名前も知らない【17】

古瀬

名前も知らない【17】
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17-1

17-1

 あの町にいる頃は、毎年、年の瀬になると着るものを一枚少なくしていた。制服の中に着ていた長いTシャツをやめて半袖にしてみたり、厚着すると汗をかくからとコートを避け、薄手のジャケットのままでいたりした。
 風邪でもひかないかなと思っていたのだ。年末年始が嫌いだった。とにかく挨拶づくしで、ひっきりなしに他人と会わなくてはいけなかったから。

 一番憂鬱だったのは、年始の挨拶だった。
 祖父の会社の後継者である喜朗伯父の家に親族で集まるのが毎年のきまりで、一族が集まっての宴はひどく長く退屈だった。母は伯母達と共にせわしなく台所で立ち働いていて、子供達もそれぞれ何となく集まってはいたものの、そこまで仲良く遊んだというわけでもなかった。
 喜朗伯父の家にはふたりの娘が、その下ふたりの伯父の家もどういうわけか女が多く、男子は僕のほかにひとりしかいなかった。従兄の一路(いちろ)はひ弱な大人しい男で、あまり僕とは共通点もなかった。同じクラスにいても、ほとんど言葉を交わすことはなかっただろう。声がひょろひょろと細くて、そのくせちょっと棘のある物言いを好んだ。正直、彼には好かれていなかったと思う。
 何となく所在がないまま、僕は父のすぐ上の達夫伯父の横に腰を下ろしていた。この人のことは好きだった。気取りがなくて、好奇心が強い人物だったから。元々伝統的な技法で製糸から製織までの加工を行っていた祖父の工場に、これからは機能性の高い繊維を使ったテキスタイル製品の製造も加えていくべきだと提案したのが達夫伯父だった。熱心な性格で、それを実現化すべく日本中を飛び回っていた。関東全域に展開しているスーパーのプライベートブランド品の生産委託が持ち込まれたことをきっかけに、今の規模まで事業が拡大したらしい。彼がいなかったらきっとここは小さな町工場のままだった、と皆が言う。
 男の子が家にはいないからと、達夫伯父は子供の頃から僕を気にかけてくれていた。何度か一緒に釣りに行ったこともあるし、娘には通じないからと言ってプロ野球や車の話題を僕に振ってきた。
 その日も、彼と隣り合って座って野球の話をしていた。伯父はほろ酔いで、僕の話を聞いているのかいないのかわからないような相槌ばかり打った。ひどく機嫌がいいということは伝わってきたけれど、酔った大人にそこまで免疫がなかった僕に少しの戸惑いも与えていた。
 遠くのほうに座っていた、社長である喜朗伯父が自分のほうを見ていたことにもまだ僕は気づいてなかった。

 達夫伯父が手洗いに立った時だっただろうか。
 ふらつく伯父のために少し腰を上げて場所をあけた僕を、喜朗伯父が手招いた。亮太、ちょっとこっちに来なさい、と。酒豪の彼はすっかりできあがっていて、周囲の大人達がさりげなくたしなめた。彼の妻がテーブルの上を片付けながら「そんなに酔って亮ちゃんに絡まないでくださいな」と言い、僕に向かって「手がかかるから受け流してね」と苦笑いしていたのも覚えている。両親はいなかった。父は何かで席を外していて、母は台所にいたのだろう。
 少々緊迫した気持ちで、僕は彼の隣に腰を下ろした。
 伯父はテーブルの端のほうに伏せてあった未使用の小さなグラスに手を伸ばして、僕にそれを手渡した。ためらいなくビール瓶に手を伸ばすのを周囲は止めたけれど、お構いなしだった。
 真っ赤な顔をして、彼は僕のグラスに半分ほどビールを注いだ。
 まあ飲め、と言われて、それを口に含んだ。少し温くなった、何とも言えない苦みが口内に広がり鼻へと回る。ちっとも美味くない。舌の上から追い出すように思い切って飲み込むと、喜朗伯父はいいぞと笑った。
 何度かそれを繰り返した後で、彼は僕にいくつかの質問をした。学校のこととか、友人のこと、それから何かひどく難しいような――あまりよく覚えていないけれど、それはちょっと抽象的な質問だったはずだ。今で言うトロッコ問題みたいな、心理とか倫理に強く関わるような。
 おまえはどう思う? という言葉に、思いつくままに僕は答えた。飲み慣れないアルコールによってかっかと火照る顔のまま、半分くらいは自棄に近かった。早く帰りたかった。ここにいると、したくないことばかりさせられる。
 
 僕の返答に、伯父が少し目を大きくした。
 次の瞬間、彼は大きな声を上げながら僕の背中を大きく太い手でばんと叩いた。そうか、そうか。おまえはやっぱりどこかじいさんに似ているな、と。
 そして幸福そうに酔っぱらった彼は、大声で続けたのだ。

 ――おまえのほうがよほど利発だね。父親よりもずっと、人の上に立つ器だ。いや、鳶が鷹ってやつかなあ。

 宴の席に父が戻って来たのはそれから二分後くらいだったけれど、その後の従姉の言葉から、彼がその部屋のすぐ外にある縁側にある椅子に腰を下ろしていたと知った。具合が悪いのかと思って声をかけたけれど、何でもないと言っていた、と。
 その日の帰り道から、父の様子がおかしかった。彼は始終不機嫌で、それから一週間ほど僕の顔を見るたびにごく小さな音で舌打ちをした。僕がそこにいる時だけ、乱暴に大きな音を立てて部屋のドアを閉めた。
 何かが狂ってしまったのは、きっとあの日からだった。


「とりあえず、拠点はここってことでいい?」
 部屋に入ってすぐにそう尋ねると、隣に立っていた妹が端っこにしたい、と言った。誰もいないその部屋の窓側の隅にある、ファミレスのブースのように向かい合って設置されたベンチに向かって歩き出す。母がそれに続いた。
 エタノールの匂いが広がる廊下の先に、壁一面が窓になっている談話室があった。自販機と小さなシンク、それから雑誌や古びたコミックが詰め込んであるカラーボックスもひとつ、入り口付近に設置してある。入った先には同色のベンチやテーブルがあちこち配置されていた。前回は夕日を遮るために閉められていたレースのカーテンが、今日はあいている。
 四月二十五日、午前十一時。
 僕はもう訪れるのも三度目になる、故郷の総合病院にいた。

 手術室のドアが閉まると同時に、担当の看護師に申し訳なさそうに言われた。実はこの階には専用の待合室がないんです、と。身内の方は病室か病棟の談話室を使っていただくかたちになります。連絡さえ繋がるようになっていれば、院内のカフェや売店も自由に利用していただいて構いません。長くなりますから、お食事もしてください。
 父は数分前に自らの足で手術室に入っていき――本人も身内も病室からストレッチャーのようなもので運ばれると思っていたので、これには驚いた――重いドアが閉まったばかりだった。
 看護師の話に母は頷いていたものの、不安げな表情で手術室の扉を見つめていた。
 予定通りに進んだとしても、手術が終わるのは十八時前後になると聞いている。

 手術に向かう前、母と妹が父を励ました。麻酔をすればすぐに終わるから、とか、大丈夫よ、きっとうまくいく、とか。ひとしきりそんなことを繰り返しながら、彼女達は涙ぐんだような表情で父をじっと見た。
 後ろのほうで黙って見ていた僕に、父がふと顔を上げた。おまえは何もないのか、と言うので、何か言って通じるのかよ、と答えた。
 父が苦い顔をしたので、話は後で聞いてやる、先生や看護師さん達を待たせて迷惑をかけるなと続けた。それ以上は何を言っても逆効果だと思った。現実なんてこんなものだ。上出来だろう、と。
 父はやれやれといった調子で頷いた。

「付き添い人数に制限があって良かったよね」
 人心地がついたのだろう。ベンチに腰掛けた絢乃が、小さなため息をひとつついた。妹の言う通りだった。やはり親戚のうちの何人かが、手術当日は病院まで行くと申し出ていた。パンフレットに書かれていた通りの規則を母が諳んじて、やっと引き下がったらしい。心配している響きではあったけれど、そこまでうちと関わりがあったわけでもない人物なのが不思議だった。
 母はまだ青いような顔をして、居心地悪そうにそわそわとしていた。ハンドバッグを手にしては膝の上に戻し、腕時計と壁掛け時計を交互に見比べている。

 開けてみないとわからないです、と医師が言ったのを思い出した。
 切除が必要な部分がどれくらいあるのか、他の臓器との癒着があるか、あるとしたら、その範囲も。検査の数値から予想できる範囲の通りとも限らないのが今回のケースで、場合によっては大幅に長引くこともあります。
 本人は医療の進んだこの時代にそこまであいまいなことがあるのかと驚いていたけれど、最終的にはそれを受け容れた。
 
 妹に腕をさすられていた母の顔色が、少しずつ取り戻されていく。
 発覚してから約一年、病院通いと親戚付き合いで動き回っていたのを思い出した。気丈に振舞っていたけれど、元々はそこまで強い人ではないのもわかっていた。
「義兄さん達に連絡をしないと」
 少しの間の後にそう言って、母がよろよろと立ち上がろうとする。妹はそれを支えるようにして、もうちょっと待ってからでもいいよ、と告げた。
「でも、皆待ってるから」
「――しなかったらむこうから来るしね」
 話しながら納得したのだろう、妹は立ち上がった母に合わせて腰を上げた。
「お兄ちゃん、荷物」
「見てるよ」
 手短に答えると、妹は頷いて母の背に手を添えた。
 ふたりはゆっくりと、談話室の端にあるバルコニーに続く扉に向かって歩いて行った。

17-2

 父親の命運が決まる日だというのに、外は能天気と思えるほどに晴れていた。のどかでのんびりとした、何の変わりもない春の日だ。
 この季節もよく外に居たな、と思った。河川敷、あの公園、古びたゲーム機が並ぶさびれたゲームセンター。学校の自販機にあった紙パック飲料の人工的な果物の香料の匂い、気持ちのやり場に困って走らせた自転車のハンドルの感触。着崩した制服姿で、あかるく物分かりの良い堀井くんを演じながら、あの頃の僕は内心で確かにのたうち回っていた。
 ずっと先の未来まで用意されていた、僕の生まれた町。

 かつて向かった遠い街の、大通りの景色が頭に浮かんだ。
 トロントの、ムンバイの、ハノイやアムステルダムやプラハの景色だった。安宿の窓から眺めた光景、それぞれの土地の街灯や人のざわめきの記憶が蘇った。
 まるで違う匂いのする、漂う雰囲気の異なる場所。気が遠くなるような、それでいて常に緊張感が身体のどこかに残り続ける、旅は僕にとってそういうものだった。異国にいることの独特の手ごたえだ。ここより安全ではない、でも誰かの日常が繰り返されている場所。
 僕にとって、そこは確かなものなんて何もない場所だった。放り出されて、等身大にさせられて、自分がどれだけ大胆になれるか、あるいは臆病な人間か教えられてしまう。
 そこで向き合うことになった自分は、やはりひどくちっぽけだった。
 期待するほど強くもなく、けれど信用できないほど弱くもない。
 その等身大の自分に会えることが、僕にとっての旅の魅力だったのかもしれない。

 すっかり歩き疲れた頃に、一瞬だけ自我が飛んでしまうことがあった。
 自分が誰なのかとか、帰ったら待っている生活とか、生きていく上でついてくるあらゆる煩わしさが疲労によって吹き飛んで、何にも知らない本能だけの生き物みたいに思えるのが。

 その瞬間、視界が突然強く色づく。
 捕まえられない、留めておけない、生き生きとしたものがそこらじゅうであふれて、苦しいくらいに見えてくる。いつもの自分じゃない、もっと深い場所で何かがうごめき、喘ぐ。
 産み落とされて、手探りで、まだ迷いながらここにいる。ただそれだけのものに戻れる瞬間だった。
 ただそれだけのことの中にある歓喜と悲鳴が、身体の中で痛いくらいに瞬いた。
 僕が知っている思いのすべてが、その瞬間に凝縮されたように、ただ強く。


 電話を終えた足で、母と妹は昼食を買いに購買のほうへと出向いて行った。電話の相手に励まされたのか、手術室の前にいる時よりも表情が和らいでいた。
 病棟には、ごく小さな音でクラシック音楽が流れている。ナースコール、点滴スタンドが廊下を滑るキャスターの音、正午前、薬やお茶を配っているのだろう慌ただしい人の行き交いが少し離れたここにも聞こえてくる。
 僕はスマートフォンに届いていた千紘と裕道からのメッセージに返信した。時間通りに始まったこと、終わったらまた報せる、とも。
 既読になるのを確認する前に、スマートフォンを再び上着のポケットに押し込む。
  
 疲れていたのかもしれない。
 談話室の窓辺で、僕は西日を左腕に受けながら微睡んでいた。


 絢乃が生まれた日のことを覚えている、と言っても、あまり信じてはもらえなかった。
 妹が生まれた時、僕はまだ四歳だったから。

 滑り止めとして細かく線の入ったゴムのようなマットが敷かれたスロープが、分娩室の前に敷かれていたこと。そこから少し離れた場所に設置されていたベンチに、父方の祖父母が座っていたこと。
 欲しかったわけでもないけれど、祖母はその階に辿りついてすぐに自販機で僕にジュースを買ってくれた。うすい味のオレンジジュースで、量が多くて少し持て余した。
 大人たちの会話にも飽きて、僕はベンチの端に座っていた。産婦人科のピンク色のカーテン、小さな花柄の壁紙、母はかわいいと言っていたけれど僕はそう思えなかった、あの頃どこでも見かけたモンチッチの人形。

 父は分娩室の前で、そわそわと落ち着かない様子だった。
 親戚達の中にいるのがいやで立ち上がって父に近寄ろうとすると、祖母が僕の動きに目ざとく気づいて言った。パパをそっとしといてあげなさい。
 うん、と頷いて、僕はもう一度そこに腰を下ろした。
 分娩室のドアがひらいて、父が倒れこむように前傾した姿勢で医師に声をかけるまで。

 女の子が生まれたこと、母子ともに健康であることを告げられると、周囲にいた大人たちはそこで喜びに沸いた。
 子供が生まれるということがどういうことなのかわかっていなかった僕は、そこで妙に気持ちが遠ざかって、ぼうっとした気分でその場を眺めていたのだ。

 夢だったのだろうか。
 絢乃の生まれた病院の記憶はそこで消えて、気づけば僕の隣には知らない男が腰を下ろしていた。
 座っていたベンチの座面の色も、目の前に重なっている母や妹の荷物もそのままなのに、部屋の中の空気は先ほどまでのそれではなくなっていた。春の日差しに満たされた、音のない、どこか遠くの時間の流れが入り込んでいるようだった。
 これもきっと夢なのだろう。時折ある、うたた寝のあいまに見てしまう白日夢。

 そこにいたのは、僕にとてもよく似た、三十代前後の男だった。
 背格好もほとんど変わらなさそうだったが、相手のほうが痩せて小さく見える。
 僕は確かに下を向いているはずなのに、その男の姿ははっきりと目に映ってきた。
 
 男は、見るからに気弱な感じがした。何かに怯え、いじけていた。
 そしてさらに深いところでは、置き去りにされた冷たい怒りを抱えていた。
 気弱でありながらも、ある種の卑屈さと横柄も感じる。攻撃性が出ることもあるのかもしれない。誰にでもじゃない。そうする相手は選ぶのだろう。
 男は僕の隣で俯き、かちかちと苛立たしげに歯を鳴らす。時には、すでにぼろぼろになった爪を噛む。落ち着きがなく、挙動も不自然でどこか不気味だ。
 それでも、もしも今看護師に声をかけられたら焦ったように愛想を相手に向けるだろう。他人が怖いんだ。敵ばかりで、簡単に誰かに心だって許せない。気を許した相手にはどこまでも許されたくて、どこまでも入り込んでしまう。食らえるだけ食らって、それでも足りなくて、嘆きの中で相手を批判せずにはいられない。
 自分の中にある怖れと怒りでできたぬかるみに胸まで浸かって、それ以外の道に向かって動けない男。絶望感と自己憐憫。深い深い孤独。
 皺になった黒いジャケット、青白い顔に濁った瞳。
 手入れのされていない、油っぽく伸びた髪。

 僕はその男の姿を、目を閉じたまま静かに眺めていた。
 誰なのかは、途中で気が付いていた。

 この男は、あの時代の父に負けていたらなっていただろう僕だ。
 この町から出ることもなく、彼の用意したルートを歩く以外の道を思い描くこともできないまま、時間だけが過ぎていった僕だ。
 自らを売り渡し、父の引け目や心の闇をあのまますべて引き受けて、彼の世界に同化してしまった、僕ではない僕の姿だった。

 ああ、俺こういうふうになるところだったのか。
 櫂谷や嶋岡と会い続けることもない、あの国の、あの街の景色すら知らない。あの旅もできない、あの場所も知らない。
 そして、あの人の笑顔や傷跡に触れることもない――。
 
 哀れに思った。
 それは、何かが違ったらなっていたであろう僕であると同時に、父親の内側の姿そのものに思えたからだ。
 
 こっち向けよ、と声をかけた。
 男はゆっくりと、僕にむかって顔を上げた。

 ――もういいよ、そんな姿しなくても。
 ――俺はもう、そっち側に行くこと、ないから。
 ――俺に、来るなって言いたくて、現れてたんだろ。

 口にしながら、そうだった、と思い出していた。
 昔から、焦りとともに見ていた夢の中にこの男はたびたび現れていた。その姿で、言葉なく僕に語り掛けていた。
 おまえはこっちには来るな。早く引き返せ、ここから逃げろ。生き延びられたら、どうにでもなる。
 おまえの中の、光を殺すな。

 僕の放った言葉に、男は少し驚いたようだった。
 そして、戸惑ったように揺れながら彼は僕の視界から消えていった。



 手術の翌日、病院の一階ロビーでじゃあまた連絡して、と母に告げて家族と解散した。
 昨日は遅くに帰宅してそのまま実家に泊まり、今日は面会時間に合わせて同じように病室を訪れていた。ふたりとも、今日はこのまま夕方までここに残ることになっている。おそらく、親戚も数人は訪ねて来るだろう。
「駅まで送るけど?」
 絢乃が車のキーを取り出そうとする。
「いや、いいよ。実は裕道が仕事で近くまで来てるらしくて」
「裕くんが?」
 絢乃の表情がぱっとあかるくなった。
「寄るの?」
「いや、少し落ち着いたら改めて来るって。適当に連絡して拾ってもらうよ」
 鞄を背負いなおしながら告げる。絢乃が少し残念そうな顔で僕を見た。久しぶりに顔を見て話をしたかったのかもしれない。裕道の人懐こい人柄はうちでも一定の支持がある。

 何も言わないでいる母のほうに目を向けてみる。
 昨夜は落ち着かなかったのかもしれない。あまり眠れていないようで、顔色があまり良くなかった。気丈に振舞って見せてはいるけれど、母はここ半年でひどく消耗している。
「今日はちゃんと寝て。とりあえず、終わったんだから」
 肩に手を乗せて告げると、母は頼りなげに頷いた。ええ、と。僕や妹の言葉がどれだけ母の心を落ち着けられるものかわからないけれど、それでも繰り返す必要があった。
「俺も連絡するから」
 小声で妹に告げると、絢乃は強く頷いた。

 あまり外の陽が入らない、暗いロビーを通り過ぎる。
 ひらいた自動ドアの先にある大理石のスロープを降りて病院を出た瞬間に、空気が変わった気がした。
 昨日談話室から見下ろしていた、春の日差しに照らされた故郷の空気を深く吸い込む。風の匂い、飛び交う言葉のイントネーション、空の広さ。
 スマートフォンを手にしながら、僕は南東に向かって歩き出していた。
 大通りをしばらく進んで信号を右に、懐かしいあの河川敷へと僕は向かっていた。

 少しずつ、進む足取りが早くなっていく。
 駆け出したっていいはずなのに、力を込めて地を踏みしめなければ心と身体がばらばらになりそうだった。アスファルトを照らす光が強くて、首筋のあたりに熱が簡単にこもってしまう。じれったい、とわずかに苛立ち、それをなだめるように足をまた前に進ませる。
 身体を連れて行かなければ、心だけがそこを目指してしまいそうだ。
 置いていかないように、手足に力を込めて前に進む。

 やがて見えてきた大橋は、子供の頃から数えきれないほど渡ったものだ。手前で横道に入る。
 射す光を遮るものが何もない、視界いっぱいが眩しい場所だ。
 淡い緑色が風に吹かれてさわさわと揺れている。


 少し離れた所で、階段の端に腰を下ろしていた人影がゆっくりと立ち上がった。
 いつかのような弱々しい動きではなかった。健康的な、そして少しだけ陽気な気分でいるのが動きから伝わってくる。
 つばの広い帽子の下で、肩につくくらいの、今は抑えられた色の髪が風に揺れている。少し外にはねる、軽い感じの髪型だ。シンプルな形のブラウスに、幅の広いパンツをはいている。服についた土埃を軽く払うような仕草をしている。
 景色を楽しんでいたのかもしれない。僕の生まれた町の、春の光景を。
 
 声を上げるよりも先に、彼女が何かに気づいたような様子で顔をこちらに向けた。
 そして、僕と目が合う瞬間にはもう千紘は笑っていた。

 ――お疲れ様。

 口の動きだけだけでそう言った彼女に向かって歩き出す。
 心臓が痛い、と思った。勝手に、感情が動き出してしまう。この重いものはしばらくこのままにしておきたかったのに。ひとりになるまで、胸の中に閉じ込めたままにしておきたかったのに。

 何かから奪い返すみたいに、僕は彼女を胸に引っ張り込んだ。
 人も車も通らないけれど、見通しは良い場所だ。千紘は少し驚いたような声を上げたけれど、同じように僕の背中に腕を回した。柔らかな腕の感触。いつもの彼女の匂い。

「うまくいっちゃったよ」

 冗談みたいに伝えるつもりだったのに、いまいち上手にいかなかった。
 僕の声の震えに、きっと彼女も気がついたのだろう。胸のあたりから、小さな声でうん、と聞こえた。僕の気持ちをただ受け止めるためだけの、静かな響き。

「あいつ、きっとまだ生きる」

 言いながら、僕は強く湧き上がってくるもののために身構えた。すでに自らの声の中に、それはにじみ出てしまっていた。安堵も疲労も失望も、あの日から長く続いた罪悪感も。
 心臓が、強く収縮するように痛くなった。深いところから絞り出されるように、ひらいたところから感情があふれてくる。きっと逃げられない。
 だからせめて、この痛みが通り過ぎるまで彼女を抱きしめていたかった。
 
 心の底から押し出されて僕を飲み込んだその思いを、止めることはできなかった。
 自分の泣き叫ぶ声が、胸の中で鳴り響いた。
 これは本当に俺のものなのか。頭の片隅でそう思う。
 こんな悲鳴を、俺は抱えて生きていたのか。あの日から。

 俺はあんたを追い詰めようなんて思ってなかったよ。
 ただ、他の何かにはなりたくなかったんだ。あんたを安心させるため、脅かすひとりにならないため、それだけを理由に別の人間になることはできなかった。譲れなかった。
 あんなの、酔っぱらいの戯言じゃないか。
 高校受験すらまだの、ちょっと口のたつ若者に酒で陽気になっていた伯父がちょっかいを出しただけ。当人はその日の夜には忘れているかもしれない、そんな一言にどうしてあそこまで固執したんだ。
 たくさんの人を傷つけて、気を遣わせて、それぞれがあんなに傷だらけになってまで。
 
 この痛みと憎しみは、一生持ち歩くものだと思っていた。
 重かった。
 重くて重くて、あまりに痛くて、いつだってつぶれてしまいそうだった。

 ひとりではどうにもできなかった重荷が、痛みを伴いながら心の中で剥がれていく。
 千紘はそこで、僕の嘆きを共に受け止めてくれた。

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名前も知らない【17】

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日 2021-07-03

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