果てへの旅路『王子様と大白鳥座』

 蹄が小枝を踏みしめる音が辺りに響く。霧に包まれた森の空気は刺すように冷たく、旅人は首元に巻き付けた布の奥で浅くゆっくりと呼吸を繰り返した。旅人の跨るそれは、鹿のような山羊のような、はたまたトナカイのような、そしてそのどれとも違う姿をしていた。大きく左右に広がる角には、様々な色をした幅の広い紐が絡みつき、彼が歩みを進めるたびにひらひらと揺れた。旅人の後ろに乗せられた荷物は、いくつかの布をまるめたものと、跨るように乗せられた左右一つずつの包みだけだ。その荷物の少なさから旅人が行商でないことがわかる。
 自分たちが歩む音以外はほとんど何も聴こえない世界。
 だが、二人の耳には絶えず森の音が響いていた。表層の音の下に流れる森の音、空気の音、そして、命の音。少しずつ晴れてきた霧を通して、うっすらとした日の光が二人を照らした。もうすぐ森を抜ける。夏になればたわわに実るであろうベリーの茂みが遠くに見えた。その奥には村がある。旅人はほんの少し暖かくなった空気を深く吸って、ゆっくりと空を見上げた。
この物語は、旅人とミラが世界の果てへと旅をする記録である。

『王子様と大白鳥座』

 対岸の見えない広大な湖は凪いでいた。曇り空を映した薄灰色の水面には一羽の水鳥も浮かんでいない。魚の跳ねる姿も、それがつくる波紋も見ることはできなかった。二人は渡しのために繋がれた小舟を拝借し、ゆっくりと湖面を滑り始めた。船の先が矢のように水を分けて進んでいく。風がすこし強くなった。湖面を走る風が旅人の耳を凍らせんばかりに吹き付ける。旅人はかじかむ手でオールを握り、なるべく手を濡らさないようにしながら漕ぎ続けた。
 湖の三分の一くらい来たところで、旅人は手を休めた。舟はわずかに進み続けている。旅人の前に乗っていたミラがゆっくりと立ち上がり、振り返って旅人を一瞥すると、舟の外へ一歩踏み出した。舟を揺らすこともなく、ミラは湖面に立った。そして一歩、一歩と湖面を進むごとにミラの体は靄のようにぼんやりと辺りに溶けだし、やがて広がりながら進む靄となった。靄はやがて湖全体を包み込んだ。旅人はまた舟を漕ぎ始めた。起ちこめる靄は濃く、旅人は自分の手元も薄ぼんやりとしか見えていない。まるで雲の中を進んでいるようだった。さっきまでの寒さは感じられず、舟を漕ぎ続けても息が切れることもない。旅人の握るオールが水面に当たる、持ち上げられたオールが水面に水の粒を落とす。それを幾度となく繰り返すが、旅人の耳にその音は聞こえなかった。湖面を滑る風の音も、舟の軋みも何一つ聞こえなくなった。口笛を吹く、声を出してみる、舟の縁を叩く、なにをしても無音だった。
 それから舟を漕ぎ続け、やっと岸が見えた時、突然、旅人の耳に数多の音が流れ込んできた。ぱしゃりぱしゃりと規則的に水を叩くオールの音、自分の息遣い、服のすれる音。それは旅人の舟が靄となったミラから抜けたことを表していた。旅人は自分の背中がじっとりと汗ばんでいることに気づいた。一体どれほどの時間、彼は舟を漕ぎ続けていたのだろうか。靄は跡形もなく消え去り、対岸がはっきりと見えている。
「ミラ、待たせたね」
 岸に舟をつけて旅人が声を掛ければ、靄から蹄をもつ姿に変えたミラがゆっくりと近づいてきた。

 湖から森に入った二人は、行商やこの近くに暮らす人々が通っていると思われる狭い道を進んだ。道の脇には旅の安全を祈る小さな像があった。旅人はミラの背から降り、像の上に降り積もった雪を払った。もう随分と昔からこの地にあるのだろう。その像は苔むし、どのような姿をしているのか、はっきり見ることはできなかった。
 ミラが急かすように鼻先で旅人の肩を軽く押した。空が暗くなり始めている。旅人がミラに跨ると、ミラは先ほどよりも少し早く歩みを進めた。
 すっかり日が落ちた頃、二人は今晩のねぐらとした大木の洞に入っていた。洞は広く、旅人とミラが一緒に入ってもまだ余裕がある。洞のすぐ近くで焚火を起こし、旅人は干し肉のスープを作り始めた。そろそろ干し肉が柔らかくなっただろうと旅人が味見をしようとした時、近くの茂みからがさりと音がした。旅人は咄嗟に身を低くして、音がした方をじっと見つめた。獣の匂いも、金属のこすれる音もしない。横目でミラを見ると、耳を立てることもなく、ただ茂みを見つめていた。その様子に緊張を解いた旅人は、その場でゆっくりと立ち上がり声を掛けた。
「こんばんは、どなたでしょうか」
 しばらく待ったが、返事は来ない。旅人がもう一度声を掛けようとした時、茂みからゆっくりと一人の男が姿を現した。
「あ、怪しい者ではない、その……」
 両手を顔の高さにあげたその男は、茂みから出るとすぐに膝をついた。
「さ、山賊ではないし、泥棒でもない。本当に……」
 男は森の中にいるには不釣り合いなほど、豪華な身なりをしていた。腕輪や指輪と言ったものはほとんど身につけていないが、上等な刺繍のされた服に身を包み、温かそうな毛皮の帽子を被っている。靴はぼろぼろになっているが、元は毛皮のついた形の良いブーツだろう。
「どなたでしょうか」
 旅人から先ほどと同じ質問を投げられた男は、迷うように視線を彷徨わせ、やがて決心したように口を開いた。
「私はリンクル王国の第二王子だ。追ってから逃れるために、この森に入った」
 リンクル王国、旅人は少し考えてから一つ頷いて男に会釈をした。
「こんばんは、王子様」
 王子と名乗った男は旅人の反応に驚いた様子で、まじまじと旅人を見つめた。それを気にすることなく、旅人は焚火にかけていた鍋をいじった。木の匙でスープをかき混ぜると、辺りにいい匂いが漂った。旅人は出来上がったスープを二つのカップに注いで、その一つを男に差し出した。
「どうぞ」
 座り込んだままの男は、またも驚いた様子で差し出されたカップを見つめた。
「干し肉のスープです。変なものは入れていません」
「あ、いや、違うんだ! 決して疑ったわけではない……ありがとう」
 男は両手でカップを受け取ると、スープの香りと温かな温度に目を細めた。旅人は自分の分のスープを飲みながら、ぼんやりと星空を見上げていた。月が出ていない夜空には、数え切れないほどの星々が瞬いていた。
「今晩はつらら座がよく見える」
「つらら座?」
 首を傾げた旅人に、男は青く輝く星を指さした。
「あの星を頂点にして細長い三角形に見える星の並びのことだ。つららのように見えるから、つらら座と呼ばれている」
 旅人はもう一度つらら座を眺めてみたが、どうしてもつららには見えなかった。なんとも言えない顔をしていた旅人に男は小さく笑った。
「星座とはそういうものらしい」
 旅人は星座を知らなかった。旅をする者は夜空に輝く星の位置で自分の進むべき方向を判断すると言うが、旅人の進むべき方向はすべてミラが知っていた。ミラの足取り、ミラの目線、それから風の向きや雲の流れ、そういったものから旅人は自分の進む方角を察知していた。夜空は星にあふれ、もしすべての星がなんらかの星座を形作っているとしたら、空には覚えきれないほどの星座があるということになる。つらら座は全くつららには見なかったが、他の星座はどうなのだろう。
 旅人が何を考えているのか、目の前の男はわかっていたようだ。男の指が順に星を指さして、星座の形をなぞる。匙座、大釜座、狼座、腕輪座、大鳥座……。しばらくそうして星座を指していた男の指が降ろされ、男は旅人に向き直ると、姿勢を正し、口をつけていないカップを旅人に手渡した。
「旅の人、温かいスープをありがとう。こんな風に誰かと話したのは本当に久しぶりだ。リンクル王国ははじめて星座というものを発見し、定めた王国として名を馳せていたから、星座は私たちにとって特別なものなんだ」
 焚火の傍に腰を下ろした男の瞳に濃い橙色の炎が映る。旅人は男から渡された冷めたスープを飲み干すと、男に向き合うように腰を下ろし、その穏やかな顔を見つめた。
「リンクル王国は80年ほど前に滅びたと聞きました」
 はっきりと、しかし、ためらいを隠し切れなかった旅人の口調に、男は寂しそうに眉を下げた。
「きみの言う通り、リンクル王国は滅びた。私は追ってから逃れるために雪深い季節にこの森に入り、何日間かもわからない間、逃げ続けた。そして、気づいたら死んでいた。亡霊と呼ばれるものにでもなってしまったのだろうな。昔は私の姿を見たり、声が聞こえる者もたまにこの森に入ってきたが、今はほとんどいない。だからきみ達を見かけた時、つい近寄ってしまったんだ」
 男は旅人の斜め後ろに座るミラを見つめた。ミラも男を見つめ返す。
「きみ達はどこに向かっているんだ」
 ミラを見つめたまま投げられた問いに、旅人はしばらく考えてから口を開いた。
「私たちが向かうのは世界の果てです」
 音もなく立ち上がったミラが男に近づく。男はわずかに体を硬くして言った。
「伝承では聞いたことがある。だが、本当に実在するとは……黄昏の、」
 ミラがまた一歩進み出ると、男は言葉を止めた。ミラを見つめる男の目には畏敬と純粋な恐怖が混ざり合っていた。
 ミラが下を向き、その大きな枝角が男に向けられる。
「お守りです。その時が来た時に迷わないように」
 旅人に促されて、男はミラの角から幅の広い紐のようなものを一本ほどいた。ミラが身を引くと、男は深くお辞儀をしてミラにいくつかの言葉を捧げた。それから旅人に向き直ると、羽織のポケットから何かを取り出し、旅人に差し出した。
「リンクル王国の王族だけが持つ指輪だ。きっと役に立つ」
 差し出された指輪には、リンクル王国の紋章と男の名前、男が第二王子であることが刻まれていた。
「いいんですか。大切なものでしょう」
「私にはもう必要のないものだ。凍傷になるから冬の間は指にはめない方がいい」
 旅人は一つ頷いて、指輪を懐にしまった。
「なぜあなたはこの地を離れないのですか」
 旅人の問いに男は夜空を指さして答えた。
「ここが一番、大白鳥座が美しく見えるからだ。星座は誰かが語り継がなければ、ただの星の集まりに戻る。滅びた王国の文化がどこまで残るかはわからないだろう。もし、ほかの全ての星座が忘れ去られ、元の星の集まりに戻ろうとも、あの星座だけは、私が見ていないと」
 旅人の目が夜空を映す。呼吸をするように瞬いている星々は、旅人にとっては、やはりただの星だった。美しく、遙か遠くの星の集まりだった。
「それではな、旅の安全を祈っている」
 男は旅人とミラに一礼すると、夜風にその身を溶かしたように消えてしまった。

 旅人は懐から指輪を取り出すと、そっと自分の人差し指にはめてみた。指輪は大きく、旅人の指の付け根でくるりと回る。すると、旅人は指輪の内側になにやら凹凸があることに気づいた。焚火に近づけて指輪の内側を覗き込むと、文字が彫られていた。
『亡き妻 ヤーネを生涯愛し、大白鳥座を贈ることをここに印す』

 遠くで一羽の小夜啼鳥が鳴いている。どこかから鳴き返す声がないかと耳をすませながら、旅人は大木の洞へと戻っていった。

果てへの旅路『王子様と大白鳥座』

果てへの旅路『王子様と大白鳥座』

鹿のような馬のような山羊のような姿をした<ミラ>と旅人が世界の果てを目指す物語 彼らはなぜ世界の果てを目指すのか、世界の果てとはどこなのか 永久凍土、凍った湖、吹雪、短い夏、雪と氷の世界を舞台にした静かなファンタジーです。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-06-30

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