睡蓮の池

 ポケットに右手を突っ込みながら、僕は『睡蓮』を眺めた。水面に浮かぶ睡蓮の葉は、はっきりした輪郭では描かれず、ぼんやりとしていて、触ると溶けそうだった。そのもろそうな葉たちは、池の表面で群れを成している。その群れた葉と葉の重なりが、くしゃっとしたタッチで描写され、どこからが葉で、どこからがもう一方の葉で、どこからが水面なのかはあまり区別できない。
 僕は、印象派の画家の作品が、あまり好きではなかった。そもそも、さしてアートに興味があるわけでもなかった。しかし、隣に立つ僕の彼女は、休日に美術館へ行くのが好きだった。
 展示室で、モネの絵に囲まれて、彼女のその涼しげな瞳はいつもより光を多く含んでいる気がした。僕はそれを見て、うつむいた。ちょっと汚れた僕のスニーカーがあった。
 隣の絵の前へと僕が移動しても、まだ彼女は『睡蓮』の前にいた。これは、彼女と僕の美術館デートではよくあることだった。僕はさらさらと展示物を見てしまうけれど、彼女はひとつひとつ、食い入るように見る。あんなに丁寧に見ていると、僕だったら、展示物に心を飲み込まれて、全部見終わるころには心身ぐったりしてしまうだろう。
 とりわけ今日は、僕の足は速かった。なんとなく、居心地が悪かった。モネの絵がとても嫌いというわけではない。ただ、彼女ともう、別れてしまうような気がした。
 そういう気分で、『睡蓮』の連作をぼうっと見ていると、睡蓮の池に映る木々の奥底に、池をじっと見つめる彼女の顔も映りこんでいるように思えた。すっとした鼻、冷えた瞳から成る彼女の端正な顔立ちが、ぼんやりと在る睡蓮と一緒に、ぼんやりと在る。
 はっきり言ってしまえば、僕は彼女の美しさが好きだった。でも、彼女は朝に会うと機嫌が悪くて、気を使わないとすぐ不貞腐れる。些細なことでも、意見を曲げたがらない。どんなことでもなんとかなるって、思ってる。彼女のそういうところが、付き合っていくうちに分かっていった。嫌になっていった。睡蓮の池に、くしゃくしゃと葉が寄っているように、僕たちの関係はだんだん、くしゃくしゃになっていった。きっとそうだ。彼女と僕は、合わなかったのだ。
 気づくと、僕はうつむいていた。隣に彼女が立っていた。じっと、なまめかしいものでも見るみたいに、睡蓮の池を見ている彼女が立っていた。僕は、汚れたスニーカーを履いた足を進めた。
 順路が終わるまで、あと四枚の絵。あと三枚の絵。あと二枚。一枚。道脇の簡素な水路のように、僕はモネの絵の一枚一枚を見終える。見終えるごとに、美術館を出たら彼女にさよならを言おう、と汚れたスニーカーで美術館の床を踏みしめた。
 最後の絵を見終わって、僕は、展示室の中央の丸椅子に腰かけた。周りを見渡すと、本当に、モネばかりだった。僕はまたうつむいて、その空気をなるたけ吸わないようにした。もう、吸うことはないかもしれないけど。
 しばらくそうしていると、座っている僕のもとへ彼女がやってきた。
「行こ」
 彼女は短くそう言った。立ったままの彼女を、僕は見上げた。端正な顔立ちと艶のあるロングヘアに、無地で飾り気のない、ブルーグレーのワンピースはよく映えた。
「うん」
 僕たちは展示室を出た。ミュージアムショップを軽く見た。彼女は、睡蓮の池のポストカードを買った。僕は何も買わなかった。
「それで、コレクションの何枚目なの」
「ちょうど、100枚目」
 そう言って、彼女は大事そうにショルダーバックにポストカードをしまった。
「行こ」
「うん」
 僕は答えた。うん、と言ったけれど、そういえば、どこに行くんだろう。ふとそう思った。美術館の灯りが、さびしく感じた。彼女ともう、ここに来ることはないんだろうか。いや、僕が別れを言うと決めたのだから、ここにふたりで来ることはもうないことなど、分かっている。分かっている、はずだ。
 ふたり並んで、美術館の外に行った。空はちょうど、彼女のワンピースのようなブルーグレーの雲で埋まっていた。雲のはじまりも終わりも見えなくて、空のどこからどこまでが雲に覆われているのか分からない。睡蓮の葉の曖昧な輪郭を思い出した。
 べったりとした、ぬるい六月の風が吹いた。睡蓮の池の水面の波を思った。睡蓮の池に映りこみそうなほどに絵を見つめる彼女の横顔のことも。ああ、お別れなんだ、と、思った。
「まことくん」不意に、彼女が薄い唇を開いた。「最初のデートも、ここの美術館だったでしょ」
 うん、という言葉が、喉にひっかかった。彼女は静かに喋り続ける。ロングヘアが、六月の風になびく。僕は思わずうつむく。
「そのとき、印象派はあんまり好きじゃないって言ってたけど、帰りに一緒にポストカード買ったよね」
 それ、大事にするね、と、彼女は言った。僕は、スニーカーから顔を上げた。みつきのひんやりとした瞳が、僕を見ていた。
「わたしたち、別れよ」
 うん、と、答えたかは覚えていない。気づくと僕は、ひとりで日比谷線に乗っていた。蛍光灯だけが窓を流れる。彼女の嫌だったところを、『睡蓮』の前で思い出したことを、思い出した。別れよう、と彼女に言わせてしまったことも、思い出した。僕は電車のシートに深く座って、胸がつまりそうなほどに息を吸い込んだ。
 汚れたスニーカーが、とっても窮屈だった。みつきも僕も、ひとりになった日だった。

睡蓮の池

2021年6月 作成

睡蓮の池

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-06-27

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