娼婦O

青津亮

 Oが、娼婦の世界に身を置いたのは、いうなれば、ひとの欲望への潔癖がすぎたからだった。
 十八の頃、少女は、無垢なくらいに優しいひとになりたかった、悲しい奉仕、それをほんのすこしの下心もなしに捧げるひとになりたかった。エゴが、どうしても後ろめたかった。無償の愛、それこそOには美しかったのだ。
 そんな当時のOにとって、みずからが得る快楽なくして、男たちを悦ばせることに身を砕き、かれらの情欲に躰をゆだねながらも、その肉体はあらゆる悦楽を撥ねかえす、そんな、むしろ清廉潔白なイメージがこの仕事にあったのだった。それは少女の感覚では、みずからの理想、いわゆる、奉仕の姿にちかいようにおもった。
 が、その意欲で働いていたのも、はや昔のことであった。他の仕事と、大差はなかった。
 二十六歳。だんだん艶を失っていく髪が、必要に迫られ少し濃くなった化粧が、目元にやや帯びる陰影が、なんだか侘びしかった。うら若き美への哀惜、それもたしかにあるけれど、けっしてそれだけにかぎる話ではなかった。女性の美しさ、男性もそうであるけれど、それは、それぞれの年齢に収穫できる果実があるように、女にはおもわれるから。
 しかし女は、いまを生きていたかったのだった、その一瞬一瞬の生を、抱きしめていたかったのだ。だが、薄明さながらの現在の一時一時は、つぎつぎとわが掌で喪われて往き、刹那刹那のわが体温、蛍のそれのように淡い光り、それは地平線の向こうへ流れ去って、やがては黄昏に沈んで往く、そんな、ほうっと果敢ない喪失の情景の連続が、女には淋しかったのだ。
 女はみずからに、無償の愛を待ち望むのをとっくにやめた、自分の心に期待をするのが、虚しくなったのだった。みずからに美を求めるその態度は、たいてい自分への落胆や苛だちをもたらした、そして、自分のことを恨むようにもなった。それに、はや疲れた。しかしどうにも、愛することへの憧れは消えることがないのだった。
 女は、少女時代からの憧れと、はや成熟し老いへむかっていく自分の肉体が、砂の曳くような淋しい音を立てて、乖離して往くような感覚をおぼえていた。

  *

 きょうの客は、予約して来店した中年の男だった。
「洋子ちゃん、きょうも可愛いね」
 彼女を指名した男は、源氏名でOのことを呼びながらいった。
 お世辞。
 Oはそう考えた、女には、みずからの容貌の美しさに、ほとんどうごかしようもない認識があった。その認識は、この職業をつづけたなかでなんとなしに得てしまった、ある種哀しいものなのであった。
 彼女のそれでは、自分はそれほど美しくもなく、アイテープと研究をかさねた化粧、念入りに手入れされた肌と黒髪ありきの、そこそこの魅力をもっているにすぎないのだった。
 男は好いサービスを望んでいる、それゆえに、安易にもまず容姿を誉め、機嫌を良くしようとしているのだろう、そう憎々しげに、心情をおしはかった。
 愛してもいない男に躰をひらく、海にでもなった気分だ。
 生命の故郷として、なにもかもをどうとうに抱く、理不尽な慈愛。Oは客には不感である、けれど演技によって、彼女の肌は海のおもてさながら波うち、男の情欲は、まるで寄せ波が逆行するように、海の裸体へ打ち寄せる。…
 不意に男が倒れかかった、もの憂い瞳でOを見つめ、そっと唇を重ねる。
 …男はOから、躰を離した。
「…好かったよ」
 かれは煙草へ手をのばす、Oは、部屋にいつも置いてある客用のライターをとり、慣れた手付で火をつけた。
 水商売らしいこなれた気遣い、これはむろんかれの為ではなかった、自分の為でしかなかった。気遣いできる人間だと思われたいという虚栄心、そうじゃないと思われることへの臆病な焦燥、そして結局は、こういった行為がリピートに繋がり、店長から褒めてもらうことができるからなのだった。空白を満たしてほしかった、Oには、こんな心のうごきがあった。
 女らしい気遣い、その「らしい」というのは、かれらの願望の投影にすぎないけれども、それに満足げな表情をし、男は煙を吐きだした。この後も仕事があるOに、香りが付くことへの配慮がない。たしかに部屋での喫煙はゆるされている、しかしそれを発想してもいいはずだ、Oにはそう思われた。
 女は男を軽蔑した、かれはエゴイストだ、しかしその後に、自らの軽蔑心への自責と、どっと後ろめたい気持に蔽われ、こうみずからへ問いかけるのだった。
 かれのエゴイズムと私のそれ、果して、双方のなにが違うだろう?

  *

 幼い頃から生きづらかった、それを誇るのも、タフなひとに逆恨みするのも嫌だった。他人の心の機微にやや敏感なだけで、自分のことを繊細だなんて、あんまりおもえなかった。
 けれどこのままでは生き抜けない、それにようやく気がついた。その生きづらさは、自意識過剰というものに由来しているようにおもった。しかしこの悪癖、すぐに治るものではないようにおもわれた。
 そこで、Oはある生き方を、みずからへ提案したのであった。
 それは、「他者に愛情や理解を期待しない」というそれであった。
 Oは折に触れて、それを意識することにした。するとだんだん、わっと叫びだしたくなるような妄想的な羞恥、神経を轢くような臆病な焦燥、他人の態度に見えない裏側の心情への恐怖、そんなものから、ある程度は解放された。すこしだけ、生きやすくなった。
 が、この転換によって、Oはそれらの痛みを殺した代わりに、べつの痛みに蔽われるようになったのだった。

  *

 その青年は、上司との付き合いで、初めて風俗店を訪れたといっていた。
 客のそういった言葉は、とても信用に足るものではないのだけれど、たしかにかれは、どこか純情な印象で、あまり遊んでいるタイプには見えなかった。ひとが良さそうだった。
 行為を終えると、
「こういうお店にも、洋子さんのように素敵なひとがいるんですね」
 といった。誉め言葉のつもりだろうか。
 こんな、職業差別そのものの言葉で、私が喜ぶとでもおもっているのか。Oは冷めた気持で、それを聞きながした。
「洋子さん、なんだか雰囲気も、性格も好きだなあ。趣味とかあるんですか」
 いったい貴方が、私の性格の何を知っているのだろう。
 女は詩や小説を好んでいた、とくに、久坂葉子が好きであった。洋子という源氏名も、みずから希み、彼女のそれからとったのだった。しかし、そういった趣味は、あまり客好きのするものではないらしい。
 Oはこういうとき、旅行と答えることにしていた。訊かれるたびに、女は、一度だって行ったことのない地名を上げ、ネットで調べた知識と、ただの想像による、いくぶん愚かで、可愛らしい印象の感想を披露していた。
 仮面が喋る、このくらいで、丁度よかった。
「恋人はいらっしゃるんですか」
 このようなプライベートに関する詰問は、Oの嫌うところであった。本名を訊くひとも多かった、本当のことなんていうわけない、うんざりだった。彼氏がいたとして、どうして私が正直に答えるとおもうのだろう。
 女はこの仕事を、ある種の夢の中の出来事だと認識している。プライベートだけが現実で、労働の時間を幻の時間として、双方を切りはなしているのだ。
 部屋が仄暗い、それを夢である証拠、一つの条件としてかんがえていた。この理由もあって、彼女は部屋の電灯を最大にされるのが嫌であった。現実と幻、それらが灯の光りでもって繋がって、自己欺瞞が明るめられるような気がした。
 たとえ善いひとそうな客がいたとしても、かれらはみな、夢のなかで邂逅した、魅力的な幻であるというふうに認識しており、その幻影が、自らの現実へなんらかの影響を働きかけてくることに、女には、はなはだしい拒絶感があるのであった。
 これらの処世術によって、Oは、なるたけ仕事で傷つかないようになった。
 二十代もはや後半、店では二十三といっているけれど、生き抜く為に、だんだん強かに、少女時代の私からいわせれば、卑俗な人間になっていく。
 しかし、私が傷つきにくくなるということは、労働に力が入ることにも繋がるし、客にとっても最善であるはずだ。嘘も方便、客もそれで喜んでいる、私たちは、ひろい意味において、男性を喜ばせるのが仕事。自分にいいきかせるように、これを頭で、呪文のようにくりかえした。本当は、客にも自分にも、嘘なんてつきたくなかったから。
「いませんよ。この仕事をしている間は、恋人をつくらないと決めています」
 そういって微笑んだ、恋人がいないことは嘘ではなかった。数か月前に、別れたのだ。
 別れ際、「風俗嬢風情が」と吐き棄てられたこと、それをOは、どうにも忘れることができなかった。かれのなかで、私たちは対等ではなかったのだと、そこで解って了った。
 この言葉は、いまでも彼女の内部に這う神経に睡っていて、そこになんらかの刺激が流れてくるたびに、わっと甦り、叫びだしたくなるような心持にさせる、この記憶は、いくども、いくども女を傷つけた。はや、愛されることさえ、怖くなった。
「また来ていいですか」
 男は尋ねる、いったい、この業界のどこにそれを直接拒む娼婦がいるだろう、いや、少しはいるかもしれないけれど。けれども、本当に嫌だったら、後でスタッフに、NGに入れてもらえば済む話なのだ。
「勿論。嬉しいです。また来てくださいね」
 そういって、かれと唇を重ねる。
 無感覚のキス、それはほとんど、痛みに酷似している。
 女は、まだ、キスだけでも、恋人とだけしたかった。そんなロマンチシズムくらいは、もちつづけたかった。痛みを感じるたび、変に安心するところがあった。そんな自分を、ほんのすこしだけ、可憐におもっていた。

  *

 誠二と名乗るその青年は、その後もOの元をたびたび訪れた、週に一度、いや二度来ることさえあった。それっぽく、はっきりしない好意を伝えられつづけた。
 経済的に大丈夫なのだろうか、女はすこし心配したが、しかし自分が、「もう来ちゃダメよ」などと、やや古めかしい美辞麗句を吐くことに、肌があわだつような虚栄を感じ、こんな自意識過剰はなかなか治るものではない、とりあえずは、かれのアプローチを避わしつつ、他の客とどうように接した。
 客からの求愛、それは昔から、彼女には負担でしかなかった。まずもってOは、店で男好きのするキャラクターを演じていた、それは他の、たいていの娼婦もやっているはずであった。
 接客中の自分しか知らない相手に愛されること、それは女優が、「あの役で貴女に恋をしました」といわれたときの、拍子抜けするような無感動をひき起こすのである、なぜってその「私」は、けっして「私」ではないから。
 臆病ではっきりしない求愛、かれはきっと、私に期待しているのであろう、そのように、Oには推測された。なにを? 愛情、そして理解を。
 他者に、みずからが欲する感情を期待し態度に出す、それは人間として当然の欲望によるものかもしれないが、なんて迷惑で、傲慢で、怠惰なことであろうと女には思われた。
 みずからの心にある理想、それを不連続な、けっして自分の心と交わることのない他者の心に勝手に投影して、ワガママに希んで、そして、勿論全員ではないけれど、その行為が報われなかったとき、かれらは掌ひるがえして、私たちに逆恨みをもすることがある。「風俗嬢の癖に」、それを客にいわれたのは、数年もこの仕事をつづけていれば、一度や二度ではないのである。
 娼婦を下に見る風潮、それはOにとって、はや気に掛けるにあたらない、そのように、頭ではおもえていた。女は、すでに述べたように、職業へのそれにかぎらず、他者に、理解を期待するのを諦めていたから。
 他人に期待しない、ただ、そっちのほうが、気楽だった。しかし、胸の底にじんと染みいる、鉛のように重たい淋しさ、それがつねに巣食うようになった。かつての空白のようなそれとは、愛されたい、愛されたい、そんな、渇望のような孤独感とは、ちがうものであった。むしろ、愛されてもたかが知れている、自分はどうしようもなく、なにをしても独りなのだ、そんな意識がつよまった。
 Oがかれの求愛のなにを嫌うかといって、それは他者へ期待の態度を発する、それじたいにたいしてである。そういった要求は、学生時代の自分のように、他者の期待にこたえることで、それで褒めてもらうことで空白を満たしていたような、そんな臆病で淋しがりやの人間を、神経を裂くようにくるしめることがあるからである。
 人間は、他者の期待にこたえられなくても、生きていて好いに決まっている、そのように、女はいまかんがえていた。

  *

 仕事を紹介すると、青年は提案したのだった。貴女の為に、とかれはいった。女はその言葉が、大嫌いであった。
 それは女にとって聖域であった、遥かから硬く照りかえす、月さながら青みがかる聖地の言葉なのであった。
 しかし転職、これに興味はあった。
 Oは、もうこの仕事をしたくなかった。想えば、本当にやりたいとおもっていたのは、十代の頃だけの話であった。
 やりたい仕事なら、娼婦でもなんでもやって好いと思うし、それを他人がどうこう否定するのを女は毛嫌いする、貧困に悩む女性たちに、売りたくない躰を売らせる世の中であるならば、それは憂わしいけれど。けれど女は、正直な気持から、もう娼婦をしたくなかったのだ。
 娼婦、私たちはむしろ、努力への意欲が清潔で、自らの全身全霊のみを頼るがゆえに、サービスに一途な心の在りかたを持ちがちであるとおもうけれど。
 Oは、青年と、連絡先を交換することにした。

  *

 かれは仕事を紹介してくれた、面接で、経歴の質問にはざっくり水商売だとこたえ、履歴書に記入したのは、飲み屋も経営するXグループに、アルバイトで入社というものだけ、とくにそれ以上、質問もされなかった。無事、内定はいただけた。女は、穏便に店をやめられた。
「僕の家に来てくれませんか」
 かれからLINEで誘われた、女は、それを断ってはならないようにおもった。お礼くらいは、しなければいけないだろう。
 かれの家はよく片づけられていた、いい匂いの配慮もあった。心遣いのある、想像どおりのもてなしだった。
 Oはかれに、人柄への好感はもっていたのだった、肉体的な拒絶感も、それほどにはなかった。善いひとそうだった。時と場合がちがえば、これから愛情を育んでいくことも可能なはずだった。しかし、次の恋人は、どうしても前職を知らないひとでなければいけなかった。隠し遂せねばならなかった。
 次の仕事で、ある程度キャリアを積んだら、Oは、かれの目の届かないところへ、ふたたび転職をするつもりであった。
「あかりさん、」
 とかれは呼んだ。
 女の名は、「あかり」ではなかった。
 履歴書に書いた本当の名を、男は知らなかった。もしかれがOに執着心を持ったなら、本名くらい、後から調べれば容易に解るだろう、しかしその時、かれへの女の本心にもきっと気づくだろう。
 恨まれるのはたしかに怖かった、青年の、温和で、ひとの良さそうな印象にすべてがゆだねられていた。これはOの甘さであるかもしれなかった、まだ、他人の善意を信じ、期待してしまうところがあった。
「就職おめでとうございます」
「ありがとうございます。誠二さんのおかげです」
 この言葉は、本心であった。
「あかりさん、」
 と青年は女の肩をつかんだ。
「僕は貴女が好きです。付き合ってもらえませんか」
 案の定だった、はっきりと告白をされたのは、これが初めてである。
「ありがとう」
 そして、負い目のあるように視線を逸らし、後ろめたげな眼をした。
 これは女の狙った、かれを怒らせない為の印象効果であった。内心、Oは恐怖で、ふるえていたのだった。
「でも私、しばらく恋人はいらないの。誠二さんのことはとっても好き、でもそれは人間として。仕事を紹介してくれたのも感謝してる、けれど、それには応えられません。ごめんなさい」
 なんて勝手ないいぐさ。女は、自分のあまりに自己本位ないいかたに、ぞっとしたのだった。彼女の臆病な心ゆえに、酷い女らしい印象を、ちょっとだけ強調しようと、前日から、一言一句かんがえ、吟味し、暗記してきた言葉であるのだけれど。
 だが、こちらに気持がないのも事実なのである、ただ、自分は、恩を受けとってしまったのだ。それは、返さなければいけないだろう。
 Oは、失恋し傷ついた男の、蒼ざめた頬へ、そっと手をあてた。そして、いくどもかれと交わしたように、しずかに唇を重ね、優美なるさまで、誘うように艶やかなうごきをし、そうして、「せめてお礼だけさせてね」、と、耳元で囁いた。
 女性が優美に見えるとき、それはもしやすると、様式美に、本心が蔽い隠されているときではないだろうか。優美は、高貴に似ている。
 女は、かれに、抱かれた。
 この行為が正しいことなのかどうか、彼女にはそれが判らなかった。
 それをさせたのは、たしかに、かつての理想、他者に捧げようとする感情なのだった、狂気じみたそれの操縦した、劇しい、燃ゆるような情事がそこにあった。
 しかしそこに、一切の愛はなかった。情欲もなかった。罪滅ぼしのそれにも似た焦燥、借金を返済しようとする心のうごきのみがあった。女の心は終始氷りついていた、冷然と、情事に耽るわが肉体のうごきをさえも、見すくめていた。

  *

 女は男の家から出た、かれの連絡先をブロックした。LINEのアカウントを削除した。スマートフォンを溝に浸し、一滴の憎悪もなしにつよく踏みつけ、機械を壊した。明日、新しいスマホを買いに行こうとおもった。
 ごめんなさい、ごめんなさい。
 そう心中で謝っていた、それがすべて、自己満足であると自覚しながら。
 私はまだ、臆病なのです、現実と、かの幻を繋ぐ、真実の光りが怖いのです。はや、誰かと愛し合うことさえ、肌があわだつほど恐怖してしまうのです。
 私のもっとも深刻な病、それは自意識過剰ではなくて、内気な臆病さではないかしら。
 けれどOは、ほんとうは、誰かと愛し合いたかった、心と心は融け合えないと識っても、誰かに理解され、誰かを理解したかった。
 ひとに愛情や理解を期待しない、その生きかたは、けっして弱さの克服なんかではなかった。女は識っていた、みずからのそれは、どうにか自分が生き抜く為に選びとられた、切ない、憐れな、カラクリめいた処世術にすぎないと。

娼婦O

娼婦O

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-07-08

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