名前も知らない【15-16】

古瀬

名前も知らない【15-16】
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15-1

15-1

 正午に近づくにつれて混雑してきた北関東自動車道を降りる。嶋岡は迷いなく国道一二二号に向かって車を走らせていた。
「実家ってことは――」
「ないと思うんだよなあ」
 スマートフォンを取り出して、僕は櫂谷とのトーク画面を再び見直す。昨夜から送り続けているメッセージは、まだ既読になっていなかった。
「でもとりあえず、家の前は通ってみるか」
 カーナビを操作する嶋岡に頷いた。櫂谷は今は車には乗っていないから、実家に来ていたとしても外からそれを判断することは難しそうだけれど。
 土曜十時の街は、普段よりも車の量が多かった。外出する家族連れや、買い出しらしき荷物を積んだ自家用車が目に入る。
 平和だな、と頭の片隅で思う。あかるくて、のどかで、ゆるやかな活気が街中を流れている。姿を消してしまったかもしれない友人を探して県境を超えて来たのが嘘のように思えるくらい、何でもない週末の午前の景色だ。

 櫂谷の家は、川沿いの雑木林を切り拓いた場所にある。通りから入ったら通り抜けの出来ない、幾つもの畑の行き止まりだ。ひっそりとした佇まいだが、櫂谷正臣のアトリエがある場所として有名でもある。ファンが観光ついでに立ち寄ったりもするから、門の前に顔も知らない人間が立っていることも珍しくなかったといつか櫂谷が言っていた。
 錆びた鉄の門は以前の家主が設えたものらしい。腰くらいの高さで、ひどく簡素だった。名の知れた人物の住まう家にしては、みすぼらしさすら感じさせた。人目につかないよう、あえてそのままにしていたのかもしれないけれど。
 嶋岡は器用に細道に車を入れ、櫂谷の家までまっすぐに繋がる道路まで入っていった。
 畦道を舗装したような、車二台がようやくすれ違うことができるくらいの私道だ。

「――何か、変化見える?」
 彼の家の直前で車を停めて、嶋岡が訊いた。
 いや、としか返答できなかった。午前の日差しに照らされた彼の家の光景に、櫂谷が滞在しているような何かは見当たらなかった。
 嶋岡はダッシュボードからサングラスを取り出してすばやくかけ――櫂谷の母親に僕達がわからないわけがないけれど――音を立てないように車外へと出た。角度をずらすように数歩横に反れ、眉を寄せたまま戻ってきた。
「洗濯も、あいつのは出てないっぽい」
「思い切って聞いてみる?」
「おばさんがいればいいけど。親父さん出たら厄介だしなあ」
 顎のあたりを撫でながら嶋岡は唸っている。
 櫂谷正臣は、いわゆる気難しい人物ではない。どちらかと言えばのんびりとしていて、ひょうきんなところも目立つ人だ。ひどく気まぐれな自由人だということも知られていて、息子とはあまり共通点がないように見える。
 櫂谷が鋭敏さを持て余す子供だったことに比べて、彼の父親はその手の感性にそう鋭い人ではないようだった。あいつは何でもない顔して嫌なことからあっさり逃げる、俺の言うことなんて暖簾に腕押しだ、といつかの櫂谷が言っていた。

 ふたり車内で思い悩んでいると、斜め後ろに建っている平屋の扉が大きくひらいた。
 サンダル履きの老婦人がこちらに向かって出てくるのが見える。
 訝しげな表情で女性が近づいて来るのに気づいて、嶋岡は慌ててサングラスを外した。
「見覚えある?」
「いや」
 彼女が出てきた平屋は、僕達がこの町を出てから建ったはずだ。面識のある相手ではないだろう。

 女性は不信感を隠さない表情で運転席の横に立ち、皺だらけの手で強く窓を二回叩いた。
「あんた達――」
 何の用だという意味の言葉に、嶋岡はああ、という表情を浮かばせた。丁度良かったとでも言いたげな、愛嬌のある感じの良い微笑みだ。
 窓を下ろして、嶋岡は女性に対して小さく頭を下げた。すみません。
「ここって、画家の櫂谷正臣さんの家で合ってます?」
 しらを切ることにしたらしい。窓の外に立つ女性はまたか、という顔をして、そうだと頷いた。
「何、観光?」
「いえ、実は僕ら学生時代ここの息子さんと同級生で。今日は偶然近くまで来たんで、もしかしたら家にいるかなと――」
 女性に目線を合わせたような、やわらかな仕草で彼は告げた。
 上手い男だな、と助手席で思いながら僕も頷く。言ったことは間違いではなかったけれど、高校時代の同級生で実は同郷の人間だというようにはとても思えないような響きだ。

 嶋岡の作り話が通じないこともなかったらしい。女性が若干表情を緩めたように見えた。
「櫂谷さんのところ、今はご夫婦ふたり暮らしだよ。息子さんがいるっていうのは聞いてるけど、姿は見たことないね」
「え、そうなんですか?」
「うちはここに越してきて六年だけど、顔なんて一度も見たことない」
 ややあきれたような口調だ。指を折りながら、年末年始も、盆も、彼岸も、と続けている。
 嶋岡がそうですか、と繰り返した。おおいに共感している、という顔をしている。
「卒業したら、一度地元戻るって言ってたような気がしたんだけどな――」
 ひとり言みたいに呟いた。
 もちろん、櫂谷がそんなことを言っていた記憶は一度だってない。

 話が通じたところで、老婦人は再び僕達のほうをじっと見た。
「同級生?」
「はい」
「千葉から?」
 車のナンバープレートも確認していたらしい。嶋岡は苦笑しながら頷いた。
「仕事の都合でちょっと寄ったんです」
「連絡でもしてから来れば良かったのに」
 女性は言った。ぶっきらぼうな物言いだったが、初めて同情的なニュアンスを感じた。
 嶋岡が、そうですねえとのんびり答える。僕のほうを見て、行ってみるか、と続けた。
 彼に合わせて僕が頷くのを確認してから嶋岡は女性に礼を告げ、彼女が車から離れるのを待った。
 
「昔から、この手のことは一流だよな」
 国道に戻る細い坂道まで戻ってから、僕から口をひらいた。
「信頼と実績」
「俺もけっこう真似してきたけど、やっぱ本家にはなれないわ」
「あくまで方便だよ。奥の手」
 こんなことばっかりしてたら雰囲気にだって出るでしょ、と嶋岡は笑った。積み重ねあってこそと言いたいらしい。
「とは言え――」
 額を右手で拭いながら、坂道を上がった先で左右どちらの道に出るか迷っている。

 どうする、という目に、ふと昔のことを思い出していた。
「博物館の上の、公園とかは?」
 何日も同じ場所に滞在しているとは考えにくかったけれど、他にぴんとくるところは思いつかなかった。
 嶋岡は頷いた。


 櫂谷が描くことから手を引いたと教えられた時のことは、よく覚えている。
 高校二年の冬休みだっただろうか。待ち合わせ場所にやってきた櫂谷を見て、変だな、と思ったのだ。
 何かが昨日までの彼と違っていた。雰囲気がひと回り小さくなったような、纏っていた何かを剥がしてしまったような気配があった。そのくせ、本人はどこか清々としたような表情をしている。
 ――何か、あった?
 ほとんど黒に近いネイビーのピーコートを羽織った櫂谷は、白い息を吐き出しながら僕のほうを見た。いつもより目を大きくして驚いている。
 ――別に、何も。
 僕のした質問に動じていないとでも言うように、彼はゆっくりと答えた。
 進路に関する面談を終えたばかりで、進路選択の資料になるものでも探しに行くかと僕達は書店を目指して歩いていた。

 数日前に出た終業式の最後で彼は表彰されたばかりだった。夏に行われた、中高生を対象にした絵画コンクールで入選を果たしたからだ。
 校長によって壇上に呼び出された櫂谷は、無表情で生徒達の列を抜けていった。いつものけだるいような態度こそ封印していたけれど、本心としてはそうしたかっただろう。気心知れた相手にだけわかる、さっさと終わらせて欲しいという気持ちを絶妙な具合に隠して彼は校長の前で深く頭を下げた。
 その場に起こった拍手は、すでにある種の慣習としてされたことだった。あまり感情の入ったもののようには思えなかったはずだ。珍しいことじゃない、いつもの入選の知らせ。二年の櫂谷はあの画家の一人息子で、本人もその道を選びつつある、自分達とは違う世界を持った人間。
 そんな認識が、校内にはすでに広がっていた。肯定的な感情を持った者も、冷めたような気持ちで彼を見ている者も同じだけいただろう。櫂谷自身もそれを一種の慣例であると認めていて、一分足らずのその時間をとにかくやりすごしてしまおうと思っていたはずだ。
 受け取った賞状の端を重ねて左手に持ち、櫂谷は来た時と同じ調子で階段を下りた。場を繋ぐように司会をしていた教諭が一言コメントを残したけれど、暖房器具の吐き出す熱では温度の上がらない体育館から早く教室に引き上げたい生徒達の耳には入っていなかっただろう。
 自分の場所に戻った櫂谷の周囲が、彼に賞賛の言葉を投げかけた。
 彼はあまり表情を変えないまま、短い礼を何度か繰り返しているようだった。

 当時の櫂谷と駅のほうまで出る時に頻繁に立ち寄る店のひとつに、画材屋があった。
 雑居ビルの中に入っている、個人の経営する小さな店だ。古くて少し暗いけれど品数は豊富らしく、櫂谷に付き合って僕もよく店内にまで入った。
 美術の授業は常に可もなく不可もなくだった僕にとって、そこにある全ての道具は珍しいものに見えた。絵の具だけでも目がまわった。絵筆や下地、爪やすりのようなパレットナイフに定着材のスプレー、何に使うのかもわからない瓶詰の液体が並ぶ中を櫂谷はいつも慣れた顔で歩いていた。

 書店を出たところで、僕は彼に向かって尋ねた。今日はあの店に用事ないの。
 それまでぽつぽつと進路について話していた彼は、再び黙って僕のほうを見た。そして複雑そうな表情を顔に浮かべながら、ない、と言った。
 ない。
 珍しいことだと思うよりも先に、気のせいじゃない、何かあった、と思った。彼の話がまるで通じないという親父さんに余計なことでも言われたか、美術教師に的外れのアドバイスでもされたのだろうか。いずれ何らかの結果を残しそうな若者であった櫂谷を自分が育てた相手にしたくて、無理に関わりを持とうとするような大人もいないわけではなかったから。
 櫂谷はそれ以上のことを口にしないまま、無言で書店から離れて行った。出入りする客は多くなかったけれど、暖房や店内を煌々と照らす蛍光灯の灯りからそこに長居するのは憚られたのだろう。
 彼は気まずそうに頬を掻いていた。僕の先を歩こうとする姿から『ちょっと着いてきて』という雰囲気が漂っていた。
 次に櫂谷が口をひらいたのは、大通りから一本入った先、人も車も通らない細い道に辿り着いてからだった。

 ――辞めたんだ。もう描かない。

15-2

 私物をすべて片づけた櫂谷が姿を消したのは、数年前の初冬だ。
 その日の関東は薄曇りで、彼の母親から嶋岡へ、そして僕へと情報が流れてきた。当時のアパートの管理人が退去届も出さずに大量の家財を処分した彼の動きを不審に思い、実家に連絡したのが幸運だった。
 何度も繰り返し電話をかけたけれど、簡単には彼に繋がらなかった。僕は祈るような気持ちでコールを続けた。長く携帯電話の電源を切っていた彼がそれを再び起動しようとした理由は、おそらくあかるいほうの意味ではなかっただろう。
 櫂谷のいる青森まで車を走らせる途中、原も僕もほとんど話らしい話をしなかった。片方が出せる限りのスピードで運転を続け、助手席のひとりは友人達からの情報を携帯電話を手に待ち続けた。
 当時の櫂谷がもう全部がどうでもいいと繰り返していたことにも、自分自身に対して匙を投げようとしていたことにも、僕達は何もできなかった。彼自身の中で吹き荒れていた嵐の外側で、彼の時に過剰になる言動を宥められる言葉を何とか頭の中から探し出すしかなかった。無責任にしか響かないような励ましには何の意味もなくて、彼に与えられる希望なんてものも、当然持っていなかった。
 大きな陰りを抱える彼と向かい合う力を、僕達の誰もが持っていなかった。

 共に重ねた日々や理解できるような気がしたそれぞれの境遇や、通じ合える何かがあんなにあっても、僕達は別の人間だった。踏み込めない、自分で引き受けるしかない領域がそれぞれにあった。
 あいつに、生きろと言い続けることすら時には横暴な行為に思えた。そこで苦しみ続けろ、と言っているような気すらした。
 自らの心の果てに立っていたあいつを迎えに行けるわけでもないのに、ひとりで行かないでくれと言い続けるのは、本当は酷なことなんじゃないか。
 そんなことが頭を掠めることもあったけれど、結局は願うしか僕達にすべはなかった。

 行くなよ、櫂谷。そこを越えたら、本当におしまいなんだ。
 こっち側に今のおまえを救えるものなんて何もないとしか思えなくても、自分を取り上げないでくれ。頼むから。


 降り始めた雪で白くなった道路の先に彼らしき姿を見つけた時、アクセルを踏む足に自然と力が入った。原が驚いたような声を上げたけれど、構わなかった。
 湿った雪の降る、陸奥湾沿いの小さな町だった。
 他の車はほとんど停まっていない契約駐車場に突っ込むように入って、車を停めた。もどかしいような気持ちでロックとシートベルトを外した。強張った手が震えて、噛み合った金具が外れるまで何度かそれを繰り返す必要があった。
 何とかして車外に出た僕の身体は、勝手に櫂谷に向かって歩き出していた。

 視界が熱く歪んで、鼻の奥がつんと痛かった。
 知らず知らずにあふれていた涙は、外気に触れた瞬間に冷たくなった。雪国の気温に上着を合わせる暇もなく飛んできたせいで、ジャケットの隙間からひどく冷たい風が入って来る。
 すぐ目の前にいるのに、駆け寄ろうとする足がもつれた。時間の流れがゆっくりになったようで、すべてがもどかしかった。
 たった十メートル足らずの距離が、あまりに遠かった。

 暗い目で僕を捉えた彼に手を伸ばして、やっとの思いで手首を掴んだ。櫂谷の手首は芯のほうまで冷たくなっていたけれど、奥でわずかに震えていた。
 震えてる、と頭の中で声がした。震えている。少なくともこいつの身体は死のうとなんてしていない、と。
 僕はそのわずかな振動にすがりつくような気持ちで、彼の胴に腕を廻していた。
 青白い頬、動かない瞳孔。一致しない心と身体だ。でも生きている。
 彼が彼自身の生から零れ落ちてしまうかもしれない、その淵で何とか手が届いた日。


 嶋岡と並んで公園内を歩きながら、あの日とは違う、と心の中で繰り返していた。
 制服姿ではしゃいでいたあの頃と変わらない、故郷の公園だ。あの日みたいな、凍り付くような寒さじゃない。ところどころで子供が楽しげな声をあげる、何でもない休日の正午。もうすぐここにだって春が来る。
 
 彼はそこで、蒸留酒の小さなボトルを手に俯いていた。
 いつか僕達が猛暑の夏の中で並んで腰を下ろした、階段のすぐ脇にあるベンチだった。公園のすみのほうにあって、地元の人間以外はほとんど近寄らない。
 姿が目に入った瞬間に、いた、という声が小さくこぼれた。
 胃のあたりの力が抜けた気がした。ごく小さな安堵。

 先にそこに足を踏み出したのは嶋岡だった。

「恭一」

 あの頃よりも、ずっと落ち着いた声だ。
 深く穏やかな、それでいてどこか厳しいような、彼にしか出せない声だった。

 名前を呼ばれた櫂谷は、そこでゆっくりと顔をあげた。眩しそうに顔をしかめている。
 次の瞬間、僕達ふたりの姿に気が付いた彼は鈍い瞬きを一度した。眉を寄せて、信じがたいというような顔をしている。
 少し離れたところからもわかる、伸びてうねった髪、無精ひげ。
 目が落ちくぼんで、わずかに黒ずんでいる。いつからここで飲んでいたのだろう。

「恭一。帰るよ」

 櫂谷の手からゆっくりと酒瓶を取り上げ、嶋岡は静かな声で彼に言った。
 父親みたいな言い方だ、と思った。自分の子供を公園に迎えに来たみたいな、静かで迷いのない声だった。

 ベンチに座った櫂谷は、黙ったまま、ひとつ小さな溜息を吐いた。
 そしてひどく面倒くさそうに、そこから腰を上げた。
  

15-3

「だからさ――」
 三十分後、櫂谷はファミレスのボックス席で居心地悪そうに僕達と向かい合っていた。

 寝不足の状態で朝から飲酒に耽っていたらしい彼を無事捕獲――嶋岡の言ったことだ――したところで、どっと身体から力が抜けた。
 嶋岡も同じだったらしい。自身の車の後部座席に設置していたチャイルドシートを手早く外しながら、彼は櫂谷にどこに滞在しているのかを尋ねた。数日間同じビジネスホテルに泊まっていて、今日地元を離れるつもりでいたと返ってきた。荷物は駅のコインロッカーに預けている、とも。
 荷物は後で回収することにして、とりあえず飯を食おうという話になった。
 櫂谷が酒臭いからと、嶋岡は走り出してすぐに後部座席の窓を半分ほど開けた。実際はそこまで強く匂うわけではなかったから、一連の行動を咎める意味でもあったはずだ。僕はまだ開封していなかった天然水のボトルを後ろできまり悪そうに黙っている櫂谷に手渡した。
 適当なファミレスに移動しているあいだに、僕は助手席で小幡にメッセージを送った。
 無事見つけた、心配ない。他のやつらにもそう回して、と。


「おまえ達見てたら、なんか今の俺ってひでえなって思ったんだよ」
 食欲があまりないのかもしれない。櫂谷は手にしたフォークをゆらゆらとさせている。
 そんな櫂谷とは逆に、嶋岡は黙々と食事をしている。ランチメニューの中で最もボリュームのある、ミックスフライ&グリルを注文していた。ライスは大盛りだ。怒ると疲れるのだと、こういうことの後は昔から妙に大食いになる。
「見てたって、俺恭一にちゃんと会うの二年ぶりくらいなんだけど」
 タルタルソースをエビフライにたっぷり絡めながら嶋岡が問う。櫂谷はまた気まずそうな顔をした。
「スマホでは話してただろ」
「グループでね。まともな会話なんてほとんどしてなかった」
 淡々と答え、彼はエビフライにかぶりついた。良い食べっぷりだと言えなくもないけれど、所作がいちいち気迫に満ちているようで気を遣う。
 櫂谷が、ちらと僕のほうを見た。怒ってるよな、と目で訊かれた気がして、浅く何度か頷く。友人思いの嶋岡は、櫂谷が自分から地元の友人達と距離を置いていることに少なからず腹を立てていたらしい。

「そりゃおまえ、結婚して子供も生まれて――順風満帆のやつに気安く声なんてかけられるか」
「へえ、俺達ってそんなに軽い仲だったんだ」
 嶋岡はすかさず言い返す。友人同士の会話のはずなのに、どこかで痴話喧嘩を聞かされているような気がするのはなぜだ、と頭の片隅で思う。
「俺みたいなのと関わったら、その、邪魔になるし」
「それは俺が決めることでしょ。何か急によそよそしくなるし」
 嶋岡はペースを落とすことなく目の前のフライを平らげていく。
 僕が呆気にとられているのに気づいたらしい。堀井、手がお留守だよ、と小さく諭されてしまった。パパ調なのやめてよ、と言いながらもどこかで叱られた子供のような気分になって、慌ててハンバーグにナイフを入れる。

「で、続き」
 嶋岡に促されて、櫂谷は若干唇を尖らせながら口をひらいた。

「この前、亮太と会った時に彼女さんが迎えに来ただろ」
 また、意外なタイミングで千紘が話題に出てきてしまった。
 櫂谷は嶋岡のほうを向いて、
「まともそうな人だったんだ。すごく」
「ああ、そんな感じあったね」
 表情を変えずに、嶋岡が頷いた。おまえも会ったの、と訊かれ、偶然、と答えている。まだ付き合ってない時だと思うけど。
「亮太のこと、しっかり見てる感じで。きちんとしてて、初対面の俺にも――親切で」
 櫂谷はそう言った。
 たった数分のことだったのによく覚えているな、と思った。

「帰り道で、蓉子がどうだったのか思い出したんだよ。亮太と会うのに付いてきた日、あいつ挨拶もろくにしなかっただろ」
 そう言われて、彼女と初めて会った日のことを思い出した。
 宮津さんは櫂谷の腕に絡みつくように彼に張り付いていて、警戒心たっぷりの目で僕を見上げた。小声でこんばんは、と言われたのは覚えているけれど、その表情はひどく硬く張りつめていた。
「ちょっと幼いところはあったんだけど、あいつだって元々はもっとまともだったんだ」
 櫂谷は言った。ぽつぽつと、難しいような表情で。
「やっぱ、俺のせいだよなって思って。おまえ達がちゃんと生きてるのに、俺だけ何やってんだって。一回気づいたら、もう嫌になっちまって」
 フォークをカットトマトに突き刺しながら、櫂谷は俯いた。
 嶋岡は変わらずに若干の不機嫌さを表に出しながら食事を続けている。

「別れ話、何度もしてたんでしょ」
「してたよ。本当に終わらせるつもりで」
 そう言ってから櫂谷は僕のほうを見て、あいつに会った? と尋ねた。昨夜そっちの部屋で、と付け加えると、まだいるのか、と彼は頭を抱えた。
「でも全然聞き入れねえから、もう話もしてなかったんだよ。でもあいつ、帰る気もないしこれからもここにいるからって言って――」
 そんなことをしているあいだに年の瀬を迎え、一月が過ぎ、二月を迎えていたらしい。
「それで、うち五月が更新だからさ。いっそひとりで引っ越すかと思ってたら、あいつ勝手に更新書類出そうとしてて」
 それは聞いてないぞ、と思った。都合の悪いことに対しては口を閉ざす人なのかもしれない。
 櫂谷はひとつため息をついたあとに、最後のつもりで別れ話を切り出したと述べた。
 もうどう頑張っても宮津さんとの未来はないこと、これ以上一緒にいても時間を無駄にするだけだ、とも。

「それでも通じなかった?」
 嶋岡の相槌に、櫂谷は少し驚いたような顔をした。
 そして窓のほうに顔を背けて、そう、と頷いた。
「じっと黙ってたよ、いつも通り。でももう本当に無理だって、悪いけどこのままここに居ても何もないからって頭下げたんだ」
 櫂谷が自分から付き合っていた女性に頭を下げたということが、正直に言えば意外だった。今までなあなあにしていたことを、本気で終わらせようと思ったらしい。
「話し終わってからしばらく部屋の隅っこで泣いてたから、さすがに通じたかって思って休んだわけ。したら明け方に――」
 そこまで言って、櫂谷は表情を強張らせた。
 なに、と尋ねた僕に苦そうな顔をしてわずかに首を傾げ、周囲をちらちらと伺う。そして、嶋岡と僕のほうに頭を寄せながら声を小さくして続けた。
「乗ってたんだよ、あいつが。その、ぺらぺらしたえぐい恰好して」

 僕達の座っているシートだけ、しん、と不自然に空気が静まり返った。櫂谷がだから飯時には嫌だったんだと呟く。
「それ――」
「子供作ろうと思ったんだろ。さすがにどうかしてるって突き飛ばして――少し頭冷やしたかっただけ」
 ふう、とひとつ息をついた。
 賑やかな店内で、ここだけ時間が気まずく止まったみたいだった。
「でも、心配かけた。以前のこと忘れてた。ごめん」
 櫂谷はフォークを下ろすと、両手を膝の上においてそこで頭を下げた。

 先に動き出したのは、やはり嶋岡のほうだった。
 テーブルの端にあるペーパーナプキンを一枚引っ張り出して、彼は口元を丁寧に拭いた。ソースや揚げ物の油をゆっくりと拭いながら、小さく笑いだしている。ふふふ、と、くくく、の混ざったような笑い声だ。腹もくちくなったし、というような、妙に上機嫌な雰囲気。
 櫂谷はなんだよ、というような顔で嶋岡のほうを見ている。 

「ばかだねえ」

 嶋岡はペーパーナプキンをくしゃ、とまとめながら、おかしそうにそう言った。
 まるで落語家が噺の中で言うような、妙に人情味のある一言だった。

 櫂谷が、な、という声を出したような気がした。
「おまえ、俺が――」
 言い返す声すら聞いていないというような顔で、嶋岡は笑っている。
 思わず、僕もつられたように噴きだしてしまっていた。 

 櫂谷が長年の恋人と別れられなかったことも、家出という強硬手段に出たことも。
 それをいつかの彼の失踪と重ね合わせて、内心ひやひやしながら故郷まで戻ってきた僕達も。
 それらすべてが、ばかげたことになった瞬間だった。

 何てことはなかった。
 その結論が、僕達を安堵とともにばかで早計な若者に戻した。
 あの日とは違う僕達がそこにいた。あれから時間は進んでいて、あの日の危うさとは違う場所に僕達はそれぞれ立っていた。櫂谷は一人旅として懐かしい場所に立ち寄っていただけで、宮津さんと別れて何かをやり直すつもりでいた。彼が向かっていたのは、終わりのための終わりではなかった。
 茶番だった、というより、茶番にできる、という感じだろうか。
 あの日みたいな心配をする必要はなかった。やっと、心からそう思えた。

「やっぱり、俺がいないとだめだね。堀井は優しいからおまえのことちゃんと叱ってくれないだろ」
 嶋岡がにやりと笑って櫂谷を見た。ちょっとからかうような目だ。
 櫂谷は少しげんなりしたような目で嶋岡を見た。内にどっかりとしたものを持ち合わせた嶋岡は、櫂谷を妙に子供っぽくさせる。
「何か、おまえ生き生きしてるな」
「いや、俺、必要とされるっていいことだなって思ってるから」
「俺そんなこと言ってないぞ」
「言ったようなもんだって」
 嶋岡はからからと笑っている。俺パフェでも食おうかな、とテーブルの脇のメニューに手を伸ばしている。
 子供連れてると、こういうところ来ても飯の味なんてわかんないようなもんなんだよ。とにかくこぼすし、騒ぐし、落ち着かなくて。天使だけど、と。

「昔から言ってただろ。俺も入れろって」
 メニューをひらきながら、嶋岡は楽しそうに言った。
 そうだった。先に櫂谷と僕が打ち解け、何となく似た者同士の二人組みたいな雰囲気が出来た頃に、嶋岡が入ってきた。俺も入れて、と、ひどく正直に、単純に。
「おまえ達ふたりだけだと、繊細なお坊ちゃん過ぎるんだよ」
 昔から何度か言われたことがある表現だった。おまえ達は自覚がないけど、やっぱりちょっといいところの雰囲気が出ているぞ、と。

 櫂谷と僕が揃って苦い顔をするのを見て、嶋岡はおかしそうに笑っていた。
 そしてデザートを選びながら、宮津さんと会って話してみると僕達に告げた。

16-1

16-1

 嶋岡にとっては、ひどく忙しい週末になったはずだ。
 食事を終えた僕たちは、駅に預けていた物を回収して再び櫂谷の住む街まで戻った。
 僕達が櫂谷の自宅に到着すると同時に、宮津さんが血相を変えて駐車場まで降りてきた。帰路で僕が彼女に連絡をしてからずっと待っていたらしい。
 後部座席の櫂谷がげんなりしたような表情で彼女から顔をそむけたと同時に、嶋岡が宮津さんに話しかけた。自分が地元の友人のひとりであることを説明し、お話できませんかと続ける。
 彼女はしばらく渋っていたけれど、最終的には渋々承諾した。四人で部屋に入り、小さなテーブルの前で腰を下ろした。
 嶋岡の説得によって宮津さんが最低限の荷物を手に櫂谷の部屋を出て行った時、時計はもう十六時をまわっていた。嶋岡は娘との夕食までには帰宅したいからと、短い挨拶を口にして船橋へと帰って行った。
 去り際に、嶋岡は櫂谷の背中を励ますようにとんと叩いた。

 再び確認したスマートフォンに、何人かの友人から返信が届いていた。櫂谷が無事に見つかって良かったということと、労いの言葉がほとんどだった。いつかの彼を連れ戻しに東北まで行った日のことをそれぞれが思い出したのかもしれない。
 数日の一人旅でよく眠れていなかったらしい櫂谷を再び部屋に押し込んで、僕も帰宅することにした。

 とりあえず今日は帰るわ、と部屋を出て行こうとした僕に、部屋の中央に立った櫂谷は言った。
 おまえがあんな思いをするようなことはもうないよ、と。
 おまえ達を置いて行きたいところだって、俺にはもうない。
 思わず振り向いた僕を、彼はまっすぐに見ていた。

 ――俺達は寿命で死ぬんだ。爺さんになって、昔話もし尽くしてから。

 素面では言いづらいような、どこか気恥ずかしい言葉を彼は真顔で言った。彼特有の鋭さやきつさを抑えた、聞いているほうが切実な気持ちになるような声だった。
 
 ――だからおまえは、もう俺が自分からいなくなるかもしれないなんて思わなくていい。

 櫂谷はそう続けた。
 元々彼の言葉には相手に反論をためらわせるような強い何かがあったけれど、その一言にもその力は充分すぎるほどに宿っていた。ほんのわずかな嘘すらなかった。あの冬の日から今に繋がっていた鎖を断ち切るような、櫂谷のその一言が僕の心をひとつの暗がりから引っ張り上げていた。
 自分の振る舞いひとつで、今度は本当に喪うかもしれない。だから細心の注意を払って、そうならないよう目を凝らしていなくては。
 彼を連れ帰ったあの日からずっとそう思っていたことに、いまさらのように気が付いた。

 櫂谷は何も言い返せずに立っていた僕に歩み寄り、僕の肩に向かって腕を伸ばした。信じられなかった。櫂谷は自分から誰かを抱きしめるような人物ではなかったから。
 どこかぎこちない、短くも力強い抱擁があった。

 ――長いあいだ、心配かけてごめん。おまえはもう、俺のことまで背負わないでいい。

 背負ってなんてない、と言う前に、腹のあたりからある感情が沸き上がった。

 紙一重の何かによって奇跡がもたらされるなら、あるいは取返しのつかない喪失を味わうことになるのなら、その分岐点にあるわずかなヒントを見落とすことがないように。
 それがもしも僕の力だけでは適わないことなら、そこに気付ける何かが視界に必ず瞬くように。
 神頼みするような、祈るしかない気持ちで、そう思っていた。あの日からずっと。

 目尻に浮かんだ涙を櫂谷に悟られないように、ぎこちなく身を離した。
 僕よりも一回り小柄な彼も、その時は僕の顔を見ようとはしなかった。
 間を埋めるように、彼が右手で頭を掻いた。無造作に、そこに生まれてしまった空気を小さくかき乱すように。
 そして彼は数秒の沈黙の後に、僕に向かって「おまえも今日は早く寝てくれ」と告げた。
 

 遠くに行ってしまった人が、たくさんいる。
 身体をそこに置きながら、ずいぶんと遠くまで行ってしまった人達。悲しみとか苦しみとか、そんな言葉にするのもためらうような、痛みの跡がわかる人物だ。抗えなかったそれに心と時間を奪われて、戻ってきた世界の中で少し透明になって立っている。
 たとえば、櫂谷の沈黙の中にそれがある。僕に見られていることに気づいた千紘がする、あの微笑みの中にも。そこにある、強いものが通り過ぎた跡に僕はどうしてか引き寄せられてしまう。もうこれ以上かたちを変えることはない、あの静けさに。
 受け容れるしか術がないような出来事に広げられてしまった心で、千紘は僕をすっぽりと包みこむ。そうしようと本人が望んでいなくても、ただそこにいるだけでそういうことが起きてしまう。いつかの嘆きや涙は彼女によって外に押し出されていて、そこにある弱くやわらかな光が僕を許そうとする。やわらかな陽だまりだ。彼女が彼女を受け止め続けた跡形。
 今までの僕がしてきた、うまくいったこともそうじゃなかったことも、それでいいのと言い続けてくれる気がする、そんな場所。



 その日の夕方、十八の僕は震える手で自分の口元を抑えていた。
 実家のリビングから飛び出して、誰もいない暗い玄関にひとり立っていた。

 数分前に、父親の胸倉を掴んでリビングの壁に強く押し付けたばかりだった。それまでも散々そうしてしまいそうな衝動は沸いてきたけれど、実際に行動に移してしまったのは初めてのことだった。
 学校に行けなくなった妹が、食べては戻すのを繰り返していた頃だ。
 父と僕との関係がいびつなものになって数年、父は当てつけのように妹に不要な干渉を繰り返すようになっていた。絢乃の頭の中にまで入り込むように意見を続け、娘に同調を求めた。友達付き合いや進路にも口を出し、それが叶わないときは傷ついたような自嘲に満ちた表情で妹をなじったりもした。
 やがて妹が心身の不調を訴えるようになっても、彼は自分のしていることがその要因のひとつだと認めなかった。出来の悪い息子を批判することはあっても、娘を苦しめるようなことなんて自分は何ひとつしていない、と。あかるさすら感じさせるような拒絶だった。こちらが悪い冗談でも言っているのだろうとでも言いたげな、どこか薄気味悪いような笑みを父は浮かべていた。
 嘔吐を繰り返していたせいだろうか、あの頃の妹はひどく痩せていた。手足は頼りないほどに細くなってしまっていたけれど、顔だけはむくんだように丸みを帯びていた。歯で傷つけてしまうのか、利き手の甲にはいつも小さな傷がついていた。僕の前で俯いて、わたしもう自分自身のかたちが全然わからない、と妹はひどく静かに泣いた。
 家庭内で起きていたことに対して、見たくない部分は見ないことにしたのだろう。父はすっかり姿を変えてしまった妹に対しても無頓着に振舞いつづけた。絢乃の心に平穏を取り戻すために必要なことには目を反らし続けたが、その時その時で思いついたのだろう励ましのような言葉を無邪気に妹へと投げかけていた。妹はそのひとつひとつにまた傷を重ね、一時期は父のいる時間帯には部屋からほとんど出てこなくなった。

 その日の絢乃が階下に降りてきた理由は、僕に相談があったからだ。あの年の妹は受験生で、学校には行けていなかったけれど勉強はよくしていた。勉強をしていると他のことを考えなくていいし、安心するから、と言っていたのも覚えている。
 語学学校から戻ったばかりの僕がリビングのドアをひらくと、ソファに腰を下ろした妹が項垂れていた。異様な雰囲気だった。
 小さくしゃくりあげるように泣いているのに気づいて、どうした、と尋ねた。絢乃はそれに答えずに、ゆっくりと顔を上げた。目が合ってすぐに、絢乃の両目からはまた涙があふれだした。

 そんな空気の中、父がいそいそといった様子で台所から出てきた。
 僕のほうを見て、なんだおまえか、とつまらなそうに呟く。公子が帰ってきたと思ったのに、と続けた彼の手にはまだ開いていない缶ビールが握られていた。

 ――何言ったんだよ。
 ――何も言ってない。

 父は答えて、一人用のリクライニングソファにどかりと腰を下ろした。いつものようにしらを切るような態度だ。
 何も言ってないならなんで絢乃は泣いてるんだと問いを重ねた僕の腕に、妹の手が重なった。両方の頬をひどく濡らしながら、僕に向かって首を横に振る。枯れたような声で、やめて、と小さな声で告げられる。
 その仕草が父の気に障ったらしい。
 彼は妹の動きを真似るように、やめてって言ってるじゃないか、と笑った。
 そして僕に向かって、

 ――励ましてたんだよ。いつまでも暗くしてたってしょうがないじゃないかって。
 ――早く元気になって、父さんに楽させてくれよって言っただけだ。

 父はそう言って、自分の手にしていた缶ビールに視線を移した。晩酌の準備を自分でしなければいけないなんて、という意味だ。母が不在の時はその手の世話を妹にさせていたから。

 その仕草に、僕の中で何かが振り切れた。
 気が付いた時は、妹の手を振り払って父親に向かっていた。
 蹴り飛ばしたオットマンが絨毯を引っ張り、サイドテーブルが激しく揺れて母の気に入りの花瓶が落ちる。
 ハイバックのソファに座っていた父の胸倉を掴んで、僕は左へと押し出していた。
 抵抗しようとした父が体勢を変えようとしたせいで、彼の額が壁に強く擦れた。皮膚の一部が擦りむけて、壁に血が短く太い線を描く。

 ――自分が何言ってんのか、わかってんのか。
 
 妹のやめてと泣き叫ぶ声が確かに響いていたのに、父と僕のあいだには音がなかった。
 緊張と怒りによって、父の衣服を掴む僕の手は震えていた。
 父は何も言わなかった。息子が自分に手をあげるなんて、想像もしていなかったのかもしれない。茫然とした目だ。それを悟られまいと、力なく僕を睨んでくる。
 
 何秒くらいそうしていただろう。
 妹がすがるような声で、お兄ちゃん、と言った。
 ひどく心もとない声で、僕が我に返ることを祈るように妹が繰り返す。お兄ちゃん、お兄ちゃん。

 手の力を緩めると同時に、父は鋭い息を吐いた。胸を強く押していたせいだ、とどこか他人事みたいな気分で思う。僕が強く壁に押し付けた父の顔は、紫に近い赤色になっていた。
 
 荒い呼吸と咳を繰り返す父に背を向けて、僕は玄関に向かって歩き出していた。
 さっきとは意味が異なる震えが、肩から手に向かって現れた。
 自分が何をしようとしていたか、はっきりと気が付いてしまった。

 全身へと広がった震えをどうにかなだめるため、深呼吸を繰り返しながら靴を履く。
 近所のどこでもいい、自分を取り戻すところへ行かなくてはいけない。

 玄関の扉を開ける瞬間、僕は心の中で母と妹に謝っていた。
 ごめん絢乃。ごめん母さん。俺、もうここに居られない。

16-2

 
 南のほうに向かって、自転車を走らせた。家を出てすぐに近所の同級生に声をかけられたけれど、曖昧な返事でそこを通り過ぎた。
 実際、行先はどこだって良かった。ただ頭を冷やしたかっただけだった。少なくとも今日からひと月くらい父が僕を無視することは確実だから、同じ家にいる時間をどうにかして減らすしかない。母や妹がそれによってまた負担を背負うことになるのも頭にはちらついたけれど、いつものように折れる気にはもうなれなかった。

 伊勢崎方面に向かう途中で、国道の脇に広告看板が立っているのが見えた。ホリヰ繊維工業。市内にいくつか出している、祖父の会社の広告看板だった。右下にこの先の信号右、と小さな字で書かれている。
 ビニールハウスが並ぶ畑の脇を三分ほど直進したところにある、小さな工業団地。
 そこに工場を兼ねた祖父の会社の本社ビルが建っている。

 途中で我に返って、目の前にまで行くのはやめた。まだ伯父達の誰かが残っているかもしれないし、父方の親戚の集まりにほとんど顔を出さなくなった僕が行ったところで気まずいだけだ。会社の前の角に入って、裏の小さな川を渡る。
 自転車を降りて砂利道に入ると、そこには小さな空き地があった。昔何度かいとこ達と遊んだことがあった、細かな砂利の敷き詰められた空き地だ。
 もうすぐ梅雨を迎える、五月の終わりだった。少し風が強くて、羽織っていたパーカーの裾が自然とふくらんでしまう。小川の水が流れる音がごく小さい音で聞こえる。
 土と桜の葉、少し先の工場からうっすらと漂う鉄っぽい匂い。

 本当にひどい気分の時に、何度かここに来たことがあった。外の照明に照らされた祖父の会社の建物を見ていると、気持ちの置き所がはっきりするような気がしたのだ。
 周囲の大人達が立派な工場だと言うくらいには、その建物は大きかった。三階建てのビルと、裏手には工場棟がある。体育館ほどの大きさのものがふたつ。従業員数も地元企業では少なくない。
 学生ながらに、そこで起きている仕事の規模は想像がついた。従業員とその家族、少なくない暮らしがここで生まれる仕事と製品によって成り立っていることを知っていた。実際の経営がどういう形で成り立っているのかまでは理解できなかったけれど、そこに建つ会社のビルはある種の正当を僕に主張しているように見えた。
 ここにある営みの、組織の正当。それはつまり、父の生き方の正当だった。
 ここに立っていると、その大きな営みが僕を圧倒しようとする。おまえ個人の葛藤なんて取るに足らないことだ、と。自分の抱えているものが、若く未熟な、こらえのきかない若者の衝動でしかないように思えてくる。
 そのくらいのことで激昂してどうする。大きな組織がここには成り立っていて、おまえの父親はその中の幹部なんだぞ。バランスを崩すな、かき乱すな。おまえだってこの中に入れば、そこそこの身の安定は保証されるんだ。そういうふうに言われたような気分になる。省みられることも改められることもない、その必要もない悩みだろう、と。
 そうやって圧倒され小さくなった自意識の中で、僕は反発が起きるのを待つ。腹のあたりで、それを受け容れられない自分が声をあげるのに耳を澄ませる。
 たとえそれが事実だとしても、それは俺の人生じゃない、と。
 周囲に頑なさを笑われながらも、僕はその声の持つ力をひそかに信じていた。


 父の手術の前日にあたる日に二時間ほど早退させて欲しいと告げると、事務室のパソコンでシフトを組んでいた麻子は勢いよく僕を振り返った。閉館後の一時間、僕はいつもの掃除を終えて事務室に顔を出していた。
「二時間?」
「そう。夕方ちょっと早めに出たくて」
 多少電車が込み合うのは仕方がないとしても、地元の駅についてからの移動手段が選べないのは少々厳しい。母か妹が車を出すと言うはずだけど、病院通いで疲弊しているだろう家族に余計な頼み事はしたくなかった。
 麻子は複雑そうに眉を寄せながら僕を見上げた。
「それだけ? 半日休みとかにもできるんだけど?」
「そこまではいい」
「そこまでのことじゃないの?」
「正直、俺は父親と本気で折り合いが悪い」
 細かい説明は不要の相手である僕の女上司は、その一言に瞬きを数回繰り返してから、ああ、という顔をした。彼女自身、親のあらゆる反対を押し切り続けて生きている人物だ。だいたいの察しがつくのだろう。
 それでも、麻子はどこか不思議そうな目で僕を見ている。
「何か」
「ホリーも人の子なんだなって」
「何の子だと思ってたんだ」
 隣のオフィスチェアに腰を下ろしながら訊いてみる。麻子はいつものように短くかつ軽く笑ってから、何だと思ってたんだろ、と自問している。
「だって、あんたあんまり人とどろどろやらないから」
「そういうの面倒くさくて」
「それ。そういうイメージがわたしにも定着しちゃってる」
 言いながら、彼女は手にしていたマウスに再び手を伸ばす。本当に二時間でいいのね? という質問に、充分ですと答えた。小気味良いクリック音が二度その場に響く。

「お父上と、殴り合いの喧嘩とかしてた?」
「俺から一方的に、一回だけ」
 意外ー、と麻子が答える。どこか楽しそうなのが何とも彼女らしい。
 あの日、家に帰ったのは日付が変わったあとだった。母が開けておいてくれたらしい勝手口から音を立てないように家の中に入り薄暗いリビングの扉をひらくと、僕の荒らした家具はすでにきれいに片づけられていた。割れてしまった花瓶も、挿してあった花も、最初から存在しなかったようにその場からなくなっていた。壁についた父の血痕も。
 次の瞬間、キッチンから寝間着姿の母が出てきて弱く笑った顔で僕を見た。
 僕が口をひらく前に、夕飯を食べてないでしょう、と優しげに言って、手を洗っていらっしゃいとささやくほどの小声で告げたのを覚えている。


 事務室にあるロッカーから荷物を取り出し、麻子にお先にと告げる。エントランスに向かう途中で、窓の鍵にかけ忘れがないか確認する。
 それまで使っていた正面入口を避けて裏口から出るようになったのは、なかなか帰らない保護者の井戸端会議に出くわしてしまうのを避けるためだ。
 鎌田雄大くんは、結局一か月レッスンを休んだ後にスクールを辞めていった。ご両親が別居することになったとかで、父親について都内に引っ越すことになったらしい。

 雄大くんと別れの挨拶をした翌週の夕方、建物を出た僕はすぐに自分の失敗に気が付いた。
 お迎えの父兄四、五人が駐輪場で話し込んでいたのだ。しまった、と思った。駅に近いからとつい正面から建物の外に出てしまっていた。
 生徒達が周囲をぐるぐると駆け回って遊んでいる中で話し込んでいた四人の母親は、僕の姿に気づくとぴた、と静まり返った。それぞれの目に、思っていることが浮かんでいるようにも思えた。
 何とか挨拶をしてその場を通り過ぎると、数秒後に背後で弾けたような声が響いた。危なかった、あれ本人だよね、ねえ、ていうか聞こえたんじゃない? 生徒の中には雄大くんと仲の良かった子もいたから、僕と彼の母親の不倫(疑惑)によって彼らの友情は中断され、僕は当然スクール内での立場を悪くしていた。喜和子先生は誰のせいでもないと言っていたけれど、雄大くんが去ったことで鎮火しつつあったあの噂は、今度は信ぴょう性を伴って燃え上がってしまった。
 裏口の扉からエディフィカンテの建物を出て、左右を確認する。誰もいないことに安堵しつつも、自分の足取りが忍び足に近いものになっていることにどこかでがっかりとしてしまう。
 喜和子先生は何も言わないけれど、潮時かな、とこの頃思う。
 たとえあの茶番が事実と大きくかけ離れたことだとしても、一度生まれてしまった疑惑を取り払うのは難しい。そういう人物がひとりいれば、いずれここの評判にも影響が出てきてしまうかもしれない。

 父の手術が終わったら、これからのことを考えなくてはいけない。
 そんなことを頭の片隅に書き加えながら、いつもの駅に向かって足を進めた。

名前も知らない【15-16】

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名前も知らない【15-16】

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
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更新日
登録日 2021-06-21

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