コミカルなカタルシス

変な話、途中途中途中途中

我が君

ㅤひょういひょういと、血塗れな横断歩道の白線を踏んで、倒れ込んでいるレディの元まで飛んで駆ける。
ㅤすぐそこに落っこちていたぐしゃぐしゃになったリュックサックをごそごそ漁る限り、彼女は佐藤涼子って名前だ。佐藤か。我が君の名は、佐藤涼子。
ㅤ見事なる炎天下、凛とした太陽の下、足元の我がきみ。
「生きてます?」
「·····」
ㅤ返事のしない我が君に胸の高鳴りを抑えつつ、僕はスマートフォンを取り出した。そして、
「ぁ·····ぅけ、」
「はいチーズ」
ㅤパシャリ、と一枚。

1

***

ㅤ見上げると空一面は青、否グレーで__否スカイブルーで__蜘蛛の巣みたいに薄いわたあめだけが空にふらふら浮いていた。雲のカーテンが程度良く太陽の陽を遮って、天使のはしごのささやかな光がうんと綺麗に見えた。

ㅤああ、これこそ命日にふさわしい、醇美な景色だ。昨日の夕日の赤が彼女の血に見えて、僕はどうしようもない空腹感に襲われてしまった。今日こそ、落ち着いて行こうではないか。

ㅤスノードロップをメインとして白いカーネーションで飾り付けを施した花束を両手で抱き、アイロンをかけた光沢の無い真っ黒なスーツ、白無地カットシャツ、黒のビジネスソックス、光沢なしの黒いネクタイ、黒い革靴、耳を出して前髪を横流しにセットした黒髪と、爽やかな石鹸の香り。塵一つついていないから、光沢なしのスーツすら、僕が着ると光って見えてしまう。なんてね。

ㅤ病室、二〇八号室。表札には、"佐藤涼子"と書かれたシールが貼られている。ふう、と爽やかな笑顔で扉を開けた。

「ああ、こんにちは」
「·····」

ㅤ閉める。間もなくして、再度扉を開ける。

「·····お見舞い、ですか?」
ㅤもう一度閉めると、すぐそこで膝まづいて叫んだ。
「生きてんのかよ!!!!!」
ㅤ真後ろの扉がガラガラと開いた。
「聞こえてますよ。」
ㅤ死んだと思ったでしょう。
ㅤ振り返ると、真っ赤な舌をぺろりと唇からのぞかせた、まぁまぁ顔立ちのいい細身の女性が、してやったりという表情で僕を見下ろしていた。カタルシスを楽しむべく、最高な最期にしてあげようとしたのだが、救急車を呼ぶのがはやかったのか、彼女は助かってしまった。

ㅤ点滴台を横に連れた彼女は、「少し歩きませんか」と言うと有無も言わさず歩き始めた。生きた女に、興味なんかないのに。
ㅤ顔立ちがいいからこの女には想われ人がさぞたくさんいて、家族円満で、きっと、きっと彼女が死んだらたくさんの人間が涙を流して悲しむだろうと思った。その場に、些事な延命の手助けをした、救急車を呼んだ僕も居合わせれるはずで、そうして目の前の悲劇の主人公たちの生き様を見届けて、僕は、僕は────。


「変な趣味を持っていますね」
「まぁかなり」と抑揚のない愛想が悪い返事にも、彼女はにこにこしている。
「どうしてこんなに笑っているんでしょうか」
ㅤ振り返って僕に、そう問う彼女の口角はやっぱり上がっている。
脳みそをフル回転させてみても、微塵もわからない。存じ寄るに、
「お嬢さんが僕に一目惚れとか」
「たしかにカッコイイと思うけれど、違うの」
「じゃあ」
ㅤ涼子さんは、ん?と首を傾ける。彼女の長髪が、デコルテにさらりと流れた。この人、髪が綺麗だな。
「スノードロップが好きだったとか」
ㅤぶっぶー!と腕をクロスさせてバツ印をつくった涼子さんは、「次来てくれるまでの宿題!」ってスキップをしてテレビカードを買って、そのまま僕を素通りして病室の方へ帰って行った。小さな夢でも見ていたのかと思うくらい、余韻も残さず。
ㅤ気づいたらなくなっているスノードロップの花束に、現か、と嘆息に似た深いため息を吐いた。去り際に奪われたな。計画がめちゃくちゃだぞ。
ㅤそれから1週間後に、真剣に宿題を考えて二〇八号室に再び訪問したのはいうまでもない。そして、見事に不正解でデコピンを一つ、食らった。

ㅤ彼女の名前は、繰り返すように言うが佐藤涼子だ。20代前半、東京で一人暮らしをしていて、実家は千葉にあるらしい。彼氏は最近別れた、ということを聞いて惜しいことをした、と思った。もう少しはやく彼女と出会っていれば、それこそ失恋の悲劇でカタルシスが──·····ㅤ
「こら、今失礼なこと考えたでしょう」
「ひどいなあ。僕の頭の中を見せてあげたい」
ㅤどういうことか、涼子さんは僕を気に入ってくれたらしくて、携帯電話の番号を交換した。この人は、文明の利器を利用する意がみえない。電子書籍はぜったい無理だと、そして駅では交通ICカードではなく毎回切符を買っていると。ただ、そういった文明の利器に慣れていなさそうなところに、グッとくる男はいると思う。
ㅤ電子マネーに限っては、詐欺がこわいから詐欺にあってもいい歳になってからじゃないと使わない、と言っていた。それっていったい、いつ使うってことなの。
「ねえ、わたし今週退院なの」
「それはおめでたい」
「それでね、それでね」目を輝かせる涼子さんが、僕の腕をがしりと掴む。
「ショッピングに付き合ってよ。二人で出かけよう」
ㅤどこかのギャグアニメみたいに、三秒間の静寂が訪れた。

2

ㅤ病院から一番近い、ターミナル駅のロータリーにある、ショッピングモール行きのバスの停車場。それから、道路一帯を囲う駅ビル。
ㅤ僕はそこで、我が君____これは元であり、今はこれっぽっちも興味はないが____こと佐藤涼子と待ち合わせをしている。出かけよう、という誘いには半ば強引に承諾を迫られ、三日後の今日にまで至る。
ㅤまったく、生きてる女に興味なんてないのに。興味のない生き物に時間をとられて、次のカタルシスの準備がままならないじゃあないか。
ㅤバスの停車場の横にタクシー乗り場と花壇、そしてさびれた木のベンチが並んでいて、適当に腰をかける。待ち合わせ時間は十三時三十分、現在の時刻十二時四十分。はやく来すぎてしまったな、まさか僕は浮かれているのか。
ㅤ一瞬頭をよぎったそんな考えを、咳払いで誤魔化した。そんな訳が無い。僕が生きてる女にそそられる事なんて有り得ない。
ㅤ邪念を払うべく、周囲に目を向けた。
ㅤここら辺は食べ歩きスポットであるため、見渡してみれば鼻先をかすめるたい焼きの匂いに、目に入るたこ焼き屋に、お好み焼き屋に·····
「ばあ!」
「うわあ!なっ」
ㅤなんだよ、びっくりしただろ!!ㅤ
「あは、びっくりしてるのかわいい」
「ばかにするな」
ㅤ吃驚仰天、そんな顔をした僕の顔を甚だしく面白そうに笑うのは佐藤涼子である。こんな早く来るなんて、予想外だ。
ㅤ余程本能的に優れているか、常に命を狙われている奴じゃあないと、好意を持ってくれている女との待ち合わせ時に警戒する事も、そもそも待ち合わせの五十分前に相手が来ると思う事もある訳ないだろ。
ㅤ顔を顰めると、皺が寄るよと眉間をつつかれた。余計なお世話だ。
「どうしてこんなに早いんだ?」
「あら、それはお互い様よ」
「そ、それはそうだな」
ㅤ少しだけ浮ついた心が見透かされそうで、吃ってしまった。なんて愚かだ、引き続き気を引き締めて、平常心を保たねばならない。わざとらしく咳払いを二つして、自由に歩き出す佐藤涼子を追いかける。
ㅤ少し大きめでノッチドラペルのトップスとゆるめのスラックスのシルバーグレーのセットアップ、黒無地のインナーで落ち着いた印象にしつつ締め色を入れて全体のバランスを考えたコーディネート。リングやブーツに締め色の黒をちりばめて、尚まとまりを良くする。時間をかけたヘアセット、ナチュラルに抑えたメンズメイク、仄かに香るホワイトムスク。完璧だ。
ㅤそれと相反した佐藤涼子の格好に僕は落胆しつつ、一方でラフであるのに様になっていることが不思議に思えた。自然光に照らされて光る、キャップを被せた赤茶色の長髪はノーセットで、風になびいて綺麗な無造作ヘアが完成している。着崩されたオーバーサイズのグレーのパーカー、パーカーの下のピタッとした白のトップスとすらっとした脚が見て取れる細身の黒スキニーにごついスニーカー。それら全てが彼女の魅力を引き出していて、若い学生がしそうな格好なのに、とても絵になっていた。
ㅤむしろ、着崩されたパーカーからのぞく二の腕やボディラインが見て取れるトップスとスキニー、長髪からのぞく耳やうなじに色気すら感じる。きっと、そこら辺の男だったら恋とか謂われる時間と体力の浪費と同義のものにでも落ちていただろう。
ㅤそんな愚民を襟を正して鼻で笑ってみたが、どこか他人事な気がしなくてそわそわしてしまった。
ㅤ早歩きで前を行く佐藤涼子は、不意に美味しそうな甘い匂いが鼻を掠めるお店の前で立ち止まった。長髪をさらりと揺らして振り返った彼女は、お店を指さすと
「ね、お腹すいたでしょう。さっき食べ物屋さんを見渡して、楽しそうにしていたもん。これ食べよう。ね。」と少し甘えた声でねだり始めた。
ㅤ店をよく見てみると、女性が好きそうなお洒落なマカロンやケーキ、タルトが売っているスイーツ屋だった。店の内装も、ウッド調で落ち着いた雰囲気に所々緑が見えて、居心地が良さそうではあった。
ㅤ仕方ない、付き合ってやるとするか。どうせ、今日の約束をバックレなかった時点で、面倒なことになるのは覚悟していたのだし。
ㅤまあ俺は、全くもって甘いものが好きじゃないが、今日一日だけでも、興味のないこの生きた女のために頑張るとするか。
ㅤやれやれ、なんて小さく呟いてみると、「なんて愚かな」そんな声が聞こえた気がした。
ㅤしばらく黙る僕の様子を見て、だめなの・・・としょんぼりする佐藤涼子の横を通り過ぎて店の扉に手をかけた。カランカラン、とドアベルが鳴る。
ㅤぱあっと表情が明るくなった彼女が店に入れるように扉を開けて、どうぞ?と微笑んだ。レディファーストである。なお、僕は自己中心的な性格である為、好きな女以外にこんなことしたのは初めてだ。
ㅤ好きな女というのも、僕は生涯健康に生きている女なんかに微塵も興味はなかったので、五体満足な女を優先してみるのは本当に初めてだった。
「あなたってやっぱりかっこいいよね」
「僕はいつでもかっこがつくから、道を歩いていても女性に言い寄られることだってあるさ」
「じゃあ、今日はそんなすごい人をわたしは独り占めしちゃってるのね」
「そうさ、誰かさんのために貸切だよ」
ㅤ佐藤涼子はふふっと笑うと、そんなこと言われると存分に甘えてみたくなるものね。なんて言い出して、テーブルに頬肘をついてこちらを見つめた。
ㅤウッド調の内装に合わせて落ち着いたオレンジ色の照明が彼女の瞳を輝かせて、太陽の光に当てられた宝石のようで綺麗だった。そんな瞳が、今まっすぐ僕を見ている。
ㅤ小さなスポットライトを浴びている気分になって、気恥ずかしさを感じた。僕も同じように頬肘をついて、彼女の瞳を見つめ返す。逸らしたほうが負け、そんな子供みたいな遊びの始まりを目で合図すると、楽しそうに彼女は微笑んだ。
ㅤやってやろうじゃない、という言葉が聞こえてきそうな表情だった。
ㅤ僕は、ポーカーフェイスには慣れている。生憎、こんな趣味を持っている上に生き甲斐がこれしかないおかげで、表情筋と仲良しになってしまった。
ㅤからん、と出されたお冷の氷が落ちる音がした。ざわざわと、周りの客の話し声が聞こえた。はたはたと、彼女の瞬きに合わせて揺れるまつ毛が照明で光って見えた。
ㅤそうやって、周りのものに気を散らして彼女から目を離さずにいたら、彼女が余裕そうに片眉を上げて挑発してくるので、空いている方の手を佐藤涼子の頬に寄せる。僕の片手に気を取られて一瞬目を逸らすと、「あ」と声をあげて自己申告をした。
「それってずるいんじゃあないの」
「動いちゃだめなんて言ってないし」
「そういうことする人間ってなんて言うか知っている?」
「なんていうの」
「意地悪、性格悪いっていうんだよ。知らないの」
「知らなかった、僕変な趣味しか頭にないから」
「脳みそ腐る前に、ちゃんと人間と仲良くできるようになるといいね」
ㅤ馬鹿にしたように鼻で笑うと、店員さんを呼んで勝手に注文をし始める佐藤涼子に、ははっと溜息に似た乾いた笑い声をこぼした。
「心外だけど、僕はもう君と仲良しな方だと思っていた」
「心外って失礼ね。でもわたしたち、仲良い方なのかもしれない。やった」
ㅤ僕との会話を片手間に注文をする佐藤涼子の返事は、至って適当だった。スイーツに興味がない故に彼女の口から出るカタカナたちに困惑しつつ、長々とした注文を終えた彼女になにを頼んだのか聞くと、とぅんかろん、という摩訶不思議な単語を言われ、世の女は得体の知れないものを食べるんだな、と思った。
ㅤ数分して届いたしんかろんだかけっかろんだかは、僕の想像していた幾何学的な何かと相反した、なんとも可愛らしい見た目をしていたスイーツで、うさぎの形をしたピンク色の少しボリューミーになったマカロンのようなものにとてもファンシーだな、と感心する。
ㅤいったい、マカロンとどう違うのかとか、思えばなんとかろんって名前もマカロンに似ているなとか興味津々にピンク色の物体を見ていると、佐藤涼子がそれでね、と口を開いた。
「存分にあなたに甘えてみたいって思ったから、食べさせて欲しいの。これ」
ㅤ少しばかり衝撃的な発言をされて一瞬動揺したものの、既に決定事項だとでも言いたげに待機する彼女に困惑しつつ、フォークとナイフを手に取る。今日は、興味のない生きた女に振り回されてばかりだな、罪な男だ。
ㅤいまいち食べ方がわからず、ナイフで半分に切って彼女の口元に運ぶと、佐藤涼子はよくできましたって笑って僕の差し出したなんとかろんを食べた。
ㅤマカロン一個分くらいの大きさなのに頬一派にして頬張る様子が、リスを連想させて餌付けをしている気分になる。これが健常者を可愛いと思う気持ちか、と考えた数秒後に我に返る。僕は何を思ってこの嫋やかとはほど遠い女と可愛いという単語を結びつけたのだろうか。今日は頭のおかしい日なのかもしれない。
ㅤカタルシス以外の目的をもって女に尽くすなんて、初めてだから不可抗力だと自分に言い聞かせると、無理にでも納得してなんとかろんのもう半分を自分の口に入れる。
「あ、間接キス」
そんな小学生みたいなことを言うから、押し寄せてくる甘味料の味にむせ返ってしまった。幼い人間や老人が食べたら死ぬんじゃないか、と思うほどの甘さに胃からなにかが込み上げてくる。
「甘いもの苦手なんでしょう、知ってる」
「じゃあなんで連れてきたんだ」
「優しいから来てくれるかなって思って」
「すごくいい性格していると思う」
ㅤなんとかろんのついでに頼まれていたアイスティーを勝手に飲むと、また間接キスだとかにこにこ微笑み始めるから、僕はすっかりこの女に惚れられてしまったんじゃないかと馬鹿げたことを思い始めた。
ㅤそもそも僕は死にかけている所を、お構いなしに写真を撮って、喪服でコーデをかためて不謹慎な花言葉の花束を用意したっていうのに、僕が惚れられる要素が無い。
ㅤたとえば僕がどれだけ格好よくても、こんな状況で惚れられているとしたら相当この女もズレている。相当ズレた自覚がある僕は、そう思った。
ㅤもう二回同じことをすると、彼女は満足をしたようで、俺が飲んだアイスティーを飲んで再び間接キスと笑うともうそれ以上はなにも要求してくることはなかった。
「なあ、もう食べないのか」
「ええ、もうおなかいっぱいよ。だってそもそも、わたしご飯食べてきていたし」
「なんだ、胃袋が相当ちいさいのかと」
「なめてもらっちゃ困るわ」
ㅤふん、と髪を揺らして胸を張る彼女だが、数分前はなんとかろんの二分の一で口の中がいっぱいいっぱいになっていた。それに胃袋の大きさは女性が誇るものじゃあない。
ㅤ会計を僕が済ませると、あなたってやっぱりかっこいいのねと喜ばれた。ただの糖質とカロリーの塊な癖にひとつ600円というのは確かに少しばかり高い額だとは思うが、特段高額で払えないなんて程ではない。
ㅤ彼女が喜びを感じやすいのか、僕が相当ケチな奴だと思われていたのだろうかと疑うほど、その後の彼女はテンションが異様に高かった。
ㅤどこかに行こうか、と提案しても現地で十分だと言い、宛ら遊園地のように楽しそうに歩き回っていた。
ㅤなんとかろんに薬でも入っていたか。

「ね、写真を撮りたいな」
「任せろ」
ㅤ先ほどから、くだらないものに目を輝かせている佐藤涼子をいつ撮ってやろうか考えていたところで、僕は早急に携帯電話のカメラを構えた。
ㅤそよ風に揺られる長髪、煌めく天使の輪、後光が彼女にさして彼女の笑顔が輝いた。レンズ越しに見る我が君があまりにも儚くて、何度かカメラを下ろして実物の存在が現であることを確認する。
ㅤ魅了されてそんな間抜けなことをしていると、彼女は違うのよ、と僕の腕を引き寄せた。ユニセックスかついやらしくない色っぽい香りがふんわりと鼻を掠める。これは、けっこうクる。
「ツーショット写真が欲しいの」
「・・・おう」
ㅤ返事がワンテンポ遅れると、困り眉をして至近距離で笑われて、僕から見てもそれがあまりにも綺麗で、まずい、そんなことを思った。
ㅤ壊れたロボットのように動きがかたい俺を他所に、はいチーズと携帯電話のカメラを構えられるので、慌ててピースをする。高校生かよと思った矢先、若いねと笑われた。
ㅤこの女はなんでも笑うな。
ㅤほら見て、と差し出された携帯電話に写る先ほどのツーショットは、目映い笑顔の佐藤涼子とぎこちない表情の僕の差に羞恥心を感じた。いつも格好つけてるから、ぎこちないあなたは新鮮で可愛いね、と画面越しに頭を撫でられる。
ㅤくすぐったい気持ちになって、そんな子供じみたことやめろよと乱暴に言うと、彼女はこれまた嬉しそうに、楽しそうに笑った。本当に、なにがおかしいんだろう。
「なにもおかしくないわよ」
「じゃあ、どうしてそんな楽しそうなんだ」
「あなたと一緒にいれるから」
「僕と?」
ㅤふふふ、と手の甲を口元にあててはにかんだ佐藤涼子は僕が見てもやっぱり綺麗だった。眉を八の字にして、ちょっと首を傾げ気味に頬と耳を赤らめるその表情、いい加減やめないか。
ㅤじゃないと勘違いするだろ、男ってもんは。
ㅤ僕もその愚かな男のうちの一人であったみたいで、柄にもなく心臓とやらがドキドキした。異様な動悸に、病気になったかとふざけたことを考えてみる。
ㅤしかし、本当にそう思える程世間知らずなんかじゃなくて、初めて自分が鈍感じゃないことを悔やんだ。
ㅤ生きてる女に興味がないなんて、言い聞かせだ。見て見ぬふりがしたい愚民の、現実逃避でしかない。
ㅤただ、そこに問題はない。俺がこの女に惹かれている事実なんて、誰にも知られなきゃいい。一度、冷静に受け止めたのち、そうやって逃げると同義の結論が出て、襟を正して自分を奮い立たせると、僕は佐藤涼子に向き直る。
「そういうの、やめた方がいいんじゃないか」
「そういうのってどういうの?」
「勘違いするようなこと、するなって言ってるんだよ」
ㅤ案外、人間は予想外の出来事が起きた時に冷静なもので、すかさずそんなになんとかろんが美味しくて上機嫌そうなんじゃ、食い意地張ってると思われるぞと早口で付け足した。
ㅤ僕はなにを言いかけたんだろう、と愚かすぎる自分に頭を抱える。
ㅤどうしたの、と頬をつつく彼女の人差し指を掴むと引き寄せた。そうやって、俺はまた正気を失って、そういえばピアスは開けてないのか?と声が裏返りそうになりながら誤魔化した。
「トゥンカロンに変な薬でも入ってたのかしら、ちょっと様子がおかしいよ。大丈夫なの?」
「お互い様だと思う、君だってずっと笑っている」
「君じゃなくて、涼子よ」
「涼子さんだって、異様に楽しそうじゃないか」
ㅤさん付けされると、歳下だって実感してかわいいわねと笑われた。そうだ、僕は歳下だ。数日前、十九歳でお酒が飲めないことを知られて、成人済みの彼女に意外と幼いのね、と馬鹿にされた。
ㅤ正確な年齢は知らないが、自分より歳上という事実で大人っぽく感じることに納得がいった。見た目は、僕の同年代と変わらない若々しさがある。世間でいう、勝ち組というやつだった。
「ピアスはね、実はたくさん開いてる」
「今日はつけてないのか」
「清楚な女のフリしたかったの」
ㅤ口も開いてるのよ、見る?と妖艶な笑みを浮かべられてどれ?と冷静に言ってみたけれど、心拍数がおかしかった。こんなウブだったのかと聞かれると、そんなはずはないし女に言い寄られた経験はある方だ。
ㅤこんなに格好いいので、モテるのも致し方ない。
ㅤほら、と彼女は舌を出した。たしかに、銀色のストレートバーベルが彼女の舌先で光っていた。かちゃ、と音を鳴らして遊ぶ佐藤涼子は、舌ピアスってバレづらいの。ずっと、中学生の時から開けて閉じてを繰り返してるんだ、といたずらに笑った。
ㅤ清楚系アピールをやめたのか、黒スキニーを捲ると足首の刺青を露呈させる。中々に、治安が悪い。
ㅤ唇で出来た薔薇のようなワンポイントの刺青だった。デザインにも、ピアスと刺青という刺々しさにもギャップを感じて、素直に格好いいと褒めると照れたようで、あなたの方がとはにかみながら言われた。また、心臓は勘違いをして踊った。
「そうやってわたしを真顔で見つめている時って、いつもなにを考えているの」
ㅤふと、不思議そうに俺の顔を見つめる涼子さんは、頭の上にクエスチョンマークを浮かべたような表情をする。ポーカーフェイスをしている俺の気も知らず、またあどけない仕草で俺の心の内を、獣が爪で抉り出すみたいにいとも容易く、掻き出す。
「愛おしい、だと思う」
ㅤそうして俺は、とうとう取り返しのつかない失言をしてしまった。ああ、相当頭が悪くなっている。

***

ㅤごきげんよう。相当頭が悪くなってしまった彼にかわって、心情すら知られていないわたしが挨拶をしようと思うの。
ㅤ今しがた、柄にもなく頬を赤らめてどきまぎしていたさながら男子高校生のような彼を、わたしはなにも知らない。男子高校生と年齢はあまり変わりない、ということをかろうじて知れているくらいだ。
ㅤ愛おしい、という言葉が彼の口から出た時、彼はしまった、という表情をして顔をそらした。初めてそんなボロを出されて、実は戸惑っている。
ㅤわたしと彼に、大きな繋がりはない。出会った当初すら、わたしに意識はほぼなかった。
ㅤ大変。そういえば、名前も知らないわ。
ㅤ炎天下、鉛のように重くて動かない体と視界に広がる赤い血とパニックになってただ騒ぐだけの外野は、地獄を具現化したようだった。はやく草臥れてしまえ、とでも言いたげに太陽はじうじう照りつけ、寿命が携帯電話の充電のようにすり減っていく感覚を覚えている。地獄のような猛暑、わたしが信号無視をした大型トラックとぶつかって逃げられてしまい、挙句傍観者にソーシャルネットワークサービスの話のネタにされてしまった悲惨な状態に、彼は声をかけてくれたのだ。助けて、と声に出したつもりだったけれど気づかなかったらしい。白いTシャツに黒いカーディガン、日光に後ろから照らされたロウアングルの彼は神様に見えた。わたし達の運命的な出会いを写真に残してくれた彼は、まもなくして救急車を呼んでくれて、わたしは一命を取り留めた。彼は喪服と不謹慎な花言葉の集まった花束を抱えてお見舞いに来てくれた。死んでいたと思ってくれたらしい、それがとても嬉しかった。何十億分の一であるわたしの命なんかに、こうして労力を使ってくれた彼が、わたしは好きだ。
ㅤねえさっきの言葉、どういう意味がこもっているの。
「どうしてそんなに優しくしてくれるの?」
「優しくしているつもりはないけど」
「じゃあ、わたしのことが好きなの?」
ㅤわたしのその一言にびっくりしてから、なんか、とかたぶん、と歯切れの悪い彼らしくない態度にそわそわとする。彼なら上手くかわすと思っていたから、無駄に返事に期待していた。
「・・・そうなのかもしれない」
ㅤわたしの目を見ないで、耳を赤くさせた彼に本当かしら、と心中不安になった。どんな返答を期待していたのかわからないけれど、少し曖昧な返事にがっかりしてしまった。臥せたまつ毛がはたと揺れて、光る。つんと高い彼の鼻先が、綺麗だった。好きだったら、スノードロップなんて用意しないのよ。喪服で、清々しいと顔に書いてある表情をしないのよ。
ㅤわたしは、彼に死を望まれていたことを知っている。
「だったら、すごく嬉しい」
「そうか。いい加減ただのベンチで話すのやめないか?」
ㅤ電車一本で行ける、綺麗な景色が見れる場所を知っているんだよ。
ㅤ立ち上がると、彼は振り向いて、わたしが立つのを催促する素振りを見せるから、意地でも立ってやるものか、と座り込む。
ㅤ駄々をこねる子供のように、彼の目を見て首を振った。
ㅤ今日はおしまいにしてしまおう、一度に良い思いをしてしまったらいけない気がする。このままついて行ってしまったら、なんだかいけない気がするの。
「今日は、疲れたから帰りましょう」
「え?」
ㅤでも、僕の話はこれから、と彼が言いかけた時にわたしは立ち上がった。
ㅤ彼に少しでも忘れられないように、今日わたしがつけていた香水を一吹きするとそのまま歩き出す。二の腕を掴まれて、さよなら、と振り向きもせずに言うとタクシーを捕まえてそのまま家に直帰した。
ㅤ美味しかったトゥンカロンをお土産に持って帰ろうと思っていたのに、化粧を落とすことすらできなかったわたしはそのまま布団にうずくまって寝てしまった。
ㅤそういえば、彼の名前を聞くのを忘れていた。
ㅤ思い出したのち、連絡先すら知らない携帯電話に悲しくなってすべて投げ出すとまどろみに身を委ねる。すべて脳が作り出した夢になってしまえばいいの、と匙な乞いも虚しく、起きても残っている交通事故で負った怪我とぎこちないツーショットが惨たらしく、わたしに現実を報せた。

3

ㅤそうね、なにもかも一から説明した方が早いかしらね。
ㅤわたしは佐藤涼子という名前だ。お父さんの聡明で冷静沈着な落ち着きを持った女になって欲しい願いが「涼」に、お母さんの女性らしい美しさを持って欲しいという願いが「子」に込められている。二十三歳でバーテンダーをやっていて、実家を出て一人暮らしをしている。親には愛されて育ってきたつもりで、雨が降った次の日の晴空や日向ぼっこをする野良猫などの何気ない幸せに微笑みをこぼせる、純情な女になったつもりである。煙草は本当に時々しか吸わないし、お酒も仕事柄触れる機会は多いが人付き合いのついで感覚で飲む程度だ。派手髪にしたことなんて人生で一度も無くて、ネイルは大人しめの色しかしなくって、化粧もナチュラルメイクで固定していて、服装はカジュアルやスポーティ、かつ女性らしさが欠けないものを着ている。品行方正、頭脳明晰、文武両道、容姿端麗。聞き飽きた。
ㅤ事故が起こった日も、なんら変わりのない普通の日々を過ごしていた。一つだけなにか違うとしたら、わたしの気持ちくらいね。

ㅤ夕方から開店する勤め先のバーは、仕込みや掃除で通勤時間が昼過ぎであることが多い。
ㅤその日もいつもと変わらず、時計の針が午後二時を示す頃に家を出た。「行ってきます」がひとり寂しく反響する空っぽの家をあとにして、アンドロイドのごとく機械的な足取りで勤め先へ向かっていた。
ㅤ夏の暑さにやる気を殺された社会人は皆、わたしと同じように死んだ目をしていて、視界の端に見えた女王蟻を先頭に行列をつくる蟻に通ずるものを感じる。あなた達も大変ね。
ㅤ女王蟻といえば、蜂の話だけれど、女王蜂はその名だけ聞くと名の通り女王扱いされている、傲慢で豪くて優遇されているイメージがあると思うが、実際はそんなことはなく仲間を増やす為に交尾に利用されるだけされて、殺されてしまうらしい。所謂名前負け、というものかしら。
ㅤ意外と別種族も、別種族で残酷であるのね、と思う。
ㅤだけれど、自害の多さは人間特有なんだとか。動物も自己破壊的行動はとるし、動物は自殺しないという医学的根拠は見つからないが、なにせ絶滅危惧種がかろうじて生きながらえているし、愛玩動物が自己破壊的行動をとる所を見るという声も全く聞かないので、日々どこかで自害をしている人類の比じゃないと思うのよね。
ㅤ自ら命を絶ってしまうほど追い詰められる人間社会は、蜂とは別の惨さがある。
ㅤ炎天下、凛とした太陽はわたしを促した。
ㅤもう少しで青に切り替わる信号の待ち時間、向う側には信号機が見えていない様子の大型トラック、人間が集うスクランブル交差点。そういえば、人間は平均して人生で十六回殺人鬼とすれ違うらしいのだけれど、スクランブル交差点を通ると殺人鬼とすれ違う可能性は八十パーセントだとか、なんだとか。
ㅤ久しぶりに人間らしく歩いた気がする。自分の意志を持って、目的を持って歩んだ。太もも、ふくらはぎ、足首、かかと、つま先、一つ一つに集中してゆっくり前に進んだ。我ながら、馬鹿だと思うの。
ㅤ気づいた時には高速でこちらに向かってくる真っ黒い大きな鉄の塊と、衝突していた。ばねが跳ねるみたいに宙に浮いたわたしの体は、地面に強く打ち付けられる。飛んだ。ヘアアイロンで巻いた長髪が、身につけていたブランド物のバッグが、羽織っていたお気に入りのカーディガンが。信号は青なのに、誰一人渡るものはいなかった。これで誰かが殺人鬼とすれ違う機会を一度でも減らせたわ、と鉛のように重たい体を他所に呑気に考える。

ㅤこれが一連の流れで、その後例のごとく彼が救急車を呼んでくれたのだ。
ㅤ全く生きるつもりがなかったので、わたしはその後を救世主である彼のために生きようと思ったの。その結果がこれである。名前も、連絡先もわからない。悲惨で、愚かでちっとも聡明なんかじゃあない。名前すら聞けない女、なにも可愛げがない。
ㅤどう生きればいいのかしらね、と嘆くわたしの脳みそにはもう機械的に生きる以前の生活をしようなんて考えはなかった。また、トラックに撥ねられて今度は本当に死んでしまう。
ㅤせっかく彼と出会えたのに。そんなの勿体ないわ。だからね、神様。もう一度彼に会わせてちょうだい。
ㅤなんて、信仰したことのない神様に縋ってみた。
ㅤお見舞いに来てくれたマスターが、怪我が治っても精神状態が回復するまでは休んでくれていいと言ってくれた。
ㅤ気休めに飲みにおいで、とも言ってもらい、そのうち行こうと思っているの。気は向かないけれど。
ㅤだって行っても、彼はそこにいないじゃない。

***

ㅤ自室のデスクチェアに腰掛け、深くため息をつく憂鬱な日曜日。原因は、昨日の涼子さんの態度だ。
ㅤ僕はなにか失礼なことをしてしまったんだろうか、と下手に出て考えてみたが、そんなはずはない。
ㅤ僕の行動に、最初から最後まで非はなかった。予定の時間より幾分かはやく待ち合わせ場所に着き、礼儀として綺麗な格好をして、スイーツを奢って、写真を撮って、たまにさりげなく手を繋いだ。
ㅤ口から愛おしい、と溢れてしまったことがダメだったかと思考を巡らせる。しかし、彼女の反応を思い出すと、そんなわけがないよな、と鼻で笑った。
ㅤこれだから、恋愛という名の感情の時間の浪費と同義のことにうつつを抜かすのは苦手なんだ。生きている女は、心が読めない。
ㅤ死に際の女はいたって単純で、あれがしたかったこれがしたかったなどというこの世への小さな未練しか残らない。そして死んだら、いよいよ無になる。
ㅤ再び深いため息を吐く。視線の先には、デスクの上に立てかけられたコルクボードや壁に貼ってある数々の写真とホワイトボードがある。
ㅤカタルシスのための情報収集などに使ってきたものだった。佐藤涼子は関わってすぐ神に召される予定だった為、彼女に関する情報はいたって少なくても良かったのに、生年月日や過去の経歴、血液型や人間関係について調べれるところまで調べてしまっていた。
ㅤやれやれ、と自分のことを自嘲気味に笑ってみる。甘い恋愛小説かよ、若いな。
ㅤあの日、出会い頭に撮った写真を手に取る。アスファルトに染みて、横断歩道の白線にまで広がる鮮血、地面に放射線を描いて散らばる長髪も服も血濡れていて、痛々しかった。天日が彼女を照らして、死にかけた青白い彼女の顔はまるでスポットライトが当たったようで、映画のワンシーンの切り取りみたいなワンショットだった。
ㅤ閉じかけの睫毛、酸素を吸って生きようと半開きになる青い唇、これで生きているのが不思議なくらい今にも死にそうな様子。
ㅤやっぱり俺はおかしくなったみたいで、柄にもなく生きてて良かった、とか、そんなことを珍しく考えた。

ㅤ涼子さんの連絡先すら知らないが、実は勤め先のバー知っている。最寄り駅から三つ先へ行った、電車一本で行ける距離にある。気軽に寄れるので、俺は彼女の連絡先を聞こうとしなかった。
ㅤ退院したばかりだとさすがに出勤しないか、と思いつつ淡い期待を寄せて少し着飾ると最寄り駅に向かう。
ㅤ空が少し曇っていて、夏期に珍しい肌寒さがあった。今の時刻は、午後七時だ。冷たいそよ風がふいて、彼女は今日薄着をして寒がっていないか、と外にいるかすらわからない我が君のことを心配してみる。
ㅤ未成年の身でバーに行って何になるか、と思ったが大概十時までに店を出れば住むだろう、と浅はかな存じ寄りに相当馬鹿になったな、と呆れて笑った。
ㅤどうせいない、とわかっていてもドアベルを鳴らして入店した先に、彼女の姿があって欲しいと乞う。
ㅤ大人っぽいジャズが流れる店内は、少し暗くて、カウンター周辺にある照明がカウンター内の棚に並ぶお酒を照らして輝かせていた。カウンター上にぶら下がるワイングラスたちがきらきらと光る。よく想像されるような雰囲気の内装だった。
ㅤ残念ながら涼子さんではないバーテンダーに案内された席に座ると、店内を見回す。ちらほらと一人や二人でお酒を嗜む淑女や紳士がいて、時折バーテンダーと楽しそうに会話をしている。

「おひとりですか、お兄さん」
「ああ、知り合いが勤めているので寄ってみました」
「格好いいから、連れてくる女の子でもいただろうにどうしてひとりなんだろう、って案内する時に思ったので・・・納得です」
ㅤちなみに、どちらの知り合いで?とワイングラスを磨く女のバーテンダーは顔を覗き込んでくる。佐藤涼子、って知りませんかと問うと、まあ!とわざとらしく驚く素振りを見せた。
「もしかして救急車を呼んだ方ですか?」
「まあ、そうです」
「涼子さん嬉しそうに話してくれたので、知ってます」
「涼子さんが?バーに顔を出しているんですか?」
「いえ、プライベートで仲がいいんです」
ㅤプライベート、というワードセンスと救急車を呼んだ方という覚え方に少し苦笑いをする。涼子さんの知り合いと言われたら納得も行くが、関係のない女だったら会話を終了させている。
ㅤやはり自分は心底、生きている女に興味が無いらしい。
「今日、来るように連絡しましょうか?」
「・・・いいんですか」
ㅤ図々しいか、と思いつつこのチャンスを逃すのは惜しいので遠慮なく彼女を呼んでもらうように頼むと、裏に消えて行く涼子さんの知り合い。名前を聞きそびれた。
ㅤ間もなくして戻ってきたその女がすぐ来てくれるみたいです、と嬉しそうに笑うので僕も笑っておいた。
ㅤ今日こそ、口説き倒すでもしてやろうか。

***

「ああもう、退屈ね」
ㅤそんなわたしの独り言は、空間に溶けて消えて行く。誰の耳にも届くことはなかっただろうな、とお店の騒がしさにうんざりする。
ㅤ行儀悪く足を組んで、店員が運んでくるトゥンカロンをただ一人で待つ。その時間がとても退屈なの。
ㅤわたしは今日、昨日彼とトゥンカロンを食べたお店に一人で来ているのだ。みっともないけど僅かな思い出に縋っている。いい歳して、すごく幼稚だと思う。わかってるけど、でもなんか、やっぱり人間って何歳になっても感情の衝動性に勝てないものなのよね。みたいな。
ㅤいよいよ貧乏ゆすりをし始めた頃、かわいいうさぎの形をした薄ピンクのトゥンカロンが二つ、運ばれてくる。かわいいけれど、なんだかちっとも美味しそうに見えない。
ㅤ以前とは違ってアルコール消毒をした手で直接かじると、ぽろぽろと崩れた生地がこぼれる。口の端についた生地のかけらを、彼がいたらついてるぞ、と言ってとってくれたんだろうか、と考えたら虚しくてぜんぶ口に詰め込んだ。
ㅤ心地のよろしくない不愉快な満腹感だけが残って、彼との思い出を汚してしまったと傷心する。きっとわたしは、これがしたかっただけだ。ただ傷つきたかっただけ、みたいなね。自暴自棄なの。
ㅤどうせまた食べたくなるだろうし、わざわざここに寄るのも面倒くさいのでトゥンカロンを幾つか持ち帰り用に買うと、寄り道せずに帰路に入った。
ㅤ重い足取りで帰宅すると、張り切った濃い化粧も、お気に入りのピアスもぜんぶ剥ぎ取って出かけた服のままベッドに倒れ込み、うたた寝をしてしまった。
ㅤ起きた頃には夕方になっていて、一日を無駄にしてしまった、そんな考えでブルーが心に染みる。今日一日、機械的な日々と心情は変わりない。むしろ、悪化している。
ㅤトゥンカロンしか食べていないのにご飯を作る気にもなれなくて、そのままベッドの上で天井を仰ぐと携帯電話が震えた。さやかちゃん、という名前で登録している番号からの着信で、ツーコールで出ると食い気味にもしもし、と聞こえる。

「さやかちゃん、どうしたの」
「ちょっと今日ね、涼子さんと話したくて。出勤中だから会いに来て欲しいの」
「甘えるなんて珍しい」
「そんな気分なんだ」
「わかった、今すぐ行けばいい?」
ㅤ電話越しでもわかりやすくぱあ、と明るくなる彼女にそんなに会いたいのかしら、と胸が踊った。行く気のなかったバーに、いとも簡単に足が向こうとする。
ㅤお気に入りのピアスをつけて香水をふると、家をあとにした。なんとなく、今日無駄にした昼間の時間を取り返せるような気がして、足取りは軽かった。
ㅤ勤め先のバーは最寄り駅の隣の駅にあって、30分もすれば着く距離だ。今日買ったトゥンカロンを片手に、喜ぶかなと頬がゆるんだ。
ㅤ聞き慣れたドアベルの音が鼓膜を揺らして、好きなテイストのBGMが流れる店内に躊躇なく入る。カウンターでワイングラスを磨きながら男の子の接客をするさやかちゃんの姿を見つけて、駆け寄ると相変わらず愛らしい顔で笑うさやかちゃんが手を振った。

「涼子さん、待ってたよ」
「ちょっとぶりね、さやかちゃん。ね、さやかちゃんが好きそうだなって思って、これ持ってきたの」
「なあに、これ?」
「トゥンカロン。この間、美味しいとこ見つけて・・・」
ㅤそう言いかけたのち、カウンターでさやかちゃんと話していた男の子が咳払いをしたのではっとする。ああ、話している途中だったわね、と思って「失礼しました」と一礼してひとまずカウンター席につこう、と思ったのに、「涼子さん、一日ぶり」と冷静な様子の彼が目の前にいて、面食らった。

「な、なんで」
「色々あって、勤め先のバーを知っていたんだ」
「どうして来たの」
「会いに来たらだめだったの?」
ㅤ未成年だからかチェイサーだけを嗜む彼が微笑んで、昨日より幾分も大人に見えた彼にバーを飛び出してしまった。心の準備っていうものができていない、と一目散に駅まで向かい、早々に我に返って、深呼吸をすると来た道を戻る。ああでも、もしもう帰ってしまっていたら、なんてネガティブな考えが頭をよぎって、足早にバーに向かう。

「どこ行くんだよ」
ㅤポケットに手を突っ込んだ彼がバーの近くで待ち伏せしていたみたいで、いざ彼を前にするとやっぱり思考が停止してしまう。信じたこともない神様が願いを叶えてくれたのかしら。何回見ても、目も鼻も口も昨日会った彼と同じなのよね、とギャグ漫画みたいなことを考えてみる。
「なんだか韓国ドラマみたいな口調よね、あなた」
「あなたじゃなくて、りつだよ」
「え?」
ㅤはあ、とため息を吐いて歩み寄ってくるから後退りをする。眉間に皺を寄せるから、殴られるんじゃないかって歩道の端に逃げた。ていうか彼は今、なんて言ったの?
「俺の名前。はいぶき、りつ」
ㅤいつも名乗る前に話変えたり逃げたりするから名乗れてなかったんだよ、といつもより荒い口調の彼が初めて歳下に見えた。十九歳って、本当はもっと若くていいのにねといつも思っていたけれど、ませる時期なのかしら。
ㅤ初めて耳にした彼の名前に、心が踊った。りつって、どんな漢字なんだろう。
「漢字は?」
「よくある、行人偏のやつだよ。律令制の律。はいぶきはそのまま灰吹」
「律ね、格好いい名前」
「ところでなんか、距離遠くないか」
「ストップ。それ以上寄らないで」
「菌扱いされている」
「してないわよ、あなたのことそんな風に扱うわけないじゃない」
ㅤじゃあどうしてだよと素で笑われて、笑い声が胸に甘く染みる。やばい、若い。甘い。
ㅤ馬鹿みたいな昨日の自業自得のおかげで、今はなんでもときめいてしまっている。今日食べたトゥンカロンより甘すぎて、すぐ胃もたれしてしまいそう。そんなことを考えて、彼から一定の距離を保った。
ㅤそういえば今日もあの店に行ったんだな、とさやかちゃんに渡しそびれたトゥンカロンを指さして彼は笑った。ぞっこんなのがバレそうで、美味しかったからねと誤魔化す。素直になれない自分は、女子中学生なの?高校生ならもっと素直よ、聡明のその字もないわ。
「バーテンダーの女、そのままにしていいのか」
「あ、忘れてた。戻りましょう」
ㅤ一つ返事をして数歩先の距離感を保ったまま振り返ってわたしを確認しながらバーに戻っていく背中にふふふ、と笑みがこぼれた。こんな甘いの、少女漫画の中だけだと思っていたのよね。

「もう〜、涼子さんおかえり」
「急に飛び出しちゃってごめんね、びっくりして」
「そんなに好きなんだ」
「いや、そういうのじゃないのよ」
ㅤ戻るなり飛びついてくるさやかちゃんと抱擁を交わしながら他愛もないそんな話をするとおい、と横から彼が入ってくる。
「なんだその言い方、失礼だな」
「あなたってそんなノリを言う人だったっけ」
「律だよ」
「灰吹さん」
「頑固だ」
ㅤカップルなの?とくすくす笑うさやかちゃんに慌てて違うわよと否定した。失礼だな、と彼がもう一度言って、落ち着いた頃カウンター席についた。彼は変わらずチェイサーを、わたしはピンクレディを嗜む。
ㅤレディーキラーカクテルと言われるものだけれど、甘い口当たりで飲みやすいのにアルコール度数が高いのはこの状況にはもってこいなのだ。お酒の力を借りないと、彼の目を見て話せないの。
「佐藤さん。それ、美味しいの?」
ㅤわたしが頑なに灰吹さんと呼ぶと、向こうもおそろいで佐藤さんと呼んでくるのが気に食わない。無駄に、佐藤さんとうるさい。だって今まで、普通に涼子って呼んでくれてたじゃない。
「甘くて飲みやすいのよ。飲む?」
「未成年に酒をすすめるなよ。佐藤さんはお酒強くなさそうだよな」
「涼子って言ったでしょ」
「律って言っただろ」
「律!」
「なに、涼子さん。呼んだ?」

ㅤわかりやすくこっちを向いて首を傾げるから、へへと笑ってしまう。照明が彼の顔照らしてきらきらして見えて、それが綺麗だからへらりと口角が上がったまま見つめる。酔いが回ってきたのか、ちょっと体がぽかぽかするな、なんて考えていると彼が笑った。
「ああ、お酒弱いんだ」
「なんでそう思うの」
ㅤ顔が赤くなってるのかしら、と頬に手を当てる。
ㅤ違くてさ、と笑った律はわたしの口角を人差し指でつんつん、とつついた。なにそれ、若い。
「表情が甘くなってるし、ようやく目が合うようになったから。酔うとそんな感じになるんだな」
「まだ酔ってない方よ」
「酔うとどうなるんだ」
「眠たい時もそうなんだけれど、人との距離感がバクっちゃうのよね」
「ベタベタするとか?」
「そうなの。だから人前であんまり飲まない」

ㅤへー、なのに俺の前で飲んでくれるんだな。と律はまた笑った。いつの間にか一人称が俺に変わっている律は、今日はよく笑うなと横顔を見つめる。お酒の力ってすごいのよ。
ㅤせっかくならお水だけじゃなくてジュースでも飲みなよとすすめると、コーラをひとつ彼が頼んだ。ふと見えたカウンター内の棚の上にある、マスターのお気に入りのオシャレな英数字の時計は九時過ぎを指していて、未成年がこんな時間にいていいのか、と急に頭が冴える。
ㅤそういえばこの子は、未成年なのか。

「大丈夫なの、こんなとこにいて」
「じゃあもう帰るか?」
「ええ、それは寂しいなあ。もう少し一緒にいようよ」
「語気が甘いぞ」
ㅤ表情筋が素直になってしまって、自分でも表情がふくれっ面になったのがわかった。
ㅤだめなの、と拗ねたように言うとダメじゃないよ。可愛いよって頭を撫でられるのが、夢かと思った。甘すぎて、カウンターでまじまじとわたし達の様子を見ているさやかちゃんが、きゃあと口に手を当てて悲鳴をあげる。
ㅤ人前でこの調子じゃあさすがに恥ずかしい、とコーラを飲んでいる途中の彼を引っ張ってお金をカウンターに置くとまたね、とさやかちゃんに声だけかけてバーをあとにした。
ㅤどうしたんだよ、と背中に向けられた声に振り返る。
ㅤわたしよりもがっしりとした手首やごつごつと骨ばった手をどさくさに紛れて握ってみると、一瞬変な顔をした律はなにも触れなかった。

「人前であんなこと言われるの、恥ずかしくて」
「じゃあ今なら、存分に言ってもいいわけか」
「そういうことじゃないの」
「違うのか」
ㅤだめなの、涼子さん。って正面に来る彼が一旦手を離すとわたしの手のひらに手のひらを重ねて、指を絡めた。あれ、甘い。困った、恋愛にこんな疎いはずないのにと、心拍数が上がるのを感じて、焦る。
ㅤ心臓がおかしいの、お酒で距離感どころか心臓までバグったか。
ㅤこれはなに、どうして指を、なんてしどろもどろになるわたしを見て、自分で握ったくせにと余裕そうに微笑まれる。十九歳のくせに、大人なのよね彼って。
ㅤ胸に手を当てると、尋常ではないくらい心臓の動きが活発になっていて、彼はそんな様子を見て楽しそうな顔をする。
「心臓、大丈夫そう?」
「すっごいドキドキいってる。死ぬかもしれない」
「死なれたから困るから、手はなそうか?」
「え」
ㅤなに、嫌?って顔を覗き込まれる。胃もたれするくらいには、とても、甘い。質問攻めにされて、こういった時、今までなら素直に甘えていたのに、酸いも混じったようなくすぐったい甘さが若すぎて、ずっと面食らっている。
ㅤ彼のペースに、呑まれてしまう。
「酔うと距離感がバグるのは嘘だったのか」
ㅤまだ少し逃げ気味なわたしを見て、律は少し悲しそうに言う。そんなベタな演技、どこで覚えたのよ。
「別に、今酔ってないわよ」
「素直じゃないな」
「あら、わたしいつでも素直なのに」
ㅤその返しがもう、素直じゃないんだよなと言われてなによ、と顔を背けた。もう少し距離が近くてもいいのに、と言った律はもう行くぞ、と手を離して駅に向かっていく。あら、もう帰っちゃうの。

***

ㅤぽうっとほんのり頬を赤くして空を仰ぐ涼子さんは、すっかり酔っているのか語気が甘ったるい。別に、不愉快じゃないが。
ㅤもうすっかり遅い時間で、彼女を送ろうと駅に向かう。そういえば、彼女はどこに住んでいるんだろうか。徐ろにそんな疑問が浮かんで、何気なく聞くと幸いにも彼女の最寄り駅は俺の家から一番近い駅の隣の隣らしい。
ㅤ俺の最寄り駅を教えると、近いのねと嬉しそうにはにかんだ。今日はいつも以上に、彼女の表情がころころ変わる。俺も、いつの間にかポーカーフェイスを忘れて笑っていた。
「もう遅いし、送っていくよ」
「未成年のくせに、お姉さんを家まで送ろうだなんて」
ㅤキザね、と言いながらも嬉しそうにステップを踏む彼女の長髪から、いい匂いがする。今日はエレガントなバニラの香水が香って、いつもより女らしさを感じた。
ㅤと言っても彼女はいつだって、女性らしさがある。
ㅤ今日は化粧も少し濃いめで、昨日よりフェミニンな格好をしている。光があたると黄色く輝く、白いサテン生地のワンピースに薄いカーディガンを羽織っていて、黒い花形のピアスが耳元で光った。
ㅤ数時間前に心配した時と同じように、冷たいそよ風がふいて、彼女は居心地が良さそうに目を細める。
「夏だって夜は冷えるし、寒くないか?」
「酔いが回ってぽかぽかするから、ちょうどいい」
「なんだ、寒かったら抱きしめてやってたのに」
「な、」
ㅤ俺の言葉に動揺してあわあわと中学生みたいな反応をしたのち、じゃあ寒いかも。夏の夜って冷えるのよね、とわざとらしく涼子さんは寒がるフリをした。我が君は、押しに弱いタイプだ。
ㅤまだなのって言いたげな顔をするから、その顔を見つめてみる。なに?と数歩近づいてくる涼子さんを、そのまま腕を回して抱きしめた。
ㅤ密着すると改めてわかる、細い体に力加減を間違えたら壊すんじゃないかとこわくなった。
「男慣れしてそうなのに、ウブなんだな」
「慣れてるわよ」
「心拍数、こっちまで伝わってきてるが」
「や、やっぱもう寒くないわ。もう大丈夫よ」
「足が折れたかもしれない、動けないんだ」
ㅤだからしばらくこのままな、と言うと身をよじっていた涼子さんが仕方ないわね、と呟いて大人しくなる。
ㅤ文字に起こしたらどくんどくんと言っていそうな、絵に描いたような彼女の心拍数に、些か余裕が生まれてくる。昨日は俺が緊張してばっかだったから、優位に立てたような感覚は気分が良かった。
ㅤ彼女の肩に顔を寄せてしばらく動かずにいると涼子さんは、ねえだのもうだの、単語をつぶやいては先きに続く言葉を飲み込んだ。その様子があまりにもかわいくて思わず吹き出す。
ㅤああ、鼻を掠めるバニラの香りと横顔は大人っぽくて息を吞むくらいきれいなのにこの人は本当に可愛いな。

「なによ」
なんでもないよ。
うそ、絶対なんかある。馬鹿にしてるでしょ
してないよ。可愛いなって思っただけ
あ、そ
ㅤ口を噤むと、もぞもぞとした後に一方的に抱きしめられるだけだった涼子さんが俺の背中に腕を回した。
ㅤ遠慮がちに力が込められて、俺の胸に顔を預ける。そのまま何かを喋る涼子さんの言葉を聞き取れなくて、聞き返そうとしたけれど、彼女は俺の腕から逃げて駅の方へ向かった。
ㅤ手のひらで包みきれるほど華奢な肩が少しだけ縮こまっているような気がした。

ㅤこんな、中学生の付き合う直前の男女みたいな距離感の俺らはそれ以上なにかすることもなく、電車に揺られて付き合ってない男女間で行われる他愛もない会話をしたのち、彼女は最寄り駅の改札口の奥へと消えていった。
ㅤ電車の窓から後ろ姿を眺める。宛ら中学生だ。
ㅤ勤め先のバーを知っているから安心していたものの、彼女が行く日を知らないので連絡先を知らないのは無謀だった。故に次のミッションは連絡先を聞くことなのに、俺は今日それをすっかり忘れて、代わりに彼女の香水の匂いを家に持ち帰って、天井を仰ぎながらやってしまった、と思った。

ㅤしかしその数日後、洋服を干している時、あの日着ていた服のポケットから長方形でオシャレなデザインのカードのようなものが出てきて、少しかすれた緩い字体の「佐藤涼子」の文字にぎょっとした。
ㅤおそらくそれは彼女の名刺で、色々な電話番号が書かれている中モバイルという単語を見つけたが、如何せん洗濯機帰りなその名刺は末尾の2桁のインクが落ちていて、読み取れなかった。幸い中の不幸だ。


***


おかしいわ。
ㅤ口をつんと尖らせたわたしは眉を寄せて、携帯電話を見つめる。留守番電話のボックスや着信履歴、受信ボックスを開く。
ㅤそこには見覚えのある友達の名前しか並んでいなくて、閉じる。開く。また閉じる。繰り返し。やっぱりおかしいわ。
ㅤ彼とバーで会った日、わたしは抱き寄せられた時に彼のポケットに携帯番号が書いてある名刺を忍び込ませたのに、彼から一向に連絡がない。
ㅤあれからもう、七日も経っている。そろそろバーに出勤し始めないといけないけれど、これっぽっちもやる気が出なかった。
ㅤだっておかしいわよね、七日も経っていれば名刺に気づくはずよ。
ㅤ彼なら、連絡くらいくれるはずなのに。まだあなたと一緒にいたいって言ったのが聞こえていて、引かれてしまったのかしら。この間のわたしはいまいちハマらなかったのかしら。それとも、わたし少しわがまますぎたの?
ㅤぐるぐると、こんな歳にもなって歳下の男の子のことで頭が一杯で仕事に手がつかない。
ㅤなんてみっともないんだろう、気を引き締めなくては。

ㅤそう焦って久しぶりに出勤した明くる日、まだ安静にしていなさいと店長に叱られて、わたしはカウンターでお客さんとトークをメインに、忙しそうであれば少しだけ周りを手伝う係を任された。
ㅤ人気がないわけじゃないけれど、特に忙しくなることも多くなくて、つまり、わたしの仕事はほぼない。
ㅤわたしが出てない日さえ、カウンター内で今日みたいに。さやかちゃんはやることがなくてグラスを磨く。それくらい、人手が足りている。
「この間の方との調子はどうなんですか」
「この間って、先週の?」
「そう、仕事場にわざわざ顔を出すなんて涼子さんに惚れているんじゃないの」
「それが、そうじゃないかもしれなくて」
「うん?」
ㅤ不思議そうにこっちを見るさやかちゃんに、わたしも同じ気持ちなのよと思った。
ㅤだって、あの人は抱きしめてくれたじゃない。
ㅤそれともあのスペックだから実は帰国子女で、ハグは挨拶みたいなものなのかしら。
「連絡先を遠回しに教えたのに、」
ㅤこのモヤモヤとした気持ちを誰かに共有したくて少し早口になってしまったその刹那、マスターが携帯電話を片手にわたしの名前を呼んだ。
ㅤこのバーはお店用の電話を固定電話ではなく携帯電話で済ませていて、マスターが片手に持っている黒いガラパゴス携帯、所謂ガラケーは外から店への電話が多い。
ㅤクレームが入ってしまったのだろうか、常連さんからの挨拶だろうか。基本、常連さんはバーテンダーの個人用の電話番号も知っているから、やっぱりクレームかしら。
ㅤおそるおそるマスターから電話を預かり、片耳に当てる。
「変わりました、佐藤です」
ㅤ罵声を覚悟して名乗ると、相手は電波が悪いのか数秒間無言だった。
ㅤもしもし、どちら様でしょうか?と気を悪くされないように気をつけながら質問をすると、どうも。となんだか一週間ぶりに聞いたような、けれど聞いていないようなトーンの声が耳に流れてきて、左胸がキュッとなる。
「律くん?」
「あ、名前呼び」
「人違いでした。灰吹さんですか?」
ㅤなんだよそれ、と笑われて安堵する。
ㅤこの間会った時と変わりない様子に、心底ホッとした。店内のBGMがうるさく聞こえて、今は彼の声に集中したくて店の前に出る。
「どうしてお店にかけてきたの」
「涼子さんの匂いがうつった洋服、しばらく洗いたくなくて気づくのが遅れてさ」
ㅤ名刺に気づいたのは洗濯したあとだったし、電話番号がよく見えなかった。ごめんね、とやけに優しい彼に頬がゆるんだ。
ㅤなんだ、そういうこと。
「ううん、いいの。こうやって声が聞けたから」
「素直だな」
ㅤふふ、とにこにこ笑っていると、そういえば俺のこと名前で呼んでるの?と質問されて面食らう。
「呼んでないわよ」
「さっき律くんって呼ばれた」
「間違えちゃった、他の人と」
「その律くんと俺、どっちに会いたい?」
「ほう?」
ㅤわたしの疑問を持ったその声で会話がとまって、沈黙が訪れた。さては答えるまで、なにも言わないつもりだ。
ㅤそれはもちろん、
「律くん」
「どっちのだよ」
ㅤキレた突っ込みが面白くて笑ってしまう。
「律くんだよ、一人しかいないし」
「ふうん、そう」
ㅤどこかで電話から聞こえる声と同じ声が聞こえた気がして、でもそのことを考える間もなく誰かに携帯電話を奪われた。
ㅤこういう流れを、女の子は小さい頃から知っていると思う、少女漫画や、恋愛ドラマなどで。
ㅤ反射的に携帯電話が消えていった視界の方を向くと、少女漫画の如く灰吹律がそこに立っていた。
ㅤ律くんに気づいてあ、と声を漏らすと、ん?と首を傾げられる。
「本当はただお店に涼子さんの連絡先教えてもらうだけのつもりで電話をかけたんだけれど、電話だけじゃ怪しいだろうしバーテンダーに知り合いってことを証明してもらいつつ連絡先をもらおうかと思って」
ㅤでも要件が今変わった。会いに来たよ、って笑う律くんがすごく甘くて、たじろいだ。情けないけれど、わたしは彼より余裕がなさすぎる。
「あなたってなんか、間が悪いね」
「どういう意味」
「ちょうど、すごく悩んでモヤモヤしてたから」
ㅤ会えて嬉しいすら素直に言えなくて、ひねくれた間が悪いなんて言い方もしてしまって、ああ可愛くないなと思った。
ㅤ会いに来ない方が良かったんですか、ってわざとらしくいじけたような素振りを見せる律くんは可愛い。どんどん歳下の男の子の顔が見えて、律くんに会えて、
「今嬉しくて、死にそう」
「誰に会えて嬉しい?」
「灰吹さん」
「律くん、だろ」

コミカルなカタルシス

コミカルなカタルシス

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-06-29

Public Domain
自由に複製、改変・翻案、配布することが出来ます。

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  1. 我が君
  2. 1
  3. 2
  4. 3