「何だそれ?・・・自分の幸せは?お前、本当にそれでいいのか?」
 秀輝は本当にそれで良いかも知れない。しかし、それでは周りにいる自分たちが納得出来ないし堪らない。
「そんなもん、・・・考えたことねーよ。」
 史美のことを思う秀輝の顔は、穏やかな優しい顔に変わっている。そんな秀輝の顔を見た3人は、いつも言葉を失ってしまう。
 携帯電話の呼び出し音が鳴り秀輝は店の外へ出て行く。
「悪い、ちょっと・・・。」
 出て行った秀輝を確認して、眞江は和明と尊に向き直る。
「ねぇ、このままでいいの?」
 和明も尊も眞江の気持ちは分かっていた。ここ数年3人は、秀輝の史美に対する想いに触れないようにしてきた。だが、それももう限界なのだ。
「良くないけど、下手に俺たちが気を回したらアイツ怒るぜ。」
 尊は言いながら、持っていたグラスの酒を一気に飲み干した。
「じゃあ、このまま何もしないの?」
「何が出来るんだよ、どうしようもないだろ。」
 和明は眞江に突っかかるような物言いをする。
「そんなことないよ!」
「田原に篠塚の気持ち伝えろっていうのか?そんなことをしたら二人が辛くなるだけだろ!」
「だって、可哀想じゃない。篠塚が・・・。」
 どうにも出来ない状況に、項垂れる眞江と和明、そして尊だった。
「藤原ふじわらの実方さねかたの歌だね。まるで・・・。」
 マスターの牧野浩二(まきのこうじ)が横から口を挟んできた。
 突然会話に入ってきた牧野に驚いて、眞江も和明も尊も我に返る。
「ごめん。こいつ運んで来た時、聞こえちゃったもんで・・・。」
「別にマスターだったらいいですよ。」
 和明は、牧野からグラスを受け取りながら答える。
「ま、聞かなくても篠塚君が、史美ちゃんを好きなのは傍から見ていてもわかるけどね。」
「ねぇ、それよりマスター。その何とかの歌って何?」
 牧野がポツリと言ったことが気になった眞江は、袖口を引っ張って訊ねる。
「あぁ、実方ね・・・。」
「サネカタ?」
 聞きなれない言葉に3人は眉間にしわを寄せる。
「言うに言えない恋心を歌った百人一首の中のひとつ。知らないの?かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを・・・って言うんけど。」
 和明たちは揃って首を横に振る。
「悲しい歌なんだよね・・・。」
「マスター、意味は?」
「あなたが好きだけど告白することは出来きません。でも伊吹山のさしも草のように、僕の想いは燃えています。しかし僕がこんなにも思っているなんて、あなたは知らないでしょうね・・・って意味・・・。あ~あ、切ないねぇ。」
 牧野は野は牧野は大きく溜息をついて、和明たちと一緒になってふさぎ込む。
 重く沈んだ和明たちのテーブルとは逆に、店内では客たちの賑やかな声が響き渡っていた。



 その頃秀輝は、バー「ホワイトデー」の店の前で花村沙帆(はなむらさほ)と携帯電話で話をしていた。沙帆は、秀輝が転校する前に在籍していた小学校の同級生である。
 以前父親の勤めていた会社の家族寮に住んでいた頃、隣に住んでいたのが沙帆だった。何もかもミニサイズで、昔から秀輝の周りをちょこまかと走り回っていた。
「あ、沙帆ちゃん?こんばんは!」
― ヒデ君?今、大丈夫?―
 アニメの声優のようなキーの高い声が聞こえて来る。
「あぁ、いいよ。」
― 明後日、仕事帰りに会わない?―
「ごめん、その日は地元の友達と会う日なんだ。」
― じゃあ、土日のどっちかで遊ぼうか。―
「土日は仕事が入っているから・・・ちょっと。」
― じゃあ、来週仕事終わったら会おうよ。観たい映画があるの。―
「うん。」
― いい?―
「うん。」
― 良かった。じゃ、おやすみ。―
「おやすみ。」
 電話を切った後、携帯電話に保存してある写真を呼び出す。呼び出された画像は無邪気に笑う史美の顔が映し出されていた。



 和明たちを店に残し、秀輝は家路についていた。いつもなら深夜まで飲み続ける秀輝だが、今日はそんな気分にならなかった。

“ アイツ、まだやっているのか。”

 携帯で史美のLINEを見る。仕事が忙しいのかメッセージが既読になっていない。
 秀輝は自分のアパートへ向かう道を引き返し、史美のマンションへ向っていた。小高い丘の上にあるマンションは、心臓破りの百段階段を登らねばならない。
 高校時代に、この階段を登り切ったところで史美とよくお喋りをしていた。あれから、もう7年も経っている。途中息切れしながらも、秀輝は百段階段を登り切った。

“ タバコ、減らそうかな・・・。”

 百段階段から見下ろす景色は、昼間と深夜では全く違う。眼下の道路を行き交う車も少なく、照明灯の明かりが闇の中で際立ち幻想的に見える。下から吹き上げる風も、気持ちを爽快にしてくれる。
 階段の百段目で暫く佇んでいると、坂の下からタクシーが登って来る。タクシーのライトが、秀輝の姿をスポットライトのように照らす。タクシーは秀輝の真横に停まり、中から史美がびっくりしたような表情で降りてくる。
「何してんの?」
「なんだ、お前か?」
「なんだはないでしょう・・・。」
“ お前のことが心配で・・・。” と言いたいところだが、そんなストーカー染みたことなど言える筈もなく。
「ちょっと実家に忘れ物があってさ・・・。」
「フーン・・・。」
「仕事か・・・。」
「うん、終わんないから持って帰ってきちゃった。」
「テストの採点ぐらい手伝ってやろうか。」
「出来るの?足し算だよ。」
「お前、舐めてんのか?」
 予想通りの反応に史美は大うけしている。
 からかっただけなのに、まだ秀輝はムキになって怒っている。
「そんなにおもろいか?。」
「ゴメン、ゴメン。大丈夫だよ。」
 謝りながらも史美は、秀輝の顔を見るたびに吹き出している。相手にするのも馬鹿らしくなった秀輝は、アパートへ戻ろうと歩き出した。
「いつまで笑ってんだよ、バーカ。じゃあな。早く寝ろよ。」
「うん。アンタもね。」
 何とも締まりのないやり取りだったが、一日の終わりに史美の笑顔を見られた秀輝は誰よりも幸せな気分になっていた。



 日本大通りの道は、休日ともなれば中華街へ向かう観光客で賑わっている。道路脇に植えられている銀杏の新緑も美しく風にそよいでいる。
 史美と俊一は行き交う人並みの中を、肩を並べて歩いていた。
「俺に会えなくて寂しかったろ?」
 仕事で海外に出張していた俊一は、史美と会うのは3週間ぶりであった。
「別に!その間、篠塚と遊んでたから・・・。」
 茶目っ気のある史美の笑顔が、俊一には堪らなく愛しい。
「また史美の暇つぶしに、篠塚君を付き合わせたのか?可哀想だよ、篠塚君が。」
「いいの、いいの!彼女いるわけじゃないんだから・・・。そんな俊ちゃんが気に病む必要ないの。」
「史美がそうやって誘うから篠塚君、彼女作る暇がないんじゃないのか?」
「そんなことないですよ~だ。」
 ペロッと舌を出しておどける史美に、俊一は苦笑いを浮かべる。弾むように歩いて行く2人は、そのまま町の雑踏に消えていった。



 夜の山下公園のベンチに肩を並べて史美と俊一は座っていた。
 夜ともなれば恋人たちが集い、潮風に吹かれながら互いの未来を描き、夢を語り合っている。停泊中の豪華客船の光が、美しく夜景とマッチして恋人たちを演出している。打ち寄せる波の音は、心地よいBGMにもなっていた。
「やっぱり日本が一番いいなぁ・・・。」
 俊一が夜景を見て、しみじみと感慨深く呟く。
「女の子も日本が一番でしょ?」
 返事の代わりに俊一は史美の頭を抱き寄せる。
「ずっと会いたかった。」
「うん。」
 史美の温もりを感じようと俊一は強く抱き締める。
「史美。」
「何?」
 抱き締められながら、史美は俊一の胸の中で返事をした。籠った声が俊一の耳に届いたかどうかは分からない。
「ちょっと話したい事があるんだ。」
「何?改まって・・・。」
一呼吸して俊一は史美を見つめ直した。
「結婚・・・、してくれないか?」
「えっ・・・。」
 予想していた出来事なのに、プロポーズというものは戸惑ってしまう。
「ごめん、いきなりこんな事・・・。」
「ううん。」
「前からずっと考えていたんだ。ちゃんとプロポーズしようって・・・。」
「俊ちゃん・・・。」
「史美と結婚したい。」
 3年も付き合っていれば結婚という次のステップへ進んでいくのだろうと、何となく分かってはいた。俊一と結婚すればきっと幸せになれる。今日のような場面を、ずっと待ち望んでいたはずだった。しかし、いざプロポーズされると即答することが出来なかった。
 驚き戸惑っているような様子の史美を察したかのように俊一は肩を落として俯いた。
「ごめん。史美もそりゃ、色々あるよな。」
「そんなことないよ・・・。」
「ま、俺も仕事でなかなか休みも取れなかったし、こうして会うのだってやっとだから・・・。だから、今すぐってわけじゃないんだ。考えておいてくれないか?考えが落ち着いたら、返事を聞かせてくれ。」
 史美は頷くだけで声が何故か出なかった。
「待ってるから・・・。」
「明日から、また会議会議で大変なんでしょ。そろそろ帰らないと?」
「そうだな・・・帰ろうか。」 
 史美と俊一は、ベンチから立ち上がって歩き出した。流れてくる潮風や聞き慣れている波の音が、急によそよそしく感じて史美は足を止めた。
「どうした?」
 心配そうな顔で覗き込む俊一に返事も返さず、史美は振り返って夜の海を見つめた。暗い海に夜景の灯りが反射し、ユラユラと幻想的な景色が広がっている。
「史美、大丈夫か?」
「うん、大丈夫。ごめんね。」
「さ、行こう。」
 史美は俊一に促されるままに山下公園を後にした。

第3話 サヨナラCOLOR

第3話 サヨナラCOLOR

 その日は、バー「ホワイトデー」に史美が仲間を招集した。この間は教頭の嫌がらせ残業で顔を出すことが出来なかった。
 5人は店の隅のいつものテーブルに座っている。
「アタシ、俊ちゃんにプロポーズされちゃった。」
 史美の言葉に一同一斉に凍り付いてしまう。和明たちが一斉に秀輝を見る。秀輝は、その雰囲気を察知して明るく振舞う。
「おめでとう!よかったなぁ!なぁ!」
「ありがとう。」
 照れながらも史美は秀輝たちの祝福を素直に喜んだ。
 眞江は尊と顔を見合わせ複雑な表情をする。
「俊ちゃんの仕事が忙しくて、今はそれどころじゃないんだけど。」
「OKしたってこと?」
 プロポーズに対しての史美の返事を、眞江は催促するように問いかけた。
「・・・返事は、まだしてない。」
 罰悪そうに史美は答える。
 秀輝たち4人は一斉に首をかしげている。何故返事をしなかったのかという仲間たちの視線が史美に突き刺さる。
「・・・いきなりだったし、びっくりしたんだもん。そういうのって、心の準備ってものがあるじゃん。」
 秀輝は動揺する気持ちを必死に抑えていた。覚悟していたつもりだが、心に受けた衝撃は凄まじく呼吸が苦しくなる。秀輝の気持ちを察している和明たちは、史美のプロポーズの報告を素直に喜べない。
 誰も喋らない状況に、史美は言い訳がましく理由を言った。
「アタシ、4月に担任持ったばかりで忙しいし・・・。」
「何で?何で、すぐ返事しなかったの?嬉しかったんでしょ?」
 責め立てるように喋る眞江に史美は気後れして口籠りながら答える。
「・・・嬉しかったよ。」
 口籠りながら答えた言葉は4人には届いていない。眞江などは返事を即答しなかった事に理解できないとばかりに何度も首を傾げる。
「忙しいって・・・。プロポーズの返事には関係なくない?」
「なんで?大変なんだよ、クラス担任って。」
 眞江は執拗に史美に詰め寄る。
「それはそうかも知れないけど、アタシならその場でOKしたよ。」
 和明と尊は身を乗り出すように史美の言葉を待っている。秀輝は黙ったまま俯いていた。
「もぉ~何よ~、なんか尋問されているみたいじゃない。」
 その場の雰囲気を誤魔化すように史美は笑う。
「心配しなくても大丈夫!」
「別に心配なんてしてないけど・・・。」
 尊は、秀輝を横目で見る。
「佐古さんとなら、きっと幸せになれるよ。」
 必死で作り笑顔をしている秀輝が痛い。
 どうしてこんな雰囲気になったのだろう。史美は、一同を何気なく見渡した。和明も眞江も尊も、心成しか表情が強張っているように見える。違っているのは秀輝だけ。いつもの優しい目で史美を見ていた。
「ねぇ、篠塚。」
「ん?」
「アタシと俊ちゃんのイラスト描いてくれないかなぁ。」
「イラスト?」
 秀輝は昔から絵が上手かった。史美の似顔絵を、秀輝は幾度となく描いている。一度だけ誕生日に大きなサイズのイラスト画を貰ったことがあった。
「結婚が決まったら、席次表とか作るじゃない。そのときの表紙を描いてもらいたいなぁって・・・。」
「・・・いいよ。」
 何のためらいもなく、秀輝は二つ返事で史美の依頼を受けた。
「ホント?ワ~イ!」
「ウェルカムボードのほうがいいだろ。」
「うん!」
 無邪気に喜ぶ史美の横で、眞江は秀輝の顔を見つめている。秀輝の表情は、史美への溢れる想いで優しかった。事情を知らない史美に何の罪もないが、締め付けられるような胸の痛みで眞江は笑うことが出来なかった。



 史美が住むマンションは、いくつかの棟が建ち並ぶ中にあった。小高い丘の上にあるマンションは、夏になると港の花火大会を見ることが出来た。
 日付が変わる時刻をとうに過ぎて、どこの部屋も電気が消えていた。道路に設置してある街灯だけが寂しい光を灯している。
 タクシーが街灯の下で停まり、史美と秀輝、そして近所に住む眞江が降りてくる。
「じゃあね~」
 史美は秀輝と眞江に手を振り、自分のマンションへと入っていった。
 秀輝は史美が部屋に入っていくのを見届けると、歩いて10分程のアパートへ歩き出す。
「ねぇ。」
 眞江は自宅アパートへ帰ろうとする秀輝の背中に声を掛ける。
「ん?」
 眞江に呼び止められ秀輝は振り返った。
 眞江が心配そうな表情で秀輝を見つめていた。史美が結婚を決めてしまうかも知れない。秀輝の心境を思い遣るといたたまれなくて声を掛けた。
「大丈夫?」
「何が?」
「何がじゃないよ。田原、結婚しちゃうよ。」
 眞江の言葉に秀輝は黙ったまま立ち尽くしている。
「ウェルカムボードなんかも引き受けちゃって・・・。ただでさえ辛いのに・・・。何でそんなこと引き受けるのよ!」
 俯いたまま秀輝は一向に顔を上げない。
「田原も何なのよ!」
 堪え切れなくなった眞江は声を荒げてしまう。秀輝の気持ちを知らない史美を責めることではない、それは十分分かっている。しかし、心を削りながら尽くしているような秀輝を思うと胸の痞えが下りないのだ。
「アイツは知らないんだから・・・。」
「でも!・・・。」
 秀輝の優しく悲しい目を見て、眞江は激高する気持ちを抑えた。
「ねぇ・・・。そうやって自分の気持ち、一生抑えていくつもりなの?」
 深夜の沈黙は僅かな時間でも長く感じてしまう。秀輝はゆっくり顔を上げると心配している眞江に静かに呟いた。 
「・・・佐古さんと結婚する事が田原の願いなら・・・。それが田原の幸せなら、それでいい。・・・それでいいんだ。」
「篠塚・・・。」
「アリガトな。」
「何それ・・・。」
「いや、色々気遣ってくれてさ。」
「そんなこと・・・。」
「じゃあ、おやすみ。」
 秀輝は眞江に別れを告げ自宅へと帰って行った。そこに秀輝の思念が残っているような気がして立ち去った後も眞江は、そこから直ぐに歩き出すことが出来なかった。



 史美が住むマンションの前に公園がある。定番の滑り台とブランコ、そして砂場と鉄棒があった。その公園で子供たちが、代わる代わるにブランコを漕いで遊んでいる。
 この公園は、史美も秀輝も幼い頃によく遊んだ場所だ。2人の様々な思い出が詰まった公園だった。
 史美と秀輝は、ベンチに座り肩を並べてコンビニで買ったパンを食べていた。休日の昼間に暇を持て余しているのは、秀輝ぐらいだろうと史美が電話で呼び出したのだ。
 天気がいい日は外で食べると気持ちがいいと、秀輝は史美を部屋から連れ出した。
「電話したら案の定、暇そうに電話に出るんだもん。彼女くらい早く作りなよ。」
「お前は学校の先生のくせに頭悪いな。」
「はぁ?」
「前にも説明したよな?俺はな、世界中の女が悲しむようなことはしないの。」
 よくもまぁぬけぬけと、そんな言葉が出てくるものだと呆れてしまう。呆れている史美をよそに、秀輝は隣で何やら楽しそうに笑っている。秀輝の陽気さは、史美の心の不安をいつも和らげてくれていた。
「昨日、琢磨君からメールが来たよ。」
 史美はペットボトルのお茶を飲みながら唐突に話を切り出した。
「・・・何て?」
 いつの間にか秀輝の顔から能天気な笑顔が消えていた。
「練習は出来ないけどバスケも出続けているって。それから、リハビリも元気にやっているって。」
「順調そうで良かったな。」
「うん・・・。」
「写真も添付されてて、元気そうだった。」
「そうか。」
 嬉しそうに頷く史美の顔を見て秀輝も微笑む。
 三咲琢磨(みさきたくま)という名の生徒は、かつて副担任として受け持ったクラスにいた。その琢磨という生徒に不幸な事件が起こってしまうのである。
 史美は、その日を思い出していた。

 授業の合間の休み時間、生徒たちは授業からの解放感で廊下や教室で飛び回っていた。三咲琢磨は、教室内の窓際でクラスメイトと遊んでいた。
 窓枠に腰掛けて遊んでいる琢磨を、史美と担任教師の伊藤いとうが見かけて注意をした。
「危ないわよ。降りなさい。」
 史美も伊藤に続くように声を掛ける。
「コラッ、伊藤先生の言うこと聞きなさい。」
 言うことを聞かない琢磨たちに、史美が歩み寄ろうと一歩踏み出した。
「あっ・・・。」
 普段施錠してある筈の窓が開いて、琢磨はバランスを崩し窓から転落していく。
「琢磨くん!」
 史美と伊藤は、慌てて窓に駆け寄り下を覗いた。
 1階へ転落した琢磨が苦痛に顔を歪めている。
「田原先生、救急車!」
「はい。」
 史美は救急車を呼びに職員室へと急ぐ。教室からは生徒たちの泣き声と悲鳴が響いていた。



 幸いにも琢磨の命に別状はなかった。しかし、脊椎への衝撃が凄まじく、下半身への麻痺が残ると診断される。この事故により琢磨は、車椅子での生活を強いられてしまうのだった。
 校長室に学校長の八木沢克弘と教頭の池本が、琢磨の両親・哲郎(てつろう)和佳子(わかこ)と話し合いをしていた。父である哲郎は興奮状態で体を震わせながら話をしている。
 史美と伊藤は部屋の隅に立って、その様子を肩をすぼめて聞いていた。
「それじゃ、学校側には責任はないっていうんだな?」
「責任というよりも・・・。注意をして効かなかったのは、お子様ですからねぇ・・・。我々には、それ以上どうすることも出来ないじゃありませんか。」
 八木沢は哲郎に理解を求め訴える。
「当日のことは担任からも、事前に注意はしたと言っておりますし・・・。」
「施錠してある筈の窓が何故開いていたんだ!」
「だから先程から何度も申し上げているではありませんか。琢磨くんたちが注意を聞かずに遊んでいたせいで外れたんだと・・・。」
「子供に罪を擦り付けるつもりか?」
 八木沢と池本は、平行線のまま先へ進まぬ展開に大きな溜め息をつく。
「謝罪するつもりなどないということか。じゃあ、裁判で訴えるしかない。あぁ、訴えてやるよ。」
 三咲夫妻は史美と伊藤を一瞥し校長室を出て行った。



 琢磨の父・哲郎は、執拗に担任である伊藤を責め続けた。その日も、哲郎は伊藤が帰宅するのを外で待ち伏せていた。
 残務処理を終え史美と伊藤、他の同僚教師が校門扉を開け出てくる。
 史美たちが出てくると同時に一台の車が急停車し、琢磨の父・哲郎が降りてくる。
「おい、あんた琢磨の担任だろ?何で学校側は過失を認めないんだ。鍵は閉め忘れていたんだろ?」
 哲郎は、伊藤の襟を掴んで執拗に責め立てる。無言を貫く伊藤の態度に、哲郎は掴んでいた手に力を込める。
「おいっ、良心の呵責ってもんがないのか?それで、よく教師が務まるな?」
 伊藤は哲郎に詰め寄られてたじろぐ。
「これからずっと、琢磨は車椅子生活なんだ!あんた少しも負い目を感じないのか!」
 伊藤は哲郎に洋服の襟を掴まれ、されるがままになっている。
「ちょっとやめて下さい。まだ、裁判は終わってないじゃないですか。」
 他の同僚教師たちが哲郎を伊藤から引き離す。
「学校側に過失がないなんて信じられるか。・・・そんな馬鹿なことが、そんな馬鹿なことがあってたまるか!」
 史美は、憔悴しきった伊藤を抱え足早に歩いて行った。



 職員室では職員会議が急遽行われた。池本教頭が議事進行を務め教師たちに説明をしていた。
「え~、伊藤先生は一身上の都合により、本日付で退職されました。」
 誰一人顔を上げて聞いている者はおらず、神妙な面持ちで説明を聞いている。
「それから事故で重傷を負った児童の父兄が、校門の前などでいろいろと接触してきていますが取り合わないようお願いします。この件は全て弁護士先生にお任せしておりますから・・・。」
 広い職員室に沈黙が漂っている。
「田原先生。」
 突然、史美の名を呼ぶ池本の声に驚く。
「あなたには、今後も父兄が接触してくる可能性が高い。取り合わないよう、よろしくお願いいたしますよ。」
「はい・・・。」
 同僚教師たちの視線が史美に突き刺さる。
 史美の後ろに座る教師たちが小声で話すのが史美にも聞こえる。
「伊藤先生、うつ病だって・・・。」
「気の毒にね~。」
 史美は同僚教師から社会の怖さを痛感していた。

 


 当時を思い出す史美と秀輝の顔が曇る。
 秀輝はタバコに火を点け空に向け煙を吹く。煙は風に吹かれることなく、ひとつの塊として空へと登って行った。史美は秀輝が吐き出したその煙を、ボンヤリと見つめていた。
「ねぇ、自分のしていることに不安を感じることってある?」
 秀輝も空を見上げ吐き出した煙の行方を追っていた。
「どうした、急に。」
「別に、ただなんとなく。」 
 秀輝の横顔を見つめながら、何か言い出すのを史美はジッと待った。
「自信ないのか?」
「自信?」
「琢磨くんの事だろ?」
 史美は秀輝を見つめながら頷いた。
「アタシ、人助けが出来るほど経験豊富じゃないし、アタシみたいなのがこんな事していいのかなって思うの。」
 秀輝は、史美の言うことを黙って聞いている。
「でもアタシ、琢磨くんの事を放っておけなかった。」
「うん。」
 史美は転校していった琢磨の様子を見に行ったことがあった。塞ぎ込み人生に絶望したような琢磨だった。居ても立ってもいられなかった。後先考えずに気持ちのまま、琢磨の前に飛び出していた。副担任とはいえ、史美にとっては教師になって初めての生徒だった。校庭の隅で迎えに来る両親を待っている琢磨に、寄り添って慰め必死になって励ましていた。
 最初は史美の一方的なやり取りだけだったが、その熱意は徐々に琢磨の心に届いていた。そして、LINEから始まり電話番号の交換まで出来るようになったのだ。
「ねぇ・・・。」
「ん?」
「どう思う?アタシのしていること。」
 史美は秀輝の顔を覗き込む。
「何が出来るか分からないけど、元気になってもらいたいの、希望を失わないで欲しいの。」
 秀輝は黙って史美の話を聞いている。
「もしかしたらこんなこと、アタシの一人よがりかも知れない。特別なことが出来るわけじゃない。メールをしたり、LINEで話しをしているだけ。ホントにそれだけしかしてない。」
 無力な自分を思うと、史美は情けなくて泣きそうになる。
「時々・・・ううん、いつも考えているかも、本当にあの子の為になっているのかって。」
「お前、琢磨くんに早く元気になってもらいたいんだろ?」
 秀輝の優しい声が史美の心を包んでいく。
「うん。」
「怪我なんか克服して、強い子になって欲しいんだろ?」
「うん。」
「いいんじゃねーか、そういうのってさ。誰かが自分の事を励ましてくれる。それだけでも、嬉しいし頑張ろうって励みにもなるんだ。お前は琢磨くんのために、出来ることをやっている。それでいいんじゃないのか。」
「・・・うん。」
「琢磨くんは、お前のことを必要としてる。」
 秀輝は史美の肩をポンと叩いた。
「それに多分、今は・・・。」
 史美は、考え込んでいる秀輝の顔を乗り出すように見つめている。
「お前のために頑張っていると思う。」
「えっ?」
「頑張れば、お前が喜ぶだろ・・・。つまり、そういう事だ。」
 琢磨にとって、史美は初恋の相手と秀輝は言いたいのだ。
 年齢は違うが互いに同じ女を好きになった者として、秀輝は琢磨の気持ちが理解出来るような気がしていた。
「・・・俺は、とことん付き合うぜ!」
「うん。」
 秀輝に相談して良かったぁ・・・史美は心の底からそう思った。
「あ、でもよ・・・。」
「ん?」
「なんて言うか・・・だからって、あまり頑張り過ぎるなよ。」
「大丈夫!」
 史美はベンチから立ち上がり背伸びをする。
 秀輝に後押しされ心のモヤモヤが一気に消えて行った。史美は晴れ渡る空を見上げ太陽に手をかざした。
「さぁて、俺もやるぞ!」
 秀輝もベンチから立ち上がり背伸びをしている。
「彼女作るとか?」
「アホ。」
「へへへっ。」
「シナリオだよ。またコンクールに応募しようと思ってさ。」
「ふ~ん。」
 秀輝には脚本家になるという夢がある。最初は漫画家になりたいと思っていたらしい。しかし、漫画も土台となる物語が出来ていないと整合性が無くなり辻褄が合わなくなる。好きなアイドルの映画を観ているうちに、自分だったらこんなストーリーを作りたいと思うようになり脚本家に目覚めたというのだ。
「あーあ、大賞取りてーなぁ・・・。」
「出来たら読んであげよっか?」
 秀輝は史美の言った言葉に戸惑い始める。
「あれ?嫌なの?」
「嫌じゃないけど・・・、なんていうか・・・その~・・・。何でお前に見せなきゃいけないんだよ。」
「いっつも読め読めって言うじゃない。」
「ん?・・・うん。」
 秀輝は、そう言えばそうだったと慌てる。
「いいじゃない、彼女がいるわけでもないんだからさぁ。どうせ読んでくれるような人、いないでしょ。」
 口を尖らせて秀輝に言う。
「お前なぁ。彼女、彼女ってうるせーんだよ。」
「心配してるんでしょ。アンタだけ彼女いないんだもん。」
「俺が本気になれば直ぐ出来んだよ!」
 自信あり気に自分の作品を読ませる秀輝が、今日は少しばかり様子がおかしい。史美に読ませていいものか迷っているようにも見える。
「何?それとも、自信ないわけ?」
「自信はあるよ。」
「じゃ、問題ないじゃない。」
 史美は信じていた。秀輝は必ず自分の夢を叶え、素敵な作品を世に送り出すと・・・。秀輝が賞を取り脚光を浴びる姿をイメージする。ネガティブだった先程までの気持ちは、いつの間にか今日の天気と同様に晴れやかな気分に変わっていた。
「な~に、ニタついてんだお前は。」
 何の確証もないのに、史美はもう秀輝が大賞を取るかのようにはしゃいでいる。史美のこの笑顔に秀輝はいつも励まされている。そして、そうなると信じて疑わない史美の言葉には、どんな事にも挑める勇気が湧いて来るのだった。
「作品が出来上がったら必ず読ませてもらうからね。今度は出来栄えを採点してあげるからさ。」
 秀輝は史美の屈託のない、この笑顔にやられてしまう。その笑顔を出されてしまうと、秀輝は何も切り返せなくなる。
「楽しみにしてるね。秀ちゃん!」
「採点ってなんだよ。学校の先生みたいな事言いやがって。」
「だって、アタシ先生だもんね。」
 史美は、“ してやった ”とばかりに笑い出す。
 面白くないとしかめっ面の秀輝を見て、笑いが止まらない史美だった。



 有楽町センタービルの前は、行き交う人々で賑わっている。途切れることなく都道304号線を車が走り、ヘッドライトの眩しさに信号待ちの歩行者は目を細める。有楽町センタービルにあった西武は閉店し、現在は阪急百貨店とルミネが後を受け継いで営業している。ショッピングだけでなく映画館も併設した複合商業施設なのだ。
 秀輝と沙帆が、人混みの中を掻き分け有楽町センタービルから歩いてくる。土曜日か日曜日の休みの日に秀輝と過ごしたかった沙帆だが、なかなか予定が空いていない秀輝だった。平日の仕事帰りなら空いているだろうと沙帆は約束を取り付けたのだった。秀輝の手を取り先導していた。
 ショットバーの看板を見つけた沙帆は、秀輝の背を押しながら店内に入る。照明が少し落とされ、店内を流れるジャズが落ち着いた雰囲気を出している。秀輝と沙帆は酒を飲みながら、映画の話題で盛り上がっていた。
「あの映画、最後はハッピーエンドで良かったね。」
「俺、恋愛映画ってハッピーエンドじゃないと嫌なんだよね。」
「そうなの?」
「別れる映画なんて見ても、嫌な気分になるだけだよ。」
「でも、あれなのね。」
「何?」
ヒデ君って恋愛映画も見るのね。」
「映画であれば何でも観ますよ。ジャンルは問わない。」
 秀輝と沙帆は、史美たちとは別の小学校時代の幼馴染であった。秀輝は小学校6年に進級する時、親の都合で引っ越しが決まり転校したのだ。
 10数年振りの出会いから1年が過ぎ、沙帆は前々から気になっていたことを切り出す。その体は無意識に身を乗り出していた。
「ねぇ、ヒデ君。」
「ん?」
「ヒデ君ってさぁ・・・彼女の話とかしないね。」
「そんな人、いないから・・・。」
「ホントに付き合っている人とかいないの?」
「いるわけないじゃん、いたらこうして沙帆ちゃんと映画なんか観に行かないよ。」
「・・・好きな人はいるんだ。」
「えっ?」
 脳裏に史美の顔が浮かび一瞬戸惑う。
「いるんだぁ~。へぇ、どんな人?」
 秀輝の微妙な表情の変化を沙帆は見逃さなかった。
「教えてよ。」
 取調べの刑事のように追究する沙帆に、秀輝は圧倒されていた。しかし、その追究も後一歩となりそうになった時、秀輝は後ろから羽交い絞めにされ仰け反る。
 秀輝が振り返ると、和明が恋人の中島晶と立っていた。
「よぉ~。何してんだよ、こんな所で。」
「見てわかんねぇのか、デートだよ。デート!」
「篠塚君、ごめんね。この人酔っているから。」
 沙帆は追究の邪魔をされ怪訝な顔をしている。口調から秀輝の友人らしいのだが、やはり遠慮して欲しい。
 沙帆の表情に気付いた和明が、向き直って自己紹介をする。
「あっ、いきなりスミマセン。こいつとは小学校からの付き合いでね。はじめまして加藤和明です。彼女は中島晶。よろしくお願いしますね。」
「和明の彼女だよ。」
「あぁ・・・。」
「二人とも、とりあえず座れよ。」
 和明と晶は余っている椅子に座る。
「こちらは俺が前にいた小学校時代の幼馴染、花村沙帆ちゃん。よろしく。」
「沙帆です。よろしくお願いします。」
 改まって挨拶する沙帆に和明と晶は恐縮してしまう。
「あのさ、来週の土曜日また皆でバーベキューやろうぜ。もう古谷と桐原と田原には話がついているんだ。お前も来いよ。」
「あぁ、わかった。」
 和明は隣にいる沙帆に視線を滑らせた。
「あの~花村さんでしたっけ?君も予定が空いていたら一緒に行きませんか?」
 和明が突然沙帆を誘い出した。驚いた秀輝は飲んでいた酒を吹き出しそうになり、激しく咳き込んでしまう。
 沙帆は、デートを邪魔され終始不機嫌な顔をしていたが、思わぬ誘いを受け一瞬にして表情がほころぶ。
「何言ってんだ、沙帆ちゃんが暇なわけねぇだろ。それに突然そんなこと言ったって予定ってもんがあるだろ。」
「だから、空いてたらって言ってるじゃんかよ。」
「無理矢理、誘っているみたいだろうが・・・。」
「いつもお前だけ一人だから、彼女が来ればみんなペアになれるだろ?・・・。」
「アタシ、別に予定もないからいいですよ。」
「あ、そう?じゃあ、おいでよ。迎えには篠塚を行かせるからさ。」
「楽しみにしてます。」
 勝手に決めるなと食ってかかる秀輝に、沙帆が来るという嬉しさは感じられない。沙帆はバーベキューに参加して、秀輝が思いを寄せている女が誰なのか突き止めるつもりでいた。



 史美は部屋のベッドに横たわり雑誌を読んでいる。ふとドレッサーにある俊一との写真を見る。そろそろゼクシィなどの結婚情報誌を読んで、知識を集めなければならない。式場選びから新居などやることは山ほどあった。
 情報よりも、何より一番しなくてはならないことが史美にはあった。俊一からのプロポーズに対する返事である。しかし、嬉しいはずなのに億劫に感じられる理由が分からなかった。俊一の写真を見つめながら、史美は結婚への思いを巡らせていた。
 思案中の史美を邪魔するように、携帯電話の呼び出し音が鳴る。携帯に和明の名前が表示されている。
「もしもし、和明?」
― よぉ。今、大丈夫か?―
 陽気な声が電話向こうから聞こえて来る。
「ん?酔っ払ってんの?」
― 篠塚と飲んでたんだ。―
「ずるい!誘ってよ!」
― ここは有楽町で~す。―
「あ、そう。」
 さすがに東京には行けないし行く気もない。
― 晶も一緒。へへへっ。―
「良かったね。」
 酔っ払いの相手は面倒だ。
「どうしたのよ?もう寝るんだけど。」
― 来週末のバーベキューだけどさ。俺んとこと田原のとこと、えっ~と、桐原のとこで買出し行こうと思ってさ。―
「それ今、決める話?」
 電話口で晶が“迷惑だから早く切れ”と話す声が聞こえて来る。
― ちょっと思いついた事があったからよ。忘れねぇうちに連絡しようと思ってさ。―
「買い出しするのはいいけど、何でアタシ達が?」
― 古谷は場所が近いから場所取りに行ってもらう。篠塚は新メンバーのお迎えだ。―
「新メンバー?誰?」
― 花村沙帆ちゃんっていう女の子だよ。―
「沙帆ちゃん?」
― 篠塚が、うち等のところへ転校してくる前に一緒にいた幼馴染だってよ。―
「ふ~ん。」
― さっき有楽町のショットバーで二人一緒のところに偶然居合わせちゃってさ。―
「えっ?」
― 結構可愛かったよなぁ・・・。―
 和明が側にいる晶に確認している。
「付き合っているの?」
― 詳しいことは知らねえよ、さっき会ったばかりだからさ・・・。ま、とにかく篠塚が連れて来るから当日はよろしくな!―
 和明はそう言い終えると、そそくさと電話を切ってしまった。
「へぇ~篠塚、女の子連れて来るんだ・・・。」
 史美は切った電話を、しばらくボンヤリと見つめていた。今までバーベキューなどのイベントに、女の子を連れて来るのは大抵和明や尊だった。それが今度は、秀輝が女の子を連れて来るという。史美は胸の中に微かすかな違和感を抱いていた。
ボンヤリしている史美を引き戻すように、再び電話が鳴り出した。驚いた史美は、その拍子に携帯を落としてしまう。慌てて拾い上げ電話を見ると、今度は眞江からだった。
「あ、サーちゃん?」
 眞江を呼ぶ愛称は大人になった今でも変わらない。眞江の“ サ ”をもじって“ サーちゃん ”と呼んでいる。今さら変えられないし、史美はこの呼び方を気に入っている。
― 今、平気?―
「うん、さっきまで和明と話してた。」
― あ、バーベキューの事?・・・。―
 眞江のところにも、和明から電話があったのだろうか、バーベキューの話が即座に出て来た。
「そう。」
― ねぇねぇ、今度のバーベキューさ。アタシも彼を連れて行くけど、田原は佐古さん連れて来るの?―
「う・・・うん。」
― どうしたのよ・・・。―
 眞江には俊一を連れて行くことを、躊躇ためらっているように聞こえてしまう。
「サーちゃんさぁ・・・。篠塚って彼女出来たの?」
― えっ!聞いてないよ、そんな話。―
「だって今度のバーベキューに、女の子連れて来るって聞いたから・・・。」
― あぁ、それって篠塚の幼馴染のことでしょ?― 
「そう・・・。っていうか詳しくは知らないけど。」
 秀輝の周囲で、女の話は今まで一度も聞いたことがない。秀輝も全くと言っていいほど話をしないからだ。
― アタシも詳しく知らないよ。会ってからのお楽しみって感じじゃない。―
「そう・・・だね。」
― どうかした?―
 眞江の心配そうな声が電話口から聞こえて来る。
「ん?ううん、何でもない。ほら俊ちゃんが来れば、またアイツ一人になっちゃうなぁ・・・って思ってさ。」
 判然としない理由を、眞江に悟られたくない史美は早々に電話を切った。その夜は、何故か寝つきが悪かった。



 週末の土曜日。史美は自分の部屋に秀輝を呼んでいた。
 俊一は休みを返上して会社に出勤している。一日暇を持て余しているのは、秀輝しかいないと史美は電話で呼び出したのだ。
 2人はベッドを背に肩を並べて、正面にある液晶テレビに映し出される映画を見ていた。秀輝はDVDを持参して、史美の家にやって来たのだ。その映画は「サヨナラCOLOR」という作品だ。
 主人公の医者の元に、高校の同級生で初恋の相手が癌を患い入院してくる。献身的な治療を続ける主人公に初恋の相手はしだいに心を開き、やっと彼を思い出すようになる。そして、思いは通じ合い、二人の距離は近づき始める。しかし、主人公の医者も肝臓癌という病に侵されていて、余命わずかの体だったのである。
 映画の主演女優の大ファンである秀輝は、この作品を30回以上観ているという。何度も観ているはずなのに、隣で秀輝は感動して号泣している。
「いい映画だろ?」
「うん、まぁまぁ。」
 史美の隣で鼻をかむ秀輝は、期待していた反応がないことに不満気である。
「なんだよ。感動したろ?」
「したけど、可哀想なお話じゃん。」
「どこが?」
「だって愛している人の病気を一生懸命治してあげたのに・・・。やっと、やっと思いが通じたのに、自分が病気で死んじゃうじゃん。」
「そうだけど・・・。」
「なんかヤダ、そういうの・・・。」
 史美もどちらかというと、ラブストーリーはハッピーエンドがいい。この映画はある意味バッドエンドかもしれない。主人公の死によって、ヒロインは大きな悲しみを背負うことになってしまうからだ。秀輝は特に、そういう物語は好まないはずだった。
「でも、彼女の命を救ったんだから・・・。」
「えーっ。」
 そんな秀輝の言葉は、史美には予想外だった。ラブストーリーで、どちらかが死んでしまうような設定は安易で嫌だと言っていたのだ。全ての作品とは言わないが病気で命を失うストーリーは、総じてその死を美化して陰惨さを伝えてはいない。史美は観たことはないが秀輝に言わせてみれば、名作“ ある愛の詩 ”も好きな作品ではないと言っている。
「俺は、彼が羨ましいよ。」
「何で?」
「言葉じゃなくて、彼女への想いだけで行動しているだろ?」
 この映画の主人公は、愛の告白は一切していない。しつこいほどに献身的に尽くし、ヒロインの命を救うために奔走している。
「それに・・・。」
「何?」
「愛している人のために、自分の命や時間を使えるなんて・・・やっぱり羨ましいよ。」
「死んじゃうんだよ?」
 史美は秀輝の顔を覗き込み、納得いかない思いを訴えた。
 訴えるような史美の言葉も思いも全て包み込むかのように秀輝は喋り出した。
「僕が死んで・・・あなたに食べられて少しでも栄養になるんだったら・・・僕を食べたくなくても食べてくれるといいな・・・。」
「えっ?」
「こんなセリフ、劇中にあったろ?」
「あった・・・かな?」
 30回以上も観ている秀輝は、各場面のセリフをよく覚えている。
「大切な人のために、その人の幸せのためなら・・・本望なんだよ。」
「自分が死んじゃったら何にもならないじゃん。」
 史美はムキになって秀輝に言った。
「何にもならないわけじゃないさ。」
 秀輝がそう呟いても、史美には理解出来ない。死んでしまったら彼の想いは実を結ばないではないか。
「愛する人が幸せなら・・・それでいいんだよ。」
 そう呟く秀輝の顔は優しく和やかだった。でも、やはり悲しそうで・・・寂しそうな顔でもあった。しんみりとした空気が、史美と秀輝の間に漂っている。
 史美はそうした雰囲気を、取り払うかのように立ち上がった。
「じゃあ早く、その愛している人を見つけなきゃね。」
「ハイハイ。」   
「今度、女の子連れて来るんだって?」
 史美はDVDプレーヤーからディスクを取り出しながら言う。
「ん?・・・うん。」
「良かったじゃん。」
「何が?」
「バーベキュー来てくれて・・・。」
「別に・・・。」
 DVDをベッドの上に置いて、史美はまた秀輝の隣に座った。
「前の小学校の幼馴染なんでしょ?」
 秀輝は不機嫌そうに顔をしかめる。
「彼女になってくれるといいね。」
「うるせーな!」
「頑張ってよ、ヒデちゃん。ハハハッ」
 彼女ネタで秀輝をイジると、いつも言い負かすことが出来る。
「コーヒー淹れて来るよ。」
 秀輝は、勝ち誇ったように部屋を出て行く史美を呆れ顔で見送った。



 秀輝が帰った後、史美は部屋のベッドで横になっていた。ふとドレッサーに目をやると秀輝が忘れていったDVDが置いてあった。
「もう!忘れてるよ。」      
 史美はベッドから起き上がり、DVDを手に取り眺めている。ジャケットは、全体的に晴れ渡る空の色であるブルーに統一され、重厚なテーマを描いている作品にしては爽快さが感じられる。
 晴れ渡る空が海と砂浜を輝くように映し、フランスの大衆車/ルノー・キャトルの前に主演の女優が微笑み佇んでいる。そして、隅に物語の役を現しているかのように、ひっそりと主人公の医者が立っている。

“ 愛する人が幸せなら。それでいいんだよ。”

 とても実感を込めて秀輝は言っていた。秀輝が帰った後も、この言葉が頭から離れず心に引っかかっていた。
そう呟いた秀輝の顔も、脳裏に焼き付いている。

“ それって愛する人のためなら死んでもいいってこと?”

 史美の中で、ある思いがフッと湧き上がる。

“ 違う、絶対違う。”

 本人はそれで満足かも知れないが、残された人は悲しみを一生背負うことになる。そんなの絶対間違っている。
 今度、秀輝にそう言ってやろう。
 そう思った史美の胸に突然、言い知れぬ不安が過る。これから先、秀輝は映画のような事を本当にやってしまうかも知れない。秀輝は口に出して言ったことは、必ずやってしまう男だ。良くも悪くも、昔からそうだった。
 冗談だと普通なら聞き流してしまう言葉も、秀輝なら冗談では済まされない。似たようなシチュエーションになれば、命の危険を顧みず行動してしまうだろう。
 それは秀輝が何気なく言った言葉が妙に現実的で、まるで誰かのことを思いながら言っているように聞こえたからだった。

第4話 見慣れぬ景色

第4話 見慣れぬ景色

 薄桃色の花びらが散り、桜はひとつの季節を告げる役目を終えた。時は移り変わりを知らせようと、自然界の彩りを変化させる。桜は薄桃色から鮮やかな緑色へと装いを変え、その色は光に照らされて眩しく輝いている。
 道志キャンプ場は、新緑の季節を迎えようとしていた。
 和明は炭の熱を受けながら、額に汗して鉄板で肉や野菜を炒めている。史美や秀輝たちも各自分担で準備をしている。
 秀輝はノンアルコールビールを手に、片隅で食材の仕分けをしている俊一に近寄る。
「佐古さん。田原から聞きましたよ、婚約おめでとうございます。」
「あ、ありがとう。」
 俊一は振り返って、秀輝からノンアルコールビールを受け取った。
「田原、きっと佐古さんのいい奥さんになりますよ。」
「そうかなぁ・・・。」
 俊一は、和明の隣で料理をしている史美に目をやった。
「でも、まだ返事をもらっていないんだ。だから、いい奥さんになるかどうかは、それからだよ。」
「そ・・・そうなんですか。」
「断られるかもね。」
「大丈夫ですよ。きっといい返事が返ってきますよ。」
「そうだといいけど。」
「俊ちゃん、篠塚~。お肉焼けたよ~。」
 2人は史美に呼ばれて鉄板の側へ歩き出した。
 秀輝と俊一は箸を受け取り、鉄板の上に出来上がっている野菜や肉に手を伸ばす。眞江とその恋人である上尾伸次郎(かみおしんじろう)は、少し離れたところに腰を下ろし食事をしていた。
 秀輝は肉の焼き加減に注意を払っている史美に、ちょっかいを出そうと機会を伺っている。そして頃合いを見て、史美の皿から焼き上がっていた肉を掠め取った。
「あ、何すんのよ。」
「いつまでも食べないから、嫌いなのかと思ってさ。」
「最後に食べようと思ってとっておいたのに!」
「いつまでも食べないから嫌いなのかと思ってさ。」
「バカ!信じらんない。」
「お肉は焼いたらすぐに食べましょう。」
「ここのエリアから入らないでよね。」
「どこ?」
「ここから、ここまで。」 
 史美は空中に見えない線を引いて陣地を主張する。
「ふ~ん。」
「さぁ食べようっと。」
「はい、頂き!」
「何よ!」
 肉の取り合いという浅ましいやり取りが、史美と秀輝の間で勃発する。
 2人の様子を見ている俊一は、史美の隣で笑い転げている。和明たちは、いつものじゃれ合いが始まったと相手にしていない。
「だって食べ頃じゃん。はい、佐古さん。」
 秀輝は史美の前にあった肉を俊一の皿の上に乗せる。
「それ、アタシが食べようと思ってたのに!」
「へへへっ、早い者勝ちです。あーっ美味しいなぁ。」
「あっち行け。もう!」
 沙帆はじゃれ合っている2人の様子を、秀輝の肩口から見詰めていた。

“ ヒデ君の好きな人って・・・。”

 史美を見つめる沙帆の目が険しくなる。
 史美と秀輝は、そんな沙帆を尻目にじゃれ合いがヒートアップしている。秀輝は史美の両の頬をつまんで左右に引っ張ってからかっている。
 我慢できなくなった沙帆は、秀輝の肩を掴んで二人の会話に割って入る。
「ねぇヒデ君、それ食べたら上流のほうへ行ってみない?」
 突然肩を掴まれ驚いた秀輝が沙帆を見つめる。表情には出していないが、沙帆の瞳の奥には激しい嫉妬が宿っていた。
 史美は突然割り込んできた沙帆に驚き呆気に取られている。史美との会話に割り込まれた秀輝は、不意の出来事に戸惑ってしまう。
「えっ?ん、うん。」
「沙帆ちゃん、こんなヤツの側にいたら馬鹿がうつるよ。」
「んだとぉ!テメェ~!」
「ヒデ君、これ乗っけていい?」
 沙帆は2人のやり取りを無視して、鉄板の上に牛ロースを乗せる。
「あ、あぁ。いいよ。」
 これ見よがしに秀輝に擦り寄る沙帆を、史美は怪訝な表情で見つめていた。


※   



 食事も一通り終わり、各自適当にくつろいでいた。和明は持って来たクーラーボックスの整理している。
 史美は飲み干した酒を捨てて新たに酒を取りにくる。
「田原、これ篠塚と沙帆ちゃんに渡しに行ってくれ。」
「うん。」
 和明からビール缶を渡され、史美は沙帆の所へ持って行こうと歩き出した。
 河原で遊んでいる秀輝と沙帆を見つけた史美は、2人のところへ駆け寄る。
 史美を密かに観察していた沙帆が、近寄ってくる史美を見て秀輝をその場から遠ざけようとする。
「ねぇねぇ、向こうにも魚がいそうじゃない?」
 沙帆は秀輝の腕を取り、上流へと誘い出した。



 離れていってしまう2人を見て史美は、ビール缶を持ちながら和明の所へ戻ってくる。
「何だよ、渡して来いよ~。」
「だってどんどん二人で向こうへ行っちゃうんだもん!」
「追いかけろよ。」
「やだよ~、そんなに言うんなら和明が行ってきてよ。」
 和明は、食い散らかした食材の片付けをしている。
「俺は片付けがあんだよ。」
「アタシは、もうヤダからね。」
「じゃいいよ。しょうがねぇ。」
 和明は史美からビール缶を受け取り、クーラーボックスへ戻す。
 史美は、上流へ移動している秀輝と沙帆の背中を見詰めている。秀輝の側で子供のように燥はしゃいでいる沙帆が、史美には鬱陶しくて堪らない。
「ねぇねぇ和明~。あの子、篠塚と付き合っているんじゃないんでしょ?」
「そうだよ。電話で話したろ、幼馴染だって。」
「うん。」
「明るくて可愛いし・・・いい感じの子だよなぁ。篠塚も、沙帆ちゃんと付き合っちゃえば良いのに。」
「えーっ!」
 突然大きな声を出した史美の声に驚いて、和明は飲んでいたビールにむせる。
「何だよ、いきなりデケェ声出すなよ。」
「だって、あの子。なんか感じ悪い!」
「どこが?」
「何もあんなにベタベタしなくてもいいじゃん。篠塚も何よ。別に付きっきりじゃなくてもいいじゃない。」
「良いじぇねかよ。ベタベタしたってよ。」
 沙帆を擁護する和明に、納得がいかない史美は口を尖らせている。
「好きなんじゃねーの篠塚が。」
「そうなの?」
「見てれば分かるだろ・・・田原も意外に鈍感なんだな。」
「そ・・・そんな事ないよ。」
「協力してやれよ。」
「何でアタシが・・・。」
「前から言ってたじゃねーかよ、早く彼女作れってさ。」
 “ 彼女”というフレーズが、余計に史美の心をざわつかせる。
「なーにカリカリしてんだお前。」
 残った食材を段ボールに詰め、和明は自分の車に運んで行く。
「カリカリなんかしてないわよ。」
 史美は遠くの方で肩を並べて佇む、秀輝と沙帆の姿をじっと見つめていた。



 秀輝は沙帆を自宅まで送るため車に乗せて帰って行った。16号線は横浜方面へ向かう車で渋滞している。
 火起こしや大量に買い込んだ食材等の運搬で、疲れ切っていた俊一は欠伸をしながらハンドルを握り運転をしている。
 帰路に就いた途端、史美は堰を切ったように喋り出す。
「俊ちゃん、篠塚が連れて来た子さ・・・。」
「沙帆ちゃんだっけ?」
 俊一が眠たそうに話す。
「あの子、どう思う?」
「どう思うって?そんなに喋っていないから。」
「あの子さ、アタシが篠塚としゃべっていたのに途中から遮るように入って来るんだよ・・・。」
 珍しく不機嫌な史美の様子に俊一は圧倒されていた。
「それからね、ずっと篠塚から離れないの。サーちゃんやアタシとは殆ど喋んないし・・・。」
 仲間たちと別れてからというもの史美は、車内でバーベキューでの不満を一気に俊一にぶちまけていた。
「別にいいんじゃない。」
「ハァ?何言ってんの!」
「何って?」
「そもそも、ああいう場ってさ。みんなでワイワイやるものじゃないの?」
 俊一は、鼻息の荒い史美に押されて閉口してしまう。
「サッサとアタシたちと離れてどっか行っちゃうし・・・。」
「二人きりになりたかったんだろ?」
「篠塚も何よ。ずっとあの子に振り回されちゃって・・・。」
「彼女、篠塚君が好きなんじゃないの?」
「えっ?」
 和明と同じことを言う俊一に、史美は戸惑い言葉が出なかった。そういえば秀輝が、自分たち以外の女と一緒にいるのを初めて見た。秀輝は女には縁がない男だと、史美は決めつけていた。いつも側にいた秀輝が、少しだけ遠くに感じてしまった。
「多分そうだよ。だから、そんなに怒らなくてもいいん・・・。」
「怒ってなんかないよ。」
 史美は短絡的に結論付けた俊一を睨んだ。
「何だよ。おっかねーな。」
「いいよ、もう!」
 史美は俊一に顔を背け黙ってしまった。俊一に悪気がないのは分かっている。むしろ、いつも一人でいる秀輝を気にかけてくれているのだ。秀輝には特定の彼女がいるわけではないから、沙帆の積極さを応援するべきなのかも知れない。
 そんな事は分かっている。分かっていても、何かが引っ掛かって納得出来ない。秀輝の手を引っ張って上流へと歩いて行く沙帆の姿が、脳裏に焼き付いてなかなか離れない。

“ 何なのよ。”

 俊一は不機嫌になっている史美の横顔を、運転に気を配りながら時折心配そうに見ていた。気まずさが漂う車内の雰囲気は、史美の家に着くまで消えることはなかった。



 同じ頃、秀輝の車も渋滞に巻き込まれていた。終始無言の車内にやたらとテンションの高いラジオパーソナリティの声だけが響いていた。
沙帆は車窓の外の暗闇を見つめていた。 
「ヒデ君の好きな人って、あの田原さんって人でしょ?」
 長い沈黙を破って沙帆が口を開いた。
「何言ってんの。」
「・・・ずっと田原さんのこと、気にしてた。」
 秀輝は、すれ違う対向車のヘッドライトに目を細める。
「・・・ごめんね。なんか今日、アタシ嫌な女だったよね?」
「そんなことないよ。」
 秀輝の沙帆を労わる気持ちが痛かった。今日の態度は、自分でも最低だと思っていた。よくあるラブストーリーに出て来るワンシーンを、まさか自分がやるとは思ってもみなかった。
 史美の視線も終始感じていた。
「つまらなかったでしょ。ヒデ君の楽しみ取っちゃったから・・・。」
「そんな事・・・。」
「いいよ。無理しなくても・・・。」 
 車内での会話は、沙帆の家の前までそれだけだった。
 渋滞が続く道から脱し、日付が変わった頃、漸く沙帆の家に着いた。沙帆は運転していた秀輝よりも疲れたように車から降りる。
 沙帆は家の門の前で、立ち止まり振り返って秀輝を見る。
「アタシ、ヒデ君が好き。」
 沙帆は、それだけ言うと家の中へ入って行った。
 俯いたままの秀輝は、暫くその場から動くことが出来なかった。



 後味の悪いバーベキューが終わった翌日、史美は仕事が手につかず考え事ばかりしていた。
 考えないようにしようと思えば思うほど、秀輝と沙帆の事が頭にチラついてしまう。朝の職員会議でも独り言を注意された。

“ バカバカしい、アタシには関係ないじゃん。”

 冷静に考えれば、自分が沙帆の事で悩む必要はないのだ。秀輝の知り合いであって、自分の友人でもなんでもないのだ。しかし、暫くするとまたバーベキューでの2人を思い浮かべてしまう。
「せんせ~い、2時間目も算数なの~。」
 生徒に指摘され我に返ると、教卓にあるはずの教材が変わっていなかった。1時間目の算数のままだったのだ。
「せんせい、ずっと立ってたよ~。」
「ん?あ、ごめん国語だったよね。」
 チャイムが鳴り響く中を、慌てて職員室に戻っていく。
 史美とすれ違った同僚は、目を丸くしながら呆気に取られ見送っている。職員室に戻ると、池本が慌てて準備する史美を、厳しい顔つきで見つめている。
「もう次の授業が始まってしまいますよ。」
「はい、すみません。」
 史美は自己嫌悪に陥りながら、教材を両手に抱え職員室を出て行った。



 夕方の帰宅ラッシュの電車内、史美がつり革に摑まり立っている。俊一と食事の約束をしていため、京浜東北線で横浜へ向かっているのだ。
 電車内を見渡すと、いつもよりカップルが多く乗っているように見える。人目につくように体を密着させているカップルが、今日はやけに目立って視線を送ってしまう。
 彼氏に甘い声で囁く彼女たちが、沙帆と重なり合って見えてくる。
 史美の視線に気付いた女が史美に見せつけるように男に体を密着させる。

“ 馬っ鹿みたい ”

 呆れるようにして史美は、カップルから視線を外した。
 とにかく胸の中のモヤモヤを発散したい。そんな日は、酒を飲んで心の憂さを晴らすのが、一番良いに決まっている。
 電車の窓に映る自分と目が合った。心の中にある醜い自分が映し出されている様で、史美は直ぐに顔をそらした。



 待ち合わせ場所である横浜駅の高島屋前に着いた。高島屋は横浜駅西口側最大の百貨店であり、東口にあるそごうと売り上げで競い合っている。その前にある駅前広場は、待ち合わせ場所として多くの人に利用されていた。
 行き交う人波の中に俊一の姿を追う。腕時計を見ると待ち合わせ時間に10分ほど早く着いていた。
「早く着きすぎたかな・・・。」
 携帯電話を取り出してバーベキューの時撮った写真を見つめる。
 その中に史美がカメラマンをして撮った写真があった。秀輝はカメラマンである史美に満面の笑顔で撮られているが、沙帆は一人秀輝の方を向いていた。その表情は、とても悲しく寂しそうだった。  
 史美は思いついたように電話をかける。
「夜分遅くにすみません。田原です。」
 電話に出たのは秀輝の母・伊久子(いくこ)だった。
― あら、田原さん久し振り~、元気にしているの? ―
「はい、元気にしてます。おばさんは?」
 秀輝の母は幼少時の史美を知る数少ない人物であった。史美の母とも仲が良く、そのせいかよく可愛がってくれたのだ。
― まぁ、何とかね。でも、もうすっかりおばあちゃんね。―
 久し振りに声を聞いたというのに、史美は懐かしい気分に浸る間もなく沙帆の話を聞いた。
「あの・・・ちょっと聞いてもいいですか?花村沙帆さんって覚えています?」
― 花村・・・沙帆さん?―
 電話の伊久子は訊ねられても即座に答えられない。15年前のことを即座に答えろというのが土台無理なことだ。電話の向こう側で記憶を必死になって辿っている伊久子の姿が想像できた。
― あぁ、沙帆ちゃん!―
 漸く思い出した伊久子が、沙帆の名前を連呼する。
「思い出しました?」
― うん。前に住んでいたところにいた、近所の女の子よ。―
「どんな人なんですか?」
― どんな人ってね~、う~ん、いい子よ。優しくって明るいし。そう言えばあの頃、秀輝のお嫁さんになるんだぁ・・・なんてよく言ってたわね。―
 伊久子は昔を思い出して電話口の向こうで笑っている。
― でも・・・田原さん、よく沙帆ちゃんのこと知っているわね。秀輝から聞いたの?―
「いえ、あの・・・、この間、秀輝さんがバーベキューに連れて来ていて・・・、それで。」
― あ、そう。お付き合いでもしているのかしら・・・。―
「そうじゃないみたいでしたけど・・・。」
 史美は、自分でも信じられないくらいに即座に答えた。
― そうよね。あの子が、そんなモテるわけないものねぇ・・・。―
「そうですよねぇ・・・ハハハッ。あ、すみません。」
― 情けない話、そうなのよね。今度、秀輝に可愛い子紹介してもらえない?―
「そうですね・・・あ、あの~。ありがとうございました。また、今度お電話しますね。」
 史美は伊久子に何か後ろめたさを感じて、早々に携帯電話を切った。

“ アタシ、何してるんだろ。”

 衝動的に電話をしてしまった。秀輝の母に聞いたところで、何かわかるものでもない。今頃突然、電話したことを不審に思っているかも知れない。
 史美は、大きくため息をひとつ吐いた。
 俊一は待ち合わせ場所に立っている史美を見つけ、人混みの中を縫うように駆けて来る。
「ごめん、お待たせ。」
「あ、俊ちゃん。」
 史美の笑顔に覇気が感じられなかった。
「どうした?」
「別に・・・。何で?」
「いや、顔色悪いなぁって。」
「大丈夫だよ。早く御飯食べに行こう。」 
 史美の微妙な変化に気付いた俊一だったが、つまらない事で史美の機嫌を損ねたくはなかった。2人は雑踏の中へ消えていった。   



 横浜そごうの地下停留所からタクシーに乗ろうとした2人だが、モヤモヤした胸の痞えが消えない史美はタクシーには乗らず俊一とMM地区へ歩いて行く。
 高島水際線公園にたどり着いた2人は公園内を歩いている。海から吹く潮風が心地よく、園内は美しくライトアップされている。
「今度、また行こうな。」
「・・・うん。」
 一呼吸置いて史美は返事をする。
「何が一番美味しかった?」
「うん、全部。」
 それは気のない返事だった。
「全部?ハハハッ凄ぇな~。」
「そう?」
 考え事をしている史美は、俊一の話にも上の空で返事に気持ちがこもっていなかった。史美の変調に気付いた俊一が心配そうに顔を覗き込む。
「・・・どうかしたの?」
 視界に入る俊一に驚いて史美は我に返る。
「えっ?」
「何か考え事しているみたいだけど・・・。」
「ううん、別になんでもない。」
「ならいいけど・・・。」
 史美と俊一は公園内を歩いている。相変わらず史美からの会話はない。
「・・・そういえばさぁ。」
 沈黙が続く状況に耐えられなくなった俊一が口を開く。
「篠塚君と沙帆ちゃん、あれからどうなったかな?」
 俊一の話に反応して史美は顔を見つめる。沙帆のことは考えたくもないのに、俊一が二人のことを会話に織り交ぜてくる。
「知らない。」
「付き合えばいいのに・・・ねぇ。」
「俊ちゃん、それ本気で言ってんの?」
「えっ?」
 秀輝に早く彼女が出来ればいいと言っていたのは史美だった。秀輝を慕っている沙帆と付き合えば、史美の願いが叶うと思って言ったのだ。批判的な史美の目が、真っ直ぐ俊一を見ている。
「本気っていうか・・・。」 
 史美は踵を返して、そのまま無言で歩き出した。立ち尽くしたままの俊一を置いて、史美は歩く速度を速め歩いて行く。
 取り残された俊一は、史美の後姿を悲しげに見つめていた。



 食事を終えた秀輝は、自分の部屋でコンクールに応募するシナリオを作成していた。
 しかし、先ほどから全く進んでいなかった。パソコンを約2時間、凝視したままの状態が続いている。バーベキューの帰りに沙帆に言われた一言が、秀輝の頭の中を駆け巡りシナリオ制作を妨げていた。
 手が付かない自分にイラつき天井を見上げ大きく溜め息をついた。
 玄関のインターホンが鳴り、驚いてパソコンに表示されている時刻を見る。時刻は零時を過ぎたばかりだった。
「何だよこんな時間に・・・。」
 和明や尊が訪ねて来たと勘違いした秀輝は、舌打ちしながらドアを開ける。
「沙帆ちゃん!?・・・。」
 ドアの前に沙帆が立っている。秀輝は沙帆の突然の訪問に、唖然として立ち竦んでいる。
「来ちゃった・・・。」
「こんな時間にどうしたの?」
「おばさんに電話して住所を聞いたの。」
 沙帆を見つめる秀輝は黙ったまま立ちすくんでいる。
「・・・入ってもいい?」
「あ、ごめん。どうぞ。」
 沙帆を部屋に入れた秀輝は用意した座布団を居間に敷く。
「とりあえず座ってて。」
「うん・・・。」
「お茶でいいかな?」
「うん、何でもいいよ。」
 秀輝は、お湯を沸かしに台所へ向かう。
「ごめんね、いきなり来ちゃって。」
「ん?・・・。あぁ、別にいいよ。」
 沙帆は背を向けている秀輝を見つめている。
「この間は、ごめんね。いきなりあんなこと言っちゃって。」
 好きだと告白されても、今の秀輝には沙帆の気持ちに応えることは出来ない。沙帆自身もそれは分かっていた。
「でも、ホントのことだから・・・。アタシ、真剣だよ。」
 秀輝は湯を沸かしているヤカンを見つめたまま振り返らない。
「・・・ヒデ君、あの子には彼氏がいるじゃない。」
 無言のまま背を向けている秀輝に沙帆は必死に語り掛ける。
「古谷君から聞いたよ。田原さんは、佐古さんと結婚するって。」
 秀輝は依然として沙帆に背を向けままだ。
「ヒデ君がいくら好きでも、田原さんは何とも思っていないよ。」
「わかってるよ。」
 背を向けたままだが、秀輝は漸く口を開いた。
「えっ?」
「わかってるよ、そんなこと・・・。それでも・・・いいんだ。」
 沙帆には秀輝の気持ちが全く理解できない。
「どうして?結婚したら、田原さんは手が届かなくなるんだよ。」
「そういう問題じゃないんだ。」
「どういう事?」
「アイツしかいないんだ。」
「そんなにあの子のこと・・・。」
「ごめん、沙帆ちゃん。俺・・・。」
 秀輝は必死に何かを語ろうとするが言葉にならない。
「アタシ、諦めないから・・・。」
「沙帆ちゃん・・・。」
「ヒデ君の気持ちが変わるまで諦めない。」
 突き刺さるような沙帆の視線は、振り向かなくても感じることが出来た。沙帆もまた、秀輝の背中から漂う史美への思いを感じていた。
 その日、秀輝の部屋の明かりが消えることはなかった。

 


 仕事を終えた史美は、帰り道の国道を歩いていた。普段ならバスに乗って帰るのだが、今日は歩いて帰りたい気分だった。幹線道路である国道は、毎日のように渋滞している。歩いている間、バス3台を追い越した。
 スナック菓子の在庫がない事に気付いて、史美は途中コンビニに立ち寄った。国道沿いにあるコンビニには絶えず客が入って来る。買い物かごを手に取り、普段通り雑誌コーナーで足を止める。目的の菓子を買う前に気になる雑誌を立ち読みするのが、コンビニに立ち寄った時の習慣だった。棚の下の段に、結婚情報誌が数冊置いてあるのが見える。雑誌を手に取ると、結婚式のダンドリや、正しい式場選びの特集でいっぱいであった。しかし、沙帆の事が頭に過って情報が蓄積されていかない。
 雑誌の特集記事に飽きてきた史美は、何気なく視線を外の通りに向ける。国道を走る車は見えない糸に繋がれているように切れ目なく走行していた。流通の重要路線である国道は、大型トラックなど運搬車両も多く通行する。
 史美の視線の先に、秀輝と沙帆が肩を並べて歩いている姿が映る。史美は手に取っていた雑誌を元に戻し、コンビニでの買い物も忘れて2人の後を追った。

“ あの子、何でここにいるの?”

 2人に気付かれないように距離を置きながら歩く。秀輝と沙帆の間には会話は無いようで、互いに前を向いたまま歩いていた。
 秀輝と沙帆は互いに深刻な表情をして、バスの停留所で立ち止まった。沙帆は今にも泣きそうな顔をして秀輝に寄り添うように立っていた。
 暫くしてバスが到着し、沙帆は一人そのバスに乗り込んで行った。
通り過ぎてく車のライトが悲痛な表情の秀輝を映し出す。

“ 何があったの?”

 史美は飛び出して聞きたい衝動を抑え、家路へ歩き出す秀輝の後姿を見つめていた。

第5話 置いてきた時間

第5話 置いてきた時間

 史美はベッドに横たわりボンヤリとしていた。
 いつも流している音楽も聴く気分にはなれなかった。時折、木材の湿気の変化によって起こる乾いた音が聞こえてくる。オカルト的な解釈ではラップ現象などと呼ばれている。
 普段気にならない音が、今日はやけに耳に入ってくる。

“ うるさいな・・・。”

 史美は気晴らしに箪笥の上に飾られている仲間たちの写真に目を移した。史美の隣に写る秀輝を見る。沙帆を見送る悲痛な秀輝の顔が忘れられない。まるで心が押し潰されたように苦しそうで、その痛みと辛さが史美にも伝わって来ていた。
 携帯電話を取り出し、秀輝の番号を表示させる。
 史美は暫く、その番号を見つめていた。

“ どうしたのよ。何があったの?”

 史美のざわつき出した心は、静寂さを取り戻すことは出来なくなっていた。
 携帯に表示された秀輝の電話番号に指をかざした時、リビングから史美を呼ぶ母/珠美の声が聞こえてくる。
「コーヒー淹れたけど飲むかい?」
「ん?うん。」
 携帯電話の0の文字に触れようとした指を止めた。

“ 何て聞けばいいのよ・・・。”
 大きく溜息をついた後、思い直した史美は携帯電話をドレッサーの上に置いた。



 帰宅途中の駅で和明から召集の電話が掛かって、史美はバー「ホワイトデー」に向かっていた。秀輝のことが気に掛かっているからか、普段よりも足取りが重く感じていた。史美が店のドアを開けると、秀輝と和明と眞江は既に到着していた。尊は後から遅れて来るらしい。
 秀輝は、いつもと変わらない様子で史美を迎えた。
「オッス!お疲れ、忙しいんだな。」
 仕草や表情に変化はない秀輝に、史美は拍子抜けしてしまう。沙帆と並んで歩いていた秀輝の表情からは思いもつかない。
「うん。」
 秀輝の顔を見ると史美は、先日の出来事を思い浮かべてしまう。
「史美ちゃん、いらっしゃい!」
 マスターの牧野がカウンターから声をかける。
 いつものようにビールを注文すると、史美は秀輝の隣に座った。史美の隣で秀輝は、普段通り明るく振舞っている。

“ 何があったのよ。”

 史美の心配をよそに、秀輝は和明たちと賑やかに酒を飲んでいる。和明が覚えたての曲を唄うため店内の小さなステージへ向かった。
 曲が流れ和明の熱唱が始まった。しかし、史美の耳には和明の歌声は入って来ない。秀輝は沙帆と何かあったのだろうか。それがずっと気になっている。俊一が言った通り秀輝と沙帆が付き合うことになれば、それは喜ばしい事なのに気持ちは鉛を抱いているかのように重い。
 賑やかな店内とは対照的な史美の様子に、秀輝が声のトーンを抑えながら話しかけてきた。
「おい、どうした?」
 いつもと違う史美の様子に秀輝は気付いていた。
「別に。」
 史美は出来る限りの作り笑いをして気持ちを隠した。
「なんかあったんだろ?」
「ないよ。」

“ 何かあったのはアンタの方でしょ。”

 史美は思わす口に出そうになった言葉を飲み込んだ。
 秀輝は挙動がおかしい史美の顔を見つめている。
「何?」
「何かあったのなら、ちゃんと言えよ。」
「何にもないよ。」
「・・・それならいいけど。」
 秀輝は和明たちの手前、気を遣って大人しく引き下がった。
「ねぇ。」
「ん?」
「アンタこそ、何かあったんじゃない?」
「えっ?」
 秀輝は虚を突かれ慌てていた。その僅かな動揺を史美は見逃さなかった。

“やっぱり何かあったんだ。”

「アタシに何か言うことない?」
「・・・べ、別にないけど。」
「ならいい・・・。」
 史美と秀輝の間に、気まずい空気が漂う。秀輝は隣に座っているのに、離れているかのように感じてしまう。
「おい、篠塚!お前の曲だぞ。早く行けよ。」
「おう!」
 秀輝は和明に促されマイクステージへ向う。
 唄っている秀輝は、普段通り何も変わらないように見える。しかし、沙帆といた秀輝は違った。それはとても痛そうで、苦しそうな顔だった。



 モヤモヤした気持ちが晴れずスッキリしないまま、昨夜の秀輝たちの飲み会は終了した。おかげで今日という日は、やけに長く感じた一日だった。いつもなら時間に追われる授業も、時計を何度も見て残り時間を気にする一日だった。
 生徒たちを帰宅させ、史美は職員室で父兄たちに配布するプリントの準備をしていた。聖応小学校では父兄に対して、風邪や防犯など様々な情報をマメに連絡しているのだ。
 内容を一通りチェックし終えた史美は、背もたれに寄りかかり再び溜息をつく。今日は溜息ばかりついている。
 小学1年生は、まだ幼児の域を脱していない。一瞬たりとも目が離せない状況が続き、肉体的にも精神的にも疲労が溜まってしまう。
 職員室から見える校庭を、史美は放心したように眺めていた。脳裏にふと、昨夜の秀輝のことが過る。
 和明たちには、普段通りの秀輝で接していた。しかし、秀輝は史美の問い掛けに、ほんの一瞬動揺していた。恐らく沙帆と何があったに違いない。史美はそれが気になって仕方がなかった。
「どうしたの、大丈夫?」
 史美の隣にいる同僚教師が不意に小声で話し掛けてくる。この同僚は史美と同じ1年生の担任を持っていた。
「あ、大丈夫です。」
「最近、ボーッとしている事が多いみたいだから。」
「すみません。」
「彼氏の事?」
「いえ、別にそんな事・・・。」
「気持ちをしっかり持たないと。伊藤先生の二の舞になるわよ。」
「そんな・・・。」
「問題が起きても守ってくれないのよ。うちの学校は・・・。」
 忠告はしたというアピールが見え見えである。同僚教師は史美の不安を煽るだけ煽って、そのまま職員室を出て行った。



 新橋のSL広場は待ち合わせスポットとして、多くのサラリーマンやOLが利用している。
 ライトアップされたC11形蒸気機関車の前で秀輝は俊一を待っていた。昼休みの時間帯に俊一から連絡が入り、相談したいことがあるというのだ。初めてのケースに秀輝は不安と緊張を抱えながら携帯電話で時刻を確認する。
「もうそろそろかな・・・。」
 その時不意に、誰かに後ろから肩を叩かれる。驚いて振り返ると俊一が息を切らせて立っていた。
「申し訳ない。少し遅れたかな?」
「あ、いえ。大丈夫ですよ。」
「自分から連絡しておいて失礼だったね。」
「いや、そんなことないですよ。」
「時間はそんなに取らせないから、ちょっといいかな?」
「はい。軽く一杯やりながら話しますか?」
「そうだね。この辺どこか店知ってる?」
「ちょうどいい店がありますから、そこに行きましょう。」
 秀輝と俊一は、人混みをかき分けながらSL広場を後にした。



 居酒屋の店内は、照明を抑えた落ち着いた雰囲気だった。秀輝と俊一は、カップルシートと呼ばれる席に案内された。俊一の声のトーンから込み入った話になるだろうと考え、秀輝が他と隔離されている席を店員に要望したのだ。
「忙しいところ悪かったね。」
「いえ、暇人ですから・・・。」
 秀輝の思った通り俊一はどことなく元気がなかった。
「相談したいことはさ・・・。史美との事なんだ。」
 予想した通りの言葉が俊一から出て来た。考えてみれば史美以外の事で自分に連絡することはない。
「どうかしましたか?」
「篠塚君に聞きたいことがあって。最近、史美の様子がおかしいんだ。」
「様子がおかしい・・・ですか?」
「どこか上の空で、常に何か考え事をしているようなんだ。」
「いつ頃からですか?」
「バーベキューした後くらいかな・・・。」
 俊一に言われ秀輝はホワイトデーでの史美を思い出した。普段は賑やかに過ごすホワイトデー店内で、史美は一曲も唄わなかったし酒の量も少なかった。
「篠塚君、何か知ってる?」
「い、いえ。自分は何も・・・。」
 秀輝はホワイトデーでの事を俊一には言わなかった。確証も何もない故に、秀輝自身も理由は分からなかった。分からないことを推測で俊一に言える筈がない。
「そうだよね。済まない、僕ら2人の事に時間を使わせて・・・。」
「そんなことないですよ。」
 俊一は肩を落として大きく溜息をついた。
「プロポーズ、まだ返事も貰っていないんだ。」
 秀輝の胸がドキンとする。
「そうなんですか・・・。」
 プロポーズという言葉を聞いて、衝撃を受けている自分を必死に抑えた。史美の幸せを願ってはいても、結婚となると今まで通り会うわけにもいかなくなる。理由は分からないが、史美が返事をしていないという事にホッとした胸の痛みだった。 
「仕事の事もあるとは思うけど。時期は別として、返事くらいはしてくれてもいいんじゃないかなと思ってさ。」
 秀輝の横で俊一は寂しそうに笑った。
「あいつに、それとなく聞いてみましょうか?」
 秀輝の申し出を聞いた俊一は、動きを止めて考え込む。そして、思い直して秀輝に向き直った。
「いや、いいよ。僕らの問題だから・・・。」
 それから秀輝と俊一の間に会話は続かなかった。気まずい時間が断続的に続き、いたたまれなくなった2人は居酒屋を後にした。肉体的な疲れよりも、精神的な疲れを存分に味わった時間だった。

 


 同じ頃、横浜で眞江は沙帆と2人で食事をしていた。
 それは沙帆からの突然の電話だった。何の前振りもなく、いきなり眞江と食事がしたいと言ってきたのだ。
 眞江が選んだのはカジュアルに釜焼きピザやパスタが食べられ、ワインやサングリアなども美味しいイタリアンの店だった。
「沙帆ちゃんも結構飲めるのね。」
「そんな事ないよ。日本酒とか焼酎はダメだもん。」
 他愛もない会話の最中に、店員がチーズフォンデュを運んで来る。
「わぁ、来た来た!これね、美味しいんだよ。篠塚が教えてくれたんだ。」
 店員がチーズフォンデュを食べる時の注意点を説明する。待ち切れなかった眞江は、店員が厨房へ戻ると直ぐに鉄串を手に取って食べだした。
「うん、美味い!」 
「ねぇ、桐原さん。」
 勢いよく頬張っている眞江と違い、沙帆は取り分けた料理に手を付けていなかった。
「あなた達って、この間みたいにあんな風にしょっちゅう集まるの?」
「バーベキューのこと?」
「うん。」
「バーベキューは、たまにしかやらないかな・・・。よく飲みには行くけど。」
「仲良いんだね。」
 沙帆は相変わらず取り分けられたピザにも手を付けず、パケットの上のパンも一つも手にしていない。
「沙帆ちゃんと篠塚って、前の小学校の時に一緒だったんでしょ。」
「うん、団地でも隣同士だったの。」
 眞江から当時の話を振られた途端、沙帆の声のトーンが高くなった。
「沙帆ちゃんと一緒の時も、篠塚ってガキ大将みたいな感じだったの?」
「う~ん、そんなガキ大将って感じでもなかったけど。ただ運動も出来て、ケンカも強くて・・・。」
「喧嘩っ早いのは昔からなのね。」
「でも小さい頃、そういう男の子に憧れたことない?」
「まぁね。」
「アタシ・・・。ヒデ君のお嫁さんになるって、よく言ってたんだ。」
 沙帆は照れもせず、はっきりした口調で言っていた。
「そうなの?凄く積極的ね。」 
「だって同じ団地の女の子は皆、ヒデ君のことが好きだったのよ。ライバルだらけなんだから、最初に名乗り出たモン勝ちでしょ。」
「随分モテたのね、篠塚は・・・。」
 眞江が飲み干したサングリアのグラスを店員に渡し、“ 同じものを ”と注文する。
 沙帆は手つかずのピザを見つめ、当時を思い返している。
「ヒデ君が転校していった時は、一晩中泣いたんだ・・・。」
「沙帆ちゃん、もしかして・・・。」
 眞江がそう言うと、沙帆は向き直ってキッパリと言った。
「うん。今でもヒデ君が好きよ。」
「・・・そ、そう。」
 沙帆の真っ直ぐな視線に眞江はたじろいでしまう。
「桐原さん。聞いてもいい?」
「ヒデ君って、今まで彼女とかいなかったの?」
「あの人。そういう事は殆ど言わないから、詳しい事は知らないけど。何人か付き合った人はいたみたいだよ。」
「そうだよね。」
「でもね。付き合ってた彼女、皆に言われたんだって。あなたは、私の事を好きじゃないんでしょって・・・。」
「どういうこと?」
 秀輝が史美を想うが故になった事を知りながら、沙帆はワザと知らぬ振りをして見せた。
「さぁ・・・。」
 眞江も、それが史美の事を想っているからだと言えなかった。

第6話 心の奥

第6話 心の奥

 史美は、琢磨がリハビリテーションに通っている病院に来ていた。当時副担任だった史美は琢磨の両親に顔を知られている。2人を刺激しないように、陰からこっそりとリハビリの様子を見守っていた。
 琢磨は歩行訓練用の平行棒に摑まり、必死になってリハビリに取り組んでいる。

“ 頑張って!”

 側に行って声を掛けたい気持ちを史美は必死に抑えた。完全に歩けるようになるまで、まだ何年もかかるかも知れない。でも、琢磨の人生はこれからなのだ。

“ 頑張れば、必ず歩けるようになるから・・・。”

 沢山の願いを琢磨の背中に込めて、史美はリハビリルームを後にした。
 玄関ロビーを抜け外に出ると、不意に後ろから声を掛けられる。驚いて振り返ると、秀輝がそこに立っていた。
「琢磨君、頑張っていたろ?」
「どうしたの?」
「この間、お前の様子が少し変だったから。琢磨君に何かあったんじゃないかと思ってさ。」
 勘違いをしている秀輝だったが、本気で自分や琢磨の事を、心配してくれている事が嬉しかった。表情が自然とほころんで、気持ちも穏やかになる。
「琢磨君、特に変わった様子はなかったぜ。」
「見て来たの?」
「おう。お前よりも先に着いたからよ。」
 秀輝は史美の付き添いではなく、個人的にも琢磨のことを応援していたのだ。相変わらず可愛げのない言い方だが、史美はとてつもなく嬉しく感じていた。 
「俺は琢磨君の御両親に面が割れてねーからな。琢磨君の様子は近くで見れたぜ。」
「少しずつだけど、歩けるようになったよね。」
「あぁ、お前の喜ぶ顔が観たいんだろうな。スッゴイ頑張っていたぜ。」
「うん。」
 秀輝は、微笑む史美を見て安心している。
「ねぇ、そのためにだけ来たの?」
「ん?」
 史美に核心を突かれた秀輝は慌てて言い繕う。
「べ・・・別にそれだけじゃねーよ。たまたま近くを通ったからよ・・・。」
 白々しさ丸出しの秀輝が可笑しくて、史美は堪え切れなくなり笑い出してしまう。
「アンタも暇なのね。」
「うるせーな。」
「ヒ・マ・ジ・ン。」
 史美は秀輝の耳元に小声で囁いた。
「ハイハイ。どうせ、俺っちは暇ですよ。」
「彼女、いないもんね~。」
 一瞬、沙帆の事が頭に過る。
 しかし今、目の前にいる秀輝は、先日の深刻な表情を浮かべた秀輝ではなかった。
「ねぇ、お腹空いたんですけど・・・。」
「ハイハイ・・・。」
「ラーメン食べたい。」
「よく食うよ、お前は。」
「うん。」
 史美は弾むように秀輝の車に乗り込んで行った。秀輝には、この史美の笑顔が全ての活力の源だ。この笑顔のためなら、どんなことでも出来ると心に強く思っていた。



 眞江に招集をかけられて、和明と尊はバー「ホワイトデー」に集まった。店内は仕事帰りのサラリーマンやOLで賑わっている。マスターの牧野が注文の酒を運んで来る。配り終わってカウンターに戻ろうとする牧野を眞江が呼び止める。
「マスター。今日って、田原来ないんだよね?」
「断言は出来ないけど、今日は寄れないからって本人から連絡あったよ。」
「そう。ならいいんだけど。」
「眞江ちゃんたちが来ていることは言わなかったよ。」
「それでいいの!」
「篠塚君と一緒らしいよ・・・。」
 史美と秀輝が一緒なのは眞江たちにも都合が良かった。
「何、秘密会議?」
「マスター。」
 調子に乗ってふざける牧野に、眞江が不快感を前面に押し出す。
「嘘、嘘。ごめん、ごめん。」
 牧野がカウンターに戻ったのを確認し、尊が眞江に集めた理由を訊ねる。
「何だよ、話したいことって・・・。」
「うん。実はね。この間、沙帆ちゃんに誘われて一緒に食事をしたの。」
「篠塚も一緒か?」
「ううん、2人で・・・。」
「何かあったのか?」
「あったから俺達を呼んだんだろ。」
 分かり切った質問をする和明に、尊が苛立ち“ 察しろ ”と目で訴える。
「尊。大丈夫だから・・・。」
 眞江が尊を宥めるように言う。
「田原と篠塚に関係する話なんだろ・・・。」
 声もなく眞江が頷いた。
「沙帆ちゃん。篠塚の事が好きだって・・・。」
 和明と尊が互いに目を合わせる。眞江は困惑しているようで、深いため息が漏れる。3人とも言葉が出ない。
「あの子・・・。篠塚に何かしそうで・・・。」
「何かって?」
 尊は、眞江の感じている不安を聞き出そうする。
「例えば・・・。告白でもするんじゃないかって・・・。」
「いいじゃないか。これで篠塚も田原の事を忘れられんだろ。」
 沈黙していた和明が喋り出す。
「アンタ、本気で言ってんの?」
 眞江が安易に結論を出そうとする和明を睨みつけた。
「だってよ、田原は結婚するんだぜ。どうにもならないだろ。」
「随分、薄情な物言いだよね。」
「じゃ、何か。田原が結婚しても諦めんな。いつまでも思い続けろって言うのか。それよりも篠塚を慕ってくれるいい子がいるなら、勧めるのが本当じゃないのか。」
 和明に詰め寄られ眞江は黙ってしまう。和明の言うことは分かっているし、間違っていないと思う。しかし、理屈で推し量ることが出来ないのが人の心だ。
「沙帆ちゃんがどうであろうと、篠塚には何も響かないよ。」
 2人のやり取りを黙って聞いていた尊が静かに口を開いた。どうしてそんな事を言うのだと和明は尊を見つめている。
「あいつは、もう決めているんだよ。これから先も、ずっと田原の事を・・・。」
 報われない思いを注いだところで何になると、今まで繰り返し秀輝に言ってきた。
 しかし、秀輝は決まってこう言っていた。

“ 田原が幸せなら、それでいい。”

「俺たちがしてやれることは、決まってんだよ。」
 尊の言わんとしている事は分かっている。しかし、それでも眞江は秀輝の想いが報われて欲しいと願っている。
「俺たちは今まで通り、黙って見守るしかないんだ。」
 眞江は俯いたまま沈黙している。和明も暫く俯いていたが、目の前のグラスを掴んで酒を一気に飲み干した。
「青春だね~。」
 酒をトレーに乗せて、牧野が眞江たちのテーブルに運んで来る。
「ごめん。耳、ダンボにしていたから、よ~く聞こえちゃってさ。」
「マスター・・・。」
 眞江が困った顔で牧野を見つめた。
「ねぇ、恋っていう字はさ。心が下にあるから下心があるっていうじゃんか。」
「あ、成程・・・。」
 和明一人が、牧野の蘊蓄うんちくに感心している。
「一方 “ 愛 ” という字は、心が真ん中にあるから真心だっていうんだよ。」
「マスター・・・。それってサザンの曲の歌詞でしょ。」
 眞江は呆れて苦笑いをする。
「あ、バレた?・・・。」
「なんだ、何かの格言かと思った。」
 感心していた和明が残念そうに天を仰いだ。
「でもさ・・・篠塚君の史美ちゃんへの気持ちって、正に“愛”だと思わない?」
 牧野の言葉に、眞江たちは顔を見合わせ揃って頷いた。
「あ、お客さん帰るみたいだから・・・。」
 牧野は常連の客が帰るのを見つけ、眞江たちに手刀を切って去って行く。
 眞江は牧野の背中を見ながら、秀輝の真心が史美へ届けばいいと心から願った。そして、そこまで想われている史美が、本当に羨ましいと思ったのだった。
“ 田原・・・。アンタ、本当に気付かないの?”



 史美は秀輝と食事を済ませ、横浜市内をドライブした後、家に帰宅した。自分を励まそうと見え見えの秀輝だったが、史美にはそれが嬉しくて堪らなかった。
 秀輝を見送った後、梅雨の到来を知らせるかのように、空からポツリポツリと雨が降って来る。雨音は部屋の中からでもノイズ音のように聞こえてくる。
 沙帆との事は、秀輝と一緒にいた事でモヤモヤした気持ちは晴れていた。空模様とは対照的に、史美は少し晴れ晴れした気持ちでベッドに倒れこんだ。
「あ~疲れた・・・。」
 ベッドに横たわり “ 今日は、このまま寝よう ”そう思ったが、ふとテーブルに置いてある携帯電話が気になり何度も視線を移動させる。
 史美は寝る前に、秀輝に礼でも言っておこうと携帯電話に手を伸ばした。すると、いきなり呼び出し音が鳴り、史美は携帯電話を手に取る。
「あ、俊ちゃん?」
 電話の相手は俊一だった。
「うん、わかった。すぐ行く。」
 夜遅い時間ではあったが、近くの公園にいるというので支度を整え家から出て行った。



 公園の側に俊一の車が停めてあり、史美はそれに乗り込んだ。雨脚は急に強くなり、車の屋根に激しく打ち付けていた。俊一は、いつもより元気がないように見える。
「どうしたの?急に・・・。」
 俊一は、どこか思いつめたような顔をしている。
「・・・どうかした?」
 あっけらかんとしている史美の様子に、俊一は唖然としてしまう。最近、考え事が多く何かに思い悩んでいるような史美を心配していたのだ。そして、まだプロポーズの返事は貰っていなかった。俊一は、ここ数日の間プロポーズの返事や結婚の事を真剣に考えていた。秀輝を呼び出し史美の様子を聞いたりもしていた。
「どうかした?って・・・。」
“ どうかした?”という史美の言葉に、俊一は思わず固まってしまう。
「な~に?」
 史美は動きが止まっている俊一の顔を覗き込む。甘えるように顔を近づけてきても、俊一は表情を崩すことはなかった。
「何って・・・。プロポーズの返事、それから俺たちの結婚のことに決まっているだろ。」
「あぁ!・・・。」
 忘れていたわけではないが、秀輝と沙帆の一件があって気を取られていたのだ。
「返事・・・聞きたいと思ってさ。」
「うん。」
「結婚のこと、オーケーかな?」
「ん・・・うん。」
「何、それ?」
「式とかって、いつ頃するか、もう決めているの?」
 史美の脳裏に秀輝や仲間たちの事が浮かんだ。
「出来れば、なるべく早く挙げたいな。」
「えっ?」
 挙式を急ぐ俊一に、史美は戸惑いを隠せなかった。
「仕事の事もあるし・・・。そんなに早くは、ちょっと・・・。」
「じゃあ史美は、いつくらいにしようと考えているんだ?」
「いつくらいって。そんなこと急に言われても・・・。」
「急に?」
 意外なセリフに俊一は言葉を繰り返してしまう。
「だって、今日いきなり会って・・・。」
「いきなりってそれ、どういうことだよ。」
 語気を強めた俊一の言葉に史美は黙り込んでしまう。確かにプロポーズされてから、かなりの日数が経っていた。その間に返事はいつでも出来たし、具体的な予定も考えられた筈なのだ。
「じゃあ、いつしようって思っているんだよ!」
 突き刺さすような俊一の視線が、史美に向けられる。
 明確な返事が返せず、史美は沈黙してしまう。そんな史美の様子に、俊一は苛立ちを募らせる。
「なんで黙っているんだよ。」
 史美自身も言葉が出てこない理由が分からなかった。
「俺と結婚する気あるのかよ!」
 はっきりしない史美の態度に俊一は声を荒げてしまう。史美は俊一の声の大きさに驚いて体を強張らせる。
「史美、この間のバーベキューからおかしいぞ。」
「バーベキュー?」
「自覚ないのか?」
 史美は沙帆との事で、楽しめなかったバーベキューを思い返す。
「篠塚君と沙帆ちゃんの事、何がそんなに気になるんだ?」
「別に気にしてなんか・・・。」
 史美の言葉を遮るように俊一は声高に叫んだ。
「気にしてるじゃないか!」
 史美は俊一の迫力に圧倒され、思わずたじろいでしまう。
「俺のことなんか、全然頭にないって感じだし・・・。」
「そんなこと・・・。」
 興奮している俊一は、史美に弁明の余地を与えない。
「わかってるよ。篠塚君と史美は親友だって言うんだろ。でも、おかしいよ。なんで沙帆ちゃんと篠塚君のことで、そんなにムキになって考えるんだよ。篠塚君があの子とどうなろうが、史美には関係ないだろ。」
「関係ない?」
“ 関係ない ”という俊一の言葉が史美の心の忌諱きいに触れてしまった。史美はプロポーズの返事をしていないという罪悪感も忘れ俊一に食って掛かる。
「関係ないわけないでしょ。篠塚は親友だもん。付き合う女の子が、篠塚に合っているかどうか心配するのは当たり前でしょ!」
「当り前じゃないさ!史美と篠塚君は、親友かも知れないが、その前に男と女なんだぞ。」
 男と女という俊一の言葉に、史美は再び閉口してしまう。
「沙帆ちゃんは、篠塚君が好きなんだ。だったら親友の史美が、応援するのが本当じゃないのか?」
 俊一に返す言葉が史美にはなかった。
「史美、どうしちゃったんだよ。結婚したくないんだったら、ちゃんとはっきり言ってくれよ。俺はさ、正直言って返事はすぐくれるものだと思っていたよ。考える時間も必要だと思ったから返事を待った。でも、それから結構経つのに電話すらないじゃないか。俺はプロポーズしたんだぜ?ちゃんと真剣に考えてくれよ!」
「・・・考えてるよ。」
「どうかした?ってなんだよ。そんな言い方ないだろ?」
「・・・ゴメン。」
 史美が肩を落としまま呟いた。
 俊一は史美をしばらく無言で見つめている。
「俺は、そんなに長くは待てないよ。」
 俊一はそう一言言い残し、史美を置いて車で走り去って行った。
 史美は打ち付ける雨の中、暫く俯いたまま呆然として立ちすくんでいた。



 部屋で秀輝は、パソコンに向かって必死に執筆していた。
 時計に目をやると日付が変わっていた。
 史美と会っていたことが活力になっていたのか、執筆作業は驚くほど順調に進んだ。
「もう2時か・・・。さあてと、そろそろ寝るか。」
 雨脚が強くなっていたことに、気付かないほど秀輝は執筆に集中していた。凝り固まった体をほくすように背伸びする。
 突然、インターホンが鳴る。秀輝の脳裏に、先日の沙帆との出来事が蘇った。

“ まさか、また沙帆ちゃん・・・。”

 部屋の照明は点いているし、居留守を決め込むことは出来ない。沙帆の気持ちを思い遣ると胸が痛む。締め付けられるような思いのまま秀輝はドアを開けた。
 立っていたのは史美だった。
「どうした?・・・。」
 傘もささずに歩いてきたらしく、雨で頭からずぶ濡れだった。瞳には薄っすらと光るものが見えたが、表情は唇を噛みしめ涙がこぼれるのを必死に堪えていた。秀輝の言葉にも無反応な史美は、立ったまま一歩も動かない。
「何してんだよ、風邪ひくぞ。入れよ。」 
 秀輝は史美の手を取り、部屋へ入れた。箪笥から史美の着替えにトレーナーとタオルを出した。
「頭をよく拭いて、早くこれに着替えろ。」
 案内されるまま部屋に上がった史美は、渡されたトレーナーを手に脱衣所で着替える。鏡に映る自分が何かを言いたそうで史美は目を背ける。
「おい、着替えたか?」
「・・・うん。」
 秀輝に促され史美はベッドの上に座る。秀輝は、湯呑茶わんにお茶を注ぎ史美に手渡した。
「ビールがいい。」
「アホ。風邪引いたら、どうすんだ。」
 史美は手渡された熱々のお茶を飲んで、ホッと一息つく。秀輝は淹れたお茶を飲みながら、史美と向かい合わせになって座る。
「なんて顔してんだお前は・・・。」
 秀輝はそう言いながら優しく微笑んだ
「何があったか聞かないの?」
「ん?・・・。うん。」
 秀輝の優しい声は、張り詰めていた史美の心を柔らかく解してくれた。
「話したくなったら、ゆっくり話せばいいさ。」
 涙が自然と溢れて、史美は秀輝の前でひとしきり泣いた。秀輝の前だと素直に泣いてしまう悔しい気持ちと、あとはよく分からない悲しい気持ちが混ざり合っていた。
 泣くだけ泣いたら気持ちはスッキリとして、史美は落ち着きを取り戻した。数時間前の俊一との顛末を、何度も振り返りながら話し始める。但し、秀輝と沙帆の事は、何も話さなかった。秀輝は、史美の話を最後まで黙って聞いていた。
 話し終えた後、秀輝は暫く考えていた。史美も秀輝の言葉をじっと待った。
「大丈夫だよ。」
 それは秀輝が史美に必ず言う言葉である。何か特別な保証があるわけでもないのに、この言葉を聞くと史美は何故だが落ち着くことが出来た。
 秀輝は、史美の湯呑茶わんに再びお茶を注いだ。
「すぐに佐古さんから “ ごめんね ”って電話が来るから。」
 秀輝がにっこり笑って話す。その笑顔につられて史美も自然と表情が緩む。
「うん。」
 いつも秀輝は、重く沈んだ史美の気持ちを優しく掬すくい上げてくれる。
 雨は、いつの間にか止んでいた。
 外は夜が明け始めたのか明るくなっていた。
 雲が晴れたのかカーテンの隙間から夜明けの光が、一筋の線となって差し込んでくる。
 カーテンの色も、次第に黄金色に染まっていく。
「もう朝かぁ・・・。」
「ウソ?もうそんな時間?」
 史美が驚いてカーテンを開けると、小高い丘の稜線から朝日が昇ろうとしていた。
「お前、今日は学校休んだほうがいいな。」
「えっ?ヤダよ、こんな事ぐらいで・・・。」
「ふざけんな。」
 秀輝が真剣な顔つきで、怒ったように言う。
「教師という仕事を舐めるな。睡眠っていうのはな、人間にとって一番大事な行為なんだよ。そんな不眠状態で満足な仕事が出来るのか。第一まともな精神状態じゃないだろが・・・。お前が受け持っているのは、赤ちゃんに毛が生えたような一年生だっていう事を忘れんな。1秒だって目が離せない、気を抜くことだって絶対許されない時期だ。お前が居眠りこいてる間に、子供たちに何かあったらどうするんだ。親はな、お前を信頼して子供を預けてんだぞ。」
 秀輝の言う通りだ。教師という仕事は、生半可な気持ちでは務まらない。学校では子供たちの命を預かっているのだ。史美は秀輝の言う通り黙って頷いた。
「よし。」
「アンタは、どうするの?」
 自分で押し掛けておいて何を言っているのだろう。史美は自分のために一睡もしていない秀輝が心配になった。
「寝ていないじゃない。会社大丈夫?」
「う~ん、俺も休んじゃおうかな。」
「えっ・・・。」
“人には仕事を舐めるなって言っておいて・・・。”
 秀輝はたまに一瞬、カチンとくるような物言いをする。しかし、それはやはり全て史美のためだという事がすぐ分かる。
「今日は、ずっと田原の側にいるよ。」
 ホッとして安心する気持ちを抑えて、史美は秀輝の思いやりを断る。
「いいよ、大丈夫だよ。」
「お前の大丈夫は、大丈夫じゃないってことだろうが・・・。」
 眉間にしわを寄せながら言う秀輝だが、直ぐに優しい声に変わり笑顔になる。
「俺の事なんか気にしなくていいから・・・。」
「ごめん。」
 そんな秀輝の笑顔が優し過ぎて、史美はまた涙が溢れ出そうになる。
「ま、俺はお前の親友だからよ。とことん付き合ってやるさ!」
 秀輝はワザとおどけて、泣きそうな史美の頬を指で突く。
「たまには、いいじゃねーか。」
「会社に何て言って休むのよ。」
「熱が出て気分が悪いんです~とか、何とか言ってりゃ・・・どうにでもなるさ。。」
 そう言うと秀輝はゲラゲラと笑い出す。何が面白いわけでもないが、いつもつられて笑ってしまう。
「おいおいっ。電話しているとき、側でそうやって馬鹿笑いすんなよ。」
 秀輝は人差し指を口の前に立てる。
「やだよ!」
 史美は秀輝にペロッと舌を出して、からかうように部屋から逃げる。史美と秀輝は狭い部屋の中を、鬼ごっこでもやるように駆け回る。
「だからそうやって騒ぐなって言ってんだよ。」
「わかった、わかった!」
 史美は秀輝に捕まり降参のポーズをする。狭い部屋の中を駆け回るのは、予想以上に疲れる事だった。
「もう、朝から信じられない。」
 史美を元気付けようとする、秀輝の白々しさも見え見えでよくわかっている。でも、その白々しさに、いつも助けられていた。
 バカバカしくワザとらしい秀輝だが、その真剣さが史美には可笑しい。
「あーっ腹減った。」
「うん・・・。」
 気が付くとお腹が空いていた。



 本牧にある本牧山頂公園に、秀輝は史美を連れて来ていた。そこは山というより小高い丘の上にあって、磯子の工業地帯を一望できる場所だった。
「気持ちいいねぇ。」
 雨上がりは、空気も草も木も何もかもが瑞々しい。
「そうだろ・・・ここは地域の人しか知らないから、観光客もいないしな。」
 秀輝は芝生の上にゴロッと寝転んだ。
「冷てぇ!」
「晴れたからって、乾くにはまだ早いよ。」
 雨で湿っている芝に寝転んで、秀輝の背中と尻が濡れていた。
 史美は石で出来た椅子の上に乗って、遠くの景色を眺める。数台設置されている貨物用クレーンが、まるで恐竜が首をもたげているように見える。
「いい眺め・・・。港の風景もいいけど、こういうのもいいねぇ。」
「夜なんかもっといいぞ。工業地帯のライトが、まるで星のようキラキラして・・・。」
「今度、夜連れてってよ。」
「ん、うん。」
 俊一と行くと言い出すと思っていた秀輝は、思いもよらぬ返事がきて一瞬戸惑ってしまう。当の本人は、戸惑う秀輝の事も知らずにはしゃいでいる。
 はしゃいでいた史美が、突然振り返って真顔で秀輝をじっと見つめている。
「何だよ、どうした?」
 史美は秀輝の横に肩を並べて立つ。
「そういえば、ズル休みしているんだなぁ…と思ってさ。」
「お前も典型的な日本人だなぁ・・・。」
「だって・・・。」
「教師だって人間じゃねーか。調子いい時もあれば、その逆もある。心も体も休めるって決めたんだから、今日は割り切って休暇を楽しむんだよ。」
「そうだけど・・・。」
 眼下に広がる風景を見ながら、頭の中にクラスの子供たちの顔が浮かんでいた。

“ みんな、ごめんね・・・。”

「大丈夫だよ。」
「うん。」
 口癖になっている秀輝の言葉が、史美の心を陽だまりのように暖かくしてくれる。
 史美は秀輝の肩に寄りかかり、晴れ渡る空を仰いだ。空いっぱいの青と滲んでいるような雲の美しさに、深く感動をして溜め息が出る。
「ねぇ・・・。」
「ん?」
「アタシ。俊ちゃんとの結婚に何で返事が出来ないか、自分でも分からないんだ。」
「うん。」
「プロポーズされて本当に嬉しかったの。でも・・・。」
 秀輝は隣で相槌だけ打っている。
「俊ちゃんと結婚したら、他の何かとても大切なものを失っちゃうような気がして・・・。」
「うん。」
「それが怖くて自然と避けていたのかも・・・。」
「そうか・・・。」
「だから返事が出来なかった・・・。」
「そうか・・・。」
「うん。」
 怖いと言った史美だが、秀輝といる今は何故か落ち着いていた。陽の光が暖かく海からの風も心地いい。
「田原・・・。」
「なぁに?」
「今日はもう、余計なことは考えんな。頭と心をゆっくり休ませて楽になれよ。」 
「・・・わかった。」
 そよ吹く風が心地よく、史美は秀輝の隣で目を閉じた。

遠い I LOVE YOU

 ビジネス街は夜になっても賑わいは衰えない。
 家路へと急ぐ者、仲間たちと連れ立って飲み屋へと向かう者、右へ左へと沢山の人々が行き交っていた。
 高層ビルの中から仕事を終えた和明が、帰宅する人の流れと共に出て来る。人を探しているようで辺りを見回している。
「和明!こっち、こっち。」
 ビル入口の少し離れた所から眞江が呼んでいる。和明が駆け足で眞江の許へ向かった。
「ちょっと話があんのよ。」
「うん。」
 少し険がある眞江の言い方に和明は戸惑う。
「お酒でも飲みながら話さない?」
「おぉ・・・。」
 歩き出す2人の姿は、あっという間に雑踏に紛れて見えなくなった。



 2人が入った居酒屋は古き良き時代であった昭和を彷彿させていた。客層も若者よりも中高年が多い。
 店内は換気扇の排気がされていないのか、焼き鳥の煙が霧のように立ち込めている。眞江と和明は居酒屋のカウンターに肩を並べて座っていた。
「話って沙帆ちゃんのことだろ?」
 話を切り出さない眞江に、和明が待ち切れなくなって言う。
「アタシのところにも電話が来たの。田原のことを教えてって。」
「教えたのか?」
「教えるわけないじゃない。」
「そう・・・だよな。」
「ねぇ、あの子に何言ったのよ・・・。」
「何って・・・。篠塚の事、好きだっていうから・・・。」
「アンタ、篠塚の気持ち分かってるでしょ!」
 最後まで聞かなくても和明が何を言ったのか眞江には分かっていた。沙帆は眞江にもはっきりと秀輝への自分の気持ちを言った。和明と話をして、秀輝の気持ちを覚ますように後押しをされた筈なのだ。
「焚きつけるような事を言ったら、苦しむのは篠塚なんだよ。」
「そんな事ねぇ~よ。」
「何でそんな事言い切れるのよ。」
「だってあんな可愛い子が、好きだって言ってくれてんだぞ。」
「アンタ何年、篠塚の友達やってんのよ!」
「えっ?」
 眞江に詰め寄られ、和明は口籠ってしまう。
「田原には、女の子に縁のないモテない男って思われているけど、アタシ達はそうじゃないって知ってる。都合よく田原の誘いに応じられるのは、いつもそのために篠塚が時間を空けているからだってことも・・・。」
「だから俺は・・・。」
 眞江が和明の言葉を遮って言う。
「他の女に目が行くように、自分の事を好きだって言う沙帆ちゃんと付き合えば、田原を忘れられるかも知れないって思ったんでしょ。」
 和明は眞江に全て見透かされ言葉も出ない。
「普通の男なら、そうなるかも知れない。でも、篠塚は違う。違うじゃない。」
「俺はな、もうウンザリなんだよ。篠塚の辛そうな顔を見るのは・・・。」
 和明も秀輝の事を思い遣っていたのである。
「この間、古谷はあんな事言っていたけど俺はそうは思わない。田原以外にも、きっと同じことを思える女は必ずいる。いるはずだなんだよ!」
 眞江は横にいる和明を突き刺すように見つめる。
「アタシは、そうは思わない。」
 店の店員がヒートアップしている眞江と和明を、怪訝な顔をして見つめている。眞江と和明は、自分たちが店内にいる他の客から、注目を浴びているという事など全く気にしていない。
「・・・沙帆ちゃんだって、篠塚の事を本気で思っているんだよ。」
 苛立ち始めた気持ちを抑えようと、和明は一呼吸置いて眞江に言った。落ち着いて話した和明とは反対に、収まらない眞江はひたすらに訴え続ける。
「また沙帆ちゃんから何かあったら、篠塚のこと諦めるように言って・・・。」
「言えねぇよ、そんな事・・・。」
「わかった。じゃあ、これ以上何もしないでよ。ね!」
 和明は終始、眞江に圧倒され声もなく頷いた。



 沙帆は秀輝の実家のマンションを訪れていた。伊久子は沙帆の訪問に懐かしさを感じて喜んでいる。電話では何度か話してはいたが、実際会うのは10数年ぶりだ。
「突然、お邪魔してスミマセン。」
 沙帆は伊久子に促され、リビングのソファに座った。
「何言ってんの、遠慮しないで。」
 伊久子が顔をほころばせながらお菓子とお茶を運んで来る。
「お母さん、元気?」
「はい。ヒデ君の話をしたら母も懐かしがっていました。」
「リカちゃんは、もう結婚したの?」
 伊久子が沙帆の姉であるリカのことを聞いている。秀輝が昔、よく一緒に遊んでいた姉妹だった。
「まだ独身です。仕事が楽しいんですって・・・。」
「沙帆ちゃんより2つ上だったわよね?」
「はい。でも結婚する気なんて全然ないんです。」
「そう。」
「姉妹で彼氏もいないから、母も心配しています。」
「あ、ほら、遠慮しないで召し上がれ・・・。」
 沙帆は勧められたお菓子を手に取って食べる。
「秀輝とは、よく会うの?」
「いいえ。ヒデ君もいろいろ忙しいみたいで・・・。」
「忙しくなんかないわよ。しょっちゅう田原さんたちと遊んでいるもの。あ、田原さんていうのは秀輝のお友達ね。隣の棟に住んでいるのよ。」
 沙帆は伊久子から、史美の話が出て顔色を変える。
「田原さんて、ヒデ君の彼女か何かですか?」
「まさか!あんな可愛い子が彼女になってくれるもんですか!なってくれたらいいけど・・・。ま、無理ね。大体、秀輝とじゃ釣りあいが取れないし・・・。」
「そんな事ないですよ!」
 沙帆は自分でも信じられないくらいの声で叫んでいた。
「アラ、そ・・・そう?」
 沙帆のあまりの剣幕に伊久子もたじろいでしまった。
「あの子はね、小学校からの付き合いだからって、モテない秀輝にいろいろ付き合ってくれるのよ。優しい子でね、とっても面倒見のいい子なのよ。ん?あれ、沙帆ちゃん知っているの?」
「少し・・・。この間、ヒデ君に誘われてバーベキューに行ったんです。その時、彼女も・・・。」
「そう、沙帆ちゃんも、これを機に友達になれば?みんなとってもいい子たちだから。」
 沙帆は伊久子から、史美の情報をある程度得て秀輝の実家を後にした。



 バー/ホワイトデーに秀輝、和明、尊、眞江らが史美を囲んではしゃいでいる。眞江たちには、史美が俊一と一時のすれ違いから揉めていることを話していた。その後、俊一から史美へ何も連絡は来ていない。
「サーちゃん。なんかゴメンね。」
 史美は時間を割いて来てくれた眞江に、申し訳ない気持ちでいた。
「何が?」
「だって上尾君と、デートだったんじゃないの?」
「らしくないこと言わないでよ。うちはラブラブだから心配しなくても大丈夫よ。」
「そう?」
「アタシがここにいるのは知っているんだから、来たければ勝手に来るわよ。それに元々、田原の心配なんてしてないわよ。」
 ステージ上では、秀輝と和明が大声を張り上げ唄っている。
「だってアンタには、いっつもアイツがついているでしょ。」
 史美は、唄っている秀輝を見つめた。秀輝は相変わらず見え見えの行動を取る。今日も史美のことを励まそうと、秀輝がみんなを集めたのは明らかだ。
「・・・うん。そうだね。」
「でしょ?」
「なんかね。ホッとするの・・・あの人といると。馬鹿みたいに見え見えなんだけど、何故か元気になるの。」 
 その時、澄ました顔をして伸次郎が店に現れる。
「ほらね、来たでしょ。」
 史美は眞江の表情から、伸次郎に愛されているということを感じた。唄っている秀輝と和明に、伸次郎がハイタッチをして眞江の隣に座る。
「遅くなっちゃったよ。」
「呼んでないけど。」
「ん?あ、そう。」
 眞江が伸次郎に見えないように舌を出しておどけている。史美は眞江と伸次郎の微笑ましい光景に、思わず笑みがこぼれる。

“ 今日は、人の幸せがとてつもなく嬉しい 。”
 史美はそう思いながら、ステージ上の秀輝をジッと見つめていた。



 マンション前にタクシーが停まり、史美と秀輝、眞江と伸次郎が降りて来る。
 伸次郎が酔っている眞江を気に掛けて、側に寄り添い立っている。
 眞江と伸次郎の仲睦まじい姿に、史美と秀輝はほっこりしてる。
「今日は・・・なんかありがとうね。」
「何言ってんだ。そんな事より早く寝ろ。」
 乱暴な物言いだが、心配している秀輝の気持ちが伝わって来る。
「アタシの家が一番近いんだから何かあったら電話するんだよ。」
 史美の住むマンションの隣りが秀輝の実家であり、そのまた隣りの棟が眞江の住むマンションなのだ。
「わかった。・・・おやすみ。」
 秀輝たちに手を振りながら、史美はマンションロビーに入って行った。
 史美がエレベーターに乗ったことを確認すると、秀輝が眞江と伸次郎に深々と頭を下げる。
「今日は、ありがとうな。」
 秀輝の呼びかけとはいえ、史美を励ますために集まってくれたのである。
「やめてよ・・・。」
「上尾。」
「なんだよ。」
「・・・ありがとう。」
 秀輝と伸次郎は、奇しくも高校時代の同級生だった。秀輝が互いの共通の友人であったことは、偶然とはいえ不思議な縁である。
「なんだよ、水臭ぇーな。」
「でも・・・。」
「田原さんが眞江の友達なら、それは俺の友達でもあるんだぜ。」
「そうだよ。」
「ありがとう・・・。」
「ないとは思うけど・・・。もし、アタシのところに電話があったら直ぐに知らせるから・・・。」
「あぁ、頼む。」
「じゃあ、おやすみ!」
 眞江と伸次郎が去って行った後も、秀輝は史美の部屋を下から見ていた。史美の部屋の電気はまだ点いていた。秀輝は煙草に火を点け、携帯電話を取り出し保存してある写真を見る。写真の中の史美は、満面の笑顔で写っている。秀輝は煙草を吸い終えるまで、史美の写真を見つめていた。



   

 次の日、仕事を終えた秀輝は、俊一と会うために日比谷公園にいた。各省庁や銀行、各企業の本社などが日比谷公園を囲むように建ち並んでいる。周囲を様々な木々に覆われた公園は、昼間の喧騒とは違い独特な静寂感が漂っていた。
 秀輝が腕時計を覗き込んで時間を確認する。俊一は、まだ現れない。
 街灯の真下に立っているものの、多くの人が行き交う中で俊一を見つけるのは容易ではない。お互い気付かずにすれ違う可能性もあった。

“ 喫茶店とかにすれば良かった。”

 後悔しながら待ち続けると、暗がりの中から俊一が足早にやって来る。
「いつも待たせてすまないね。」
「いえ、とんでもないです。」
「話って何かな?」
「あの・・・。どうして田原に連絡しないんですか?」
「どうしてって・・・。」 
 秀輝から唐突に質問され俊一は戸惑ってしまう。返事を待っているのは、俊一であって史美ではない。俊一は連絡しなかったのではなく、待っていただけなのである。
「田原から聞きました。結婚のことでちょっと揉めてるって・・・。」
「揉めているわけじゃないけど・・・。」
「そう・・・ですか。」
「史美、篠塚君のところへ行ったんだ。」
「田原、別に佐古さんと結婚したくないわけじゃないんですよ。ただ、状況や環境が変わってしまうことが不安なだけなんです。」
 俊一は、ただ黙っている。
「それに、田原の学校が訴訟問題で色々あったことはご存知でしょ。田原、クラスの副担任だったじゃないですか・・・。」
「あぁ、知っているよ。だけど、もう騒ぎは収まったって聞いているけど・・・。」
「学校側が強引に収束させただけですよ。」
「・・・どういうこと?」
 俊一は怪訝な顔を秀輝に向けた。
「生徒は怪我を負ったままじゃないですか・・・。」
 俊一は判決が出た時点で、問題は解決したと思っていたのだ。秀輝に言われ、生徒のその後という肝心なことに気付いていなかった。
「田原が、その問題の生徒と連絡を取り合っているってご存知ですよね。」
「あぁ、詳しくは知らないけど・・・。」
「その子、漸ようやくリハビリも必死にやるようになって・・・。これから、それをずっと続けていかなきゃいけないんですよ。」
 何故、そんなに詳しく知っているんだというような顔で、俊一は秀輝を見つめている。
「史美は本当に、色んなことを篠塚君に話すんだね。」
「いや・・・あの、それは。」
「何だか・・・寂しいな。」
「それは多分、俺が暇人だからですよ。仕事で忙しい佐古さんに、余計な心配かけたくなかったんじゃないですか。」
「余計な心配?」
 秀輝の言う通り、史美にはそういった傾向が昔からあった。秀輝は、俊一を大切に思うからこそ何も話さなかったと言っているのだ。果たして本当にそうだろうか。
「とにかく田原、佐古さんからの電話を待っているはずですから。」
 秀輝は、俊一の顔色が変わったことに気付く。
 俊一は秀輝から視線を逸らして何やら考え込んでいる。
「佐古さん?」
 俊一は思考の迷路に迷い込んでいるのか動きが止まっている。秀輝の声は全く届いていないようだった。
「じゃ、佐古さん。田原のことお願いしますよ。」
 俊一からの返事を聞かないまま、秀輝は逃げるように帰って行った。一方的に話を  
 結論付け去って行った秀輝を、追いかけようと思うが足が動かなかった。



 史美は自分の部屋で携帯電話を見つめていた。
 俊一からの電話はまだない。
 何気なく携帯電話のアルバムをチェックする。アルバムには、先日のバーベキューの写真が数枚保存してあった。
 秀輝を写した写真を見て物思いにふける。俊一へのプロポーズの返事をしようとするが、どうしても二の足を踏んでしまう。まだ、その理由は分かっていない。
 もったいつけているわけではない、はっきりした理由が分からないまま、返事をしていいものなのか判断がつかないのだ。
 携帯電話に着信があり、驚きながらも電話に出る。
― 俺、篠塚・・・。―
「なに?どうしたの?」
― 佐古さんから連絡あったか?・・・。―
「ううん。ないけど・・・。」
― そっか・・・。―
「心配してくれているの?」
― そんなもんしてねーよ・・・。―
「アタシ・・・、俊ちゃんに電話するよ。」
 史美が俊一からのプロポーズに応えようとしていることが秀輝には分かった。
― そ・・・そうか。―
「うん。俊ちゃんから電話もらうのは、やっぱりおかしいし・・・。」
― そう・・・だな。―
「うん。」
― じゃ、頑張れよ・・・。―
 秀輝は、そう言って電話を切った。
 携帯電話を握ったまま、暫く放心状態になっていた。垂れ込めた雲のような虚無感が、重苦しく史美の心の中に漂っている。
 再び携帯電話に着信が入った。それは俊一からの着信だった。



 数日後、バー/ホワイトデーに史美たちが集まった。
 秀輝と俊一が、まだ来ていなかった。秀輝からは仕事で遅れるという連絡が、史美のLINEに入っていた。
「どうしたのよ。何か報告があるんでしょ?」
「うん。篠塚が来ていないから・・・。」
「仕事で遅くなるって、連絡入っていたんでしょ。」
「うん。」
「佐古さんは?」
「もうすぐ来ると思う。」
「報告ってさ・・・ま、なんとなく分かってはいるけどね。」
 眞江は和明と尊の様子を窺う。史美を祝ってあげなければという気持ちと、秀輝を思う気持ちが複雑な状況を生み出してしまう。
 そこへ、俊一が息を切らせて入って来る。
「申し訳ない。」
 遅れてきた手前、俊一は慌ただしく席につく。
「実はね。いろいろあってお騒がせしましたが・・・。アタシ、俊ちゃんのプロポーズを受けることにしました。」
 和明等3人は祝福の言葉をかけるでもなく、まるで示し合わせているかのように無言になってしまう。いずれこうなると分かってはいたが、秀輝の気持ちを知っている3人は締め付けられるように胸が痛くなる。俊一も祝いの空気感が漂ってこないことに少し困惑している。
「何?どうしたの?」
「どうしもしないよ。よ、良かったな・・・おめでとう。」
 和明たちの笑顔がぎこちない。
「なんか、皆には本当に迷惑かけたみたいで・・・。」
 秀輝がいないことに気付き、俊一は何気なく店内を見渡す。
「篠塚君は?」
「仕事だって・・・。」
 寂しそうに史美が俊一に伝える。俊一は史美に、秀輝に呼び出され説得されたことを話していない。ただなんとなく、話せなかった。理由は俊一自身も分からなかった。
「篠塚が来ていないけど、2人の婚約祝いを始めましょう!」
 和明がグラスを掲げて乾杯の音頭をとった。
「マスター、料理の準備お願いしま~す。」
 賑やかに宴が開かれる中、秀輝がこの場にいない違和感を史美は感じていた。



 史美と俊一の婚約祝いがホワイトデーで開催されている頃、秀輝は一人会社に残り残業をしていた。残業というほどのものではないが、どうしてもホワイトデーには行く気になれなかった。途中、幾度となく史美からLINEに連絡が入るが返事はしなかった。
 史美の結婚を祝ってあげなければと、頭で分かっていても心が体を動かしてはくれなかった。俊一は優しいし外見だって申し分ない、何より史美のことを大切に思っている。その上、一流企業に勤めるエリートだ。高給取りだから経済的にも将来、史美に苦労を掛けることなどないはずだ。幸せな家庭が築かれることは間違いないのだ。
 自分如きがしゃしゃり出て、史美のことを心配することもなくなるだろう。
「・・・これでいいんだ。」
 秀輝の携帯が振動で震えだし、LINEにメッセージが表示される。

“ まだ、仕事?無理しないで頑張ってね。”

 史美からLINEのメッセージが入る。
 涙が自然と込み上げてくる。幾度となく送られてくる史美からのLINEメッセージは、十数件にもなっていた。秀輝は携帯の電源を切った。
「これでいいんだ。」
 誰もいない静まり返った事務所で、秀輝は肩を小さく震わせながら静かに泣いた。



 ホワイトデーで行われた史美の婚約祝いに秀輝は出席しなかった。
 緊急の仕事でもないのに、終電ギリギリまで事務所に残っていた。史美の幸せを願わねばならないのに、祝いに駆け付けられない自分の器の小ささに苛立っていた。事務所を出る時に、苛立ちまぎれに壁に拳を打ち付けた。
 史美の事ばかりで考えて、自分がどうやって帰宅し何時に家に着いたのか全く記憶がない。帰宅しても秀輝は眠ることが出来ず、そのまま夜を明かしてしまった。出社する時間が来ても、心が思うように体を動かしてはくれなかった。始業開始時間5分前に連絡し、会社を休むことを上司に伝えた。秀輝の体調を心配する上司の言葉も耳に入らず、会話の途中で一方的に電話を切った。
 何もする気になれず、水さえも口にしていない。ベッドに横たわり一日中、自室の天井を見つめていた。
 アパートの住人の出入りが、部屋の中からでも明瞭に感じることが出来た。一日のサイクルも、早回し映像のように過ぎて行く。
 瞬く間に時間は流れ、外は陽が落ちて夜を迎えようとしていた。
 静寂の中、部屋のチャイムが突然鳴った。秀輝は鳴り響くチャイムに応対せず横になったまま動かない。しかし、しつこくチャイムは鳴り続けた。
「ねーっ大丈夫?」
 チャイムだけでなく、ドアを叩く音も聞こえて来る。
「ねぇ、アタシ。いるんでしょ。」
 聞き覚えのある声がドアの向こうから聞こえてくる。同時に秀輝の携帯がテーブルの上で、ブルブルと震えだし暴れている。
「大丈夫?篠塚!」
 それは史美の声だった。
 史美の声を聞き、秀輝は反射的に飛び起きた。そして、あれほど動かなかった体が、信じられないくらい軽快になっていた。
 ドアを開けると史美が心配そうに立っていた。
「なんだ・・・どうした?」
「それは、こっちの台詞だよ!LINEも既読にならないしさ。」
 史美は、やつれた顔で現れた秀輝に衝撃を受ける。
「・・・ごめん。」
「あ・・・ううん、大丈夫ならいいよ。」
 いつものように明るく元気な秀輝ではなかった。
「どうしたの?」
「体調不良ってやつだな。」
「仕事、そんなに大変だったの?」
 立っているのがやっとのようで秀輝は壁に手を置いていた。
「ちゃんと食べてる?」
「あぁ・・・。」
 玄関から見える台所に使われた形跡はない。
「嘘。食べていないんでしょ。」
 秀輝は俯いて無言のままだ。
「何か適当に作ろうか?」
「いいよ。食欲ねーんだ。」
「体調崩しているなら、実家に帰ればいいのに・・・。」
 一瞬だけ秀輝の表情が曇る。
「帰りづらいなら、アタシがついていってあげるから。」
 秀輝は睡眠不足のせいで、瞼がくぼんだようになっている。
「アンタ、寝ていないんじゃない?」
 史美の推察通りなのか、秀輝の返事がない。
「ちょっと、上がるよ。やっぱり何か作る。」
「ちょ、ちょっと待てよ。」
「何よ、食べなきゃ元気出ないでしょ。」
「アホか、お前は。婚約したんだろうが・・・。」
「だから何よ。」
 史美は口を尖らせて、秀輝に突っかかる。
「婚約中の女が、他の男の家に夜フラフラ上がったりしたらおかしいだろ。」
「アンタ以外の男ならね。」
「大丈夫だよ。普段、真面目に仕事したことないから体がビックリしただけだよ・・・。」
 いつものように冗談を言っている秀輝に戻ったように見える。しかし、史美はどこかモヤモヤした気分になっていた。
「今日一日、ゆっくりしたからよ。」
「ホントに?」
 心配そうに覗き込む史美の顔は、今にも泣きだしそうだった。
「あ、ウェルカムボードなら心配すんな。式当日までには間に合わせっから・・・。」
「・・・うん。」
 一応返事はしたものの、そんな事はどうでも良かった。
「やっぱり・・・。中、上がっていくか?」
「えっ。」
「冗談に決まってんだろ。」
「バ~カ。」
 史美と秀輝は顔を見合わせ吹き出すが、2人の間に少し気恥ずかしさが出て黙り込む。コンマ数秒の間(ま)が、スローモーションのようにゆっくりと過ぎていった。
「か・・・帰るね。」
「田原。」
 秀輝に呼び止められ振り返る。
「婚約、おめでとう。」
 絞り出すような秀輝の声に、史美は何故だか涙が出そうになった。帰る道を何度となく振り返る。秀輝はドアを開けたまま、まだ史美を見送っていた。角を曲がり見えなくなるまで、部屋のドアは閉まる事なく開いたままだった。



 沙帆は電話もLINEも繋がらない秀輝のことが不安で、気持ちが落ち着かなかった。居ても立っても居られなかった沙帆は、躊躇することなく和明に連絡していた。沙帆は和明から、史美が俊一と婚約したことを聞く。

“ ヒデ君、きっとショックを受けて・・・。”

 沙帆は仕事を早退して、秀輝のところへ向かった。秀輝の住むアパートに着くと、部屋のチャイムを鳴らす。電話と同様に何度鳴らしても応答がない。
「ヒデ君!アタシ、沙帆!開けて。」
 沙帆は叫びながら、何度もチャイムを鳴らした。
「ヒデ君、どうしたの?開けて!」
 沙帆の声に隣人が迷惑そうにドアを開けて睨んでくる。睨んでいる隣人の圧力など気にもせず、沙帆は部屋の中の秀輝に向かって呼ぶ。
「開けて!ヒデ君、お願い。」
 部屋の中から微かな音が聞こえ、ドアの鍵が開けられる。沙帆は鍵が開くと同時に部屋に入った。
 すっかりやつれ唇も乾いた状態の秀輝が立っている。
「ヒデ君!」
 フラついて立っているのがやっとの秀輝を、沙帆は思いのまま抱き締めた。支えながらベッドまで運び秀輝を寝かせる。
「大丈夫?」
「沙帆ちゃんか・・・。」
「どうしたの?何も食べてないの?」
 沙帆の呼びかけに答えられないほど秀輝は憔悴しきっていた。
「病院、今救急車呼ぶから・・・。」
 電話を掛けようとする沙帆の手をつかむ。
「そこまでじゃないよ。」
 か細く笑う秀輝に沙帆は涙が込み上げてくる。
「お粥でも作ろうか?」
 秀輝はゆっくりと首を横に振った。
「今、作るから待ってて・・・。」
 意識が朦朧としながらも、秀輝は台所に向かう沙帆の後ろ姿を見つめていた。



 また秀輝のLINEが、なかなか既読にならない。以前とは違う秀輝の様子が気になっていた。以前は既読になるのに時間は掛からなかった。昼休みなど空きの時間を見つけては、携帯のチェックをしていた。

“ 婚約、おめでとう。”

 秀輝の寂しそうな笑顔が、史美の脳裏に焼き付いている。

“ これで最後みたいな言い方・・・。”

 史美には、そう聞こえてしまった。秀輝のアパートからの帰り道は、世界に一人ぼっちされる感覚に襲われていた。
 学校の業務を終えた史美は、不安を抱えつつも約束をしていた俊一と会うためにファミリーレストランに向かっていた。婚約したからには、いよいよ結婚に向けての準備をしなくてはならない。式場選びや結納など決めなくてはいけないことが山積している。
 ファミリーレストランは長時間居座っても問題なく、打ち合わせをするにはもってこいの場所だ。先に到着していた俊一は、様々な資料や雑誌を持参していた。
 食事を簡単に済ませ史美と俊一は、手持ちの資料を広げて情報収集を始める。
「式場っていっても、ホント色々あるなぁ。」
 今の時代、結婚式を挙げる場所も様々である。スキューバダイビングでの水中結婚式なんていうのもある。式場は、海の中というわけだ。
「スカイダイビングっていうのもあるな。凄いや・・・。」
 雑誌を見て盛り上がる俊一をよそに、史美はやつれていた秀輝の顔を思い出していた。具合が良くないのに、やせ我慢をしていた秀輝が心配だった。

“ やっぱり強引にでも何か食べさせるんだった。”

 史美は秀輝の顔を見ただけで、帰ってしまったことを後悔していた。
「お皿をお下げいたします。」
 ウエイトレスの声に、史美はふと我に返る。先程から結婚について矢継ぎ早に話す俊一の存在を忘れていた。
「だから休みの日を使って、式場選びをしないとな。」
「ん?・・・うん。そうだね。」
「それから、史美のお父さんとお母さんに挨拶もしたいし・・・。」
「・・・うん。」
 気乗りしない史美の返事だった。
「ん?忙しいのか?」
「ん?うん・・・そういうわけじゃないけど。でも休みの日を全部、準備に充てるのはちょっと・・・。」
「どうして?」
「琢磨くんのバスケの練習があったりするから。」
「琢磨くんって確か・・・。」
「うん。怪我をした男の子。」
「え?まさか、観に行っているわけじゃ・・・。」
「観に行ってるよ。・・・本人は知らないけど・・・。」
 裁判沙汰になった児童の家族に、過剰に接している史美に俊一は驚きを隠せない。
「マズいだろ・・・そんなことをしていたら。」
「分かってる。」
「それなら、どうして?裁判にもなって争ったんだろ?史美の行動次第では、どんな手段に訴えてくるか分からないだろう。」
「そんな事にはならないよ。アタシと学校は関係ないもん。」
「そうはいかないよ。」
「琢磨くんのご両親は、そんな人じゃないよ。」
「何でそんなことわかるんだよ。裁判を実際に起こした人間じゃないか。史美を糾弾して、裁判でも起こされたらどうするんだよ。実際、金目当てに裁判沙汰にすることだってあるんだ。」
 結婚という自分たちの未来があるというのに、自ら藪を突(つつ)くようなことをする史美が俊一には理解出来なかった。
「そんな風に言わないで!。」
「な、どうしたんだよ。」 
「大事な大事な子供が大怪我をしたのよ。障害が残って車椅子生活なんだよ。そのせいで夢も希望もいっぺんに失ったの・・・。」
 史美の迫力に俊一は言葉を失って黙り込む。
「それなのに・・・。それなのに学校側は謝罪もせず、一方的に子供に全てを押し付けたのよ。裁判だって子供を守るために、起こしたのよ。」
「だからって・・・。」
「琢磨くんは、やっと希望を掴んで前に進んでるの。だから、アタシは応援したい。力になってあげたいの。」
「でも、その子の両親が理解してくれるかどうか・・・。」
「アタシには、分かるの。ちゃんと話せば気持ちを分かってくれるって。篠塚だって、そう言ってくれたの。」
 史美は真っ直ぐで力強い目で俊一を見つめる。それは今まで見たことがない史美の姿だった。

 


 食事を終えた史美と俊一は、タクシーに乗り帰路についていた。史美と俊一は先程の気まずさから会話が無くなっていた。
 隣に座る史美を横目で見ると、しきりに携帯電話のLINEをチェックしていた。俊一に気付かれないようにしているつもりなのか、時折外の景色を見ているフリをしている。手を繋ぎ寄り添ってはいるが、互いの心の距離がとても遠く感じる俊一だった。
「史美。」
「ん?」
「愛してるよ。」
「・・・ありがとう。」
 そう言って史美は軽く微笑んだ。そして、また窓の外を眺めている。その言葉は俊一の心に衝撃を与えた。

“ ありがとう ”

それは俊一が期待していた言葉ではなかった。涙が込み上げてくるのを、俊一は唇を噛んでグッと堪えた。

“ 史美・・・。”

 顔は前を向いているが、心で何度も史美の名前を呼んでいた。念じるように何度も呟く。しかし、史美の家に着くまで2人の間に会話はなかった。



 先日の一件以来、沙帆は秀輝の部屋を度々訪れていた。沙帆は甲斐甲斐しく、秀輝の身の回りの世話をしている。沙帆の看病もあってか、秀輝は食欲も回復し元気を取り戻していた。しかし、気持ちは未だ回復はせず、仕事を5日間休んでいだ。
「ねぇ・・・今日は何食べたい?」
 大切な人のために過ごす時間は、沙帆にとって何事にも代え難い幸せな時間だった。しかし、どんなに明るく振る舞っても秀輝の顔は笑顔にならなかった。
「ヒデ君。」
「ん?」
「怒らないでね。」
「うん。」
「田原さんのこと、考えているの?」
「いや、そんなこと・・・。」
 見え見えの嘘が沙帆には分かってしまう。
「田原さんは、婚約したのよ。いつまでもヒデ君が想っていても、何もならないのよ。」
 婚約という言葉に衝撃を受け、一時は絶望的な気持ちになっていた。しかし、元々史美と付き合えるなどと思ってはいないのだ。史美と自分とでは、見た目も中身もあまりに違い過ぎる。自分のような男が側にいるのは、史美にとっても迷惑なはずなのだ。
 それなのに、婚約という言葉だけで自分の道を見失いそうになっていた。俊一は大手企業に勤める将来有望のエリート社員だし、必ず史美のことを幸せにしてくれるはずだ。
 俊一と結婚すれば今まで通りに会えなくなるかも知れない。でも、それなら今までとは違う方法で史美を見守ればいいのだ。秀輝は、やっとそれに気づいたのだった。
「沙帆ちゃん、ゴメンね。この数日間、見っともない姿を見せちゃって・・・。」
「何言ってんの。アタシは嬉しかったよ。ヒデ君が、アタシにも弱いところを見せてくれたから。」
「ゴメン。」
「ヒデ君・・・。」
「でも、田原のことは諦めるとか、そういう問題じゃないんだ。」
「どういうこと?」
 秀輝は黙っていた。沙帆も何故、秀輝が黙っているか分かっていた。

“ 史美以外の人は愛せない。“

 秀輝はそう言いたかったのだ。言葉に出さなくても、気持ちを察してほしいと願っているのである。
「・・・ヒデ君。」
「ゴメン。」
 秀輝の目に涙が浮かんでいた。

鈴蘭の薫り ~・Everything is you・~

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ひとりの人を・・・ずっと想い続けることが出来ますか?

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更新日
登録日 2021-07-10

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