きかせてよ

 今日は十一月二十日、ピザの日です。日方先輩が、まじめくさった声で言う。おぼつかない、はつか、の発音が、頭の中をぐるぐる巡る。つ、の発音は舌を打つようで、日方先輩のそれは、はつかというよりはっかだった。
 今日の献立は、いわしの梅煮、ほうれん草のごま和え、豚汁、ごはん、牛乳です。ピザとはまるで関係のない献立を読み上げて、日方先輩は、放送のスイッチをオフにする。日方先輩は、放送席からぼくの向かい側の椅子に腰掛けて、牛乳にストローを刺した。どん、と紙を破る音がして、想像していたよりはるかに暴力的だった。
「さ、早く食べちゃお」
「すみません、ぼく、なにもしてない」
 ですよね、と日方先輩の顔を覗くと、彼女はちょっと笑って言った。「掃除、してくれたじゃん」だから全然いいよ、みたいなニュアンスは先輩の声からは感じ取れなくて、ぼくはただ黙るしかなかった。言わないけどわかる。あんたはどうせできないもんね、みたいな、侮りとか諦めとか、ようするに、日方先輩はぼくに全く期待をしていない。
 日方先輩がピンク色の箸で魚を崩していくのを窺いながら、ぼくも箸を動かす。先輩より早く食べ終わっても、遅く食べ終わってもいけない。ぴったりでも気持ち悪い。ピザの日です、と言う言葉が頭から抜けないから、魚に対して食欲はびっくりするほど湧かなかった。日方先輩が黙々と箸を進めるのに対して、ぼくは米粒みっつくらいしか飲み込めない。最後に食べたのがいつかもわからないピザの味が邪魔をする。先輩が食べ終えたのち、十五秒後くらいがベスト。わかりつつも、早く食べなきゃ、と思うほどに喉は詰まっていくようだった。苦し紛れに牛乳を飲む。
 思わず時計に視線を逃そうとして、日方先輩と目が合ってしまう。時間を把握することは叶わず、沈黙のなかに時計の音だけがちくちくと取り残される。豚汁のあぶらがまとわりついた唇で、日方先輩はにっと笑う。ぼくもかろうじて笑い返す。笑ってんじゃねえよ、と言われたらそれまでだと思った。
「十一月二十日って、なんの日だか、わかる」
 はっか、の響きがまた胸を打つ。日方先輩のはっか、は、二十日でも発火でもなく、ハッカにいちばんよく似ている。缶のドロップで、最後に大量に残るやつ。
「ぴ、ピザの日。ですよね」
「違うよ」
 違くはないですよね、と思いながら、黙る。ピザの日は日方先輩によって否定され、なんでもなくなった十一月二十日がぽつんと浮かぶ。魚への食欲はみるみるうちに蘇り、もしかしたらこれが目的だったのかも、と思う。箸が進まないぼくを見かねて、と、先輩の美化が進んでいく。日方先輩が鋭い音を立てて、牛乳を吸い込む。
「死んだ犬の誕生日」
「え」
「死んだ犬の、誕生日なの。今日は」
「あ。ですよね」
「ですよねって」
 日方先輩が笑って、魚の骨をつつく。「うちの庭に、犬の骨埋めたとこがあるんだけど。誕生日になると、手合わせるの。元気でやってる? みたいに」「それってちょっと、意味わかんなくない」「命日ならまだしも」「死んだ人の誕生日って、いや、うちの場合犬だけどさ、祝う意味がわかんないんだけど」「生きてたら、今頃、百何歳でしたね、みたいな。死んでんじゃん。実際。無意味じゃん。それって」「どう思う?」
「あ、いや」
「いや?」
「誕生日は、誕生日なので、死んでも、そうかなって。無意味って、ことは」
 ないです、とは言い切れずに、俯く。ふうん、と日方先輩が言って、そこからはまた沈黙だった。
 今度は犬が邪魔をしてきた。魚の身を削るたびに、あ、犬、と思う。口に運んでから、犬、と思う。咀嚼しながら、日方先輩の死んだ犬の、犬種の検討をする。トイプードルだと仮定すると、口の中はわさわさしたし、名前はわからないけど細い犬を思い浮かべると、その少ない身を啄んでいるみたいな気になった。
 ぼくはたまらず箸を置いて、しばらくぼうっとした。牛乳はとっくに飲み切っていた。それでも、日方先輩は、ぼくを自由にはしない。「きみってなんか、いつもそうだよね」
「いつも、ですか」
「いつも。部活のときとか、ずっとだんまりで、見たことないな。ちゃんと話してるとこ」
「そう、でもないと、思いますけど」
 また沈黙が下りる。あとはただ、給食の時間が終わるのを待つだけだった。日方先輩はすっかり給食を食べ終えていて、視線は放送機材のほうにあるのに、刺される寸前みたいな緊張感がずっとある。あと十分、あと九分三十秒、あと九分十五秒、あと九分十三秒、だんだんカウントダウンの頻度が多くなっていくなかで、どうだちゃんとやってるか、と先生が様子を見にくる妄想を何度もした。今すぐ放送室を飛び出したかった。でも掃除以外の仕事ができないぼくにとって、そこにいることは、とりあえずは責任を放棄しないという意思だった。
「あ。時間」
 日方先輩が立ち上がって、放送席に移動する。電源をオンにして、給食の時間終了のアナウンスをはじめる。日方先輩の猫背をなぞるように見つめる。ああやって、マイクを使って、言いたいことが言えたらどうだろう。たとえば、ぼくは給食が好きではないです。ぼくは死者の誕生日を祝うことを無意味だとは思いません。日方先輩の死んだ犬は、ミニチュア・ピンシャーだと思います。ぼくは、日方先輩が嫌いです、とか。
「嫌いです」
 言いたかったことはいろいろあったけれど、それだけがどうしようもなく本音で、だから思わず口に出したのも当然のことのように思えた。ぼくもやればできるんだな、と確かな満足感があった。嫌いです、と重ねて言う。
 日方先輩が振り返って、見たこともないゆがみきった表情をした。眉毛は下がって、黒目がちな瞳は潤んで、きつくむすんだ唇から、あたしのこと、とかろうじて言葉が漏れる。ぼくはなんだか、この世のすべてに勝利したような気持ちになる。こんなに嬉しいなら、日方先輩が死んだあと、日方先輩の誕生日を祝ってあげられる、と思った。死者の誕生日を祝うって、つまり、こういうことなんじゃないか。生きていて満たされているから、死者に茶々を入れたくなるんじゃないか。そっちはどう、生きてたら何歳だね、こっちはすごく楽しいよ。
「今日の担当は、影井はつかと」
 日方先輩に名前を呼んでもらいたいと思っていた時期もあったな、と思う。はっか、と舌足らずな発音に憧れたこともあった。数分前のことだけれど、今ではもうどうでもよかった。
「日方なつきでした」
 音声を切って、チャイムを流す。日方先輩はぼうっとしているから、ぼくがやった。なんだ、できるんだな、とまた満足に思う。

きかせてよ

きかせてよ

放送委員のひとたちの話です

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-06-25

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