名前も知らない【18】

古瀬

名前も知らない【18】
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18-1

18-1

 嵐が通り過ぎたように、胸の中が静かになっていった。引き攣ったような痛みが引いて、次第に五感が戻ってきたような気がした。熱や光、河川やアスファルトの匂い、車の音。
 少しずつ我に返ると同時に、僕は腕を緩めた。
 力を込めすぎないようにとどこかで思っていたものの、それでも苦しかったかもしれない。
「ごめん、痛かった?」
「大丈夫」
 彼女はいつもの調子でそう言って、小さく背伸びをした。大雨が通り過ぎたあと、雨宿りしていた場所からそっと抜け出したみたいな表情だ。僕の鼻の頭に軽く唇を押し付けて、撫でてあげたいけど動けないな、とぽつんと告げる。
「終わって良かったね」
「顔見たら、疲れ吹っ飛んだよ。比喩じゃなくて」
 僕の言葉に、彼女はそっと笑ってもう一度身を寄せてきた。
 ほんの少しだけ、僕によりかかるみたいに。

 裕道の運転で、十時過ぎにむこうを出たらしい。
 正午にはこちらに到着していて、名物の店で食事をしてから地元をドライブしたと言っていた。
 亮太のお家も通った高校も只野くんが見せてくれたと言うので、俺がいる時でも良かったのにと小さく抗議した。実際は、不思議さと妙な照れが入っていただけだった。彼女の目に映った、僕の過去。

「ここ、いいところだね。見晴らしもいいし、広々してて」
「なんで河川敷なんだろうとは思ってたんだけど」
 まあ、病院の前よりはましか。身内と鉢合わせになるのも気まずい。
「そろそろ終わって出てくるだろうからって、わたしだけここで下ろしてもらったの」
「裕道って、こういう時に妙に気が利いていやだな」
 僕の憎まれ口に、彼女はこら、と言いながらも笑っていた。子供じみた照れ隠しだ。父とは長く不仲で兄もいなかった僕にとって、裕道の存在は決して小さくなかった。祖父の会社とは無関係の、利害関係のない従兄。
「それで、あいつは?」
「自由行動だって。十六時に南口のロータリーに集合」
 大方、近くでスロットにでも勤しんでいるだろう。
「修学旅行みたいなこと言うね」
「楽しそうだったよ」
 少しおかしそうに千紘は言った。
 裕道とふたり、半日近く何を話していたのだろう。

「まだ、二時間くらいあるな」
 スマートフォンの時計を確認しながら、地元で彼女と時間潰しをすることになるなんて、と思っていた。ここからは、駅まで十分くらいだろうか。
「こんな時だけど、少し観光する?」
 言いながら、僕も現金だなと思った。まだ水すらろくに飲めないでベッドに拘束されている父親を置いて、自分を迎えに来た恋人の手を取ってどこに連れていくか悩んでいる。実際は、時間内で遊べる場所で彼女に勧められる何かがあるわけでもないけれど。
 彼女はちょっと驚いた顔をしたけれど、ほんの少しいたずらっぽい表情で頷いた。

 その日、裕道と駅前で合流するまでの彼女の様子は全部覚えている。ずっと目を離さなかったから。
 周辺を案内しながら、数年前に出来た小さなカフェに入って向かい合わせに座ったこと。泡の浮いたコーヒーを飲んでいた姿や、土産物屋に立ち寄って僕の隣で名産品を物珍しそうに眺めていた様子、それから駅前のベンチに並んで腰を下ろして裕道を待つあいだ、彼女の髪の揺れていた形も。
 そんなに見ないで、と千紘は繰り返したけれど、効き目がないことを悟ったのか途中からは何も言わなくなった。僕はいつもみたいにふざけることができなくて、どこにいても普段ほど饒舌にはなれなかった。
 彼女の姿を、目でずっと追いかけていた。この人がここにいることが不思議だった。とても小さくてあかるいものが、暗がりの中に突然飛び込んできたみたいに思えたのだ。千紘がそこに立っているだけで、景色を伝って過去の自分までほのかに照らされるような気がした。
 夕暮れの駅前ロータリーに裕道は機嫌よく戻ってきて、僕を見つけると「よう」と片手を上げた。父のことはすでに絢乃から教えたらしい、多くを聞かれることもなく行くぞと僕達に声をかけた。車内は普段と変わらない雰囲気で、いつもの僕達らしい会話が繰り返された。

 裕道はそのまま、マグノリアハイツまで僕達を送ってくれた。
 ふたりとも疲れてしまったのか、荷物を降ろして上着を脱ぐともう力が入らなかった。ソファに収まるようにぴたりとくっついて、そのままいくらも話さないうちに眠ってしまっていた。目が覚めたのは二十一時近くて、結局いつかのようにデリバリーで軽く食事を済ませた。
「疲れてるなら泊まっていってもいいのに」
 千紘はそう言ったけれど、明日が早いことを告げて帰ることにした。明日からまた日常が戻ってくる。そう望んでも、望まなくても。
 一日の礼を告げて、僕は部屋を出た。

 ハイツから駅に向かう坂を下りながら、夜の町の景色を眺めた。
 この高台から少し下れば住宅街が、そのさらに先にいつもの駅がある。人の行き来は多くない、静かな場所だ。
 半日前とは、まるで別の自分になっているような気がした。
 どんなふうに変化したのかは、まだわからない。それでも、僕の中にあった何かが確かに変わっていた。気持ちは軽くて、それでいてどこか頼りなかった。気を抜くと、じんと景色が染みてくるような、無防備に脆いような状態だ。
 周囲が妙に優しいように思えて、不思議だった。
 

 戻ってきた日常は、穏やかだった。
 あの感情の波にさらわれて僕の中にあったものがひとつ去り、その後に訪れたのは以前より少し落ち着いた気分で続く毎日だった。エディフィカンテには春から新規入会した生徒達が集まり、新しい講師がひとり増えた。大人向けのジャズダンスクラスで、麻子も一コマレッスンが増えたらしい。僕は変わらず雑務全般のスタッフで、変わったようで変わらない日々を過ごしていた。
 休みの日は、ほとんど彼女と一緒にいた。ふたりでピザを焼いたり、リビングの窓辺で小さなワインボトルを開けたり、ソファに寝そべって古い映画を観たりもした。
 夕方に軽いウォーキングを始めたとかで、千紘は以前よりも雰囲気が少し活発な感じになっていた。基本的には物静かな人のままだったけれど、以前よりもしっかりしたような印象を与えるようになった。少しの遠出もこなすようになったし、この頃は仕事の量も増やしたらしい。
 貯蓄が空になる前に少しずつでも前に進まないとね、と、いつもの調子で言っていた。
 ぽつんとしたような、それでいてどこか陽気な口調で。

 
「自由だ」
 彼女のベッドの中で、思わずそう言っていた。互いに何も身に着けていない、呼吸も落ち着いたその後の時間に。
 薄い毛布の中とはいえ全裸で大の字になって言ったそれに、彼女は何となく別の意味を見出したようだった。噴きだしたように笑っている。
「今、何か誤解が生まれたような気がするんだけど」
「一瞬そうなったけど、ちゃんとわかってる」
 うつ伏せになって、自らの頬にかかった髪を耳にかけている。
「別に、何も変わってないんだけどな」
 天井を見上げてみる。あまり多くの色がない部屋だ。その手の施設が好きではない僕の恋人は、こういうことのためだけに場所を変えたいとは言わない。
「内側が変わったから、外が違って見えてるの?」
 ほんの少し眠そうに、彼女が問う。あまり多くを話すつもりはないらしい。
 たぶんね、と返事をしながら寝返りを打ち、僕は彼女の肩口に頬をつけてみる。小さくて、肌は変わらずなめらかだ。身体のつくりが違いすぎるような気がして、時々戸惑う。

 以前は、あの町やあの頃の自分と遠くに行けば行くほど自由になれた気がした。あの頃の記憶を置き去りにして、どこまでも遠くにいけることが僕にとっての自由だった。
 自ら得に行くしかなかったそれが、今は当たり前のように自分の中にある。誰にも侵されず、脅かされず。

 父親の回復は順調だと、妹から聞いている。発覚時に病がそこまで進行していなかったことから、日常生活を取り戻すにはそう長い時間が必要ではなさそうだ、とも。
 病院のベッドに座る父とそれに寄り添う母の姿が送られてきても、心は以前のように揺れなかった。
 そこに映っていたのは、もう僕にとって脅威になるような存在ではなかった。年老いて痩せた、ベッドに背を丸めて座る頼りない初老の男だった。
 父は認められたかっただけなのかもしれない。そう思うこともある。
 喜朗伯父は求心力のある人で、彼に必要とされる人物は皆とても優秀だった。二男の裕二、三男の達夫、どちらの弟にも彼は目をかけていた。祖父の創った会社を愛していたし、それぞれの持つ特性で大きく貢献していたから。それが望むようにできなかった父はいつでも半人前の存在で、末っ子として甘やかされながらも決してその三人の輪の中には入れてもらえなかった。
 父のことを、哀れに思わなくもない。
 けれど、それ以上の存在に戻ることも、たぶんない。
 僕と父の距離は、きっとこれからも縮まることはないだろう。たとえ再び何らかの危機が僕達家族を襲ったとしても。
 生きているうちは、きっとずっと平行線。
 僕にはなれない父と、父にはなれない僕のまま。
 
 すぐ隣で横たわる、温かく小さな身体を抱きしめる。大好きだ。そう思う。
 仕方のないことであふれた場所で、そうじゃないものを探してずいぶん遠くまで行ってきた。
 耐えられなかったから。あのまま、ここは何の救いもない場所だと思ったまま生きていくことなんて、到底できなかったから。目の前に用意されたものではいやだと、駄々をこねる子供みたいに。
 そうやって、僕は何かを探していたのだろう。
 僕の中に眠る、これだと思える何かを喚起してくれるもの。
 千紘の中にそれがあって、僕に向かって流れてきたのだろうか。それとも、彼女からもたらされたインパクトやインスピレーションが、僕の何かを起こしたのか。
 わたしは何もしてないよ、と彼女は言う。ただここまで何とか生きてきて、ああいうタイミングで亮太に出会えただけ、と。あなたが何かに苦しんでいたことすら、わたしにはよくわかっていなかったくらいだから。
 それが良かったんだよ、と答えた。
 隠していたし、暴かれたくなかった。無理にひらかれてしまうのも、望まない方向に落ち着かされてしまうことも避けたくて、僕はその場所を閉め切って長いこと開けずにいたのだ。彼女が現れるまで。

18-2

「わたしには、今の生活はご褒美だなあ」
 うつぶせに横たわったまま、千紘が呟いた。
「それ、俺がうまいって話?」
 白い背中にむかってとぼけて訊くと、目を大きくしてゆっくりと僕のほうを向いてくる。すみません、と答えた。
「これからもずっと、厳しいところを歩いていくしかないのかもって、思ってたの」
 話の腰をくだらない冗談で折られてしまったことに少し機嫌を損ねたらしい。わずかに怒った声で告げられてしまった。
 悪かったって、と謝罪を繰り返しながら思う。時折、こういうことを言うんだよな、と。
 簡素だけど趣味の良い部屋に住み、好きな仕事ができている生活だ。彼女に手を貸したいと思っている人がたくさんいて、一見しただけなら幸せそうに見える。本人も確かにそう思っているのだろう。
 それでも、まだ彼女の中には何かに耐えながら進む意識が残っている。
 癖みたいなものだと本人は言う。一番大変だった時期の姿勢が残ってしまっているだけ、と。

 ――実際はもうあんなに闘わなくてもいいんだけど、少し心配な状況になったりするとね、ついあの頃の「これから全部自分で何とかしなくっちゃ」っていう思いを繰り返してしまう。自分が思うよりもわたしの心や身体は良くなっていて、昔よりもずっと安心できる毎日を送っていて、一緒にいる人達も、起こる出来事も全部が良くなってきているのにね。伸るか反るかでやっていたわたしが出てきちゃうのね。

 実際は何てことないまま問題が解決して拍子抜けしてしまうこともある、と言って笑っていた。 
 僕が彼女の健康や生活を守りたくてすることに、千紘は時にじんと涙ぐむ。昔の誰にも守ってもらえなかった時代の記憶に触れるからだ。どうしたの、と尋ねたのは最初だけで、最近は気づかないふりをするのにも慣れた。少しずつ、こっちが当たり前になればいいと思う。
 家事や仕事をしながら千紘が歌う、小さな鼻歌が好きだ。鏡を見ながら薄い色の口紅をひく仕草や、届いた書類や文庫本を読んでいる時の横顔が。僕が好きな大きいカップラーメンを食べたがって買うくせに、出来上がったら怖気づいて小さな器に自分のぶんを移して残りをしれっと押し付けてくるところも、フルーツフィナンシェが好きで、買ってくると目を輝かせて喜ぶところ、亮太のことは愛しているけれどパイナップルだけは譲ってあげられない、と袋をふざけてぎゅうと抱きかかえるのも。
 やわらかな肌も、胸から腰にむかうなだらかな曲線も、ひんやりとした太腿も。
 ベランダに並んで立っている時に小さく揺らす右足のかたちも、仕事の終わりにデスクの前で両腕を伸ばしている様子も、花の水を入れ替える姿も。
 彼女の知っている喜びも、今は心の深くに沈む悲しみも。
「もう、そんなこと起きない」
 彼女の身体に腕をまわしながらした断言に、千紘は頷いた。
「起きないよ」
「うん」

 何度折れたって、しゃがんで泣いて泣きつくして、それでも再び立ち上がって次の一歩を選び続けられたら。少しでもあかるい方へ、優しい匂いのする方へと歩みを進めることができたら。
 それを繰り返し続けたら、人は思った以上に遠いところまで行けるのかもしれない。ひどく無防備に、僕はそう思うようになっていた。
 もちろん、そう簡単な話じゃない。この世界には僕達には計り知れない数の暗い渦があって、その一部を飲み込んでしまったり、逆に飲み込まれたりすることだって珍しくないから。
 僕達が滞在しているのは、歩き続けるだけで骨が折れるような場所でもあるから。

 それでも、もしも遠くのほうに瞬いた何かが自分を呼んでいるような気がしたら。
 どんなに遠くからでも、そこを目指す人もいる。
 たとえその目に見えない歩みの厳しさを誰にも気づかれなくても、そこで起きた震えや恐怖や、何とか身から絞りだした強さの数を誰にも理解されなくても。

 いつかの僕達は、確かにひどい場所にいた。
 油断のならない、いびつで難しい、常に何か大事なものを狙われているような場所に。
 そこを何とか抜け出して、少しずつ生きる世界を塗り替えて、その先に待っていたものがこんなに心を切なく照らすなら――。
 僕達のやってきたことは、たぶん間違ってはいなかった。



「うっわ、ホリーのスーツ姿、やっば」
 麻子は大げさにそう言って、オーバーアクションで両手を使って顔を覆った。指の隙間から凝視されていることに気が付いて、見過ぎ、と言い返す。
 観念した気分をどこかで持ちながら購入した初めてのビジネススーツを身に着けて、僕はエディフィカンテの事務室に立っていた。
「ところで、やばいってどっちの?」
「彼氏がいなかったらよだれ出てたかも」
 麻子はふざけて手の甲で唇を拭く真似をしている。スーツフェチらしい。知らなかった。
 セクハラだぞ、と答えたけれど、彼女は当然聞いてはいなかった。

 エディフィカンテを辞めて派遣の仕事をすると決めたのは、やはり雄大くんの件がきっかけだった。
 彼と特別仲の良かった生徒のひとりは、別れを受け容れられなかったらしい。レッスンを辞めて都内に引っ越してしまった雄大くんとその後も連絡を取り合っていたものの、順応力の高い子供だった雄大くんから便りがなくなるまではそう長くなかった。
 気落ちしたその子は、私生活でいくつか問題行動と呼ばれるものを起こした。抱えきれなかったストレスがあふれてしまったことが原因だと誰の目にもあきらかだったけれど、一度彼を揶揄した生徒と取っ組み合いの喧嘩をしたらしい。
 雄大くんのいないスクールでけがをするような喧嘩をしたことで、彼の中でレッスンに対する意欲は枯渇してしまったのかもしれない。気まずい退会手続きがあったことを教えられて、ここまでにしておこう、と思った。
 次のバイト先を探さなくてはと思っているところで、求人情報の中に知っている旅行会社のものがあった。国内旅行の添乗員で、柏駅から歩いて五分ほどの場所にある事業所だった。雇用形態だけが気になったものの、最終的には派遣会社が用意した応募フォームに名前を打ち込んでいた。
 そこからの展開は早かった。
 裕道と千紘に付き合ってもらって飛び込むように量販店へと入り、ビジネススーツを二組購入した。裕道には「ついにおまえもこの恰好に捕まったか」と言われてしまった。そんなふうに僕をからかいながらも、彼は別の日に僕を自分の店へと呼び出してアイロンの要らないワイシャツと靴下をプレゼントしてくれた。

「わたしの代になるまで付き合わせようと思ってたのに」
 麻子が腕を組んで僕を睨む。もちろん冗談だ。ひとり気楽なフリーター暮らしをするには充分なバイト先だったけれど、それ以外の生活を望むとなると互いに厳しい環境でもある。
「なんだよ、俺には友達として出会いたかったって言ってたくせに」
 これからそうなるんだからいいだろ、とすっかり馴染んだオフィスチェアに腰を下ろしながら告げると、麻子は勢いをなくしたようにそうだけど、と口ごもった。
「あんたと冗談言いあいながら仕事したかったんだもん」
 高い場所でひとつに結んだ髪を揺らしながら、麻子は言った。
 本当は自分も講師見習いという名目でこのスクールにいたはずなのに、大して立場も変わらない僕を「初めての部下」と言い切りあれこれと雑務を命じてきたのが麻子だ。時に若き後継者らしからぬ態度を喜和子先生にたしなめられつつ、彼女と僕のペアはここのひとつの名物だった。

「正直、勿体ないなとは思ってたんだけどね」
「何が」
「思いっきり仕事できるようなところに置いたら化けそうだよね、って喜和子先生と話してたから」
 言いながら、麻子は僕にいつものインスタントコーヒーが入ったカップを手渡した。
 もうマイカップは持ち帰ってしまったから、来客用のシンプルな陶器のものだった。

 そんなことを言われていたとは思わず、返答しないままカップを受け取った。
 麻子は知らなかったでしょ、と小声で続けて、自分のカップに口をつけながら自らの席に腰を下ろした。
「ホリーはさ、五十で海沿いに引っ越してコーヒーショップ始めても何も不思議じゃないタイプだけど」
 ぐるりと椅子を回転させて、彼女はいつものように足を組んでいる。
「でも、一度くらいは化けてきなよ」
 正社員登用の制度がある会社だと、麻子には話していなかった。派遣会社の職員に、そういうサポートもしていきます、と言われたことも。
 以前の僕なら受け容れられなかった言葉だ。でも、今はそう思わなかった。
 気の利いた言葉も冗談も浮かばないまま、僕はあいまいに頷いていた。

 
 麻子がその日開催してくれたのは、送別会なんていうのは名前だけの飲み会だった。彼女は関係者だけでなく今はダンサーとして活動している卒業生やエディフィカンテが発祥である地元のダンスサークルのメンバーなんかも呼び出していて、貸切った店の中はひどい騒ぎになった。
 べろべろに酔っぱらった男に初めましてと言われながらビールを注がれ続け、たらふく飲んだ。麻子に何度も愛を語られ、どうしてわたしと喜和子先生を捨てるのよー、と一瞬だけ泣かれた。明日には覚えていないだろう。そういうテンションだった。
 店の外に出ると、帰宅ラッシュを過ぎた周辺はずいぶんと静かになっていた。
 盛り上がった一団は、最終的に歌いに行く派と踊りに行く派で別れる形で解散した。またしても知らない男に「堀井さんも一緒に行こうよ」などと誘われたけれど、仕事の準備もあるからと帰ることにした。
 仕事に慣れたらまた参加して、と会ったばかりの人達に言われながら。

「ねえ、ホリー!」
 またなと挨拶して歩き出してしばらくしたところで、麻子が叫んだ。
 振り向くと、若干酔いがさめたらしい麻子が酔っぱらい達の先頭で僕に向かって右手を上げていた。
 彼女が何か言おうと口をひらいた瞬間、

 ――俺達、ズッ友だよお!

 周囲にいた数人の男達が、彼女の続きを奪うように一斉に叫んだ。
 内輪の定番ネタなのかもしれない。誰かが一音口にしたのを察して、そこに乗っかったという感じだ。悪ノリをたしなめるやつと、さらにそれに続いたやつであっという間にその場が沸いてしまう。
 麻子本人は予想もしていなかった展開に絶句し、その後彼らを猛然と叱り始めている。

「なんでだよ」
 つい、口からそうこぼれていた。おまえ達ほとんど今日初めて会ったばっかだろ。
 道路をまたいだ向こうで、やいやい言い合っている彼らを見ながら僕は笑い出していた。
 それから麻子に向かって同じように一度右手を掲げ、身体の向きを戻して駅を目指した。

名前も知らない【18】

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https://slib.net/107294

名前も知らない【18】

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日 2021-07-08

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