レモンスカッシュ
僕が甥っ子と一緒に散歩に出かけたのは、午前11時くらいだったと思った。正確に時間を見たわけではないから、はっきりとは言えないけれど、たぶん、そのくらいの時間だったはずだ。
吹き込む風も、なんだか温かかった。甥っ子は時々走って先を行き、僕はそれを後ろから眺める、そんなことを繰り返しながら、ひび割れたアスファルトの上を歩く。
何だか世界が黄色い海に沈んだみたいだった。タンポポみたいな海藻、サンゴ礁みたいな桜の木。そのほとんどすべてが、黄色い海に沈んだようにきれいだった。
「ベートーベンが好きって」
自分の頭ぐらいあるヘッドフォンを付けて庭を走り回る甥っ子。おばさんは少し笑っていた。
「ませてるよね」
「まだ四歳なのに」
僕が四歳の時は、父の仕事の車の中でカクレンジャーのカセットを擦り切れるくらいまで聞いていた。父はカクレンジャーのイントロが始まるたびに不機嫌な顔をしていたのを思い出す。
「何が好きって言ってたんですか?」
「第九」
僕は、青汁を飲んだ後みたいに苦笑した。
「パンダがね、空の蛇口を捻ると雨が降るの」
甥っ子は一切表情を変えたことがない。笑ってるところを見たことがないし、転んでもただショックを受けた様に一瞬固まるけれど、また何事もなかったように走り出す。
膝から血がにじんでも、お構いなし。
「パ、パンダってどれ?」
あれ、と甥っ子は指をさす。それはモクモクと山の向こうの方から立ち上る積乱雲のことみたいだった。
あれがパンダに見えるのか、と感心していると、もう甥っ子はまた走り出していて、どんどん進んでいく。
薄い蛍光ペンのインクをぶちまけたような背景の中に、甥っ子は溶け込んでいく。
あんまり遠くに行くなよ、と歩いて追いかけていると、目の前をアロワナが横切っていった。
大きな目と鱗が、ゆっくりと真横に向かって進んでいく。僕は全身の毛穴が開いていくのを感じた。
何が起こったのか、もう一度確認しようと思って、アロワナの後ろ姿を追いかけても、何もいなかった。
正直、甥っ子はどうでもいいとさえ思ってしまった。一刻も早くここから逃げ出して、今まで起こったこと、警察か何かに叫び伝えたいと思ったけれど、遠くで甥っ子の声がする。
何やら興奮しているような、ものすごく楽しんでいるような、そんな声が、小道の奥から聞こえる。
甥っ子が何をみてそんな楽しんでいるのか、なんだか自分も確認しておきたいと思って、声のする方へ、お化け屋敷に初めて入ったときみたいに、ガードレールに縋りつきながら、ゆっくり前に進む。
「おじさん、こっちきてー」
また目の前をアロワナが泳ぎ去っていく。地面は三葉虫で一杯。もうすでに、何匹か踏みつぶした気がする。
昔、三葉虫を踏みつぶした人間の足跡が発見されたと嘘かほんとかわからない噂がネットで流れていたけれど、こういうことだったのかなとなんとなく理解した。
「はやくはやく」
早くとせかされても、どこにいるのか分からないのだから時間はかかる。その間に何度も三葉虫を踏みつぶす。
踏みつぶす度、きめの細かい泡がゆらゆらと現れて、ゆっくり天に昇っていく。悪気があるわけではないのに、なんだかすごく申し訳ない。
そうして、海藻みたいな背の高い雑草を手でかき分けたところに、甥っ子はいた。高く空を見上げて、満面の笑みを浮かべていた。
まず僕は、甥っ子が笑っているところを見たのに衝撃を覚えた。え、笑うんだ、と。それから、ごうんごうんと、ジェットエンジンがうなるような、低い音と、次第に視界が暗くなるのを感じた。
見上げると、色彩のない、薄い黄色一色の巨大なディプロカウルスが泳いでいた。泳いでいたというよりも、浮かんでいた。三角のでかい頭から下を器用にうねうねさせながら、ゆっくりと泳いでいく。その様は、マッコウクジラのようだった。
そのディプロカウルスが、サイレンみたいな鳴き声をさせながら、潮を吹いている。それはさながら天気雨みたいに、黄色い世界の中に、青くしみこんでいく。
「ディプロカウルスってあんなにおっきいんだね」
黄色と青が混ざり合って、世界は新緑が覆いつくすみたいに、黄緑色になっていく。花が開くみたいに、新しい緑の葉っぱが、両手を広げていく。
もうなんでもいいやと、僕は口をぽっかり空けながら、空を見上げる。
爆撃機みたいなディプロカウルスは、ゆっくりと山の背中の向こうに消えてゆき、その飛行機雲みたいに残った軌跡から、スカイブルーの空がのぞいている。
「ディプロカウルス、かっこいいなぁ」
株価が大暴落していく様を眺めるサラリーマンみたいに、僕は全身の力が抜けてその場にぺたりと崩れ落ちてしまった。
一体何が起こったのか、僕にはさっぱり理解が追い付かなかった。
「さっきさ、すごいものを見たんだ」
おばさんは、食べ終わったお昼ごはんの食器を忙しそうに片づけながら、めんどくさそうに返事をした。
「散歩してたら、目の前が黄色くなって、こーんなでっかいアロワナが」
「疲れてるんじゃない?」
甥っ子は、相も変わらずヘッドフォンをしながら、何事もなかったかのように庭を走り回っている。
「嘘じゃないって」
信じてもらえるわけもない。言ってる自分がどんどん疲れてきた。
三葉虫だのアロワナだの、言ってる自分は、ほとんど狂人だと思う。
でも、あんな風に世界を見る事が出来たら、きっと今よりも、もっと楽しくて、かっこよくて、美しいのかもしれない。
何気なく転がっている小石にも、川のせせらぎにも、すべてに意味があって、それを感じることができるなら、自分の周りに起こることは、すべて美しく見えるようになれるんじゃないか、なんとなく、そう思った。
そこまで考えて、少し気持ち悪くなった。子供に踊らされてる感じがして、どうにも、やな感じがした。
レモンスカッシュ