麗奈(れな)のいる風景
いつの間にか雨になっていた。
小糠(こぬか)雨は結構濡れるから、自然に急ぎ足になった。
所沢の旧市街にある『飲ん所小路』は、小道を入った正面に祠がある。
その後ろは川で、茂った木々が街明かりをさえぎって、黒々した影がなんとなく立ちはだかるように見えた。
「ママ、雨だワ」
ドアを開けると、
「あらぁ、アキちゃぁん。おひさぁ。入って入って~ん」
という、ドスの利いた声とともにフェイスタオルが飛んできた。
「サンクス」
身体のあちこちをいい加減に拭きながら、隅のボックス席に隠れるように女が座っているのを目に止める。
肩までの髪がうつむいた顔を隠して、そうでなくとも薄暗いバーの片隅だけに、なんとなく背筋に迫るものがあった。
「じゃ、いつもの」
「OK。カミカゼ・オカマ・エキスぅ、一丁」
松子デラックスそっくりの腹を揺らして、彼、いや、彼女はウォッカとホワイトキュラソーをシェイクする。
「どぉぞぉ。カクテル言葉は『あなたを救う』だったわね」
そう。
アメリカ生まれのこの酒は、切れの鋭い飲み口のせいで、大東亜戦争時に大切な家族や恋人、国を守り救うために戦った神風特攻隊の名を
冠せられている。
そのせいでカクテル言葉にも、尊いその精神が込められているのだ。
考案者のアメリカ人は横須賀基地所属だったと言われているから、同じ軍人として大いに共感するところがあったのだろう。
それはそうと、なんとなく隅の女が気になる。
場所的に言って、入口を斜め左にした奥のおれの席から、ちょうど目の端にちらつく位置なのだ。
なんだが彼女に粘着しているなにかが、蜘蛛の足のように伸びてくる気がして落ち着かない。
「ママ、今夜はすいてるね」
どうでもいい話題を口にする。
「そ~なのよぉ。やっぱ、ギョーカイはコロナ不況よ。居酒屋さんはテイクアウトで売上あがってるって言うけど、うちがそれやってもね
ぇ。ま、通販で儲けてるトコもあるけど、あたしは面倒でイヤ」
彼女らしい答えが返ってきた。
チャームはぶつ切りにしたオイル・サーディンを乗っけた厚切りチーズに、プティ・トマトを4つ切りにして添えてある。
シナモンを振ったラスクが、カミカゼによく合う。
「うん、いいね」
褒めると、ママはうれしそうにくねくねと揺れた。
「ね、あたしのトコはオーセンティック・バー。カマ・バーじゃないのよ」
機嫌のいい時は自分からオカマとか言うくせにいい気なものだ。
ドアが開き、男が2人入ってくる。
「お、アキちゃん、いたのかぁ」
ちょっと年配の宮さんと、おれと同年輩のヨシちゃんだ。
ニコニコと覗きこんできた。
「う~ん、カミカゼか。シブイね。じゃ、おれたちはサムライと行こう」
日本酒ベースにライムを加えたさっぱり系の風味は、2人の好みだ。
「で、さぁ、あれからどうよ?」
席に着くが早いか、ヨシちゃんが声を潜めて聞いてくる。
「ん? だめだね。離婚に移行しかないよ」
「あっちゃ~」
「アキちゃん。お互いを許しあって添い遂げてこそ夫婦だよ。まだ30代だろ。離婚は結局、空しさが残るだけだ」
「ええ、まぁ……」
人生の先輩のアドバイスには心からうなづけるが、もう、ソコは通り越している気がする。
彼女の存在を意識するだけで困惑というか、不快とイライラが吐瀉物のようにこみ上げてくるのだ。
これを修復するのは面倒すぎて、神でも願い下げだろう。
* *
2杯ほどカクテルを堪能するとうっとおしい天気のせいだろうか、アルコールがかなり回った気がする。
これはおれだけの現象ではないらしく、あとから来た常連2人も、トロンとした酩酊状態で口数も少ない。
そろそろ引き上げよう。
「ママ、車呼んで」
財布を出しながら、何となく隅のボックス席に目が行く。
いない。
まぁ、手洗いに一番近い席だから、化粧直しにでも立ったのだろう。
暗くて薄気味悪い女なのになぜか見知った感があるのが不思議だが、気のせいなんかそんなものだ。
外に出ると雨は上がっていた。
「じゃ、新百合ヶ丘2丁目まで」
乗り込んで行く先を告げると、運転手が如才なく褒めてきた。
「あ~、いいとこですね。景観賞とった街ですよね。便利だし、駅にも近い。わたしも中古でもいいから買えたらなって」
「いや、運転手さんもフツーに買えますよ。土地だけなら30坪で3,000万台からありますもん」
「え? 土地だけで。う~ん、考えときます。いや、聞かなきゃよかった。はははは」
テレたように笑ってハンドルを切る。
しばらく走るともう、新百合ヶ丘の住宅街だ。
敷地の広い家々が緑濃い丘陵にエレガントに並んでいる。
正面右手の坂の上に、茂った里山を従えて睥睨する洋館が見えてきた。
「あ、そこなんで」
「ええっ、すごいですね。本格的西洋館。こりゃ女房に見せたら、この甲斐性なし、こんな家に住む人もいるのよって家庭争議ですワ」
「いや、相続ですから。おれの力じゃないです」
正直に言ってチップを握らせる。
「お世話様。おかげで道々、楽しかったです」
「あ、こりゃど~も。また、ご利用ください」
急いで飛び出してきてドアを捧げ持ってくれるサービスに、軽く頭を下げてエントランスに向かう。
センサーが作動して、灯りが煌々と点いた。
オートロックを解除し、玄関の自動ドアを抜けるとリビングで、右手に階段とエレベータ、奥にキッチンその他の水回り、正面に暖炉、
南に広々したガラス窓がある。
「あれ?」
リビングに入ったのに灯りが点かない。
「壊れたかなぁ」
独り言を言いながら、なんとなく暖炉前の応接セットが目に入る。
「おぁっ?」
裏返った声が出た。
差し込む庭園灯に半分だけ照らされて、誰かがいる。
瞬時にバーの女のイメージがよみがえった。
「ちょっと、変な声出さないで。怖いじゃない」
聞き慣れた声がおれを非難する。
「あ……。びっくりしたから」
「ふ」と少し笑って麗奈(れな)はおれに向き直った。
「遅かったのね。待ってたの。あたし、あなたとは別れないわ」
「え……」
一瞬、言葉に詰まった。
「今さら、なぜ? 同意したじゃないか。おれ、もう、きみとやり直す気はない。この家はやる。きみの気に入った家だもの。それに知っ
てるんだぜ。きみこそ浮気してるじゃないか。おれがきみを裏切ったのはたった1回。行きずりの女で、もう、切れてるのに、きみは今で
もお盛んだ。興信所に調べさせたよ」
彼女は髪を振り上げる。
「興信所? なにそれ?」
言葉も堰を切ったように激しくなった。
「寂しかったのよ。いえ、今でも震えるほど寂しい。あなたは結婚だけしてわたしを振りむかない。この家に人形のようにポツンと置き去
られているだけ。この間もそう。わたしたち、結婚した当初は階段の上の室内バルコニーから、よく吹き抜けのリビングを見下ろしながら
お酒を飲んだわ。『いい家だ。いつまでもここでいっしょに暮らして行こう』って。わたし、それを思い出して誘ったのに、あなたはひと
言『忙しい』」
「実際に忙しかったからだよ。きみは男の立場を理解していない。相続税や不動産取得税、都市計画税は1度きりだけど、固定資産税は毎
年かかる。坪あたりの管理費を始め維持費だって半端ない。それを保ち続けるには働くしかない。きみはまるで子供だ。浮気は続けてるわ
、離婚には同意しないわで、自分に都合のいいことばかりだ。それでこの関係が続くと思う?」
麗奈(れな)は背筋を伸ばしてきっぱりとおれを見た。
「興信所の報告は間違ってるわ。浮気なんかしていない」
「じゃあ、なんで夜に男の家に行く? 浮気と思われても仕方ない。仲良く向かい合ってお茶でもしてんのか? まったく」
「そうよ。あなたがいつもいつも遅いから夜は特に1人ボッチを感じるの。だれか、あなたに似た人にそばにいて欲しい。でも、ここに他
人を連れ込むのはイヤ。あなたと私の家だもの。だから出かけるの。今は形だけの恋人を演じるビジネスがあるから。あなたの想像してる
ようなことは追加料金対象だわ」
おれは頭を振った。
一旦は離婚に応じた口の下から、今度は嫌だと言う女心に振り回されるのはたくさんだ。
「もう、いいよ。おれは1人になりたい。いくら話しても同じだよ。おれの忙しさは変わらないし、きみを1人にするのも同じだ。幸い子
供はいないし、早い段階で決着をつけるべきだ。もう、寝るワ」
うっとおしくなって、早々に切り上げる。
無駄な会話は時間の浪費だ。
「いつもそう。いつも取り合ってくれない。それがつらいのに」
彼女はちょっとあとを追って来て訴えたが、相手にする気にはなれなかった。
「センサー切れてるから暗いだろ。きみもこんなとこにいないで早く寝ろ」
イラついた気分でそれだけ言って、2階に向かう。
いかにも洋館らしい大理石張りの広い階段は、途中から振り分けになっていて、右は麗奈(れな)の部屋、左はおれの書斎に通じている。
振り分けの手前にある踊り場の真上は、優雅に張り出した室内バルコニーで、ロミオとジュリエットの逢瀬を想わせた。
好きあって結婚したつもりが、今はもうこのありさまだ。
2人とも自室に入ったが最後、お互いに行き来はない。
日本だけでなく世界的にも『寝室を別にするのは不仲の始まり』というが、確かに一理あるのかもしれなかった。
* *
週末は佐島のマリーナにいた。
艇庫に預けっぱなしのクルーザーを少し動かさないといけない。
そう言えば結婚を決意したころに、麗奈(れな)を喜ばせるために船舶免許を取り、葉山マリーナに約艇したのだ。
その後、すいている横須賀の佐島に移した。
全長8メートル未満、7人乗りの小さな新艇だったが、当初はそれで充分だった。
彼女を乗せて静かに凪いだ黄昏の海を、思い切り飛ばしたこともある。
やがて親父から受け継いだ仕事が軌道に乗るにつれ、乗船の顔触れは事業主仲間が多くなり、お互いの艇を乗り替えたりして交友メンバー
は増えて行った。
彼女は男好きのする人目を引くタイプだったけれど、家で手芸をしていることがほとんどになった。
「人付き合いより、家で好きなことをしていたい」
けっこう幸せそうにそう言っていたから、別に気にしないでそのままにしていたのだが……。
彼女は拾われた仔猫ちゃんのように、おれだけを見ていたかったのだろうか?
午後の沖はスコーンと明るい。
文字通り、水平線を二分するでかい海と空。
海上独特のちょっと重たい潮風と海の香り、まともに照らしつけてくる太陽。
土曜にしては船影の少ない海原を自由自在に操船すると、心がのびやかに解放されるのがわかる。
♪海はステキだぜ~♪
マリーナのレストランで何回か聞いた曲が、自然に口をついて出た。
結局、おれは日暮れまであてもなく、ディーゼルを切ったりつないだりして艇を彷徨わせながら海の上にいた。
船舶用の軽油は免税になるけれど、海上ではうねりや潮流、風や海水の抵抗でリッター数百メートルと、意外に不経済なのだ。
そろそろ帰らないといけない。
小型艇の航続距離は案外短いから、うっかりタンクを空にでもしようものなら、操船不能のまま漂流しなくてはならない。
海面は常に上下しているので、小さなクルーザーなどはGPSがあっても発見されにくいのだ。
安易に海上保安庁などの手を煩わせれば、仲間うちの笑い者になるのも困る。
西には残照が残っているものの、群青の空に一番星が鮮やかだ。
離婚問題でグズついた心を洗われた気がして、伸びをする。
そう言えば、彼女と何回かここのホテルに泊まったことがある。
当時はルームサービスのビーフ・バーガーが美味かったが、今はどうなのだろう?
あのころの2人は間違いなく同じ方向を見ていた。
そう、お互いがお互いを。
「アキちゃん。添い遂げてこそ夫婦だよ」
不意に宮さんの声がよみがえった。
(わかっちゃいるんだけどね)
心が返事をする。
そうだ、今日は車だからレストランで軽く腹ごしらえし、酒はカマ・バーのママの店にして、あとは代行だ。
艇庫を後にし、近道するためにバーベキュー・コーナーを抜ける。
コロナで近接禁止のせいだろう、2、3組しかいない淋しい空間だった。
「えっ?」
目のはじになにか感じる。
ゾワッとした感覚に一瞬硬直してからそっと振りかえる。
いた、あの女だ。
あたりを見渡すフリで、横目で観察する。
夕闇迫る海と空をバックにグレーに見えている。
手前の観葉植物でちょっと見えづらいけど、うつむいたテーブルにはソフト・ドリンクか何かが置いてある気がする。
と、いうことは連れが後から来るのだろうか?
リゾートには似つかわしくない雰囲気で、全く見知らぬ女のはずなのに、どこかで接点があった気がするのが気味悪い。
おれは足を引き抜くように、その場を後にした。
* *
「ねぇ、ママ、火曜日のこと覚えてる? ほら、小雨が降ってた日」
「え? ああ~、うん。多分……」
「おれがここに座ってて、手洗いの前にも女性客がいたよね。どこの人?常連じゃないよね」
「え~? あの日は10人くらいしか来なくて、女性客もたしかにいたわねぇ」
考え込んで額にしわを寄せる。
「う~ん、トイレの前にだれかいた? 覚えてないなぁ。あたし、あの日しょっぱなから飲んじゃってさ、記憶にあるのはお会計のお札だ
け。なによ、アキちゃん。見染めたのぉ?」
「まさか。なんとなく、どっかで会ったような人なんだ。いや、そんな感じがするってこと」
「ふ~ん? 他人の空似じゃなぁい? 世の中には7人似たのがいるって言うから……あっ、いらしゃぁ~い」
ママには心当たりがないらしかった。
常々、「お客はみんなお札に見えるのよぅ。1人2人じゃなくて1枚2枚ね」と、公言しているヒトだから、聞くだけヤボだったのだろう
。
閉店まで粘ってみたが、宮さんもヨシちゃんも今夜は来ない。
ふと、麗奈(れな)をヨシちゃんに紹介した時のことが浮かぶ。
彼は少し顔を上気させて、少年のようにはにかんだのだ。
「いい人嫁にもらったなぁ。クソッ、このやり手オヤジ」
あとで手を振りまわして羨ましがっていたっけ。
なんだか、ずいぶん昔の気がする。
ママに代行を頼んでもらい、酔い覚ましにパーキングで待つことにした。
三浦半島西側、佐島までの往復に少し疲れたけど、海の上にいたせいでなんとなくリフレッシュした気分だ。
深夜の街は目の前の表通りを時折、車が走り抜けるだけで静かだった。
ふと道路向こうの歩道を歩いている人影に気づく。
なんとなく目で追ってしまう。
ザワザワとした感覚。
新車のディーラーの前を、女が歩いて行くのだ。
全面ガラス張りの店舗からもれる明かりで黒々としたシルエットは、全身なだけに今までより見知った感を突き付ける。
でも、変だ、おかしい。
街灯の明かりも差しているのに、なぜあんなに黒々しているのだろう?
怪しい現象に思わず車道に踏み出そうをしたとき、
「お待たせしましたぁ」
代行が到着して我に返った。
「ね、ね、ほら、あそこ」
気の急くままに代行の運転手に指差す。
こういう場合は一刻も早く他人に確認してもらいたい。
「人がいるよね?」
「え?」
「はぁ?」
2人とも不思議そうに眼を凝らすが、反応は鈍い。
「う~ん、人ぉ?」
「光線の加減じゃないっすかね。」
見えていないのだ。
なにか夢にうなされた気がするが、思い出せない。
時計を見るともう、昼過ぎで、寝すぎたせいか少し頭痛がする。
空気の入れ替えのために窓を開け、南側の屋外バルコニーに出ると、麗奈(れな)が庭木の手入れをしているのが見下ろせた。
この家を手に入れたころ、よく2人でガーデニングに励んだのを思い出す。
藤棚にキウイ棚、バラのアーチもお手製だった。
芝を刈り、花壇を整え、ミニトマトやハーブを収穫した。
彼女は楽しそうによく笑い、凝った料理を教えるので有名な先生に師事しておれの口を楽しませてくれたのだ。
それから7年がたつ今、おれはすでに彼女を疎ましく思うようになっている。
いや、だからと言ってことさら嫌ったり、憎んだりしているわけでは決してない。
ただ、事業家仲間の付き合いが新たな仕事を生むこともあって、家庭よりも経営者クラブやサークル、大人の遊びに身を置きたい。
家は麗奈(れな)が守ればいい。
本来、男と女はそういうものではないのか?
家を支えているのはおれであり、おれとともに暮らして行きたければ、おれの家風になじんでもらうしかないのだ。
犬畜生のように、やれ散歩だ、餌だ、手入れだ、遊びだ、かまってくれとせっつかれても、おれにはその気はない。
そんな犬畜生は捨てるしかない。
今日は半年ぶりに予定がなにもない。
時間的に昼間の遊びには間に合わないから、夜になったら事業主仲間の大御所、大和田さんに高級クラブにでも連れて行ってもらおうか。
思いついて連絡を取ると、意外な返事が返ってきた。
「秋葉くん、ごめん。明日、検査入院なんだ。家内がうるさいんで医者に行ったら変な不整脈があるらしい。持つべきは女房だよ。奥さん
によろしくな」
声にもなんとなく覇気がない。
おれとしてはいつまでも元気でいて欲しいけど、大和田さんはいい年だから体調不良も当然あるだろう。
奥さんを頼りにする気持ちも自然なことだ。
それでもちょっと肩透かしを食らった感じで、部屋の片隅のミニキッチンに行く。
今日は久しぶりにひとり飲みになりそうだ。
麗奈(れな)が造り酒屋の一人娘のせいで、冷蔵庫には品評会に出すような特別酒が豊富にある。
それだけは本当に感謝だ。
そういえば結婚当初、友達の飲兵衛どもが色めき立って、彼女に姉や妹がいないかを聞いてきた。
よくある笑い話だが、その連中も今やそれぞれに妻子持ちだ。
備蓄してあるオイル・キャビアや生ハム、カラスミなどのパックを引っ張り出し、昼間っからチビチビ飲(や)る。
不意にスマホが鳴動した。
「ちょっと出かけてきます」
麗奈(れな)の声がする。
家がでかいのでスマホや置き電話で連絡を取った方が早いのだ。
「うん、気をつけて」
事務的に返事をした。
* *
彼女はその夜帰らなかったのだ。
おれは偶然、朝、そっと帰ってくる姿を目撃した。
事業上のあるアイディアを思いつき、早朝なのにいてもたってもいられなくなって車庫から車を出している最中だった。
胸がバクンと鳴ったけどおれは素知らぬフリをした。
彼女の様子がいつもの朝帰りとは違っていたのだ。
寂しげで悲しげで、そして儚(はかな)かった。
気にならなかったと言えばウソになる。
それでもおれは仕事を優先し、そのまま会社の企画室に泊まり込み、3日目に帰ってみると、なんだか家が荒れている。
リビング・テーブルには酒瓶の類が置きっぱなしで、ここで着替えたのだろうか、外出着やバッグがソファに放り出してある。
なぜかヒールがバラバラに投げてあって、あちこちに置いてある調度品も位置がずれていたりして、空き巣? と一瞬疑ったくらいだ。
彼女との結婚以来、こんなことは初めてで、さすがのおれも気になった。
1階を探し回り、2階の彼女の部屋のドアを叩く。
昼なのにナイトガウン姿の彼女が、額に手をやりながら出てきた。
寝乱れた感があり、顔も腫れぼったい。
かなり憔悴した様子で、完全にいつもの精神状態ではない。
「どうした、具合が悪いの? 医者呼ぼうか」
「いいの……大丈夫」
散らかった自室を見られるのが嫌なのだろう、彼女はおれを押し出し、2人はリビングを見下ろす室内バルコニーに移動した。
真ん中のデーブルには麗奈(れな)の造ったアート・フラワーが、楕円の大きな花瓶に見事に咲き乱れている。
「冷たいものでも飲む?」
おれの言葉にうっとおしそうに首を振る。
「いい。かまわないで」
「そう……?」
所在なく彼女を見やると、麗奈(れな)はうつむいてテーブルに目を落とした。
肩までの髪が半ば顔を覆い、真上からのライトで陰る。
ゾワッとした感覚。
思わず尋ねていた。
「きみ……おれを付けたりしていないよね?」
彼女は不審そうに首をかしげる。
「え?」
「この間から、黒い女の人が目の端にちらつくんだ。なんかゾッとしちゃってさ。ガン見するとなんとなくきみっぽいなって」
「知らないわ。あなたはわたしにいつも行き先も告げないし。頭の中にあるのは仕事と友達づきあいと遊びだけ。付ける必要なんかないも
の」
「うん……ま、そうだけど」
彼女の言うとおりだった。
「わたしは寝たのよ。あなた以外の人と初めて。どう? 驚いた?」
重くて少し長い沈黙の後の、自暴自棄の言葉だった。
「やっぱりね……おれ、あの朝、きみを見たんだ。会社に行くために車を出した時だった。ドキッとしたよ。きみの様子が尋常じゃなかっ
たから」
「それでも会社を優先したのね」
「ああ。ごめん。いい企画が浮かんだものだから……それに夢中だった。事業家なんてそんなものだよ」
「あなたはいつもそう。わたしが他の男と寝ても怒りもしない。いいわ、別れてあげる。これで満足?」
探るような声色だった。
彼女の口ぶりや態度からすると浮気はおれへの当てつけだ。
通常の彼女なら、いや、正常な彼女なら、到底考えられない行動だった。
そこまで追い詰めたのがおれなら、麗奈(れな)はおれから離れるべきなのだ。
それがお互いにとって最良の結論であり、方法だろう。
「うん。もう、お互いにこうなってしまったのだから、一緒にいる意味はないだろ」
「……」
彼女は黙っておれを見つめたが、みるみる涙があふれてきた。
「言うことはそれだけ? 7年も一緒にいた夫婦なのよ」
「あ……ごめん。うん、楽しかったよ」
麗奈(れな)はため息をついた。
そして気持ちを引き立てるようにテーブルの上のアート・フラワーに目をやった。
「覚えてる? この花器。本来は花瓶ではないかもだけど、新婚旅行でヨーロッパを巡った時、一緒に買ったアンティーク。ムラノ・グラ
スに青銅の凝った足が付いてるのよね」
「うん。覚えてる。重さが6キロもあるんだ。でも、もう思い出話はよそう。弁護士を間に入れて、きみの取り分を明らかにしなけりゃね
。おれはなにもいらないよ。財産なんかおれ自身の手で、これからいくらでも作れるし。……そうだ、電話してみるワ」
「待って」
彼女が止める。
「あまりにも急じゃない?」
「いや、早い方がいいよ」
取り合わないで階段を下り、階下に向かう。
グズグズしていて結論がまた変わっても面倒だ。
「ね、お願いっ、待ってっ」
泣き叫ぶ声。
思わず踊り場に立ち止まる。
「ね、もういちど修復できない? わたしたち、もとにもどれるんじゃ?」
結論を急いだのはおれなりの彼女への愛情だった。
今、新規の事業を立ち上げようとしている最中だ。
これ以上、1人ボッチにさせて傷つけないために、彼女を一刻も早く開放したかったのだ。
だが、麗奈(れな)はそれを理解しなかった。
それどころか全身全霊を賭けて執着しようとしている。
男と女の愛し方の違い。
「きみはおれから離れないとダメになる。浮気だってそうだ。心にもない行動できみは自分を傷つけてる。修復は出来ない。お互いに悪い
結果を招くだけだ」
たとえば、まつわり粘りつくような、あの陰鬱な女の影。
あれは生霊でも心霊でもない。
おれの心の奥底にある彼女への愛情が構成し幻出させた彼女の心象であり、おれ自身の良心の咎めだった。
だからカマ・バーのママや代行はもちろん、他人はだれも見ていないのだ。
おれ自身、すでに彼女への冷淡非情さを自覚している。
だが、それが何になるのだろう?
おれはもはや、自分の人生のすべてになった仕事を交友を遊びを捨て去れない。
麗奈(れな)に求めるものはもう、なにもないのだ。
おれは彼女に背を向けた。
声も言葉も重いものになった。
「結論を言おう。結婚はすべきではなかった」
すべての音が消え去ったかのような一瞬の沈黙。
「勝手すぎるっ、ひどいっ」
という混乱してヒステリックになった、引き裂くような声が聞こえた。
同時に頭上に何かを感じる。
ドグワッシャーッ。
地響きとともにムラノ・グラスが飛び散り、踊り場の大理石の一部が砕けて跳ね上がる。
頭をかばう暇もなかった。
おれは今、メビウスの輪のように輪廻する螺旋のただなかにいる。
未来はもうなく、ひたすら過去のみが支配する時の狭間に、うごめくだけの自縛した魂。
もし、神がいるなら実に効果的で陰湿な罰を与え、仏が存在するなら実に幽遠な自省の機宜をもたらしたことになる。
彼女は永久(とわ)におれの頭上に花器を投げ続け、おれはその破局を自ら招き続けるのだ。
自殺者が永遠に自殺を繰り返すように、おれは未来永劫、まるで見果てぬ夢のように麗奈(れな)のいる風景を見続けるのだろう。
麗奈(れな)のいる風景