夜行性OLの世界。

朝比奈なぎお

夜行性OLの世界。
  1. 第1話 かわいそうにね、芽衣子ちゃん。
  2. 第2話 君にほら、LOVEずきゅん!

第1話 かわいそうにね、芽衣子ちゃん。

 私は水戸芽衣子。二十五歳。埼玉県出身。東京都在住。蟹座。O型。OL。使ってるシャンプーはボタニストの黒。
 私が小学三年生だったころ、はなちゃんという大人しい同級生がいた。ある日、はなちゃんはかわいらしいサクランボの髪留めをして学校に来ていた。それを見ていたクラスの中心人物であるアヤミちゃんと、アヤミちゃんのことが好きだったタクヤくんが、はなちゃんの髪留めを盗んだ。その現場は、私しか見ていなかった。
 そのことを母に相談すると、母は
「はなちゃんを助けてあげなさい。あなたならできるわ。」
とほほ笑んだ。
 次の日私は、髪留めを返すよう、二人のところへ赴いた。
私は水戸芽衣子。二十五歳。今は仕事中だ。
 


 時計を見ると、十二時二十五分。この時間になると、そろそろ豊島部長の、怒鳴り声が聞こえる。私は仕事に集中しているふりをして、耳をそばだてる。
「安住さん、まだ終わってないわけ?」
「はい、すみません……。」
 主にパソコンと人しかないこのオフィスの、オアシス的な存在であるコーヒーメーカーと、その横にある申し訳程度の観葉植物が揺れる。たしか、パキラとかいう品種。
 安住さんは仕事ができない。芋っぽくて、不器用で、ダサいキャラ。でも、私は安住さんが好き。
「すみませんじゃなくてさ、いつ終わるかって聞いてるんですよ。」
「あの、お昼のあいだもがんばりますので」
 安住さんとは、入社時、いちばん仲が良かった。最近しゃべっていないが、私は今でも安住さんとしゃべる時だけ、素を出せる。と、思う。
「当たり前だろそんなの?君は人一倍とろくて何もできないんだから、休みなんてあるわけないだろ!?」
「はい……。」
 バタン! とアルミのデスクを蹴る音が聞こえた。でも私は、そっちを見ない。いつものことだ。
 その時、昼休憩を知らせる、ぎこちなく陽気で無機質なメロディーが会社を包んだ。けられたデスクはまだ震えている。嫌な余韻をフロアに残す。



 私は昼休憩のチャイムが鳴ると、笑顔を作り、愛子ちゃんの席に向かう。
「愛子ちゃん! おつかれ! 今日のランチどうする?」
「食堂かな。」
 愛子ちゃんはこちらを見ることもなく、さらりと答えた。愛子ちゃんはかわいい。仕事もできる。休日はルブタンのピンヒールなんか履いちゃうタイプ。全体的に、なんかこう、ピンクと黄色のキラキラで、包まれている。実家もお金持ちらしく、いつも周りに誰かいて、いつも誰かに褒められて。多分、人生において、挫折とか、なかったんだろうなと、思う。社内の人気者の愛子ちゃん。そんな愛子ちゃんのことを、私も好きにならなければならない。
「わかった!」
 私たちの部署から食堂はまあまあ遠い。二人で歩いていると、だんだん気まずくなってくる。一歩一歩歩くたび、何か話さなければ、という焦りが、私の胸を締め上げる。
「あ、あの、そういえばさっきまた安住さんが部長に怒られててさぁ。」
「いつものことじゃない。あの子、会社辞めちゃえばいいのにね。」
「まあそうだよねぇ~。私だったら耐えられないなぁ~。」
 言ってから、廊下の窓に映る自分の顔を見て、はっとした。またやってしまった。胸のあたりにモヤがかかり、空っぽになった胃が、不安げに捻じれた。安住さんが今日も怒られている。それを話題にしてしまった私は、なんて卑怯で最悪な人間なんだ。という念が、一気に胃の奥底から、酸っぱい液体と共に押しあがってきた。でも、今はダメだ。そんな感情一つ表に出してしまえば、これまで私がとても大切にしてきた何かが、一気に崩れ去り、その破片をみんなに拾い上げられ、笑われる。軽蔑される。幸い、愛子ちゃんは気づいていない。ああ、やっぱりその横顔は、憎らしいほどとても綺麗だ。
 食堂につくと、愛子ちゃんに次ぎ二番目のキラキラガールである同期の美沙ちゃんと、社内で一番かわいいと噂の後輩、茉莉ちゃんがいた。いつものメンバーだ。毎年、その三人が企画する箱根旅行があるのだが、そのメンバーに選ばれるかどうかで、社内の女子連中はざわつき、見下しあう。去年は私と、同期のなつきが選ばれた。……楽しくなかった。
「そういえば今日もアズミン、怒られてたらしいじゃないですか~。」
 茉莉ちゃんが口を開く。茉莉ちゃんは安住さんのことをアズミンと呼ぶ。後輩なのに。
「芽衣子さんって、アズミンと仲良し、じゃないですか~。助けてあげたりしないんですか~?」
「え? ま、まあ仲良しってほどでもないけど……。」
 必死に笑顔を作った。胸が苦しみ悲鳴を上げる。昔の私はそんな人間じゃなかった。親からも、優しい子だねって、いつも言われてた。私はただ、みんなと円滑に会話したかっただけ、できることなら私は、安住さんとも、愛子ちゃんたちとも、仲良くしたいと、間違いなく思っている。
 でも、女の世界でみんな仲良しなんて、不可能な幻想だ。それに気づいたのは中学の頃だった。私は、クラスで覇権を握っていたマサモトくんの彼女、エリカにいじめられ、「これ以上いじめられたくなかったら、」と、ある女の子への嫌がらせに加わるよう言われた。その女の子は学年で一番かわいい子で、誰かが困っていたら率先して助けるような、とてもやさしい女の子だった。みんなから好かれていた。それは、マサモトくんも例外ではなかった。私はそれを二つ返事で引き受け、それ以降、“優しい私”から遠ざかっていった。それに反比例して、優しいね、とか、かわいいねと、言われることが増えるようになった。スクールカーストの順位は上がっていった。人は、周りの評価で、意見も態度も変えてしまう。やらなきゃ、やられるのだ。
 食堂から帰ってくると、一生懸命書類を直している安住さんと目が合った。安住さんは一瞬戸惑い、恥ずかしそうに、自虐するように、にこ、と笑った。その笑顔は、今にも飛ばされそうなタンポポのようで、私はすぐに視線を逸らした。
 


 午後五時をすぎ、そろそろ掃除と片付けの時間に差し掛かっても、今日は安住さんのことで、頭がいっぱいだった。自己否定と虚勢の海に、おぼれてしまいそうだった。
「はじめまして。安住たまきです。芽衣子さん、これからよろしくね。」
 安住さんは、最初私にそう言った。お互い初々しい新卒のスーツに身を包み、今日見せたそれとは違う、子供みたいな顔で笑った。
「はい! あ、うん! よろしく安住さん。」
 私たちはそのあと、一緒にお昼ご飯を食べた気がする。そうだ、その時はじめて豊島課長に「もう友達ができたんですか?」と声をかけられたんだっけ。そうだ。あの時は、不安だらけだったけど、同期もみんな仲良くて、とても楽しかった。
「……とさん! 水戸さん!」
「は! はい!」
 聞きなれた鋭い声。急に豊島課長に呼ばれた。コーヒーメーカーが、不穏な耳鳴りにも似た音を出す。
「水戸さん、これどういうこと?」
「え?」
 嫌な予感がする。豊島課長の左口角が上がっているのは、これからお前を痛めつけてやるぞ、という合図なのを、知っている。
「えじゃないだろ! こんなミスして! お前のせいでみんなの頑張りが台無しなんだよ!」
 それは、私が他社に出した新しい企画書だった。血の気が引いた。と同時に、みんなの視線が一気に、私に突き刺さるのがわかった。胃が逆流する感覚。それと、静まり返ったオフィスに響く、コーヒーメーカーの呻き声が、やけに大きく聞こえる。私は今オフィスで、素っ裸になった気分だ。全裸に剥かれて突っ立って、みんなに囲まれ見られている。今にも叫びたい。死にたい。逃げたい。突発的な拒否反応と、脂汗が、頭からじわじわと垂れてくる。てか、どこを間違えた? 取り返しはつくのか? 私だけで済むミスなのか? ああ、みんなからバカにされる。みんなから嫌われる。もう嫌だ。限界だ。逃げたい。死にたい。どこか遠いところに行きたい。恥ずかしさと罪悪感と情けなさで、今にも泣きそうになった。でも、私は大人で、社内でもそれなりなわけで、愛子ちゃんたちも今私を見ていて、安住さんも、今の私の姿を……。
 気が付くと、自分のデスクで涙をかみ殺していた。頭は真っ白で、「ごめんなさい」という言葉を、頭の中で反芻していた。少しでも気を緩めると、泣いてしまう。でも、そういう感情になっているときは、大概すでに泣いている。
 愛子ちゃんたちが話しかけてきた。
「芽衣子ちゃん、大丈夫?」
「う、うん。ごめんね。私のせいで、企画書作り直しになっちゃって。」
私はできるだけ気丈にふるまいつつ、甘えるようにそう言った。
「別に大丈夫よ。」
愛子ちゃんは、意外とさらりとしていた。少し、安心した。
「ほんとにごめんね、次は絶対ないようにするから、」
 私がそう言い終わる間もなく、愛子ちゃんが口を開いた。
「あ、そういえば芽衣子ちゃん、今年の箱根旅行、なつきちゃんとめるちゃんと行くから、芽衣子ちゃんはお休みしてもらえる? ごめんね。」
 え? 息が詰まった。コンマ一秒、呆気にとられ、目の前が真っ暗になった。たちまち愛子ちゃんたちに責められている気分になった。同期に責められるのが一番、何よりきつい。心臓が雑巾のように搾り上げられる。私の顔は捻じり切られる。いや、だめだ。顔に出すな。顔に出すな。
「え、あ、うん! 全然大丈夫だよ!」
「ごめんね。じゃあおつかれさま~。」
 一秒で会社を出て、今日は珍しく、知る範囲で会社から一番遠いコンビニで、タバコを買った。大学生ぶりに、どうしても吸いたくなった。メビウスの8ミリ。その時の元カレが吸っていたタバコだった。コンビニの前の喫煙所で火をつけると、懐かしい香りが私を包んだ。
 その途端、私は泣き崩れてしまった。限界だった。今にも消えてしまいたかった。この涙は、安住さんへの謝罪の涙ではなく、愛子ちゃんたちに選ばれなかった辛さから来ていることが分かると、みんなに泣いて謝りたくなった。ごめんなさい、私はほんとはこんな人間じゃないの、わかって、でも、ごめんなさい、本当にごめんなさい。と、今にも叫びだしたかった。どこか遠く、今すぐに、誰も知らない、誰にも知られない場所に行きたかった。安住さんと、今すぐしゃべりたかった。
こんなにもダサく、最悪な私に、元カレと、当時の私は優しく微笑みかけてくれているような気がして、私はそのまま、近くのバーに向かった。



 暗い路地を一本入ると、思いのほかおしゃれなバーにたどり着いた。『シュリンプクラブ』という名のその店は、ちょうどいい狭さで、薄暗い雰囲気だったので、その店に決めた。
 カウンター席の一番奥に座ると、店員さんが薄茶色のおしゃれなおしぼりを待ってきた。
「いらっしゃいませ、ご注文はお決まりですか?」
 私は早く飲みたかったのもあり、適当に赤ワインのデキャンタと、いろいろピクルス、赤えびのアヒージョ、灰皿を頼んだ。
「おタバコ吸われるんですね、僕もです。」
さらりと笑った青年は、緩いマッシュを揺らして厨房に戻っていった。彼は、こんな涙を流したことがあるのだろうか。泣けども泣けどもすっきりしない、自分のためだけの涙を。それは透明ではなく、くすんだ灰色の涙。
 しばらくすると、ワイン、料理、灰皿が運ばれてきた。
「ごゆっくりどうぞ。」
 やはり彼は、笑いなれていた。あまりにも自然に、きれいな笑顔を作った。それは安住さんのそれとも、私のそれとも違った。
 ワインをデキャンタからグラスに、勢いよく注ぐと、少しこぼれた。が、それを一息で飲み干した。少し無理したか、と思う間もなく、メビウスに火をつける。深く、きつく吸い込むと、大きなため息をつく。気持ちがよかった。まるで私は、悲劇のヒロイン。その所作の美しさに、きっとこの店の誰もが、息をのむ。私のうしろ姿に、リップのついたフィルターに、息をのむ。たぶん。
 ピクルスも、アヒージョも、最高にうまい。と同時に、「お前にうまいものを食う資格があるのか?」という気持ちが、心の奥底から、せり上がってくる。ワインを飲む。「思い出せ、昼、お前は愛子ちゃんに、どんな話題を振った?」タバコを吸って、「お前は最低の人間だ。なのになんでこんなところで、うまい飯を食っている?」「お前は優しい安住さんを切って、お前のことなんかみじんも大切に思っていない愛子たちを選んだんだ。」
 気が付くと、また、泣いていた。この一本を吸い終わったら、すぐ店を出よう。ごめんなさい。私なんか幸せになっちゃダメなのに、本当にごめんなさい。
 その時、隣に気配を感じた。
「あなた、大丈夫?」
 はっとした。見ると、ペールイエローのワンピースに、きらりと光る大きなフープピアス、綺麗なピンクのリップに、これまたイエローのヘアターバンをした、二十代後半くらいの美しい女性が、こちらに微笑みかけていた。
「あ、だ、大丈夫です。すみません。」
「そう? でも、とても疲れてるみたい。」
 疲れてる? 私、疲れていたの? 知らない人のその言葉が、なぜか胸に深く染み込んだ。少しだけ何かから許されたような気持になり、また涙が出そうになる。
 彼女は、ディオールの黒いハンドバックから、平たいピンク色の箱を取り出し、中から出てきた淡く黄色いタバコをくわえた。
「これ? 変わったタバコでしょ。ソブラニー・カクテルっていうの。吸ってみる?」
一口もらうと、やわらかい風味が口に広がる。吸ったあと、甘くさわやかな香りがほのかにした。
「ごめんね、少し香水のにおいがしたでしょ。箱にふってるの。」
彼女はそう言ったあと、にこっと笑った。映画の登場人物と話しているようで、少しめまいを覚えるほど美しかった。
「あなた、名前は?」
「水戸、芽衣子です……。」
「かわいい名前ね。」
 この人になら、すべてを打ち明けてもいいんじゃないか思った。いや、打ち明けたいと思った。私の醜さ、私のすべてを、この人に理解されたいと思った。
「私は……、卑怯者なんです。」



 私は、安住さんや愛子たちのこと、今日あったことを、洗いざらいすべて話した。すると彼女は、褪せた向日葵のような笑みを浮かべ、
「芽衣子さん、人間関係において、一番大切なモノって、なにかわかる?」
 と、私に聞いた。彼女の長いまつげが、ぼんやりとした暖色の光の中に溶けていく。
「誰にでも好かれること……? 素敵な笑顔とか、面白い話ができる、とかですか?」
 私がそう言い終わると、彼女はこちらへ向き直り、にこやかにこう言った。
「違うわ。 王子さま。 あなたを助けてくれる王子さまを、自分自身で作り出すことよ。」
「王子様?」
「たとえあなたがみんなから非難されても、たとえあなたがみんなから笑われても、あなたの心の王子さまだけは、決してあなたを否定しない。そんな存在を作っておく。そうすれば、心に余裕も生まれて、素敵な笑顔も、困っている誰かを助けることもできるようになるのよ。」
 そういうと彼女はきらりと笑った。その笑顔はとても華やかで、酸いも甘いも経験してきた人にしか出せないような影を残した。私もそんな笑顔ができるようになりたい、と思った。
「王子様……、私のことを、私自身で肯定してもいいんですかね……?」
 私は甘えるように、恐る恐る聞いた。
「不安?」
「いや、まあ、今の私を肯定してしまったら、ずっとクズのままなんじゃないかって……。」
このまま成長せず年を取った私を想像すると、震える。今でも十分一人さみしく生活しているのに、このままだと本当に孤独になってしまうんじゃないだろうか。昔大学で、孤独死やホームレスについて勉強したが、私もそうなってしまうんじゃないだろうか。と、時々考えてしまう。
 彼女はそんな私を優しく見つめ、「じゃあ、運命を変える魔法を教えてあげる。」とつぶやいた。運命って、変えられないから運命なんじゃないのか。
「私、心の持ち方が変われば、運命が変わると思ってるの。例えば恋愛だって、誰かを好きになったら、その人のことをずっと考えてしまうでしょ? それが意識的にも無意識的にも、行動に出てしまう。例えば、用事がないのにラインを送ってしまったり、その人のインスタには必ずハートマークを押したり。そう言った行動が二人を引き寄せて、最終的に二人は恋に落ちる。結ばれる運命ではなかったはずなのに。」
 たしかに、私は元カレのことが、最初あまり好きではなかった。彼から三回目の告白を受けた時、果たして、ここまで私のことを愛してくれる人が、この先現れるだろうか、と、その告白を受け入れた。私が私を許してあげることこそが、安住さんを助けられたり、自分自身素敵な人間になるための第一歩なのか。
 彼女は最後にバニラアイスを注文したので、私も同じものを頼んだ。今日はかなり酔っ払った。ふと、厨房に目をやると、マッシュの彼と目が合った。彼はまた、さらりと笑った。私も負けじと、さらり、のつもりで笑い返した。
 やはり、酔っぱらった後のバニラアイスは格別で、今日は大泣きしたのもあって、バニラの甘みが体に染み入る感覚が分かるほどおいしかった。店に来た時より、私は少し前向きになっているのか。少なくとも、バニラアイスを素直においしいと思えた。
「じゃあね芽衣子さん。楽しかったわ。またどこかで会いましょ。」
 彼女はそう言うと席を立ち、店の前まで歩いた。
「あ、あの、そういえばお名前は……」
「名前? そうね、キャサリンよ。」
 キャサリンさんは首を傾げてにこっと笑った。その横顔は、店のライトのオレンジと、夜の黒色のコントラストに照らされて、とても美しく、初恋を思い出すほど、かっこよかった。
 私もあんな人になりたい。いや、なる。なって、愛子ちゃんたちに負けない、かっこよくて聡明で、美しい人間になってやる。安住さんを助けるんだ。と、強く思った。
そうだ、来週もバーに行こう。私も、“キャサリン”のようになるんだ。



 アヤミちゃんとタクヤくんは、髪留めをまったく返してくれなかった。頭にきた私は、アヤミちゃんに掴みかかってしまった。
二人で殴り合い、といっても小学生同士のけんかだから、髪を引っ張る、相手を投げ飛ばす、とかだったけど、それが先生にばれた。先生は、
「喧嘩両成敗です。」
と、私たち二人とタクヤ君は、こっぴどく叱られた。でも、サクランボの髪留めは、ハナちゃんに返すことができた。とてもうれしかったのを、今でも覚えている。
 私は水戸芽衣子。二十五歳。また来週。

第2話 君にほら、LOVEずきゅん!

第2話 君にほら、LOVEずきゅん!

 私は水戸芽衣子。二十五歳。埼玉県出身。東京都在住。蟹座。O型。OL。使ってるシャンプーはボタニストの黒。
 私はこれまで三人の男の子と付き合ってきたが、大学一年生まで彼氏ができたことがなかった。
 最初の彼氏は同じ大学のバンドマンで、音楽と漫画をこよなく愛していた。
 彼は漫画家の浅野いにおの作品が大好きだったから、私も浅野いにおが好きになったし、音楽の趣味も、相対性理論や大森靖子から、マカロニえんぴつやリグレットガールになった。
 ステージに立つ彼の姿は、マカえんのはっとりよりもかっこよかったし、一人でとてもナイーブになる彼の姿は、身体が爆発しそうになるほど愛おしく、かわいらしかった。
 彼の、はにかむときの唇の動きや、寄り添うと少し、タバコのにおいがする、ビッグシルエットのTシャツ、よく二人で行った映画館と、帰りに必ずよる、その近くのハンバーグ屋さん、それらは今でも鮮明に覚えている。懐かしいな、と、クスッと笑えて、少し寂しくなる。
 あの頃の私は、このままずっと、彼と生きていくんだって思っていた。重たそうなギターを背負う彼の隣で、ずっと笑っているんだって、そう思っていた。



 昼休憩のチャイムが鳴る。そういえば今日は、安住さんへの怒号が聞こえてこない。みんなが食堂などに向かう中、私は、愛子ちゃんのデスクには向かわなかった。
「あ、今日お昼ご飯、一緒に食べてもいい?」
 安住さんは重たい眼鏡を指で押し上げ、驚いた顔をしていたが、うん、と作り笑顔で答えてくれた。私たちは、近くの公園で食べることにした。
 公園についても、私は何を話せばいいかわからず、無言はだめだし、かといって、つまらない天気の話題や、週末は何してるの? とか、そういった話題は出したくなくて、頭を秒速で回転させながら、コンビニで買った冷やし中華を一口食べる、を繰り返した。「なにか絞り出せ芽衣子!」冷やし中華のきくらげが、私を急かす。
「そ、そういえば安住さんって、週末は何してるの?」
限界だった。
「う~ん、読書、小説とか読むかな。私、西加奈子って作家さんが大好きで、よく読んでるんだぁ。」
困った。私は一切小説を読まない。こういうときが一番困る。世の中の百円ショップは、洗うのが面倒なニセ便利グッズじゃなく、こういうときに役立つグッズを作ってくれ。と切に思った。
「へ、へえ~。西加奈子って、聞いたことあるよ。名前だけだけどね。」
「ほんと! 彼女のね、美しいひとって作品がとても面白くてね……」
 それから私はしばらく安住さんの小説談義を、冷やし中華と共に聞いていた。久しぶりに、こんなにも笑顔の安住さんを見て、心の奥底がポカポカするような嬉しさを感じた。好きなことを話す人の話は、分からなくても面白いんだな。いや、話す人が安住さんだから、面白いと感じるのかもしれない。「芽衣子、上機嫌だな。」錦糸卵もそう言っている。
「そういえば安住さん、お弁当自分で作ってるの?」
 安住さんは白い楕円形のお弁当箱を持っている。今日はきんぴらごぼうと唐揚げか。
「これ、お母さんがいつも作ってくれてるの。」
 安住さんは恥ずかしそうにそう言うと、
「でも、いつも課長に怒られるから、仕事終わりに公園で食べるんだけどね。」
 と悲しそうに笑った。「あ、ごめんね、湿っぽい話しちゃって。」「ううん。大丈夫だよ。」何気ない会話が、昼の気温を一層心地いいものに変える。
 公園では、サッカーをして遊んでいる男の子たちが、楽しそうに笑いあっていた。その横で、同年代くらいの男の子が、お母さんと一緒に砂をいじっている。
「あれ、芽衣子ちゃん?」
 後ろから声が聞こえた。振り向くと、愛子ちゃんたちがコンビニ袋をぶら下げていた。中には、新作のピスタチオのアイスが入っており、袋が汗をかいている。
「今日私のとこに来ないなって思ってたら、安住さんと昼ごはん食べてたの。」
 愛子ちゃんは私に笑顔でそう言った。一瞬、しまった、と、首筋が震え、視界が揺らいだ。美沙ちゃんと茉莉ちゃんはクスクスと笑っている。なに、なになに、怖い。
「芽衣子ちゃん、最近できたテリマってバリ料理のお店知ってる?今日美沙と茉莉と行こうって話してたんだけど、芽衣子ちゃんも一緒に行こうよ。」
三人ともニヤリとこちらを見ている。でも、これはなにか、チャンスなんじゃないのか?私はみんなと仲良くしたいし、別に愛子ちゃんたちのこと、嫌い、ではないし……、断る理由も、うまいこと思いつかない。
「芽衣子さん行きましょうよぉ~~。」
茉莉ちゃんが袋を両手でプラプラさせながら言う。
「うん。いく! ありがとう!」
愛子ちゃんたちはにこにこ会社に戻っていった。遠くで茉莉ちゃんの、それはうける~、という声が聞こえて、少し不安になった。「本当に、行ってよかったのかな。」うるせえ、錦糸卵。



 テリマは水色を基調としたエスニックな内装で、生臭い香辛料のような、独特の香りがしていた。店内に人はまばらだったから、私たちは窓際の席に陣取った。私は廊下側。隣には愛子ちゃん。
「なににする~」「何かわからないものがいっぱいあるよ~」「え~これおいしそうじゃない」「わたしもそれ思った~」
みんなバリ料理に夢中だが、私はみんなとうまくしゃべれるか気が気ではない。無意識に、人差し指の爪で親指の爪を、カリカリいじってしまう。
「わたしこれに決ーめたっ。」
 茉莉ちゃんがナシゴレンと、サテというバリ島の焼き鳥みたいなやつのセットを指さした。茉莉ちゃんは意外とこういう時、決断が速い。しかも手堅いものを頼む。
 結局、美沙ちゃんはミーアヤムという鶏肉と青野菜の麺を、愛子ちゃんはルンダンという羊肉のココナツスパイス煮込みのセットを、私はミーゴレンのセットを頼んだ。どれもサラダとスープがついてくるらしい。
「うわあ~おいしそぉ~!」
 茉莉ちゃんはその愛らしい顔で、料理の写真を撮っている。「え~ハッシュタグどうしようかなぁ~。」この、ちっちゃい“あ”が、茉莉ちゃんを茉莉ちゃんたらしめるポイントだ。この、“あ”に限らず、茉莉ちゃんは母音なら、何でも小さくしてしまう。「芽衣子さんってぇ、インスタとかあんまりやらないんですかぁ?」うるせえ。
「そういえば、今度この辺で花火大会あるじゃん。あれみんないくの?」
 美沙ちゃんが野菜大盛の麺を、すすらずぱくぱく食べている。
「私はたぶんいかないかな~、一緒に行く彼氏もいないしさ~。」
私がそう言うと愛子ちゃんがピクリと反応した。なんだ? それに構わず茉莉ちゃんが口を開く。
「芽衣子さんも彼氏いない歴長いですよね~、モテそうなのにぃ~。」
いや、そんなことないよ~、と言おうとした瞬間、愛子ちゃんが笑顔で口を開いた。
「美沙、茉莉、トイレ行こぉ。」
え? なになに? どうして? 
「あ、じゃあ私も……」
私がそう言った瞬間
「あ、芽衣子ちゃんはちょっと待ってて。」
と、愛子ちゃんが立ち上がる。美沙ちゃんと茉莉ちゃんも少し不思議そうに立ち上がった。身体が一気に冷え、心臓が委縮する。怖い怖い怖い、なになになに。
 私一人だけなのに、テーブルの上には大量の料理。ああ、落ち着かない。確かに愛子ちゃんは今日おかしかった。いつもならもっと喋るのに、スマホをいじっている時間が長い。いや、愛子ちゃんが、というか、あの二人も。このディナーに誘われた時だって、愛子ちゃんの後ろで二人は少しにやにやしながら、小声で何かを話していたし、私が、「一緒に行く彼氏もいないしさ~。」と言った瞬間反応した愛子ちゃんを、茉莉ちゃんは気づいていなかったけど、美沙ちゃんは愛子ちゃんの反応を見た瞬間、少し笑った……。でも、今はそんなことどうだっていい。なにかの間違いでも、勘違いでも、今、あの三人はトイレで私の悪口を言っているかもしれない。やめろ、芽衣子やめろ。深く考えるな。大丈夫。心にいつでも王子様。
「ただいま~。」
 愛子ちゃんたちが帰ってきた。



「ていうか花火ってそんなにいいものですかぁ~? 蚊に刺されるし人も多いし、すごいむしむしするじゃないですかぁ~。」
「え~、でも大輪の花が夜空に咲くのよ! そんな一年に一回あるかないかの素敵な日に、素敵な男の人と一緒に過ごせるなんて、すごいロマンチックじゃない?」
「私、線香花火のほうが好きなんですよねぇー。なんていうか、風流で儚くてぇ~、二人だけの時間? みたいなぁ。」
 意外だった。驚くほどいつもの会話だ。美沙ちゃんと茉莉ちゃんが、“日本の美をわかっているロマンチックな私”対、“はんなり上品な一面もある私”をしていて、愛子ちゃんは会話に入ったり、スマホをいじったりしている。じゃあ、あのトイレは何だったのだ。ほんとにトイレに行っただけなのか?
「じゃあそろそろ帰ろっか。」
 そう言った愛子ちゃんのスマホ画面が、チラリと見えた。誰かとラインのやりとり、かわいいクマの有料スタンプ。



 今日は色々疲れた。結局最後までみんないつも通り普通だったし、ていうか、トイレに行ってから、“普通”になった。でも、まあいいか。と思う。今日は無事に帰ってこれたし、私はこれから予定がある。
 家の鍵をバッグから探して開ける。すぐに電気をつけて、すべての服を脱ぎ捨てる。ドレッサーの前に立つと、スポティファイに、ラムのラブソング、と打ち込む。

♪ あんまりソワソワしないで あなたはいつでもキョロキョロ

 鏡の中の自分は、薄幸な顔つきをしているが、それでも今日はいつもより少し口角が上がっていた。「かわいいは作れる!」と、自分に言い聞かせ、よし、と、気合を入れる。
 まず、アナ・スイのアイカラーを、シャンパンゴールド、パープル、スカイブルーの順に塗り、アイライナーを少し長めに引き直す。

♪ よそ見をするのはやめてよ 私は誰より一番

ポールアンドジョーの“おてんば娘”なる名前のチークを頬に重ね、ディオールの真っ赤なリップを唇にのせると、昼間の私とは明らかに別の顔をした誰かが、鏡の前でにやりと笑った。
 私の家、このしがないワンルームには、それに似合わずトルソーがたくさんある。それは母が服のデザイナーをやっていた関係で、引越す時にいくつかもらってきたものだ。そこから、ピンクの花柄ワンピース、黄色のカーディガンを着て、オリエンタル調の金と紫のネックレス、スカーフ柄のヘアターバンを巻き、大きい金のフープイヤリングをつける。昔おしゃれに凝っていた時分の産物だ。これで準備は完了。

♪ 好きよ…… 好きよ…… 好きよ…… いちばん好きよ1

 今日は私がキャサリンさんになるための大事な初日。これから、着替えた勢いそのままで夜の街絵飛び出すのだ。手始めにそうだ、うちの近くにできた、安いと話題のバーへ行こう。私はここから変身する。さなぎから出て、蝶になるのだ。
「いちばんっ好っきよ~~。」



 明らかに昭和に建てられたようなバブリーさが香る商業ビルの五階まで上がると、イエーガーのシカのエンブレムが貼られた、黒く分厚いドアが現れた。家を飛び出した瞬間から、もう別人だと自分に言い聞かせていたが、やはり緊張する。手のひらがじっとりと湿っており、ごまかすためにこぶしを握った。大丈夫だ。私はここから変わるんだ。弱い自分に勝ち、キャサリンのような強く美しい人になるんだ。金色のドアノブに手をかけ、いざ、中に入る。
「いらっしゃいませー。」
 私は背筋を伸ばし、こなれた足つきでカウンター席に座った。店員は黒髪マッシュの男性と、左の髪を耳にかけたチャラそうな眼鏡の男性の二人。どっちも二十代前半っぽくイケメンだ。暗めの店内が落ち着く。やはり私は暗いところが好きなのだ。客はほかにテーブル席に、ザ・今風の若者という感じの男女三人と、私の二つ隣の席に、アンクルージュのピンクのブラウスに、夢展望で買ったような黒の膝上スカートを履いた、黒髪セミロングの地雷系大学生っぽい女の子が座っているだけだった。女の子はうつむきがちにスマホを眺めて、ビールを飲んでいる。よく見ると手首には無数のリスカ跡がある。
「メニューこちらからお選びください。」
 渡されたメニューを開いてみると、おびただしい数のカクテルが書いてあった。でも、こういう店には何度か来たことがある。とりあえずジントニックとオリーブを頼んだ。
 紙のコースターに乗ってきたそれを一口飲むと、爽やかなジンの風味と、トニックウォーターの炭酸が涼しげで、とてもおいしかった。これだけで、今日はここにきて正解だったな、と感じてしまうから、私は案外単純なのかもしれない。
 しばらくお酒を飲んでいると、横からすすり泣く声が聞こえてきた。見ると、リスカ女子が、リスカ跡を搔きながら、カウンターに突っ伏すようにして泣いていた。私は、かわいそう、とか、なんで泣いているんだろう、とは思わなかった。
 私は今、試されている。ああ、どうしよう。何か力になってあげたいし、キャサリンさんならここで迷わず立ち上がるだろう。でも、私が行ったところで、何ができるのだろうか。野次馬根性丸出しの偽善者と思われるのが、関の山なのではないか。黒くネチョネチョとした思考が、私の脳に絡みつく。ああ、でも、ここで動かなければ、一生私は私のままだ。また私の保身を優先するのか、芽衣子。話しかけてあげよう。おせっかいかなとか、余計なお世話かなとか、もう、いいじゃないか。今現に、女の子が隣で泣いているのだ。話くらい聞いてあげよう。変わるんだ芽衣子。私はキャサリンだ。
「大丈夫?」
 私はその子の隣へ座り、できるだけ優しい声色で話しかけた。その子は、はっとした顔をして、「あ、すみません……。」と鼻をすすった。まだ腕を掻いている。私はそっとその子の腕に手をあて、「何か飲む?おごるわよ。」と聞いた。
「じゃあ……、芋焼酎ロックで。」
私も同じものを頼むと、彼女は、「わたし、彼氏に、捨てられたんです……。」と話し始めた。
「わたし、ねこみって名前で歌舞伎町のコンカフェで働いてて、人気はないんですけど。そこで知り合ったのが……、元カレのレオくんで。ホストだったんです。」
 ねこみちゃんはレオくんのことを元カレと呼ぶとき、少し詰まった。飼い主を失った子犬のようにうつむく。
「レオくんと出会ったのは、お母さんが家に彼氏を連れてくるようになって、店も家も居心地悪くて限界だったとき。たまたまわたしのお店に来たんです。わたしはその時、ああ、またほかの子のお客さんになるんだろうな、わたしなんかが新規さんといっぱい喋っても、迷惑なだけだろうなって思って、レオくんの席にはあまりつかないようにしていたんです。でもレオくんは、『ねこみちゃんともっと喋りたいな』って言ってくれて、わたしが、『うそばっかり』って笑ってごまかすと、まじめな顔して……、ううん、って……、それから、『チェキ撮ろ』って、言ってくれて、最後……、店を出るとき……、『ねこみちゃんとは、またこれからも、会う気がする。これからずっと、ふたり一緒にいる気がする。』……、って……。」
 ねこみちゃんはまた泣き出してしまった。その涙は、純粋で、かなしみの成分以外、なんのまざりっけもない、透明色をしていた。私はなんて声を掛けたらいいのか、わからなかったから、そっと、彼女を抱きしめた。透明色のかなしみが、ワンピースに染み込んでいく感覚が分かると、なぜか無性に彼女が愛おしくなった。
「一緒に動物園も水族館も、京都にも行くって約束したのに……!」
 彼女はまた、大粒の涙を流した。
 ねこみちゃんと付き合ってからレオくんは、彼女を店に頻繁に呼ぶようになった。「今月売り上げヤバいから」と、ねこみちゃんは毎月お金を貯めて、レオくんにシャンパンを下した。ねこみちゃんが、「お店以外であまり会えないし、助けるのももう無理」と言うと、レオくんは「売り上げがヤバいのはねこみちゃん以外と店外してないからだし、ねこみちゃんと会ってからは、枕も色恋営業もしてないから」とはぐらかされた。
 サンシャイン水族館に行く約束をしていた日、ねこみちゃんは朝早くから化粧をし、服を一時間近く悩み、お弁当を作ってレオくんの家に向かった。でもレオくんはその日とても病んでいて、「今日、行くのやめよう……」って。そのままねこみちゃんは玄関で泣き、「わかった。」と言った。お弁当は、一人で食べた。それでも、ねこみちゃんはレオくんのことが大好きだった。宇宙で一番、愛していた。



「わたし、もう死んだほうがいいですよね。」
 ねこみちゃんは少し落ち着いて、私にそう言った。リスカの跡を指でさらさらとなぞっていた。
「ううん。ねこみちゃんは何も悪くないよ。死にたいなんて言わないで。」
彼女はあきらめたような口ぶりで、
「でも、ほんとに死にたいんです。わたしバカだから、これから先幸せになんかなれないし、やっぱり、レオくんのことが今でも、忘れられないんです。」
と言った。
「私も昔、同じようなことあったよ。彼はバンドマンで、世界で一番かっこいいと思っていたし、世界で一番かわいいとも思っていたし、そんな世界には、彼しか男の人はいないと思ってた。でも、だんだん彼の気持ちが私から、離れていくのが分かって、彼はもう、私の身体にしか、興味がないんじゃないかと、思うようになった。そのときは死にたかったし、彼の家から、泣きながら荷物をまとめた日のことは、今でも覚えてる。でも、今になって、死ななくてよかった、散々な恋愛だったけど、彼と出会えて、付き合って、よかったなと思ってるよ。あの時流した涙は、私の生きた証なんだよ。つらいことも楽しいことも、それらが思い出になったとき、生きた証になって、いつか私たちを助けてくれるんだよ。今は死ぬほどつらいけど、その思い出は、あの時の涙は、この世でいちばん綺麗な、宝石になるんだよ。」
 だから、もうすこし、あと一歩、前向きに生きてみて、と、ねこみちゃんに言うと、彼女は泣きながら、私に抱きついた。服に染み込む彼女の涙は、もう、かなしみだけの透明では、なくなっていた。ほのかに暖かく、ゆっくりと染み込んでくるそれは、彼女の悲痛な叫びと共に、子どものように無邪気な暖色を感じさせた。もう二度と、この子がつらい思いをしませんように。私はひそかにそう願った。



 暗めの店内にビールのサーバーが音を立て、黄緑のネオンが店を彩る。帰り際、「じゃあね」と席を立って、バーの分厚いドアを開けようとすると、ねこみちゃんは、
「そういえば、お名前……、」
と言った。振り返ると、顔にネオンの黄緑があたる。
「ん~、キャサリンよ。またね、ねこみちゃん。」



 ある日、いつものようにふたりで、シングルベッドで寝ていると、彼はとても言いにくそうに、
「やっぱり……、別々で、暮らそう。」
と言った。私はその瞬間、驚きも、目の前が真っ暗にも、ならなかった。ああ、とうとう来たか。と、冷静に、ただただ、涙があふれた。この家で、ふたりで毎日夜遅くまでゲームしたこと、よく近くのドン・キホーテに、お酒とおつまみを買いに行ったこと、いろいろあったなあ。と、記憶が走馬灯のように流れ、涙があふれて止まらなかった。こうやって、ふたりで同じ天井を見つめることも、キッチンで笑いあうことも、もう、無いんだ。楽しかったなあ。本当に、楽しかった。
 私は彼のその言葉を聞いたあと、黙ってキスをした。覆いかぶさるように。これが最後のキスで、私が今まで彼を好きだったぶんだけ、めいっぱいキスをした。涙があふれてしょうがなくて、気づくと彼も泣いていて、ふたり何も言わないまま、号泣しながら、キスをした。
 私は水戸芽衣子。二十五歳。また来週。

夜行性OLの世界。

夜行性OLの世界。

東京都在住のネガティブで平凡なOL水戸芽衣子は、ある日バーでキャサリンと名乗る、華やかでちょっぴり不思議な女性と出会います。その出会いをきっかけに、芽衣子の運命は大きく変わっていくのですが……。 昼はOL、夜は、秘密♡東京の街を駆け抜ける、ちょい鬱伏線ヒューマンドラマ! 涙あり恋愛あり大人の事情あり、女の世界を生きるOL、水戸芽衣子ちゃんのお話です。 冒頭の文と末尾の文は繋がっているので、ぜひ最後まで読んでみてください。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-07-07

CC BY
原著作者の表示の条件で、作品の改変や二次創作などの自由な利用を許可します。

CC BY