戦場に響く月光
『塹壕の生活は過酷なものと思っていたけれど、以外と快適でよかったよ。激しい銃撃戦はなく、毎日が穏やかに流れているので心配しないでください。
親愛なる妻へ
オットー・ブルックナーより』
と手紙を締めくくり、ペンを置いて郵便配達人に手渡した。外の空気が吸いたくなって、地下から階段を上がり、外に出た。空を見上げると、月が天高く上っていた。
綺麗だと思い見上げていると、どこからか美しいピアノの旋律が聞こえてきた。よく聞くと、それは敵の塹壕から奏でられている。曲名は月光だ。そろそろ就寝時間なので地下に戻ったが、あの美しい旋律は耳に残り、また聞きたいと思った。
*
1日は平和な朝から始まる。朝食後、持ち場について、機関銃の引き金に指をかけるが、敵は1発の銃弾や砲弾を撃ってこない。相手が撃たなければこちらも撃たないというのは戦場での不文律だ。敵味方を問わず進んで戦おうという酔狂な人物なんてどこにも存在しない。
昼になると、炊事の煙が両陣営からもくもくと上がる。すると、敵の塹壕から何人かやってきた。攻撃するのではなく、ご飯を食べにくる。別に変わったことではない。こちらも何十人もの兵士が、飯時に敵の塹壕を訪れて、一緒にご飯を食べている。
そういう日常で本当によかった。他の戦線では銃弾の応酬、砲弾は雨あられのごとく降り注ぐのが日常だ。
夕食の時も彼らは来る。彼らの中には僕の友達もいるので、一緒にご飯を食べた。食事中、あの月光を誰が弾いているのか気になり、彼らに聞いてみた。
「それ僕です。気に入ってもらえましたか?」
と彼らの中でもっとも背の低い男が言った。名はレイモンド・フォッシュ。幼さが残る顔立ちで、表情は常に穏やか。実家は医者で、家業を継ぐつもりらしい。
ピアノの演奏を褒めると、彼は照れくさそうに僕から目を逸らした。
「ああ、これからも弾いてほしい」
そう言うと彼は微笑んだ。この日の夜も月は美しく輝き、ピアノの旋律がそれを引き立てた。
*
5日後、昼食にも夕食にも彼らは来なかった。今日も塹壕で月を見ていると、ピアノの美しく繊細な旋律が夜風に運ばれてきた。しかし今日は月光ではなく別れの曲だった。旋律は柔らかく、聞く者の心に染み渡るが、どこか悲しさを覚える旋律だ。
聞き終えて、地下のベッドで眠りに落ちた。眠りの静寂は突如破られた。けたたましいベルに起こされて、慌てて持ち場についた。
「ったく、俺の安眠を邪魔しやがって」
僕の隣にいる戦友は、眠い目をこすりながらぼやいている。
「安眠の妨害は重罪であることをやつらに教えてやりましょうよ」
「おうよ」
僕の発言に、戦友はそう答えた。
満月に照らされた敵軍は、何か叫び声を上げながら、こちらの塹壕を目指して突撃してくる。それを追い払うべく、僕らは機関銃の引き金を引いた。今まではただの鉄の塊でしかなかったそれは、己の職分を思い出したように銃弾を吐き出し続けた。空薬莢が機関銃から溢れ出て、冷たい塹壕の地面に音もなく転がる。
太陽が戦場を照らし始めた頃には、塹壕の間に広がる平原は、敵兵の亡骸で埋め尽くされた。 その後、夜に美しい旋律が運ばれてくることはなかった。あれは僕に対する“別れの曲”だったのだろうか。
戦場に響く月光