不死鳥

不死鳥


        第一章

強い日差しが朝方の雨で湿気を含んだ街路樹を容赦なく照らしている。 目黒通りから蜃気楼の様に続く柿の木坂の坂道を上がってきた本郷は自分の呼吸が粗くなっているのを感じ歩きを止めた。
「こんな坂で息が切れるとはな、この辺りのはずだがな」本郷は手にしたファックスで送 られて来た地図を見た。 そこには柿の木坂の交差点から何本かの交差した道が雑に書かれていて、四本目を左折した場所に丸で囲んで石垣の家と印されていた。 歩く人も見当たらない閑静な古い住宅街を暫く歩いた本郷の前に都会ではもう珍しくなった石塀と木立に囲まれた洋館が現れた。 太い石の門柱に表札をかける窪みはあるが、四隅に苔が生えたそこには何も掛けれていない。
「ここだな」鍵が掛かっていない鉄の扉を押すと油の切れた音と共にそれが開き、石畳が建物へ続いていた。それはおそらく昭和36年代に建てられたと思われる青い 瓦屋根の二階建ての洋館だった。
2階の木枠で仕切られたガラス窓を囲むテラスは白 い塗装の跡を残している。一階から伸びた暖炉用の煉瓦作りの煙突がその建物を山奥に建てられた古い山荘の様な佇まいにしている。
三角屋根のポーチに立った本郷は呼び鈴を押した。 チャイムが鳴り階段を降りる人の気配がして厚い木の扉が開いた。 ショートカットの若い女が半分開いた扉に顔を覗かせた。
「本郷ですが」女の化粧の無い大きな目を見て本郷は名乗った。
「あっ、お待ちしてました、どうぞそのままで」
笑顔になり明るい声で女が本郷を招き入れた。
言われるまま上がりの無い木の床を靴のまま本郷は四隅がアーチ状に細工された漆喰壁のサロンの様な部屋に入った。 漂うカビの匂いで其処が長い間使われていないのが判った。
其処には家具も無く、幾つもの段ボールで梱包されたパネルの様な物が、天井近くま で積み上げられていた。 「二階の奥の部屋です」彼女が吹き抜けになったホールの端にある重厚な木の階段を 指して言った。
見事な細工のステンドグラスがはめ込まれた彩光窓からの光で鈍く光る階段を本郷は上がって行った。
「よぉ 久しぶり」ドアーを開けた本郷に、大きなマホガニーの机から顔を上げてその男 は柔らかな笑み浮かべて言った。 緑のシェードのディスクライトの光りに、上條総一郎の顔が照らし出された。 上條は本郷よりニ歳年上で 180cm を超える背丈、幅広く厚い胸板は相当な運動経験 者である事をその体躯が表している。彼は大学時代にはその強さで相手校から不死 鳥と名づけられた、レスリングの学生チャンピオンだった。 大学選手権の決勝で本郷に見事なバックドロップからのホールド勝ちを決められて以来、本郷と上條は親友の仲になった。夜の銀座並木通り辺りを二人が並んで歩くと、大概の道行く人は避ける様に道を開けた。
ある夜、銀座の一流と言われるクラブに誘われた本郷は、そこで上條と言う男の片鱗を見た。
ボックス席で呑んでいた上條と本郷の隣りの席で
4人の男達が、若いホステスの肩や 尻を抱いて大声で笑い騒いでいた。酒に血走った目で、見るからに堅気とは思えない風貌の四人組だった。
そのうち一人が横に座った子の胸を触った。
奇声とも叫びとも取れる声を上げてその子が立ち上がり男の頬に平手打ちをした。
「なんでぇこのアマ」と男がその子の腕を掴み捻じ上げた時、上條が立ち上がった。
そして踵を返すと男等のボックスの前に静かに近づいて上條は低く通る声で言った。
「あんたらね、ここは下衆が遊ぶ店じゃないんだよ」 その声に店内にいた客の殆どが上條を見た。
「なんだと、おめぇ」 雷に打たれた様に唖然と上條を見上げた四人組のひとりが上條に言った。
ドスが効いた声だった。
「だから、下衆の来る店じゃないと言ったんだよ」
四人を見た上條が繰り返した。
4 人の男達は互いを見廻し上條に言った。
「お兄さんよ、ちょっと表まで顔貸してくれねぇか」 立ち上がった年長と思われる男が上條に言った。 ただならぬ気配にマネージャーが店の奥から飛んできた。 「いいですよ、顔なら存分にお貸ししますよ」 その声に本郷もボックスから立ち上がった。 止めようとするマネージャーとママの間を分ける様に上條が先に店の出口へ向かった。
その後に本郷も付いて店を出た。
「おめえ、どこのどいつだ」
エレベーターホールの前で 4人組が上條と本郷を取り囲み年長の男が両手をポケットに入れたまま上條の顔に近づいて言った。
「ドイツでもオランダでもありませんがね、お兄さん方に貸すほどの顔では」上條はその 男の目を見ながら、少しくたびれたブレザーの胸ポケットから黒革の名刺入れを出した。上條はその束から自分のでは無い一枚をひき抜いて男に差し出した。
真っ黒な厚手の紙に銀色の型押しされた四文字だけが浮かんでいた。
「先生とお知り合いで」度肝を抜かれた様にその文字を見た男の声が弱まるのを本郷は聴いた。
「いや、偶にお世話になっておりまして」名詞を人差し指と中指で摘んだまま上條が微笑みながら柔らかい声で答えた。
「いや、それならそれと」腰を折りながら男が上條に言った。 「いや、ああ言う場所で恥をかかせるのは、私の趣味じゃ無くてね」 口元に薄い笑いを浮かべて上條が言った。
「で、そちらさまは」明らかに口調を変えた男が上目遣いで上條に尋ねた。
「上條総一郎と言います」四人を見渡す様に上條が言った。 「上條さん、えらい醜態をお見せして、この事はここだけということに」 男は上條に頭を下げて言った。 上條の横に付き身構えていた本郷は呆気に取られた。
「いや、別に何も」そう言う上條に、年長の男に促された 4 人が同時に頭を下げた。
男達はエレベーターを使わず急ぎ足で階段を降りて行った。
「上條さん、一体それは」当然自分も加勢しようと覚悟していた本郷は全身から力が抜け、名刺入れを仕舞う上條に聴いた。 「ああ、これですか、僕の御守りみたいなものでね 右翼の街宣車もこれを見せたら引き返しましたからね、あんな連中なんか論外だよ、こ れを渡したこは日本人では俺が5人目だとこの人は言ってたな」
「さっ、呑み直しますか」と上條は空言の様に言いながら笑顔で本郷の肩に手を掛けた。

「どう商売は、世の中色々大変そうだね」書類と書物や紙屑に埋まった机から大きな背 もたれが付いた椅子に背中をもたれて皺だらけのアロハシャツ姿の上條は言った。 「いや、ご無沙汰してました、3 年振りですね」 上條の顔を久しぶりに見た本郷は相変わらずの存在感があるなと思った。
広い書斎の様な部屋には大きな白いニ台の機器が置かれている。 「これ、なんですか」本郷は尋ねた。「あーオフコンて奴だよ、IBM の最新型でね、先月届いたばかりなんだ」櫛を入れて無い長い黒髪をかき上げて上條は言った。
「失礼します、コーヒーを」先程の女性がドアーを開けてマグカップを乗せたトレイを持 って部屋に入ってきた。 「あー紹介するね、こちらソフィアさん」上條が手の平を返して彼女に向けた。
「こんにちはソフィア•パクと申します」 丁寧で流暢な日本語で彼女は本郷の目を見てボーイッシュカットの頭を下げた。 「ハワイ生まれでハワイ大学卒業、パパは韓国、ママが日本人、僕の秘書なのよ、まぁ アルバイトだけどね」
少し照れ臭くさそうに上條が言った。
「こちら本郷君、学生時代からのポン友でね」
上條の言葉に彼女は少し首を傾げた。
「よろしくお願いします、どーぞごゆっくり」そう言うと笑顔を残してソフィアは部屋を出て行った。
ヘアーに似合わないジョーゼットのロングスカートが扉の外に消えた。
「で本郷ちゃん、話しって」昔ながらのちゃん付けで上條が聞いた。

          第ニ章

1998年、バブル景気の宴の処理と新しい世紀を迎えようとしているのに世の中は完全 に冷えてた。
17年前に会社を立ち上げ浮かれ景気の波に乗り、一時は区内の高額納税企業にも名を連ねた本郷の事業にも大きな翳りが見えていた。 銀行からの借り入れもメインバンクの東洋三星を始め貸し借りを繰り返しながらいつの 間にか膨れていた。
そして三番銀行だった芙蓉から突然融資停止を受けた。 それは本郷の会社に予想以上のダメージをもたらした。貸し借りを続けて来た矢先、融資課長からの借り入れ額の一旦全額返済要請に本郷は首を縦に振ってしまったのだった。大蔵省の監査が入るので、次月に必ず貸し出しを再開しますからと何度も融 資課長から頭を下げられた結果だった。
融資再開の報を問いに支店を訪れた本郷に課長は出て来ず、日頃愛想顔をしていた 担当の行員は素知らぬ顔で「社長、そんな約定はありませんよ」と能面の様な表情で言い放った。
応接セットに腰を下ろし、席を勧めた上條に本郷はこれ迄のいきさつを話した。
「やられたね、本郷ちゃん、借りた金を返したら一巻の終わりだよ、 今の銀行の奴等はそういうやからだよ」ゆっくりと話しを聴いていた上條が言った。 「いや、本当に踵を返され、梯子どころか下駄まで取られたんです」上條の言葉に不甲斐なさを隠さず頷いて本郷は言った。
「バブルの時は余剰する資金をどんどん貸し付けて バブルが弾けた今は何処も貸し渋りだ、いやこれは貸し剥がしと俺は名付けたがね」
貸し剥がし、その言葉が本郷の頭に焼きついた。 如何に客を欺いてでも不良債権化する前に貸金を回収するか、それによって融資先の社員家族が路頭に迷おうが、経営者が首を括ろうがは彼等の道理には無かった。 道理という人が歩む道そのものすらが今の銀行には失われていたのだ。
しかし、それを思った所で今の本郷にはどうする事も出来ない。迫り来る大きな影が自分を出口の無い路地に追い込む様な気持ちに襲われた。
眠れない闇が続く中で、ふと上條に会って見ようかと本郷は思ったのだった。
「頼んだ資金繰り表とバランスシート持って来たよね」尋ねた上條に本郷は其れを差し 出した。
「これ預かるは、来週まで」受け取った上條は其れを机に放り投げて言った
「面白そうだね」そう本郷に言った上條の目の奥にギラリと光るものを上條は感じた。 其れは大学選手権決勝のマット上で上條が見性たあの目だった。

「お客さんのお帰りだよ、車出して」 机に戻りインターフォンのボタンを押した上條はソフィアを呼んだ。 「よろしくお願いします、上条さん」会釈した本郷に 「ああ、見させてもらうよ」と上條は微笑んだ。 門前に立った本郷の前に白のレンジローバーが止まった。 「どうぞ、お乗りになって」ハンドルを握ったソフィアが笑顔で本郷を助手席に招いた。 「じゃあ目黒駅まで」と言った本郷に 「いえ、ボスが会社までお送りしろと」とソフィアが答えた。 運転しながらソフィアは話しをし出した。 彼女は3ヶ月前にジャパンタイムスの募集欄で上條の会社を見つけ面接し、 その場で採用された事、面接は全て英語での会話だった事、上條の会話が大使館員 クラスのキングスイングリッシュだった事等を外人特有の手振りを加えて矢継ぎ早に本 郷に話した。
「どんな仕事してるの、ソフィアは」と本郷は尋ねた。
「そうね、市場調査かな、後はオフコンを使ってそれをまとめ上げる仕事」とソフィアは答えた。 「へーどんな内容なのそれって」実際の処、上条の仕事の中身を良く知らない本郷は 興味あり気に尋ねた、知っているのは以前貰った名刺に書かれた経営支援&インター ナショナルコンサルティングと言う肩書位だった。
「アメリカからのビジネスレターのやりとりと整理とボスが書いた英論文みたいなものの添削とオフコンへの打ち込み、それと韓国の会社とのやり取りね」
「レター殆どは AOL本社とアメリカの大学からね」
AMERICA ONLINEが北米では大手のインターネットサービス会社だとは本郷も知っていた。
「AOL か凄いな、ソフィアところであのサロンにあった凄い数の段ボール箱の中は何な の」本郷が聞くと、「あっあれね、That's a solar panel from Lucky Gold Star Korea 」 ソフィアは事もな気に英語で答えた。 ソーラーパネル、あの最近耳にする太陽光発電のことか、本郷は三年を経て会った上條の本業が一体何なのか更に分から無くなっていた。

 第三章
上條に会ってから一週間が過ぎそうだった。
本郷は社員の前ではいつも通り何事も無い様に振る舞っていた。だが気持ちの中で はこの先の事業への不安は高まるばかりだった。
本郷の会社、株式会社ライフデザインは総社員 70 名アルバイトを入れると倍近くになる。
創業して 17 年経つが輸入家庭雑貨と自社のオリジナル商品や併設したカフェ、など都心から少し離れた商業施設にライフデザインの店名で20店舗を展開している。 店舗売り上げの他に自社製品のOEM事業を含めて年商は40 億になっていた。
その商材は家庭を持つニューファミリー層に受け、どのテナントでも常に売り上げランクはトップファイブを下がる事は無かった。しかしそれは美しく優雅に見える湖に浮かぶ白鳥と同じで水面下では必死に水を掻いているのと同じだった。
「社長、上条様と言う方がお見えです」デスクでぼんやりと考え事をしていた本郷は女子社員の声で我に帰った。 「やぁ、この間は」未だ肌寒いというのに半袖のシャツにチノパン、履き古したスニーカ ー姿の上条が本郷に向かって笑いながら大きな声で手を上げた。 その声にパソコンの画面に見入っていた社員やミーティングをやっていた社員の殆ど が顔を上げて上條を見た。
「あっ上条さん、どうぞどうぞ、こちらへ」 と本郷はひと気の無いショールームへ手招きした。 「すみません上條さん、うちは社長室とか無いんでこんな所で」と本郷が言うと 「いや、社長室なんか在る会社ほど倒産歴も多いよ」上條は笑って言った。 「早速だけどさ、八ヶ岳に籠って丸2日考えたわ」髪をかきあげた上條は、2枚のB4紙を本郷の前に差し出した。 上條にはそこに東洋三星、旭のヘッドラインが読み取れた。
「本郷ちゃんの会社は資金繰り表とBL見させて貰ったけど、流動資本対して流動負債つまり借り入れが多すぎるね、売り上げは調子良い様だけど」 上條はいとも簡単に言った。
「三番行の扶養はそこを見て、貸し付け金の回収を 画策したね、まぁバブルの頃と違って扶養あたりの二流銀行には大蔵省銀行局らの目も相当に厳しくなってるからね、銀行の再統合も近々在るだろうから」と上條は続けた。 「まあ、5 千万の預金に対して 1億5千万の当座貸し越しだから、こりゃ目をつけられるはな。旭は兎も角、三星銀行はここまでのはやらんな」確かにそうだろと本郷も思った。事実、新規出店資金捻出の為に旭銀行の甘さを見ての借り入れを続々けている事は事実だった。
「自己資本が少ない本郷ちゃんの会社じや、今後相当にキッャッシュフローがきつくなるよ、このままではな。銀行間どうしの情報交換は無いがいずれ三星、旭も下手すりゃ同じ事して来るね、いや間違いなくだね」 その冷徹とも言える上條の言葉に流石の本郷も息をのんだ。倒産、その文字が浮かび 上がった。先日上條を訪ねたのは正にそれを感じたからだった。 「上條さん、矢張りですか」本郷は上條を見て言った。 「大蔵省指導の銀行再統合が迫っているからな、銀行も今迄とは全く違う環境になっているからね、ここのところ頻発される政府の制度融資なんかはその前ぶれだよ、正に飴と鞭だね」 事業の前進だけを考えてきた多くの経営者はこう言うロジカルな思考が中々出来ない、右肩上がりの甘さが殆どの中止企業経営者には残ってきる、同じ時代を生きる本郷もそれと同じだった。
「そこでだ、コレを考えたよ」上條はB4の紙を広げて本郷に差し出した。 「これは、もしかして」暫く其れを見ていた本郷は 驚きの表情で上條を見た。
「そう、今後の君の会社の対銀行対策だよ」
上條はさらりと言った。 「しかし、こんな事が出来るのですか」書類から目を離した上條が言った。 本郷が持ち込んだそれは、東洋三星銀行と旭銀行に対する返済計画だった。
しかし其処に書かれていたのは三星への計画書には借り入れ金のの元金返済は 1 年据え置きの当面利払いのみで、一方旭銀行に対しては利払いのみで元金返済は書かれていなかった。驚いたのは旭銀行への計画書はその全く逆が書かれていたからだ。 「これを両銀行へ出す、これしか無いよ本郷ちゃん」上條は言った。 「しかしこれでは」本郷の声がうわずった。 「これでは、その次に君が言いたい事は、銀行との取り引きが出来ない、かな?」 本郷は上條の言葉に芯を突かれた思いだった。 「遅かれ早かれ、そうなるよ、三星と旭が貸し付け金の早期返済を迫ってくるのは時間 の問題だからね、その前にこちらから先手を打つんだよ」 上條は身を乗り出して本郷に言った。そして話しを続けた。 「これは何も僕が考えた事じゃ無いんだ。リスケジュールと言ってね、大戦後の戦争賠償や其処後の南米など国家債務が超過に陥った国が、世界銀行や IMF に対して提示した借り入れ金の返済計画の見直しや繰延を要請したやり事なんだ」上條は本郷に言った。
「日本でも初めてこれをやったのが備中松山藩の山田方谷という学者で偉人でね、時の幕府に対して当時 十万石の借財の棚上げを頼み込みそれを認めさせ、一方て藩士への節約や藩内の無駄や藩政を徹底的に見直させ、なんとその後 十万石の利を藩にもたらしたんだよ。」
その言葉に本郷は上條と言う男が、たぐいまれな運動神経の持ち主であるのと同時に、並み外れた頭脳を持つ人間であるのが分かった。そして上條が小学生時代に全国でも有数に高いIQの持ち主であった事をレスリング選手連盟で聞かされた事を思い出した。 「これを業界ではリスケといってね、大蔵省銀行局でも最近見直して研究してる様だし、気の利いた金融マンなら知っているね、勿論銀行の連中はこれを自ら客先には教えないがね」そこまで言って上條は話しを終えた。 「これを両行に提示するとは、上條さん凄い荒技ですね」本郷が言うと 「まあ、逆転のバックドロップじゃ無いけどね 先ずはリングに上げてみようよ、後は相手の出方次第だね」 上條は本郷の眼を見て言った。
「ところで本郷ちゃん、週末僕の八ヶ岳の小屋に 来ないか、銀行さんも土日は休ませて上げなきゃね」 笑う上條の顔は相手を包み込む柔らかさに戻っていた。

        第四章 

中央道大月トンネルを抜けると遥か前方右手に八ヶ岳連峰の山並みが雲の上に姿を見せた。
左手には南アルプスの北岳が雄大な裾野を広げている。 レンジローバーのサイドウィンドウから心地よい風が車内に流れ混んでハンドルを持つ ソフィアの髪の毛を撫ぜている。
「ボス、良い風」 「おいおい、ソフィア、そのボスは山ではやめてよ」 上條が笑って言った
「あっじゃあ、ソウイチロウさん あー発音し辛い」ソフィアも楽しそうに返した 「ソウちゃんでいい」
「ちゃんかよ、まぁ良いか」上條が言うと 「ヤッホー」おどけたソフィアは追い越し車線に入りスピードを上げた。 「ヤッホー」後部座席に座っている本郷もつられて言った。
「ちょっと寄り道するかな、ソフィア、この先のインター降りてね」 暫く走ると上條が本郷に振り返って言った。 小淵沢インターを降りた車が上條の案内で両側に大きな糸杉の生えた県道をしばらく 走ると、山梨県馬術競技場の木の看板が見えた。 広い障害競技用の馬場と厩舎があり数頭の馬が、騎手を乗せて馬場を走っている。 施設から八ヶ岳へ向かって一本の土の道が見えた。
「ここは国内でも有数の競技場でね、あれは 5km ある乗馬用のクロスカントリーコースだよ」 とうもろこし畑の先、豊かな森へと繋がるそれを指差して上條が言った。 車をパークさせた三人は上條に付いて厩舎へ向かった。訓練を終えた数頭の馬が丸太の柵から顔を出している。その一頭に上條は歩みより太い首を優しく叩いた。栗毛に白い胸毛が入った美しい馬だった。 「この子はジャンヌと言ってね、なかなかの優駿なんだよ」
「ソウちゃん、馬好きなの」ソフィアが言った 「好きだよ昔から、特にサラブレッドよりこのセルフランセ種が好きだね、気性が優しく、素直で頭がいいからね」上條はジャンヌの馬体を撫ぜながら
「うちの小屋にも2頭いるよ、アラブ種だけどね」 「えーソウちゃん、山で馬飼ってるの」驚いたソフィアが上條の顔を見て言った。 「後で会えるよ」艶のある馬体を確かめる様に見ながら上條はうれしそうだった。 「なんで又馬を」その言葉を不思議に思い本郷は言った。
「なんでって言われてもね、あのね、競走馬は年に 8000 頭位生まれるんだよ、その内まともなのは 7 割りでね、その中で地方競馬に出られる馬は、そうだなぁ 3割だろうな、 そして中央競馬に出られるのは更に3割り、G1 となると1割りを切るんだよ」 「厳しい世界なのね」ソフィアが言うと
「つまり、G1 レースに勝つ馬は単年で計算すると 8 千頭の内の一頭になるのかな、生涯獲得賞金が5億円位になるような優駿はね」上條が言つた。
「へーそれ自体が博打だよね、ロマンはあるけどさ」本郷が言うと
「でもな、8 千頭の内寿命で死ぬ馬なんて殆どいないよ、その前に皆んな薬殺されて 食肉になり人に食われるか、動物園の虎やライオンの餌になるか肥料にされるんだよ、その昔みたいに農耕馬なんか全くこの世から姿消してるしな。僕はその内のたった 2 頭を救ったまでさ」 上條はそこまで言って、
前足を掻き始めたジャンヌに飼葉を喰ませた。 「豚は最初から人にたべられる為に生まれ、競技馬も華々しく生きるけど最期は豚と同じ運命が決められている、そういう事なのね」 悲しそうな眼でジャンヌを見たソフィアも馬体を撫ぜた。
「そうだよソフィア、それが僕にはたまらなく嫌なんだ、その運命とやらがさ」
2人の会話を聴いていた本郷はジャンヌの大きな黒い瞳を見た。長いまつげに囲まれ たその眼が悲しみをその奥に宿しているように見えた。
運転を代わり県道から脇道に入った上條は、更に農道へと車を入れて竹で組まれた 稲作用の竿に掛かっている沢山の干し草の前で車を停めた。
「これを積むから、頼むわ。小屋にいる奴が待ってるんでね」 上條の言葉にハッチバックを開け、干し草を胸一杯に抱いた本郷に、昔何処かで嗅いだ覚えがある懐かしい草の匂いが漂った。 畑の周りの茂みの中に入って行ったソフィアの声がした。 「ソウちゃん、この木匂うんだけど何かな」
「ミントさ、ソフィそれ少し摘んでよ、我等の晩飯だからさ」干し草を抱いた上條が言った。
「えーこれが今夜のディナー、お馬さんみたいね」 ストローハットの日差しを上げミントの葉を嗅いでいたソフィアが言った。 八ヶ岳から降りてくる風が、規則正しく植えられたとうもろこしの群れの間を抜けて、葉をざわつかせていた。
干し草の匂いを満載したレンジローバーは、小海線の踏み切りを渡ると、針葉樹林の中の真っ直ぐな一本道を八ヶ岳に向かった。
ここ数年観光地化の激しい清里と比べて、この辺は森の中にペンションや別荘がちらほら点在している位で、呼吸する深い緑の森と、偶に鳥の囀りしか聞けない静寂は、何処か見知らぬ外国の森の中に迷い込んだその日の野営地を探す旅人の様な気分にさせる。 「ここだ、着いたよ」舗装されていない細い道に車を入れ暫くゆっくりと走った上條が顎で示した先には本当に彼が言う山小屋風な建物が建っていた。 周りの森を切り拓いて建てたのであろう平屋の建物は手前に小さなバルコニーがあり、 そこから庭というよりそのまま森へと繋がっている。 「さっどうぞ、入って」先に立った上條が玄関の扉を開けて二人を招き入れる。 「鍵はいつも掛けないの」ソフィアが驚いた様に言うと「あはは、何処に盗まれるものがあんのかさ」と上條が笑った。 玄関を上がって先にリビングと思われる部屋に入ったソフィアが驚きの声を上げた 「なに、これ」そこには部屋一杯に黒いグランドピアノが置かれていて、後は4脚の籐椅子だけだった。
「なんでこれを」と本郷が言うと
「あー、お袋が昔から好きでね、来ると弾くんだ
僕も弾くけどね」と上條は言い 「ここは死んだ親父が残したものでね、夏場はお袋が寝泊まりしてる、僕は週末にかなはず来るよ」と使い込んだキャンバスバックを床に置いて言った。
こんな緑に囲まれた森の中で、好きなピアノを弾く 上條の母親は一体どんな人なのかと本郷は想った。 「さあ、荷物置いたらひと仕事してもらうかな、あいつらに餌やらなきゃ」もう、ゴム長靴を履いた上條は先に裏手に出て行った。
母家の隣りに建てられた小屋には確かに2頭の馬が繋がれていた。一頭は栗毛、もう 一頭は黒に白い足毛だった。2頭とも上條の姿に気付くと前足を上げて嘶いた。「どぅ どぅ」と上條が言うと首を擦りつけて甘えた。「両方とも競技馬でね、栗毛が 10歳の牝、 黒は8歳の牡だよ、二匹とも足の怪我でお払い箱になってね、甲府の処理場で栗毛を見つけ、後から黒もね、馬って結構寂しがり屋なんで、2 頭をね」さりげなく言った言葉に、そこが上條らしいなと本郷は思った。 三人で大汗をかきながら飼い葉を食べさせて、糞や寝床を掃除した。
最後に桶一杯ごとの水をやると、額に大粒の汗を浮かべたソフィアが上條に言った。
「ところでソウちゃん、この子達、名前は」
「あーマイケルにジャクソン、なーんてね。そう言えば未だ付けて無いよ」上條が戯けて言うと
「じゃ女の子はソフィアにしてよ、いいでしょ」と
嬉しそうに言った。 「うーん、黒い瞳にナイスボディーのソフィアちゃんか、いいね」と上條が言うと 「あら、いつ見たの、やだ」と顔を赤らめてソフィアは T シャツの胸を両手で押さえた。
確かに一見細身だが、きっと着衣の下には美しい曲線を持っているのだろうと、本郷 は気付かれずにソフィアの体を一瞬眼でなぞった。
「私、ご飯作るからね」シャワーを済ませトリコロールの縞が入った T シャツと白いショ ートパンツに着替えたソフィアがタオルで髪を乾かしながら
キッチンに立った。 本郷は庭を散策してみた。
鬱蒼とした針葉樹の放つ匂いが本郷を癒やしていた。暫く森の際を歩いていた本郷は母家から離れた森の中に迷彩色の厚い軍用シートに包まれ、うず高く積まれた物が目に入った。近づいて、手でなぞりその型をたしかめた本郷はそれが以前、上條の家で見たものと一緒な事に気づいた。
「今夜はパスタミントペパレンティーノアラ ヤツガタケよ」ソフィアが戯けながらミントがふんだんに盛られたそれに、ソフィアが持って来たフランスパンと本郷が持ち込んだボルドーの三本がテーブルに並んだ。
「じゃあ、乾杯だな」と上條がグラスをあげると 「何に乾杯する」ソフィアもグラスを上げて言った。 「美しい馬達とソフィアと森に」と言い本郷もグラスを上げた。 「うゎ、ミントが効いてる」とパスタを頬張りながら言ったソフィアに 「山で自然に育ったミントは葉も大きく、香りも 全然違うんだよ」と口の周りをオリーブオイルだらけにした上條が言った。 笑い声がダイニングに置かれた薪ストーブに響いて夜の庭へ抜けて行く。
「ところで上條さん、ちょと気になる事聞きてもいい」本郷がワイングラスを置いて言っ た。
「あー何かな」上條が三杯めのグラスを飲み干して言った 「あの庭にあるもの、ソーラーパネルでしょ」
上條の顔を覗いて本郷は言った。 「あー分かっちゃったか」ワインで顔を赤らめた上條は言った。 「私が教えちゃったの」ソフィアも上條の顔を覗いて言った。 「こら、ソフィア、企業秘密だぞ」上條が笑って四杯目の空のグラスをソフィアに差し出 した。
「あれが僕の将来的なビジョンだな」と上條は言った。 そして上條の話が始まった。それは壮大な話だった。

         第五章
「僕が小学校の時、おやじは参議院の職員でね、お袋と僕は永田町の官舎住まいだったよ、祖父の上條龍一は日本人なら誰でもその名を一度は聞いたであろう国粋主義者の大立者児島義一の懐刀と言われた男でね、右の世界では相当に名の知れた男でしたよ。いつも黒紋付の羽織に白絣の着物を着て山高帽姿でしたね。 僕は高校生までは良く祖父の鞄持ちみたいな事をさせられてたな。祖父が生涯の師と仰いだ児島先生は僕を自分の孫みたいに可愛がってくれたよ、もうおやじも祖父も児 島先生より先に亡くなりましたがね、今の僕の事務所も先生の別宅を使えと言われてね」其れを聞いた本郷はいつかの銀座での事を思いだした。上條は三本目のワインを開け話しを続けた。
ソフィアは興味あり気に話しの続きを聞きたがっている。 上條はグラスに注がれたワインを空けると話しを続けた。 「戦後の日本政府は経済復興には欠かせない次世代エネルギーに付いての研究を始めていて、役人だったおやじもそれに関わっていたんだ。 良く官舎に仲間が集まり一升瓶を囲んで白熱した論議をしてたな、火力、水力発電に 変わる代替え電力エネルギーの事をね。
先ずは昭和30年代に始まった水力発電への期待が最大級の黒部ダムや奥只見ダムを生んだね」 本郷は子供の頃自分の父がこれらのダム建設に関わる事業を大手建設会社の下請けとして営んでいた事を本郷に話した。 「へー本郷ちゃんの事業はおやじの血なんだね、僕にはおやじの役人の血があり、それがとてつも無く嫌でね、子供ながらいつも反発してたよ、体を鍛えると言い張り、小学校の通学は年中裸足で走っていったね」と笑い、そして上條は話しを続けた。 「しかし河川を堰き止めダムを作る膨大な費用と其れによる自然破壊等、水力発電にも限界が見えたのさ、当時アメリカはソ連との冷戦下、核兵器開発を押し進めたか、一 方で余剰した核の処理に根を上げていた、そこで日本へ核利用の原子力発電を強引に迫った訳だ。
唯一の被爆国だったけど、敗戦国の日本政府はこの圧力に耐えられ無かったんだよ」
「日本は原発の促進に舵を切り、中曽根康弘や正力松太郎等によってこれが押し進められ、田中内閣時代の列島改造で更に拍車がかかり、原発建設には勿論莫大な金が動いた訳だ、そして当時の原発はアメリカのGE製だ、一基数百億だよ」 ここまで話しを聞いていたソフィアが言った。 「実際、国土の狭い韓国での原子力発電は総電力消費量の 45%になってるは、今後 更に原発開発は促進されるの」そうなんだよね、上條が合槌を打った。
「だか、オイルショク以後石油価格が高騰し、世界的な省エネ対策などで日本の主力だった石化燃料を膨大に使う火力発電の将来への懸念が高まり、原子力発電の他、代替えとして1974年の政府が 発表したサンシャイン計画で太陽光発電が大きく浮上したんだ。 ところがだ、これに待ったを掛けたのが電力業界だった。もし地産地消型の太陽光発電が普及したら、彼等の稼ぎ頭の送電用インフラが要らなくなる。 そこで彼等は太陽光発電でも彼等のインフラを利用する様に通産省と結託して大手メーカーを促し、その他の優秀な太陽光発電メーカーの切り崩しとソーラモジュールの輸出入規制をかけたんだよ。特定の権益と利益を保持する為に見えざる権力による弾圧を始めたのさ、これで当時世界1だった日本のソーラー技術開発もみるみる弱体化していったと言う訳なんだ」
「ところが、1986 年に起こったチェルノブイリ原発事故により原子力発電への危惧、懸 念が世界的に高まり、欧米各国は新たな再生可能エネルギー、つまり太陽光発電に 再注目し始めたんだ。 現にドイツでは再生可能エネルギーによる電力使用が火力発電を抜いたし、目標の総電力使用の 20%に間もなく到達するんだ、石化燃料による大気汚染が深刻な中国 も太陽光発電に凄い力を入れ始めているし国土の広さから多分世界一の太陽光発電 利用国になるね、これにアメリカも同様に負けてないからね」そこで上條は長い話しを終えた。
話しを聴いてきた本郷が言った。
「話しは理解出来たけど、それが上條さんのこれからのビジョンと、どう繋がるの」 上條が答えた 「僕は日本で太陽光発電を普及させたいんだ、まずはここからね、八ヶ岳山麓に寝ている土地、つまり農業用休耕地をソーラーパネルで埋めたいんだよ、ここで次世代の 再生可能エネルギーを作り、ここの新しい産業にしたいんだ。つまりこれは農政改革なんだよ、これには農水省も相当な圧力を掛けて来るだろうがね、そこが僕は面白いし、 血が騒ぐんだよ。 僕は原子力発電はパンドラの箱だと思う、其れを一度開けたら必ずいつか大変な不幸に見舞われるんだよ」上條は二人を見てはっきりと言った。 「今まで役人達のして来た特定利益誘導型の政策にくさびを撃つんだよ、僕は役人の息子だけれど親父動揺に権力への憤りを常に感じて来たし、これからもだね、全ての権力というものに抵抗したいんだ」
聴いていた本郷は今、上條と言う男の本質を見た。 夜のしじまがすっかり辺りを包んでいた。
ソフィアが立ち上がり、ピアノの横に置いてあるギターを抱いて籐椅子に座った。
「弾いてもいい」
「ああ、聞かせてよ」酔いからすっかり覚めた上條が言った。
ソフィアがギターを爪弾き始めた、美しい音色だった。 「カヴァティーナだね」上條がピアノの椅子に座り、ソフィアの後を伴奏し始めた。
二人が奏でるディアハンターのテーマが、窓を抜けて静まりかえる暗い森へと流れていく、山の端に満月が昇っていた。

辺り一面に朝霧が立ち込めている 上條は馬達を納屋から連れ出してそれぞれに鞍を乗せた。
「ソフィア、乗るかい」とソフィアに声をかけると「いやー私、無理」と言った。
「じゃぁ僕が」と本郷が馬に歩み寄った。
「本郷ちゃん、先ず最初は馬にこの人は安全だと思わせるんだ、首を撫ぜてね」と上條に言われた通り本郷は栗毛の首から立髪を撫ぜて鎧に足をかけた。子供の頃、馬方付きには乗った事があったが、鞍に座ると馬の背中から見るどっしりと地に足のついた安 定感は心地良く、下肢を引き締めると柔らかな馬の呼吸を感じた。 上條に言われるままに栗毛の胴を軽く蹴ると、馬はゆっくりと歩み出した。
黒毛に乗る上條、後に続く本郷、その後をママチャリでついてくるソフィア、三人は正面の乙女山へ向かって進んだ。 本郷が騎乗する栗毛はアングロアラブという種で気性が穏やかな馬だ。初心者の騎乗 を気遣う様に安定した並足で従順に上條の後ろを行く。やがて上條が右の手綱を引くと黒毛は道を外れて森の中へ入って行った。 「木の枝に気を付けてよ、馬は通れても騎乗者が引っ掛かるのはの良くある事だからね、馬はそこまで気は使ってくれないよ」と上條は笑って言った。 「私、先に戻ってるから」自転車では森に入れないソフィアが手を振って言った。 むせかえる様な針葉樹の匂いの中、この動物の体動に身を委ねる様に跨る上條は、 自分が森を行く中世の騎士の様な思いになった。 こんな心地よい揺らぎは生まれてこの方覚えが無かった。森を抜けて道に戻った上條が「ハッ」と馬の胴を蹴った。黒毛はそれを待っていたかの様に並足から速足に替えた。「あとは自分で戻ってこいよ」と軽やかな蹄の音を立てて 本郷は見事に黒毛を疾走させた。 小さくなっていく黒毛と上條が視界から消え、何とか栗毛を操り、ようやくの思いで本郷が山小屋に戻ると、鞍を外された黒毛にブラシを当てていたソフィアが言った。
「ねえ、ソウちゃん、普段誰も居ない時この子達は誰が面倒見てるの」 「近所に昔、馬方だった爺さんが居るんだ、その人に任せてるんだよ、その爺さん、この歳で馬の世話が出来るなんて幸せだよって言ってるよ」上條が答えると、
「ソウちゃんて本当、ピースメーカーだよね」と笑って言った。 「あはは、馬だけにコルトピースメーカーか、旨いっ」上條は嬉しそうに笑った。
同じコルトでもマグナムだな、と本郷は想った。

「さあ、日曜礼拝に行こうか」馬を納屋に繋ぎ、ひと仕事終えた二人に上條が言った。
「えっ、ソウちゃんはクリスチャンだったの」
「あー子供の頃からのね」と上條が言った 「お袋がクリスチャンでね、まぁ自然と僕もね」 と言う上條と祖父が右翼の組み合わせが、本郷にはどうしても結び付かない。 清里へ向かう両側に高い赤松が生えた道を抜けながらレンジローバーを運転するソフィアが訊いた。
「ソウちゃんのママはどんな方なの」ソフィアが聞いた。 「ああ、お袋は一年の半分くらいはケニアにいるよ」さらっと言った上條の顔をみてソフィアの顔が驚きの表情を見せた。「ケニア?アフリカの」 「そうだよ、ナイロビの奥地、お袋は4年前そこに孤児や肢体不自由児を収容する孤児院を建てたんだよ、僕も何度か行ったけどね」と普通に話した上條に、親父が遺した八ヶ岳山麓の山小屋、助けられた馬、太陽光発電、ケニアの孤児院。そこに結ばれる見えない糸を本郷は感じた。 車を停めて牧場を歩く先に、十字架の掲げられた瓦屋根と石とレンガ色の木材を使った建物があった。
白い木枠に清里聖アンデレ教会の文字が書かれている。
昭和23年、八ヶ岳山麓清里の標高1300mに、この地に入植したポールラッシュ博士らに依って建てられた教会だ。川俣渓谷から運ばれ積み上げられた石で組み上げられ、レンガ色の板壁作りの教会は、終戦後直ぐに八ヶ岳山麓の各地に入植し、岩だらけの冬は厳寒になるこの地を開拓した人々の労苦とそれを支えたイエスへの信仰を伝える証の様に、簡素だか優しく凛とした佇まいを見せていた。 上條はここの信徒だった。 上條の後に続き入った礼拝堂は、奥に石でドーム型に組まれた祭壇があり、蝋燭に照 らされた小さな十字架に召されたキリスト像が祭られた、畳桟敷の部屋だった。 「畳なのね」驚いて上條に小声で言ったソフィアに 「この教会の基は英国国教会でカソリックとプロテスタントの中道を行く教えを説くのだけど、それよりこの畳は、如何にその地に根を下ろすかを説いていると思うんだ、僕もこの地に根をはりたいんだよ」
顔見知りの数名の礼拝者に会釈した上條が言った。 礼拝の後、小さな食堂で奉仕された朝食のカレーライスには、高原で採れたジャガイモとブロッコリーが山の様に入っていた。その味はこの地を開拓してきた先人達の想いが染み込んでいる様だった。
東京まで送るからと言う上條の勧めを丁重に断り、本郷はひとり小海線清里駅のホームで小淵沢行きの電車を待っていた。観光の若い男女で混雑してはいたが、ホームを八ヶ岳からの心地よい風が渡っている。「ここの風は本当にいいな」 二輪編成の青い車両がホームを離れると窓の外には八ヶ岳山麓が裾野広げている。車窓を眺める上條は、この地を忘れる事は決して無いだろうと思った。又訪れたいと思った。

  第六章

「おはようございます」出社した上條はいつも通り社内の皆んなに朝の挨拶をして、自分の席に着いた。 「出来てますよ」と総務、経理担当の柴崎が机の上に新しい名刺を一箱置いた。
株式会社ライフデザイン 相談役 上條総一郎
17 年間必死の思いで会社をやってきて、その行く先を託す思いで本郷はその文字を見つめた。
午後一番で会社に現れた上條に 「上條さん、何卒宜しくお願いします、当面これで」と本郷は名刺と封筒を渡した。 「これは何」と封筒から覗いた額面百万円の小切手を見て上條に言った。
そして「そうか、じゃあ馬達の餌代にするわ」と笑って言った。
東京三星銀行渋谷支店と金文字の書かれた自動ドアーが開き、スーツ姿の本郷と、相変わらずのブレザーにネクタイを緩く締めた上條は店内に入った。 応対に近寄った男に「支店長にお会いしたいと」上條は名刺を差し出した。 商談室で待つ上條と本郷の前に融資課長と若い行員が入ってきた。 「今日はどの様な件で」と課長が言うと「支店長さんは」と上條が言った。 「生憎、只今会議中でして、私が承ります」 「会議中ね、まあ、こちらもアポ無しですからねやむを得ませんな、今日伺ったのは、
私が今後ライフデザイン社の相談役と言う事で、ご挨拶と御社への返済計画の見直しをお願いしたいと」上條は書類を課長の前に差し出して単刀直入に言った。 東京三星銀行殿のヘッドラインの下に社名入りで返済計画書と書かれた書類に、課長 と若い行員が見入った。 「これはなんの事でしょうか」と課長が驚いた顔で上條を見た。 「御覧の通り返済のリスケジュールですよ」 と二人の顔を見て上條は臆するも無く言った、そして相手の表情が変わるのを見逃さなかった。
「これによると、旭銀行さんへの元金返済がありませんが」と問う課長に 「はい、その通りです、元金返済はおたくだけです」と言い切った上條に、本郷は気がついた。それが決してお願い口調では無い事が。そして上條が相手の出方を見ているのが分かった。 あの学生選手権で上條が最初の組み合いに入る前に見せた低い姿勢から相手を伺う不死鳥と言われた目だった。
「これを、もう旭銀行さんへも出されたのですが」 と課長が言うと「旭さんにはこれから伺いますよ、ですから先程来、支店長にお会いしたいと言ったんですわ」上條は言った。 「これは無理でしょ、無理ですよ、上條さん」課長と書類を見ていた若い行員が横から言った。
その言葉に上條は言った。
「無理、君はデシジョンツリーを知ってるよな」
と言われた若い行員は 「学生時代のゼミで習った事があります、アメリカで生まれた意思決定の方法論だと」とまるで教授の前の生徒の様な口調になり言った。
「そう、我が社はそのツリーの枝を右へ進むんですよ」と言い放った。 融資課長と若い行員はお互いに顔を見合わせた。 「これを支店長に見せて下さいよ、回答はわざわざ出向が無くても、電話で良いですから」そう言い残すと、上條と本郷はそのまま部屋を出て、旭銀行渋谷支店へ向かった。
旭銀行用の三星銀行とは全く逆の返済計画表を持ってだ。
「これをまともにやるのですか、三星さんにはもうこれを」 返済計画書を見ていた支店長の竹中が言った。 「先程伺いお渡ししましたよ」と上條は伝えると、腕を組み黙って眼だけが竹中の表情 を伺っていた。 格闘技では先ずは相手の表情を良く観察してその力量を判断するんだよ、そしてこちらの戦法を組み立てるんだ、と以前上條が言った言葉を本郷は思い出した。
書類を暫く見ていた竹中は上條と本郷に言った 「一様精査はしますが、基本これお受けしましょう、一年据え置きに切り替えましょう」 精査というが,まさか東京三星銀行に聞く訳でもあるまいし、銀行間での客先情報交換は在りえない、これは上條の予想した通りだった。 扱い高、業績も遥かに勝る業界トップの東京三星銀行に対して その返済をせず自行にはすると言う誘いに、竹中は乗ったのだった。 財閥系で伝統的に組織堅固な三星グループの銀行に対して、地方銀行から都市銀行の地位を登ってきた旭銀行には野武士的な体質が有る事を上條は読んでいた。
「で、三星さんにはどう対応するんですか」と尋ねられた上條は 「それは三星さんの出方次第ですが、其れを支店長が聴きてどうされるんですか」と言った。それ以上竹中は何も言わずにいた。
それから暫く世間話しをした上條と本郷は、竹中が同年で彼等と同じ六大学の野球部出身で卒業後、実業団野球で活躍した選手だと言う事を知った。
「こんど会食しましょうよ、同じ大学体育会同士なんですから」と本郷が分かれ際に言うと
「あっ、いいですね、しかしお二人相手じや何されるかわかりませんがね」と竹中は笑って見送ってくれた。
それから 3 日後だつた。東京三星銀行からの回答は御社の計画には力を貸せない。 それどころか当座貸し越し分に対して 1 ヶ月以内の返済と本郷個人が加入する生保険証書を預からせてくれと言うものだった。これを伝えると上條は言った
「あいつら死人の金歯まで抜く気だな、よし」と言うと 「本郷ちゃん、三星からはもうびた一文も借りられないし、この際打って出よう」と上條に言った。「どうやらその通りですね」と本郷も腹を決めた。 その日の内に本郷は経理の柴崎に新規銀行口座を開設する様指示し、同時に今まで三星銀行に振り込まれていたディベロッパーからの売上入金全てを上條が言う新規のオリエンタルバンクオブチャイナへ変更する旨の連絡を各社にする様指示した。同 時に三星銀行の預金残を今日中に全額その東洋中華銀行へ移す様指示した。つまり 三星銀行の口座には法律上労働債権の社員の給与に充てる額と借り入れの利払い分だけを毎月残し、あとはゼロにする指示だった。 電話回線で三星銀行と繋がっている自動預金出入振り替え管理機が行員が退社する時間に合わせて忠実にそれを実行した。
そして、翌日の午後1時に東京三星銀行の融資課長と先日の若い行員の2人が青ざめた顔で本郷の会社に来た。 スタッフとフランスの老舗キッチン用品メーカーとの独占販売契約についてミーティン グをしていた本郷は二人に応対した。
「社長あれはなんの真似ですか」と融資課長が眉間に皺を寄せ息も顕にして言った。
「あーあれですか、あれは私共が御社へお出しした計画書に対して御社のからの回答を拝見してですが」そのあとは言わずの本郷は自分でも驚く程落ち着いた。 其れは昨日上條に会って、彼の言葉に自分も腹を決めたからだった。 同時に三星銀行渋谷支店の大手取引先に巨額の不良債権が表面化したのを本郷は信用情報で知っていた。
「これは債務不履行ですよ」と課長の上擦った声に 「そうお考えになるなら、こちらは痛み入るしかありませんし、もしこれで御社として弊社を不良債権先とお考えになるならやむを得ませんが」本郷は課長の目を見据えて言った。
「そういう事でしたら、その旨を支店長に伝えます」腹を決めた本郷の言葉に、他に言いようが無い表情で二人は席を立った。
翌日来社した上條にその始終を話すと頷いて 「柴崎さん、済まんけどね、銀行カード使って前のコンビニから三星の口座へ 1万円を振り込んでみくれる」と言った。 怪訝な顔の柴崎は小口用の金庫から一万円を出して外に出ていった。
暫くして戻った柴崎は「振り込みましたけど」と上條に伝えると 「そう、じゃあ社長と皆んなで三星の画面見てみましょうか」と言った 画面が開き入金確認ボタンを押した柴崎は声を上げた。
「あれ、一万円確かに入金されてるけど、残高に反映されてませんが。まてよ、誰かが同時に一万円引き出してる」と驚いた。
画面を見ていた本郷と柴崎に上條は言った
「奴らが食ったのさ、三千円でも良かったな、これが銀行の正体なんだよ」と。

          第七章

それから 3ヶ月が過ぎようとしていた。
夏の焼きつく日差しが衰え、秋の風が冷たく感じる季節になった。 世の中では東海村の原発関連工場で日本で初めての臨海による死亡事故が発生し、 金融界では大手銀行の統合が相次いだ。
本郷の会社に対して書面による何回かの元金返済要請はあったが、東京三星銀行からの具体的な動きは無かった。しかし金融界では更なる銀行統合の影が忍び寄っていた。 兎に角会社の運営を頑張ってくれと上條に言われた通り、新規出店は出来ないにしても、本郷は新しい商品の開発や、新規海外ブランドとの契約、OEM 生産の為の営業にスタッフと一緒に成って今迄以上に動いていた。
完全失業率が4%を超え世の中の景気は冷え込んでいたが、本郷の会社は各店舗の売上も何とか前年比を維持していた。 そんな最中だった。メインバンクとなった旭銀行の竹中から連絡が入った。
その内容は 大蔵省銀行局の監査が入るが、今回は今迄とは違う旭銀行と同列銀行の経営統合を視野に入れており、遺憾ながらお宅との取り決めを一旦白紙に戻させてくれというものだった。
これは一支店長の決裁権の領域を超えた旭銀行本社審査部からの指示だと言った。 上條は八ヶ岳通いが多くなり月に数回、本郷の顔を見に訪れるくらいになっていたが、 それを伝えると「分った少し時間を稼いでくれ」とだけ言った。

借りた金を返したら一巻の終わりだよ、と扶養銀行の時に上條が言った言葉が本郷に甦った。もし旭銀行からの借り入りを全額返済したら、年末の大きな手形決済は確実に出来ない、町金融が貸せる
金額では無い、仮にそれに手を出したら最期だ、もう限界だなと上條は思った。
ここまで上條の支えで凌いで来た事業継続への本郷の気力も萎えた。自分はさることながら、従業員やその家族、勿論妻や子供達の顔も浮かんだ、やがて三星銀行が欲しがっていた金庫にある保障総額
1億5千万の保険証券が黒いベールを被った死神の様に本郷に覆い被さり始めていた。
上條からの連絡も無く一週間が経った日、旭銀行の竹中から至急の呼び出しが入った。
街は季節を冬に変え始め、暗いニュースばかりの日々に、俯き加減の人々がただ忙しなくうごめいていた。 「よぉ、浮かない顔だな、そんな顔してたら竹中に悟られるぞ」旭銀行渋谷支店の前で待ち合わせた、相変わらずチノパンに皺だらけのシャツ姿の上條が本郷を見て言った。そして支店長室に入るなり上條は「竹中さん、今回はお手上げですよ、いや参った この通りだよ」と言っていきなり頭を下げた。
その言葉に竹中の思わぬ言葉が返った
「いや、そんなどうぞ頭を上げて下さい、上條さん」 「実は、先日の私からのお話は無かった事にしてください」その言葉に一番驚いたのは本郷だった。「支店長、返済据え置きを継続して頂けると言う事ですか」と尋ねた本郷に 「そうです、これは本店からの再指示なんですよ、ここだけの話し、実は私もこれには驚いているんです」と竹中支店長が言った。 どう言う風が吹いたのか本郷には見当も付かなかったが、上條は支店長の目をみて「支店長、ありがとうございます、誠に痛み入ります」とだけ言った。
上條は何も本郷には言わ無かった。
その夜、竹中の誘いで上條と本郷は新橋の料亭に招かれた。 数人の芸者が二人に付いてお酌を繰り返し、三味線を持って現れた女将に竹中は 「いや、学生時代からの仲間でさ」と言っていた。
宴が終わり、本郷が昔上條と行った並木通りのクラブへと、待せていた銀行手配のハイヤーに三人は乗り込んだ。クラブオーガストのママが上條をみて懐かしそうに 「あれま、上條さん最近山ばっかり行ってるそうじゃないの」と言うママに 「何で知ってるんだよ、ママ」と言うと
「風の噂よ、山の風の」と冗談めいて言った。
ホステス達に囲まれ、竹中も上條も本郷も運動部出身者だけが味わう学生時代の懐かしい話しに皆んな華やいだ。しまいには上條と竹中が勝敗をホステス達に賭けさせて 腕相撲までやり高級クラブに黄色い声が上がった。 ホステス達に囲まれ上機嫌でハイヤーに乗り込む竹中を見送り、久しぶりにかなり呑んだ本郷と上條は夜風に吹かれ並木通りを新橋に向かって肩を並べて歩いた。 こんな事は遥かなあの日以来だった。 ガード下の赤提灯が目に入り、「ビールで今日の〆とするか」 と縄暖簾を二人はくぐった。 ビールを上條のグラスに注ぎながら、昼間からつっかえている事を本郷は尋ねた。
「上條さん、今日の事は一体なんなのですか」
ビールを一口飲んだ上條が答えた
「世田谷の爺さんに頼んだんだよ」
「世田谷の爺さん、もしかしてあの人の事ですか」 本郷の頭に黒い名刺に刻まれた銀の四文字が浮かんだ。 「爺さんは旭銀行の大株主だったんだよ、奥様が教えてくれてね。」と上條は言った。
「それで僕が爺さんに直々に頼んだ、それだけだよ」と続けた。 今までと同じ様に上條は自分の手の内は最後まで明かさない、そういう男だった。 「じゃあ、今日のあの支店長の対応は、その人が」 「そう、でも竹中はそこまで知らない筈だよ、ただ旭銀行も大蔵省指導の他行との統合が迫っているし、その前の株主総会が大切なんだ、爺さんの言葉に旭の本店が動いたんだよ、竹中も所詮サラリーマンだしな、たとえ知ってても言わないよ」上條は続けた。 じゃあ、今夜の宴会はと、筋が読めた本郷は上條に言った 「本郷ちゃん、世田谷の爺さんの一声で、喉を鳴らした総会屋が何人集まると思う、 今夜は爺さんにくれぐれも宜しくお願しますという、旭銀行幹部からのサインさ」そう言う上條に、本郷は完全に一本獲られた事がわかった。
「世田谷の爺さんは、分かったと言って、だけどな、ぼんよ、これは一回限りだぞ、と僕に念を押したよ、本当に怖いよあの爺さんは」
「あーなんか今日はやけに喉が渇くな」そこまで言うと上條はビール瓶を持ち一気に喉 へ流し込んだ。

第八章

遂に21 世紀の到来になった、一千年のスパンが終わりを告げ、西暦 2000 年の到来というのに、世間では大手百貨店や大手老舗生命保険会社がバブル時代の過剰な 投資で相次いで倒産し、90 年代の精算がいまだに終わっていない事を如実に表していた。 金融界では東京三星銀行が更に合併を続けて国内最大のメガバンクになり、旭銀行 は旧財閥系銀行と合併したが所詮野武士は大名からは格下扱いをされ、世間では大 蔵省銀行局の汚職事件から新たに銀行の監督管理として生まれた金融省の指導に 依る吸収合併との揶揄は免れ無かった。
しかし両行とも債権を諦めた訳では決して無く、金歯を抜き、骨の瑞までという金貸しの性根は相変わらず中小企業を追い詰めていた。一方で国内外ではファンドと言う銀行の商売仇とも言える投資グループが台頭し始めていた。
彼等は技術や特異性はあるが銀行が手を引きそうに不良化した老舗企業などに資金と人材を投入して再建し、挙句に自分達の手中に納めると言う今迄金融界には無い手段で新たなファンドマネーと言う金融プラットフォームを構築しつつあった。
本郷の会社はそんな中、生き残りをかけて踠きながらも経営を続けていた。本人も早くも還暦を迎える歳になっていたが、しかし本郷自身はあの急場を救ってくれた上條の事がいつも肌身離れずにいた。
それが本郷を支えていた。上條も気持ちは一緒だった。生まれてこの方、持った事の無い上條への想いは兄弟のいない彼にとって其れに変わる程のものだった。 世紀の変わり目を、たゆたえども沈まずを求めて生きるふたりの男だった。
ひと時も休まる日々は無い本郷を訪れた上條は 「本郷ちゃん、俺、ちょっとアメリカへ行って来るは」と上條は言った。 「へー海外なんて久々じゃ無いですか テキサスで馬でも乗りに行くの」と本郷がふざけた。 「まさか、あんなど田舎まで行くかよ、 いや、でもアリゾナの砂漠だから大差ないな」と返した。 「あそこに在るアメリカ最大の太陽光発電基地へ視察にね、あとはロスで AOLのCEO と会うんだ」と言った 「彼とは僕が南カルフォルニア大学に留学時代、同じ寮生活をしたんでね、
当時レスリ ンググレコローマンの全米大学チャンピオンだったよ」と話した。 上條にはまだまだ知らない事が多いな、と思いながら「独りで行くの」と尋ねた。 「ソフィアを連れて行くよ、彼女二十歳以来の本国だし、話したら行きたがってね、
実は運転手とは知らずにね」と笑った。
「へーそりゃ面白そうな旅になるな」と言った本郷に、あの滑沢の無い明るさのソフィアの笑顔が浮かんだ。
ここ一年の間、銀行対策や資金繰り、新規商品の開発なので社内業務に追われる日々を過ごしてきた本郷は久しぶりに現場を見に出た。
小売が主体の企業は、なにを置いても現場在りきは、店頭販売のころから自分を戒めてきた言葉で、嫌と言う程に身に付いていた。本郷は郊外のショッピングモールの店を見終わり従業員駐車場に入れ た車に戻る為、建物の裏を歩いていた。
ゴミ集積場にいる若い女の子が目に入った。
その子はバラバラに散在して分別もされていないボリバケツの中から汚物袋を出し、中のプラを分けている。店舗のクリーンスタッフとは見えないその子は自分の店が出したのでは無いゴミの中身を額に汗を滲ませて分別していた。 思わず近寄り上條は声をかけた 「大変だね、自分のお店が出したゴミじゃ無いのに」と言うと 「いえ、このままではゴミ収集の人が大変ですから、せめて休憩時間にでもと」とえくぼに白い歯をみせて微笑んだ。
「貴方、何処のお店の人」と尋ねた上條に 「ライフデザインと言うお店のまだアルバイトなんです、私」と言って手を休めた。 勿論彼女は上條の顔は知らない。驚いた上條は「どんなお店なの」と尋ねてみた 「私もまだ把握出来て無いんですが、キッチン用品が主でお鍋なんか凄く可愛いんで すよ、ルクレーゼって知ってますか」と彼女が逆に上條に尋ねた。 ル・クルーゼは上條が最近販売契約をしたフランスの老舗のホーロー主体のキッチン商品を持つブランドだ。
「あー聞いた事あるよ」と言うと 「私、お母さんにあれをプレゼントするんです、お小遣い貯めて」と明るい顔を上げて言った。
「へー偉いな、高いんじゃないのそれ」と聞くと、「そう、とても高いけど、お母さんは何時も働いてくれているので、アパートのお台所は古くて汚れているから、ルククルーゼの赤いお鍋を置くと、きっと明るくなるし、お母さん喜ぶなと」と言った 「きっと喜ぶよ、間違い無く、じゃあ頑張って」と車へ向かう上條の胸に熱いものがこみ上げた。
「頑張らなきゃ行けないのは俺だよ」と本郷は自分に言った。
たが、事態は更に本郷に追い討ちをかけてきた。
東京三星銀行からの書簡で、それにはライフデザイン及び代表者が所有する不動産と動産についての差し押さえ予告通知だった。それを見た本郷は一瞬、事務所の照明が全て消えた。
ついにここまで来たか、と其れを見た本郷は来るのもが来たと言う気持ちと、これから起こる事態を思った。不動産と言うものなど自宅以外に無く、そんなものはたかが知れている。三星が目を見付けたのは店舗にある商品だ。これを差押えられたら、その先は考えるもがなだった。差し押さえを取り敢えず抑えるには解放金を裁判所に積まねばならず、それから裁判に持ち込んだとしても勝訴の見込みは無い。そしてもうその時間の猶予も無い。
本郷は決して東京三星銀行を甘く見ていた分けでは無いが、自分と会社とその社員達の18年が巨大なものに押し潰されていくのを全身で感じた。
全てが失われていくのが分かった。
今はまだ社の誰にもこの事は知らせたくは無かった。少しの間だけでも倒産、失業という現実から彼等を遠ざけてあげたかった。
そう思うと何も知らずミーティングや商品サンプルを真剣に見入る、スタッフを見てはいられなくなった。 本郷は神宮外苑の銀杏並木を歩いていた。
沢山の黄金色の銀杏の葉が陽の光りを受けてキラキラと揺れ動いている。 その場所は18年前に初めて自分の店を開いた場所だった。外苑バザールへのテントの出店に、なけなしのお金で集めた家庭雑貨を妻と並べて、小学生の子供達はビラ配りをしてくれた。ここが本郷の原点だった。 本郷は金色の銀杏の葉を踏みしめながら並木の上の空を見上げた。
あの時と何も変わらない空だった。
本郷の胸の携帯が鳴った。
画面には上條からの着信が出ている。本郷はボタンを押した。 「よーどうしてる、今ロスに着いたばかりでホテルだよ、ソフィアと交代しながら 800 キロ は走ったな」と元気な声で言った。その声に本郷は戸惑っていた。三星銀行からの書面を事を伝えるべきかどうかを、しかし、それを言うのは辞めた。 「アリゾナの太陽光発電基地は凄かったよ、砂漠一面がソーラーパネルの畑だった、 感動したね。そっちはどう、その後銀行の動きは」と言ったが、本郷は沈黙した。 「そーか、動き始めたんだな又、分かった、5日後に会おう八ヶ岳で」何が起こったかを察した上條は、後は何も言わず電話が切れた。

          最終章

もう、冬支度を始めた八ヶ岳の山々はうっすらとまだら雪をその頂に積もらせている。上條と本郷はそれを見上げる畑の畔道に立っていた。
目の前の休耕地には設置されたばかりの太陽光発電パネルが鉄のステイに乗せられて一面に広がって、陽の光りを受けいる。
「ここの面積は約2反、600坪、設置はまだその半分だけどね、全部敷くには1000枚のモジ ュールが必要なんだ、アリゾナの基地はこの80 倍はあったよ、でもまだそれは序の口でいずれ何十万坪のメガソーラ基地がアメリカには出来るのを確信したね」と 畑を見つめる上條の目が輝き始めている。
本郷はただ黙ってその休耕地に敷かれた黒く光るパネルを見ていた。 上條には夢が在る、そして僕はもうすぐ夢を追い続けた人生が終わる、夢から覚めた後、これからどう生きて行けば良いのか、今は全く分からない。そう本郷は思っていた。
「教会に寄るよ」と上條が言うのを聞いて本郷は助手席に座った。 もう本郷には山も森も流れる景色に何も感じられず、それはまるでモノクロの無声映画を見ている様だった。本郷は唯、フロントガラスの先の白い道だけを見つめていた。
変わる季節の中、清里聖アンデレ教会は何も変わらない佇まいを見せている。 平日の礼拝堂には人影は無い。
上條は後部座席に置いたいつものキャンバスの大きなバックを下げて礼拝堂に入って行った。本郷はその後に続いた。 蝋燭の明かりの中で十字架に召されたキリストだけが仄暗い部屋の中で浮き出ていた。
畳に座った上條は本郷を向き言った。
「本郷ちゃん、今もう俺が出来る事はこれだけだよ」と言ってキャンバスのバックを引き寄せ開いた。小さなジュラルミンのアタッシュケースを引き出し、礼拝者用の畳の上に置いた。 本郷は何の事だか、見当も付かずただそれを見つめていた。
ポケットからキーホルダーを取り出し、小さな鍵を差し込み暗誦ダイヤルを合わせた上條はそれを開けた。 覗き込む本郷がそこに見たものは青い紙の束だった。薄暗い明かりの中で本郷が見たのはバンクオブアメリカの小切手の束だった。
「これは」本郷はその後の声が出なかった
「全部で300 万ドル在る、昨日のレートで 3億8千万になる」と上條は言った。
「振り出し人はAOLだ、受け取り人は君だ」と言って上條は再び本郷を見た。 そして言った。
「実は俺はAOLの日本でのマーケティングを以前から頼まれているエージェントなんだよ、ミッションが終わるまでは依頼人を絶対に明かさないのか俺のビジネスの鉄則な事は分かってくれ、以前から本郷ちゃんの会社を調査していたよ。店舗の立地条件、市場でのブランドロイヤリティ、商品構成の特異性、オリジナル製品の価値、販売スタッフのレベルなどをだね、ソフィアは優秀な調査員だったよ。
今回、彼女のAOL幹部への調査報告とライフデザインの可能性を伝えたトークも素晴らしかったね。彼女が今回のピースメイカーだ、と言っても良いよ。本郷ちゃんには悪かったけど、俺には東京三星銀行が最後にどう出て来るかは最初から想定していたんだ。そして試合で言うカマシを入れた、そして今のライフデザインの財務状況をそのままAOLのCEOと幹部に今回伝えたんだ。
そしてAOLの最高経営機関はライフデザインに出資するのを決定したんだ。アメリカの先端ビジネスは日本とは違う、的確な状況把握とクイックなデシジョンと実行のスピードが一番重視されるんだ。このアタッシュケースの中身がその結果なんだ。
でもな、本郷ちゃん、良く考えてくれ、この出資はまだその一部だ。AOLグループはライフデザイン社のM&Aが最終目的だと彼ははっきり言ったよ。
AOLグループはベンチャーキャピタルも手掛けていて、その投資先に最近北米で店舗を拡大している家庭雑貨を中心にしたファン・プランという企業があり、彼らは日本での出店を視野に入れている。
AOLグループはこの金と代替えにライフデザインの株の30%の売り渡しを求めている、だがな本郷ちゃん、もう分かると思うけど、これを受け取る事は君自身が近い将来ライフデザインから離れる事を意味しているんだ」 上條はしっかりと真っ直ぐに本郷の目を見て言った。その目の奥に、あの不死鳥と言われた深く鈍く輝くものを本郷を見た。
「そーだったのか」本郷は思わず虚空を仰いだ。
その見上げた礼拝堂の板ばりの天井に
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と筆で描かれ文字が滲む本郷の目に焼き付いた
ひと気の無い清里の駅に独り佇む本郷はジュラルミンのアタッシュケースをホームに置くと
八ケ岳の方角に目を向けた。
山から降りて来る冷気を含んだ風が、立ちつくす本郷の顔を撫ぜると石造りのホームの上を渡っていった。
大きく裾野を広げた八ケ岳の稜線が沈みつつある夕日を受けて輝いていた。
それは翼を広げて、今にも飛び立とうとする巨大な鳥の姿の様だった。


                                 吉田愛一郎氏に捧げる

不死鳥

不死鳥

  • 小説
  • 短編
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-06-28

Copyrighted
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