果てへの旅路『死の湖』
旅人とミラが世界の果てを目指す物語。
蹄が小枝を踏みしめる音が辺りに響く。霧に包まれた森の空気は刺すように冷たく、旅人は首元に巻き付けた布の奥で浅くゆっくりと呼吸を繰り返した。旅人の跨るそれは、鹿のような山羊のような、はたまたトナカイのような、そしてそのどれとも違う姿をしていた。大きく左右に広がる角には、様々な色をした幅の広い紐が絡みつき、彼が歩みを進めるたびにひらひらと揺れた。旅人の後ろに乗せられた荷物は、いくつかの布をまるめたものと、跨るように乗せられた左右一つずつの包みだけだ。その荷物の少なさから旅人が行商でないことがわかる。自分たちが歩む音以外はほとんど何も聴こえない世界。
だが、二人の耳には絶えず森の音が響いていた。表層の音の下に流れる森の音、空気の音、そして、命の音。少しずつ晴れてきた霧を通して、うっすらとした日の光が二人を照らした。もうすぐ森を抜ける。夏になればたわわに実るであろうベリーの茂みが遠くに見えた。その奥には村がある。旅人はほんの少し暖かくなった空気を深く吸って、ゆっくりと空を見上げた。
この物語は、旅人とミラが世界の果てへと旅をする記録である。
『死の湖』
寒い。旅人は首に巻いていた厚手の布を目元まで引き上げた。吹雪いているわけではない。天気はいい方で、空からは淡い日差しが注がれている。地面には雪も残っているが、そのほとんどは溶け、枯れ草の茶色い地面が広がっていた。それなのに体の奥が冷えていく。心臓から徐々に薄い氷が張るようにゆっくりと寒さに蝕まれていく。はぁ、と吐き出した己の息の冷たさに旅人は目を丸くした。まるで自分が氷の像になったかのような冷たさだった。旅人はミラの上に跨ったまま、その背中に懐くように体を丸めた。ミラは歩みを止めることなく進んでいく。
やがて二人は小さな村へとたどり着いた。
村人たちはミラの背で丸くなる旅人を見つけると、急いで家に招き入れた。暖炉の前に座らせ体を擦り、熱いお茶を飲ませた。ミラも家畜小屋ではなく、暖かな部屋の中に入れられた。村人たちは二人の体をなんとか温めようとした。そのお蔭で、旅人はお茶を飲み終わるころにはすっかり体が温まっていた。吐く息も温かく、体の芯がのびのびとしているのを感じた。ミラは部屋の隅に座り、村人たちにお礼を伝えている旅人を見つめていた。
「死の湖、ですか」
村長だと言う村人が口にしたのは、旅人が初めて聞く名前の湖だった。
「この村の近くにある湖でな、もうずっと凍てついたままなんだ。ずっと何世紀も、おれたちの先祖がこの地に住み着くずっと前から。ここに住む者たちはもう慣れてしまったが、あの湖からはとても濃い死の気配がする。大体の人は気味が悪い、空気が悪いというくらいで済むんだが、たまにあんたみたいに死の気配に飲まれやすい人がいる」
「死の気配」
「ああ、寒い、怖い、暗い、寂しい、そんな気持ちにさせる気配さ。あんたが感じた寒さはその気配のせいだ。この季節じゃ、凍えるような寒さなんてありえない」
死の気配。旅人は心臓に氷が張るような寒さを思い出した。
「しかし、あんたが乗っていた馬はよく無事だったな。ここらでは見ない種類だが、寒さに強いのか? だいたいの家畜は死の気配に弱くてな、みんな逃げ出したり足を止めちまうもんだから、湖の近くには連れていけねぇんだ」
旅人は部屋の隅に座っているミラに目を向けた。村人から掛けられた布で背中を覆っているミラはじっと暖炉の火を見つめている。
「どうでしょうか、こんなことは初めてだったので」
曖昧に笑った旅人に村人は怪訝そうな顔をしたが、やがて一つ頷くと懐から小さな包みを取り出した。
「帰りはこれを持っていけ」
「これは?」
手渡されたのは小さな布袋で、中には乾燥させた薬草らしきものが入っている。鼻に近づければ爽やかな芳香を感じた。
「古いまじないだ。それを持っていれば死の気配から逃れることができる」
旅人はもう一度まじまじと布袋を見つめてから懐へとしまった。
助けてくれたお礼にと、旅人は干し肉や瓶詰、銀の装飾品を彼の持っている布の中で一番上等なものに包んで渡した。命を助けてもらったのだから、到底釣り合うものではないが、旅人には持ち合わせがなかった。村人たちはそんなものは受け取らないと言っていたが、どうしてもとそれを差し出す旅人に半ば押しつけられるように渡され、渋々と言った様子で受け取った。
死の湖の近くに暮らす人々、きっと彼らはここを訪れた旅人や行商とこんなやり取りを何度も繰り返してきたのだと旅人は想像した。
旅人とミラは村で一晩を明かし、早朝に出発した。朝食にと持たせてもらったパンを齧りながら、湖へと向かっていく。
頭上では小鳥が軽やかに飛びながら、楽し気に囀っている。昨日感じた寒さが嘘のような過ごしやすい気温だった。村人が言っていた通り、あの異常な 寒さは死の湖の仕業なのだろう。旅人の手が懐にしまっていた布袋を取り出した。
「ミラ、村の人は古いまじないだと言っていたけど、どう思う?」
旅人の問いにミラは歩みを止めると、背に跨る旅人を振り返り、じっと目を合わせた。旅人は身動き一つせずにその眼を見つめ返す。しばらくして、近くの茂みからイタチが音を立てて飛び出した時、ミラはふいと前を向いてまた歩き始めた。
「そうだね、たしかに昨日、私は村の人たちに助けられた」
旅人は食べ残したパンを腰袋にしまうと、マントの合わせをしっかりと閉じた。
「この布袋自体に力があるんじゃない。これを渡してくれた人がいるから、自分の身を案じてくれた人がいるから、死の気配に飲まれずに進むことができる。昨日だって、寒さで凍え死んでしまいそうだったけど、きっと一人で体を温めても駄目だったんだ。家に招き入れて、暖炉を灯して、お茶を沸かしてくれたから、自分を誰かが心配してくれたから死の気配から逃れることができたんだね」
旅人の手がそっとミラの鬣を撫でた。途端、冷えた風が吹き抜けた。二人の前にはどこまでも続くような、凍てついた湖が広がっていた。
湖の近くまで来ると、旅人はミラから降りて、じっと湖面を見つめた。所々隆起している氷の表面は青緑色に輝き、藻や水草、小魚たちのあまたの命をその身に封じ込めて眠っていた。旅人はそっと氷に触れた。冷たい、硬い、痛い、寂しい。指の先から伝わった死がじわりと滲んだ。ミラは旅人の腕を鼻先で押し、氷から離した。決して溶けることのない、凍てついた湖。死の冷たさは深く、何物にも溶かすことはできないのだと、この湖はその姿をもって旅人に伝えていた。それと同時に、死の気配、死の恐怖からどうすれば逃れ、打ち勝つことができるのかも、懐の布袋と共に旅人に伝えた。
「ミラ、それでも私はまだ死が怖い」
旅人はミラの柔らかな毛を撫でた。体温の感じられない、柔らかで優しい毛。旅人の目を見つめて、ミラは旅人の頬に自分の頬を寄せた。ミラの睫毛が旅人の額をくすぐる。旅人は小さく笑って、ミラに跨った。
「午後には森に入ろう」
二人は凍り付いた湖の上を進んでいく。氷の下に眠る幾千幾万の命の上を、その下地層深く眠る太古の命の上を、二人は歩んでいく。
果てへの旅路『死の湖』