夜のダイアローグ あるいはモノローグ
ねぇ、夜の散歩なんて何年振りだっけ。
――そうだなぁ、五年振りぐらいかなぁ。あれは名古屋に引っ越してきたばかりのときだったよね。最初の家はお店なんてあんまりなくて、夜になるとすごく静かになる場所だったね。
そうだったね。都会だったのに夜は実家より静かだった。
――田舎の夜なんて意外にうるさいよ。蛙とか鈴虫とか。人間以外のものがすごく元気。
確かに。だからここなら落ち着いて夜の散歩ができるなって思ったんだよね。静かな夜の中、目的もなく歩きながら、あなたと取り止めもない話をしたかった。
――私今でも怒ってるんだからね。どうして恋人なんて作っちゃったのって。だって私との時間はそのせいで減っちゃったし、夜の散歩だって。
それは確かにそうなんだよね。憧れの夜の散歩は結局一回しかできなかった。あのときほど男に生まれればよかったのかなって思ったことはなかったね。
――あのときが初めてだったっていうのは、わりと幸せな人生かもしれないけどね。
女だからって言われたの、あれが初めてだった。でもあの人は心配して言ってくれてたんだよ。それはわかってる。女の子の夜の一人歩きは危険だよって。
――でも、女の子だって夜に一人で散歩したい日くらいあるのに、なんで女だから許されないんだろう。私がものすごく強くても言われたのかな。
強くても言うでしょ。あいつはそういう奴だった。心配で爆発するんじゃないかってくらい私のこと心配して、私がそれを突っぱねると、「心配くらいさせて」って悲しそうな顔して。
――鬱陶しかったね。
はっきり言うね。いや、まあだから別れたんだけど。でも五年も一緒にいたのか、あいつと。なんだかんだ楽しくはあったよ。
――へぇ。急に家を飛び出して連絡取れないようにしたから、あいつのこと嫌いになったのかと。
嫌いじゃないよ。友達としてなら多分やっていけた。でもさぁ、やっぱり夜の散歩したかったんだよ、私。危なくても。だってここで誰かに襲われたとして、悪いのは襲った奴でしょ?
――私もそう思うけど、多分少数派の意見だよ。だってそうじゃない。そのことを人に相談しても、みんなは心配してくれるなんて優しい彼氏って言ってたじゃない。
そうだね。ただの夜の散歩なんて、みんなには不必要な行動に見えるんだ。私があなたと話せるのは夜の下だけなのに。
――ふふ。嬉しいけど、外に出なくたって良いじゃない?
知ってるでしょ? 私布団に入ると五分で寝るのよ。
――私はいつでもそばにいるんだから、いつだって良いのよ?
でも強い日差しの下だと、色んなものが見え過ぎて邪魔をするから、あなたとゆっくり話なんてできないのよ。こういう静かな、誰もいない夜がいいの。
――私と話するの、そんなに面白いの?
面白いっていうか、落ち着くかな。あなたは私の全部を知ってる。でも私の過去にはまだ言語化できない出来事が沢山ある。こうして話しているとその一つ一つにゆっくり形が与えられて、少しずつ過去を許せるようになる気がするの。
――あなたは過去を許せないの?
誰だって、許せない過去くらいあるでしょう? 言葉にできない靄みたいなのがずっと腹の底に溜まってるの。でもそれに言葉という輪郭が与えられると、なんだか晴れやかな気分になることもあるのよ。ああ、あのとき私は怒っていたんだなって、自分の感情に説明をつけることができるの。
――でもそういうのって大体都合よく捻じ曲げられるって言わない?
いいのよ。どうせ全部過去なんだし。
――まあそれもそうか。
あなたと話して、過去を言葉にして、そうしたらそこから続いている今に向き合える気がするの。だから私に夜の散歩は必要なのよ。
――じゃあ五年間どうしてたの?
我慢してたのよ。でも限界だから別れちゃった。
――そっか。ねえ、結構歩いたんじゃない? 向こうに光が見えるよ。
もう本山あたりまで歩いて来てしまったのね。明日は筋肉痛かも。
――大体上り坂だったもんね。でも帰りはずっと下りだよ。
下り坂の方が足腰に負担かかるらしいわよ。
――どうする? タクシーで帰る?
そんなことしないわよ。コンビニでコーヒーでも買って、それ飲みながら帰りましょう?
*
コンビニでコーヒーを買ってから、来た道を戻る。切ったばかりの短い髪が前から吹いてきた風で後ろに送られた。カーブミラーに映った姿を見て、私が心の中で呟く。
(良く似合ってんじゃん)
私は鏡に向かって笑みを浮かべた。
(でしょ? あの美容師さん、アタリね)
私はコーヒーを飲みながら坂を下っていく。家に着くころには一時を回っているだろう。でもやるべきことはもう終わっている。この散歩が終わったら、私は私を抱きしめながらゆっくり眠るのだ。
夜のダイアローグ あるいはモノローグ